L'art de croire             竹下節子ブログ

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リー・ダニエルズの『ザ・バトラー』を観た

Lee Daniels' The Butler (2013)

ホワイトハウスで34年間も働いて8人の大統領に仕えた執事ユージーン・アレンをモデルにフォレスト・ウィテカーが主演したリー・ダニエルズ監督作品だ。

黒人の公民権運動に焦点をあてながら、ホワイトハウスでの仕事に献身して二人の息子の世話をできなかったり、過激な運動に関わって逮捕歴を重ねる長男と絶縁したり、次男をベトナム戦争で失ったりという家庭のドラマを、社会や政治のドラマと織り合わせて、涙を誘う作りになっている。

フォレスト・ウィテカーがエレガントで情のあるいいキャラだし、いろいろあっても彼を支えて尊敬する妻もいいし、すべてがあまりにもよく出来過ぎている。

こう簡単に泣かされるとかえって疑念がわいてくる。

民主党側へのかすかな肩入れぶりが気になるとか、オバマの勝利がハッピーエンドになっていて本当にいいのか、とも思うし、結局、勘当していた長男が最後は歴史のヒーローになって政治家としても活躍、つまり出世して、孫娘もできて、「君に似ているよ」と言われた妻が、「そう言われればかわいいかも…」のようなほのぼのした感じがハッピーエンドのシンボルというのも月並みだと思う。
結局、仕事があって、夫婦仲良く長生きして、子供が出世して孫もできるというのが、すべての人に平等に保証されなければならない「幸せの権利」の「幸せ」の中身なのだろうか、と抵抗を感じてしまうのだ。

最後にヒーローがオバマに会いに訪れる時に迎えてくれるホワイトハウスの執事がやはり黒人というのもなんだか気になる。
もちろん初の黒人大統領夫妻」に仕えるのが全員白人のスタッフになっていたらそれはそれで不自然だろうけれど。

考えたら、私の世代はアイゼンハワーやらケネディのこともリアルタイムで覚えていて、キング牧師やマルコムXのことも覚えているし、KKKのことも知っていたし、ベトナム戦争はもちろん切実だったけれど、日本に住んでいてアメリカの人種差別の実態を実感としては考えたことがなかったことにあらためて驚く。

この映画でも黒人たちに揶揄されているのだけれど、アメリカの黒人というとまさに「シドニー・ポワティエ」というイメージだったのだ。

オバマ大統領の父はケニア人であり、アメリカの開拓時代の奴隷の子孫ではない。そして今のアフリカからヨーロッパに向けて必死の不法侵入を試みている黒人たちが命を落としている悲劇は現在進行形だ。人の命の重さに格差があることは、形が変わっても今でも続いている。

もう10年以上も前になるが、文芸春秋のコラムで、ハワイのヒルトン・ワイコロア・ビレッジというリゾートで感じた違和感について書いたことがある。
ホノルルのホテルなどと違ってそこでは毎年訪れているらしい、いかにもWASP風の常連家族客がたくさんいて、黒人の姿が見当たらなかった。

いわゆるハワイの現地の人もいない。

そしてスタッフもすべて白人だったのだ。

表に見える非白人従業員は日本レストランの着物姿の日本人だけだった
客には日本人がいるのだが少数派で、ツアーのバスは地下に着き、日本語を話せるハワイ人のガイドがつく観光バスも地下の発着だった。

野外ステージでフラダンスなどを見ながら夕食をとるオプションの日は、日本人はまとめて同じテーブルにつかされ、夕食の前には白人の司会者がステージで堂々と「食前の祈り」を唱え始めるのだった。

これだけ白人ばかりの世界だと、差別の対象がそもそもいないのだから、本国では異常にうるさい「政治的公正」を気にせずに、さぞやのびのびとバカンスを楽しめるのだろう。みながゆったりリラックスしていた。ゲーテッド・コミュニティかエリジウムみたいだ。プールも24時間あいている。

日本人は「いないこと」にしているか見て見ぬふりをされていた。

そこでしばらく滞在してからオアフ島に戻ってワイキキのヒルトンでチェックインしていたら、黒人もアラブ人もヒスパニックもアジア人もいかにも雑多な観光客がいて、その多様性になんだかほっとしたことを覚えている。

フランスにはいわゆるメトロポリタン、本国には黒人奴隷はいなかったけれど、今も海外県や旧植民地国からやってくる黒人はたくさんいる。「黒人差別」がアメリカのようなトラウマになっていないのは「アラブ系のイスラム教徒」との軋轢の方が大きくとりあげられるからだ。アフリカ人でもカトリックの多いコンゴ移民などとムスリムの多い国の黒人移民は心理的に違う扱いをされている。でも、アメリカの黒人のほとんどは「主人」であった白人たちと同じ「キリスト教徒」だったのだから、差別と宗教は関係ないということがよく分かる。

人種差別ほど本音と建前が巧妙に操作されているテーマは少ないかもしれない。

自分自身を振り返ってもそう思わざるを得ない。
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by mariastella | 2013-10-11 23:31 | 映画

『そして父になる』と『あなたに癒された私の魂』を続けて観た

土曜の夕方、近所の映画館で試写会を連続して観た。

最初の映画は、フランスでは年末公開の是枝裕和監督『そして父になる』だ。

今年のカンヌ映画祭では、ちょうど、同性婚法の成立(同性カップルによる養子も可能になる)をめぐってフランス社会が対立し緊張していた時期に、少女たちの同性愛を描いたフランス映画『アデルの人生』がパルム・ドールを受賞した。

「アート」=「自由」=「偏見と因習の打破」というある意味で短絡的な意思表示がそこには見える。

で、まるでそれに対抗するかのように、家族に危機が訪れても離婚という選択肢はなくて夫婦と子供の生物学的関係にこだわる姿を描いたこの是枝映画に、プロテスタントとカトリック教会の関わるエキュメニカル特別表彰が(審査員賞とは別に)贈られたのだ。

分かりやす過ぎる。

土曜の試写会上映の後のディスカッションで、日本の家庭について父親が働き過ぎるとか、子をどうするかについて父親が決定することの違和感、母親が従属しているなどのコメントが上がったが、私は正直、「フランスの家庭の標準は離婚か婚外子かステップファミリーでしょ、あんたたちにあれこれ言われたくないね」と思った。

実際、この映画では、勝ち組とか負け組とか、都心のマンションに住む一流企業のサラリーマンに専業主婦のカップルと、地方都市に住む電気屋の主人とパート主婦のカップルがまるで格差社会の対照的な世界のように描かれているけれど、フランスに目を向けると、パリやその周辺では移民も多いし、国や肌の色の違う子供を養子にしている普通の夫婦もかなりの数に上る。

婚外子は半数以上だし、結婚しないままステップファミリーを形成してはまた別れる人もほとんど「普通」の状況だ。
エリートや裕福な人ほどむしろ抵抗なくどんどん子供を生むし養子縁組に向かったりする。

この映画の親たちは「子供は大きくなるほどだんだんと生物学的な親に似てくる(から今のうちに交換した方がいい)」と勧められる。

でも、複数の子供を持つ親ならだれでも、同じ親の子を同じ環境で育てたはずなのに実はどの子も全く違うこと、性格はもちろん、見た目や体質までばらばらであることを実感しているだろう。
血のつながっている親子間での「期待」と「失望」のドラマは、別離や養子との葛藤よりも深刻になることさえある。

それなのに、この映画では、主人公の両親が離婚していることがトラウマになったとか、子供の取り換えを行った看護師が子連れ男との再婚生活がストレスになったのが犯行動機だったとか、すべての不幸は「実両親がなかよく子供を育てない」ことに起因するかのように語られていたのがむしろ不自然だと思った。

キリスト教系映画組織から表彰されたのも不思議じゃない。

でも、そもそも、イエス・キリストは処女受胎のシングル・マザーから生まれて血のつながっていない大工のヨセフに育てられたのだけれどね。

ともかく、そういう日本映画を観た後で、次に、

François Dupeyronの『Mon Ame par Toi Guérie』(あなたに癒された私の魂)

を観たので、けっこうカルチャーショックを受けた。

この映画は監督自身が書いた本

『Chacun pour soi, Dieu s'en fout 』(自分のことは自分で。神さまはかまってくれない)

を元にしたもので、フランスの地方に昔からあるフォークロリックな「治療師」guérisseurがテーマだから、非常に興味があった。

今でも、地方に行けば子供のイボとりはもちろん、こじらせた風邪だの治らない腰痛や膝痛や、医者に見離された難病などを先祖代々「手当て」によって治し続ける人々がいる。首都圏でも検索するといろいろ出てくる。

「医療行為」として認定されていないので基本的に無料で、普通の仕事の合間に引き受ける。

しかし公立病院の救急科だって、傷の痛みをとるための遠隔治療をする治癒師の連絡先を備えているのだ。

理屈は分からなくても実際痛みが消えるケースがある限り、こういう認知のされ方続いていくだろう。
特に子供にはよく効くと言われている。

この映画の主人公フレディはそういう治癒師だった母親からその力を受け継いでいるのだけれど、それに納得して使うことに抵抗がある。自分自身に癲癇の持病があるからだ。

フレディは中年の庭師であり、トレーラーハウスに住んでいる。彼の周りにいる登場人物もみな貧しいが、日本映画に出てくる貧しさと一番違うのはアグレッシヴ、つまりみな攻撃的だというところだ。

男も女もみんな、実によく、泣き、わめき、罵り、怒鳴り合う。

フレディも離婚しているか別居していて、13歳の一人娘を時々あずかっているのだが、娘の母親が訪ねてくると激しい口論が始まる。

死んだ母親の住んでいたうちを訪ねて母の連れ合い(Jean-Pierre Darroussinがすばらしい)と話すが、彼はもちろんフレディの父ではない。妹も生活苦にある。

みんな不幸でみんなが攻撃的で貧しくみじめたらしいこの映画の世界。

これに比べたら、『そして父になる』の世界は、前橋の子だくさんの小さな家の中のシーンでさえ、つるりとして清潔で穏やかに見える。みんなが小ぎれいで、みんがそれなりに安心して消費行動を続ける健康で家族愛に満ちた世界だった。

格差社会と言っても、『そして父になる』に出てくる二家族の階層差など、『あなたに癒された私の魂』の世界と、たとえばこの前の記事にアップした『自転車のアルセスト』の世界という二つのフランスの乖離ぶりとは比べものにならない。

そんな世界の出来事だから、フレディの行う「治療」にだって、何のスピリチュアルな意味づけもない。

彼は神も信じていない。

母親から受け継いだ治癒力という賜物を、人から頼まれるままにアプリケートするだけだ。

もともとフレディが自由を感じるのは、オートバイで駆けている時だけだった。

ところがそのオートバイで犬をさけようとして子供を轢いてしまう。

生死の狭間をさまよう子供を前にして、その罪の意識が彼を、自分の賜物は多くの人の利益に供れなければならないという受容に導いたのだ。

彼は人を癒しているのが「自分の手」だなどとは思っていない。

自分の手が取り次ぐ「何か」なのだ。

それが彼には見えない。

この映画では、逆光の撮影がふんだんに使われる。

フレディは、自分の前にある影しか見ていないのだが、太陽は背後から光を放っているのである。

こんな話を思い出す。

ある子供が、うっとりとお月さまを見あげながら

「お月さまって大好き、だって、明るくて、夜を照らしてくれるのだもの」

と言った。親が聞いた。

「じゃあ、お日さまは ?  お月さまよりもっとずっと明るいだろう ?」

「あら、お日さまなんて、昼間に出ているんだもの、必要ないわ」

というものだ。

実際、太陽を肉眼で見ることはできない。

そして、夜の闇を照らしてくれる月の光は、太陽光を反射しているのだ。

フレディは、神を信じないと言う。

原作の本のタイトルは

『自分のことは自分で。神さまはかまってくれない』

だった。

映画のタイトルは

『あなたに癒された私の魂』

で、「あなた」にあたるフランス語は神を連想させる大文字の親称である。

そして、

癒されるのは、

いつも、

魂。
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by mariastella | 2013-09-23 02:28 | 映画

フィリップ・ル・ゲPhilippe Le Guay監督の『Alceste à bicyclette(自転車のアルセスト) 』

8月末に日本に行くエアバスの中で、日米仏の三ヶ国の映画を一本ずつ観た。

日米映画については、その時は飽きずに見たのだが、私の中でもうほとんど何も残っていない。

アメリカ映画は今年のアカデミー賞受賞作品だが観に行く気がしなかった『アルゴ』。

手に汗握るスリリングなサスペンス映画としては、ハッピーエンドが分かっていてもなおおもしろい、さすがにアメリカの商業映画だと思った。

ホメイニ革命の様子も個人的に興味をそそられた。

でも感心したのは大使館員たちを避難させたカナダの役割だ。

これを見てはじめて、2002年から2003年にかけてアメリカがイラク侵攻を煽動した時に、隣の国でアメリカとの経済関係があれほど密なカナダが涼しい顔で断固反対を貫いていた理由がよく分かった。
ここ一番という時にしっかり恩を売ってあったから、アメリカからのプレッシャーなどものともせずに自主独立を保てるのだなあ。

 この映画を見てすらそう思うのだが、実際は、当時のテイラー大使宅だけでなく別のカナダ大使館員邸にも避難したグループもいたそうだし、カナダは人質救出作戦においてCIAよりも重要な役割を果たしたらしい。何かというと金だけ供出させられるどこかの国ともともとかなり違っていたのだ。

日本映画は『プラチナデータ』だったが、見ている間はそれなりに退屈しなかったが、小説で読んだ方が多分ずっとおもしろかったろうと思う。

で、フランス映画が、

フィリップ・ル・ゲPhilippe Le Guay監督の『Alceste à bicyclette(自転車のアルセスト) 』 だ。

これが一番よかった。

ファブリス・ルキーニがシナリオにも関わっている。 

ルキーニは私のお気に入りの俳優だ。

私の好きな男優というのは他にも何人かいるけれど、たいていは、なんというか、男としても人間としても「好きなタイプ」というのがほとんどだ。

ところが、ルキーニはそういう意味では全然私の好みではなくて、むしろ苦手なタイプ。友だちにもなれない感じだ。

しかし、純粋に役者としてすばらしい。

フランス語うま過ぎ。

この映画では特にそれが光っている。

思えば、1984年にロメールの『満月の夜 Les Nuits de la pleine lune』を観た時に、彼の滑舌のよさと言葉の流れのものすごい量に圧倒された。
この映画は上映されてまもなく主演女優のパスカル・オージェが25歳で死ぬ(当時は心臓麻痺、実はドラッグの過剰摂取と言われる)という事件によって強烈な印象を残した。
ヒロインをめぐる他の男たちは当時若くてきれいだったクリスチャン・ヴァディムや、朴訥なマッチョで好感度が高かったチェッキー・カリョで、それぞれキャラがたっていたのだけれど、30年経つと、芸達者のルキーニが群を抜くキャリアを築いている。

この『自転車のアルセスト』はモリエールの『人間嫌い』の上演をめぐって、テレビでも売れている人気俳優が、リタイアした名優に共演を依頼に来るという筋書きだ。

『屋根裏部屋のマリアたち』を準備中だったルキーニとル・ゲが、ド・レ島(文化人の別荘がたくさんある)でモリエールの『人間嫌い』について話し合ったことがヒントになって生まれた作品だという。

『人間嫌い』には、フィラントとアルセストという対照的な登場人物が出てくる。

ランベール・ウィルソンの演じる人気俳優は本物志向でルキーニを尊敬しているのだが、処世術にもたけていてすべてにそつがない。すべてに成功するフィラント・タイプだ。

ルキーニが演じる名優の方はアルセストと同様、俗世間の偽善や不実が許せない。演劇の世界にも嫌気がさしてリタイアした。

でも、フィラントとアルセストの対話部分を、季節外れの閑散としたド・レ島の隠居地で人気俳優と共に台本読みするうちに、なんとなく心が動いてくる。

そこに、連れ合いと別れて家を売りに出したイタリア人女性がからむ。

名優は、息子が原子力発電所で働いていることに絶望し、人類の未来に悲観するシンボルとして、独り身なのにパイプ・カットの手術を予定している。

しかし、イタリア人女性に惹かれるうちに、その手術もしたくなくなった。

人気俳優と名優とイタリア人女性。

自転車で浜辺を行く3人は自然でまるで屈託のない若者たちのような時間を過ごした。

しかし、女性は人気俳優(インテリの妻がいる)とベッドインする。

この女性は彼のことを人気俳優であるとも認識していなかったので、別に名声にまいったわけではない。
ルキーニが恋心を表明していたわけでもない。

3人は、それぞれ人生のちょっとした休み時間を楽しく共有した友人だったのだ。
(ルキーニだけは、実は、休み時間でなく人生をリタイアするつもりだったのだが生き返ったというずれがあった)

他の2人が寝たことを知ったルキーニの中で何かが壊れる。

やがて『人間嫌い』のプロデュサーやスタッフたち、人気俳優の妻もやってきて制作発表のパーティをする。

そこに、アルセストの衣装をつけてのり込んだルキーニが、集まった輩の偽善や不実を告発し、『人間嫌い』五幕一場の有名なセリフを述べてから退場する。

Il aide à m'accabler d'un crime imaginaire!
Le voila devenu mon plus grand adversaire!
Et jamais de son coeur je n'aurai de pardon,
Pour n'avoir pas trouvé que son sonnet fut bon!
Et les hommes, morbleu! Sont faits de cette sorte!
C'est à ces actions que la gloire les porte!
Voila la bonne foi, le zèle vertueux,
La justice et l'honneur que l'on trouve chez eux!
Allons, c'est trop souffrir les chagrins qu'on nous forge:
Tirons-nous de ce bois et de ce coupe-gorge.
Puisque entre humains ainsi vous vivez en vrais loups,
Traîtres, vous ne m'aurez de ma vie avec vous.

いやあ、すばらしい。

Traîtres, vous ne m'aurez de ma vie avec vous.

という最後の捨て台詞はぞくぞくして鳥肌が立つ。

今ではコメディフランセーズですら一般上演では採用しない17世紀風のゆっくり練り広げるような独特の韻を、優雅に踏む。

私は10年ほど前にバロック演劇の研修に参加したので、一語一語に隠れている音を転がし展開する快感がよく分かる。口の中でころがし、舌や唇で味わうのだ。

そういえば、40年くらい前に確か渡辺守章さんのクラスでアレクサンドランの読み方を習ったが、その時、こればっかりは日本人が自分で考えて読めるようなものではない、しかるべき抑揚を書いてもらってやっと真似ができるのだ、と言われたことを思い出す。

今になってようやく、この映画のルキーニによるモリエールの台詞を聞いて、フランス語がいかに美味であるかを堪能した。

ルキーニが強調するようにモリエールは「有機的な音楽」なのだ。

最後の捨て台詞の

「Traîtres, vous ne m'aurez de ma vie avec vous.」

はまさにその醍醐味だった。

なんと訳していいか分からない。

「Traîtres」は、「裏切り者たちめ」という感じ。

飛行機の中の上映ではそこだけ何度も繰り返して聴き直して味わったので、下に出ていた英語の字幕まで覚えてしまった。

「vous ne m'aurez de ma vie avec vous.」という部分は、

You won’t see me among you in all my days.

と訳すらしい。

今のフランス人が、この映画での人気俳優自身もそうであったように、フランス語のアレクサンドランの抑揚の心地よさと音楽性をどこまで味わえるのかは私には分からない。

20年ほど前、ドゥパルデューが『シラノ・ド・ベルジュラック』で披露したアレクサンドランなど、音としては、今となっては何の感動も与えられなかったのを思い出す。私にとってのフランス・バロック発見以前の時代に当たっていたからだろうか。

やはり40年くらい前に、仏文学者の齊藤磯雄さんから『フランスの詩と歌』を献本してもらったことがある。

それを読むと、少なくとも齊藤さんはフランス語の有機音楽性が分かっていたんだろうなあ、と感慨深い。

有機的音楽とは、肉体を通した音楽、五感を動員した音楽ということだ。
ルキーニの映画によってそれが手軽な形で、飛行機のビデオ上映ですらも手に入れられる幸運な時代が来たことを齊藤さんに知らせてあげたくなる。
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by mariastella | 2013-09-22 00:04 | 映画

閑話休題  映画『エリジウム』Elysiumを観た

Elysium『エリジウム』を観た。

暴力描写のインプットは避けると言いながらまたSF サスペンスアクション映画をなぜ観に行ったかというと、「ソシアルのテーマ」と娯楽映画の関係を考えたかったからだ。

(以下、日本ではまだ公開されていないようなので結末など知りたくない人は読まないでください)

目的がはっきりしていたので、戦闘シーンや暴力シーン、事故、手術などの怖いシーンはすべて目を閉じたり心理的に逃避を試みてバリアをはった。
だから、この映画のB級アクションのおもしろさとか、機械と合体した人間の戦闘能力とか、武器のこだわりとかを楽しもうと観に行く人とは全く別のモノを観ているわけなので、そのつもりで読んでほしい。

2154年、人類はアルマダイン社製造の宇宙ステーション「エリジウム」に移住した少数の富裕層と、スラム化した地球に残る貧困層とに二分二極化されていた。

「エリジウム」市民の安全を司る政府高官ローズ(ジョディ・フォスター)は地球から来る不法移民を拘束して強制送還する。
時には絶望した移民を乗せた宇宙船を追撃することもある。

エリジウム法でも地球人を殺してはいけないことになっているのだが、ローズは安全を守る緊急事態にはそれが適用できないという。

その強硬策に異を唱える大統領(これはパキスタン系の俳優ファラン・タヒールでWASPではない設定)に、

「あなたは子供がいないんでしょうね、子供がいないから、自分の築いてきたものを脅かす者は絶対排除するという気持ちが分からないのよ」

というようなことを言う。極右ナショナリストのル・ペンでも言いそうな台詞だ。

その他にもこの悪役のローズは、「神の愛の名において」などと平気で言う。

神も正義も家族への責任感や愛もみな「自分だけ」のものなのだ。
世界の紛争地帯で一神教の神が都合のいいように使われていることと同じだ。
「ゴッド・ブレス・エリジウム」である。

映画の終りで地上の革命軍が上陸した時、ローズはそれを本格的に殲滅しようとして、戦時には平時と違って軍事最高責任者の決定が優先すると言って、大統領を逮捕させてしまう。 今のエジプトの軍事クーデターの泥沼のことも考えてさせられる。

不法にエリジウムに侵入しようとするほとんどの人々は、ただ生き延びる希望を抱いているだけだ。

あるいはエリジウムにだけある万病を治す医療カプセルに病気の子供を入れて救いたいだけだ。
別にエリジウムの住民に危害を加えに来るわけではない。

しかも、その不法の移民宇宙船を飛ばしたりエリジウム市民の偽のID認証(これがないと治療は受けられない)を与えたりするために、仲介業者はもともと貧乏な人たちから金をとっている。

西アフリカから生死をかけてランペドゥーサ島へ渡ってくる不法移民たちも船主に金を払っているのと同じだ。

ランペドゥーサに漂着した人も強制的に隔離されるが、さすがに殺されることはない。

けれども、海の向こうの不幸や貧困を隔離しよう、見ないことにしよう、近くにこられたら困る、という先進国メンタリティはエリジウムのそれと変わらない。

不法滞在者が国内で見つかったら基本は強制送還である。

一つ不思議なことがある。

エリジウムの住民がどうみても金髪碧眼がマジョリティらしいのは分かるし、現にアメリカに存在する金持ち用の要塞都市ゲーテッド・コミュニティを拡大したものだというのも分かる。

警備員や軍隊の構成員はみなアンドロイドでできているので、少なくとも、そこで命令する側とされる側とには人種差別の構造はない。

でも、地球上でスラム化したロスアンジェルスの風景にほとんど黒人の姿がないのだ。

アメリカの人種差別のルーツだった黒人たちはどこに行ってどのような階層をつくっているのだろう。

22世紀半ばのアメリカの貧困層はひとえにヒスパニックのようなのだ。

アメリカがスペイン語とのバイリンガルになる日は近いと言われているから、みながスペイン語を話すのはさもありなんと思うし、そもそもロケ地はスペインだったそうだ。でも、黒人は?

そこで猛烈に気になるのが、監督のニール・ブロムカンプが南アフリカのヨハネスブルクで生まれ18歳でカナダに移住した白人だという事実だ。

アパルトヘイトの歴史のトラウマは大きいはずなのに、アメリカの貧困を描く時に黒人なしでいいのだろうか。

アメリカでは娯楽冒険映画でもヒーローに一人は黒人や女性を入れるなど「政治的公正」に気を使う国だが、南アフリカ出身の監督なら不問に付されるのだろうか。

それにしても、彼の第一作は『第9地区』で、ヨハネスバークの上空で指揮官を失い停止してしまって難民となったエイリアンの話である。黒人はもちろんたくさん出てくる。

地球人はこのエイリアン難民を強制隔離する。

エイリアンは文化や外見が違うので地球人から反発され差別されまくる。

彼らに比べたら黒人差別の根拠は何だったのかと思える仕組みにもなっている。

差別されているエイリアンは、もともと被支配の階層であったから野心はなく地球のスクラップで兵器やマシンを作って好物のキャットフードと交換したりしていた。

この映画も、社会風刺は批判は目的でなく純粋なエンターテインメントなのだと説明されていたのだが、地球上の差別構造を宇宙に広げたのは事実だし、『エリジウム』では地球上の貧富の拡大が宇宙規模になっているのである。

『エリジウム』は評論家たちからはあまり高い評価を受けていない。

ストーリーが貧弱で予定調和的で、人物も進行もカリカチュア的なのでメッセージ性も伝わらないしすべて中途半端だというのだ。

予定調和的というのは主人公が自己を犠牲にして地球の人々を救うというありがちな終わり方になっているからだ。

けれども、この映画での敵は大事故や天変地異でなく、宇宙人の侵略でも地球に激突する小惑星でも地下の陰謀組織でも疫病でもない。格差社会の構造そのものなのだ。

『第9地区』のエイリアンも、侵略しに来たのではない難民だった。

『エリジウム』では構造的な貧困に埋もれたままトレランス・ゼロで機械に管理されている人々と、ただ自分たちの安全を守りたいだけという富裕層がいるだけで、彼らは互いを倒したいと思っているわけではない。

今の社会でも、貧富の差が拡大したと言っても、実は、貧しい人は富裕な人の富を過小評価していて、富裕層は貧しい人の窮乏ぶりを過小評価しているのだそうだ。つまり、貧しい人には金持ちのスキャンダラスなまでの金持ちぶりがとても想像できないし、金持ちには困っている人々の真の状況が分からない。

ランペドゥーサに漂着する人の実態は想像もできないのだ。

ある意味では、その鈍感さが平和の担保になっている。

憎み合い殺し合わないことの抑止力になっているのだ。

同じように『第9地区』だの『エリジウム』だのが描き出す差別や絶望や狂気も、エンターテインメントの軽さで薄めないと商品として通用しない。

SF映画には人類が核戦争の果てに地球を滅ぼしたというような設定のようなものもいくらでもあるのだが、その後に展開するお話のディティールで売っているので、映画を観終わった後に、「やはり核のない世界を目指さなければ」などとかたく決意する人はいない。

それでも、それでも、作り手がどこかの時点でサブリミナルにでもいいから、「よりよき世界の理想」を織り込み続けてくれたら、世界は変わるのだろうか。

それとも、「自己を犠牲にしてみなを救う」というようなテーマが、キリスト教的な文化のお約束になっているだけなのだろうか。

ジョディ・フォスターの演じる軍事責任者が「裏切り者は吊るされるから」などと口走る時にはイエスを売ったユダのイメージが確実にある。「神の愛によって」の言葉と同様、21世紀半ばになっても、WASPのキリスト教イメージは健在だということなのだろうか。

この映画にはもう一つのキリスト教が出てくる。

それはヒスパニックの修道女だ。

彼女らは、どんなに地球が悲惨になっても、昔ながらの難民救済、孤児救済の仕事を黙々とやっているらしい。

で、そのシスターが、「いつかはエリジウム」に行きたい、という子供時代の主人公に、

「あなたにはきっと果たすべき使命があるわ」

などと言っている。

そのシーンが、まさに自己犠牲を決心した瞬間の主人公の脳裏をよぎるのだ。

彼は最初、自分自身の命を救いたくてエリジウムに向かおうとした。

それが、孤児時代の初恋の少女と再会して、彼女が白血病で死にかけている娘を必死で救おうとしているのを知り、彼女のために彼女の娘の命を救うという目標に変わる。

その過程で、すべての地球人を「エリジウム市民」として認識するようにエリジウムの初期設定を変えることですべての人を救うことへと使命がシフトしていく。

すべての人が神の子として平等だというキリスト教原理にたどりついたわけだ。

「あなたには使命がある」と言った時にシスターが主人公にくれた小さなメダルがある。

カトリックのシスター風だから当然聖母マリアの奇跡のメダイとか、主人公の守護聖人のメダルなのかと思ったが、それは、宇宙から撮影した「青い地球」だった。

青は聖母マリアの色でもある。21世紀の半ばには、聖母マリアのメダルは青く美しい地球のメダルになっている。

「あなたがここから来たということを忘れちゃだめよ」

幸せは要塞堅固な「ゲーテッド・コミュニティ」の中にあるのではない。

地球外からやってきた弱者を隔離する『第9 地区』であろうと、強者が地球を捨てて自らを隔離する『エリジウム』であろうと、それは「解決」ではない。

自分のもの(自分の命、自分の財産、自分の幸福…)を分かち合おうと考えるから無理が生じるので、自分のものではないもの(与えられた命、地球の自然、他者から受けた愛や恩)を分かち合おうと考えればいいのもしれない。

その思いがシスターがくれた「青い地球のメダル」にこもっているのだろう。

機械とのハイブリッドな男たちが背中から日本刀を抜いたり、サバイバルの死闘を展開したりというユーモアもあるアクションシーンの連続の後でこのようなラストに到達すると、「安易で安っぽすぎる」と感じる人も少なくないようだ。

けれども、ヴァイオレントなシーンはすべてバリアをはって見ていた私には、ラストシーンは素直な希望のメッセージに響いた。

神よ、神よと連発するような大国の商業映画がこれくらいのメッセージを付加するのは最低限の義務じゃないかと思うほどだ。

主演のマット・デイモンも、アフリカの貧困や難民を生む市民戦争のを不当性を積極的に告発している人だそうだから、この映画のもつメッセージになにがしかを寄与することを意識していたと思う。

エリジウム市民はゲーテッド・コミュニティの住民と同じく、別に悪人ではない。

金があって想像力がないだけだ。

自分の築いてきたものを安全に守りたいと思っているだけだ。

実は、その他に、この映画を見て、一番胸をつかれたシーンがある。

その地球外の楽園エリジウムの様子が最初に出てくるところ、スーツ姿のジョディ・フォスターが最初に登場するシーンに、バッハの無伴奏チェロ組曲のプレリュードが流れているのだ。

王侯貴族や教会というパトロンがいなければバッハはあれほどの曲を残すことは到底できなかったということ。

エリジウムという楽園を真に楽園にしているのは、美しい邸宅や庭園や高度な医療機械や安全と秩序だけではなく、バッハの無伴奏チェロ組曲なのだということ。

美しい邸宅も庭園も医療設備も安全もない場所に、バッハが流れれば、何かが変わるのだろうか、ということ。

そのようなことがずっと頭の隅に残ってしまって、振りはらえない。

別の音楽だったらよかったのに…
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by mariastella | 2013-08-18 02:53 | 映画

閑話休題 : 『ウルヴァリン SAMURAI』を観た

『ウルヴァリン SAMURAI』(ジェームズ・マンゴールド)を観た。

『X-MEN』も観たことがないし、興味がないし、アメリカン・コミック原作映画自体あまり興味もない上に、何度も書いたが「もうこれからの人生でわざわざヴァイオレントな描写やホラーやスプラッターの画像(カタストロフィや事故や戦争を含む)を見にいかない」と決めたのに、アクション映画を見てしまったのだ。

ウルヴァリンというのはヒュー・ジャックマン演じる『X-MEN』人気キャラクターで、その外伝のようなエピソードらしい。

たまたまTVのニュース番組で紹介をやっていて、芝の増上寺らしい風景が現れたことと、長崎の原爆で被爆してミュータントになったという場面もあり、新幹線の車両の上での戦いシーンと、それをスタジオで大型扇風機みたいなのを回しながらやっている様子をあわせて紹介しているのを目にしたので、なんとなく見てみたくなったのだ。
スペインで高速鉄道が大脱線事故を起こしたばかりで、日本の新幹線の無事故ぶりに改めて思いが至ったこともある。

ヒュー・ジャックマンはオーストラリア人だそうだが、ともかくこういうハリウッド型のアクションスターが日本にやって来ていろいろやるのを見ると『ブラック・レイン』へのノスタルジーもそそられる。ブラック・レインもタイトルそのものに原爆のイメージが重なっていた。

今の東京なら欧米系外国人もけっこういると思うのだが、この映画では白人は主人公と、もう一人アメリカの化学者という女性の悪役だけである。ふたりとも典型的なアメリカンな「映画スター」の外見だ(そういえば、「白人女性」は他にも出てきた。ヒロインの婚約者である大臣が痴態を繰り広げている部屋に複数いたセックス産業系の女性だ。当然彼女らも日本人がこの種のシーンでイメージする典型的な外見の白人女性である)。

で、この映画の日本で唯一の白人男であるヒーローは「ガイジン、ガイジン」と呼ばれ続ける。その辺が、なんだかなあという感じ。

彼をとりまく日本人の女性は2人ともアジアン・ビューティ系のファッション・モデルだ。
日本国内のモデルはハーフの女性が人気だけれど、国際的に活躍するモデルは日本的な雰囲気の人が強い。
華奢でしとやかで武道も達者という設定だが、対照的な雰囲気の2人とも演技に説得力がある。
TAOは体がきれいでかわいいし、福島リラは初音ミクのコスプレをしている写真が一番ぴったりくるようなCG的なキャラだ。

『ブラック・レイン』やなんかのアクション映画と違うのは、銃撃戦がほとんどないことかもしれない。

何しろSAMURAIだから、弓矢や刀がたくさん出てくる。
他には化学者の蛇女がまき散らす毒で、寄生虫みたいなものを心臓に送りこむことすらできる。

ヒーローのミュータントも武器は格納可能な特殊金属製の爪であり、これがシャキーンと出てくるので、怖いと言えば怖いが猫みたいなやつだなと思う。

あまりにもゲームみたいな展開だから、ヴァィオレンスといっても、酷薄さや倒錯がないので後をひかない。

雪国の忍者の山里みたいなところにそびえるハイテクのタワーとか、設定も非現実的なので長崎の海辺のロケなどとのギャップがあってそれもまた楽しいと言えば楽しい。

もし私が日本に住んでいたら絶対に見なかった映画だとは思うけれど。
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by mariastella | 2013-07-27 08:21 | 映画

『Song for Marion(アンコール!!)』(監督 : ポール・アンドリュー・ウィリアムズ)

映画『Song for Marion(アンコール!!)』を観た。

老夫婦の話。

ガンが再発して余命2カ月とされた妻は地元のコーラスクラブが挑戦するコンクール予選で夫に捧げる歌をソロで歌う。妻の死後に、あれほど気難しそうだった夫が実は歌を歌えることが分かり、夫は、妻の仲間たちをバックコーラスにして妻に捧げる歌を歌う。

夫は権威的で一人息子との仲がうまくいっていない。

その一人息子は近所に住んでいるのだが離婚して週末に8歳の娘の面倒を見ている。

明るく前向きな妻を中心に息子や孫も夫婦のところでは団欒の時間を過ごすしていたのだが、妻が亡くなると、父と息子は決裂する。孫娘は心配する。

自分が死んだ後の息子のことを心配する妻に、夫が「わかった、面倒みるって約束するよ」と言うシーンがある。

普通なら老いてひとりになる父の方が息子に面倒みてもらわなくてはならないはずだけれど、夫婦の間では息子はいつも世話してやらなければいけない対象であり、その視線の共有が親としての2人の絆をうまく現している。

また、妻の死後に歌を口ずさむ夫に驚いたコーラス教師が「マリオン(妻)はあなたが歌うって知ってたの?」と訪ねると夫がうなずくところもいい。

夫は別に歌が嫌いとか歌えないから妻のコーラス活動に理解を示さなかったわけではなくて、本当は歌が上手なことも妻はちゃんと知っていたのだ。夫婦の仲は外からは分からない。

まあ、そのようななかなかよくできたディティールを重ねていくのだが、余命宣告とかコンクールとか、サスペンスを盛り上げて一気に感涙を誘うような仕掛けがあまりにも常套的だと言えば言える。

実際、テレンス・スタンプとヴァネッサ・レッドグレイヴという2人の名優をこんなお涙ちょうだいの安易な映画で見たくなかったという厳しい批評もあったほどだ。

しかしこういう名優2人がこういう予定調和的なストーリーに参加しているからこそ、観客は安心して感涙に淫することになるのだ。

無口でどこか不器用な夫と明るい妻という組み合わせは、きっと一昔前のイギリスの庶民にはめずらしいものではなかったのだろう。
どこか日本的でもある。高倉健と倍賞千恵子でリメイクできそうなカップルだ。

『愛、アムール(老夫婦の晩年)』と『シスター・アクト(歌わなかった人が歌によって心を開く)』と『シスター・アクト2(コンクールに参加するところ)』とこの前見た『カルテット(老人のグループと音楽)』の要素を全部合わせた感じの映画であるが、他のものにはなかった独特の「救い」も感じられる。

父と子の問題や孫娘や若い独身の音楽教師も配して全方位的にできているとはいえ、これからは先進国ではリタイアした夫婦がどんどん増えるし、老親を介護する人も増えるのだから、往年の名優を使って、どうやって老いてどうやって死ぬかというテーマの映画はもっともっと作られるかもしれない。

今この『アンコール!!』を見ると、つい自分や自分の周りの人々の老後に重ねてあれこれつらつら考えてしまうのだが、たとえば、もう30年以上も前にヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘップバーンの『黄昏』を見た時、その頃は自分自身はもちろん自分の親ですらも映画のカップルよりも若くて現役だったから、別世界のことでしかなかった。

『愛・アムール』や『アンコール!!』では先に死んでいくのが妻のほうであるというのも『黄昏』とは少しニュアンスが違う。

しかし、なんというか、観客に夢を見させるような映画と違って老いや病気や衰弱の様子をリアルにクローズアップして突きつける映画を見ると気が滅入るのは避けられない。けれども、カタストロフィ映画とかホラー映画でばんばん死者を見せつけられるのと違って、平和で運よく長生きすればだれでも多かれ少なかれ老いと衰弱の姿に行き着くわけだから、めでたいのかめでたくないのかよく分からない。

死ぬことよりも老いることの方が怖いという人だっているかもしれないし、老いることよりも体が不自由になることの方を恐れる人もいるだろう。

それでもこれからこういう映画をいろいろ見て比べてみたいという「老いの好奇心」は抑えられない気がする。

もう一つ、昔、日本から出ることなく「洋画」を見ていた頃と違って、今はフランスに何十年も暮らしてあらゆる世代の人を身近に見続けているから、たとえイギリス映画でも、どの登場人物の顔にも知り合いの誰彼を思わせるものが必ずあるので、見ているとそのリアルさが半端ではない。
日本人とは限られた人としか付き合っていないし生活の基盤がないから、もしこの映画を日本でリメイクしたものがあったら、そっちの方が私にとっては距離がとりやすいだろうな、と思う。
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by mariastella | 2013-06-21 00:24 | 映画

ダスティン・ホフマンの『Quartetカルテット』

ダスティン・ホフマンの監督作『Quartetカルテット』

リタイアした音楽家たちが集まる老人ホームに往年のオペラのディーヴァがやってくるが、そこには彼女の浮気が原因で別れた最初の夫もいた。昔の仲間たちがはたしてもう一度伝説の四重唱を復活させられるのか、という話。

このホームが大小の音楽室もある豪華なもので、庭のあずまやでもアンサンブルを弾けるし、誰でも自由に楽器を弾いたり歌を歌えたりできる。

そのホームの存続をかけたガラ・コンサートにディーヴァは協力してくれるか。『シスター・アクト』みたいな展開である。実際、『シスター・アクト』で修道院長をやったマギー・スミスがディーヴァ役をやっているのだ。

設定も舞台も話も私のツボにはまっているので、ストーリーの展開のテンポなどいろいろ「いまいち」なところがあっても全然気にならない。

背景がすごくイギリス的で、俳優もイギリスの舞台俳優やらイギリスの本物の歌手や演奏家を起用している。

今年のヴェルディの生誕200年イベントがとりいれられていて、もとの戯曲も、ヴェルディが晩年にミラノに設立したという音楽家のリタイア・ホーム「ラ・カーサ・ヴェルディ」のドキュメンタリー番組にインスパイアされて書かれたそうだ。音楽とヴェルディが好きな平均年齢80歳の音楽家が今でも60人くらい住んでいるという。

75歳だというダスティン・ホフマンの監督第一作のヨーロッパ・テイストに驚かされた。昔はジャズ・ピアニストになりたいと思っていたそうなのだが、ともかくもっとアメリカンな人かという印象があった。

でも、こういう舞台背景と個性的な登場人物を見ていると、なんだか過去の復讐劇を伴ったミステリー映画だったらもっとおもしろかったのに、と思ってしまった。この雰囲気で犯罪が何も起こらないのは映画としてもったいないくらいだ。
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by mariastella | 2013-06-04 05:46 | 映画

ファルハーディの『ある過去の行方』(Le Passé)とキャビア

カンヌ映画祭の上演と同時に公開されたアスガル・ファルハーディの『Le Passé(過去)』を観る。

前作の『別離』の後でマリオン・コティヤールを主演にしてフランスで撮るといっていたのが、辞退されて(彼女はジェイムス・グレイのアメリカ映画『The Immigrant』を選んだからだ)、ベレニス・べジョ(『アーティスト』のヒロイン)が起用された。キャスティングの際には、台詞を言う必要がなく口に綿をつめたり眉を動かしたりなどのテストがあったそうだ。しかし、こうして見るとべジョ―とコティヤールには確かに似た雰囲気がある。

『アーティスト』とはまったく逆のシチュエーションのヒロイン役をこなす演技力はなかなかのものだ。

男優の2人は『別離』のペイマン・モアディと『預言者』のタハル・ラヒムですでに名優の域に達しているし、子役がまたうまい。

パリの郊外に住んで、パリの薬局で働くマリー(ベレニス・べジョ)は、長女の父であるベルギーに住む男の後で少なくとも2人パートナーを変えた。
前夫はイラン人だが2カ国に同時に根を下ろすことができなくて4年前にテヘランに去った。

マリーは、薬局の近くでクリーニング店を経営するアルジェリア系の男と恋仲になり、妊娠したので、前夫アマードにイランから来てもらって正式な離婚手続きを終える。

といっても、相手の男は離婚できない。

うつ病だった妻が自殺未遂で植物人間状態だからだ。

男は6歳の息子と共にマリーのうちに住んでいるが、ホテルに泊まるはずだったアマードもかつての「自分のうち」にやってくる。

マリーは6歳の子とも、16 歳の長女ともうまく行っていない。妊娠していることを長女に隠していたし、長女も含めてみなが少しずつ秘密を抱えている。

真相が少しずつ分かっていく時のサスペンスはこの監督の持ち味だ。

純粋な「悪意」の持ち主をほとんど登場させないでこのような錯綜した悪と不幸の連鎖を創る手際は相変わらずすばらしい。

移民とか違法労働とかフランスならではのリアリティもある。

(ベレニス・べジョ―はアルゼンチンの移民でラテンぽいし、男優2人はアラブ人とイラン人、子供はみなそれぞれハーフという設定だからみんな「人種」が微妙に違うわけで、イラン人のなまりと、重要な役を果たすクリーニングやの店員の「なまり」も違うのだが、普通の日本人にはなんだかみな同じように漠然と「西洋人」風に見えてニュアンスが全部は伝わらないかもしれない)

ハンナ・アーレントが「悪の陳腐さ」と形容したように、「巨悪」と呼ばれるものですら、根が深いものではなく、実は浅い。まさにその浅さによって軽々と伝染していき、規模が拡大して「巨悪」になる。

この世の悪とか個人の悪意とかも、実は根は「浅い」のに、ひょいと足元をすくって全人格を変貌させたり全人生を崩壊させたりするのだ。

イランから来た前夫だけが「他者の目」によってひとり落ち着きを見せているが「当事者たち」は全員が叫んだり怒鳴ったり暴れたりする。
だからなおさらその合間に挟まれる「沈黙」のシーンが濃密で緊張をはらむ。

男2人が向かい合って待つシーンや同じベッドで寄り添う母娘のシーンやメトロの中の父と息子のシーン、そして、ラストの、もの言わぬ妻の病室を去った後で出口に向かって歩きながらあることを思いつくまでの夫一人の後ろ姿とその後で妻の手をとるシーンなどだ。

シナリオが饒舌過ぎ、うま過ぎ、やり過ぎという批評も必ず出るのだが、古典悲劇やバロック悲劇の構築性が好きな人には何の問題もない。

『別離』が気にいった人はこの映画にも絶対に後悔しないだろう。

ちょうど先日、イラン人とフランス人(スペイン系でありラテンぽい)のカップルと15歳になる彼らの一人娘と共に食事した。娘は父親にそっくりで、この映画に出てくる16歳の娘とも似ている。イランとフランスを行き来するためのパスポートの話題が出たので、私はマスード・バクシの映画について語ったのだけれども、さすがに、この『ある過去の行方』についてコメントするのは、はばかられた。

同席していたもう一人のイラン人は、先週2週間の予定でパリに来ている元水産業の人で、1980年に札幌に1ヶ月滞在してカスピ海産の高級キャビアを水産展か何かに出品したそうで、別れ際にキャビア(50g)の小缶をそっと渡してくれて「さよなら」と日本語で言った。すでにホメイニ革命の後だったのだが、日本とは交流が続いていたのだ。

その人の持参したキャビアをいっしょに食べながら、私が以前はパリのペトロシアンに行っていたと言ったら、ペトロシアンのものもイランのキャビアなのだ、カスピ海の南側で採ったものの方が水温が高いのでいいキャビアなのだ、昔も今も国が全面的に管理している、と力説された。

札幌にはイランからいろいろな水産品を持っていったのだが、日本にはすべてがあって珍しがられず、、キャビアだけがすごい人気だったのを今も覚えているという。

今、キャビアの値は高騰している。

パリにいるその人の弟は、カスピ海の岸にある絶景のアパルトマン(150平米)を近く購入する予定だそうだが、日本円にして650万円くらいだ。
高級キャビア10kg強という感じで買えてしまうわけである。

カスピ海を思い浮かべながら暗灰色のキャビアを、さて、何とつけ合わせて食べようかと思案中。
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by mariastella | 2013-05-21 06:30 | 映画

11.6

フィリップ・ゴド―監督、フランソワ・クリュゼ主演の、犯罪実話をフィクション化した映画だ。

2009年にリヨンで現金輸送車の運転手が1160万ユーロ(約15億円くらい)の現金を横領した話である。

誰も傷つけていず自首したので、単純窃盗罪で3年の実刑、それに保険金詐欺が加わって5年になったから、来年釈放されるはずだ。

判決時の、GPS搭載の足輪をつけての釈放という選択は本人が拒絶したらしい。

見つかっていない金がまだ250万ユーロくらいあるので、他の受刑者に対する身の安全のために独房に入れられているそうだ。

金が見つかるまで輸送会社が支払いのために借り入れの利子など、もろもろの損害賠償や裁判経費など273 986、84ユーロが請求されている。

この俳優が前にやはり犯罪実話をベースにしたおもしろい映画『A l'origine』を演じていたのがとてもおもしろかったので、どこかで同じような痛快さを期待していたのだけれど、今回のはずっと地味で暗い話だった。

そもそも、この主人公がスウェーデンの輸送会社に働くユーゴスラヴィア人だったという事実に考えさせられてしまう。

現在のようにヴァーチャルな投機マネーが世界をめぐっていて、個人の収入も支出もヴァーチャルな数字だけで現れるような世界で、即物的な札束というのがやはりあるんだなあ、という当たりまえのことと、防弾チョッキをきて武器を携帯しながらそれらを輸送しているのが、外国系の会社で働く外国人で給料が残業を入れても1700ユーロほどでしかない小市民であることの取り合わせの意外さとが印象的だ。

主人公の友人で白ネズミのペットを連れて働いている男と、レストランを経営している恋人のキャラクターがまたユニークだ。この三人のうまさというのは、リアリティなどとは関係がなく、最小の演技で人間性の裏表を喚起してしまうところにある。そういう意味では、『愛、アムール』などよりもずっと映画らしい映画だ。

友人が大晦日のパーティの夜に一人で雪の中を帰っていくシーンの美しさと表現力にもはっとさせられた。

被害額が11.6ミリオンというわけなのだが、本来は、保険の関係で輸送車には一回600万ユーロ以上を運べないことになっているらしい。それを効率のために2倍近く積みこんでいたわけで、この会社の管理職たちはこの事件が明るみに出てからみな責任をとらされて退職した。

それが主人公の会社に対する復讐でもあり、行き過ぎた自由競争の経済システムへの批判にもなっている。

しかし彼自身、酒もたばこもやらずただひたすらに働いて貯めた金でフェラーリを落札するなど、現金横領の以前から普通の意味では常軌を逸したところがある。赤いフェラーリとスポーツジムでの禁欲的な訓練の対照が印象的だ。

フランソワ・クリュゼは近頃どんな役をやっても魅力的で、その彼のうまさが主人公の不思議なキャラをさらに補強して、人間ドラマとしてはおもしろい。でも、事件ドラマとしては、いまひとつインパクトに欠けてカタルシスが得られなかった。
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by mariastella | 2013-04-13 07:46 | 映画

『汚れなき祈り』クリスチャン・ムンギウ

『汚れなき祈り』クリスチャン・ムンギウ監督・脚本は、去年のカンヌで脚本賞とダブルの主演女優賞を獲得した2012年のルーマニア映画だ。

こちらではDVDが発売になったばかり。

2005年にルーマニアの正教会修道院で起こったエクソシスムに続く死亡事件をテーマにしたものだ。プロテスタントのエクソシスムのことを読んだばかりだったので、正教会のエクソシスムについても知りたくなったので見てみた。

大聖バジルが何度も喚起されるところが正教的だ。

聖バジルは四世紀のカッパドキアの司教で、カトリック教会でも聖人で教会博士の称号を持っている。正教の修道会の規則も作り、カトリックのベネディクト会規則にも影響を与えた。

で、まだ若いと思われる修道会付きの司祭が、エクソシスムにはリスクがあり、家族の要請が必要だと言って躊躇しているところを見ると、もともとかなりの荒行だと意識されていたようだ。

こう言ってはなんだが、カトリック世界もハンガリーやポーランドなど東欧圏のものは、フランスなら18世紀の田舎でももっとシニックな人々がいたろうと思えるくらい、保守的というか中世的である。

ルーマニア正教の女子修道院がアナクロニックな感じがするのも不思議ではない。

国自体の貧しさもある。

電気も水道もないという過酷な生活も、エコロジー原理主義や伝統にこだわる保守主義などではなくて本当に貧しいからだ。

この話では、孤児院にいた二人の女性の一人が修道女になったわけだが、成人すると孤児院を出なくてはいけないので、結婚相手でも見つからない限り、里親と称して労働力を搾取する家庭に引き取られるか修道院に入るくらいしか若い女性の進路は限られている。

この悲劇も、修道院という閉鎖的空間がカルト化して修道女を洗脳しているとか、ドイツの都会に移民労働者として出稼ぎしているレズビアンの女性が精神に異常をきたしたとかいう問題以前に、親が子供たちを育てられないで孤児がたくさんいる冷戦以降のルーマニア社会の荒廃自体が諸悪の根源だ。

フランスにはルーマニアの孤児院から養子をもらうカップルが少なくない。ベトナムやハイチにまで目を向ける前に、できれば「ヨーロッパの白人の子」を望む場合が多いのだ。

それもだんだんと難しくなってきている。

でも、最近の「ゲイの結婚」法がゲイのカップルの養子縁組許可を前提としていて、さらには人工授精や代理母による子供の獲得を合法化することが視野に入っていることを思うと、「ルーマニアの子供たち」を優先しろよ、と言いたくなる。

で、女子修道院で再会するアリーナとヴォイキツァだが、空手をやっていたという勇ましそうなアリーナ(性同一性障害的にも見える)と少女っぽいヴォイキツァを比べると、実は修道女になったヴォイキツァの方が、きっと昔からアリーナを心理的に支配していたのだろうなと思わせられる。

こういうケースでは男の子っぽい側が純愛で脆弱で、愛されている絶対の自信を持てる「守ってもらえる側の女の子」というのは、結構残酷なのだ。

そんな二人が司祭に告解する時に、二人の関係をどこまで告白したかは気になる。アリーナに罪の免償の必要性を説き、無理やり告解させたヴォイキツァが、「ディティールは言わなくてもいいからすべての罪を告白するのよ」という意味のことをややあせったように言っているので、おそらくヴォイキツァ自身は同性愛のことは話していないのだろう。

ヴォイキツァが修道院の生活を選択したのは孤児だった自分が疑似家族を得て、パパだのママだの姉妹だのと呼べる存在(しかも絶対に自分を捨てないし家から出ていくこともない)と暮らせる安定を選んだからだと思われる。

それに必要な「神さま一番」のレトリックを受け入れることは実社会の過酷さと比べたらどうということはない。

そんなところに、本音を語るどころかヴォイキツァを取り戻すために挑発的な言動を繰り返すアリーナが現れる。

修道女たちや司祭は信仰の型に凝り固まっているとはいえアリーナに対して別に懲罰的ではなく、むしろ同情的だ。

それがいつのまにか最後のエクソシスムのカタストロフィへとつながっていくのだが、この映画は最後のカタストロフィを盛り上げるために構成された娯楽映画ではない。

むしろそこにたどり着くまで、延々と、伏線とも言えないリアルな日常のあれこれを積み上げていく。
飛行機の音など環境音も丹念に配する。

散漫なdigressions自体がコンテンツになっているのだ。

2時間半が必要という意図は分かる。
事実を刈り込んで濃縮し、クライマックスへ突き進むフィクションとして完成させるというのが目的ではない。

チャウシェスク以来の、国の荒廃という空気そのものが底に流れるテーマなのだ。

修道院内の倒錯という点ではロベール・ブレッソンの『罪の天使たち』(1943)を連想した。

ジロドーが書いたシナリオを「罪と恩寵」として舞台化したものを昨年観たのも記憶に新しい。

それにしても、こういう題材を扱いながら、センセーショナルな眼ではなく、登場人物の人間性の機微を淡々と描きあげていく監督の手腕を見ると、次の作品も大いに期待したいところである。
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by mariastella | 2013-04-11 17:12 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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