人気ブログランキング |

L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:フェミニズム( 32 )

女性差別とユダヤ人差別

ラジオで44 歳の女性ラビ(フランスでは希少)のデルフィーヌ・オルヴィラール(Horvilleur)が「黄色いベスト」運動と反ユダヤ主義の復活について話していた。

今のポピュリズムに共通していえる「エリート」「権力者」「富裕層」への抗議とそれに伴う憎しみの連鎖から、昔からの反ユダヤ主義(ユダヤ人は金融強者で闇のネットワークで世界を支配している、富裕者、陰謀論)が復活しているという。アメリカのピッツバーグでシナゴーグを襲ったテロリストもユダヤ人が移民のキャラバンを通している、などと言っていた。ポピュリズムのあるところに反ユダヤ主義もある。
1946年にサルトルはユダヤ人とは反ユダヤ主義者の視線の中にしかいないという考えを表明した。その後も、2012年のトゥールーズのユダヤ人学校のテロの時も、フランスでは、反ユダヤ主義は、中東でのイスラエルとアラブの対立を反映したものだという見方がされていた。
これに対してオルヴィラールは歴代のラビによる説明をたどりながら、反ユダヤ主義は進化しながら更新され続けていることを述べる。

反ユダヤ主義というユダヤ人差別の特徴は、「嫉妬」にある。

他の人種差別、民族差別などの差別は、差別する対象に対する優越感に支えられている。つまり被差別者は何かが足らない、劣っている、と見なされる。ところがユダヤ人差別はちがう。

ユダヤ人はカネやネットワークや権力など自分たちにはないものを持っている、という嫉妬と偏見が基盤にある。そしてそれは、本来自分たちにあるべきものをユダヤ人に奪われているのだという不当感につながり、陰謀論を生む。

ここまでは分かる。

驚いたことにオルヴィラールは、さらに、そのようなユダヤ人差別と女性差別の相似点を指摘する。
ユダヤ人差別の言葉には、ユダヤ人がヒステリックで、金が好きであるという偏見に、性的な侮蔑も込めたものがあるらしい。今「黄色いベスト」運動の憎しみの対象になっているマクロンが同性愛者でユダヤ人である(実際はちがう)と攻撃されるのも、「女のように陰謀に長けて強欲」というイメージだからだそうだ。ユダヤの男には生理がある、という差別言辞も存在したという。

うーん、奥が深い。
そう言われれば今まで闇に隠れていたものが浮かび上がってくる。

逆に、男性による女性差別の中にも、「女性が劣っている」という優越感だけではなく、女性に対する嫉妬や劣等感も隠れているのかもしれないし、「母なるもの」への永遠の憧憬の裏返しもあるのかもしれない。

単純な「肌の色」だとか、特定機能の優劣だとかに起因する差別よりも、ずっと奥が深い。


by mariastella | 2019-01-15 00:05 | フェミニズム

ミッシェル・セールと若者たち(続き)

ミッシェル・セールが、 7人の若者と話し合った記事の続き。


まず、こういう場合、7人のうち過半数の4人が女性であることはフランスではかなり普通な感じがする。

ミッシェル・セールは、若者たちをテーマに、『親指トム』のフランス語である「小さな親指」を女性形にしたタイトルの本を出した。それがなぜことさらに女性形なのかと聞かれた答えはこうだ。

私の世代の教師たちはみな女生徒の方が男生徒よりも頭がよいこと、より集中力があり、よりプロフェッショナルであり、よりモティヴェーションがあることを体験してきた。なぜか? その時代の女性たちには獲得すべきポジションがあったからだ。学校では、いい成績を得るために男子よりも努力した。女性の地位を大いに引き上げることになったこの世代に敬意を表するために女性形にしたのだ。

だって。

これってかなり微妙な気がする。

東京医大の不正入試のことも思い出されるけれど、同じ条件ではたいてい、どこでもなんでも女性の方が成績がよくなる。

そのことについてことさらに、女の子はまじめにコツコツ努力するのに男の子は自由で独創性があって、コツコツでは負けるけれどいざとなったら力を発揮する、とするのは、私が子供の時から言われていた。

小学校でも、女の子の方が成長が早いからはじめは男の子にまさっていても、「身体が変わる」と成績が落ちるという言説があったし、高校でも、たとえば、1年生では女生徒ががんばっても、2年生くらいで「男生徒が本気を出す」とぐんぐん伸びて最終的には女生徒を追い越す、のような言説があった。これはプロフェッショナルでも同じで、最初は男と互角か男以上の仕事をしていた女性も「結婚、出産、育児」、果ては「更年期障害」でコスパが落ちるという」たぐいの言説がついてまわる。

「理数系の頭」を上位として、理科系かどうか、という男女差もよく言われていた。例えば東大でも理3を目指すのは圧倒的に男生徒で、文系はそれこそその後のコスパのよさそうな法科や経済は別として人文科学系の文3は、「他の学部は難しい」人、職業選択の優位を考慮しなくてもいい女生徒向き、というイメージだった。

(私に関しては、人文科学以外の分野に興味がなかったので選択ははっきりしていたけれど、確かにこういう偏見で見られるのは不愉快だったことを覚えている。いわゆる進学校にいたので、その高校で学年50番以内だか、100番以内だかの生徒で文3に落ちた人はそれまでにいない、とかいう統計もあった記憶があるけれど、「理3にいけないから文3」などと思われるのが嫌なので3年の時点では意味もないのにトップでいた気がする。いや、意味と言えば、私はお稽古事好き少女であらゆる競争が嫌いで学校ではサボリの怠け者でもあったけれど、さまざまな偏見にさらされている周りの女生徒たちの嘆きや諦めを知っていたので、それを相対化して同性に自信を持ってもらうという使命感は自覚していた。)

ミッシェル・セールはジェンダーにまつわるいろいろな言説に考慮して、彼自身が教師として体験した「知的活動における女性優位」の実態をリスペクトしてこういう表現になったのだろう。

でも、それなら、今は、もう「女性の地位が上がったから、男子よりも努力する必要がなくなって、成績も自然に拮抗している」とでも言いたいのだろうか。

確実に言えるのは、全体の傾向というものがあったとしても、ミッシェル・セールのような人が「一般化」して表現してはいけないということだ。

そして、遺伝学的な違い(例えば、雌猫は子猫の数を数えて確認できるような機能が遺伝子的に組み込まれているので一般的には明らかにオスより頭がよくて複雑で警戒心が強い。)はあったとしても、別のところでも書いたけれど、人には様々な「発達障害」があって、それがどういう環境で矯められたり克服されたり迂回されたりしてきたかによっての違いが実は非常に大きいと思う。

そこに気がつくと、いわゆる「男女差」なんて時代と文化の文脈による恣意的なものしかないなあ、と近頃つくづく分かってきた。


by mariastella | 2018-11-19 00:05 | フェミニズム

マルモッタン美術館の男と女  マネとモリゾー

(これはマルモッタン美術館シリーズの続きです)


 マルモッタン美術館では、コロ―から印象派にかけての時代の作品だけではなく、彼らの交流の歴史が実感を持って繰り広げられている。


彼ら同志が肖像画も描き合っている。

 

例えばこれはルノワールが描いた「新聞を読むモネ」の肖像画。

c0175451_00530730.jpeg

なんといっても、この美術館の「顔」ともなっている出色の肖像画はエドゥアール・マネによるベルト・モリゾーの肖像画だ。

c0175451_05452516.jpeg

ベルトはコロ―の弟子だった女流画家だ。

マネの弟と結婚した。娘も絵を描いた。

彼女の姉も画家で、マネの親友と結婚した。


この時代で意外なのは、女性たちが男性画家のアトリエで弟子として「修行」することが流行っていたことだ。熱心に師匠の作品を模写する者もいれば、単なる「お稽古事」気分の者もいたようだ。そんなアトリエ風景を描いた絵もある。中央にいるのが師匠で、女性たちはまじめに聞いている者もいれば窓の外を眺めている者もいる。

c0175451_01271967.jpeg

c0175451_01265096.jpeg

c0175451_01280760.jpeg


ベルト・モリゾーは、姉と二人でルーヴル美術館でルーベンスの絵を模写している時にマネと出会った。

その時すでにマネは結婚していた。

『草の上の昼食』の裸の絵がスキャンダルになっていた頃だ。マネを評価していたボードレールが死んで2年後である。

マネはもともと「女性」が好きで話もうまかった。カリスマ性もあった。

ベルトはマネにすぐ惹かれるけれど、その他大勢の一人でなくマネのミューズでありたいと思う。

二人の恋はそれなりのスキャンダルにもなったらしい。

ベルトが姉に書き送った書簡をもとにしたマネとベルトの物語をマンガ化した大判のコミック(BD)まで出版されているのには驚いた。

c0175451_17253853.jpeg

このコミックを見ていると、フランスのアート・シーンと知識人サークル(文学者、哲学者など)におけるギャラントリーとエレガンスにおける男女の協働関係の伝統がよく分かる。

17世紀から続くサロン文化から日本でも有名だったサルトルとボーヴォワールの内縁関係、#Metoo に向けたカトリーヌ・ドヌーヴらの違和感にまで通底している流れだ。

「エリート」「アッパークラス」にだけ通用する話だと言われればそれまでだけれど、だからこそ、ひとつの独特の「文化」を形成してきた。


マルモッタン美術館には、ベルトの作品がたくさんある。

c0175451_05434995.jpeg


c0175451_01110417.jpeg

それにしても、マネによるベルトの肖像画の表情や眼の光を見ていると、ベルトの性格や葛藤や挑発などがみな透けて見えてきて、「二人の関係」が知的にも芸術的にもいかに刺激に満ちたものであったかが容易に想像できる。



by mariastella | 2018-06-22 00:05 | フェミニズム

「きれいになった」イザベル・アジャーニとフェミニズム

 先日ヘアサロンで手に取った週刊誌パリマッチ誌に、すっかり痩せて30年前と変わらない若さと美しさのイザベル・アジャーニが『イザベル・アジャーニの春』というタイトルのインタビューに答えている記事があった。

 インタビュアーである男性作家から「何というスタイル!」という第一声。

 読んでいるだけで、女性の体形をすぐに口に出すのは、昨今ならセクハラ?という気遣いが起こらないでもない。

セクハラ告発の嵐の中で、カトリーヌ・ドヌーヴらが、男性が女性にお世辞を言う権利、ギャラントリーの文化について声明を出してすぐに「炎上」してしまったことは記憶に新しい。でもアジャーニは「あれはアッパー・クラスの女性にのみ通用することだから」とこの記事で答えている。

その自分自身が、若い頃の体型を取り戻したことを真っ先に賛美されて、余裕で話を続けているのは、もちろん彼女自身が「アッパークラスの女性」だという認識があるからだろう。

シェイプ・アップすること、痩せることについては、ダイエットなどで自分を囚人にしてしまうのは意味がない、自然食品、運動、瞑想などでゆっくり自然にシェイプ・アップするのがいい、と自分の体験を話しているのだけれど、自然食品、運動、瞑想などという三点セットで自然に健康に痩せる、というコンセプト自体が、「アッパークラス」的と言えないでもない。

さらに、

「大切なのは、美しくあることではなく、自分を美しいと感じられることだ」

「女性として自分を美しいと肯定的に見られることこそが自由の旗となる」

などと言っている。で、自らは業界大手のロレアル化粧品の顔を引き受けている。


ロレアルと言えば「ロレアル ― あなたには価値があるから」のキャッチコピーで有名だし、70歳のスーザン・サランドンなども「顔」として起用している。


イザベル・アジャーニの語るイメージはSois belle et t’es toi」だ。

この tes toiというのは、tais-toiとのかけ言葉だ。

Tais-toiなら、黙っていろ、ということで、

「女性は見かけがきれいならばいいので口は開くな、意見を言うな」というニュアンスなのを、

tes toiなら、君は君である、つまり、「あなたは美しい、あなたはあなたである」「美しい時こそあなたは本当のあなた」というフェミニズム的美の賛辞となる、というわけだ。

要するに、「他人のために化粧するのでなく自分のために化粧する」という発想の転換と言いたいのだろうけれど、そういう自分磨きの「美しさ」の規準だって世間や社会や時代と無縁ではない。

女性が自分で自分のことをきれいだと思えることのハードルは「見かけ」よりもずっと高いともいえる。

 世間の基準に照らした時、ダイエットや整形手術では決して変えられない、持って生まれた「マイナス点」というものはあるし、老化や病気という「マイナス」もある。

また、「女性として」の見かけを自分で肯定できない人や拒絶する人もいる。

そもそも人は自分の「見かけ」をナマで把握することすらできない。


「見かけ」に左右されるような存在の良好感を「自由」の出発点にはしたくない。


by mariastella | 2018-06-02 00:05 | フェミニズム

著名女性たちのくぐりぬけてきた試練

日記  その13

2/26

ここのところ毎夕15分くらいしか見ないTVで、今日は偶然アニック・コジャンが新刊について話しているのを耳にした。


いわゆる著名な女性25人に、何が彼女らの人生をそこに到達させたのかという契機についてインタビューしたものらしいが、アメリー・ノートン、アニエスb 、ニコル・キッドマン、ジュリエット・グレコ、アンヌ・イダルゴ(パリ市長)、エレーヌ・グリモー(ピアニスト)、ジョーン・バエズ、ヴァネッサ・レッドグレイヴらが人生を振り返って率直に語ってくれたのを聞くと、ほとんど全員がレイプを含む性暴力の被害者だったという。アニック・コジャン自身が驚いている。


クラウディア・カルディナーレなんて、レイプされて身ごもった息子を生んだことまで告白しているのだ。


インタビューはいずれも「#MeToo」の告発騒ぎよりも前になされたものらしいが、女性たちがいかに暴力にさらされているのか、それでもそのトラウマを克服してきたことのすごさを感じる。

その中で、カトリーヌ・ドヌーヴ型のフレンチ・フェミニズムはどう語られていくのだろう。

by mariastella | 2018-03-03 00:05 | フェミニズム

竹信三恵子さんの「日本の母親=押し入れ説」

講談社の広報誌『本』の12月号で、愛読していた竹信三恵子さんの『「母親神話」の国、日本』が最終回だった。


この雑誌には同時に下重暁子さんの『その結婚、続けますか?』という連載もあって、どちらもフェミニズムの流れとして読んでいたのだけれど、いつも、そのアプローチの違いの大きさにとまどっていた。


竹信さんはジャーナリストとあり、その抑制的で客観的な筆致から、30代か40代のアカデミックな感じの人だと思っていた。

下重さんはもう80代だそうだが、結婚生活についてのいろいろな例を挙げているにもかかわらず、自分語りとの区別がつかず、ただの回想記なのか何かよく分からない。「反芻する恋がある限り、私は年をとらない。少女にもどれる。」とか、幸せな人だ。


竹信さんの記事の方は説得力があり具体的な提言もある。正直言って母親たちの、「内なる檻」「自虐のルール」などの話も、新世代「草の根封建オヤジ」の話も、あまりにも私にとっては異星の出来事みたいで実感がないのだけれど、とにかく竹信さんの論理の筋道がきっぱりしていて小気味よい。

で、はじめてネットで検索してみたら、私より少し若いが同世代の人だと知って意外だった。

しかも、記事ではまったく私生活を感じさせないのに、夫君を50代で海難事故で亡くして、『ミボージン日記』という私生活全開のような本を出されていることも知った。夫君が1950年生まれの灘中灘高から東大というのも、早生まれでなかったら東大入試中止の年だったはずだから、70年入学だとしたら、その年の一浪してきた灘高出身の友人たちの思い出があるので親近感がわく。

ネットで竹信三恵子さんのインタビューや講演記事を拝見して、すてきな人だなあ、と思った。


それにしても、フェミニズムの言説は難しい。

特に今の時代では、どこのどんな人が発言しているのかすぐに分かってしまう。


その人の経歴や年齢や外見や肩書についての先入観が、言説を読むときの邪魔になることが多い。


「先入観とのイメージが違う」ことがプラスになる場合もマイナスになる場合もある。


たとえば貧困者の自立支援をしているサポートセンターの「もやい」の中心メンバーである湯浅誠さんとか稲葉剛さんだとかがどちらも東大出身と聞くと、いくらでも他の出世街道に進めたのに偉いなあ、などと思うけれど、


フェミニストのエリザベト・バダンテールがフランス屈指の金持ちでエリートの夫、娘や孫に囲まれてパリの一等地に住んでいることを知った時に「こんな人に普通の女性の悩みが分かるのだろうか」と思ったりする。


アンチエイジングなどやめてありのままがいい、などと主張する人が生まれつき肌がきれいで色白の美人である時と、肌や髪がぱさぱさで年よりも老けて見える「オバサン」であるのとでは、たとえ同じことを言われても受け取られ方が違う。


フランスで同性愛者たちのトーク番組を見ていた時、格好いいカップルが出てくると嬉しいが、ぱっとしない人が話すと、「異性に相手にしてもらえない人が同性愛にはしる」などと思われそうでいやだ、と思った。


聖職者や修道者でもそうで、いい家庭の出で姿もよく高学歴の人が独身の誓いを立てたら何か崇高なものに見えるが、その正反対の人が立派な志を語ったら、この人、他に道がなかったんだろう、などと思ってしまう。


このような反応は、プラスにしてもマイナスにしても等しくすごくプリミティヴで差別的で、どうしようもなくくだらないと分かっているのに、多分、多くの人に脊髄反射的に刷り込まれている偏見だ。


そういう先入観のみじんもない人を私は知っている。

私にはある。

偏見がなく本質的なものをまっすぐ観ることのできる人は存在するが、そんな人には、偏見のほんとうの卑しさなど想像もつかないだろう、

私は少なくとも、偏見の根づき方や克服の仕方やその深刻さをいろいろと考えざるを得ないという点だけでは、よかったかもしれない。





by mariastella | 2018-02-01 00:05 | フェミニズム

ダウドさんとフェミニズム

カトリーヌ・ドヌーヴらがル・モンド紙に出した、ピューリタン的な男の敵視に対して、「男が女を誘惑する権利」擁護の声明が物議をかもしている。

それを眺めていて、そもそも、欲望に「力」を持ちこむのが人間の進化の歪みなんだろうなあなどとと考えていた。
自然界では、パンダの交配やら野良猫の生殖の季節をみていても、メスに選択権があって、オスは、フェロモンを感知してむかっていっても、受け入れてもらえないとあえなく引き下がる、というパターンだし、クジャクの羽根みたいに必死にメスにアピールなどするし、ハーレムを作っているようなオスも、力を行使するのは他のオスに対してであって、メスたちは一番強そうなオスのところにとどまる、という感じだ。

働きバチだの働きアリなどは人間の目から見るともっと悲惨で、生殖というのはまず類的存続をかけたもので、「個」は不平等すぎる感じがする。

人間でも、社会的な格差などのない学校のクラスなどでは、男生徒や男子学生の方が、一般に女子より弱くなる。より多く欲するものがより弱くなるのだ。

で、対等な関係である場以外のところで、つまり、「支配力」を行使できるところで欲望を満たすということがある。「力」は腕力だったり金力だったりもする。
人間の社会には、そういう役割を押しつけられるオブジェとしての女性、犠牲としての女性がたくさんいるのだ。

ル・モンドに声明を出すような女性たちは、社会的に「男と対等な関係の場」で生きている人がほとんどだろう。
学校や地域の幼馴染や同級生などの自然な対等の場とは別の「大人の世界」でも、「男と対等な関係の場」で生きている女性、だから、求愛する男性より相対的に強い立場にあるという女性であり、それは少数なのだろう。

などと思っていたら、『ル・ポワン』紙でカメル・ダウドが、この声明を激しく批判していた。(彼の記事は前にも紹介したことがある)

要約すると、

ピューリタンがどうのこうのと言っているのはお花畑であって、イスラム(ダウドはアルジェリア人)世界のことを考えてみろ、
イスラムの男たちはもっとピューリタンで、女性にはヴェールをかぶせて隠すし、さっさと結婚させるし、性的自由など認めない、で、それは女性を対等な人間として認めていないわけだから、人妻以外の女性や、共同体以外の女性や、戦利品としての女性や、ふしだらな女性に対しては、暴力をふるっても許されると思っている、
ドヌーヴらの声明はそういう男たちを力づけてしまうひどいものだ、

という言い分だ。

なるほど、情報のグローバリゼーションとはすごいなあと思う。今の世の中、だれのどんな片言隻句でも、文脈を離れてどんな風にでも改ざんされてどんな読み方でもされてしまう。
だからこそ、影響力のある発信者は、世界中にいる最も弱い立場の人のことも視野に入れて発信すべきだ、というのは正論かもしれない。

すべての人が、情報を正しく解読するリテラシーを持っているわけではないし、もちろん自分の都合のいいように故意に意味を捻じ曲げる人もいる。

こうなると、「表現の自由」ということそのものにも、いろいろな自己規制がかかりそうだが、何にしろ、発信者がコンテンツを明確な目的、意図というものを明記したパッケージに包んで差し出すことを考えなくてはいけない、自戒する。

けれども、肝要なのは、やはり、ユニヴァーサリズムとコミュニタリアニズムの区別ができていず、混同されているのを整理することだ。

ムスリムの社会での女性のスカーフやアバヤ(全身を隠す)の問題は、コミュニタリアニズム内でのフェミニズムの問題だ。

他の社会で他の文脈ではフェミニズムの問題にならない。

コミュニタリアニズムの観点に立ったフェミニズム(男女同権に近い)を絶対として押しつけることが不当なように、

ユニヴァーサリズムの観点に立ったフェミニズム(人間の平等)を都合よく捻じ曲げて特殊なコミュニティの主流秩序正当化に使うことも間違っている。

この二つの間違いをどちら側も互いに批判するので論点がかみ合わない。

それを明確にする視点でユニヴァーサリズムとしてのフレンチ・フェミニズムについて俯瞰するものを書ける人は、ほとんどいない。

これまでも、このテーマで企画を出したことがあるけれど、「フェミニズムは売れない」とされてきた。
だから、切り口を変えて、『女と神』という企画を考えているところだった。
「#me too 」とドヌーヴのおかげで、書くチャンスが訪れるかも。



by mariastella | 2018-01-27 00:05 | フェミニズム

カトリーヌ・ドヌーヴらによる#MeTooへの批判声明

今忙しいので、このブログはほとんど予約投稿で入れているので、何かを読んだり観たりした後の感想などがアップされるのがラグがあります。でも、1/10付のル・モンド紙にカトリーヌ・ドヌーヴなど100 名の女性が出した#MeTooへの批判とそれについてすぐに湧きおこった論争のことを、挿入します。

要するに、女性を一方的に犠牲者にするこういう形の告発の蔓延はピューリタンの国の思考様式で、フランスでは、男性が女性に対してギャラントリーを表現する権利がある、というものです。


何かを強制したり、合意なく女性を触ったりするのは論外で別のことですが、言葉で気を引いたりするのは犯罪ではない、むしろ伝統 ?ということで、アングロサクソンフェミニズムとフレンチフェミニズムの差がはっきりでています。


で、あらためて日本での告発をネットで読むと、当然ながら、ネガティヴなものばかり。性的なニュアンスで、女性を貶める、というのがトラウマになっています。それに比べると、確かに、フランス男が女性に気軽に声をかけるとか、ハラスメントをする時は、たとえ「しつこい」ことがあっても、内容自体はポジティヴなものがほとんどです。嫌がらせとお世辞(たとえ煩わしい不快なものでも)には本質的な差があります。(日本での例を読んでショックでした。)


要するに、女神や聖母を崇めるような下から目線というのが伝統的なベースです。

もちろん、それを女性の方が不快なハラスメントだと受けとることはありますが、「相手の見た目」によることも大きい。早い話、どんなに崇められても、自分の嫌いなタイプの男だったり、見た目が警戒心を誘うような男だったりするとアウトです。で、権力があるとか、金があるとか、結婚もしているし遊ぶ女性にも不自由していなそうに見える男から下から目線でお世辞を言いまくられる場合には、警戒心が刺激されずセーフということもありそうです。

ドヌーヴなどこういう声明を出せるような女性たちは所詮女性の中でも強い立場にある少数者なのだという切り捨て方をされるかもしれません。

前にも猫のことでセクハラおじさんの心理を書いたことがありますが、私もうちの猫がぐっすり寝ているのに、かわいいあまり、あちこち触ってハラスメントすることがよくあります。でもそこに、「下心」というのは、もちろん性的なものも含めて1ミリもない。

そして猫飼いなら分かると思いますが、どんなにハラスメントしても、下から目線でお仕えしています。やり過ぎて引っかかれても、もちろんこちらが悪いのでこれから気をつけよう、と思うだけです。崇める気持ちは変わりません。猫からはますますさげすまれることもありますし、しつこいと顔を見ただけで逃げられたりもするので、こちらも学習します。

フレンチ・フェミニズムのスタンスの人たちが擁護するのはこういう関係なのだと思います。

それを可能にするのは、女性の側も「大人の女」である必要があるのかもしれません。

それだけではなく、それぞれのシチュエーションにおいて文化だけではなくいろいろな要素が複合しているので、アウトかセーフかというだけで割り切れる問題ではないことは自明です。

ともかく、相手に対して「強い立場」にある者がその強さを武器にして弱い者をいじめたり支配しようとしたりするのは論外で、そういう者を告発できる流れは歓迎です。

でも、それで、男はみんな敵、女は犠牲者という二元論的アングロサクソン型フェミニズムがますます広がるのには要注意です。


相対的に強い立場にあって、その強さを相対的に弱い者を支えるためにだけ使う人は必ず一定数存在します。そうでないと人間はとっくに淘汰されています。自分を犠牲にしても赤ん坊や子供を守る人たちがいるからこそ生きのびているのですから。

そして、多くの社会では、相対的に男の方が有利でマジョリティで、平均すると女性より体が大きくて身体能力が女よりすぐれているので、その中で、自分を犠牲にしても女性を守るという生き方をする人の絶対数は看過できないはずです。

それをなんとなく男全部を糾弾するような論調では、本当のリスペクトできる関係、性別とは別の差別の構造(民族とか宗教とか年齢とか心身の障害とか)を互いに協力して壊していく関係が築けない、というのは事実です。


フェミニズムとフリーメイスン、この2つは、アングロサクソン型とフランス型がまったく別の方向を向いている典型です。グローバリゼーションという名でアングロサクソン型が席巻しているのは事実ですが、これからもフランス型を支持していきたいと思います。

その方が絶対に次の世代のために大切なことだと、日本人としても、女性としても、高齢者としても実感します。


by mariastella | 2018-01-11 00:05 | フェミニズム

伊藤詩織さんと『パリのすてきなおじさん』

昨日の記事についてサイトの掲示板でコメントをいただいた

ワインスタインに始まったセクハラ告発事件は、日本では対岸の火事的な感じで、飛び火していないらしい。


そのすぐ後、今発売中の週間『女性自身』(私はネットのマガジンサービスでアクセスできる)で、詩織さんが、彼女の本を読んで、


「おなじ女性として恥ずかしい、私なら会見であんな服は着ない」

とか


「私は厳しく育てられたから、飲みに行く場所も人も時間も選ぶ」


などという同性の声があったのが悲しかった、


と言っているのを読んだ。


うーん、「女性の敵は女性」などという言葉もあるが、これでは、「自分も同じ人から似たような被害を受けた」というような女性がもしいたとしても、絶対に名乗り出て連帯しようなどとしてくれないのだろうなあ。

で、その詩織さんが同じ記事の中で、

「最近読んだ『パリのすてきなおじさん』という本があります。ここに登場するおじさんの多くは地位や人種と関係なく、それぞれの人生、自分自身を受け入れています。そして他人と違うことを恐れていません。日本も男女問わずそういう人が増えればいいなって」


とも言っている。

昨日の記事でもふれたように、フランスのセクハラはギャラントリーと表裏一体の伝統があって偽善的だと言われている。女性をリスペクトし、崇めたり、守ったりする騎士道以来の精神やら宮廷のマナーやらも引きずっている。

でも、詩織さんの気にいるような「パリのすてきなおじさん」たちってどんな人だろう。

興味を持ってアマゾンのレビューを見たら、みな高評価でこういうのがあった。

>>あれだけ多くのパリジャンたちを眺めていても、「ふむっ」となるのは移民のおじさんたちばかりというのも非常に興味深い。彼らは深いしわに刻まれた年輪以上に想像を絶する歴史を抱えていたりする。若者おじさんでも、笑顔の奥で深い哀しみをたたえていたりする。彼女は取材相手に寄り添い、その眼はとてもあたたかい。受け入れて共感してもらえると、取材相手も心をほぐす。最後には「孫娘になったような気持ちで」おじさんに肩を抱いてもらう。<<

ええっ、移民のおじさんたちなのかい、

で「最後には『孫娘になったような気持ちで』おじさんに肩を抱いてもらう」のかい。

具体的には

50歳のハゲのクスクス屋のおやじ、かたや92歳の競馬場通いのおじいさん」

などだそうだ。


うーん、この本は読んでいないから何とも言えないけれど、もうチョイスからして突っ込みどころが多すぎだ。こんな人たちはきっとそれぞれの「人生の達人」かもしれないけれど、パリからでも詩織さんを支援するために声を上げてくれるおじさんたちはこんな人たちではないよ、とは思ってしまう。

私がよく知っていて何十年も付き合ってきたパリのおじさんたち、のことを考えてみると、昔は、日本だったらどうだろうなとよく比較したものだが、一番の違いはやはり「世間の目」というやつに落ち着く。

絶対的に弱者の側に立つ「すてきなおじさん」は日本にもフランスにも一定数は必ずいるけれど、日本では弱者の側についただけで自分までいじめの対象になってしまったりすることがある。弱者の側に堂々と立つのが許されるのは特別強い人だけ、という奇妙な現象もある。

このところ、もちろんワインスタイン事件の影響もあるのだけれど、フランスではフェミニズムの本質にかかわるいろいろな議論が起こっている。両親が別れた場合の子供が基本的に両親のそれぞれの家で半々過ごすようにすることなどだ(今は70%ほどが母親の家をメインに暮らす。このことを差別だと父親が訴えている)。昨年ようやく日常必需品として消費税に相当する税が20%から5,5%へと下げられた生理用品を基本的に無料で配布(避妊具の無料配布は存在する)するべきだとか、高所得家庭の子育て支援金を減らしたり撤廃したりすることの問題などだ。(フランスにおける、無差別の子育て援助は、単なる社会福祉政策ではなく、「子供は社会全体が育てる」というメッセージだからだ。)

それにしても、数あるマイノリティ差別の問題でも、実は一番複合的で複雑で、逆説的なのが女性差別なんだろうなあ、とあらためて思う。


by mariastella | 2017-11-25 02:27 | フェミニズム

命を狙われて生きるということ

テレビのインタビュー番組で、2015年のシャルリー・エブド襲撃テロ以来、ジハディストからひどい言葉で「死刑宣告」を受けているフランス人とモロッコ人のハーフの女性ジャーナリストで宗教社会学者のZinebが話しているのをみた。

カサブランカ生まれで、彼女の共同体のイスラム教が女性を劣位に見なしているというその一点で、早くからイスラム教を丸ごと捨て去ったという。
すごく明快だ。

純潔を守って善き妻となり金曜日ごとに夫の家族をもてなさない女は、即「遊び女」とみなされる。
17才半でモロッコから抜け出した。

宗教社会学などはパリで学んだ。
モロッコの刑法ではラマダンの期間にムスリムが正当な理由なしに公の場所で飲み食いすると罰金と6ヶ月の懲役が制定されている。それに抗議して2009年に、ラマダン中にピクニックすることを呼びかけるなどの活動で官憲に追われ、スベロニアに亡命し、シャルリー・エブドに記事を書くようになった。

当時のシャルリー・エブドは破産寸前の苦しい経営だったけれど、編集長のシャルブらが自分たちの給料をカットしてまでZinebを正式に雇い入れてフランスに招いたのだそうだ。

それは初耳だった。

テロの日はカサブランカにいて襲撃を免れたが、「ムスリム女性」(父親がムスリムのモロッコ人なので自動的にムスリムとなる)でありながら冒涜的なシャルリー・エブドに加わっているのだから、過激派にとってはZinebは万死に値する。

で、2015年に生まれた娘を抱える身で、身の安全のためにパリのアパルトマンを転々としながら外では完全に警護されて暮らしている。

「一歩外に出たら自由ではない」という逆説的な状況。

まだ35才だ。

人はどの時代にどの国に生まれるかは選べない。

私は生まれた国には住んでいないが、不思議なことにあまりカルチャーショックがなかった。

日本にいた頃に主婦連だとかウーマンリブとかいう活動は知っていたが、身近の女性はみな不当なくらいに優雅に暮らしていた。女性であることはちやほやされることはあっても、社会の中で差別に向かい合うほど長く日本にいなかった。
日本の社会に女性差別があるのは分かっていたけれど、それは分かりやすい「宗教」の文脈などではなくて、漠然とした同調圧力みたいなものだったから、「戦う」とかいう対象にはならなかったのだろう。

でも、フェミニズムにかかわることで「死刑宣告」を受ける文化があるのだ。

フランスのテロはその後「無差別テロ」や「警官、軍人」を標的にしたテロへとシフトしていっているので、私たちは「シャルリー・エブド」事件の記憶を風化させてしまっている。

名指しで死刑宣告された一人の女性は、もう大勢の同志と「連帯」して通りを行進することはできない。

昨日の記事で書いたACT UPの若者たちも、エイズという病によって理不尽に死を宣告されたが、団結することはできた。

Zineb女史の孤絶を思うと愕然とする。

by mariastella | 2017-09-07 02:50 | フェミニズム



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧