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L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:死生観( 17 )

日本の総合週刊誌の「終活」記事ブームに違和感

私がフランスにいながらネットで日本の100冊以上の雑誌を読める環境になってから数年経つ。

もちろん全部を読んでいるわけもないけれど、いわゆる総合週刊誌のジャンルは、何となく毎週タイトルを俯瞰する癖がついた。

日本の「話題」を知りたいこともあるけれど、去年あたりからなんだか医療や薬や食習慣や食べ物に関しての「啓蒙」、というよりセンセーショナルな「警告」記事が目立つようになった。今時、新聞や週刊誌を読む人は中高年が中心だからだと思うけれど、その他は、健康管理や運動の記事、老年の貧困に陥らないための資産運用とか資産管理の話、よい老後施設の選び方、などが続き、さらに、90代の親を介護しなければならない60、70代の前期高齢者あたりをターゲットにしたさまざまな「用意」や「手続き」のガイドから、あからさまにいうと「親が死んだ時に損をしない方法」のようなノウハウが「終活」の名目で紙面を席巻し始めた。

私が最近参照した本にアンリ・ド・ルメリー編の『シンボル、聖性、そして人間』がある。
彼は、10 歳の時、D.H.ロニー=エネの『火の戦争』(映画化もされている。邦題は『人類創生』)を読んで、考古学・人類学者になることを決意して、数々の発見をした学者だ。その彼が、人類の進化とは即、「死」の拒否だったと言っている。
それは「死」を意識しないというのではなく、「死」を「未来の生」の出発点として埋葬や葬送儀礼が生まれたこと、そして、美、アートもすべてその、「現世」を超えた「聖なるもの」とつながっていることだ。
また、「介護」自体もその次元に属する。95000年前のアッシリアの墓所を発掘した時に、ある老人と9 歳の子供の遺骸を調べると、老人は歯がなく自力で物を食べる能力がなく、子供も、自力で生き延びることのできない状態で、何年か生きていたことが分かった。つまり、先史時代から、人には、「弱者」を切り捨てるのではなくアシストする文化があったということだ。そして、ついに死が訪れても、次の生や再生の準備を怠らなかった。
そしてそこにはいつも「アート」が伴う。
古代遺跡の洞窟はすべて聖所であり、洞窟壁画は聖なるアートだと彼は言う。
石器時代に武器として削られた石に、シンメトリックな両面の刃がある。明らかに「実用」のための両面刃ではなく、「美しい」からそういう形になった。
ヒトは道具だけでなく「美」もクリエイトした。

そうやって文化を継承し、「歴史」を刻むまでになった人類が、いつのまにか、科学性や合理性の名のもとに「死後」をないことにし、ついでに死もないことにした。
で、例外的な戦争のない世代が消費社会を謳歌した後で大挙して高齢者となる時代にまた「死」が登場したわけだけれど、それ介護や葬儀にまつわるコスパや「お得な情報」「実用」という囲い込みをされている。(さすがにそれだけでは対応できないということが誰にでもわかる災害や事故や犯罪の被害者にスポットがあたる時だけ、「宗教」にもスポットがあたるのだけれど、それはそれでカルトなどに取り込まれるリスクもある。)
これはもう、人類のアイデンティティにかかわる倒錯的な事態だと思う。

「健康ブログ」と化している『たかが、肩』にも関連記事をUPしたのでどうぞ。




by mariastella | 2019-03-24 00:05 | 死生観

死後の世界って

前の記事から続く一神教の神学者たちによると、一神教における本来の「永遠」というのは、線的ではないということだ。
よく、多神教、汎神教的世界観は季節のように循環するけれど一神教では世界が神によって創造されてやがて世界の終わりが来るので線的で、まあそれが「進歩主義」を生むことになった、ひいては経済や生産性の「成長主義」も生んで、そのせいで環境が破壊された、などという言説がある。
実際は四季のある場所は多いし、穀物や果実の収穫も毎年循環するのだから、一神教のお祭りも、夏至や冬至などのリズムを踏襲している。

そして、「世界の終わり」と言っても、実際はこの世のあり方から神の世界でのあり方にシフトするというイメージだ。

永遠とか無限とかいうと遠さや長さを連想するけれど、一神教の考えてきた「永遠」とか「あの世」とか「神の国」には、過去もないし未来もない。上と下もないし前と後ろもない。カトリックの聖人崇敬でも、いったん神の国に入った聖人たちは、この世の人に起こる奇跡に介入したりできるけれど、そこには時間軸がない。例えば、今ここである人を助けてくれる聖人はまだこの世に生まれていない未来の聖人ということもあり得るわけだ。聖人の名をずらずら並べる連祷というのも、形としてはそれぞれの聖人に思い入れを託すとしても、実は集合的なあちらの世界の全体に働きかけているのだとも言える。

昔、台湾の方が、彼の家族の道教の考え方では、死者は別の多分地下の世界のようなパラレルワールドで整然と同じような暮らしをしていると思われているのが腑に落ちない、と言っていた。死者が海の彼方や山の彼方で「暮らしている」という考えは日本にもあったし、ケルト地方にもあったし、盆や正月やハロウィーンなどに例外的に「戻って来る」のを迎えたり送ったりする習俗もある。もちろんヒンズー教世界で生まれた仏教のように、魂が輪廻転生で生まれ変わり続けるというのもあるし、その度に「前世」のメリットによってステージが上がってついには輪廻を脱出して成仏するという考えもある。「自分の魂ファースト」を目ざす新宗教もある。

そんなことをこれまでいろいろ調べてきたし考えてもきたけれど、時間と空間の中の位置関係に縛られている「この世」に対して、時空と関係のない「あの世」が存在すると考えることが、実は私が過去に体験してきたことと一致している。

その「あの世」とは、「死後」の世界とかパラレルワールドではなくて、今ここに、私たちの世界を包んでいるものだ。私たちは生きている間はそれを時空の系列、時空の枠でしか認識しないけれど、実は、一瞬だけ凝縮してエントロピーを減らしているだけで、「あの世」も同時に生きている。幼児や老人や重病からの帰還者たちにはそのつながりが強かったり、「この世」のほころびから「あの世」を感じる人も出てくる。

昔、透視能力についてそのような実験結果をうかがったこともあるけれど、そんなにオカルトな不思議な話ではなく、納得できるものだった。まあ、普通の生活に追われている分にはそういう話は不都合な雑音かお花畑の夢物語かだろうし、「この世」での生命力の弱っている人に対してたまにそういう話でつけこむ輩もいるのだから、バランスをとるのは難しい。

でも、結局は、世に言う「死生観」とは、「死」と「生」の関係でなくて、その二つを包含する何かについてのビジョンなんだろうなと思うこの頃だ。

by mariastella | 2018-12-26 00:05 | 死生観

死の意味から生の意味へ

先週の週末、オスタド・エラヒ財団が主催する「人類連帯の日」17回目のセミナーに出席した。テーマが「死の意味から生の意味へ」というもので、今『超死生観』を書いているところなので何かヒントになることがあるかと思ったのだ。

これがプログラムの表紙
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発表者はプロテスタントの神学教授、ロゴセラピー(実存主義精神分析)の実践者、臨死体験とベルグソンを語る心理学者、「転生」の研究者など多彩。
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場所が、またすばらしく、17区のモンソー公園に接するSimon et Cino del Duca財団の建物。
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このあたりの建物はみな趣がある。
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セミナーのステージはバロックのコンサートにぴったりだなあと思う。
音響もよさそう。
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テラスからはモンソー公園の緑も見える。
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主催のオスタド・エラヒ財団の名は、イラン出身の哲学者、音楽家、神学者の名だ。
ユニヴァーサルの知恵についての格言を息子がフランス語に訳した文庫本を売っていたので購入。
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レンヌ大学出版のこの2冊の本も買った。
神秘体験を学問の形でどう語るか、というものと、狂気と超常現象の臨床的アプローチについての本。死生観とは直接関係がないけれど、この日の発表者が執筆したものだ。
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セミナーの内容についてはこれから少しずつコメントしていこう。
数日後にはこの財団のサイトでも録画が公開されるはずだ。
ネット録画を利用すれば今は、あらゆるところの興味深い講演を聴くことができるけれど、録音と生演奏の違いと同じように、実際に出席すると、受け取る側とのインターアクションが生まれるところが最大の違いだ。

ここの所からりとした晴天が続いているので、台風続きの日本のことが思いやられる。

by mariastella | 2018-10-04 00:05 | 死生観

『超死生観』

先日、健康ブログ、死生観ブログと化した、五十肩と代替療法の『たかが、かた(肩)』の月イチ更新をした。

いま書いている途中の『超死生観』という本は、一応は、「死が視野に入って来た高齢者の生き方を変える」目的で書いているのだけれど、今、「死者との交信」だとか、「殉教者としての死」とかの宗教的文脈や心理学的文脈を考察しているところだ。

日本語の言説を見ておこうと思ってググっているうちに『人は死なない』なんていう集中治療医の本が存在していることも知ってびっくりした。

フロイトが、人は誰でも、潜在意識の中では「自分は不死」だと思っている、と言っているが、なんだか妙に納得させられる。
「人は死ぬ」けど「私は死なない」んだなあ。

生きているうちに、できるだけ人の役に立つものを書きたい。
「普遍的なもの」と言いたいところだけれど、この頃は、50年後くらいを視野に入れて書いている。
私の同世代や上の世代の人でも、同じような視座を持って発信している人に共感する。
今の地球の異常気象やら各種殺戮兵器の性能向上などを見ていると、これからの50年を持ちこたえなくては普遍も何もあったものではない。

それとは別に、AIはどこまで人間性を獲得できるのか、人間にとって代われるのか、みたいなことについて、ここ数年、「目からうろこ」のようなケースをたくさん見てきたので、それについて別ブログで書いてみた。

このブログの番外編としてどうぞ。









by mariastella | 2018-09-16 00:05 | 死生観

フランスの最高齢者シスター・アンドレ

この2月11日114歳になる愛徳姉妹会のシスター・アンドレは、現在フランスの最高齢者で、聖職者の世界最高齢だそうだ。


1944年にパリのバック通りの愛徳姉妹会に志願者として入会し、各地で活動し、104歳までは、サヴォワの修道院で飛び跳ねていて、毎朝6時には、チャペルの祭壇に飾る花を庭で摘み、他の高齢者の車椅子を押しながらみなを笑わせていたのだそうだ。

2009年からはトゥーロンのカトリーヌ・ラブレー(バック通りで聖母マリアのご出現に出会い、「不思議のメダイ」を世に出した聖女)ホームにリタイアした。
今は眼も脚も悪くなって、毎日、イエスに祈りながら、


「私を迎えに来るのに、何を待っているの ?

私のこと、忘れたの、見捨てたの?

私は早く会いたいのに、私に会いたくないの?

と文句を言っているという。


そういえば、今でも人類最高齢記録保持者のフランス女性ジャンヌ・カルマンさんの122年の生涯を書いた本の題名も「神に忘れられた人」というものだった。

日本でも、神さまか仏さまかご先祖さまだかに「そろそろお迎えにきてください」とお願いするという表現があるけれど、あちらの世界でやっと神さまに会える、と希望を持っているカトリックのシスターが「もうそろそろ」と思うのは、何歳くらいでどういう心身の状態なんだろう。


ジャンヌ・カルマンさんのいたアルルの公立高齢者施設は今、彼女の名前を冠されている。120歳の時のTVドキュメンタリーの後で、医学者たちの好奇の対象になったので隔離したら、退屈して衰えたとも言われている。

その点、愛徳姉妹会の養護施設は充実しているし、「姉妹たち」に囲まれているし、シスター・アンドレさんも「すごくよくしてもらっている」と言っているので、ひょっとしてこのまま「神に忘れられた状態」が続くかもしれない。

私の一番なかよしのシスターは98歳で亡くなったシスター・クレールだった。

彼女については何度も書いている。

やはり愛徳姉妹会。

フランスの愛徳姉妹会でも日本の愛徳姉妹会でもコンサートをした。

2003年に日本の養護施設「聖家族の家」での最初のコンサートを聴いてくださった日仏ハーフの96歳のシスターは、たしか104歳くらいまでお元気だったと思う。

私にとってご縁の深い愛徳姉妹会のシスターが今フランスの最高齢者なんて、根拠も意味もなく誇らしい気がするのは自分でもおかしい。


思えば、創世記(6,3)に

>>>主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった<<<

とあるから、シスター・アンドレも120歳までは「お迎え」を待たなくてはいけないかも。


というか、それまでは、「主の霊」はシスターの中にあるのだから、どうぞ、お大事に。


by mariastella | 2018-02-07 00:05 | 死生観

猿でもわかるパラダイス その15 (終わり)

15 世界の終わりはいつ来るの ?

福音書は「その時」を注意して待つように促しています。

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ 25,13)とあります。世界の終わりを告げるキリストの再臨(παρουσία / parousía)は信仰上の確信でしたが、その「時」が分からないので、初期のキリスト者の共同体はそれが間もなく起こることだと考えました。黙示録の描写はそれを詩的に表現したものです。それ以来、多くの説教者が、聖書に根差したさまざまな計算法を駆使してその「時」を予告しようとしてきました。「至福千年派」が予告した1848年のものが有名です。そこからは、セブンスデー・アドベンチスト教会のような有名な新宗派が生まれています。

Sekkoのコメント 

うーん、20世紀の終わりに流行った「ノストラダムスの大予言」もそうだけれど、こういう「世界の終わり」系の脅し言説マーケットは苦手だ。『陰謀論に騙されるな』でも書いたけれど、陰謀論と終末論は兄弟みたいなものだ。

「世界の終わり」も「ある特定の個人の終わり」も似たようなものだ。太陽にも寿命があるから地球にも人類にももちろん終わりがあるし、それよりずっと前に個々の人間は等しく「終わり」を迎える。これを読んでいる人はすべて確実に100年後は生きていないだろう。

終わりがあるということを意識して「目を覚ましていなさい」というのは分かる。

「人生は一度しかない、と悟った時から新しい人生が始まる」というやつだ。

とりあえず、あまり壮大なことは考えられないので、21世紀に生まれた若者たちの世代によりよい環境を残す、というのを意識して余生を過ごしたい。

自分も含めて、どういう生き方をした人がどういう人生の納め方をするのかにも興味がある。

ユダヤ=キリスト教においては、旧約聖書の初めあたりでは、ノアの箱舟のノアもそうだけれど、長生きは「報酬」の一種だった。夭逝は懲罰の一種だ。日本の神道のように死は穢れのひとつで、共同体の誰かが死ねば、その日のうちに埋葬し、残った人は服を裂き、断食し、灰を被った。それが『ダニエル書』あたりではじめて「死後の世界」の信仰が登場する。

『第二マカバイ記』で「死」は神の慈悲の采配の範囲となった。

「死者のための祈り」が生まれた。


人と死者と神の関係の進化ってすごく人間的だ。


by mariastella | 2017-10-31 00:05 | 死生観

猿でも分かるパラダイス その14

問 14  復活は転生とは両立するの ?

転生を信じるということは、同じ魂が「再生」のサイクルの中で次々と複数の肉体を生きると信じることです。「復活」はそうではありません。復活の考えでは、私たちは肉体の死と共に地上での生き方とは別の生き方を始めることになり、それは最終的なものです。

Sekkoのコメント

以前『ヨーロッパの死者の書』の中で書いたことがあるけれど、夭折した子供の「転生」みたいなものを教会が例外として容認する場合も実際には存在した。

まあ、神さまは全能なのでその気になればなんだってしてくれる。新しく生まれた子供がその前に亡くした大切な人の「生まれ変わりだ」と思って慰められるという人間の感情が普遍的にあるのだとしたら、そういう必要に対応するのが宗教の知恵だともいえる。


日本の仏教だって、亡くなった人たちが49日後にどこかに転生してしまったと思うよりも、誰でもちゃんと「成仏」して、または「極楽」に行って、生きている人を見守ってくれる(しかもお盆に戻ってきてくれたり‥)という方向で根付いた。


「転生」は、どこか遠くに行ってしまったり、ステージの低い動物だの虫だのに「格下げ」になってしまったりと考えるのは嫌だけれど、愛することのできる身近なものに「生まれ変わってくれる」と考えられるときに慰めになる。


私にも死んでしまった愛猫が存在の形を変えて私と共に生きていると思える気持ちと、49日後に生まれた子猫をさがして生まれ変わりだと思いたい気持ちが両方ある。

愛の形を継承、再生するという意味では、その二つはひょっとして両立するのではという気も、しないではない。


by mariastella | 2017-10-30 00:05 | 死生観

猿でもわかるパラダイス その13

問 13 復活って結局なあに ?

「肉体」の復活を語る時、キリスト者の信仰は、ある人格がその全体性の中で生きる新しい命のことを宣べています。人間とは、肉体の牢獄に閉じ込められた霊魂ではありません。もし私たちの霊魂だけが神のもとに行けるというなら、それは私たちそのものではありません。私たちの肉体は、その物質的な構成においてはそのまま「よみがえる」わけではなく、塵にかえるでしょう。ですから、肉体の復活というのを死者のよみがえりと混同してはいけません。教会は火葬を許可しています。

Sekkoのコメント

中世のカトリック世界では、信徒の火葬はもちろんあり得ないし(だからこそ異端者は火刑に処せられた)、最後の審判の時に復活するためのモデル像を棺の上に刻んだりした。

本家のイエス・キリストが、両手や脇腹の聖痕を残したまま「復活」したらしいのに、時にはもっとひどい殺され方をした殉教者たちは、死んだ後で傷が消えて美しい姿になっていたという伝説に事欠かない。誰でもゾンビのような蘇生の仕方はしたくない。

十字軍の遠征中に遠方で死んだ騎士などは、さすがに埋葬するために遺体を持って帰れないので、遺体を煮て骨だけを持って帰ったというような例もある。どこの文化でも、朽ちていく「肉」に比べるとそのまま残る「骨」に永遠を託すことのできるエッセンスがあるという考え方はあった。

まあ私は、霊魂だけが転生を繰り返してステージを上げていくとか、霊魂はもともと神から放射されたものが一時的に肉体にとらわれたものだというようなタイプの死生観には、前世の記憶がない限りあまり興味がない。霊肉セットとなった存在形態が別の次元にシフトして今の記憶や生者との関係性を保つことができるという考え方の方が抵抗がない。


by mariastella | 2017-10-25 00:21 | 死生観

猿でもわかるパラダイス その12

問 12 

リンボ(古聖所,孩所:洗礼を受けなかった幼児やキリスト降誕以前に死んだ善人の霊魂が死後に住む地獄と天国の中間にある場所)ってあるの?

リンボは、特に洗礼を受ける間もなく死んでしまった赤ん坊を受け入れる場所とされていました。カトリック教会は、神が彼らに恵みを与えないとするなどは考えられないと判断して2007年にそれを信ずる必要がないとしています。

Sekkoのコメント

この話を聞くと、思い出すのは、大学時代に見た映画『スケアクロウ』のラストの衝撃だ。妊娠していた妻を五年間も放置していた元船員のアル・パチーノが恐る恐る妻に電話すると、五歳の息子の傍らにいる妻は、子供を産む前に転んで死産した、洗礼を授けてもらっていなかったから子供は地獄に堕ちている、自分はもうすぐ再婚する、と嘘をつく。そのことに衝撃を受けたアル・パチーノは錯乱して、地獄に堕ちた我が子を救うかのように叫びながら、公園にいた子供を抱いて噴水に飛び込み、相棒のジーン・ハックマンに助けられる。

「赤ん坊が洗礼を授けられずに死んだから地獄堕ち」というのは、中世の話かと思っていた。中世でさえ、それではまずいから、形だけいったん蘇生させたことにして急いで洗礼を授けてから埋葬するという習慣があったことも知っている。

アル・パチーノだから、アメリカのイタリア移民でカトリックという想定だろうが、そんなに、錯乱するほどの衝撃なのかと驚いた。もちろん、望みをかけていた妻子との再会の夢が破れて、妻も子供も失った絶望が、「地獄堕ち」という言葉に集約されて増幅したのだろうし、妻も、身勝手な夫に子供を会わせたくないことと、不在に対する一種の「罰」として地獄堕ちなどという言葉(多分夫の泣き所だと知っていて)を口にしたのだろう。

それでも、1970年代半ば、20世紀のアメリカで、そんなことを信じているのだなあ、と印象的だった。そういえばやはり同じころ見た『ゴッドファーザー』のラストシーンもアル・パチーノが代父となった甥の洗礼式に出席しているところだった。ゴッドファーザーという言葉自体が代父(=洗礼親)ということで、イタリア系マフィアにおいて「洗礼」の持つが意味が大きいことは分かるのだけれど。

それにしても、2007年まで待たなくても、昔から赤ん坊には即地獄堕ちではなくて「リンボ」という場所があったのに、妻が「永遠に天国には行けない」と言ったことがこたえたのかもしれない。

天国にしても地獄にしても、様々な「あの世」の表象は、生きている人たちを愛や信頼で結びつけるものであればいいけれど、脅したり罰したり関係性や人間性を壊すものとして使われるのはよくないなあ。



by mariastella | 2017-10-23 00:10 | 死生観

猿でもわかるパラダイス その11

問 11  地獄に行くのはどんな人 ?

自分の中で「善」と「愛する心」を、修復不可能なまでに破壊してしまった人です。カトリックのカテキズム(要理)によれば、意図的に神を忌避しそれを最後まで貫徹する人ということです。なぜなら神は人を赦すことを決して拒否しませんが、赦しや救いを人に強制することもありません。赦しは受け取ることのできる贈り物なのです。

Sekkoのコメント

「自由意志」というやつだ。キリスト教のこういうタイプの解説を読めば読むほど、神さまが気の毒になってくる。勝手気ままな人間たちに、そむかれても、裏切られても、無視されても、嫌われても、懲りずに愛を捧げてくれるばかりの神さま。

確かに、こういう愛し方や愛され方を体験できたら、神さま、仏さま、と思いたくなる。


イエス・キリストもそうで、共犯にされるのをおそれて自分のことを知らないと三度も言った弟子のペトロのことも、彼が後悔しただけで赦したが、自分を裏切ったユダは赦しを請わないで自死した(ことになっている)ので、地獄に堕ちたなどと言われている。

でも、自由意志というものがどこまで自由意志なのかは実際よく分からない。


幼いころに受けた虐待などのトラウマのせいで愛する心や愛を受け入れる心を破壊されてしまった人もいるかもしれないし。


背を向けながらも背中で「助けて」と言っている人、「無理やり」にでも赦したり救ったりしてくれるのを待っている人もいるかもしれないなあ、と思う。


まあ全能の神なら本音を汲み取ってくれるのかもしれないけれど。


by mariastella | 2017-10-22 00:15 | 死生観



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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