L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:沖縄( 11 )

沖縄を考える その10

沖縄に行ってからひと月経った。

まだ書いていないことの方がたくさんある。

沖縄で実際に行ったり、見たり、聞いたり、説明したりしていただいたことで、ますます、他の方や他の時代の沖縄についての論考を渉猟するようになった。

だから、考えをまとめるよりもどんどん深入りすることになっている。

私は今、ベトナム戦争でも兵役拒否をしたアメリカ人のウェイン師を新司教に持つ沖縄のカトリックと、韓国のカトリック教会などのつながりに、東アジアの平和への希望を見出そうとしている。
それなのに、そのような取り組みを、「反日」やレイシズムのヘイトに満ちた言葉で攻撃する人もいることも知るようになった。

でも、政治的などんな偏見やら思惑よりも、実際に毎日、「基地の島」の現実から被害を受けている人々の生き方、あり方を改善することが先決だと思う。

ライプニッツは、カトリックとプロテスタントの三十年戦争によって荒廃をきわめたドイツの現状を見て、キリスト教の宗派対立を調停するという道を選択した。モナドロジー(単子論)が生まれた。
人口の四分の三を失い、農業、商業が壊滅し、社会のモラルが失われた当時のドイツ社会を立て直すために、もはや宗教的な物語を利用することはできない。それこそが社会の荒廃を引き起こした本質的な理由だからだ。

(これは今のイラクで、もうスンニー派とシーア派の色のついた政党ではなく政教分離の民主政党を立ち上げる運動があるのと通じる)

そこでライプニッツは、自分たちの「絶対」を掲げる宗教ではなく、どんなものでも見方によって変わるという相対主義を唱えることになった。

ライプニッツは、ある町をどの角度から見るかによってその町のイメージがまったく違うことを例に挙げる。
見る人の視点だけ町がある。
ちょうど「群盲象を撫でる」と同じだ。「実際に触れた」ことから来る確信など、全体の真実にはつながらない。

けれども、町を取り囲む要塞の壁の前にたたずむ人と、中心部の丘に建つ塔から町を見下ろす人では情報の質も量も雲泥の差であることにライプニッツは注目する。

できるだけ多くの角度、多くの要素を取り入れるのも大切だけれど、絶対に見ることのできない盲点は常に存在する。

町を最もよく見はらすことができるのは「神の視座」である。
人間が神の視座に到達ことはできないが最終地点は必ずあるという意識が、この世界やモノや他者を「よりよく」見ようとすることを促す力動を生む。

ライプニッツの結論は、「真実を求めるエスプリにとっては、進歩は決して終わりがない」ということだ。

相対主義ではない普遍主義はいつも「神」と関係がある。

相対主義で、敵対するどちらの側にも一理ある、とおさめるのが便利なこともある。「どちらが悪いか」という裁きは難しい。

けれども、たとえば、ある共同体に人身御供や障碍者抹殺などの「伝統」や「文化」があったとしても、外部の者がその「多様性」に驚いていた時代から、今では、個々の文化や伝統にかかわらず、「すべての人の命の尊厳が守られるべきである」という「絶対」善がコンセンサスとなってきた。

神の視座の普遍主義というのは、宗教の教義や宗派のトップの判断などとは関係がない。
個々の人間や風土を異にするさまざまな共同体にとっての「正義」だの「善」だのを超えた普遍的な視座がどこかにあること、そこに到達することはできないけれど、「よりよい」ものを求めるという選択は必ずあることを信じ、期待することだ。

ライプニッツの「町」と同じで、私がたまたま立った地点からだけで「沖縄を考える」などと大それたことは言えない。
同じように、「沖縄」の不条理だけを見てイランやシリアやアフリカや、世界中で起こっている不公正や不条理を語ることはできない。

でも、あらゆる不公正のある場所には、いろいろなレベルで苦しんでいる生身の人たちの毎日の生活がある。

私の「沖縄を考える」は、そこに絶えず回帰しながら続いていくだろう。

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by mariastella | 2018-05-30 00:05 | 沖縄

沖縄を考える その9 野國総管と唐芋

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これは、嘉手納町の駅の前にある「唐芋」を伝えて琉球や日本を飢饉から救った野國総管という人の銅像。ぜひ写真を撮って広めてくださいと言われた。
左手に持つのがイモ。

日本で「サツマイモ」と言われ、普及させたのが甘藷先生、青木昆陽とされているのは間違いだから、と。

1605年に救荒対策として荒地でも育つ芋の苗を明から持ち帰った野國総管を記念して、「野国いも」と呼ぶことが、唐芋伝達400年記念の2005年に嘉手納で宣言されたそうだ。

だから野國総管は、それ以来、日本全土を飢饉から救った恩人だ、と言う。

沖縄の「薩摩」に対する悪感情は分かるから、何よりも、サツマイモと言う呼称が気に食わないのだと思う。青木昆陽の名が広く知られていることも。

でも、青木昆陽の名は確かに「習った」けれど、別に「恩人」と刷り込まれてはいない。青木昆陽にたどり着くまでに唐芋は、琉球王からから種子島に寄贈され、薩摩や瀬戸内海に広がり、100年以上経ってから儒学者の昆陽が文献を見て薩摩から取り寄せたと、Wikipediaにあったから、別に、呼称とか手柄にこだわったわけではなさそうだ。

中国との交易や地理的関係から見ても、沖縄の方が九州よりも先に文物を取り入れると言うのは不思議ではない。
野國総管が嘉手納に分骨されて宮も建てられ毎年祝われているというのは、この人が、飢饉対策などで先見の明を持つ優れた為政者だったからだろうし、産業振興の恩人だっからだと言うのはよく理解できる。

でも、いつの時代のどこの誰の功績が後々の出来事の「出発点」だったかと決めるのは難しいし、恣意的でもある。

私がなんとなく分かるのは、フランスに住んでいて、私が「日本のもの」だと認識しているものをフランス人が中国のものとか韓国のものだと見なしていると、直接関係もないし、実際の由来も知らないにもかかわらず、なんとなく不愉快だとか不当だと感じてしまうからだ。
パリの韓国料理レストランで、フランス語で「韓国料理」というタイトルのりっぱな写真集の表紙が「巻き寿司」だったのを見たことがあるが、その時の感覚だ。

それとは逆に、長い間「外国」に暮らしていると、どんな文化だって色々なところから伝わって進化したり特殊化したりするのだから、時にはその中の普遍性に感嘆したり、時にはヴァリエーションやハイブリッドを楽しんだり、時にはその好き嫌いによって自分自身の立ち位置を発見したりすればいい、という心境もある。

でも、搾取したりされたり併合したりされたりの歴史のある地域間では、先取性がアイデンティティと切り離せなくなることもあるだろう。

空軍基地のある嘉手納だからこそ、めぐりめぐって、野國総管の重要性が拠り所になるのかもしれない。ちなみにフランスはジャガイモの国だけれど、ジャガイモが「新大陸」から来たことはみんな知っている。オランダ船がもたらしたというジャガイモも日本の飢饉対策となった。

20世紀のフランスの飢えを防いだものにはキクイモ(これもアメリカ大陸由来)がある。
種まき、苗の植え替え、刈り入れなどが大変な穀物と違って、イモって確かに飢饉に強そうだし、洋の東西を問わず、品種改良が続けられた歴史にも敬意を評したい。





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by mariastella | 2018-05-27 00:05 | 沖縄

沖縄を考える その8 沖縄の新聞(追記あり)

沖縄では、いつも沖縄の県民の側に立ってぶれないことに感心している地方新聞2紙を、アナログで手に取ることができて感慨深かった。

琉球新報には「9条の行方ー沖縄から問う」というコーナーがあって、自衛隊明記についての記事があった。沖縄では、なんと、「復帰」前から憲法記念日を祝っていたという。
「復帰」すれば日本の軍隊を持たないという「平和憲法」が適用されるはずだ。
沖縄の人たちが望んで夢見ていたのは琉球処分以降の大日本帝国への「復帰」ではなく、基地を一掃してくれる「平和憲法」に合流することだったのだと思う。

でも、平和憲法も、復帰も、とんだ「看板に偽りあり」だったわけで、米軍基地の治外法権ぶりは変わらなかった。日本の「中央」にとっては、沖縄は琉球処分以来の戦略地点でしかなかったのかもしれない。

沖縄タイムスには、「語れども、語れども」という「うまんちゅの戦争体験」という連載がある。

私の行った日は「屈辱の日」の翌日だった。サンフランシスコ条約で日本が主権を取り戻したのに沖縄が切り離された日だ。
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同じ琉球だった奄美大島は鹿児島県になって切り離された。
復帰後も、沖縄県となったので、「高校野球」の応援で、奄美の人は琉球だったのに沖縄代表よりも今は鹿児島代表を応援してしまう、というエピソードも、単に笑って聞き過ごせない気がする。

その「屈辱の日」は、2年前にうるま市の女性が元海兵隊員の軍属に殺されて遺棄された日でもある。犯人と結婚していた女性や子供、その家族の人生も破壊された。
次の日は遺体が発見された日で、金武町(キャンプ ハンセンなど、基地が60%も占めている町だ)の発見場所(追記:恩納村から金武町に抜ける県道104号の道路沿い。この2年間、お菓子やお花や飲み物、メッセージカードが絶えたことはないという)には追悼のテーブルと椅子が置かれていた。
被害女性のご両親などがいらっしゃるのを、前町長さんが待っていた。

殺されるのはもちろん、米軍関係者による交通被害にあった人も、乱暴された人も、生き延びても心身の傷は消えないだろう。

話だけでは抽象的であっても、美しい花が供えられている前で手を合わせると、理不尽さや無念さが胸を衝く。
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by mariastella | 2018-05-26 00:05 | 沖縄

沖縄を考える その7

嘉手納空軍基地を見下ろせることで有名な道の駅「かでな」にも連れて行っていただいた。

展望台では、基地や戦闘機よりも、子供連れも含めてそれを見学に来る人達の熱気の方が印象的だった。私はあらゆる列車が好きな鉄道ファンやカーマニアの気持ちもあまり分からない人間なのだけれど、戦闘機マニアに心躍らせることは、本質的にリスクをはらんででいるのでは、と思わざるを得ない。

でも、集まっている若い人たちを見ていると、何か壮大なゲームを楽しんでいるように見える。ここから飛び立つ戦闘機が爆撃したり、訓練中に事故を起こしたりしていることなどへの想像力や記憶とは乖離した世界のような気がする。
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カメラが並ぶ。
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土産物屋?も、米軍グッズや戦闘機写真。オスプレイの写真も見える。
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駅と基地の間のわずかな場所(黙認耕作地)に畑などができているのもシュールだ。
でも、案内してくれている方は、実際にこの近くに住んで、戦闘機の爆音をずっと聞かされている人なのだ。

リゾートや観光ルートだけめぐっていると、このように、「基地問題そのもの」が観光の対象になっているところの存在を知らないままでやってきて去っていく人も多いだろう。(続く)

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by mariastella | 2018-05-25 05:22 | 沖縄

沖縄を考える その6    糸数アブラチガマへ

4月末、沖縄戦で日本軍の陣地や野戦病院としても使われたアブラチガマを案内してもらった。

このサイトに詳しい説明がある。

ここに各地点を360°見渡せる写真があるので、実感を持って追体験できる。

生存者の証言も載っていて、一つ一つ読んでいると、戦争の放棄と武器廃絶以外に人間の尊厳を守ることにふさわしいものはないのではないか、とあらためて思う。

それでも、実際に連れて行っていただいたからこそ、このサイトを開き、じっくり読むことになったのだから、「情報との出会い方」は決定的だ。

ガマへ降りるには懐中電灯とヘルメットが必要だった。

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実際何度か頭をぶつけた。

最近沖縄のニュースで観光地の階段が石灰岩で滑りやすく、足元に気を取られて頭をぶつけた人が出ているというのをネットで読んだ。

私はこのガマの翌日にそれこそ観光鍾乳洞である玉泉洞にも入ったのだけれど、ライトアップも完璧だし、「通路」の周りの鍾乳石はバッサリと切り取られている。

エスカレーターやエレベーターもあって、なんだかわたしが子供の頃に時々訪れた「昭和の鍾乳洞」の趣だ。環境保全意識の発達した今なら「?」というようなところもたくさんあるけれど、最近公開された「ガンガラーの谷」の鍾乳洞などは、さすがによくできていて、火をともしたランプを手渡されて「自然」風味が残されている。

「アブラチガマ」などは、まったく別のコンセプトだ。

多くの方が亡くなった「死」の場所であり「慰霊」の場所であるだけではなく、アウシュビッツの収容所が負の歴史遺産として保存されているように、二十世紀の戦争の歴史遺産であるからだ。

ポーランド人神父などがやってきて沖縄戦の悲惨さを聞いて、アウシュビッツのように保存していないのか、と言われた時に、沖縄では地上は焼き尽くされたので、地下壕しか当時の状況を残しておけるものはないと説明するのだそうだ。

広島では爆心地のいわゆる「原爆ドーム」が残されている。長崎の「被爆の聖母」のインパクトも大きい。 

アブラチガマでは、私などは転倒しないように最大の緊張感を強いられるのでそれだけで感受性がマックスになる。こんな危ないところに小学生たちも「平和学習」に来るなんて驚きだけれど、非日常感を味わえてさぞや印象に残ることだろう。

沖縄の地下鍾乳洞や縦穴の壕、その中で展開された悲劇、痛み、苦しみ、エゴイズムや差別(わかりやすい差別で安全な壕の奥から日本兵、住民、朝鮮人慰安婦という証言が残っている)などや、それでもなお存在した助け合いや生命力の発揮を思うと、アウシュビッツの記録を読むのと同じように「極限状態の人間」について考えさせられる。

でも壕の特徴はなんといっても「暗闇」の恐怖だろう。いや、証言を読むと、真の暗闇は、恐怖をも凌ぐ。

暗闇が駆り立てるのは光の渇望、色のある世界の渇望だ。

「生きること」と「光」は切り離せないのだなあと分かる。

「信仰の闇」を体験して苦しんだという聖人たち(マザー・テレサやリジューのテレーズや十字架のヨハネなど)の語ったことの意味が少しわかる。

「神を見失った」ことと、だからこそより「神を渇望する」こととは同じなんだろう。

「健康」だの「若さ」だの「親」だの、「失ってはじめて分かるありがたさ」と言われるものはいろいろあるけれど、視力が残っているはずなのに「光」を断たれることは、「ありがたさ」がどうとかいう次元ではない。ただただ、「命の渇望」なんだということが、証言者の言葉でよく分かる。

「戦争になってはじめて平和のありがたさが分かる」なんていう日を来させてはならない。


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by mariastella | 2018-05-24 00:05 | 沖縄

沖縄を考える  その5  ユタとノロと最初の切支丹

5/1に斎場御嶽やガンガラーの谷に連れて行ってもらった観光ハイヤーの運転手さん當銘さんには、ユタやノロについていろいろお話をうかがった。

どの地域にも一人いるユタだが彼も若い頃はまったく興味を持っていなかった。けれども結婚するにあたって、一家を構えるのだから、大人たちがしてきたことはすべてしておくように、と言われて、ユタのところにはじめて行った。

ユタは元グスクの近くに集められていたので、名前に「城」がつく人が多い。

彼の地域のユタは山城さんだった。家族の将来などについて一つずつ予言がなされるのだれど、彼の場合は、長男についてだけが不思議にあたっていた。怪我を予言された後で事故に遭ったというのだ。「予防できないのなら意味がないのでは?」と質問したが、ともかく、それからは、長男については何でも相談するようになったという。

子供たちも巣立って長らくご無沙汰していたが、最近妻が悩み事を抱えて山城ユタをたずねていった。すると、もう高齢なので、体力が持たないので霊媒はできないと言われて戻ってきたという。

「霊媒」としてお告げを聴く時の心は心身にとても消耗する重労働だからだそうだ。

ユタやノロの暮らしは代々共同体から支えられているけれど、今は後継者がいなくて大変だともいう。


共同体のおかかえ占い師のスタンスのユタと違って、巫女的な位置づけのノロの場合はもっとたいへんで、ノロが集中している久高島出身の人などは、本島で誰かと付き合っても、結婚話が出ると、「久高島出身」というだけでひかれてしまうので、なかなか結婚もできず、後継者もいなくなるそうだ。

もちろん基地についての話もいろいろ聞いたのだけれど、この方は歴史好きで、図書館から借りてきたという『首里城内の女たち』という本を貸してくれたので、車の中で読んだ。

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この中の第四話に尚灝王(しょうこうおう)の名吟というのが出てくる。


上下やつまて  中や蔵たてて

奪ひとる浮世  治めくれしや


国王や人民は困っているが中の役人たちは蔵を建てるほど利益をむさぼっている。実に治めにくい世の中だ


という意味だ。なんだか、実感がこもっている。


同じ本の中に、沖縄で迫害されたキリシタンの男の話があった。

『切支丹里之子』というタイトル。


山本秀煌の『近世日本基督教史』の中に、過去に琉球政府からベトラム(ベッテルハイム)の護衛につけられた青年が梁木につけられているのに遭遇したエピソードが引かれ、プロテスタントだけではなくカトリックの最初の信者もいたと書かれている。

1844年にフランス軍官アルメーヌ号で来球したフランスの司教フォルカード師がアウグスチヌス高という中国人の神学生を伴って泊村天久聖現寺に2年間留まって以来のフランス人宣教師たちの様子と洗礼を受けた立った一人の琉球人の話だ、


ちょうど、前の日に沖縄のカトリックの方々とお会いして、『キリスト教の死生観と沖縄における望ましい祖先記念行事のガイドブック」(沖縄宣教研究所――宗教と習俗委員会)という小冊子を読んだところだったので、興味深かった。


明治維新以来の、国家神道の押しつけと民間信仰とキリスト教の関係について、沖縄で起こったことは日本で起こったことの縮図のような部分がある。

これについてはまた別のところに書くことになるだろう。(続く)


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by mariastella | 2018-05-22 00:05 | 沖縄

沖縄を考える (番外)

これを書いているのはフランス時間で5/15

沖縄復帰から46年の記念日だ。

澤藤統一郎さんのブログに沖縄タイムスの記事が組み替えて引用されているのを読んだ。

ここにコピーしておく。

「復帰後生まれの人口が過半数を占め、米軍基地の形成過程を知らない人が多くなった。沖縄に基地が集中するようになったのはなぜなのか。

米軍普天間飛行場のように、《沖縄戦で住民らが収容所に入れられている間に米軍が土地を接収し基地を建設》したり、《本土から米軍が移転してきた》りしたケースがある。
共通しているのは日本政府が基地建設や米軍移転を積極的に容認していることだ。

在沖米軍の主力で、兵力の6割、面積の7割を占める海兵隊はもともと沖縄に存在していたわけではない。1950年代に反基地感情が高まった岐阜や山梨・静岡から米軍統治下の沖縄に移転してきたのが実態だ。

復帰後本土では基地が減ったが、沖縄の基地はほとんど変わらなかった。その結果、国土の0・6%を占めるにすぎない沖縄に米軍専用施設の7割が集中する過重負担の構造が出来上がったのである。

日米の軍事専門家らが認めているように、海兵隊が沖縄に駐留しているのは
《軍事的合理性》からではなく、《政治的理由》からである。

クリントン米政権下で駐日米大使を務めたモンデール元副大統領が普天間の返還交渉で、1995年の少女暴行事件で米側は海兵隊の撤退も視野に入れていたが、日本側が沖縄への駐留継続を望んだと証言している。引き留めるのはいつも日本政府である。

橋本政権下で官房長官を務めた梶山静六氏が98年、本土での反対運動を懸念し普天間の移設先は名護市辺野古以外ないと書簡に記している。本土の反発を恐れ沖縄に押し付ける論理である。

屋良朝苗主席は復帰前年の71年、「復帰措置に関する建議書」で「従来の沖縄はあまりにも国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用され過ぎてきた」と指摘している。46年後の現在も何も変わっていない。

辺野古新基地ができてしまえば、半永久的に残る。普天間にはない強襲揚陸艦が接岸できる岸壁や弾薬搭載エリアが計画され、負担軽減とは逆行する。米軍の排他的管理権によって国内法が及ばない基地ができるのである。

 基地が集中する沖縄で、生物多様性豊かな宝の海を埋め立て、基地を建設するのは明らかな禁じ手だ。

 北朝鮮情勢が劇的に動き始めている。日本政府は東アジア情勢を俯瞰する大局観をもって、辺野古新基地建設をいったん止め、海兵隊や不平等な日米地位協定の在り方を問い返す機会にすべきである。」

先日沖縄を案内していただいた時にも、技術を要する海軍や空軍は規律も厳しく兵のレベルも高いが、最も問題を起こしやすいのが海兵隊で、辺野古の基地も、海兵隊が増えることの懸念が反対の理由の中にあるということだった。

基地の資料を読んでいくと、沖縄の人々の痛みが伝わってきてよく我慢していられるなあ、とも思うが、現実には我慢しないで声を上げ続けているのがよく分かる。

でも、フランスに戻ってきてから、シリアでの惨禍に加えて、パリのテロや、パレスティナでのイスラエル軍の暴虐などの映像ばかり見せられて、茫然としてしまう。

全てに共通するのは、大きくて強い者が一貫して、小さくて弱い者を支配し、搾取し、尊厳を踏みにじる、ということだ。

考えてみると、世にはびこる「セクハラ」でも、結局は、人類の半数以上を占めているという意味ではマイノリティなどではないはずの女性に対して、一般に男の方がフィジカルに「大きくて強い」というただそれだけの理由で女性を支配したり襲ったりする連鎖の上に成り立っている。


運動場でのいじめから、大国が小国を脅し、大量破壊兵器を持つ国が民主的手続きを無視したり破壊したりする国際関係まで、一貫して「弱肉強食」の実態がまかり通っているのだ。

宗教者が唱え続けてきた利他だとか、助け合い、連帯、共生のスローガンだとか、過去の蛮行を反省し過ちを繰り返さないという歴史の学びなど一体どこにあるのだろう。

「大きくて強い者」が自分より小さくて弱い者に仕えるという原則、強さは弱さを支えるためにだけ存在する、ということを毎日毎日、何度も何度も、一人一人が自分で唱えなくてはいけない。

笑顔は大切だと思う。

でも、ついこの前まで悪魔のように見えていた金正恩の笑顔の外交を見ると、「優しい言葉をかけるよりももっと効果的なのは、拳銃を持って優しい言葉をかけることだ」と言ったアル・カポネの言葉を思い出す。すべての「平和条約」はアル・カポネのレベルと変わらない。

何年も前から何度も何度も繰り返してリンクしているヴェイユの言葉をまた自分のためにここにリンクしておこう。



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by mariastella | 2018-05-18 01:14 | 沖縄

沖縄を考える その4

(これはひとつ前の記事の続きです)

ハイヤーの運転手さんの話をいろいろ聞いて、沖縄の人が日常的に基地問題と向かい合ってきた歴史を実感した後で、リゾートホテルに戻る。

ホテルのスパで海藻スクラブマッサージを施術してもらう。
私の他にいたお客は中国人女性で、英語でやり取りしているが話が通じていない部分もある。
台湾からは直行便(沖縄行きではなく中国名の琉球行き)があるそうで、ホテルには台湾の方がとても多い印象だ。

施術してくれた若い女性は地元の人ということで、基地問題についてどう思うか、とたずねてみた。ハイヤーの運転手さんが熱心に話してくれたのでハードルが低くなったのだ。

すると、 

「基地があった方がいいか、なかった方がいいか、ということなら、私は、あった方がいいですねえ」

という答え。

「えっ? どうして?」

「カーニバルとかでいろいろな催し物があってダンスも見ることができるんです。」

「自由に入れるんですか?」

「身分証明書が必要で荷物検査はありますけど、友達といっしょに普通に入れてもらえます。時々イベントがあるんです」

「見物できるということ?」

「それだけではなく、ピザハットとかダンキンドーナツとか、外では食べられないものが食べられるんです」

なるほど。

「沖縄戦で亡くなったご親戚とかはいないんですか?」

「祖父とかは招集されてグアムに行っていて助かったみたいです」

「でも、沖縄戦の歴史とか習うんでしょう?」

「ああ、平和学習っていうのはありました。でも、基地はイベントがあるから、あった方がいいです」とにっこり。

明快だ。

ピザハットにダンキンドーナツ…。

その後に目を通した資料によれば、今の若い人たちの中には、大学生でもオスプレイという言葉を聞いたことがないとか、辺野古の反対運動のことも知らないという人もいるそうだ。

当の沖縄ですらこうだとしたら、「本土」の子供たちが沖縄の場所も知らないというケースも不思議ではない。

時間が経って記憶が薄れるとか、慣れてしまうとかいう以前に、歴史の継承について、何か大きな「質」的な転換が起こっているのかもしれない。

(続く)



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by mariastella | 2018-05-17 00:00 | 沖縄

沖縄を考える その3

まず、最初の観光ハイヤーの安慶名さん。


姓が沖縄っぽかったので、地元の人だと判断し、朝鮮半島の南北会談のすぐ後だったので、それを話題にふってみた。


「南北会談の平和宣言よかったですね、沖縄の人は歓迎しているでしょうね。北朝鮮のミサイル危機がなくなったら、もう基地も迎撃ミサイルも必要ないのでは」


というと、あっさりと、「朝鮮は関係ないです」と言われた。


「問題は尖閣ですから」と。


朝鮮戦争の時も、ほとんどは九州の基地から出撃したので、沖縄は限定的で、もちろん「特需」もなかった、という。


トラウマはなんといってもベトナム戦争だったという。最盛期には多くの兵士がやってきて来て、戻ってこなかった。治安も悪くなり、B52が飛び交うのを見て育った。

沖縄返還時は12歳だった。


復帰は嬉しかったが、「祖国復帰」の祖国という感覚はない。ただひたすら、基地がなくなることを望んでいた。復帰したら米軍がいなくなると思った。ところがそうはならず、むしろ増えた。怒りに震えた。


「祖国愛」などはない。祖国アイデンティティは親や祖父母の代で終わっている。

祖父母、叔父らは戦死した。自分は日本語教育を受けたが、親の時と違ってもう国家主義のない時代だったので、愛国意識もない。


中国との付き合いの方が長い。薩摩への悪感情は根強かった。

日本名と沖縄名と二つ持つこともある。琉球奄は奄美三文字姓が多いが、薩摩は奄美の性を一文字の中国風にして、幕府に対して独立国である振りをさせた。

農漁業に関わる民俗宗教行事はずっとあった。王は仏教徒だったけれど、知的なアプローチだった。(最初は漂着した日本の仏僧によって仏教を知った。後に朝鮮から大蔵経を譲り受けた。)
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年も統治してキリスト教が根づかなかったのは驚きだとアメリカ人がいう。

明治以来、神社もできたが、七五三とか初詣は今もするが、生活上の信心は昔と変わらない。豊作とか大漁を祈る。

Okidemaプロジェクトというサイトを読んできたのですが、と言うと、「ネット情報は保守も革新もかたよったものが多い」と言われた。じゃあ、辺野古の基地反対運動はどう思いますか、と聞くと、

普天間を変換してくれるという合意があるから辺野古へ移転だったのに、辺野古がいつまでもできないから、普天間は返還されない。

翁長さんは結局何もできなかった。

それならばまだ、自民党を通した方が政府に声が届く、だから名護市長戦の流れが変わった、

もう、辺野古の反対はやめて、ともかく普天間の返還を実現してほしい。毎日のリスクが大きすぎる、という返事だった。

「普天間の返還合意など守られるはずがない」という認識はないようだ。

とにかく、基地がなくなることだけが願いだ、という。

米軍基地がなくなっても自衛隊がそのまま使うのではと聞くと、自衛隊なら事故があっても調査もできると補償もあるし、規律もあるから話がまったく違う、と言う。もっともだ。


基地経済との関係はどうですか、と聞くと、観光産業が圧倒的に上まっているから、基地がすぐになくなってもまったく困らない、とのことだった。とにもかくにも基地がなくなってほしい。


首里城についていろいろ教えてもらう。

戦争で焼けたので、最初から残っているのはこの湧き水の竜の口だけで、

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そこから引いた水で作った池の上に鯉のぼりが舞っていた。

その池は各国の使節の接待に使ったもので、琉球国にはいわゆる軍隊というものがなかった、朝貢、接待と外交のみで生き延びていた、と言う。

軍隊がなく外交のみで処世していた国が「基地の島」になったとは本当に皮肉で気の毒だなあ、とその時は思ったけれど、15世紀に沖縄を統一した覇者の中山(ちゅうざん)の巴志は、もちろん武力で豪族たちを攻め破ったのだ。

それに、後で購入して読んだ『琉球王国の歴史(月刊沖縄社)』によると、1816年にイギリス艦隊が停泊して礼砲を撃った時は、「いざとなったら鐘を鳴らすから首里那覇の15歳以上の男子は竹槍を持って集まれ」と、王府は130年後の沖縄戦と同じ命令を発していたそうだ。

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(この本はすごくよくまとまっていて分かりやすい。これを読んでいると、沖縄という補助線なしに語られた今までの日本史って一体何だったのだろう、と思う。鎖国時代から、ペリー来航まで、歴代の中国王朝、台湾、朝鮮半島、欧米との関係など、沖縄を視野に入れることなしには大きなものがすっぽり抜けるのが分かる。今の沖縄県が日本の領土と領海にとって持つ意味も実感できると同時に、人間の自由な移動や交易の歴史とその保障の大切さがあらためて理解できる。)


観光ハイヤーを使う人の中には、戦跡を回る人や、基地関係の取材もあるそうだ。

秋の知事選の見通しなどもいろいろ話してくれた。

こういう政治の話でもすぐ答えてもらえるということは、沖縄の方はどなたでも基地問題についていつも考えていらっしゃるのですか、と聞くと、それは、日常的によく話したり考えたりしている、ということだった。

なるほど、さすが沖縄、と思ったのだが…。(続く)


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by mariastella | 2018-05-15 00:05 | 沖縄

沖縄を考える その2

4月の末、10数年ぶりで沖縄に行った。

前回は石垣島のリゾートホテルのニューイヤーイベントを挟んで母と一緒だった。

その時のホテル内の海水プールは、やはり母と訪れたザ・ウィンザーホテル洞爺リゾートのプールと並んで、日本国内で私の行ったリゾートホテルのうちで最高だったという贅沢な思い出がある。母はその数年前にもう沖縄本島のリゾートで新年を過ごしていたので石垣島にしたのだ。父が亡くなってから年末年始はホテルで過ごすようになった母とはいろいろなところに行った。

今回のホテルは恩納村のシェラトン・サン・マリーナというところで、改装したばかりということで快適だった。前のビーチが両側を囲まれている形になっていて、両側の突端に歩いていけるし、夕日も美しい。

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今回の沖縄行きは、ブログを通じて知り合った音楽家の方にお会いして沖縄の基地問題などいろいろなお話を聞くために決めたものだ。私は飛行機が嫌いなので、これまで、北海道に二度(そのうちの一度の「往き」は寝台車カシオペアのスイートを使った)、鹿児島に一度、沖縄に一度行った以外は、日本国内で飛行機に乗ったことがない。

だから、今回の沖縄行きはモティヴェーションが高かったといえる。

案内してくださった山田圭吾さんにいただいたたくさんの資料を、フランスに戻ってからようやく読み終えた。その中に、沖縄本島の美しい西海岸にはリゾートホテルがたくさんできて、海岸を囲い込んで地元の人が近づけなくなっている、ホテルはみな航空会社のキャンペーンと提供していたり外国資本だったりするので、利益は沖縄に還元されない、とあったので焦った。

恩納村にも特に言及されていて、地元自治体は下水道処理のための施設を作らなければならないし、環境を破壊されるだけで地元にとってマイナスが多い、とある。

でも、ホテルで働いている人たちはほぼ地元の人だったようなので、少なくとも、雇用を創出しているのだし、基地内雇用のような微妙な立場ではないから、と、自分で罪悪感を薄めることにする。

実際、今回、「観光」のためにお世話になった観光ハイヤーの運転手さんお二人と、ホテルのスパで施術をしてくれた若い女性は見な「地元の人」であり、いろいろなお話を聞くことができた。みな異なった立場でお話してくださったのが興味深い。

山田圭吾さんに案内していただいた話は別にゆっくり書くとして、まず、この三人の方から聞いた話をメモしておきたい。


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by mariastella | 2018-05-14 00:05 | 沖縄



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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