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L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:雑感( 526 )

飛行機の排出するCO2 その2

飛行機が排ガスでの地球温暖化の悪者だと非難されてから、ヨーロッパ内の移動を飛行機から特急列車に切り替えるのが一種、「意識高い」系のブームになっている。


そんなブームに迎合したのか、9/23 にNYの国連で演説することになっている例のグレタ・トゥンベリさんが、排ガスゼロのモナコ籍(モナコのカロリーヌ王女の息子ピエール・カシラギが提供)の帆船で、8月15日にお父さんと一緒に出発した。

ピルグリム・ファーザーズが「新大陸」アメリカへと出発したプリマスの港からだ。

私は彼女を見るたびに胸が詰まる。前にこういう記事を書いた。


BMW系の製造会社がスポンサーだそうで、ドイツのTAZ通信によると乗組員の1人は、NY に着くとすぐに飛行機でヨーロッパに帰国することがわかっているし、船をヨーロッパに戻すためには5名が飛行機でやってくるという。往復2ヶ月も海に出ていられる人など滅多にいないだろう。

彼女の帆船の位置情報はネットで誰でも追跡できるようになっている。


普通に考えても突っ込みどころが多すぎて、帆船の上でにっこり笑ってポーズをとるグレタさんを見るのも痛ましい。

anti@gretathunberg というプロフィールの医師もいて、グレタさんが完全に政治の道具になったことを 嘆いている。

国連のような舞台で環境保護を訴えた少女と言えば、1992年のリオデジャネイロのサミットでカナダ人の12歳のSevern Cullis Suzukiさん(日系?)がいる。



この人の現在の様子を最近見たけれど、ちゃんと問題意識を持ったまま活動をしている。


アスペルガーで選択的失語症を前面に出し、出すことができて、それが有利に働く、という時代の寵児となったグレタさんとは別もののようだ。


排ガスの量だけではなく、何をどのように使って消費して、誰の、そして何の役に立てるのか、までじっくり考えなくてはならない。





by mariastella | 2019-09-02 00:05 | 雑感

須賀敦子さんに思う

先日、友人のFacebookにリンクされていた須賀敦子さんのドキュメンタリーを観た。

https://www.youtube.com/watch?v=zHeSFJIAsE4&feature=youtu.be&

彼女は私の叔父と同じくらいの年代だけれど、日本で活躍したのは私がもうフランスにきてからだったから、作品を読んだことはない。

イタリアの話、カトリック、イタリア人の夫との死別、ミラノの書店、などというイメージくらいだった。このドキュメンタリーを観て、とつぜん身近に感じた。


私の母と同じく阪神間の出身だというのもそうだけれど、亡くなった時の年齢が今の私とそう変わらず、最後にフランスを訪ねてフランスのシスターの生涯を小説に書こうと決心した、と語る須賀さんが今の私と同年代だからだ。


今思うと、私の母は、神戸で育ったから「異人館」で英会話を習っていたそうで、戦争がなかったらT塾大学の英文科に行きたかったのに、とよく言っていた。私にとっては、「ああ、そう」という話に過ぎなかったけれど、終戦時に20歳だった母と、156歳だった須賀さんでは本当に運命が変わったなあ、と思う。

で、母は、終戦の二年後に結婚したけれど、須賀さんは洗礼を受け、聖心女子大に行き、貨物船でフランスに給費留学する。その2年間で「フランス人は理屈っぽくて」どうしても対等に話をしあうきっかけが誰ともつかめなかった、と失望したそうだ。

うーん。昔遠藤周作さんの追悼文にも書いたことがあるけれど、戦後にフランスに渡ったカトリックの日本人にとってのフランス文化やメンタリティのハードルの高さは、私の体験とまったく異質で想像を絶する。

そして、須賀さんがイタリア人と結婚したことで、知的な接触だけでなく「生活」というものを知ったことの強みについて番組で男性学者らが語っていたけれど、それにも違和感があった。

1960年前後のミラノでカトリック左派とつき合っていて、夫君の両親の家庭は貧しい労働者で、夫君のきょうだいも亡くなっていて、そういう環境に十数年いただけで日本に帰った。

確かに、ただの留学生の体験記とは違うだろうけれど、なんだかとても特殊な場所の特殊な時代の話だ。特殊の中に普遍は宿るという言葉はあるけれど、日本でこういう受け入れ方をされると何か不思議だ。

逆に、今、日本では「フランス人は日本人とこんなに違う」みたいな比較文化テーマの本がたくさん出ているけれど、「パリに住んで20年」でフランス人の家庭をこんなによく知っている、風の記事のほとんどには、えっ、それってただのステレオタイプでは ? ということばかりで、「あるある」と共感できない。

戦争のトラウマもなく、女性差別も経験せず、お気楽にフランスに住んで、多くのアーティストと交流があり、40年以上もあらゆる年代の生徒たちによって生活感をアップデートできて、しかもインターネットで国境も時差もない情報が得られる時代に生きている私は、こうも恵まれているのが非現実的で後ろめたい。

狭い意味で「異文化を伝える」というのはどうも私の仕事ではないらしい。


by mariastella | 2019-08-15 00:05 | 雑感

「8月は6日と9日と15日」をめぐって

8月に入ると、日本は二つの原爆記念日と終戦記念日の話題が多くなり、ネットで記事をいろいろ読んでいるけれど、実は、「悲惨さ」についてはあまり考えたくない。

なぜなら、この大戦の「日本における悲惨さ」をビジュアルで見せつけられると、どうしても、「憤り」を感じるし、その対象が分かりやすい直接の敵「アメリカ」に向かうからだ。

沖縄についてもそうだ。最近このブログと写真を見た。


こういうのを見ると、一瞬、反射的に「アメリカ=アメリカ兵=アメリカ人」が嫌いになってしまう。

「類史上唯一の原爆投下国」と「唯一の被爆国」が同盟関係を結んで今度は別の「敵」に向けて核配備に向かっているという情況にも憤然としてしまう。

沖縄にはアメリカ人のウェイン司教がいるし、玉城知事もアメリカ兵の息子だし、米兵にはアメリカでも差別されている黒人やヒスパニックもいるだろう。この写真に写っている米兵も、心の中ではショックを受けていたかもしれない。

けれど、「戦争」とか「軍隊」というくくりと視線で物を見ると、思考が短絡して、ある国全体を「敵」と感じてしまう。実際そういう心理の罠に陥って、「・・人」は下等だとか、「・・国」は非文明的だとか、一般論で貶める言説が山のようにある。そういう一派ひとからげの決めつけ自体が、一部の為政者に利用されて、戦争という殺し合いにまで発展するというのに。


さまざまなレベルの覇権主義のぶつかり合いの中で大きな運命の歯車が回り始めて戦争が起こる。

私がその怖さを実感したのは、いつのまにか第二次世界大戦に入っていく自国と、それに対してなすすべもなかった自分たちの状況を見て衝撃を受けたというフランスのサルトルやボーヴォワールによる回想の翻訳を子供の時に読んだ時だった。不思議なことに、子供の時に日本の周りの大人たちのそういう感慨を耳にしたことはなかった。敵のナンバーワンだったアメリカと手を組んだ復興に忙しく、いろいろな不幸な思い出は「なかったこと」として封印していたのかもしれない。


そのようないろいろな思惑や経済的政治的利害関係の錯綜する日米や韓国、中国との関係などについてエモーショナルなものを排して考え、人間の存在の根っこにあるものを見つめていくことをかろうじて可能にしてくれるのは、私が日米中韓から物理的に距離を置いた場所にいることだ。

それでも、インターネット上に広がる衝撃や憎悪に感染することはあり得る。


だから、8月は、戦争についてのコメントは控えて、すべての犠牲者の冥福だけを静かに祈りたい。


by mariastella | 2019-08-13 00:05 | 雑感

またマダガスカルの話 その7

世界の最貧国の一つで、その特徴が、毎年さらに貧しくなっているということだというマダガスカル。

賤民差別がしっかり根付いているし、「生産性重視」というのが、高度資本主義国とは別の意味で激しい。

働き手として使えそうにない障害を持って生まれた子供はあっさりと捨てられるからだ。

サイクロンの被害も毎年大きい。


フランス人のカトリック神父ヴァンサン・カルムが主催する「希望の家」は最初このように捨てられた子供たちの世話をして教育をするために1986年に生まれた。愛徳姉妹会のシスターもいる。整体師や看護師で、もう何十年も続けてフランスから毎年数ヶ月来るボランティアもいるという。

南東海岸の小さな町Vohipenoにあるタンジョモアという施設。

孤児だけでなく、最貧の人の世話をしている。

この神父は有名でマダガスカルの誰もが知っているそうだ。

ボランティアの世話をしているフランス人のカップルの話をラジオで聴いた。


前に述べた、Bちゃんがいたサント・マリー島の養護施設の名はOrphlinat ZazakelyZazaは子供、Kelyは小さいという意味)で、主催しているのはリタイアして年金で施設を造ったMichelle Martesさん。驚いたことにミッシェルさんは無神論者なのだそうだ。まあ、彼女の世代では不思議なことではないけれど。

150人の子どもの寝起きするのは大きな部屋で、二段、三段ベッドがぎっしりならんでいる。そばに学校の教室の建物と医務室の建物がある。

医療者は二人常駐している。歯科医とエコグラフィもとれる一般医で二人ともマダガスカル人だ。

朝の8h12hは一般人も来る。妊婦も遠くから来る。医師の費用はフランスのあるコンサルティング会社からの寄付でなりたっている。Bちゃんはそこを通してやってきた。


学校近くに白塗りの美しい教会があり、カトリックが日曜ミサを、アドヴェンティスト土曜にと、時間によって使い分けられている。子供たちはそれぞれの日に分けてミサに行く。全員がどちらかの信者だそうだ。みんな、早くから家庭など失っているのに、「洗礼」だけは受けていて宗教アイデンティティがあるとは驚きだ。


建前や理屈はなく、本音と現実だけが、ある。


そこはマダガスカル最初の教会だそうだけれど、聖母マリアのサント・マリー島なのに聖母崇敬はなく、教会に聖母子像も聖母像もないという。カトリック教会にはつきものの各種聖人のチャペルもない。

子供はどんどん生まれるけれど母性は不在のようなメンタリティと関係があるのだろうか。


数日後、テレビにマダガスカルが映った。

真っ青で透明な海にダイバーたち。かわいいメガネザル。

パラダイス、と言っている。


もう、すなおには観られない。


by mariastella | 2019-08-10 00:05 | 雑感

日本の大量殺人事件と星子さん

日本の京都アニメーション放火の事件のニュースがたくさんネットに上がっている。

悲惨だ。

放火した人も重体だそうで、死を覚悟の謂わば自爆テロみたいな感覚で犯行に及んだのだろう。

フランスだったらすぐに「テロ」と呼ばれるのだろう。

でもヨーロッパでの「テロ」は、洗脳によるものであれ怨恨によるものであれ、一応「大義」めいたものが掲げられている。世間への「報復」よりも「懲罰」という意識が見て取れる。

イデオロギーに模したものがあることが多い。


でも日本の無差別殺人やアメリカの銃乱射事件って、なんだか「絶望」からくる「無償の暴力」みたいな印象を受ける。

余計に闇が深いというか、簡単に対策を立てられない。

大量殺人という観点から、来年初めに初公判があるらしい「相模原障害者施設事件」のこともまた取り上げられていた。事件からちょうど3年になるという。

相模原市は両親が亡くなるまで住んでいたところなので私もよく滞在していたからショックだったのを覚えている。実行犯である植松聖という人の主張は、「報復」とも「懲罰」とも違って、イデオロギーもどきで正義の味方のようにえらく堂々と自分の正当性を訴えるものだった。それは実は、ネットの掲示板やら政治家の「失言」に散見される「自立できない人」「生産性のない人」「税金で治癒や世話をされている人」へのあからさまな攻撃によって養われてきたもののように見える。

それが今の社会で多くの人の「本音」に巣くっているからこそ時々表に出てくるのなら怖い。


今回の参院選の「れいわ新選組」が重度障碍者を国会に送り、次は知的障碍者も、などと言っていることは、人々の「本音」の海に一石を投じることになるのだろうか。

けれども、自分たちの存在や権利を訴えることのできる「当事者」の数は少ない。

知的能力にすぐれながら身体機能を奪われたり大きなハンディを持つ人が社会的に影響力を持つのを見るのは爽快だし、「健常者」のメンタリティも変えてくれる。

でも、障碍者の中には、そういう「意志」を表明することができない人も、「意志」があるのかどうかもうかがえない人もいる。難しい。


で、植松聖に関する記事を検索していたら、彼はまったくその「信念」を変えていないようで、挑発的で、自信満々で、観音像のイラストやら「不動心」というカリグラフィなどが載っていた。

こういう「意志の強さ」だとか才能がどうやってああいう方向に向けられたのだろう。「社会からドロップアウトしていたひきこもり」などという分かりやすいキャラクターではないのに。

で、この植松聖が最首悟に手紙を書いて、返事を要求し、最首さんが面会に行って、その手強さに驚いて、それから植松に手紙を送り続けているのだそうだ。

その最首さんのビデオがある。



えっ、80代の夫婦が42歳の娘を全面的に介護しているのか。

年齢と状況だけ聞くと、もう世間なら「無理心中」してしまうレベルだと思われるかもしれない。80代の夫婦なら老々介護が深刻な問題にだってなりそうだ。

それなのに、最首さんたちの生き生きした姿。人間って、どんな状況になっても、何歳になっても、生き方を選択することができて、笑顔で穏やかに前向きに暮らすこともできるんだなあ、人間ってすてき、と思う。最首さん、ありがとう。

娘の星子さんは彼が40歳の時のお子さんということになる。奥様にも高齢出産のリスクとかがあったのだろうか。彼が「悟」さんで息子さんが「空」さんで「悟空」なんだ、という話を聞いたことがある。で、息子さんが「空」で娘さんが「星」というわけなのだろうか。それもすてき。

東大の助手時代の面影がそのままだ。でも、当時30代だった彼のカリスマを今でも持ち続けているなんて・・・いや、もっと内面化もして、多分この「星子」さんを得たことで、彼女を通してさらに深化し進化したのかもしれない。私が知っている頃の彼は駒場全共闘の支柱だった。でも、それがどのように展開していくのかは今思うと未知数だった。

彼は植松の頑な心に何とかして風穴をあけたい、と手紙を書き続けているそうだ。

「星子」さんは、全ての人の希望だ、と思う。



by mariastella | 2019-08-01 00:05 | 雑感

大人と子供

昨日の記事で、グレタさんを持ち上げる大人たちのことを書いたけれど、実際、インターネットのおかげで情報空間が一見フラットになったせいで、世界の縦型構造が壊れてきた。グレタさんは自分はアスペルガーだから白と黒しかない、グレーはないと言っているけれど、実際の情報社会は、匿名性もあるし、いろいろな二元論が壊れつつある。男も女も、黒人も白人も、ディープ・エコロジーでは人間と動物の区別さえ曖昧になる。それはグレーの曖昧ゾーンのグラデーションではなく、グレー一色という感じだ。
その中で、大人と子供も同じように発信する。
子供の権利条約も国際合意となる。
グレタさんも大人を叱責する英雄になる。

でも、大人と子供は違う。
例外は別として、女は男にならないし、黒人は白人にならないし、動物は人間にはならない。
でも、子供はいつか大人になる存在だ。
自分も子供という「当事者」時代を経てきた大人は、子供がよりよい社会に生きる大人になれるように努力する使命がある。
すぐにイデオロギーの即戦力として共闘するのはよくないと思う。

それよりも深刻なことで考えなおすべきものがあるだろう。

「いじめとテレビ」についてこういうブログを読んだ。

深刻な問題だと思う。
フランス系のいういわゆる「お笑い」は、アングロサクソン系もそうだと思うけれど、風刺が多いし、スタンドアップ・コメディが主流だ。しゃべっている情報量や語彙がすごく多い。自虐ネタはあっても、全体としてすごく頭を使っているだろうなあと思わせる。
日本でも落語や講談はすごいと思うけれど、いわゆるボケと突っ込み系のコントで、相方をけなしたり頭を叩いたりするのはすごく不愉快だといつも思っていた。
まあ、見なければいいのだから、と思っていたし、正直言って、バラエティ番組もほとんど変な方向にガラパゴスだなあと思っていた。
で、日本に滞在している間にはほとんど放送大学しかみていなかった。放送大学には興味深いものがたくさんあった。

最近、滞在先のテレビでは放送大学が視聴できなくなった。
だから関心を持って見るのは日曜美術館と歴史ドキュメンタリーと健康番組だけだ。
私はフランスの自宅にはいわゆるリビングにもダイニングにもテレビを置いていないので、ニュース番組のはしごとたまに映画を観るくらいで、後はラジオとインターネットだ。

でも、多くの家庭にはリビングやダイニングにテレビがあって、子供たちも見ているのだと思う。

今までは、他人が何を視聴していようと関係ないと思っていたけれど、この秋葉忠利さんのブログを読んで、「他者をリスペクトしないお笑い」は規制するべきだと思った。

グレタさんの問題とは真逆にあるように見えるけれど、次代の大人に対する私たちの責任を痛感させられる。


by mariastella | 2019-07-28 00:05 | 雑感

豪華客船付き司祭の話  その2

(前の記事の続きです)


クルーズの経験などごく少ない私だけれど、カルテットの友人でヴァイオリニストのジャンはクルーズマニアで、飛行機のクルーズ世界一周も行っていた。

いろいろなものに挑戦し、特に、音楽クルーズでは、客が最後にはいっしょにオペラを上演するというのもあった。詩の朗読のクルーズもあった。日本なら句会のクルーズみたいなものがあるのだろうか?

ジャンは日本にも寄るクルーズにも申し込んでいて楽しみにしていたのに、ちょうどその年に311の大震災があって、クルーズが中止された。ジャンの失望は大きかった。

ジャンのおかげでさまざまなテーマのクルーズがあって趣味が同じ人たちが集まる独特なものが存在するのを知っていたけれど、クルーズ付き司祭のトマス神父の体験談には想像を絶するものがあった。


クルーズ会社にとって一番利益率がいいのは、「貸し切り」クルーズなのだそうだ。

普通のクルーズなら、中流の人がこつこつと貯金して何かの記念に奮発して参加する、というケースもあるけれど、「貸し切り」の場合は、富裕度が高いから、チップを含めて洋上の消費も限度がなくなるからだそうだ。

トマ神父は、貸し切りのケースではゲイの団体のクルーズに乗り合わせたことがある。

2000人もの同性愛者が集まるのだから、さぞや独特の雰囲気だったろう。それ自体は問題がなかったのだけれど、寄港地やスタッフがたとえばインドネシアだとかインドネシア人であるなどの場合、同性愛を罪とするスタッフの葛藤や反発があってそれが一番大変だったそうだ。


で、もっと驚いたのは、神父が乗り込んでいたクルーズ会社では一年に二度、ヌーディストの団体の貸し切りクルーズがあるのだそうだ。神父が乗り合わせたのはカナダのヌーディストのグループだった。

うーん、驚き。

ヌーディストというのは、専用ホテルやビーチなどがあるけれど、全裸で過ごすことを一種の健康法にしているベジタリアンみたいなもので別に露出や性的意味があるわけではない。

神父の同乗したカナダのヌーディストグループは平均年齢が65歳くらいだったそうだ。

で、その間、神父はほとんど船底の船室に閉じこもって、デッキや食堂にも顔を出さなかった。

でも、船のチャペルでミサをあげる。そこに平気で全裸で入ってくる人たちがいた。

彼はあわてて、服を着てくれと頼んだ。

実は乗船時の契約書の合意事項に、「ミサには着衣で」と書いてある。

神父がそれを見せると、みな納得して服を着てきたという。

もともとカトリックの人たちだろうから、教会では露出の多い服は避けるという「常識」は知っているだろうが、別に挑発しようと全裸で来たのではなく、彼らにとってはそれがあまりにも自然で、気づかなかったというのだ。

いやあ、いろんな人たちがいるものだ。世界にはいろいろな共同体があり、難民キャンプもあり、差別主義者のゲーテッドコミュニティだってあるけれど、期間限定で動く島国にはこんなにバラエティがあるのだ。


どんなところにも入っていける司祭っておもしろい職業だ。

彼にインタビューした人が、そんなに豪華客船で長く暮らして、消費主義や快楽主義にそまりませんか、羨ましくありませんか、と質問していたけれど、彼はどちらかというとスタッフの側に寄り添っているので充実している、そして、期間と空間限定であれ、多くの人が機嫌よくゆったり過ごしているのを見るのは楽しい、と答えていた。


そうだろうなあ、と思う。


by mariastella | 2019-07-26 00:05 | 雑感

スーパーマンの自立論

ジャン=ルイ・エティエンヌのインタビューを聞いた。

新刊の『自立を目指せ!』という本についての話だ。

この人は、私などから見るとまるで他の惑星の人に見える。

フィジカルにもメンタルにも超人的で、いろいろな人生のハウツー本も書いているのだけれど、本来なら私が見向きもしない本だ。今回の新刊も、要するに、自分の限界を拡げるのではなく、どこにあるか分からない限界を見つけるのだ、絶対にあきらめずに、自分ですべてをやれ、みたいなトーンかと思っていた。

彼は今年72歳で、スポーツ医学や限界生物学やらを専門とする医師で、冒険家だ。1986年に、世界ではじめて橇を引っ張って63日間歩いて単独の北極点踏破を達成した。それからも南極はもちろん、実にいろいろなことをし続けている。

で、人間、2つの手、10本の指があれば、自分で小屋を建て鶏を飼い穀物を植えて生きていける、とにかく誰にも頼らず迷惑をかけずに生きていくことが信条、少年時代から山で過ごすなどして鍛えて、家族に頼らずに生きていくことを目指してきた、と言うのだ。

うーん、まあ、こういうタイプの人もいることは分かる。

でも、私の読書の対象はたいてい、かなりのハンディを背負った人が他者と支え合いながら人生に希望を見出していく、という系統のものだから、エティエンヌのような人生論は苦手だ。

彼はなんでも、誰にでも、「やればできる」と言い、決意と根性がカギだと言っている感じだけれど、北極行は別としても、森で木を伐り出して小屋を建てる、というようなスキルだって、とても誰もが平等に有しているものではない。器用な人と不器用な人が厳然として存在する。もちろん、健康で「五体満足」であれば、誰でも、何でも、持続して練習したり努力したりすればいわゆる「当社比」みたいなレベルではスキルがアップするかもしれない。でも、持って生まれた力や才能や向き不向きの差というのはある。

昔から、踊っても、楽器を演奏しても、私がどんなにがんばっても絶対に追いつけない人をたくさん見てきた。練習量の差ではなく明らかに天性の「質」の差だ。

もう何十年もピアノやギターを教えてきて、いろいろなタイプの生徒たちを見てきたけれど、「才能」がある生徒というのはすぐ分かる。

100メートルを10秒で走れとか、歩いて北極に行けとかというのは普通の人に不可能でも、「丸太小屋を建てて自活する」というのは誰にでもやればできるとエティエンヌさんは言いたいのだろうけれど、いや、丸太小屋を建てるのも絶対無理、って人はいくらでもいる。

その上、エティエンヌさんだって、決して、誰にも頼らず、迷惑をかけないで自立しているわけではない、誰でもみんな、先人やら周囲の無数の人の恩恵を受けて生きているのだ。

で、私がどうして、こんなタイプの人のこんな本の話に興味を持ったかというと、そのインタビューがカトリック関係の文脈で取り上げられていたからだ。隣人の慈しみやら、弱さに寄り添うことやらを称揚している宗教が、こんな自助努力のスーパーパワーの人から「活を入れる」みたいな言葉をひきだしてどうするのだろう。

で、気になって、ネットで彼の他の著作や言行の記録を検索してみた。

分かってきたことは、確かに、GPSもない時代に単独で北極に行くなどのチャレンジに成功するために必要なのは、フィジカルやメンタルの強さだけではなく、スピリチュアルな面まで動員しないとやっていけないということだ。言い換えれば、「霊的な自立」とは何か、という問いがそこにはある。

考えさせられる。

しかも、最近私がいれこんでいるディープエコロジーの終末論批判とも響き合うものがたくさんある。

これについては後日、エティエンヌの引用を紹介しながら少しずつ見ていくことにする。


by mariastella | 2019-07-18 00:05 | 雑感

マダガスカル その6

マダガスカル行きでレッスンをお休みしていたBちゃんは、この夏はパリでアルバイトだそうで、土曜日の朝はレッスンに来ることになった。
質問した。
今回のマダガスカルの体験で、世界の見方が変わった?
何が一番の収穫だった?

彼女の答え。

「全てが未知の体験だった。でも、フランスに帰ってきたら、周りの世界は同じ、自分の生き方もリアクションもあっという間に前と同じになった。
一番の収穫は、人を無条件に信頼することを覚えたこと。
これまでは、どこでも、慎重に行動し、見知らぬ人は警戒していた。でもマダガスカルでは、人を100パーセント信頼するしかなかった。そういう関係が築けるとは思わなかった。」

ーーでもそれは、それだけ素朴でリスクがないってこと?

「いや、リスクは大きかった。マダガスカルの動物も虫も毒のあるものはないので、ジャングルの自然はけっこう楽しめた。調査チームの動物学の学生などとも仲良くなれた。サント・マリー島の海で子供たちと遊んだ時が一番大変だった。足の裏にウニの棘がいっぱい刺さってみんなに一本ずつ抜いてもらった。子供たちはどこをどうあるけばいいかみな知っていた。
でも、本島で私の歩いたジャングルは、マダガスカルの中でもレッドゾーンに指定されている危険地帯だった。」

ーーえーっ! それはどうして。

「マダガスカルにはいろいろな非定住移動民族がいて、ジャングルで襲われることもあって、殺されることもあるから。」

ーーそ、それは、すごく怖いんでは? フランス人ツーリストがブキナファソの国立公園で身代金狙いのテロリストに拉致されたみたいに。

「いろんなことに巻き込まれる可能性はある。
マダガスカルではゼブ牛(マダガスカルのコブ牛)を通貨にしている部族がいる。例えば結婚したい時にはゼブを相手のうちに贈らなくてはならない。そういう余裕がない者はゼブを盗みにいく。その時に持ち主を殺すこともあるし、そうやって調達すること自体が通過儀礼のようになっていて、一人前になるには、ゼブの収奪が必要になっている。集団で、火をつけたり殺しあったりするのでそれに巻き込まれることもある。」

私は驚いて、フランス語ネットを検索したら、ゼブ牛をめぐる戦いの犠牲者はここ5年で4000人に上り、問題になっている、という記事があった。

すごい。

もちろん世界には私の想像できない習俗を持った民族や地域なんていくらでもあるだろう。実際、TVや雑誌や人類学レポートなどで珍しい話を見聞きしたことは少なくない。でも、今思うと、全て観念的で、リアルに捉えることなどなかった。
実感としてはフィクションの世界と変わりがなかったのだろう。
Bちゃんの話を聞くとくらくらする。

で、そういうとてつもないヴァイオレンスが渦巻く世界で、人を信頼することを知ったって…。実際、街中にも、物乞い、泥棒などがあふれていたそうだ。

「だから、もう、目の前の人を信頼する以外の選択はなかった。そして、なんの思惑もなく全面的に助けてくれる人、親切な人とたくさん出会った。またマダガスカルに行きたい。みんなにも勧めたい。」

なるほど…。

それって運が良かっただけでは? と思わずツッコンでしまったらにっこり笑って、
「そう、神さま、ありがとう」と、屈託がない。

フランスで見知らぬ人から対価なしに親切にされたら、かえって怪しんでしまう。

日本でも、子供が知らない人から声をかけられるだけで即 変質者だと警戒する。

それにしても、このBちゃんの感想というか反応というか、私には予測できないものだった。

ついでに、サント・マリー島の養護施設の水事情を聞くと、施設の水道は飲料水ではなく、飲料水は泉のようなところに子供達が汲みにいくのだそうだ。桶を頭に乗せて…。
それにも驚いた。リタイアしたフランス女性が養護施設を作ったが、水を汲みに行く労働が子供達によってまかなわれていたとは…。

いやー、考えがまとまらない。エコロジーがどうとかいう世界を完全に吹っ飛ばす。

私がこの先マダガスカルに行くとは到底思えないけれど、別世界から吹く貴重な風となった。





by mariastella | 2019-07-15 00:05 | 雑感

「水」と「いのち」

(前の記事の続きです)

猛暑だった6月の末にパリ郊外の別荘で清潔で立派なプールを楽しんだ時に、複雑な思いがしたのは、Eau et Vie(水といのち)というNGOのプロモート動画を見たからだ。(英語の字幕あり)


今、世界の人口の半分は「都市部」に住んでいて、2050年には3分の2が都市部に住むことになるという。そして新たに流入する人のほぼ半分は、上下水道が完備しないスラム街に住むことになる。
ダカール、アビジャン、マニラなどには今も毎年数万人の人が流入している。彼らは生活費の4分の1までを「水」の調達に使うことがある。公共の水道がなく、公共の水を不法に手に入れてそれを不潔な容器に入れて高く売りつける業者から飲料水を買わなくてはいけないからだ。
あるいは、女性や子供たちが、離れた場所にある公共の水場に水を汲みにいく作業を受け持つことになる。
水がなければ火災も止められない。
水は「権力」であり、ストレスであり、不法収奪のもとでもある。
下水道がなくゴミ収集もない街では、ネズミ、ゴキブリ、蚊が、下痢、チフス、コレラ、皮膚病、マラリア、を媒介する。

「水といのち」のNGOは、水道の設置、ごみの収集、通りの清掃、消防団のシステムを作り、雇用を創出し、産業を生み、人々の生活の質を根本から変えていった。

1974年に、ルネ・デュモンという人が、地球から水がなくなって人類が滅びるかのような終末論を唱えたし、その他にも、恐怖を煽るカタストロフィ説は次々と生まれたけれど、次々に消えていった。
足りないのは「飲料水」で、それはインフラの開発が偏っているからだ。

そして、それは、コスパや選挙のメリットがない場所には投資されていないだけで、その気になれば、NGOが住民と協力して実現可能だということが分かる。

パリ郊外のプールの水にきらめく陽の光を楽しんでいる人々との「格差」に衝撃を受ける、などという次元ではない。同じ運命共同体の地球の「水と命」は最終的にはみなつながっている。
豊かな社会に住む人々は、地球の温暖化を食い止めるために、
エネルギーを節約せよ、汚染するな、ごみを仕分けしろ、
などと、「命令形」ばかりで環境問題を語るけれど、今現在、「水」難民を救うために、具体的にポジティヴに対処できることはいくらでもあるということだ。

先進国のメディアは「悪い知らせ」が好きだ。
全体主義的強迫観念に陥らないように前向きに考えよう。












by mariastella | 2019-07-10 00:05 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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