L'art de croire             竹下節子ブログ

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ストレス解消法と霊操とマダム・ギヨン

パリは東京と同じくらいに雪に弱い。

先日、久しぶりの大雪(パリ当社比だけれど)の日に運悪く、バロックバレー(結局雪のために中止になっていた)のレッスンに出かけてしまって、帰りの電車が何だか大変なことになっていた。遅れが出ているのだけれどちゃんと表示されない、表示通りにも来ない、しかも通勤帰りの人と重なって、やっと来た電車に乗れない。次の電車は30分後くらいと言われるが、ホームいっぱいの人を見ると次のにも乗れないと思う。
乗れば10分でうちの駅に着けるのに、どうしていいか分からない。

他のメトロを乗り継いでいこうとも思うが、寒いし、疲れていたのであまり動きたくない。すると、うちの駅を通過する急行が来た。乗客がすくなく暖かそうなので乗った。うちの駅を通過してから今度はパリ方向の各停に乗れば人は少ないと思ったのだ。

まあそれからいろいろあって、うちに戻れたのはかれこれ1時間半後くらいだった。
凍えて、いつどうやって帰れるのか分からないストレス、周りの人も当然落ち着かない様子。
延々と不確かな待ち時間の間、運悪く、持っているのはバロックバレーの振り付け譜と、マダム・ギヨン(ギュイヨン)の祈りの方法のハンドブック『短くてとても簡単な祈りのメソード』だけだった。

カトリックの瞑想法ガイドとしては、十字架のヨハネ、アヴィラのテレサ、そしてイエズス会のイグナチオの『霊操』が有名で、前2人のはよく読んだけれど、手軽という感じではない。マダム・ギヨンのものは最近新版が文庫で出て、すごくわかりやすいというので買った。(もとは17世紀フランス語、今回は少し現代語風のもの)

そして、このとても具体的な「罪のチェックの仕方」などの項目について、『霊操』と比較しようというのが私の最近の関心のひとつだった。
もし私が今どこかの大学の神学部の学生だったら、論文のテーマは「イグナチオの『霊操』とマダム・ギヨンの『祈りのメソード』の比較研究」だなあと思っていた。

両者の一つ一つの「方法」について、16世紀スペインの元戦士の男と17世紀フランスの聖職者ではない女という、時代、場所、ジェンダーによるバイアスをどのように受けてどのようなヴァリエーションを構成しているのか、それと今日の各種のマインドフル系コーチングとの関係など。

で、雪による交通マヒという精神的にも肉体的にもストレスフルな状態で、そうだ、今、この本を読んで心を安定させることができればすごいぞ、と思って、ページを繰ったら…

全然ダメだった。

唯一おもしろかったのが、自分の罪を探る時に、つまり良心によってチェックする時に、自分であれこれ掘り下げる必要はない、というところだった。ただ、神の方に心を向けていれば、罪という氷が自然に神の愛の太陽の熱で溶けて行って、蒸発したらところで「免償」になる、というのだ。

自分は罪深いとか言って、自傷、自罰するようなのとは正反対だ。
マダム・ギヨンも「北風と太陽だ」といっている。

と、まあ、このレトリックだけが私の心を紛らわせたのだけれど、その他の、心を平静にするにはどうする、この世の悩みに囚われないためにはどうする、神と合一するにはどうする系のメソードにはまったく惹かれなかった。

「いつになったら電車が来るのか、動くのか、帰れるのか、寒い、風邪ひくんじゃないか」とか際限のないネガティヴな思考のループから逃れるような祈りを試そうというモチヴェーション自体も起こらない。

ああ、ペンシルパズル本を入れておけばよかった。
雑誌をダウンロードしてあるタブレットを持ってくればよかった。

空港に行くときにはいつもパズル本を持っている。
遅れが出るとか、「いつになるか分からない」とかいう時のイライラや不安をカットするのにすごく有効だ。そういう時は読書などには集中できない。
試行錯誤しているので、どの種のパズルのどのレベルのものが、すぐに軽いアディクションをもたらせて、何時間でも続けていられるというのが分かっている。

結局、脳のどの機能に優先案件を与えて、他の機能を抑圧できるかということだ。

私の小さなクライシスの対応に、パズルほどの効果ももたらせてくれなかった、マダム・ギヨン。『霊操』との比較研究もお蔵入りになる可能性大だ。
(自分の「霊性の低さ」を棚に上げて勝手なこと言ってごめんなさい、マダム・ギヨン)



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by mariastella | 2018-02-14 00:05 | 雑感

二黄卵の話

うちの卵は、朝市で買ってくるものだ。
だから、ひょっとしたら、近郊の農家の人から仕入れているものなのかもしれない。

先日、卵を割ったら、黄身が二つ出てきた。

久しぶりに黄身が二つの卵を見た。昔は時々見たような気がするけれど、このところ、とんと記憶がない。
近頃の鶏は管理され過ぎていて標準の卵しか産まないからなのかなあ、とも思い、なんだか楽しかった。
誰かに見せびらかしたい。
すると、その次の卵も、その次の卵も、そのまた次の卵も黄身が二つあった。

こうなるとなんだかショックだった。
放射能汚染?
農薬汚染?
などと思ってしまう。

何だか誰に言っても信じてもらえないような気がして、ビデオ撮影することにした。同じところで買った卵の10個目くらいのものだ。

それまで全部黄身が二つあったので、撮影する卵も双子だと確信する。

でも、猫の動画を撮ろうとしたら、たいてい、カメラを向けた時にはもう同じおもしろい動きをしてくれないのに慣れているから、わざわざ無撮影すると普通の卵だったりして…。

で、立てかけたカメラをONにして割ると、やはり双子だった。
動画が貼れないので、ここには割った後の写真を。
 
c0175451_21003197.jpeg


何だか妙な気がしてネットで検索するとこういうのが出てきた。


>>>黄身が二つある卵のことを、「二黄卵(におうらん)」と言って、出会える確率が低い双子の卵。見つけたらラッキーなんですよ!中には、「食べても大丈夫?」と心配される方もいますが、結論から言えば、もちろん、二黄卵を食べても問題ありません。なぜなら、二黄卵が産まれるのは、若鶏の生理現象によるからです。産卵し始めて間もない若鶏は、排卵のリズムが整っていません。すると、まれにではありますが、下記のようなケースが生じます。

•・間隔をあけずに、連続して排卵する
•・1回の排卵で、同時に二つの卵胞を排出その結果、一つの卵白が、二つの卵黄を包み込むことになり、卵黄が二つある「二黄卵」が生まれるというわけです。

特に、産卵開始から1~2か月以上に多い現象ですので、排卵リズムが整えば、黄身一つの卵を産むようになります。
 つまり、二黄卵は、健康な若鶏が産んだ黄身が多い卵。味や栄養面はもちろん、安全面もまったく問題ありません。むしろ、一つの卵で、まさしく「目玉焼き」になりますから、二黄卵と出会えたら、なんとなくうれしくなってしまいせんか?しかも、1羽の鶏が二黄卵を産む確率は、わずか1~2%!希少な存在から、縁起物として喜ばれることも多いんですよ。<<<<

だって。

「健康な若鶏が産んだ」と言われると安心するが、「1羽の鶏が二黄卵を産む確率は、わずか1~2%」と言われると、この百発百中感は何だろう?

同じ健康な若鶏の排卵が安定せずに毎日バンバン生んでいる、のか、そういうタイプの姉妹若鶏が、同じ農場にまとめられていて、みんなせっせと二黄卵を?

そういうのは一般に小さいサイズだというけれど、うちのはサイズも大きく、まさに一つで二つのお得感がある。

でも、ラッキー・アイテムだと言わても、こう全部の卵が毎日だと、幸運を叩き売りされたみたいな気がする…

幸せって、二黄卵との出会いに至るまで、相対的なもんだなあ。

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by mariastella | 2018-02-12 00:05 | 雑感

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」と動物行動学

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。」

マタイによる福音書10,16-17

福音をイスラエルの民に伝えるために12使徒を送り出したイエスの言葉だ。


悪霊を追い出すという癒しの超能力まで授けて送り出すにしては全能感を鼓舞するどころか、やけに現実的だ。

福音書がイエスの死後何十年も経ってから書かれたもので、イエスの受難やのキリスト者の迫害を経験し来るべき迫害にも備えたいろいろ「後付け」の編集があるのかもしれないけれど、ちょっと複雑な気持ちになる。

迫害されるという予言は別としても、

蛇のように賢く、鳩のように素直に」

というところがもう、妙な含蓄がありすぎる。

「蛇のように賢く」というのは、蛇に欺かれないような分別を持てというのから、鳩を守る番人としての蛇だとか、いろいろな解釈がある。

でも、実際の福音伝道者が、この言葉を引用して、「相手に布教だと分からせないように何気なくローマ法王の伝記を歴史書として同僚に貸した」と満足しているケースもあるから、まあ、頭を使え、という感じでもいいのかもしれない。


「鳩のように素直に」、というの「イエスへの信頼」というのが平均的な解釈のようだけれど、聖書の中の「鳩」っていうのも、特に聖霊のシンボルである白鳩というのがなんとなく特権的でカラスがかわいそう、などと私は思ってしまう。

カラスは鳥の中で一番頭がいいことで知られているから、ここはいっそ、「カラスのように賢く、鳩のように素直に」の方がいいかなあ、と思ったり。


でも、鳩についても、動物行動学のローレンツの有名な『ソロモンの指環』で、種内攻撃に抑制本能が働く猛獣などと違って「鳩は同族をいびり殺す」というエピソードがすぐに頭に浮かぶ私は、素直という言葉に違和感を持ってしまう。


先日、沖縄の辺野古がある名護市の市長選で基地容認派が勝利した、

というニュースを聞いた時に、複雑な気持ちを整理しようと思ったら、こんな言葉を連想してしまったのだ。


なぜだか、分からない。


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by mariastella | 2018-02-10 00:05 | 雑感

カメル・ダウドの「未来を損なう天国」

アルジェリアのジャーナリスト、カメル・ダウドが、「未来を損なう天国」というコラムを書いていた。Le Point : no 2369


イスラム世界から見たものではあるが、こう言われてしまうと、なるほどと思って背筋が寒くなる。要約してみよう。


イスラム過激派の「天国主義」(パラダイズムという言葉はラエリアンムーブメントでも使われているので混同を避けてここでは天国としておく。)についてだ。

「天国主義」は、ナショナリズム、社会主義、共産主義、など、すべての理想主義が、「南(つまり開発途上地帯)」で失敗した結果、たどりついたものだという。

確かに、自爆テロリストが、聖戦(ジハード)で殉教したら天国で72人の処女に歓待されると信じている、みたいな話は、ここ数年、普通の人の耳にまで届いている。

「他殺を想定した自殺など大罪で地獄に堕ちる」くらいに言ってくれる方が世のためになるのだが、地獄どころか天国で、しかも、テロリストを鼓舞するとってもマッチョな幻想というのは、聞いていて侮蔑の念など抱かせるものだったが、実は深刻なものらしい。


「天国」のイメージは、今や、イスラム圏の庶民にとって、差別に抵抗している女性なども含めて、心慰める想像などではなく、真剣な話題なのだそうだ。

アラブ諸国が独立して進み始めた1970年代の夢と希望は、「建国の父」やら取り巻きの将軍たちの独裁によって潰えた。天国に託す希望は、経済的、民主的な敗北と深い病理に沈むこの世の地獄を物語っている。

天国を称揚するのは、宗教者だけではなく、エリートたちも、政治の各派も同じだ。

天国への招きについては、過激派も原理主義者も気前がいい。天国の喜びは独占すると言わないのだ。「全てのムスリムが天国へ行ける」ように、説教師もテロリストも熱弁をふるう。

体制はもはや独立後のユートピアを語りはせず、民衆に日常の糧を保障しようとするだけだが、過激派は天国の快楽を約束してくれる。

女と酒と奴隷。この世での愛は封印され天国に先送りされる。

この世で働いたり何かを築いたりすることの意欲は失われる。

死後に緑の楽園が約束されているのにこの世で環境保護にあくせくする必要もない。

天国の戦士の幻想は、もはや、アラブ社会に深く巣くう悪夢である。

これがカメル・ダウドの悲嘆だ。

私はすでにいろいろなところで書いてきたが、人生の残りをどう生きるかということについて、福音書のたとえ話を引いている。『キリスト教は「宗教」ではない』のあとがきのその部分をコピーする。

>>>

『マタイによる福音書』(25,14~30)に出てくるもので、旅に出る主人から財産を預けられる三人の僕たちの話だ。彼らはそれぞれの力に応じて、五タラントン、二タラントン、一タラントンを預けられる。五タラントン預かった者は外に出て、それで商売をして倍にした。二タラントン預かった者も倍にした。けれども、一タラントンしか預からなかった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 主人が帰って来て、清算を始め、倍額にした僕たちを「忠実な良い僕だ」とほめたが、最後の僕が主人の厳しさを恐れてタラントンを地中に隠しておいたと聞いたとき、「怠け者の悪い僕だ」と叱責した。せめて銀行に入れて利息を得るべきだったという。

前後の文脈は別として、この話だけ取り出すと、私は自分なら絶対に「主人の金」で投資するなどというリスクを冒すタイプではないので、長い間、三人目の僕に同情していた。といっても、これはもちろん「金儲け」の話ではない。預けられたタラントンとは、私のいるこの世界と生命なのだ。仏教的な人生観になじみある文化に育った私にとっては、生老病死の苦に満ちたこの世界は仮の世であって、執着を離れて現世から「解脱」することが救いだというイメージがあった。けれども、今は、私に託されたタラントンであるこの世界もこの時代も、幻想ではなく、現実であり、それを返す時には、受け取った時よりも、もっと美しく豊かにして返すように最善を尽くさなくてはならない、と思えてきた。

れが「宗教」なのかどうかは私には分からない。分かるのは、この本を書かせたのはその思いだということだ。<<<

アルスの司祭ヴィアネーが死ぬ前に、たとえあの世に神がいなくても私は後悔しない、と言ったのは有名だが、私も、別この世で大して苦労をしていないこともあるが、死んでまで楽園で快楽にふけりたいなどと思わない。とりあえず、生きているうちに、次の世代の「未来」に、少しでも、貢献したい。


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by mariastella | 2018-02-08 00:05 | 雑感

名護市長選と二つの「ことば」

気になっていた、沖縄の辺野古がある名護市市長選挙。


自民、公明、維新に推薦された新市長が当選。


辺野古をスルーして「米海兵隊の県外、国外移転」「日米地位協定改定」を新市長の政策とさせた公明党の組織票が期日前投票率の高さにつながったのだろうか。


気になって、沖縄の創価学会について検索したら、

こういうのが出てきて驚いた。池田大作氏の「詩」。

いやあ、すごいボリューム。

最後まで読んだが、圧倒される。布教に成功する宗教というのはやはり言葉の力なんだなあ。創価学会沖縄国際平和会館というものとセットになっているのだろう。

沖縄にいわゆ伝統日本仏教の影響がなかったことも創価学会に有利だったのだろう。それこそ「ブルーオーシャン」だったのかもしれない。


前に奄美大島のカトリックのことを調べたことがある。

奄美も伝統仏教の影響が少ない民族宗教の離島だったので、国家神道の押し付けよりも、普遍宗教のキリスト教が広がった。1930年代からひどい迫害を受けたけれど、戦後にまたカトリックの修道会などが入ってきて復興の手伝いをしたので今も存在感があるらしい。


沖縄はそういうわけにはいかなかった。

戦後に入って来たキリスト教はアメリカ軍と切り離しては考えられなかったからだ。


布教におけるマーケッティングやレトリックというのは資金力と同様、決定的なものなのだなあと思う。


実はこの池田大作の長大な美文を読む前に、辺戸岬の「祖国復帰闘争碑」の碑文というのを読んでいた。


これも結構長いと思ったけれど、池田大作の美文の比ではない。


言葉と、言葉が仲介する「人間」との関係、言葉の使命や人間の使命について考えさせられる。








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by mariastella | 2018-02-06 00:05 | 雑感

「仏祖の方便」と拡大鏡

「仏祖の方便とは、皆、愚か者を教えるためのはかりごと」だという。

イエスの連発するたとえ話にも似ている。

ある禅宗のお坊さんのブログに『沙石集』からこんな話が引かれていた。

>>『首楞厳経』には1つの喩えが説かれていて、演若達多という者が、朝起きて鏡を見ると、自分の顔が見えなかったことを、誤った持ち方をしているからだとは思わずに、鬼の仕業だと思い込んで、首から上が無くなったと勘違いし、驚き騒いで走り回ったことがあった。人の諫めも聞かなかったが、流石に、周りの人が余りに教え諭すので、鏡をよくよく見たところ、頭が戻ってきたと思った。このように、愁いが無いところで愁い、また、喜びを起こさずとも良いところで喜ぶ。
 このことが喩えているのは、無明の心とは、理由無く頭が無くなったと思って、それを求めるようなものである。本覚の明心は、かねてより失われたことが無い。それは頭が無くなったと思い込むのと同じで、失ったように思っているだけだ。始めて見つけて、それを得たと思うのは、始覚門で菩提を得るようなものだ。<<

これを読んで、「信仰の夜」のことをまず連想した。

あのマザーテレサや十字架のヨハネも悩んだという「信仰の夜」だ。

彼らは人生の途中で神を見失い、闇の中で苦しんだと言っているわけだが、それも、「鏡が裏返った状態」だったのだなあ、などと思える。

逆に言えば、回心体験とか神秘体験とかいうのも、自分の視線の方向が変わったのではなくて、突然鏡が裏返ったようなものかもしれない。
何が、鏡を、自分と神を映す方向に回してくれたのか…は永遠の謎だけれど。

などと思っていたら、洗面所で、脇にあった鏡に自分の顔が映っていず、一瞬驚いた。

暗くゆがんだ光だけがある。
ちょっと怖い。

実はその置き鏡は、両面鏡で、片面が普通の鏡、もう片面がかなり大きい倍率の凸レンズなのだ。自分の顔のディティールが見えないので一応セットしてあるものだ。
普段は見えなくても気にならないので使わないけれど、たまに目に異物感があるとまつげが落ちて入っていたりするので置いてある。

で、それが、凸面の方がこちらに向いていて、屈折率が大きいので、まっすぐ正面から見るとちゃんと自分の顔が見えるけれど、離れたところから斜めに視線をやると、いったい何が映っているのか分からない光や歪みだけが見えていたのだ。

なるほど、と思った。

普通の鏡が、鏡面でない方に裏返っていたら、「見えない」だけですむことでも、鏡の特殊な反射を持つ側に裏返っていたら、「異様なもの」「ゆがんだもの」が見える。

神を見失う、とか、無神論になる、とかではなく、
亡霊の影に怯えたり、悪魔の存在を信じたりもしそうだ。

なにごとも、しっかり自分の目で見つめる、だけではだめなので、
どういうものを通して、
どういうアングルから見るのかを、
いつもチェックしなくてはならない。

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by mariastella | 2018-02-05 00:05 | 雑感

小西誠さんと沖縄

軍事ジャーナリストの小西誠さんと三上智恵さんのトークで 

『南西諸島陸自配備について 標的の島』というのを視聴した。


あまりにも徹底した住民不在の考え方には驚くとか怒る以前に、笑うしかない、みたいな話がある。

この22分あたりを見ると、笑えてくる。実際、三上知恵さんも小西さんも笑っている。

55分あたりから、1921年に太平洋地域の島嶼要塞化禁止を合意したワシントン条約というのが日米英仏伊の五ヶ国で締結されていたことが語られる。

沖縄は明治維新以来の非武装地帯だったのだがそれが確定した形だった。

この島嶼要塞化禁止を提案したのは日本だったそうだ。


まあ、すでにある軍事基地はそのままに、という話なのだから、核拡散禁止条約のようにすっきりしない部分はあるけれど。


その沖縄に1944-45年にかけて日本が軍隊を送り込んだことがそもそも沖縄の地上戦につながった、とも言っている。

小西誠さんを見てとてもなつかしかった。

今はじめて見たとしたらそれなりに年配者なのだろうけれど、若い頃に会った人って、昔のままのイメージだ。


1970年だったと思うけれど、小西誠さんの『叛軍』の映画の少人数の上映会みたいなものに出席した。その後で小西さんとのディスカッションがあったのだと思う。

今になって、ネットで検索したら、こういう解説があった。

>>>小西の<叛軍>行動にたいして、検察は、これを自衛隊法第六四条および第一一九条をもとに「政府の活動能率を低下させる怠業的行為」として起訴したが、小西は「国民を護る義務を帯びた自衛隊が国民に銃を向ける訓練をするのは違法だ」といった考えにもとづいて、それに<不服従>の権利をもって対抗した(『陸上自衛隊服務関係法令解説』にも「違法の瑕疵が重大かつ明白な場合は、命令を受けた隊員はみずから職務上の命令の無効の判断をすることができ、これに服する必要はなく、また服してはならず、もしこれに服したときは、その結果についてみずからも責を負わなければならない」とある)。民主主義の徹底化によって大幅に<不服従>の権利をみとめ、軍隊の職務ならびに機構上の特殊性からとかくおちいりがちな兵士たちのロボット化、そのロボット化による非人道行為の横行をあたうかぎり防止する。<<<

「不服従の権利」というのがあるんだ、すごいなあ、と感心して、フランスの軍隊はどうなんだろう、とフランス語で検索したら、

「不服従の権利」でなくて「不服従の義務」というのばかりがずらずら出てきて驚いた。「不法な、あるいは不当な命令には服従してはならない」し、それをすみやかに軍事大臣に報告する義務があるというのだ。

ついいろいろ別の国のものも調べてしまった。今は国際的に標準になっている項目らしいが、それを権利というか義務というかのニュアンスもいろいろあって興味深い。

ちなみに小西さんは、今も「自衛官人権ホットラインの相談室という掲示板を運営している。


>>自衛隊法や自衛官の人権についてのご質問、隊内での暴力・いじめなど  
自衛官、家族のみなさんの悩みや不安にお応えするための相談室です。  
事務局長小西誠はじめ自衛隊や軍事問題の専門スタッフが相談に応じます。<<<


とある。


少し読んでみたが、日本のような同調圧力の高い国での軍隊のような閉鎖的な階級社会の実情はかなり深刻そうだ。


それにしても、半世紀の間、変わらず人権と軍事の問題を追及してきた小西誠さんって、すごい。


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by mariastella | 2018-02-04 00:05 | 雑感

パブロ・カザルスのおかあさん

金日成の回想で、武装、武装、闘争、闘争という風に突き進んでいく時代の流れに辟易としていたので、口直しに読み返した『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』。

カザルスの末の弟エンリケは、末っ子で母親から特別に可愛がられていた。
それなのに、エンリケにスペイン陸軍から召集令状が来た時、母はこう言った。

「エンリケ、お前は誰も殺すことはありません。誰もお前を殺してはならないのです。人は、殺したり、殺されたりするために生まれたのではありません‥。行きなさい。この国から離れなさい。」

で、エンリケはスペインを逃げ出してアルゼンチンに渡った。徴兵令を破ったものへの恩赦が行われて帰国したのは11年後だったという。

カザルスは

世界中の母親たちが息子に向かって、「お前は戦争で人を殺したり殺されたりするために生まれたのではないのです。戦争はやめなさい」というなら戦争はなくなる、

と夢想する。

世の中には、愛する者を守るために戦う、という人がいるし、すべての戦争は自衛の戦争という名目で始まるのだから、ことは簡単ではない。

フランスにまだ兵役があった20世紀、良心的兵役拒否をしたり、ベルギーに逃げたりした知り合いがいる。そういえば、昔、日本で、私の従兄がベトナム戦争から脱出したアメリカ兵をかくまった、という事件もあったっけ。

カザルスの言うことは、「お花畑」なことではない。

カザルスやアルベニスのことを考えると、カタルーニャの人々の独立への願いも身につまされる。

バッハを弾くと「人生の脅威を思い知らされて胸がいっぱいになる」

とカザルスは言う。

バッハが弾き継がれていけないような世界にしては、いけない。


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by mariastella | 2018-02-03 00:05 | 雑感

金日成主席『回顧録 世紀とともに』

今、書いている本は、「神」、「金」、「革命」という三つのイコンが、互いにどのように関わり合い、偶像化されて歴史や人を動かしているかという考察だ。

「革命」としたのは、この三つの言葉を「か」で始まるものにして頭韻を踏ますために使っているが、既成権力、権威を暴力、武力で倒して新しい権力、権威を打ち立てる「力」全般のことを指す。

「神」や「金」や「力」の礼拝、信仰、利用の歴史は複合的なので、当然ながら総論というのは難しい。

私の切り口はこれまで通り、日本とフランス、ヨーロッパを中心に、革命がらみでロシア、ラテン・アメリカなのだけれど、中華民国の孔教についてコラムで触れようとしているうちに、深みにはまってしまった。

韓国のキリスト教についてはブログでも書いたことがあるので、少し詳しくその経緯を書こうとしているうちに、金日成とキリスト教(長老派)の関係をチェックしようとして、ネットで回顧録の訳が読めることを知った。
彼の歩みはそれだけで非常に興味深いのだけれど、やはり、今の北朝鮮危機のこととシンクロする。

北朝鮮ではこの回顧録はきっとバイブルのように読み継がれているのだろう、金正恩も読んでいるのだろうなあ、などと想像しながら読むと、日本への恨みの深さがずっと維持、更新されるのも当然だなあと思う。

私は年をとるにつけますます、どうして、人が人を傷つけたり殺したりできるのだろう、と素朴に考えてしまうのだけれど、子供の頃は戦記漫画も読んでいたし、武器を持って戦うような遊びを普通にしていた。

「力を行使するのはアドレナリンが出て、不快ではない」ような刷り込みって、多分進化論的に定着した部分があるのだろう。

だから、この回顧録でどんなに日本軍のがひどさが書かれていても、それ自体は、時と場合によってはどんな国のどんな人でも「敵を人間とみなさない」ということがあるので、日本人として罪悪感を感じるというような気になるよりも、「敵を人間とみなさない」という刷り込みを一人一人がどう克服するかの方に課題を感じる。

一応の平和と豊かさを享受して力を行使しなくても生きていける立場にある者こそ、「弱い立場にある者を力で支配する」ことの意味とそれをどう否定するかについて考える使命がある。

金日成が『武装には武装で』という章で書いていること。 

>>>
(…)9.18事変によって、われわれには抗日戦争を遅滞なく開始すべき緊迫した課題が提起された。第2次世界大戦を予告する不正義の砲声に、正義の砲声でこたえる絶好の機会が到来したのである。 (…)日帝の満州侵略が伝えられると、革命家たちは地下から出てきて、それぞれ闘争態勢をととのえた。大陸をゆるがす砲声が、満州地方の人たちをわれにかえらせたといえよう。砲声は人びとを萎縮させたのでなく、むしろ覚醒させ発奮させた。敵の暴圧で焦土と化した満州地帯に再び闘争の気運が胎動しはじめたのである。
(…)われわれは、大衆を闘争のなかで鍛える好機が到来したと判断した。正直にいって、当時、満州地方の人たちは暴動の失敗後、挫折感にうちひしがれていた。革命を新しい段階に引き上げるには、彼らに自信をいだかせる必要があった。だが、それは檄を飛ばし、議論をたたかわせるだけで解決できるものではない。失敗をくりかえし、落胆している大衆に勇気と自信をいだかせるためには、彼らを新たなたたかいに決起させ、それを必ず勝利に導かなければならなかった。たたかいに勝利してのみ、大衆を悪夢のような深淵から救い出せるのであった。
(…)マルクス・レーニン主義の理論でも武装闘争の意義を強調してはいるが、どのような形式で武装闘争を展開すべきかという公式の規定はなかった。どの時代、どの国にも適合する処方などありえないからである。わたしは武装闘争の形式を模索するうえでも、ドグマにとらわれないように努めた。
(…)国家がないので正規軍による抗戦は望むべくもなく、また全人民をただちに武装蜂起させることも不可能であった。だから、わたしはおのずと遊撃戦を志向せざるをえなかった。
(…)レーニンによれば、遊撃戦は、大衆運動がすでに暴動に転化したとき、または国内戦争で大戦闘と大戦闘のあいだに多少の中間期が生じたとき、不可避的に進められる補助的な闘争形式であると規定されていた。レーニンが遊撃戦を基本的な戦闘形式とせず、一時的、補助的な闘争形態と見たことが、わたしには歯がゆかった。なぜなら、そのときわたしが関心をいだいて探究を重ねたのは正規戦でなく、遊撃戦だったからである。
<<<

共産主義革命は、もともと普遍的な「階級闘争」だったはずなのだけれど、それがヨーロッパ的文脈から離れた時は「民族解放」になった。
「近代革命」にはフランス革命風の自由・平等を理念とするものの流れが最初にあったからだ。
実際、金日成も言っているが、

民族解放の民族独立の革命と、
世界中の労働者を資本の搾取から解放するという普遍主義との

どちらを優先するのか、という問題意識は常にあった。

でも、結局、

「武装には武装で、反革命的暴力には革命的暴力で!」

というスローガンに行きつく。

今の中国は、マルクス・レーニン主義など教えていないそうで、共産主義は政治的独裁を担保しているだけのようだけれど、今の北朝鮮がアメリカに対して核武装をするというのは、金日成の理論といまだ地続きのようだ。

フランスにいると、アングロサクソン系の国とフランスのメンタリティのあまりもの違いにいつも驚くけれど、日本と韓国中国のメンタリティの違いもすごいなあとあらためて思う。
アメリカに原爆を落とされ、占領され、基地を提供しても、この密着ぶりだというのもそうだけれど、やはり、神、金、力の三位一体のバランスのとり方が違うのだ。

今少し書いているのだけれど、「メシア信仰」への感受性がだいぶ違う。日本はやはり海の向こうや山の彼方に住む先祖神に守られているのが基本で、弥勒菩薩の浄土思想というのも現世的ではないし、現世に現れてくれるメシアというのは「神風」みたいに自然神の自然現象みたいな形だ。

ここに書いていると長くなるのでこれ以上書かないけれど、朝鮮半島のシャーマニズムと日本のシャーマニズムとの違いにもかかわってくると思っている。

(これを書いたのは、この部分を執筆中の時で、我ながら、例えば、パリのバロック・バレエのクラスで踊りながら金日成のことを考えている日本人の私って…とシュールに思えるくらい朝鮮半島の歴史で頭がいっぱいだった。私の周りにいるフランス人は私の語る極東分析に飽きてしまったかもしれない。それにしても大学の紀要などの論文がネットでいくらでも読める時代はすごい。時々、しかるべき論文をリンクするだけでいいんじゃないかと思ってしまう時もあるけれど、誰でもがコアな論文をわくわくして読むわけではないだろう。思いがけない素材を頭の中に入れるだけで別の世界が別の視点で見えてくることの快感は特別だ。)




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by mariastella | 2018-02-02 00:05 | 雑感

チベットのことわざ

フランスで「チベットのことわざ」とされているものにこういうのがある。

「幸せに長生きするための秘訣。

食べるのは半分に、

歩くのは二倍に、

笑うのは三倍に、

愛するのは無制限に生きなさい。」

確かに、免疫とかストレスとか生活習慣病とか、あらゆる面で正しい気がする。


でも、


最初の「食べるのは半分に」、というところから、もう、難しい。


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by mariastella | 2018-01-30 00:05 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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