L'art de croire             竹下節子ブログ

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Karima Bennouneカリマ・ベヌーヌ(ベノウネ)

カリフォルニアのDavis大学国際法教授のカリマ・ベヌーヌさん(アルジェリア出身)はイスラム圏の国々を訊ねてイスラム法の原理主義的適用に対抗してレジスタンスやアンチ・テロリズム活動を行っている人々へのインタビューをもとにしたベストセラー本『Your Fatwa Does Not Apply Here』を書いた。

特に英語圏の人々に、イスラム圏の国々にある草の根の人権活動や反過激派の実態を知らせたかったからだ。

彼女はもちろんフランス語も自由に話せる。アルジェリアで人類学教授であるきょうだいからステレオタイプから脱する力になる証言の引き出し方を学んだと言っている(父親も生物学教授だったというから知識人一家である)。

フランス語のインタビューを見つけた。フランス語OKの人は必見。

その中で、アフガニスタンでも女性の人権擁護をするイマムに出会ったことも話している。「もし兄弟や夫が姉妹や妻を尊重しないならばイスラムを尊重しないことになる」というイスラムの中の言葉を根拠にしている。宗教を人間が勝手に解釈していることで宗教のエッセンスを破壊することをイマムも心配しているのだ。

このカリマさん、すてき。私の好み。

日本語で何かないかと検索したらひとつだけあった。

英語のスピーチの右に日本語の訳がついている。

これはいい。日本語の訳だけ読んでも大切なことが十分伝わると思う。

一応フランス語版も貼り付けておく。


実は、この彼女が、先日の『シャルリー・エブド』でもインタビューを受けて語っていたのだが、全面的に納得させられた。(続く)


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by mariastella | 2018-01-10 00:05 | 雑感

絶対平和主義という覚悟

先日、ウーマン村本という人のテレビ(『朝生』)での発言がリテラに載っていたのを読んだ。


日本が武装解除したからといってどこの国がすぐに侵略してくるんですか、という疑問はすごく分かる。こういう感じだったらしい。

>>>

井上「ちょっと質問していいですか。村本さんはじゃあね、非武装中立ね、それは本当に一番筋が通ってるけど、私は間違った理想だと思いますが、ただ多くの人は本当に非武装中立が何を意味するか理解しないで言っているわけね。じゃあ、攻撃されたらどうしますか?」
村本「なぜ攻撃されるんですか」
井上「いや、それを言ってんの。侵略されたら、いや、侵略されないに越したことはない。じゃあ、もし侵略されたらどうするんですか。白旗を挙げて降参なの?」
村本「僕はそっちかなと思います」
井上「そしたら侵略者に対して侵略のインセンティブを与えちゃうよね。それでいいの?」
村本「なぜ侵略される、意味が分からないんですよ」
落合陽一「だって知らない人に通り魔で刺されたりするでしょ?」
村本「だからなぜ中国や北朝鮮が日本を侵略するという発想になるのか、私は分からない」

<<<

で、その後、

>>>

田原「ちょっとまって。具体的に言うと、もしも日本が米軍と自衛隊がいなかったら、尖閣は中国が取るよ」
村本「分かりました。じゃあ僕は逃げずに答えますけども、僕は、僕の意見はですよ……」
田原「取られてもいいわけね?」
村本「僕は取られてもいいです。僕は明け渡します。僕はですよ。うん」
落合「なんで?」
村本「だって、だってもし皆さんの身内に、自衛隊とか軍隊がいて、その身内が人を殺して国を守ることって……」
井上「じゃあ自分の身内が殺されるってときに、敵を殺さないと自分が殺される状況に置かれたらどうするの?」
村本「じゃあ、殺されます」
落合「なんで?」
村本「だって誰かを殺すわけでしょ?」
井上「いや、そうことを言う人は多いの、ね? で、僕はそれはほとんど欺瞞的で……」
村本「僕の考えは僕の考えでいいでしょう!」

<<<


とあり、この村本さんはネットでしっかり「袋叩き」にあったのだそうだ。

この村本さんの言葉を聞いて、沖縄に住む方から少し前にいただいたメールに書いてあった言葉をすぐに思い出した。

「基地問題
勿論要らない! 中国や北朝鮮の脅威を持ち出し、辺野古必然を言う方々多いですが、基地がない為に 日本国がやられるなら潔く受け止めたらよし。」

というものだ。実はこの言葉は私にとってすごく衝撃的だった。

私は、911の後に緊急出版した『テロリズムの彼方に、我らを導くものは何か』という本の中で、自分の平和主義者としての立ち位置を決めた。

自分に直接の脅威が迫っているわけではない時に決めておかないと、実際の危機を煽られるたりすると、理性など吹っ飛んでどう行動するか分からない、と思ったからだ。この本と、『アメリカに「NO」と言える国』で考察したフランス型ユニヴァーサリズムと、無抵抗で殺されたナザレのイエスの絶対平和主義を忘れたくないからだった。

でも、いくら心で思っていても、実際に、一応平和で豊かで自由な国で、平和で豊かで自由に暮らしている結構な身分で、「たとえ殺されても殺す側にはなりたくない」などと口にする勇気などない。

村上さんが、「そうことを言う人は多いの、ね? で、僕はそれはほとんど欺瞞的で……」と言われてしまったように、偽善的、欺瞞的、理想主義のお花畑などと言われるだろうと自分で先回りしてしまう。

こんなことはなかなか言えないだろうと思っていた。

例えていえば、広島の被爆者の方が、「核の傘に入らないとまた攻撃されるというならそれでもよし」と言っているような衝撃だ。

でも、南北朝鮮が話し合いに入り、ひょっとしたら戦争状態が終結するかもしれない、という状況が垣間見えてきた今、村本さんの言っていることの方が正しかった、と言われる日がいつか来るかもしれない、とかすかな光がかすめていった。


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by mariastella | 2018-01-07 00:05 | 雑感

戌年に捧げる

日本風の正月3日は終わったけれど、ヴァティカンのある枢機卿が飼っていた犬の話を最近読んで、犬のことを書きたくなった。


ヴァティカンには猫は勝手に出入りしているけれど、ちゃんと登録されていた犬はその犬だけで、具合が悪くなったときは、ベネディクト16世が、犬の傍についていてやれるようにと枢機卿に休みをくれ、犬が死んだときは、動物のための天国があると思う、と言ってくれたという。(職員たちの飼い犬はリードをつけて散歩させていたが、この犬だけはフリーで散歩が許可されていたのだそうだ。)

枢機卿が朝つける服によって、一緒についていけるのかどうか、帰りはいつなのかなどすべて把握していて、枢機卿の危機を救った感動的なエピソードもある。

今年は戌年で、うちには何しろ猫グッズばかりなので、犬の絵やグッズは少なく、それでも少し飾った。

でも、このヴァティカンの犬と枢機卿の熱愛ストーリーを読んで、自分の犬のことを思い出した。やっぱり、犬への愛って、犬一般ではなくて、特別な関係性、絆なのだと思う。

アイパッドミニで写真をとるようになってうちの猫たちの写真は飛躍的に増えたけれど、半世紀前の私の愛犬の写真など、手元にないし、そもそもペットの写真を撮る、という習慣などない時代だった。

で、当時、私はデッサンすることを思いついた。その頃人気だったスピッツで、デッサンしやすいように、動かないように玄関のたたきに閉じ込めた。

すると外へ出たくてドアの方ばかり向いているので後ろ姿ばかり。

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その後であきらめてねそべってしまった。でも相変わらず外の方ばかり見ている。
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無理やりこちらに向ける。

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もちろん協力的ではないけれど、出してくれと騒ぐこともない。


半世紀前以上前のデッサンだけれど、手元で見られる愛犬の思い出はこれだけなので、フランスにもちゃんと持ってきて、スケッチ帳は本棚にちゃんとおいてある。

無条件の愛、とか見返りを期待しない忠実、とかがこの世に存在することを教えてもらった。

でもそれを享受するには基本的に一対一の関係である必要がある。


物心ついたときから犬がいたが、私は家族の末っ子だったので、いつもヒエラルキー最下位で、犬からまったくリスペクトされていなかった。

11歳の時にバレエ教室の友達の家のスピッツが生んだ子犬をもらったのが「私の犬」との出会いだったのだ。

「私の犬」の名前はチロだった。墓標もデザインした。


この戌年に愛犬への感謝を捧げます
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by mariastella | 2018-01-06 00:05 | 雑感

2018年のスティーブン・ピンカー

前にスティーブン・ピンカーについての記事を書いたことがある。

これこれ


そのピンカーが、2月にアメリカで『Enlightment Now』という新刊が発売予定ということで雑誌のインタビューに答えていたのを読んだ。


20世紀末以来の流行である歴史観に、人間の理性偏重と近代化が2度の大戦、ホロコースト、全体主義をもたらし、今は環境破壊と人類滅亡の危機を招いている、というものがあるが、自分は、あらゆる分野において今の世界は過去最良であると断言する、


と、相変わらず説得力のある言葉だ。

女性や子供の産褥死、夭折、虐待、奴隷労働、餓死などは劇的に減り、戦争や暴力も後退した、と。


その理由として、ヒューマニズムの伝播、国際法の拡大、の他に世界の女性化があるという。

支配と栄光の欲望は男性性に関連し、男は罵倒に対してより暴力的に反応する。それは男性ホルモンのテストステロンのせいで男による殺人は女による殺人の10倍で、類人猿にテストステロンを投与すると、暴力的な行動を誘発する。

今は女性が教育を受けて社会に影響力を持つことで社会の暴力性が軽減する。

女性が避妊し、遅く結婚し、子供の数が少ないことで、望まれて生まれた子供たちは虐待される率が少なく教育も受けられる。

一夫多妻が減ったことも大きい。一夫多妻の世界では、家庭を持てない男たちが、暴力集団に囲い込まれる率が多いからだ。etc...

以上は、前著から一貫した主張だが、その全てを徹底して統計と数字から叩きだしている。


ヒュームとライプニッツ以来の人間の認知方法の対立が、ハイブリッドなものだということで落着したのは前世紀の終わりだった。ライプニッツは、人間の思考は論理の適用からなるとし、ヒュームは記憶と観察と組み合わせにベースがあるとしていた)。

新理論の登場や自然淘汰の繰り返しや学習の積み重ねが、少しずつだけれど人間をより非暴力的に進化させてきた。

ピンカーってpinkerで、「よりピンク」、つまり世界を「よりバラ色に見る」という含意がある、とも書いてあった。気がつかなかったが、おもしろい。

もちろん、「総論」としての「進歩」は「各論」の不幸の助けにはならない。

いくら医学が進歩して次々に新治療法ができたと言われても、自分が難病にかかったり事故に遭ったりすれば何の助けにもならない。

また、ピンカーの説には危険ゾーンもある。

数学のフィールズ賞やノーベル賞の授賞者に男性が圧倒的に多いことや、チェスの試合が男女混合でないことについて、それは知性の問題ではなく、知性の傾向の違いにある、脳には非人間的な抽象を扱う部分と、人間的なものを扱う部分があるという。男性に自閉症が多いのもその極端な形だという。

「知能指数」の「民族差」の説明の仮説も危うい。

それでも、ピンカーの言葉にインスパイアされて、ビル・ゲイツは自分の人道活動を飛躍的に拡大した。ピンカーの言葉が人々の耳に届く意味はある。

世の中にはペシミスティックな言葉の方が多いし、マーケットも大きいから無力感を感じる人の方が多いけれど、自分たちは恵まれている、と思える人々が、それを少しでも還元しようというひと押しも必要だ。

ピンカーのオプティミズムにはやはり希少価値があるようだ。


ピンカー目線で2018年を見通すと、


朝鮮戦争が南北の和解で終結し、さしあたっては一国二制度で共存し、

日中韓の問題も、日本が韓国に何をしたとかしないとかでなく、人類が、特に戦時において広く、弱者を搾取、虐待してきた歴史を反省するという共通の視点に立った建設的な方向での共存を目指す、

イランやトルコも、もともと多民族的な国家なのだから、詭弁でない「自由」の方に向く、

などの夢がまんざら夢に終わることがないのかも、などと思いたくなる。




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by mariastella | 2018-01-05 00:05 | 雑感

「テロリストは僕だった」と2017年のマクロン

「テロリストは僕だった」というドキュメンタリーを視聴して、

「ベテラン・フォー・ピース」という退役軍人たちの平和活動を知った。



沖縄からベトナムやイラクに出兵した米兵たちの証言と覚醒の意義は大きい。

沖縄の基地増設反対の座り込みなどに、沖縄の人以外のプロ市民がいるとか、在日だとか反日だとか、だから沖縄の多くの人は実は受け入れているのに「活動家」に利用されているのだ、という類の批判がもっともらしくなされることがあるが、このような運動は多様な人が協働してこそ大きな意味を持つということは前にも書いた。

そんな中に元沖縄の米海兵隊にいた兵士もいるのだということをもっと強調してほしいくらいだ。

一撃必殺、と繰り返させる兵士の「洗脳」の様子は、シリアのISの軍事訓練と変わらない。人間を殺すことについて「命令に従う」という以外のオプションしか与えられないという点ではヒットラーのナチスや世界中の死刑執行官も同じだ。

殺される方ももちろんだけれど、殺す側の尊厳もそこにはない。

兵士になれば教育を受けて、家を建てて仕事も見つかる、などという甘言に惹かれる若者たちの存在は、新自由主義経済社会が生む経済格差の結果でもある。

従軍司祭たちと話をしてみたい。

七二年前、原爆を搭載した飛行機を祝福した従軍司祭もいた。

アメリカのような国では従軍司祭の影響は看過できない。

兵士たちは故郷で「祖国のために戦う英雄」として崇められる。

死ぬか生きるかの前線では、「聖なるもの」にすがる気持ちもあるだろう。

フランシスコ教皇のようにはっきりと戦争を糾弾している首長のいるローマ・カトリックの体制に属しているカトリックの従軍司祭は、今、どういう折り合いをつけているのだろう。

沖縄の日本人信徒から慕われている米人カプチン会のウェイン師が新司教になることはどういう意味を持ってくるのだろう。

2017年、フランスのマクロン大統領は世界中からポジティヴな評価を受けた。

第一に、「先進国」を席巻しつつあるかに思われるポピリュズム国家主義者に選挙でストップをかけて勝利したことがある。

第二に、トランプの不支持と悪評が増し、イギリスの首相はブレクジットで苦戦し、ドイツのメルケル首相も過半数を確保できず弱体化している、という他の「欧米諸国」のリーダーの状態に比べて相対的に強く見える。

第三に、冷戦末期以来、他の先進国が新自由主義に拍車をかけてきたのにフランスだけが、伝統の「社会民社主義」の慣性を引きずって「規制緩和」が遅れていたのをマクロンがついに、新自由主義の中での競争力をつけることを優先的にしているので、大企業家や富裕層から大いに歓迎されている。

自分はずっと4時間睡眠で困らないから、ということで、閣僚にも結果主義の激しいノルマを課しているところはブラック企業みたいだ。

でも、これらの高評価を背景にした自信を持って、地球温暖化の問題などについては、フランスを、久しぶりに「アメリカにNOと言える国」にしている。

地球の環境を守ることと、戦争をなくすことと、武器を捨てることは、本当は一体であることだ。

2018年が未来にとってどういう意味を持つ年になるかは、私たち一人一人の覚悟にかかっている。


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by mariastella | 2017-12-31 00:05 | 雑感

トロカデロの「勝利の踊り」

先日、イエナからエッフェル塔の方に向かってトロカデロを横切った時に、ギリシャの女神アテナの彫像(樹脂製)の前を通った。サラブゾルが1925年に制作したがここに置かれたのは1989年とかで、今まで気づかなかった。

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動きがバロックぽくって気を惹かれて銘を見たら、「勝利の踊り」とあった。

「神々が巨人たちを征服するのに貢献したアテナ」、「物質を支配する知性」に捧げたものだという。(パラス・アテナとあるのは、トリトンの娘で宛名と共に育ちやはり戦いの乙女だったパラスがフランスではアテナと合体したりアテナの異名となっているからだ)

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「物質を支配する知性」というのはタロット・カードの大アルカナの「力」の解説でもある。

このカードのたいていの意匠は若い女性が楽々と、荒れ狂う獅子の口を鼻の鎖でおさえたりしているもので、精神が物質を、知性が本能や欲動を、女が男を、天使が獣を、魂が肉体を支配する、という意味だとされる。


そういえば、「柔よく剛を制す」、という言葉もあったなあ、と思ってネットを検索するとその由来は

>>古代中国の 兵法書「三略」に記載されている。 「柔能剛を制し、弱能く強を制す」とある。 「軍しん」 という、戦についての予言書から引用された句で、「三略」はそれに続けて、 「柔は徳で、 剛は賊である。弱は人が助け、強は人が攻撃するものである」と説いている。<<

だとあった。


「柔は徳」というのがなかなか奥が深い。


古今東西、せっかくこういう考えがあるのに、今の世界を見ていると、弱肉強食がまかり通っているのはいったいどうしたことだろう。


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by mariastella | 2017-12-29 00:05 | 雑感

ノートルダム・デ・ランドと宮古島

フランスの西、ロワール・アトランティック県(県庁所在地はナント)にノートルダム・デ・ランドという地区がある。農業と畜産が主要産業ののどかな場所だったのだが、そこに新たな飛行場を作る計画が1960年代から画策され、1970年代に具体的になり、石油危機でいったん凍結し、21世紀に入って、本格的に飛行場建設計画が始まった。

地元民をはじめ、多くの反対者が声を上げた。現在あるナントの飛行場だけで十分であるとも言われる。反対者が予定地を占拠して、もう何年も計画が進まず、住民投票(と言っても、地域全体のもので「経済効果」を期待する人たちの賛成票が上回った)で、政府は反対者の実力排除を決定、反対する人々はゲリラ化して…と、「三里塚闘争」を思い出させる。

 

沖縄の方からカトリック新聞(2017/7/9)に掲載された沖縄の伊志嶺節子さんという方の投書を送っていただいた。

そこには、基幹産業がさとうきびで、美しい海と空の輝く宮古島に、2014年に、500人規模の自衛隊配備が計画され、翌年には700~800人へと規模が拡大したこと、警備、地対空ミサイル、地対艦ミサイルの三部隊を配備するという候補地(実弾射撃場、着上陸訓練場も含む)まであげられたと書いてあった。宮古島は飲料水を始めとして多くを地下水に頼っていて、その水源がその配備計画周辺地区なので汚染も予想されるのに、美しい島を『基地の島』にして、いったい国は軍備で何を守り、どこへ刃を向けようとしているのか、と伊志嶺さんは書く。

同じ紙面に、「パプアニューギニアとソロモン諸島の森林を守る会」の報告の記事も載っていた。1970年以来の日本やマレーシアの企業による不法伐採で川は汚れ、製材の防虫処理に使われるヒ素が地下水を汚染して農業や漁業にも悪影響を与えているという。

何だか、愕然とする。

今は、民間空港だろうが、道路だろうが、建設のために自然を破壊することの重大性が理解されてきている時代だ。森林の大規模伐採が、環境汚染だけでなく地球の温暖化を促進することも知られてきた。

民間空港や道路の建設に反対するために何年も抵抗している人が世界中にいる。

それなのに、沖縄の美しい島で、米軍基地ならぬ自衛隊の基地建設のために環境を破壊するのは粛々と進められるのだろうか。

米軍基地ではないから、日本政府が日本の領地に日本を自衛する部隊のための施設を作るのだから、文句はないだろう、ということなのだろうか。アメリカから買い入れる防衛装備を配備する場所も必要だから?

ほとんど時代錯誤的な気がする。

日米何とかの問題とか、沖縄差別の問題とか、自主防衛の問題とかの以前に、環境破壊「だけ」でも今は「アウト」な時代であるはずだ。

普天間移設のための辺野古の埋め立て、などと言われると、「米軍基地」という枠で語られるから、安全保障問題ばかりがクローズアップされるけれど、そもそも、軍産企業の利益のために環境破壊をすること自体が既に問題なのでは?

思えば、フランシスコ教皇は回勅『ラウダトシー』で環境破壊を激しく糾弾した。

軍産複合体の功利追及はもちろんだが、どこの国がどういう兵器を持っているからどういうリスクがあってどう対応するか、という「戦略」上の問題ですら、人間が自分の住んでいる惑星を汚染し破壊していくという「いのちの冒涜」の重大さと同じレベルで語れるものではない。

米軍基地であろうと自衛隊施設であろうと、世界中で増幅するばかりの無用な空港や道路であろうと、環境をむしばみ、自然災害を助長し、将来に生きる世代の命をおびやかすものにはきっちりと「否」を表明することが今の恩恵を受けて生きている私たちの義務なんだろう。

沖縄でも、基地建設も、リゾート施設やゴルフ場などの「開発」も、「うちでは困る」というような抗議の段階をもはや超えている気がする。


基地の場所を提供して補償金をもらえるだとか原発誘致で地方が潤うだとか、リゾート施設の観光客誘致で経済が活性化するだとかの論理は、考えてみるとみな「金」の論理だ。時代を見据えた命の質、生活の質は視野に入っていない。

戦争がおきればもちろん環境も人も破壊されるけれど、さまざまな「便利」の追求も、度が過ぎると環境や人の尊厳を確実に破壊していく。

沖縄の方から「沖縄のことを考えてくださってありがとうございます」というお言葉をいただいたのだけれど、「沖縄を考えること」で見えてくるのは、「沖縄のこと」ではなくて、自分自身の中にあるさまざまな誘惑だとつくづく思う。


とりあえず自分の「今いるところ」が便利で安全で快適であればよし、

という短いスパンのエゴイズムに依拠する「基準」の妥当性と向かい合うことを余儀なくされる。

パリの寒空の街角で物乞いをしている人をじかに見たり、難民の深刻な状況をTVで見たり、貧困の中で孤立する人についての記事を読んだりする度にも、「このままでいいのか」とか「何とかしなくては」という思いとが浮かび上がる。でもまた、それがすぐに薄れることで逆にひそかに溜まってくる罪悪感がある。さらにその罪悪感を自覚することで後ろめたさが多少薄れる、という繰り返しだ。

沖縄の地理も歴史も、「本土」の人からは遠いかもしれないけれど、日本からもっとずっと遠くに暮らしている私には、切り離せない一体だ。


前の記事にも書いたけれど、東京で台風情報を見ている時は、「ああ、まだ沖縄でよかった」などと思うけれど、フランスから見ていると、沖縄の危機は日本の危機、私が安全に豊かに暮らせてきた日本での生活は沖縄の人々の犠牲と一体だったのだと覚醒できる。

パリのメトロの階段でうずくまっている人から目をそらすことよりも、沖縄のことを考えないことの方が難しい。

「沖縄のことを考えさせてくださってありがとうございます」と言いたいのは、私の方だ。


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by mariastella | 2017-12-23 07:07 | 雑感

「普遍」について思うこと

このところ沖縄関係の番組をネットで続けて視聴したせいもあって、沖縄をめぐる他のいろいろな記事もザッピングした。糸数慶子さんという参議院議員の方がいて、かっこいいな、と思った。すると国連の女性差別撤廃委員会で沖縄の民族衣装をつけたこの方をコスプレだと言うなどして、攻撃する人も少なくないのを知った。


彼女を批判する言葉は「サヨク」とか「プロ市民」とかのお決まりのものもあるのだけれど、意外だったのは女性で彼女を批判する人が結構いることだ。女性を批判する女性って、男性から「重宝されている」気がする。

彼女らの中には国連の女性差別撤廃条約反対とか、男女共同参画社会反対とか、カジノ解禁、原発、九条改正、核武装はOKのようなことを表明する人がいる。そう、これらの争点には共通したものがある。力や金の強者の論理の中には当然「男尊女卑」みたいなものが組み込まれるからだ。だから、女性論者がそれをまとめて支持してくれたら、「ほーら、少なくとも、女性も賛成してるだろ」というのでその部分の批判をかわせる「都合のいい」キャラクターになるのだ。

彼女らがかわいいとか美人だとかならもっと便利だ。フェミニストでギャーギャー言うのは「女として男に相手にされない」やつだというステレオタイプを補強できるからだ。


で、沖縄の基地問題にも、そういう人がいて、沖縄防衛情報局とかの主任というGさんという女性が若くてかわいくて、話し方も感じがいい。沖縄タイムスとか琉球新報とかがいかに偏向しているか、一部のサヨクがどんなに沖縄の世論について誤解を与えているかなど、熱心に放送している。ネトウヨのアイドルなんだそうだ。私はこの手のネット放送は視聴しないことにしているのだけれど、このG さんがこんな風に信念を持った感じでがんばっているのがシュールでかなり見てしまった。お父さんの影響だという。彼女は早稲田大学を出ているのだから、そのまま東京で就職する選択もあっただろうけれど故郷に戻って「極右」化していく。


逆に、東京で就職していたのに、故郷に戻って米軍基地への反対運動に積極的に携わる女性もいる。こういう沖縄のコミュニタリアニズムというのも不思議と言えば不思議だ。


いろいろな地方から、いろいろな国から志を同じくする人々がやってきて平和のために連帯するという方が私には自然だと思う。それがアメリカ人だって不思議ではない。那覇新司教に任命されたウェイン師が慕われているのを見ても分かる。


多様であればあるほどいい。


それなのに、高江ヘリパッド増設反対の座り込みで多くの人がよそから来た運動家だとか、本当の沖縄の人は実は賛成している人が多いとか、そういうことが基地支持の根拠にされているのに驚く。


実際は、反対派の人はグアムの人とも共同声明を出しているとかで、連帯を広げていくのはいいことだと思うのに、「地元の問題だから地元民が本気で騒ぐなら許せるが部外者に利用されるのはよくない」という批判の仕方がある程度通用して、反発の材料になること自体が不思議だ。


それは「本土」でのいろいろな「運動」も同じで、実は純粋な日本人じゃない者が混ざっているとか煽動しているとかいうのが批判の理由として通用しているのも不思議だと思っていた。

多様な人々が連帯できる普遍性を持つ理念にのっとった運動の方が長い目で見て本当の前進が可能になると思うのだけれど。


いわゆる「人種」だって、実は生物学上の種とは関係がないからいくらでも他人種間で子供を作ることができる。他国籍間は言わずもがなだ。もともと移民国家であるアメリカのニューヨークなどの大都市には、本当にいろいろな国の人がいるばかりでなく、何代にもわたっていろいろな国出身の先祖を持つ人や、いろいろな国で暮らしてきた人もたくさんいる。もちろん、パリやロンドンでも同じだ。そんな人たちの多くは、祖先のうち一部の人の出身共同体のために特に帰属意識を持つこともなく、「ルーツ」に戻ることが必要というわけでもない。


むしろ「普遍」という感性を獲得していく。


そして、「普遍」の感性で結ばれた共生でしか本当の共生、「共に生きる」ことはできないと分かってくる。みんなが一つの大きな命の一部分なのだから、どこかで排除し合っていたり攻撃し合っていたりしたら、自己免疫疾患みたいなものだ。


弱い部分の声に耳をすまそう。そして、「共に生きる」ということの意味を語っていこう。


視座が変われば見え方は変わる。

視野を広げれば見えなかったものが見える。

見え方が変わることを経験すれば、見えるものが増えてくれば、見えないものへの感性も養われる。

実用とか、リアルポリティクスとか、目先の損得とか、行き過ぎた「今ここで」主義とかによって、共に生きるいのちの意味を矮小化してはいけない。


何を考え何を選択するにしても、まずそのことを自分で何度も言い聞かせておかなくては、とあらためて思う。
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by mariastella | 2017-12-22 07:19 | 雑感

ロザリオの十字架

私はあちこちの教会などを訪れる時、メダルやロザリオなどの小物を買うのが好き。

たいていは人に差し上げる。
日本人の場合は普通、アクセサリー感覚や旅行のお土産感覚で喜んでくれるけれどフランス人なら、相手の宗教などによって微妙だから結構気を使うので、カトリックだと分かっている人にしか上げられない。

今の季節、毎年、生徒たちにクリスマスソングをアレンジしてあげるけれど、「クリスマスを祝わない」のが信条や方針になっている家庭もあるので要注意。

それでもレッスン室にクリスマスの飾りつけを毎年している。

で、先日、ふとイタリア製のロザリオを手に取ると、十字架のイエスの脚がなにか不自然に開いているのが気になった。
膝がしっかりと開いているのだ。

よく見ると、その奥に見える十字架の木の部分が青い。
青は聖母の色で、ロザリオの祈りも聖母に捧げるのが中心だから、この青い部分にひょっとして聖母の姿でも刻まれている?

いやいや日本じゃあるまいしそんな細かい細工がしてあるわけがない。
日本の数珠などの信心用具に珠の一部が凸レンズになっていて除くと仏さまや観音さまの絵や梵字が見えるものがあるからそれを連想してルーペで見てみた。

分からない。多分、何もないのだろう。
でも、その気になるとなんでも見えてくる。
他のロザリオや十字架をチェックしたら、そんな風に開いているものはなかった。
これまでは十字架上のイエスの視線、顔の向き、上か下か右か左かをチェックしてその歴史や意図、神学的意味をいろいろ調べたのだが、脚は考えたことがなかった。
真っすぐ、足の甲の部分だけ交差、脚も交差、膝が曲がっているけれど平行、イーゼンハイムの祭壇画のようにやや内股、などいろいろあっても、こんな不自然なのはあったっけ…?

ついでにネットでも検索した。何となく仮説が浮かばないでもないが、もっと調べてみよう。(この十字架を作ったメーカーも分かっているので検索したのだけれど何も載っていなかった。)
下が拡大写真。実物は開いた脚の後ろの部分がもっとはっきりと青い。何だかイエスの視線も、まっすぐ下を向いていて膝の後ろをのぞき込んでいるように見えたりして。

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by mariastella | 2017-12-20 03:33 | 雑感

『沖縄と核』

『沖縄と核』

9月に放映された分の『沖縄と核』をYoutubeで視聴した。


ネットにある賛否両論の感想も読んだ。


普通の「本土」の人にとって、沖縄は、地理的、歴史的にもそうだけれど、心理的にもいかに「遠い」のか、と思い知らされる。

この秋に日本に行った時に、一週間おきに二度も台風に遭遇して困った。楽器を持っての移動のことなど気になって、何度も天気予報をチェックした。

そのたびに、「今、那覇は暴風圏に入って…」などと南国風の街路樹が強風に揺れる映像が出てきた。

そしてそのたびに、私は、「ああ、まだ沖縄か、まあ、東京に来る頃には勢力が落ちているだろうな」などと希望的観測をしていた。

その奥には、「東京直撃だったらいやだけれど、まず他のところに上陸して被害を巻き散らして勢力が弱まればいい」というような気持が無意識にあったような気がする。


東京から見る沖縄の「遠さ」はロンドンにとってのスコットランドやアイルランド、マドリッドにとってのカタルーニャどころではない。


この「遠さ」があるからこそ、平気で「核の傘」とか「抑止力」とかの「本土防衛」が成立したのだろう、と今さら考えさせられる。


第二次大戦の証言者はどんどん少なくなっているけれど、キューバ危機の頃の証言者はまだ見つかって、それでもみな高齢だからか、恐れることなく証言しているのは貴重だ。「沖縄の人は知る権利があると思う」と言っているのが印象的だった。

日本に米軍基地がなければ、北朝鮮や中国が日本を攻撃する必然性はないに等しい、という考えは確かにそうだと思う。

北朝鮮の今の核開発は対アメリカのもので、日本を敵視するだけならのすでにノドンだのテポドンがある。

「核保有国の中で核兵器を使って他国を恫喝、攻撃する国は米国だけだ」という北朝鮮の反論も実情に合っているのかもしれない。


すでに、ソ連、中国という「隣国」との核戦争の危機を切り抜けたのに、今のロシアも中国も核兵器を廃棄はしていない。

軍産複合体の利益を考えずに純粋に日本の「平和」を考えるなら、少なくとも、

東北アジア非核地帯条約のようなものが実現すればよかったのに。


いや、過去形で書いてはいけない。

そして、たとえ「東北アジア」が非核地帯になったとしても、世界のどこで核兵器が使われてもそれは環境破壊と人類絶滅につながるのだから、やはり地球全体を「非核地帯」にするという視野を失ってはならない。

「暫定的」であるべき核の抑止力、核の均衡などを「偶像化」してはならない。

どんなリアルポリティクスも、最も小さい命をもリスペクトするという「あるべき姿」を見失ってはならない、とつくづく思う。


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by mariastella | 2017-12-19 00:05 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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