L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 396 )

シスターたちのロック  ラス・シエルバス

ジョン・レノンは


「キリスト教は消滅するだろう。未来がそれを証明する。今僕たちはイエスよりも人気がある。ロックとキリスト教のどちらが先に消えるかは分からないけれど」


と言っていたそうだ。

それから半世紀が経ち、伝説のロックスターたちは次々と姿を消し、彼らに夢中だった戦後生まれの世代も老いを迎えている。


でも、キリスト教は消滅していない。

ロックも。


1月22日にパナマの「世界青年の日」にローマ教皇の前で、ペルーのロックグループ「ラス・シエルバス」が演奏した。

8-12人と編成は変わるが、ボーカル、ギターやドラムの他にチェロ、バイオリン、クラリネットなど楽器の幅が広い。

シエルバスとは「奉仕者」という意味だ。

メンバーは全員、同じ名のペルーのリマにある女子修道会で5年前に出会ったシスターたちだ。22歳から37歳。

信仰の力を見せるために福音宣教の別の形を求めたのだという。

ほんとうに楽しそうだ。



テキストは宗教的なもので、『神に信頼を』というこのヒット曲はネットで200万回も再生されたそうだ。




なんとなく、60年代に『ドミニク』の歌で世界的なヒットを飛ばしたドミニコ会のベルギー人シスターのことを思い出した。私は当時の日本で耳にしたペギー葉山の歌をよく覚えている。みんなが口ずさんでいた。作詞作曲が修道女でドミニクとは聖人の名なのだとはまったく知らなかった。


スール・スリール(ほほえみのシスター)の悲劇を思うとつらい。日本でもこの映画が公開されたから知っている人もいるだろうけれど、シスター・スマイルという名で莫大な利益をもたらせたはずのシスターは、不正経理の犠牲になり、借金を背負って修道院を出て、それを返すために歌い続け、同性愛のカップルだった別の元シスターと心中した。



ドミニクの歌がヒットして半世紀以上経つ。いろいろ住みにくい時代にもなっているけれど、南米を拠点とするシエルバスのシスターたちの楽しそうな様子を見ていると、世の中には「よくなったこと」もたくさんあるなあ、となぐさめられる。


by mariastella | 2019-02-14 00:05 | 宗教

『仏教と女の精神史』

秋に日本で買った宗教とフェミニズム関係の2冊の本はどちらにも大いに啓発されたけれど、『仏教と女の精神史』(吉川弘文館)の切り口は特におもしろい。


仏教も、キリスト教もイスラム教も、いやほとんどの「宗教」は父権制を支える時代と場所の影響をうけているから、ちょっと突っ込んでみると「女性差別」満載だ。

で、普通、フェミニズム神学だとかフェミニズム的なアプローチというのは、その宗教の聖典だとか教義だとかをフェミニズムの光で読み直して、解釈しなおすというタイプのものが多い。教祖がxxxと言っているけれど、実はそれはこういう意味で、後世によって歪められたのだとか、実は絶大な徳で崇敬されていた女性宗教者が存在するのだとか紹介するものもある。

でも、この本の疑問はこうだ。

まともに見ていけばこれほどまでにあからさまな女性差別を含んでいるのにもかかわらず、たいていの宗教の最も熱心な信徒で担い手はいつでもどこでも女性たちだという事実がある。

仏教でいえば女性には五障三従が課せられていて、成仏するにはまず「変性男子」になる必要があった。こんなに差別的なシステムなのに、どうして女性たちは「信受」してきたのか。

たとえば鎌倉時代の場合、女性たちは別に「変性男子となって成仏できますように」と祈ったのではなく、先だった夫や子供の弔いのために祈る必要があった。その時代でも、女性の方が長生きだったということだ。あるいは子供がない女性は自分の死後のために弔いを頼むために寺社に寄進することもあった。

「成仏」がどうとかその条件などより、もっとプラグマティックな、弔い儀礼の存続が優先していたのだ。

それだけではない。仏教における女性差別が明らかに進んだのは室町後期以降だ。

読んでいくとフェミニストなら胸が悪くなるような女性蔑視の「教え」「穢れの不均等」が定着する。

それなのに、どうして、宗教は女性に人気であり続けたのか?

もちろん複合的な問題なのでここで一言では言えないけれど、結果として、「女性たちが隔離されて、隔離されることで男性から直接のプレッシャーを受けずに自由にふるまえる世界を獲得した」というのがある。

なんだか「女子校」における生徒たちののびのびした振る舞いだとか、サウジアラビアで体験した女たちの集まりのきらびやかさとかを思い出す⁽女子校のことは伝聞でしか知らないけれど⁾。

男たちの目には全身黒づくめでそれこそ性別すら確認できない女たちが、それを脱ぐと宝石ずくめというやつだ。もともと「家庭内」では乳幼児に対して支配的なスタンスにある女の権威が教義によって委縮することなく、男フリーの場所で実は強化されている。

ふと、あんなに宗教からもジェンダーからも自由だと思っていた学問の世界から一転して観想修道院に入ってしまったエディット・シュタインのことも考えてしまう。


by mariastella | 2019-02-12 00:05 | 宗教

「出産(procréation)とは宗教用語だ」 by パリ大司教

毎土曜日の朝のラジオでパリ大司教のオプティ師がインタビューに答えるのがとても興味深い。


インタビュアーは、この手の番組なら予想されるような予定調和的な質問をするわけではなく、むしろ、挑発的な質問の仕方をする。

つまり、今のフランスに当然あるような偏見(カトリックの高位聖職者なら教義に凝り固まっているだろう、とか、現実の社会を知らないだろう、とか超保守派と同じ意見だろう)を見越してむしろその立場から質問を繰り出すことが多い。

そしれに対して、オプティ師はとても自然体で、素直に誠実に答えるのだけれど、それが分かりやすくて説得力に満ちていて、すごい。


先日は、今の政治問題でもあるフランスでの「代理出産」を認めるかどうかなどの法案について聞かれた。

同性婚や同性婚カップルの養子縁組、人工授精などの合法化が問題となる度に、フランスでは、「カトリック保守派がそれは神のみ旨に適わないから大反対する」という具合にカリカチュラルに語られる。


そもそもパウロ6世が夫婦間の行為は「完全に人間的であるべきで、新しい生命に対し全面的に例外なく開放されている」べきだという回勅を出したのが1968年の7月で、フランスでは5月革命で新しい世代が今までの因習を打ち破ったばかりの最悪のタイミングだった。

要するに「避妊」そのものが「神のみ旨」に反するのだという時代錯誤な回勅だと一笑に付されてしまい、その奥にある意味は誰にも考えられずに封印された。

さすがに、フランスのカトリック司教会議は、「昔ながらの知恵が命じるところは,この特定の問題に関して,何が神のみ前における最重要な務めであるかを確かめることである。夫婦は時間をかけて意見を交換したうえで,自分たちの決定を下さなければならない」と言い方を変えたし、多くの神学者たちも産児制限について「夫婦は自分たちの良心に従って」OKだと宣言した。

それでもフランスで「人工妊娠中絶」が合法化するにはそれからまだ数年を要している(1975年1月)。妊娠中絶が合法的でなかった時代には、「闇」の中絶やイギリスにわたっての中絶など女性に必要以上のリスクと負担があった。


今でも「代理出産」はヨーロッパの他国の女性と「取引」されることがあるし、フランスでも実際はインターネットでいくらでも不妊のカップルを助けるという名目で代理出産の候補者が見つかるらしい。TVが調査したのを見た例では、代理出産を請け負う女性は失業中のシングルマザーで、2万ユーロを要求していた。

で、オプティ師が言うには、そもそも「出産procréation」という言葉自体に宗教的含意があるという。

これが動物の生殖であればReproduction(再生産、再現、複製)という言葉が使われる。これはバクテリアが分裂するように、機械的であったり、2つの要素のフュージョンがあってもどちらかがもう片方を取り込んでしまう形となる。

Procréationは「pro + création」で、共にクリエイトするということで、何と共にかというと、「神」と共に、神の創造の業に参加するということだから本来宗教的なのだそうだ。

その前提に「人格」と「人格」のユニオンがある。それはフュージョンではない、コミュニオンである。

セックスとかセクシュアリティという言葉はラテン語のsexualis et sexusから来ていて、その語源はsecare (切り分ける)にある。(異説もある)

分けられていたものが一つに混ざるのではなく交わる。ヒトにおいてはそれは意識的な行為だ。動物の中にも、一生同じ伴侶と過ごす種もあるけれどその「貞節」は意識的な選択ではない。そしてヒトにおけるその「意識」というのは「愛」であり、人格と人格がコミュニオンをなすのは「愛」によってだけなのだという。

オプティ師は何度も各種のバクテリアの例を出した。世俗の臨床医師として11年を過ごした人の発想はおもしろい。


日本語は違うけれど、このprocréationreproduction の違いは英語でも同じだ。(ドイツ語では前者にあたる言葉の幅がかなり広くなる。)

クリエーション、創造が即「神の業」という意識下の刷り込みはロマンス語系ではかなり深いと言える(英語のこの言葉はフランス語経由で来た)。


でも、確かに、誕生とか死というのは、ヒトにおいてはどの文化においても「神秘」に属するのは間違いない。

それを思うと、確かに、特に斡旋業者や金銭の授受を伴う「代理出産」の合法化にはいろいろな論議を重ねることが必要だというのは理解できる。


政治家が、性的少数者や障碍者に「生産性」があるとかないなどと言っている次元にいては、その論議にすら参加できないのでは、という気がしてならない。


by mariastella | 2019-02-11 00:05 | 宗教

ローマ教皇とアブダビのイマムとの歴史的宣言

24日にアブダビで採択されたフランシスコ教皇とアラブ首長国連邦のグランド・イマムの共同宣言文書は歴史的な重要性を持つ。

いや、持たなければこの世界の未来はない。


今回ローマ教皇がはじめてアラブ首長国連邦を訪問したことは、40年前にヨハネ=パウロ二世が「鉄のカーテン」の向こうのポーランドを訪問した時と同じような変革と希望を思わせる。

冷戦の影に隠れていた金融資本主義と軍産コングロマリットが冷戦後のグローバリゼーションと共に世界の貧富の差を拡大し、贈賄と搾取と軍事政権のアフリカや中近東の危うい「バランス」が一気に崩れ、欧米の介入や干渉も相まって、旧植民地からの移民、難民がヨーロッパに大挙してやってきた。

そこで「イスラム過激派」と呼ばれるグループがクローズアップされ、テロが繰り返され、「十字軍」などという言葉が使われた。それを見ている日本人の中には「一神教同士が神の名で殺し合いをしている」などと単純かつ誤ったコメントをする人が出てきた。

実際は、もちろん宗教と宗教の対立などではない。

それでも、そのような誤解や宗教の利用を正すために、キリスト教とイスラムの指導者が世界の平和と共生のために「人類同胞」を掲げるこの宣言は、キリスト教とイスラムの関係だけではなく、現在の国際情勢にとってインパクトのあるメッセージとなっている。

そのユニヴァーサル宣言の「肝」は、

「信仰とは、信ずる者が他者の中に、支え合い愛し合うべききょうだいを見出すように導くものである」

という考えを、新しい世代への指針として述べたことだ。

神と、人類の同胞性を信じる者は、共に努力しなければならない。


「全ての人間を権利と義務と尊厳において等しく創造し、彼らにきょうだいとしてこの世に共に住み善と慈しみと平和という価値を広めるようにと呼びかける神の名において」

「神が全ての人、特に豊かな人たちに義務として支援するようにと呼びかけている貧しい人々、悲惨な境遇にある人、助けを必要とする人々、疎外された人々の名において」

「破壊と戦争の犠牲者となって安全と平和と共生を奪われた民衆の名において」

「神とそれら全ての人々の名において、オリエントとオクシデントのムスリム、カトリック教会、オリエントとオクシデントのカトリック信徒と共に」

「対話という文化を歩むべき道とし、共に協力することを実践とし、互いに対する知識を深めることをメソードと規準にする」(意訳です)

と宣言するばかりではなく、ふたりは、政治や経済のリーダーたちにも、寛容と共生と平和に適うようふるまうことを呼びかける。特に、戦争と、環境破壊と、今の世界が直面する文化とモラルの衰退を終わらせるようにと訴える。

知識人、哲学者、宗教者、芸術家、ジャーナリストには、正義の重要性、善、友愛(同胞愛)が全ての人の救済の要となるものだと確認し広めなければならない、と訴える。


もちろん宗教指導者だから、今の世界の危機的状況に、人間の良心が麻痺していて宗教的価値から遠ざかったことを見ている。「行き過ぎた個人主義や物質主義が人を神格化してしまい、超越的、至高の原理が物質価値や世俗価値にとってかわられた。」とする。


「宗教は決して人を戦争に駆り立てず、憎しみ、敵意、過激の感情を起こさせず、暴力や流血を誘うものではない。それらはすべて宗教の教えの逸脱であり、政治的利用である。」


教皇とイマムは、

「殺されるために、いがみ合うために、拷問されるために、従属の生を生きるために人を創造したのではない神への共通の信仰によって、」

それらを訴える。

「全能の神は、誰からも守ってもらうことを必要としていず、自分の名が人々を恐れさせるために使われることを望んではいない」と。

これらすべては、ある意味で想定内の言葉だ。

「多神教だから多様性」などではなく、万物の創造神の前では万物が同胞であると考えるなら、こちらの方が「まとまりがいい」。

だからこそ、明治政府は一神教をモデルにして士農工商を廃止して日本人をすべて「天皇の赤子」とする国家神道を採用したのだ。


グローバリズムの時代だからこそ、すべての人間が「地球」という惑星上の兄弟姉妹だと考えるのは「平和」を語る時に有効だ。


理想と現実は違う、というのはたやすい。アラブ首長国連邦は一応「信教の自由」があるのだけれど、自国のムスリムがキリスト教に改宗したりムスリム女性が非ムスリム男性と結婚したりすることはできない。ローマ教皇やイマムや居並ぶ政府の高官(王族が多い)たちがすべて「男」であり女性の姿がないことに異を唱えたくなるフェミニストもいるだろう。また、そもそもこの2人の権威に服するようなタイプの人が戦争やテロを指導しているとも思えない。それにみなが神の子で同胞だと言っても、旧約聖書によるともうごく最初の人間が、カインのアベル殺しのように、兄弟間でも憎悪や妬みが満載だ。


それでも、一部の過激派だのカルト宗教などが神の名、教えの名、教祖の名によってテロや戦争や拷問や弱者の迫害などを行う情況が今この世界にある限り、正義と平和と共生を要請する神の信仰をローマ教皇とグランド・イマムが宣言するのには歴史的意義がある。

そして彼らの「正論」を「正論」だと多くの人がまだ感じることができるかどうかが、世界の平和にかかわるような気がする。

だれが、いつ、どこで、だれと、その「正論」を宣言するのかということが、それに命を吹き込むのかもしれない。


そうあって、ほしい。


by mariastella | 2019-02-09 00:05 | 宗教

神秘体験と意志  諸井慶徳、平塚雷鳥、ハイデガー

清眞人さんに贈呈していただいた『フロムと神秘主義』をところどころ読んでいる。450ページ以上の大部の専門書なので通読はなかなか難しい。

それでも、何しろ「神秘主義」の古今東西の「総花式」オンパレードなのでいろいろなつかしい思いがする。

神秘体験とは何か、という定義について、私が大学院の頃に本郷でペルシャ語を習っていた黒柳恒男先生と話したことがある。黒柳先生には過去に兄もペルシャ語を習っていたので「兄妹そろって教えるのははじめてだ」とおもしろがられた。

私はルーミーを読みたくてペルシャ語を習うことにしたのだ。

授業ではガザ―リーを読んでいた。ルーミーは私には難しすぎると言われた。

メトロの中でペルシャ語のノートを開いていた時に当時東大都市工の留学生だったアフガニスタンの学生に声をかけられてそのまま黒柳先生のゼミに一緒に行ったこともなつかしい。

その黒柳先生が、自分が今までで一番納得したという「神秘体験」の定義を教えてくれた。

それは諸井慶徳さんの『宗教神秘主義発生の研究』にあるものだった。これは天理大学出版部から出ていた1000ページ近くある大著だったのだけれど、まだ若かった私はちゃんと通読した。(そのわりに頭の中で整理されていない。今は諸井さんの歩み自体に興味がある。)

その定義というのはもちろんこの本全体の文脈で吟味しないと正確には伝わらないけれど、

「人間の絶対優越的存在者との関係定立に於て齎される所の、この絶対的存在者と直接に接触し乃至はそれと一なるものであるといふ自意識の立場を中核として展開される一聯の人間的事象の包括的名称である」

というものだ。これはその後の私の神秘主義研究が必ず振り返るスタート地点にいつもある。

その神秘体験が宗教神秘主義として展開するパターンが無数にあるわけだけれど、私は最近平塚雷鳥の神秘体験を発見して感心したことがある。


有名な『元始、女性は太陽であった』という『青鞜』巻頭辞だ。

以下、関係箇所をコピー。

>>>> 併し私とて此真夏の日盛の中から生れた「青鞜」が極熱をもよく

熱殺するだけ、それだけ猛烈な熱誠を有つてゐると云ふことを見逃すものではない。
熱誠! 熱誠! 私共は只これによるのだ。
熱誠とは祈祷力である。意志の力である。禅定力である、神道力である。云ひ換へれば精神集注力である。
神秘に通ずる唯一の門を精神集注と云ふ。
今、私は神秘と云つた。併しともすれば云はれるかの現実の上に、或は現実を離れて、手の先で、頭の先で、はた神経によつて描き出された拵へものゝ神秘ではない。夢ではない。私共の主観のどん底に於て、人間の深さ瞑想の奥に於てのみ見られる現実其儘の神秘だと云ふことを断つて置く。
私は精神集注の只中に天才を求めやうと思ふ。
天才とは神秘そのものである。真正の人である。
天才は男性にあらず、女性にあらず。
男性と云ひ、女性と云ふ性的差別は精神集注の階段に於て中層乃至下層の我、
死すべく、滅ぶべき仮現の我に属するもの、最上層の我、不死不滅の真我に於てはありやうもない。

(・・・)

弱い、そして疲れた、何ものとも正体の知れぬ、把束し難き恐怖と不安に絶えず戦慄する魂。頭脳の底の動揺、銀線をへし折るやうな其響、寝醒時に襲つて来る黒い翅の死の強迫観念。けれど、けれど、一度自奮する時、潜める天才はまだ私を指導してくれる。まだ私を全く見棄はしない。そして何処から来るともなし私の総身に力が漲つてくる、私は只々強き者となるのだ。私の心は大きくなり、深くなり、平になり、明るくなり、視野は其範囲を増し、個々のものを別々に見ることなしに全世界が一目に映じてくる。あの重かつた魂は軽く、軽く、私の肉体から抜け出して空にかゝつてゐるのだらうか。否、実は目方なきものとなつて気散して仕舞つたのだらうか。私はもう全く身も心も忘れ果てて云ふべからざる統一と調和の感に酔つて仕舞ふのだ。
生も知らない。死も知らない。
敢て云へば、そこに久遠の「生」がある。熱鉄の意志がある。<<<

久遠の生との統一と調和の感覚に陶酔する。

けれどもそこに見出すのは「熱鉄の意志」だという。

「神秘に通ずる唯一の門が精神集注」だともいう。

これってアビラのテレサ型で、法悦や恍惚はあってもそれがそのままその後の意志的なエネルギーになっているのか?

「悟りても柳は同じ緑かな」型の平常心、だけどどこかでパラレルに超越を感知している状態、とは違う。

世の中の「合一体験」には、忘我型であとは「魂が抜けたようになる」集団の熱狂もある。

退行型というか「ひきこもり」型のものとは対極にある。傲慢というものとも違う。


雷鳥の「力」志向はすごい。

私は今「死生観」に関する本を書いている途中で、もちろん分かりやすく書くつもりなのに、中村元編著の(これも800ページ近い大著)の『自我と無我』(平楽寺書店)をうっかり読み始めてしまった。仏教の歴史の中で有我説と無我説の矛盾とか、無我と非我の違いとか、部派仏教以降、無我を無霊魂とか無実態とか介した後でのギリシャ的二元論との論争とか、刺激的なものが満載だ。

ハイデガーやフッサールとの関係もおもしろい。現象学的な見方は「我」の超克への試行錯誤から生まれたかのようだ。ハイデガーが、一度は修道院に入った南ドイツのカトリック頭だったことや、彼を嫌ったエディット・シュタイン(フッサールの助手としてハイデガーのもとにやって来た)が後にカルメル会の修道女になったのにユダヤ人として殺されたことも興味深い。ハイデガーはエディット・シュタインと同じユダヤ人のハンナ・アーレントと不倫を重ねていたのに親ナチとなってアーレントは亡命した。ハイデガーはフッサールも追放したのだけれど、女性にもてたハイデガーがエディット・シュタインには嫌われたというのはおもしろい。


死生観の本に使いたいのは、仏教とギリシャ合理主義との関係だ。

パウロがイエスの復活を唱えてあざ笑われる300年も前に、ナーガセーナ長老はギリシャのミリンダ王を「論破」していた。ギリシャ語文化圏で育ったのにパウロは「論破」路線を使わなかった。

1500年近くも経ってから安土桃山時代の日本でキリスト教宣教師たちが次々と仏教僧らを「論破」して「改宗」させたことを思うと感慨深いものがある。






by mariastella | 2019-02-07 00:05 | 宗教

マドゥーロとフランシスコ教皇

仕事が遅れているので、フランスはしょうがないとしても「世界のニュース」は視聴しないように気をつけているのだけれど、どうしても気になるのはイエメンとベネズエラのことだ。

マドゥーロはどうなるのだろう。

私は何しろ藤永茂ブログの読者だから、トランプが支持する側には警戒する。ヨーロッパ主要国もフアン・グアイドの暫定政権を揃って支持している。ロシア、中国、トルコはマドゥーロ支持など、シリア戦争の代理戦争みたいな様相だ。ベネズエラに莫大な「石油資源」があるところも中東の利権と似ている。ヨーロッパではギリシャがマドゥーロを支持している。フランスはメランションなど極左はもちろんマドゥーロ支持。(関連の藤永ブログはこれとかこれ参照。)


もともとアメリカなどによる経済汚染から脱するための革命に成功して「石油」資本を人民に分配しようとしたチャベス政権だったけれど、「カネ」によって起こった革命がまたカネによって汚染されていく汚染のループは続いた。マドゥーロも政策を誤った。そこに暴力が必ずセットになってくる。


ファン・グイドの方は、混血(メチス)でありオバマ大統領にどこか似ている35歳で、カトリック大学の出身で、メチスが多くカトリックが大半のベネズエラにおいてある意味「マジョリティ」だ。

マドゥーロの方は、いわゆる「改宗ユダヤ人」でカトリックに改宗している。


そのマドゥーロが今の危機の状態への救いを求めてローマ教皇に接触した、と2/5のヴァティカンニュースが言っていた。フランシスコ教皇というと、ついこの前、パナマの世界青年の日で相変わらず熱狂的な人気を誇り、その後すぐにアラブ首長国に出向いて、信教の自由と対話で平和を目指すのが全ての宗教の使命だと熱弁したばかりだ。

ベネズエラのカトリック司教会議は去年の8月に、政府による反政府派への弾圧を弾劾している。政治犯の人権を守ること、拷問の禁止、そしてインフレにあえぐ庶民の困窮を救済する政策を求めている。

このような状況において、カトリックがどのように利用されるのかまた力になれるのか、『神とカネと革命』(中央公論新社)に新章を加えたくなるぐらい興味深く、目が離せない。


by mariastella | 2019-02-06 02:28 | 宗教

ブラジル大統領夫妻と福音派とカトリック(追記あり)

2018/10/28にブラジルで極右の大統領が誕生した。
ポピュリズムの勝利の例の一つとして必ず引かれる。

ジャイル・ボルソナロはイタリア移民の家系でカトリックだ。信仰篤いカトリックとしてカトリックにも人気、で、ファーストレディである彼の妻(3番目の妻だというがその辺はカトリック的にどうなっているのかと思うので調べてみたい)もカトリックの洗礼を受けていたけれど、今は、ブラジルで1980年くらいから爆発的に広まっている福音派のペンテコステ派から再洗礼を受けている。

追記: 1/20の夜のニュースで、大統領も福音派の再洗礼を受けていると紹介されていた。大統領になる前のことで、白い服をまとってイエスの洗礼地のヨルダン川に腰までつかり、牧師から全身を水に潜らされている映像なのでこちらが正しいのだろう。それでもカトリックにも人気だということはブラジルのカトリックも心情的には福音派化しているということなのだろうか。)

というわけで、夫婦はカトリックからも福音派からも支持されて最強、なのだそうだ。

ボルソナロは大統領に選出された時も神に感謝し、神の権威によって、キリストの加護によって統治する、と述べているから、もちろんフランスでは考えられないけれどアメリカよりも神がかっている。

フィリピンの大統領だって広く国民の支持を得ている「なんちゃってカトリック」という気もするが、福音派の強力なロビーはない。

ブラジルはさすがラテンのノリというか、メガチャーチで絶叫するタイプの「今ここで」陶酔できる福音派が強大になっていて、カトリック司祭でもそれに対抗してショーのような演出を試みる人の例がある。

ところが、このファーストレディが公邸に移って真っ先にしたことが、あらゆるカトリックの聖人の聖像聖画を「偶像崇拝」だと言って撤去したことなのだそうだ。

行政の長の公邸にそんなに聖人の絵や像があったということ自体が驚きだけれど、大統領がカトリックでカトリックの支持層も多いのに就任早々にそんなことをするなんて戦略的にどうなんだろう。でも、ペンテコステ派って、カトリックの強いブラジルで「販路」を広げるためにローマ・カトリックを当然批判しまくっているのだから、「改宗」したファーストレディもまずは「カトリックの聖人像」撤廃ということになったのだろう。

どちらにしても、この大統領夫妻を見ていると、宗教とか信仰とか関係なくて、ただ「権力」あるいは「利権」にとらわれているんだろうなあと思わざるを得ない。

フランスのカトリック関係の人が、福音派の威力を冷静にとらえていて、福音派の派手さに惹かれて多くの人が入るけれど多くの人が出ていく、つまり数は増えるといっても出入りが激しい、熱しやすく冷めやすい人たちがターゲットになっている、消費主義と軌を一にしているのだと語っていた。ペンテコステの礼拝には「内省」が欠けていて、それは本質的なものが欠けているということだ、と。

だからカトリックは彼らの真似をして聖堂に熱気をふりまいてはいけない。
けれども、彼らに学ぶ点が二つある、と言う。

一つは信徒たちとシンプルに、そしてダイレクトに接すること、
もう一つは、教会に階層分断を持ち込まないことだ、と。

確かにカトリック教会は、教区が階層化している場所では自然にブルジョワ向けだとか移民向けだとかになりがちだし、表向きの差別はなくてもアメリカなどでは黒人教会とか白人教会という歴史があったり、利害を共有する共同体化してしまったりということがある。

それに比べると、メガチャーチは、巨大ブランドが全ての人を差別なくのっぺりとした「消費者」としてマーケティング展開しているのと同じ戦略をとっている。
でも、その敷居の低さが、飽きてもOK、というのであれば宗教や信仰の形としてはどうなのかという疑問は当然湧く。

もちろん政治や政策の形も「本質」を失ってはならない。

ブラジルのようにあからさまに宗教が絡むことでかえって見えてくることもある。




by mariastella | 2019-01-08 00:05 | 宗教

イエスの血の汗---不安は実存的なものではない

新年のラジオでパリ大司教が新年にあたってのいろいろな不測の状況について話していたのが印象的だった。不安ばかり感じて守りに入るのはいけない、という趣旨で、不安は実存的なものではなくて病理的なものだ、というのだ。何しろ神学校に入る前、公立病院で10年間診療にあたっていた医師のことばだからなるほどだと感じた。 

病理的な不安と実存的恐怖は別物だ。

で、受難の前の日、最後の晩餐の後でイエスが一人ゲツセマネの園で悲しみ悶えたことが「不安」であり、それは「受難」の前のことで、実際に捕らえられたり鞭打たれたり十字架につけられたりした時はもう「不安」による苦しみはなかった。祭司たちの審問にも堂々と答えている。

で、イエスの不安も「人間としての条件を受け入れたゆえの病理」であって、その証拠が「血の汗」だという。

「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22,44)というシーンだ。これは血汗症で極度のストレスによって引き起こされるものだそうだ。つまり、イエスは、死の予感を前にして超然と悟っていたのではなく、人間として当然の最大級のストレスで悶えた。

そのイエスが平安を得られたのは、結局、神の助けを祈ったのでなく、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と、神に任せることを受け入れたからだった。

血の汗がしたたるほどに最大限の不安に押しつぶされている時、平安は自分の中に探しても見つからない。平安は外から来る。人生は、生きることはすべて「リスク」である。「やってみる」というリスクを冒さないところには生きることの本質は見えない。本質があるところを探すのが生きることで、そこに暴力や威嚇や死という現実の危害を前にして恐怖が起こったとしても、それはもう「病理的な不安」とは別のものであり、その恐怖とどう戦うか、どう対処するかを冷静に考えることすらできる。

以上がオプティ師の話の趣旨だ。

(まだカトリック的にはクリスマス期間なのになんだか復活祭前のような話だ。)

でも、これにはジャンヌ・ダルクのことも想起させられた。ジャンヌも捕らえられたはじめの頃は拷問や火刑を脅されて心が折れた。けれども、最終的には運命を受け入れて堂々とふるまった。

ローマ教皇の口にする「恐れるな!」という言葉もこういう文脈なのだろうとあらためて理解できる。


by mariastella | 2019-01-07 00:05 | 宗教

キッチュ宗教

先日、「キッチュ宗教」という言い回しをはじめて目にした。

正確には「キッチュ仏教」だ。


『現代思想』2018/10臨時増刊号《仏教を考える》のp243からの永岡崇『神国〈キッチュ仏教〉の世界』という論文だ。(この本を買ったのは、仏教とフェミニズムに関する別の記事を読みたかったからだ。)

谷口雅春の「成長の家」についての分析で、1930年代に盛んになった「新宗教」の「ビジネス」戦略の中でもアメリカのクリスチャン・サイエンスの発想と似たものが成長の家だそうだ。

ここで、「成長の家」は、「真正な仏教を曲解し、大衆向けの商品としてしたてなおした俗悪なまがい物」として「キッチュ仏教」と名指されている。

「真正な仏教」というのが何かというのも簡単な定義ではないけれど、ここでは、まあそれまでの日本の伝統仏教という意味なのだろう。


で、キッチュの定義として、「本物の文化の価値に対して無感覚で、にも拘わらず、ある種の文化のみが提供できる、気晴らしに飢えている人々のために用意された」「代用文化」であり、「大量生産によって莫大な利益をもたらす商品で、とにかく最終結果は真の文化を害することに終わる、というグリーンバーグの定義が紹介されている。

うーん、ここでも「本物の文化の価値」とは何かとか、「ある種の文化のみが提供できる」という「ある種の文化」ってどんなものなのかとか、最終的には「常に真の文化を害する」、などの疑問が起こる。

すんなり納得できるのは「代用文化」「大量生産」「商品」という言葉だ。

伝統仏教が潜在的に抱え込みながら抑圧・排除してきたもう一つの可能性を資本主義社会の中で戯画的に展開させたもの、という指摘もおもしろい。

カトリックに対するプロテスタントなどはその反対で、大量にキッチュ化していたカトリックに抗議して「真のキリスト教」に戻ろうという意図で始まったように、宗教の「改革」では後発のものほど原理主義でラディカルで「最初の精神に戻れ」という傾向があるし、実際はとても複雑だ。

ここでは「成長の家」が仏教原理主義ではなく、仏教以外の多種多様の宗教文献を統合しようとしたと書かれている。

そして「万教帰一というファシズム」という言葉が出てくる。


確かに、ヨーロッパでも、伝統的なキリスト教の衰退と共に、オカルトやスピリチュアリズムが流行った時代でもあった。


「万教帰一」には2方向あって、一つは、すべての宗教のいいとこどりをするシンクレティックなやり方だ。「諸教混淆」系である。もう一つは、すべての宗教を遡ると、「原初の宗教」があるはずだ、という考え方だ。「フィロソフィア・ペレニス」系である。

前者の方が、そもそも「諸教」の知識がない「大衆」受けする「キッチュ」で、後者は「諸教」を学びつくして源流に遡ろうとする「インテリ」受けする「哲学」型と言えるかもしれない。

実は、どちらも、「ファシズム」に取り込まれてしまうような脆弱さと蒙昧さを内包している。

「キッチュ宗教」という言葉を切り口としてさらに考えていきたい。


by mariastella | 2019-01-05 00:05 | 宗教

クリスマスの飾りつけ

メリークリスマス!

12/9、クリスマスの飾りつけをした。

これを楽しくなつかしく思えるのは不思議でもある。
日本の都市の核家族でキリスト教と縁がない(兄の通っていた幼稚園が神戸のキリスト教系だったことを除いて)家庭に育ったのに、毎年のクリスマスツリーの飾りつけや長靴に入ったキャンデーなどの思い出は忘れられない。金属の箱に入った小さな赤白縞のステッキやブーツ、玉などを飾り、てっぺんには星をつけ、モールをあしらい、最後には綿で雪を置く。毎年同じものと再会するのが楽しかったし、雪だけは、新しい綿を使うのだった。

前回の記事の「聖地」について解説していた神学者がクリスマスについても話していた。

クリスマスツリーの起源がキリスト教とは関係がなく北欧などの冬至の祭りだとかいうことはよく知られているけれど、キリスト教化して以来のフランスでは、その飾りはなんといってもリンゴだったそうだ。しかも、縁日にあるような赤いシロップでコーティングしたものだったそうだ。ノルマンディでは木の根にシードルを聖水のように振りかけていたともいう。
緑のモミの木に赤いリンゴ、これはエデンの園の中央にあったと言われる「生命の樹」を表現していたのだそうだ。

リンゴの木というと、生命の樹でなく、イヴが蛇の誘惑に負けて食べてしまった禁断の木の実(リンゴかどうかは分からないのだけれど。裸で暮らせるような気候だったのだからリンゴではなくイチジクだとも言われる)の生る「知恵の樹」の方を連想すると思う。
でも、神さまの命令を破って食べて「知恵をつけて」しまって楽園から追い出されたような木を記念に飾るという挑発的な話ではなくて、もう一つの、その実を食べると神のように永遠の命を得られるという生命の樹の方なんだそうだ。
つまり、緑の樹に赤い実が生るという〈命〉の賛美だ。この方が確かにもともとの樹木信仰とマッチしている。

この話をしていると、ユダヤ教の神学者が、ユダヤ教の七枝燭台や九枝燭台も、樹木であり、生命の樹を表しているのだと言っていた。

モーセがエジプトから脱出してからの四十年の月日、ユダヤ人を養うために天から降ってきた食べ物であるマナを記念するパン状のもの?を12月から1/6までの40日間テーブルの上に出しておくのだとも言っていた。40日には足りない気もするけれど、キリスト教のいわゆる待降節の期間と、イエスが生まれた後で東方の三博士が訪ねてくる1/6の「公現祭」と重なる。伝統的にはこの公現祭で年末年始の行事が終わってツリーも片づけることになっていたから、キリスト教国で暮らすユダヤ人の習慣にも連動するヴァリエーションができたのかということなのだろうか。(ユダヤの伝統的な「光の祭り」ハヌーカは、例えば今年は12/2の夕方から12/10の夜までで、伝統的な食べ物もいろいろあるけれど、そのどれがマナの記念で、ほんとうに1/6まで出しておくものがあるのかどうかは確認できなかった。)

どちらにしても、北半球で日照時間が最も短くなった後に、太陽が復活するかのような「冬至」の時期に、「樹」と「実」と「光」をセットにして「生命」を賛美するという気持ちは共通しているなあ、と思う。

by mariastella | 2018-12-25 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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