L'art de croire             竹下節子ブログ

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シネティ師の選択

先日の復活祭のミサで出会ったパリ補佐司教のブノワ・ド・シネティ師は、4/4

『声をあげなくてはならない』 という「難民受け入れ」についての呼びかけの本を出版した。

難民の一人一人が「命」で「顔」なのに、我々は、「難民」というカテゴリーで冷たく扱っている。なぜ彼らはやってくるのか、なぜ我々は恐れるのか、について語った本だ。

この本についてのメディアからのインタビューを受けて、「またジョニー・アリディの葬儀ミサについて話すのはやめたいですね」と始めた。

ジョニー・アリディの歌の歌詞とパウロの言葉をつなげた印象的な説教は、テレビ中継を通してフランスで最も多くの人に聞いてもらえた説教だっただろう。

その彼は、復活祭のミサでも、ユーモラスで、庶民的で、余裕があってしかも説得力があった。まっとうなことしか言っていないのに、こちらの内面に伝わるような言葉だった。

この人はジョニー・アリディなど芸能人やセレブたち担当どころか、パリでは難民担当で、サン・ジェルマン・デ・プレ教会改修の650万ユーロの資金を集めた時と同じ情熱で難民のために必死になっている。

パリのブルジョワ・カトリックの多くが、生まれる子供(代理出産問題)や死に向かう人(孤独死や安楽死問題)では子供や病人の生命の尊厳を絶対擁護するのに、避難場所を求める難民の命の尊厳については関わりたがらないことについて、ブノワ氏は容赦しない。

趣味はボクシングでその堂々とした体格と、無邪気にさえ見える自然体は、他のパリのエリート聖職者とかなり雰囲気が違う。

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《La Vie》No 3789


前に書いたようにパリ新司教のオプティ師が、30代の終わりになって神学校に入る前に、医師として11年間働いたように、エリート聖職者には最高学歴を経て一流会社に就職経験のある人も少なくない。ところがこのシネティ師は、なんと弱冠20歳で神学校に入ったのだ。

1968年の五月革命の年に生まれた若者だというのに。

母方の大叔父がパリの教区司祭で、日曜ごとに彼の家族の食卓を囲み、信仰や神について自然に普通に意見をかわしあうことを知ったという。ブノワ少年は、五歳年下の弟ポールとともに、福音書についての大叔父の話を途中で遮って質問をすることが許されていた。しかも、この大叔父の姪に当たるブノワの母親は、離婚していた。敬虔なカトリックで離婚に至ったのだから挫折感があったかもしれないのに、母は、二人の息子を世話するだけでなく七区のアパルトマンに、悩みを抱えていたり行き場のなかったりする人々をいつも受け入れていたという。ブノワ少年は、フランクラン、スタニスラス、とパリのカトリック名門リセで学んだ。

どんなグランゼコールのエリートコースにでも行けたのに、20歳で神学校に入った理由は? と聞かれた答えがこれ。

「確かに、簡単な選択ではありませんでした。でもどんな選択も簡単ではありませんし、何であれ、選択したものに忠実であることも簡単ではありません。私の幸運は、何が起こっても、いつも、愛されているという気持ちがあることです。神の存在を疑ったことはありません。なぜなら、自分が愛されていると疑ったことがないからです」

そういえば、確かに、この人には「幸せオーラ」が漂っていた。

幸せな人、いつも愛されていると感じている人が、こんな風にがんばるのを見るのは気持ちがいい。





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by mariastella | 2018-04-19 00:05 | 宗教

カトリックが「便利」であること

前の記事で、「見ていない映画」にインスパイアされていろいろ書いた後で、「読んでいない本」についてコメントするのも気が引けるが、ある友人が、中井久夫さんの洗礼について触れられた本のことを紹介されていたので、ひとこと書きたくなった。


精神医学者としても文学者としても大きな業績を残された中井先生は、2年前に神戸でカトリックの洗礼を受けられた。中井先生と同じ80代のカトリックの友人はその洗礼式に出席された。私は中井先生の洗礼の記念に「精神の健全さについて」というシリーズをこのブログの中で書いている。


これが第1回で、


15回 まで続いている。


中井流の「スキゾ親和性」というものとカトリックの相性がいいのではないか、と思ったのだ。

で、その友人が紹介した本というのが『おひとりさまVSひとりの哲学』山折哲雄、上野千鶴子 (朝日新書)というもので、上野千鶴子さんが、


「優れた近代合理主義の知性である加藤周一、中井久夫、そして上野の師でもあった吉田民人などが、死を前にしたり施設の病床で、カトリックに入信したり仏教に傾倒したことにショックを受ける」(ネットの読者コメントから引用)部分だ。


友人のまとめによると、

>>「ブルータスお前もか!」という感じだと書いていました。「あの知性の高い中井先生がカトリックだって!!ブルータスおまえもか?っていいたくなりますよ。なぜ?カトリックに?って訊くとゆっくり「べんり、だから、ね」と言われた」そうです。<<<

「人は来世の信仰など宗教の支えなしに死んでいけるか」というテーマなようで、上野さんの無神論スタンスが、あまりにも、フランスのインテリ左翼無神論者の典型なのが新鮮だった。フランスの無神論はインテリ・イデオロギーというかアイデンティティの一つだけれど、日本にもこんな人っているんだなあ。

フランス左翼無神論者の欠点は、イデオロギッシュなので、信仰者の話をまともにきかなかったり、啓蒙時代の「蒙昧」、「迷信」のカテゴリーに宗教を一括したりで、超越性というものへの感性に自ら蓋をするところだ。

とはいっても、フランスのインテリである以上、実は、ギリシャ・ラテン文化とその延長としてのキリスト教についての造詣は深いのが特徴だ。でもそれだけいっそう、教養、文化としてのキリスト教を「信仰」に結びつけないような努力やジェスチャーや棲み分けを無意識にしている。

彼らの中にはフランスでは「無神論だ、宗教ではない」とみなされる仏教を実践する人もいるが、そういう人たちはなおさらキリスト教の本質に対する思い入れがある。

でも、日本のインテリ左翼無神論者や日本の一般の仏教徒は、当然ながら、文化の基盤ではないキリスト教の知識や教養が、ないか、少ないか、偏っている。

無神論者といっても、サルトルらのようにある日「神はいない」という回心体験を経た無神論体験を経るわけではなく、単に、西洋型インテリ左翼無神論者のモデルを採用している人の方が多いだろう。

キリスト教文化圏型の「無神論」に行きつくには、「神」や神の形象に対峙しそれを否定するという葛藤や選択が必要なので、日本のように一般に「無関心型」で宗教宗派への帰属感の薄い社会ではそれがない。


一般の仏教徒といえば、これも空気としての日本仏教や事物や行事への感性はあっても、仏がいるとかいないとか神がいるとかいないとかといった問いの立て方をしない。キリスト教に関しても、漠然と、「西洋」を連想し、イエスかノーかで融通のきかない一神教は不寛容で、その点、八百万神を許容する日本は寛容だとか、自然と共生するとか、農耕文化だから一神教とは相容れないだとかなどという言説が、エリート仏教者の口からさえも出てくる。

「西洋」だってベースは多神教だったのだし、農耕が始まって定住するようになってから文明が発達したのは人類共通だ。また生きるのに最も大切な太陽に生活を負っているのも普遍的なことで、太陽神を最高神として戴くような感性も地球上に共通している。

多神教だから寛容だというわけでもなく、どんな文化のどんな社会にも、残念ながら他者排斥型の心理メカニズムは存在してきた。

それなのに、「知性の高い中井先生も高齢になり健康を害したらカトリックの洗礼を受けるなんて、死を前にしたら知性よりも非合理的なものに救いを求めたくなるなんて、ブルータス、お前もか」と思うのは、単純すぎる。


中井さんほどの人が、どういう風に人間の心理を探り、信仰にたどり着き、しかも、カトリックを選んだのかということはスリリングなヒストリーであって、何も老いや病で弱ったからではない。

スキゾ親和性に「精神の健全さ」を探った中井さんでこその大きな意味がある。

そして、彼の答えの「便利だから」というのも言いえて妙だ。

前にこのブログで、死刑囚になったら断然カトリックに入れてもらう、と書いたけれど、そしてオウム真理教事件の死刑囚たちの霊的ケアがどうなっているのか気になると書いた。ここここ


キリスト教というOSは弱者にやさしいし、歴史上、いろいろなバグやプログラムのエラーや齟齬も経験してきたけれど、それをフィードバックしてバージョンアップする努力を惜しまずに生きのびたし、中でも老舗のカトリックは、マルチナショナルで開発費用も潤沢だったからか、秘跡やら奇跡やらのアプリが豊富で、カスタマイズもしやすくできているから、「便利」だと思う。

信仰は知性と対立するものではなくて、人が自由に飛翔するための両翼のようなものだとは今のカトリックの見解だ。


それにしても、今や、ハイゼンベルクやゲーデルによって不確定性や不完全性という理性の限界が考察され、脳神経学のレベルでも、脳障害で感情を失った人は理性の論理立てはできても最終判断ができないこと、理性が機能するには感情が必要だと分かってきた時代だ。

それなのに未だに、「近代合理主義の知識人が宗教とか信仰とかに向かうのはおかしい」というようなひと昔前の「インテリ左翼無神論」が残っているのは不思議でさえある。これはフランス的というよりむしろ、アングロ・サクソンのピューリタニズムの原理主義やその反対の偽善に叛旗を翻すアメリカ型無神論の影響なのかもしれない。

もちろん、人が精神と肉体を統合するための霊性、「超越」を必要とする時に、それが既成の宗教である必要はない。山折さんがいうような、日本的な野山の中でひとりになって自然と一体化するというような体験でももちろんいいし、多くのアーティストのように、アートの創造性におけるインスピレーション(霊感)に対する感受性を育てることでもいい。

利潤、コストパフォーマンスや自分ファーストの論理とは逆の人道活動などに専念している人を動かしているのも、「合理主義」とは別の位相にあるものだろう。


そういうものに比べて、宗教は、時には、「霊性を求める人々をターゲットにして霊性ビジネスをするカルト」の姿をまとうことがある。

カルトはまさに、老いや病を前にして弱った人々につけこむ場合が多いわけで、そのようなリスクを避けるには、「宗教の勧誘」一般を警戒するというのも分からないではない。


その点、日本での仏教だとかフランスのカトリックなど、その国の老舗宗教は、そういう新興カルトを批判する側に立つもので、主流秩序であったがための歴史上の様々な誤りを批判され尽くしているから、「宗教」に向かうなら老舗宗教がリスクが少ないですよ、というのは一応言えると思う。


日本仏教はもう長い間、インドや中国の仏教と離れて、まさに日本的心性とフュージョンし、民族宗教っぽくなっているので、例えばフランスに住むフランス人が「日本仏教」に帰依するというのはいろいろな落とし穴がある。それこそ「仏教系カルト」に取り込まれることもある。

その点では、日本に住む日本人がキリスト教を採用する時に、カトリックは今でも中央集権的ピラミッド構造があって末端の逸脱をコントロールするツールが少しは機能しているので、「リスクが少ない老舗」としては確かに「便利」だ。


そして、日本でキリスト教家庭に生まれた人は別として、成人洗礼を受けるような人は、安土桃山の時代から内面の葛藤や外的な不都合を乗り越えて「選択」した人が多い。

自分が「神」を求めるかどうかは別として「神を求めた人々」の軌跡を辿ることは、それこそ霊性とは何かをインスパイアしてくれる。

「知性」ある人がそれを切り捨ててしまうのは残念だ。

で、カトリックはいろいろな意味で「便利」なのだが、それでも、実際に洗礼を受けないと分からない「便利さ」がひとつある。それは「死が怖くなくなる」ためではなく、「生きる」ためであり、「生かす」ための便利さだ。

何を、誰を「生かす」のか、という答えは、書かない。





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by mariastella | 2018-04-17 00:05 | 宗教

『マグダラのマリア』その3 テレーズと星の王子さま

(これは前の記事の続きです)


使徒としてのマグダラのマリアの近年における「復権」は、女性へのセクハラ抗議がこれほど「市民権」を持つようになった今の時代性と無縁な現象ではない。


けれども、フェミニズムには、「女性も男性と同等の知性や能力がある」という主張と「女性には男性にはない直観や共感力がある」という主張の両面のニュアンスがある。

その後者の考え方は、父権社会の中で長い間女性が「女子供」としてくくられてきたことの反動で、「大人が知性の獲得と共に忘れたり失ったりした神や自然に近い感性を(女や)子供は持っている」という見方を生み出す。

カトリック教会は、14歳で修道院に入って24歳で死んだリジューのテレーズが唱えた、「幼子のような小さい道」を評価してテレーズを「教会博士」の列に加えるという不思議で巧妙な決定をしている。抵抗せずに十字架上でみじめに殺されたナザレのイエスが復活した(しかも逮捕された後で弟子たちには逃げられ、復活した後もすぐには信じない者もいた)というルーツの持つ逆説には合致していないでもない。

確かに、福音書のイエスは救いにおける子供の優位 ?を語ってはいた。

>>>イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。

しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 (ルカ18,15-16<<<

というものだ。

弟子たちは、当時からしっかり「大人の論理」を掲げていたようだが、まあ、このおかげで、今もカトリック教会のミサの途中で赤ん坊が泣き出しても、叱られることはない。「日本と違ってヨーロッパでは子供のしつけが厳格だ」という先入観は裏切られる。

で、『星の王子さま』はこのような、「子供は大人が失った純粋な魂を持ち、偏見もなく、真実を見る心を持っている」式の、大人が勝手に作ったステレオタイプの子供称賛バイブルだという批評がある。

「大人になってしまったあなたに」捧げられている本であって、子供に捧げられているわけではない。

日本でも有名な「本当に大切なものは目に見えない」とか「大切なものは心の眼で見る」というのも言われてみれば確かに、プラトンとパスカルの転用で、そんなセリフをキツネと子供の間で言わせると、「子供は大人より真実を見る」という幻想になる。

星の王子さまやキツネや神の国の子供たちは、もう子供ではなくなり女でもない「大人の男」たちが描く「夢」なのだとも言える。


実際は、子供が本能のままに衝動的だったり残虐だったりというような例はいくらでもある。(智慧の木の実を食べてこそ ? 分別や自制が生まれるのかもしれないし、想像力や共感力も少しずつ学び養われるものだということもできるだろう。

「信仰と理性は人間の精神が飛翔するための両翼のようなものだ」

とは、ヨハネ=パウロ二世の言葉だけれど、結局は、この映画のペトロ的なものとマグダラのマリア的なものの両方が必要で、だからこそ映画のイエスも二人に使命を託したのだ。

そのどちらかが肥大する時代にはもう片方を強調しないと精神は飛び立てないということなのだろう。

それにしても、私も、子供の頃に『星の王子さま』を読んだが、強烈に心をつかまれたのはプラトンやパスカルの言葉ではなくて、冒頭の、象を丸呑みにした大蛇の絵だった。

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帽子にしか見えない第一の絵をすぐに大蛇に消化される象だと見抜いた王子さまの登場が鮮烈だった。

これはもう、「つかみ」の勝利だなあ、と思う。

あの「帽子」の種明かしという冒頭の「つかみ」がなかったら、『星の王子さま』が世界的なベストセラーになることはなかったのではないだろうか。

プラトンも、パスカルも、ドストエフスキーも、「どうしてただの帽子がこわいんだね ?」と言うに違いない、と思う。

『マグダラのマリア』から話が脱線したので、ここでひとまずおしまい。





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by mariastella | 2018-04-11 00:05 | 宗教

『マグダラのマリア』その2 教皇のツイッターとカラマーゾフの兄弟

(これはこの前の記事の続きです。)

さて、今回の映画の『マグダラのマリア』だが、イタリアでのロケ、そしてシチリア島でのエルサレム再現の映像は美しく迫力がある。時代考証なども最新らしく、パレスティナの人々の服装や生活、シナゴーグでの祈りの様子などもリアルで興味深い。

フェミニスト神学の流れなので、マグダラのマリアはイエスに赦された罪の女(姦通の女や娼婦)などではなく、マグダラに立ち寄ったイエスに救われて家族を捨ててイエスに従った若い女という設定だ。

イエスと同じく、自らも苦しみ騒ぐ人を落ち着かせるような「治癒師」としての「霊能」を周りから認められている。そのこと自体は、フランスの地方の村では今でも時として代々、基本無償で活動している霊能治癒師たちがいるくらいだから不思議な設定ではない。

で、そのマリアが親の勧める結婚から逃げて朦朧としているところに、イエスが呼ばれ、イエスはマリアがいわば自分と同類の人間だと見抜いた。


マリア自身も、他の使徒たちがユダヤ人をローマから解放する革命家や救世主をイエスに託してそれぞれの期待を背負わせているのに対して、このイエスが、他者を救う使命は自覚しているが、自分自身は犠牲として差し出すしかない存在であることを見抜く。


ソウルメイトみたいなものだ。


で、もう一人イエスに信頼されているのが教会の礎となる岩(ペトロ)とよばれるペトロがいる。

このペトロは、神の国の到来を革命による社会の刷新だと勘違いしている使徒たちではなくマリアの言葉だけを聞きなさい、という風にイエスから言い残されたのに、実際はイエス亡き後、マリア抜きで「男たち」を鼓舞して連帯を強める。


神の国は確かにユダヤ人をローマから解放するというような民族的な問題ではなかったのかもしれないけれど、イエスは何しろ死に打ち勝ったのだから、もっとすごい。ペトロは、普遍的に全世界の人間を、イエスを遣わせてくれた神の民にするのだ、という壮大な決意をしたのだ。


一人一人の使徒に、自らが岩となって教会を造れ、という。

マグダラのマリアの出番はない。


マリアは、そういうことなら自分は一人で出て行って福音を伝える、という。


マリアの福音とは、イエスが伝える「神の国」というのは、ローマ人を倒すことによって勝ち取るようなものではなく、一人一人の心の中で、隣人と愛し合い、敵を赦し、支え合うことによってのみ実現する内的なものだということだ。


小さい者、まずしい者にこそ天の扉が開く、子供のように純粋な者はもう救われている、神の国にいるのだという。


それに対して、使徒たちの方は、そのような内向きの福音ではなく、自由と正義と真実を勝ち取るための気概に満ちた戦いに出かける気が満々である。

このマグダラのマリアの考え方も、フェミニズム神学と同じで、神の国は死後の世界や最後の審判の後で実現するものではなく一人一人の良心に従ってこの地上に実現するべきものだという新しい神学の流れを受けている。新しいといっても、こちらの方が、イエスのもとのメッセージに忠実だ。

この傾向、つまり、既成秩序、体制、組織としての「教会」は、実はイエスの望んでいたものとは乖離していて、特権的な人間の欺瞞である、という批判は、使徒ペトロの継承者であるとされるローマ教皇を戴くカトリック教会の歴史の中で何度も起こった。アッシジのフランチェスコなどはその典型だ。


その決定的なものが、16世紀の宗教改革でプロテスタントタント諸派がローマ教会と袂を別って、宗教共同体の固定した典礼や教えでなく個人の信仰、神との関係のみが救いに結びつくとした事件だろう。

アッシジのフランチェスコの名を継承した今のローマ法王であるフランシスコ教皇も、キリスト教の本源を忘れない。

神学哲学の教養も深い人だけれど、その率直な話し方や、キリスト者は「教会」の外に出て積極的に女性や子供や弱者に寄り添うキリスト教のルーツに還るべきだと連呼しているのだから、この教皇がマグダラのマリアを「復権」させたのも不思議ではない。

逆に、このような教皇の態度は、盤石の体制としての教会には「不都合」なものだから、教皇を「現場のことしか知らない単純な南米頭」として批判する勢力もカトリック教会にある。

フランシスコ教皇の「不都合さ」はイエス・キリストの不都合さに通底している。

2018/2/16に発せられた教皇のtweetはそれを物語るいい例だろう。


ネットで公開されている公式の日本語訳を引用すると、


「イエスのメッセージは厄介なもので、わたしたちを厄介なことに巻き込みます。というのも、それはこの世の宗教的権力に挑み、多くの人々の良心を刺激するからです」とある。

このことに関して、『カラマーゾフの兄弟』の中にある大審問官のエピソードを持ち出す人もいた。中世のセビリアに再来したイエス・キリストが人々の心をつかむのを見た異端審問が、イエスを逮捕するというこのエピソードは有名だ。(日本語で説明しているものをネットで検索したら、松岡正剛さんの詳しいものが出てきた。(でも、多神教文化の日本では別の読み方をすべきだとか、イエスの三つの「方針」だとか、松岡さんにもドストエフスキーにも突っ込みどころが多すぎるのだけれど、ここでは書かない)

まあ、ローマ・カトリック教会の奇跡というのは、まさに、イエスを「不都合な分子」として葬ったローマ帝国がキリスト教を国教にして、結果的にヨーロッパ・アカデミズムを育てて「近代」を作り上げたところにあるわけだが、マグダラのマリアのおかげ(?)なのか、「子供のように汚れのない」「罪のない」ものが天国に行く、というようなシェーマも常に存在し続けた。


エデンの園の智慧の木の実の昔から、知性は悪魔と相性が良く、なんでも知性で割り切ろうとする者は傲慢であって、信仰とはまさに問わずに信じることだ、という類の言説の歴史も古い。

その「問わずに信じる」ことを「蒙昧」だと切り捨てる歴史も近代のアイデンティティの一つとして長いので、その反動として、「理屈抜きで子供のように信じること」の徳をあげつらう伝統も長く続いたわけだろう。

このことはある意味で、日本で「子供は七歳まで神さまからのあずかりもの」として尊ばれる(?)心性と似ていなくもない。

これに対して、アダムとイヴが生殖可能年齢の大人として造られたのだからキリスト教文化圏では大人が基準で、子供は厳しくしつけられる、日本は子供に甘く子供天国だ、などと論ずる向きもあるけれど、実は、キリスト教文化圏においても、「子供の方が無垢で天国に近い」という発想は根強いというわけだ。


その集大成みたいなのが『星の王子さま』で、この作品の人気はまさに、「子供イコール天使」観なしには考えにくい。(続く)





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by mariastella | 2018-04-10 00:05 | 宗教

キリスト最後の6日間

先週『キリスト最後の六日間』という、エルサレムを舞台にしたドキュメンタリーをArteで視聴した。

イギリスで人気のTVスターHugh Bonnevilleという人が、30年前はケンブリッジで神学を学んでいたそうで、エルサレムの博物館や遺跡を見て回り受難について検証する。

Gerry Hoban監督で、フランスとアイルランドの共同製作となっている。


私にとっては目新しい情報はなかったけれど、過ぎ越しの祭りの期間にしか滞在しないポンス・ピラトと神殿の大祭司の反目、その期間に普段3万人の町に30万人の巡礼者の集まるエルサレムでイエスの周りに人々が集まることの迷惑ぶりが実感として分かる。

何だか今のフランスでのテロリスト対策でテンションが高まるのとだぶる。


そして、過ぎ越し祭の昼前に神殿で正式にイエスを裁いて冒涜罪とするなど考えられないので、おそらく大祭司は、イエスに、弟子たちと共にエルサレムから即刻出ていくように命じただけだろう、ユダも、祭司たちも、願っていたのは町やイエス自身のセキュリティの確保で、ともかく出て行ってもらうことが優先だったのだという解釈も、納得できる。


それをイエスから拒否された時点で、イエスを解放して騒ぎになるよりは、セキュリティの観点から、ピラトの手に渡して処刑してもらうことを選択した。

ユダ国を統治して10年になるピラトにしたら、危険分子を排除してローマの優位を見せつけることに躊躇はなかった。福音書が形をとった時代にはすでにローマ市民のキリスト教徒がたくさんいたから、「神殺し」をユダヤの祭司に押しつけてピラト(ローマ)の罪を軽減しようと描写されたのも分かる。


しかし、まさか、ローマ帝国統治下の一部族の「公教の秩序紊乱」のユダヤ教改革者として殺された男から、その後2000年間も世界史をリードするほどの影響力を持つ大宗教が生まれて、福音書の「神殺し」のレトリックが、やはりその後2000年になっても遺恨を留める反ユダヤ主義のルーツになるなんて、お釈迦さまでもご存じなかっただろう(当然か)…。


事実は小説より奇なり、というやつだ。


しかも、そんなキリストの復活が、エルサレムから遠いところで21世紀に生きているいろいろな人々の中で繰り返されているなんて、これもくらくらする。


「キリスト教徒」だと称するすべての人が、せめて、「殺す側には絶対に回らない」という生き方によってキリストを生かし続けてくれたら、この世の争いの半分くらいは解決するような気もするが‥。






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by mariastella | 2018-04-04 00:05 | 宗教

ブノワ ・ド ・シネティ 補佐司教の復活祭ミサ

復活祭のミサにルヴェリエ神父の教会に。
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枝の主日の棕櫚の葉が飾られている。

司式をするのは、マドレーヌでのジョニー アリディの葬儀ですっかり有名になったパリ大司教区補佐司教のブノワ・ド ・シネティさんだ。
彼はその前はサン・ジェルマン・デプレ教会の司祭で、パリ最古のこの教会の修復をするために、アメリカからも巨額の寄付を集めたやり手で、芸能人、政治家、ビジネスマンなど多くのセレブの葬儀、結婚、洗礼などを司式したが、難民にもセレブにも全く同じ奉仕をするので有名だ。 背が高くがっしりしていて堂々としている。彼はルヴェリエ神父と神学校の同期なのだそうだ。

この復活祭ミサの説教では、どの教会も例のテロで殉職した「英雄」ベルトラム中佐のことが記念されるだろうという話だったから、どういう風に話すのか興味を持っていたら、シネティ師は、この話を取り上げなかった。

ただ、イエスが復活によって、人々の中で生き続けること、復活祭も毎日曜の聖餐も、イエスの命と犠牲の再生なのだと語る。イエスの命をもらった人の生き方でイエスの不死が確認できるということで、その名をあえて出さなかったベルトラム中佐のことが嫌でも想起される。
夫の名がなんであれプロパガンダになることを拒否すると明言したベルトラム夫人のことを思うと、このような復活祭こそが彼女と彼女の夫をキリストの中で生かし続けることなんだなあと納得できる。

セバスチャンとパロマという赤ちゃんの洗礼式が同時にあって、お父さんが幸せそうにギターを弾いて、ハレルヤと歌っている。みんな楽しそうだ。ニーチェに見せてあげたい。

もう、式次第の紙のプリントがなくて、聖歌の歌詞は全部壁に映し出される。
ラテン語が多くて、フランス語の訳もついている。

クリスマスにはクリスマスソングが楽しみだが、復活祭には、表彰式の音楽で日本でもお馴染みのヘンデルのオラトリオ「勇者の帰還」が流れるし 歌える。何度も出てくるリフレインの歌詞はこれ。
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教会の近くの公園は、まだ春の感じは遠く、寒々としていた。
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こんな人工滝の音もさわやかというより冷えびえする。

ジュネーヴにあるギリシャ科学協会というのから寄贈されたという「自然の守護神」牧神パーンの銅像が、パンフルートを吹いていた。
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by mariastella | 2018-04-02 00:05 | 宗教

テロと英雄と復活祭

(これは、前回、前々回の英雄話の続きです。)

今週の雑誌は軒並み、ベルトラム中佐の「英雄」認定の記事で埋まった。


復活祭の聖週間の特集であるはずのカトリック雑誌も、この「英雄」が敬虔なカトリックだったということで盛り上がっている。


中佐の夫人マリエルさんはカトリック週刊誌『La Vie』の編集長に直接電話して、中佐の犠牲の精神は、キリスト者であることと切り離せない、と証言し、復活祭を待っているという。

ベルトラム中佐ばかりにスポットライトを当てるのもまずいからか、今日(3/29)は首相が他の三人の犠牲者の追悼式に参加し、それぞれの棺に家族が別れを告げる様子がニュースで映し出された。

私や私の家族がもしテロの犠牲になったら、何度も名前を連呼されて画像を映し出されてフランス中に共有されるのは嫌だなあ、と思う。共和国セレモニーを拒否する権利ってないのだろうか。

いや、テロの犠牲者は「テロとの戦争」の犠牲者として戦死者扱いになって国家による遺族補償があるという面もあるから、「公の死」になるのだろうか。

ベルトラム中佐を英雄と賛美することについて、マリエル夫人も、政治利用などされたくない、と述べたそうだ。


おもしろい映像がビデオで流れた。


昨年12月に、「国民的歌手」のジョニー・アリディが亡くなった時、大騒ぎでマドレーヌ寺院での葬儀がメディアで流され、マクロン大統領もコメントし、前大統領のサルコジやオランドらまでも出席するという仰々しさだったのだが、その時にインタビューに答えたマクロンの映像だ。


「人々は時々、英雄を必要としている。彼は国民の英雄だ」みたいなことを言っているのだ。

今回の「英雄賛美」と並べると笑える。


今回は、「国のため、市民の命を守るために命を捧げた」のが英雄だと言って愛国心を鼓舞しているのだけれど、その基準で行くとロック歌手のジョニー・アリディは「英雄」ではなく、まさにアイドル(偶像)だ。

真の英雄を偶像化するのが政治で、偶像を英雄に仕立て上げるのもまた政治だというところか。

この件に関するTVの「英雄」談義に、2015年アムステルダムからパリ行きの特急の中でテロリストに立ち向かったアメリカ人の一人が出演していた。最近クリント・イーストウッドが映画化(『1517分、パリ行き』)したことでさらに有名になった事件だ。イーストウッドの映画に出演して事件を「再現」した人の一人で、「英雄」としてフランスから勲章をもらった米仏二重国籍を持つ人のテレビ出演だ。


ベルトラム中佐のように英雄として死んだ人はそのまま崇められるけれど、生きている英雄は微妙な立場ではないかという話も出た。


カトリックの尊者とか福者とか聖人の認定やその条件である「英雄的」生き方の認定は、死後にしか調査されない。

一方、死ぬどころか巡礼地などで起こる「奇跡の治癒」で「奇跡」を認定されて健康体に戻った人の場合は微妙だ。

奇跡の享受者が修道者や聖職者ならいいけれど、普通の人で、治った後に、もし犯罪にかかわったり、自堕落な生活を送ったりしたら、何のために神が奇跡を起こしたのか分からないので、「教育的」ではなく不適切だ。

だから、奇跡の治癒を得た人が、それによって「回心」するとか、立派で模範的な生き方をするとか、を見極めないといけない。


武器を持ったテロリストに危険を顧みずに立ち向かって結果的に多くの人々を救った、というのは確かに「英雄的行為」だけれど、その後の人生でそれを自覚して模範的に生きてくれるという保証はない。


で、特急内のテロリストと戦った「英雄」は、どういう気持ちだったのか、英雄的な行為をした自覚はあるかと聞かれて、


「アメリカでは子供の頃からテレビなどで常にヒーローものを見せられて鼓舞され、子供はヒーローに憧れて、勇気あるヒーローになりたいと思って育つので、迷いはなかった」


という感じの答えをしていた。


なるほどと思った。


フランス人は、勇気がある、勇ましい人に対して、むしろ「英雄気取り」だとシニックに見る傾向があるから、メンタリティの違いは大きい。


同席していた哲学者が、ヒーローには二種類あって、いわゆる「物語の主人公、主役」という意味のヒーローと、「他者を救うために命を賭して戦う」ヒーローとは別のものだから、とひとこと付け加えていた。


それを言うなら、「他者を救うために命を賭して戦って、勝利する」というのが、アメリカン・ヒーローに近いかもしれない。

ベルトラム中佐は他の人質の命を救うことには成功したけれど、テロリストに殺されてしまった。

だからこそ「犠牲」であり「殉死」であるので、前の記事で書いたように「聖なるもの」の次元と関わる「宗教的概念」と重なる。

アメリカン・ヒーローではない。

アウシュヴィッツのコルベ神父は、一人の囚人の身代わりになって死を受け入れたが、加害者のナチスを「やっつけた」わけではない。

もちろん、アウシュヴィッツで展開していた「悪」は、そこで命令を下す特定の人の「悪」よりもはるかに大きい悪に根差している。

同時にそれは、ハンナ・アーレントが言ったようにある意味では、だれの心の中にもひそんでいる陳腐な悪でもある。

その悪に「勝つ」には、特定の「悪人」を力で制するということではなくて、大いなる善、無償の愛が存在し得るという「証し」が必要なのだろう。

これを書いているのは復活祭に先立つ「聖木曜日」の深夜だ。


自分が捕らわれて殺されることを予知したイエスが、「最後の晩餐」の後、弟子たちが寝込んでしまったのに、たった一人で、オリーブ山の麓、ゲツセマネの園で血の汗をしたたらせながら祈る時刻に相当する。

イエスは、「全ての人の罪」を贖って、無償の愛の証しをするために死ななければならない使命を受け入れることになった。


それから二千年も経ったのに、ベルトラム中佐が、キリスト者として人質の身代わりになり、武器を捨ててテロリストに相対した。


マリエル夫人が、夫と共に復活祭を祝えるのだと信じて期待していると言うのも、イエスの死と復活が全ての人を救ったという証しなんだろう。

復活祭に向けての全ての典礼のプロセスは、夫人にとって、どんな心理セラピーよりも確かな、癒しと命の源になることだろう。




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by mariastella | 2018-03-31 00:05 | 宗教

フランスのテロの「英雄」、カトリック、死刑囚

3/28、朝からアンヴァリッドでベルトラム中佐(カルカソンのテロで人質の身代わりになった)を讃えるセレモニーがあった。

マクロンだけではなくナポレオンにも見守られていることになる。

カトリック系のメディアも、はしゃいでいると言っては悪いがエキサイトしている。

ベルトラム中佐が救おうとした命は、45分間直接拳銃を突き付けられていたレジの女性(そして伏せの姿勢で閉じ込められていた多くの人)の命だけではなく、テロリストの命でもある、という(残念ながらテロリストは結果的に射殺されたが)。

子供を教会や公教要理のクラスに通わせない世俗過程で育った中佐は、士官学校のトップで模範的な愛国者でもあったけれど、2008年、34歳頃、突然回心体験をして、要理のクラスに通い2010年に初聖体と堅信礼を受けたという(マジョリティのフランス人だから生まれた時の洗礼は受けていたのかもしれない。今週のカトリック・メディアで詳しく語られるだろう)。

中佐は愛国や共和国理念のルーツにキリスト教の愛があることを発見したのだという。彼にとっての軍人とは、殺す軍人ではなく、生かすための軍人だった。
それを今回証明したことになる。

で、2015年に聖母マリアに伴侶を与えてくださいと祈り、信仰篤いマリエルさんとめぐりあい、2016年の夏に市役所で結婚し、ある修道院で出会った司祭に教会での結婚を頼み、準備を重ねて今年6月の結婚式が決まっていた。

その司祭は、テロのあった夜に病院に駆けつけて病者の秘跡(終油の秘跡)を授けたけれど、彼には意識がなかったので結婚のセレモニーはできなかった(結婚の秘跡は本人同士の誓いに司祭が立ち会う形で有効になる)。
マリエルさんと神の前で結婚するという意志と愛を表明しながら、今回自分の命を別の人のために捧げたのはマリエルさんへの裏切りではない、キリスト者としては「死」を選んだのではなくまさに「生」を選んだのだから、と司祭は言う。

司祭は、死の床の中佐の肩にパリのバック通りの奇跡の聖母メダル(不思議のメダイ)を貼る許可を得たという。

全体に、今回のテロで、悪をはるかに凌駕する大きな善の前に、感嘆と賛美が起こって「憎悪」や「怒り」がかき消されていることは確かで、印象的だ。

今が、復活祭前のイエスの受難の聖週間に当たっているというのも象徴的だ。
パリ大司教は「愛のみが憎しみに打ち勝ち、生は死に打ち勝つ」と言った。

加賀乙彦の『宣告』を読み終わったところなのだけれど、私が死刑囚だったら迷わずカトリックの洗礼を受けるだろうと思った。
死の予感に苦しみ、無実にして死刑宣告を受け、復活したとはいえ、二千年間も毎年受難を反芻され、十字架上の姿をさらされているナザレのイエスをいただくキリスト教、しかも、そのキリスト教というOSの中で、死刑囚を支え、殉教者や殉死者の英雄性を鼓舞するソフトが充実しているのはカトリックだからだ。

でもオウム真理教出身の確定死刑囚たちの、霊的状態は今どうなっているのだろう。

もともと宗教がらみで尊師に洗脳されていたのだから、殉教意識を維持しているのだろうか。

でも、日本の監獄でカトリックに改宗して、助命運動や死刑反対運動をしてもらえても、祈ってもらえても、文化的なマイノリティ感は否めない。

ベルトラム中佐の棺が通る時ノートルダム大聖堂の鐘が鳴り響き、昨日の記事で書いたように殉教や英雄というカトリックの含意がある言葉が多用されて、寛容や赦しの雰囲気を醸成することなどに比べて、日本の自衛官が突然、国家神道に目覚めて、国のために命を落として靖国神社で国葬してもらい、賛美されるなんて、日本の歴史や現状からあり得ない。

その点で、フランスのカトリック普遍主義のルーツって羨ましい。

いや、結果的に赦しと寛容、共生とリスペクト、絶対平和に向かうのなら、民族宗教でも部族宗教でもなんでもいい。

なんであれ、バランス感覚を持ち、歴史の過ちに学び、反省と修正を重ねる老舗宗教がちゃんと機能していれば、オウム真理教のようなテロリスト・カルトが生まれる隙は、なかったかもしれないのだ。


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by mariastella | 2018-03-30 00:05 | 宗教

フランシスコ教皇の五年

フランシスコ教皇がローマ法王に選出されてから5年が経った。


就任早々、特別の枢機卿評議会を組んで、ヴァチカンの近代化に取り組んだが、代々のイタリアの貴族や名家が作ってきたヴァティカンの体質の強固さはアルゼンチン出身の教皇の想像を超えるものだったらしい。


教皇庁の人員を削り、より機能的にして、ビューロクラシーや教権主義や出世主義も排して刷新し、中央よりも地方の教会に仕える体質に変えたかった。


なかなか簡単にはいかず、とりあえず、それまでの「正義と平和評議会」「開発援助促進評議会」「移住・移動者司牧評議会」および「保健従事者評議会」を統合して「人間開発Integral HumanDevelopment」という上位部署とし、


「信徒評議会」と「家庭評議会」を統合し「信徒・家庭・いのち」の部署、


そして、ヴァティカンのメディアと広報のシステム書記官統合の再編のための広報事務局


という三つを新設した。

最初のものは、移民、助けを必要とする人、病者、迫害を受けている人、服役者、失業者、紛争や自然災害、奴隷状態や拷問の被害者らのために働くというキリスト教の背骨みたいな部分で、核抑止力の有効性否定、エコロジー問題などを通して、「弱い立場の人」の支援も全地球的な有機的な視点なしには真に有効なものにはならない、ということだろう。

多分夏ごろに出る私の新刊の中では、教皇の出身地でもあるラテンアメリカで軍事独裁政権に対抗して共産党とカトリック教会が共闘した「解放の神学」について解説した。


「無産者」が常に犠牲となっているという認識において、マルクス主義とキリスト教の見方は重なる。

先日は、国際女性デーに合わせたようにヴァティカンで聖職者の世話をするシスターたちの無償労働やリスペクトされていないことなどについての声が上がった。

ヴァティカン市国の「政府」の要職に一人の女性もついていないことも取り上げられた。


まあ、他の「主権国家」とはそもそも文脈が違うのでこういう比較はあまり意味がない。


フランスのフェミニストの先駆者はずっとシスターたちだった。

男性聖職者や男性修道士たちに君臨した女子修道院長もいる。

みんな、いろいろな意味でぶっとんでいた。


そのうち、それとは別に、ヴァティカンの女性たちについてのシリーズをアップするかも。


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by mariastella | 2018-03-15 00:05 | 宗教

カトリック大司教と赤旗

日記 その8

2/16

サイトの掲示板で、高見長崎大司教が「しんぶん赤旗」2018/2/7で、憲法九条を改定してはならない、という記事を出されているのを教えてもらった。

早速検索して読む。


高見大司教はフランスのドキュメンタリー番組で、インタビューに流暢なフランス語で答えていたのが印象に残ったと前に書いた。その時の彼の発言にも少し触れたことがある

ちょうど6年前に、岡田東京大司教も赤旗のインタビューに答えていたのを思い出す。

「自戒こめたメッセージ 自然と命守り後世に伝える」というもので、

>>>「いますぐ原発の廃止を~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~」日本のカトリック教会が昨年11月に発表した司教団メッセージです。日本にいる3人の大司教の一人、東京大司教の岡田武夫さんに聞きました。2012/2/26<<<とある。

共産党とキリスト教は弱者に寄り添うという一点で共通している。

共産主義政権は、資本主義社会の構造的弱者である「労働者」を「強者」に転換するのを必然としているところが決定的に違う。

日本の社会主義者でソ連のコミンテルンから日本共産党の設立を支援した片山潜はプロテスタントだったけれど、ソ連のボルシェビキが「無神論路線」= 実は神と宗教にとって代わる路線」を採用したので、自分は本当は神を信じていなかった、みたいな弱腰の言葉を残している。でも実は、戦前のキリスト教社会主義者たちは、「御用宗教」としてのキリスト教を擁護していたのではなく、「キリストの教え」に忠実であろうとしたのだった。

日本共産党はその後コミンテルンから離れて独立路線をとったのだから、もう少しイデオロギー色を消して、それこそ、もとの、搾取されている人々を解放する、という方向に、現在の肥大した金融資本主義などの中での労働者の救済ということと、必ず真っ先に弱者が犠牲になる戦争や環境破壊に絶対反対するということに特化すれば、今のカトリックの目指すところと変わらないのは事実だ。

でも、旧ソ連の全体主義と袂を分かった自由諸国内の共産党が次々とそのブランドを捨てていくのに対して、日本の共産党だけはあいかわらず「赤旗」という革命旗を掲げているから、フランスのTVニュースでも取り上げられたくらいだ。

その「赤旗」ブランド死守が生存戦略の一つだというのも、旧社会党の末路と比べると分からないでもないけれど。

で、カトリックというのは、フランスでも二つに分かれている。

ブルジョワ階級のお仲間アイデンティティと、現ローマ法王のフランシスコ教皇と同調して、形や伝統よりも慈しみの実践と偽善の告発に熱心なグループに分かれる。

カトリックが超マイノリティーな日本でさえそんな雰囲気があるのは不思議だが「欧米のイメージ」、「ミッションスクールのお嬢様カルチャー」などのお仲間アイデンティティがフランスとは違う意味で存在していて、「大司教様が赤旗に応えるなんてあり得ない」「聖職者が反体制的な政治運動や発言をするなんてとんでもない」という反応も必ず出てくるようだ。

プロテスタントの方が、もともと個人的に社会主義運動にコミットメントするハードルが低い。

今は「神、金、革命」という次著をまとめている最中なので、いろいろな歴史的、地政学的文脈が頭に浮かぶが、日本でも、超宗派的な日本宗教者平和協議会があって合意事項を明白にしている。どんな宗教でも、人間の死生観に関わるのだから、行きつくところは同じだというのはもっともだ。

合意事項は、今、検索したら、

信教の自由政教分離の確立」、

核兵器の完全禁止と廃絶」、

「(自衛隊及び在日米軍)軍事基地の撤去と軍事条約(日米同盟)の撤廃」、

日本国憲法の擁護と平和・民主条項の実現」、

人権の擁護と民主主義の発展」、

「環境の保全と回復」、「宗教者の国際連帯の強化」(平和五原則

だそうで、宗教が正論に行きつくとこうなるんだなあ、と思う。


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by mariastella | 2018-02-24 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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