L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 381 )

暴力による「政権取得」は功を奏するか?

(これは一昨日の記事の続きです)

紀元366年、ローマ法王リベリウスが死んだ後、教会は二分していた。

まず、古代ローマの中心部にあったユリア・バジリカ聖堂で補佐司教だったウルシヌスが新法王に選出された。けれども、別の一派は後のダマシウス一世を応援し、ウルシヌス派の一部を賄賂で味方につけた後、バジリカ聖堂を襲撃した。百人以上が殺された。

さらに激しい実力行使によってラテラノ大聖堂を占領して、そこでダマシウス一世を新法王として選出した。(その後2人の法王の時代は2年続き、ダマシウス一世は378年のローマ公会議によって正統な法王だとされ、381年のアキレイア公会議で、ウルシヌスは「反法王」として法王位を剥奪されローマ教会の歴史から消された。)

で、それまでもアリウス派との確執でもめていたローマ教会なのだけれど、ダマシウス派による暴動や殺人まで経て選ばれたこのダマシウス一世は精力的な改革に踏み切った。カタコンブを修復し、四度の公会議を招集し、ヒエロニムスに聖書のラテン語訳をするように説得するなど、ローマ教会の基礎を固めて、今は「聖」ダマシウス一世として12/11に祝われている。

敵対する陣営を惨殺するような暴挙を経て選ばれたダマシウス一世、もし彼が選ばれていなかったら、改革はなく、その後のローマカトリックの歩みはひょっとして違ったものになっていたかもしれない。

フランス革命も、暴力や破壊によって民主主義の共和国主義国家を生んだ。

ローマ教会とフランス革命の違うところは、フランス革命での新たな「政権」の担い手たちはさらに分裂し、過激化し、互いを殺すテロルの時代に突入し、その後でまた帝政だの王政復古などを経て「共和国」の理念遂行を今も絶えず模索し続けているということだろう。

絶望した者の暴力だけが変えることのできる未来というものはあるのだろう。でも、その後に何が起こるのかはまた別の話だ。新しい次の指導者がマクロンのように「ジュピター」と呼ばれて雲の上からの上から目線で語るのか、無抵抗で十字架につけられて死んだナザレのイエスのように弟子たちを友と呼び足を洗って、フランシスコ教皇のようにその足に接吻するのか、そのモデルの違いは大きいなあと今さらながら思わずにはいられない。


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by mariastella | 2018-12-14 00:05 | 宗教

ロシアとウクライナの正教会

私は日本にあるロシア正教の教会がどの主教区に属しているのか知らない。

フランスでは最近、11月28日に大異変が起こった。

コンスタンティノープルの大主教が、西ヨーロッパのロシア正教会を切り離すと宣言したからだ。


日本もそうだろうが、1917年のロシア革命のせいで、多くの白系ロシア人(これは白人という意味ではなく、共産主義の赤に対する色だ)が日本にもヨーロッパにも亡命した。

フランスでの白系ロシア人コミュニティは自分たちの教会を創ったけれど、本家のロシア正教会がソ連に従属しているのを見て、ソ連配下のロシア正教会の大主教を頂くのを拒否した。

で、1931年以来、彼らはコンスタンティノープル大主教を頂いている。

今回コンスタンティノープルから切られるとなると、同じ「ヨーロッパ」のギリシャ正教会に向かうとみられる。

ロシアのキリスト教と言えば、もとはウクライナ、キエフから広がった。

ここ とか ここ 参照)

それなのに、ウクライナの正教会は歴史の流れとロシア帝国主義の中で、もう332年も、ロシア正教会に組み入れられてしまっている。


もともと、迫害の時期を経た後でキリスト教を国教にしたローマ帝国が、ローマからコンスタンティノープルに首都を移してから、コンスタンティノープルは「第二のローマ」といわれていたが、イスラム教の登場でギリシャ・トルコの東方正教は力を失った。で、正教の信者数が世界一となったロシア正教がモスクワを「第三のローマ」と自称することになった。

で、もう数年越しのウクライナとロシアの対立、一触即発の事態を前にして、10月15日にコンスタンティノープル大主教が、ウクライナ正教会をモスクワから独立した「正教会」だと公に認めたのだ。それは、コンスタンティノープルが「ロシア正教会」によるウクライナ支配を否認したことになる。

その結果、それまでコンスタンティノープルの大主教を頂いていたヨーロッパのロシア正教会も「離縁」を余儀なくされたというわけだ。

私にはパリのロシア正教会に通う友人もいるので、他人事とは思えない。

ロシアとウクライナ情勢もフランスにいると脅威の種だ。

ウクライナの作家が、もともとウクライナとロシアの民衆の政治感覚はまったく違う、と言っていた。

ロシア人は皇帝を崇めるのが好きだ、皇帝が気に入らなくなったら殺して別の皇帝を立ててまた崇める(イワンでもエカテリーナでもレーニンでもプーチンでもOK?)、でもウクライナの民衆は代々民主主義メンタリティの持ち主で、独裁など耐えられないのだそうだ。

これからどう展開するのか分からないけれど、忘れないようにここに覚書しておく。


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by mariastella | 2018-12-09 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その7

(これは前の続きです)

>>>「とはいえ、(生き方を照らす)光は、毎日のたえまない学びによってしか得られません。読むこと、そして祈ることです。

祈りは私にとって主との親密な時間です。単に「主の祈り」を唱えるといったことではありません。それぞれが主とつながるように生きることで、私の場合は一人で祈っている時よりも出会いの時にそれが多くあります。

私の魂と体と精神は愛の中、恵みに対する深い感受性の中で生きられる秘跡によって養われています。パンと葡萄酒は生きるのに大切なものであると同時に、神の秘密に至る最終レベルの読み方によって聖書の啓示へと私を導き続けてくれています。それがヤコブが見た梯子の最後の場所、主がヤコブを待ち、私たちすべてを待っているものです。」<<<

Sekko :これがカトリック雑誌でのインタビューの最後の部分。

「ヤコブの梯子」というのは「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。(創世記28,12)」で、天と地を結ぶもの。

スゼネルの挙げる聖書の句は、それこそ「字面」のレベルでは、信仰や伝統を共有しないものにとっては「意味が分からない」「ただの神話 ?」のようなものだけれど、彼女は実は、コーランやヴェーダの研究もしている。

彼女の知見をわかりやすく言ってしまうと、


どんな伝統の聖典でも、それぞれに固有の信仰や伝統のレベルよりも深く掘り下げて読み解くと、すべての人類に共通する潜在意識につながっている、

それを意識化して、聖典に隠された普遍的な知恵の光に照らされて実践することで人は喜びの内に生きることができる、


というものだ。

これは、その後の人生を変えるようなあらゆる「神秘体験」のシンボリズムは共通している、という認識でもある。


スゼネルはそれをユダヤ=キリスト教の言葉で語っているわけだけれど、深層心理学の造詣、心理療法士としての体験をふまえているところが、「神秘家」としてユニークだ。

そう、彼女の言葉は、その学識、カバラ研究の碩学などで一見よくわからないけれど、まさに「神秘家の言葉」なんだと思う。


私の「神とフェミ」論考の中で、創世記におけるジェンダーの分析については彼女の論文に啓発されるところが多い。それは私には手の届かないヘブライ語のカバリスティックな良質の研究がフランス語で読めるということ、しかもその著者である95歳の女性が体現しているものが理解できる気がしているからだ。

現存のユニークなインテリ神秘家スゼネルを紹介するシリーズはこれでいったん終わり、次から、これもユニークな、42歳の脳性麻痺のスイス人哲学者、韓国で3年間暮らして禅の修行をしたアレクサンドル・ジョリアンのインタビューを紹介。

スゼネルの記事と同じ雑誌の同じ号に載ったものだ。興味深い。


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by mariastella | 2018-10-22 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その6

(これは前の続きです)

>>> 「神がアダムに動物に名をつけるようにといった意味を理解しなければなりません。それは、私たち自身のうちの魂の内なる動物を指し示すことになります。傲慢なライオンや陰口を告げる蛇、独占欲のタコなどはしばしば出現します。それらは克服すべき試練として現れるのです。でも、それら一つ一つに名を与えた後で、それらを捕獲して私の代わりに動くことを妨げることができたという体験をしました。その時には主が秘密の錬金術によってそれらから情報を引き出して見せてくれるのです。それが「知識の樹」を作り実らせるということです・それが連なって信じられないような喜びにつながります。」(スゼネル談)

Sekko :アダムのくだりはこういうもの。「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった(創世記2,19)」。

「タコの独占欲」というのはタコのように複数の脚の吸盤で子供を離さないという母親による子供の囲い込みの比喩。私は日本では聞いたことがない。

いろいろな「煩悩」が湧きおこってきたらそれを一つ一つに分けて意識化していくことで相対化できて距離を置ける、という感じだろうか。でもそれが「信じられないような喜び」につながるというのは楽観的過ぎる気もする。

でも、スゼネル女史、95歳にしてこの自信に満ちて生き生きした感じ、「主の錬金術」を知っているんだろうなあ。

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若い人からのインタビューにも答えている。「内にいる神になる」というテーマ。
滑舌の良さも含めて、なんという明快さと明晰さ。字で読むといろいろつっこみたくなるけれど話を聞くと傾聴するばかりだ。


(続く)


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by mariastella | 2018-10-21 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その5

(これは前の続きです)

>>>聖書を通して神ははっきりと語っている。すべての文字がロゴスである主のシンボルだ。ヘブライ語は複数のレベルの読み方を可能にし、そのそれぞれが神との対話になる。もちろん文字通りの意味はある。けれども文字が私たちにウィンクしてくる。例えば、同じ文節の中で同じ言葉が二度出てくるときは、二度目はいつも、隠れた意味を読むようにというよびかけなのだ。もっと深い読み方もあって、そこで得られた情報は読む者によって生きられるべきもので、それを生きることが喜びと解放のすばらしい体験となる。その生き方の求める道は犠牲を伴うし、物質的、感情的、時には霊的な安全地帯からの離脱につながる。親しい人に理解されなかったり、知り合いのサークルすべてから抜け出したりすることもある。

Sekko :これって一見、なんだか物騒な気がする。ある「教祖」の言葉を読んでカルト宗教に取り込まれてすべてを捨てて「出家」し、時には反社会的行為にまで突き進むような例を想起してしまうからだ。

とはいえ、最近、ヨーロッパではまさに、イスラム原理主義のような「強度」のある言説と信仰こそが浸透力があるわけで、それに比べて、既成の伝統的な諸宗教は限りなくぬるくなり、冠婚葬祭以外のインパクトを生活にもたらさず、生きる喜びも解放にもつながらない状況がある。民主主義や共和国理念の言説も弱弱しい。

科学主義、進歩主義が伝統「宗教」を抜け殻にして、宗教から「信仰」の言葉を奪ってしまった。その空白にこそカルトや原理主義の提唱する「生き方とリンクした強い言葉」が刺さっていく。

それは危険な状態だと思うから、他者と平和に共存し連帯するような生き方を可能にするような言葉や実践がインパクトを持って広がってほしい。

でも現実は、「絶対平和」などを騙るとすぐに理想論だとか、お花畑だとか言われて、「ミサイルが飛んでくる」「やられる前に攻撃せよ」などと叫ぶ声の方が響き渡る。


スゼネルのように何十年もぶれることがなく霊的人類学を探求し、「聖なる書物」のシンボリックなレベルでの普遍性を確信するに至ったような人が声を上げてくれるのは貴重なのだろう。

(続く)


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by mariastella | 2018-10-20 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その4

(これは前の続きです)

>>>その後、心理療法士となったスゼネルは、トーラーの勉強を続け、50歳を過ぎてから『人体のシンボリズム』を上梓した。これを書くのはまさに聖霊の賜物のようだった。時として、自分の知らないことまでも書くことができたからだ。聖書によって引き起こされた内的な変革によって創られる作品は、完全に作者に属しているものではないことがある。この本のおかげで、スゼネルは、あちこちで講義や講演をするようになり、生きる意味を探す人々に寄り添うようになった。

Sekko :  この本は画期的な本だった。人の体を、喜びや苦痛を表現するランガージュの手段としてだけでなく、肉体そのものが解剖学的なディティールに至るまで「読み解くべき一つのランガージュである」というアプローチで、人体と自然、宇宙のマクロコスモスとミクロコスモスの関係を語る壮大な構想を持つものだ。人は「神の似姿」として創られたのだから、神を読み解くように人の体を読み解く。カバラの手法、すなわち生命の樹を10のセフィロトの樹として人体をカバラによって実に細かく説得力を持って説明する。

ユダヤ=キリスト教文化のベースがない人やタロットやオカルトやシンボリズムへの感性のない人には「?」と思えるかもしれないが、ただの衒学趣味ではなく、長年の研鑽の結果だけでもなく、彼女がいうように、どこかそれを突き抜けたような大きな流れの中にある印象の本だ。

スゼネルは2008年に85歳でスピリチュアル人類学研究所を設立した。2018年の秋のセミナーでも95歳の彼女が講演する。

(続く)


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by mariastella | 2018-10-19 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その3

(これは前の続きです)

>>ヘブライ語で『創世記』を研究することで一つの新しい人類学へと導かれた。天地創造の6日目に創られたアダムとは「ユマニテ」だった。彼は「神の似姿」であり「男+女」だ。

それなのに『創世記』のアダムはヘブライ語でIsh であり、女性の部分Ishahを忘れ意識下に閉じ込める。蛇の前で禁断の実を食べたのはこのアダムの無意識だったのだ。私たちの人生でも、私たちの潜在意識が自分の代わりに何かを決定してしまうことがある。

禁断の実を食べたせいで、アダムは「動物」と同じ状態に退行し、「男と女」に二極化してしまった。そこで初めて聖書の中の女が「エバ(イヴ)」という名で呼ばれ始める。けれども全てのアダムは創造された時のIshahを自分の中に想起することができる。キリスト教の信仰は「神を信じる」ことだけではなく「神の似姿」を見て私たちの中に再発見すること、失われた女性性を見つけることにある。それはキリストを通じてなされる。ひとりひとりが、イエスが語る神(Elohim)にもどらなくてはならない。

「そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。(ヨハネ福音書10-34)」 <<<


Sekko : なるほど、確かに、創世記を読むと、神は「人」を創っただけで、アダムとエバを創っていない。智慧の実を食べてしまってからはじめて「アダムと女」となり、楽園を追われてからアダムが「女」をエバと名付けて自分の一部だったものを疎外して外在化させた。

アニック・ド・スゼネルが「納得」させられた気分は何となくわかる。

「あなたたちは神々である」という言葉も悪くない。



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by mariastella | 2018-10-18 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その2

(これは前の続きです)

>>アニック・ド・スゼネルは数学を専攻した。その後で看護師として働く。

信仰の上では15年ものさすらいが続いた。カトリック教会以外での霊性を求め探した。ある時パリの正教会に足を踏み入れた時、再び「聖霊」に捕らえられた。その聖霊が正教会の司祭コヴァレフスキー神父と、あるユダヤ教のラビとの出会いに導いてくれた。コヴァレフスキー師によって彼女は再びキリストの家に居場所を見つけ、シンボルの世界を知るようになった。ラビによってヘブライ語とヘブライ文字のシンボリズムを学ぶことができた。彼女がそれまでずっといろいろな問いを発し続けてきた聖書が別の意味を持ってあらわれてきた。それまでのフランス語訳とは異なるテキストが出現して彼女の人生を変えた。<<<

Sekko : 彼女が正教会に改宗したのは1958年です。

これがもう少し後だったら、アメリカン・ニューエイジの影響を受けたり、チベット仏教とか「禅」や瞑想系に惹かれたケースだなあと思います。カトリックの第二バチカン公会議による「改革」によってカトリックに戻ったかもしれません。でも、ちょうど絶妙のタイミングで、「古いフランス」の温床だったカトリック教会を離れて、「正教会」というキリスト教異文化やそのルーツであるユダヤのラビと出会ったのは、彼女のその後の研究の恩恵を受ける私たちにとってラッキーなことでした。


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by mariastella | 2018-10-17 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その1

『神とフェミ』(仮題)のために、旧約聖書の創世記をヘブライ語でちゃんと検討しようと思うが、ヘブライ語はアルファベットの読み書きしかできない。けれども、フランス語では、アニック・ド・スゼネルという強い味方がいる。彼女の『Le Féminin de l’être』はまさにバイブルだ。彼女の『人の体のシンボリズム』はもうずいぶん前に読んだけれど、創造における女性性を三つに分けて考えるこの論考は刺激的だ。

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その彼女が95歳でまだお元気であり、これまでたどった道についてインタビューを受けている記事を見た。(La Vie No.3814)とってもすてきでユニークなので、少しずつ紹介していくことにする。(意訳です)

>>1922年、第一次大戦後の平和の希求とルサンチマンの醸成とエゴの解放という空機の中でカトリックの強いブルターニュのレンヌに生まれた。幼い頃からこの世は不条理でばかげていると感じていた。まるで、みんなが耳をふさいでいるような世界だと思った。聖書の箴言(25,2)には

ことを隠すのは神の誉れ/ことを極めるのは王の誉れ。」とある。

洗礼を受けた人はみな、預言者となり、司祭となり王となるように招かれているのではないか?

彼女は生まれた時から神に出会った気がする。それが95歳の今にして思うことだ。

小さい時から神と神の言葉を切望していた。隠れているものを見つけたかった。

司祭さんに何度も「どうしてヤコブは脚を引きずったのか、どうしてサムソンの髪は切られたのか」などと聞いたけれど答えてもらえなかった。

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。(マタイ福音書11-25)』ということに通じる。

彼女がミサに出た時の聖霊を感じる喜びは、第二バチカン公会議以前の閉鎖的な教え方のせいですっかり曇らされた。20歳で教会を離れた。


Sekko:

この中で、ヤコブが足を引きずったというのは、天使と戦った後の話です。

創世記32,25以下にこんな記述があります。

>>ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。

ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

(…)ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。

こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。 <<<


ユダヤ教やキリスト教に縁が薄い人には、「え、何のこと?」と意味不明ですが、あるフランス人のラビ(Rav Ron CHAYA)の解説を読んでびっくり。


天使はヤコブが子孫を残せないように生殖器をつぶそうとしたのに手元がくるって腿の関節を打ったのだ、で、朝までヤコブはあしを引きずった。朝とは救いの光、律法のシンボルであるヤコブは救いに至るまで闇の中の試練に耐えなければならない、という答えでした。

突っ込みどころが多すぎて、ますます分かりません。ヤコブはその時点ですでに妻も側女も11人の子もいたのだから、今さら子孫を残せなくとも・・・とか、そもそも天使が人間相手に負けそうになるとか攻撃を失敗するとか・・・とか。腰の肉を食べないとか…。


うーん、でも、昔のカトリックでは信徒に聖書を読ませずに、聖人伝とか説教集しか読ませなかったという意味が分かる気もしますね。

「昔の人」でも「子供」でも、聖書を読めば疑問だらけになるタイプなんていくらでもいたということです。21世紀の今でも創世記を文字通りに信じている原理主義の人たちがいるからといって「昔の人」や「子供」をあなどってはいけません。


(続く)


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by mariastella | 2018-10-16 00:05 | 宗教

パリ外宣と不思議のメダルの聖堂

日本へのお土産用の「不思議のメダイ」を買いに久しぶりに「不思議のメダイのノートルダムのチャペル」に行った。

すぐそばのパリ外国宣教会ではインドのベナレスで宣教活動をして10年になる宣教師の「絶対の探求--インドとチベットの間」という写真展をやっていた。

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この人は『ベナレスの司祭』という本も出している。ガンジス河が美しい。

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このau-dedansというタイトルは新鮮だ。「内に向かう」何か。絶対とか超越とか聖なるものとかを求める時は天に向かいそうだけれど、実はそれは自らのもっとも内側の深いところと通じている。

うーん、でも、フランス人によくある「インド症候群」を思い出してしまった。

カトリック文化に浸って宣教師になったフランス人が、突然ベナレスになぞ行けば、それは大カルチャーショックだろう。実際、写っている人物のほとんどはヒンズー教、仏教、ジャイナ教の人々ばかりなので、さすがに気が引けたのか、わざわざ「カトリック教会はすべての宗教の中の真なるもの聖なるものを否定するものではない」という第二ヴァティカン公会議の言葉を引いている。

ガンジス河に大量に放水される工場汚水だとか岸壁にびっしりはりつくゴミの山だののドキュメンタリー映像を最近見たところだから、ますます複雑な気分になる。このヴァヌー司祭でさえも、「自分は現実を見ないで理想化しているのだろうか」などと自問をしている。


で、気を取り直して不思議のメダイこと奇跡のメダル聖堂に行くと、ここはもう、なんというか安定の巡礼地だ。じっと座って祈っている人々の表情を見ているだけで、ガンジス河やヒマラヤに行かなくても、聖母マリアにすがるこれらの人々のau-dedansの濃密さに圧倒される。


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昔、母をはじめて連れて来た時に、ここに立ち込める祈りの波動としか言えないような衝撃に母が驚いていたことを思い出す。「家内安全」みたいなものをお願いする気は吹き飛ぶ。


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by mariastella | 2018-10-13 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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