L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 368 )

ワールドカップから宗教を考える

ロシアのサッカー・ワールドカップで優勝したフランスチームは、カトリック雑誌からも「祝福」された。

「移民」出身が多いフランスチームは「六番目のアフリカチーム」などと揶揄されたが、選手たちが「フランス人」であること、それは普遍主義的共和国理念によって結びついていることと同義であると、しっかりとチーム全体で反駁していたのは好感が持てる。

カトリック雑誌もそれを踏襲している。


オリヴィエ・ジルーの腕には詩編23のダビデの賛歌「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」というタトゥが刻まれている。

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ジルーは優勝したら頭を剃ると言っていたらしいが、7/22に三男の洗礼式があるので取りやめたという。

アントワーヌ・グリーズマンも右肩のイエスや聖母マリアのタトゥがある。教会で定期的に大蝋燭を供えるそうだ。

ポール・ポグバは規律を守るイスラム教徒。

スタジアムへの出入りに必ず十字を切るブレーズ・マチュイディはパリ・サンジェルマン・チームの元同僚で福音派キリスト教牧師のブラジル人マルコス・セアラから洗礼を受けている。


スポーツ選手にとっていろいろなジンクスが必要なのは分かるし、それぞれ「信じる」ものがあるのも不思議ではない。どんなに自力で努力しても、「勝負の神」の機嫌はまた別にある。


で、フランスチームがまとまっていたのは、それぞれがそれぞれの「信心」に堂々と従いながら、互いをリスペクトし、その上位に「フランス万歳、共和国万歳」を自覚的に掲げていたからだという。


フランスでは、大統領はもちろん、極右から極左まであらゆる大統領候補は公式のスピーチの最後を「フランス万歳、共和国万歳」で締めくくるのが習慣になっている。だからこのフレーズはフランス人にはなじみがある。


これさえ唱えていれば、「フランス人」認定と言ってもいい。そしてその「共和国理念」は自由・平等・同胞愛を普遍原理とするものだ。

同胞愛というのは「友愛」とも訳されるが、「きょうだい愛」であるが、別に血縁のことを言っているのではない。そこに「親」はない。つまり父権的関係を拒否してみんなきょうだいということで、「平等」とセットになっている。

なぜ親がないかと言えば、この「理念」がキリスト教由来のもので、親は創造神だけで、すべての人間は「同胞」でしかないからだ。

共和国主義はこの「見えない神」を「ないこと」にして成立したけれど、逆に、この「共和国理念」そのものを、「超越神」的に掲げてきた。

成り立ち上、それは「民族神」ではなく「普遍」神なので、肌の色や出身や宗教帰属や政治的立場の差を超えているというわけだ。


フランスチームのことをアフリカだと言って揶揄したのはイタリア人で、イタリアは今右傾化していることもあり、ナショナルチームにも「純粋」を志向する。

20年前にフランスが優勝した時は「白、黒、アラブ」と言われたが、他のヨーロッパチームはほとんど地元の「白人」だった。

今回のフランスは、「白、黒、アラブ」でなく「青、白、赤」の三色と言われる。もちろん共和国の三色旗の理念を表しているのだ。


20年経てば、他のヨーロッパチームにも「移民出身」選手が目立つようになってきた。

でも、ドイツチームのトルコ人選手は、ドイツが敗退したとたんに差別言辞を浴びせかけられた(まあこの選手はトルコのエルドガン大統領を支援しているかのように政治利用されているから複雑なのだけれど)。

イングランドチームは、大英帝国っぽく、自分たちの多様性を誇っていたが、「あ、うちは出自や宗教などは多様だけれどカルチャーは一つです。イングランド文化だけです」とイングランド人がテレビで協調していたのは興味深かった。

前に、「クリケットをする国出身ならイギリス人認定」という記事を書いたが、 そういえば、サッカーもイングランド起源だよなあ。

で、「イングランド文化」と自称すること自体が、すでに「普遍主義」の対極にある。


全く別の話だけれど、最近の、タイの洞窟からサッカー少年たちとコーチが国際的な支援を受けて救助された事件を覚えているだろうか。


体力の回復した少年たち12人とコーチが7/25から見習い僧として、剃髪して、地元の寺で修業を開始したそうだ。

救助活動への感謝と救助中に亡くなった人の冥福を祈るためだという。

一生に一度は短期出家が推奨される小乗仏教の国だし、こうして共にトラウマを克服していくシステムがあるということ自体は悪くないと思うけれど、今回、少年12人のうち一人がキリスト教徒なので参加しないという。

タイでキリスト教徒なんてかなりマイノリティだ。

でも宗教と関係なくサッカーというスポーツを通して結びつき、洞窟の中でもその団結や一体感が支えになったからこそ、一人も欠けることなくみんなが生き延びることができたのだ。

で、そのアフターケアが突然、特定宗教の「伝統」とは。


他の少年たちが「短期出家」というセラピーから戻ってきた時に、このたった一人の「キリスト教徒」の少年は、またいっしょにサッカーを続けられるのだろうか。彼は彼で、「教会」の共同体からスピリチュアルなケアを受けているのだろうか。


なんだか気になる。


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by mariastella | 2018-07-30 00:05 | 宗教

主の平和と遠藤周作

先日「神の平和」という言葉をカトリック関係の雑誌に書こうとして、日本語チェックのためにネットで調べると、「主の平和」が圧倒的だった。

カトリック教会のミサでの「主の平和」タイムは、日本では近くの人と会釈し、フランスでは握手かハグだが、「キリストの平和」という。


「神の平和」と「主の平和」は少し違う。私の記事の文脈での「神の平和」は、神に祈りと願いを捧げ打ち明ければ「人知を超える神の平和」が心と考えを守ってくれる(フィリピの信徒への手紙4, 7)」という部分と関係がある。

一方、「キリストの平和」は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。(ヨハネ14,27)」の文脈だろう。また受難の時に逃げていた弟子たちに復活のイエスが「あなたがたに平和があるように(ルカ24,36)」と赦した言葉もそれを補強した。


神を「主」と表現するようになったのは「蛮族世界」の領主を戴くヒエラルキーを使って分かりやすく布教する過程だったという。ラテン語のdominusは「支配」と同じ語源だし、フランス語のSeigneur(英語ならLord)は、もとはいわゆるシニアと同じ「年長者」から来ているが封建時代の領主であることが一番の含意だった。

もちろん、キリスト教の三位一体的には、父なる神だけが「主」でなく、「主イエス・キリスト」で問題ないのだけれど、今のフランスのカトリックなどでは、「主」という言葉は単独で使うとなんとなくアナクロな感じがする。司教の敬称としてのMonseigneurなどは普通だけど。

で、日本語のネットには、カトリックの信徒が手紙の初めや最後に十字のマークと共に「主の平和」と書くとあった。なるほど。

で、そういう「習慣」や表現について詳しく論じている信徒のブログなどをつい見ていると、なかなか真剣で時には深刻で驚かされる。そのうち、遠藤周作の本に影響を受けて受洗することの是非のようなテーマに入り込んでしまい、そこでも驚いた。

久松健一さんという人の『遠藤周作の秘密』という論文がネット上ですべて読めるのだ。

私は還俗して日本人と結婚した宣教師のことを書いた遠藤の『影法師』も読んだことがあるけれど、それがこんなにも遠藤のトラウマを形成している事件だとは知らなかった。

それにしても遠藤さんってトラウマで満身創痍みたいな人だったんだなあ。

まず、世代的にも、満州で育ったり、戦争中に青年時代を過ごしたり、戦後の混乱を体験した世代だし、当時には少ない離婚家庭で父を恨むシングルマザーに育てられ、厳しい母親に逆らえない形で軍国日本ではネガティヴでマイナーなキリスト教の共同体に所属し、高学歴エリートぞろいの家族の中では落ちこぼれ、戦後初のフランス留学をしても肺結核で吐血して途中で帰国など、どれをとっても、屈折しまくりそうだ。

しかも、一生カトリックとしての「アイデンティティ」に悩んで思索し続け、そのおかげでいろいろな作品も生まれたのだけれど、そのカトリック・アイデンティティの危機のルーツの一つが、自分の妻といとこの妻に公教要理を教えていた神父が、いとこの妻と結婚したことだったようだ。人妻、人妻の離婚、神父の還俗というトリプル・ショックだった。

その神父はかって母親のアイドルであり、完璧で高潔なキリスト者の手本として彼にプレッシャーを与え、強者に反発して弱者としての道を歩ませるきっかけとなった人だった。それでも、父の反対を押し切って妻にも洗礼を受けてもらい結婚式をその司祭に司式してもらった。『影法師』ではその元司祭が『沈黙』の転び宣教者のように孤独な姿で描写されている。

遠藤周作の生きた時代と家族関係が信仰への強迫的で苦渋に満ちたこだわりを醸成したのだろう。まるで、子供の頃からカルト宗教の中で育てられた人が引きずるトラウマみたいだ。

で、彼は「日本人にやさしい」自然宗教っぽいキリスト教にたどり着いたようだが、そこまで苦労してもカトリックから離れなかったのはやはり母親への思いだったのかもしれない。そんな遠藤周作は間違ったキリスト教観を人に与えるといって一部から厳しく批判されたこともあった。

なんだか、タイプがまったく違うあるカトリックのカリスマ司祭のことを思い浮かべてしまう。「あなたは救われている」と自信に満ちて福音を振りまいている人だ。キリスト教と言うと「悔い改めよ、罪深い人は地獄に堕ちる」的な先入観もある日本の社会でひたすら「もうだいじょうぶ、だってイエスと出会ったのだから」と宣言しまくるので、遠藤周作とは別の形で「ハードルを下げている」ことに眉を顰める人々がいるのだ。

おどけても、湿っぽくしても、汎神論風に風呂敷を広げても、和のテイストを強調しても、自信満々で輝きと歓びを伝染させても、どこかで必ず「間違っている」と言われるのだなあ、日本のキリスト教コミュニティ。

浄土真宗の人がお釈迦さまだの阿弥陀如来だの親鸞のことを自己流解釈して声高に語ってもそれこそ「公序良俗」に反しない限り注意をひかない。

フランスではカトリックがちょうどそういうスタンスなので、日本との落差は大きい。

それにしても、インターネット上のヴァーチャルな「フィールドワーク」が可能な時代になって、いろいろと驚かされると同時に、多様性の底にひそかに流れる「一致への切実な思い」のさざ波をそれでも感知してしまうのは、はたして希望的錯覚なのだろうか。


遠藤周作さんが「主の平和」のうちにあることを祈る。


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by mariastella | 2018-07-13 00:05 | 宗教

ルルドで「診療してはいけない」お医者さん その2

(これは前の記事の続きです)

アレッサンドロさんはマルタ騎士団のメンバーでもあり熱心なカトリックだが、ルルドの「治癒報告」に対する科学的な判断の客観性は揺るがない。


「説明不可能な治癒」の基準は非常に複雑で、ハードルが高い。


例えば、この5月にはアメリカ人女性による癌の突然治癒の報告文書が届いた。

ちょうど、シカゴの腫瘍学専門の医師が訪れていた。

ルルドの国際医学協会のメンバーの1人で、彼らは毎年会員更新する。

カトリック以外の医師も含めて73ヶ国の11千人のメンバーが登録していて、専門と必要に応じてデータを確認したり新しい検査をしたり、「説明不可能な治癒」を司教に申告する最終投票に参加したりする。


アレッサンドロさんは、この英語の案件を腫瘍医に渡した。

次の日、腫瘍医は、その癌の自然治癒は極端に少ない例ではあるが不可能ではなく医学的に説明可能である、と答えた。「奇跡の治癒候補」から直ちに外されたのだ。

1858年の聖母御出現以来、たったの70件しか「奇跡認定」されていないが、こうしてはやばやと「はねられる」申請の他に、「説明できない」としたまま保管されている案件は1883年以来、実に7000も保存されている。

「説明不可能」なうえに「奇跡」という名を冠されるには、治癒を得た人のその後が信仰の模範となるかどうか、福音的効果に左右されるものだから、治癒を受けた後ボランティア活動に専心したりもともとシスターや司祭などの場合が「無難」だと思われるかもしれない。

70件の公式「奇跡」認定を受けた人のうち、10人が修道女、3人は後に修道女になり、修道士1人、司祭1人だそうだ。

こういう人たちは信仰の点でも、周囲の人による祈りのサポート点でも、ルルドに関与する可能性の点でも最初からプラスのバイアスがかかっていることを思うと、奇跡の治癒むしろ少ないくらいだといえる。

国籍別にいうと、フランス人45%、イタリア人30%、アメリカ人10%、その他15%だ。

地理的にいっても、実際に訪れる病人の巡礼者の割合からいっても妥当な数字だそうだ。


実状として英仏伊の3ヶ国語が医学検証事務所の公用語化しているのだから、この3ヶ国語で記された医学証明書が審査されやすいのも理解できる。

実際私は説明できない突然の治癒をルルドで得たという日本人の話を詳しく聞いたことがあるが、その方もわざわざ診断の書類など出していない。

変な仮定だがもし私がそういう治癒を体験しても、申請、報告などしないだろう。自主報告でなくビフォーとアフターの詳しい診断を出し、その後の経過も詳しくチェックされ、ルルド医学協会のメンバーからの問診や再検査を受ける、などというモティヴェーションはない(当事者ノンフィクションを書きたいという色気は出てくるかもしれないけれど)。

で、アレッサンドロさんの「奇跡の治癒」候補の審査というのは、毎日のように届けられる報告書、申請書のチェックだけではなく、保管庫にひしめいている7000件の報告に時々目を通して、「有望」だと思われるものを取り出して、「その後」の経過を調べるためにコンタクトすることになる。

アレッサンドロさんが着任3年後にはじめて奇跡認定された68件目の「奇跡の治癒」を得たシスター・ルイジナ・トラヴェルソさんは83歳だが今も元気で毎年ボランティアとしてルルドを訪れる。

彼女は何度も手術を繰り返してもよくならない坐骨神経髄膜瘤で背骨が完全に麻痺して196531歳の時ルルドに着いた時には担架で列車の窓から降ろされた。

帰りは自分で歩けるようになり、付き添いの司祭は歓喜の涙を流した。

ルルドの医学事務所は1984年にはじめて彼女にコンタクトしたが、それきりになった。2009年に着任したアレッサンドロさんは、この件に注目し、もう一度検査するように頼んだ。X線撮影による彼女の背骨は変形したままで、今でもまともに立てるはずもない所見だった。機能だけが回復したのは「説明不可能」というほかはなかった。

それでも、今、ルルドへの巡礼者は激減している。


私が『奇跡の泉ルルドへ』を出版した20世紀末には世界一の巡礼者数と言われるマリア御出現の聖地だったが、今は半減している。

21世紀初頭に日本の大学生に付き添って訪れた時のことは『聖女の条件』に書いたが、今はテロ対策のセキュリティ・チェックもあり、洪水の影響もあり、多くのホテルも閉鎖されたという。


皮肉なことに、今は、「医学のお墨付き」のインパクトすら必要とされていない時代なのだろう。

プロテスタントの福音派は派手な演出で「その場の治癒」を喧伝するし、「治癒付き」新宗教もたくさんあるし、何よりも、「治ればいい」というプラグマティズムが支配するからだ。昔の「蒙昧」への先祖返りではなく、マーケッティングとコスト・パフォーマンスの追求だ。メディアの消費者はフェイク・ニュースにも慣れ始めている。

ルルドでの「厳密」な医学検証の方が完全に時代遅れで非効率でペイしない。

アレッサンドロさんは予算の削減により一人しかいなくなったアシスタントと一緒に5ヶ国語で会報を発行している。治癒報告書のデジタル化も進めた。


時代とともに病も変わった。

以前の「奇跡」は動けなかった人が動けるといった機能回復が中心だったが、今のルルドには心を病んでやってくる人が多い。

鬱病の突然の治癒を「説明不可能」と証明するのは難しい。

でも、「生きるのが困難になる」という点では、心の病は体の病と同じように深刻だ。


ルルドは今でも多くの人が癒されているのは間違いがない。

ルルドでは、私も、健康な学生たちも、病んでもいないのに癒された。


利益追求社会の中で「恵み」の無償性を掲げ続ける場所と人の存在を知るだけでも意味がある。

71件目の奇跡の治癒認定も間近という噂のある今、アレッサンドロさんにはまだまだがんばってほしい。


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by mariastella | 2018-06-29 00:05 | 宗教

ルルドで「診療してはいけない」お医者さん その1

「ルルドの水」で有名な世界的な巡礼地ルルドにある医学検証事務所に、突然のアレルギー発祥で駆け込んだアメリカ人女性ツーリストの前にいたのは、一部の隙もないエレガントなスーツ姿の医師アレッサンドロ・フランシシスだった。


「申し訳ないです。私は医者ですが、診察はできないのです。契約書に書いてあります。私は役に立たない医者です。治った患者しか受け付けないのです。」


というのが彼の対応だった。


LOBS/n.2797》の載った『奇跡ドクター』という記事の冒頭だ。(下の写真もL'OBSの同記事より)

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LOBS》というリベラル雑誌にルルドの奇跡の話が載ること自体が意外だったので、どういうトーンなのか知りたくて読んでみた。

ルルドと言えば、1858年に川沿いの洞窟に聖母マリアが「御出現」して、湧き出た泉の水で、たくさんの「奇跡の治癒」が起こった巡礼地。


医師団のお墨付きによってその「奇跡(実際は奇跡認定は司教によるもので医師団は説明不可能、という結論を出す)」を認定しなくてはならないほどに「あやしい」ケースが多いのか、あるいは逆に、科学の名において高らかに効能をうたい上げるという宗教的、経済的な「戦略」なのか思われるかもしれないが、実はそのどちらでもない。

古今東西、ありがたい水やらお守りやらお祈りやらが「効く」とされて多くの巡礼者を集めている「聖地」だのパワースポットだのはたくさんある。

そういうところに行く人の中にはすでに「期待」があり、そういう人々の期待の集合パワーもすごいし、積み重ねられてきた「物語」や築き上げられてきた「演出」も半端ではないから、「現時点では説明不可能な完全で突発的な難病治癒」などというもってまわった「お墨付き」など誰も必要としない。


それなのに、ルルドにだけものものしくそんなものがあるのは、アレッサンドロさんが言うように、ここが「デカルトの国」だからだ。

しかも、「蒙昧」を吹き飛ばしたフランス革命の後のフランスに突如として出現した「新しい聖地」だからである。


アレッサンドロさんは、別に奇跡を期待し確信しているわけではない。「奇跡の認定があっても別にボーナスは出ませんから」と笑う。


2009年にこのポストに就いてから201220132018年と3件の「奇跡」認定につながる仕事をしてきた。

それは、聖地内で起こった不思議な治癒が報告されてそれを吟味して検査して専門医に問い合わせてチェックする、という単純なものではない。ルルドで流れる時間は普通の「お役所仕事」の時間とはかけ離れている。

「洞窟のドクター」と呼ばれるのが好きだというアレッサンドロさんは「リタイアした信仰深いお医者さんの余生を捧げる」仕事としてこのポストについているわけではない。


父親がイタリア人で母親がアメリカ人で、ハーバードの学位も持っている。英独仏語のトリリンガル。イタリアの大学で医学部教授だっただけでなく、ナポリの北、カンパネラ州カゼルタの行政トップである政治家だった。2009年、地方の名士であり職業人として脂の乗り切った54歳の時に、突然タルブ=ルルドの司教から手紙を受け取った。

人口14千人の小都市ルルドの聖域内で「奇跡の治癒」が申告される事務所の常駐責任者になることを要請されたのだ。(常駐は2人。聖域全体では300人が正規職員)

アレッサンドロさんは四ヶ月も迷った末に、引き受けた。

独身であることは身軽だが、母と二人の姉妹を支えていた。

それでも、ルルドで働くことは魅力的だった。

17歳の時、初めてナポリからルルドにボランティアに行った。そこで病人の世話をしながら、医者になるという使命感が生まれた。特に病気の子供たちをルルドの聖水の浴槽に浸ける手伝いをしている時に、将来は小児科医になると決心したのだ。

(続く)


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by mariastella | 2018-06-28 00:05 | 宗教

カトリック教会のペドフィリア・スキャンダル その2

(これは前の記事の続きです)

ペドフィリア対策担当司教と被害者の会の代表との「対決」。

意外だった。

フランスでカトリック司教団の対策委員会がトレランス・ゼロを受けて、すべての司祭や教会内で未成年と接する人々を対象にさまざまな「防止策」を徹底して、通達していることや、チリの司教団が全員で共同責任を取って引責辞任をヴァティカンに願い出たことについて、

私がなんとなく予想していたのは、被害者側が、

そんな「防止策」では足りない、全体の体質を変えるためにチリの司教団のように徹底的に責任を取るべきだ、

と言うか、

フランス司教団の現実認識と自主的な努力は評価する、

と言うかのどちらかだった。

ところが、被害者が言うのは、違っていた。


要約すると、 


「全司祭を対象にして彼らがまるで潜在的なペドフィリア予備軍であるかのようにするのはよくない」


「チリの司教団が全員辞職というのは、実際の加害者の責任を相対化してしまうのでよくない」

ということだった。

確かに、ペドフィリアは「権威や権力のある大人が子供とふたりきりになるような状況」でしか起きないだろう。でもだからといって、そのような状況自体をすべて禁じるのは意味がない。


しつこく小動物の例を挙げると、

小動物と共に一人でいる時にしか虐待は起きないだろうけれど、

ではひとりで小動物といる人には誰でも虐待の誘惑が起こるということはあり得ない。


人の眼がないとメロメロ、デレデレになって犬や猫に愛を注ぐ人の方が多いだろう(まあそれはそれで犬猫にとっては迷惑かもしれないが)。


「自分の欲望を満足させるために小さい者を虐待する」という行為は、遺伝的、環境的、何らかの理由ですでにそのような「嗜好」を持った者が、それが可能な状況に置かれた時に「誘惑」に負けて起こるのだ。


犬猫が虐待されるケースがあるからと言って全てのペットの飼い主を集めて、防止策をレクチャーする意味はない。ほとんどの人は、ペットを飼っていない人たちよりも、虐待に対してさらに怒っているのだから。


もちろん少数の「異常者」を徹底して糾弾することは、そのような「傾向」を潜在的に持っている人が「誘惑」を自制するためにも有効だろう。ペドフィリアは連帯責任で相対化することで済ませるような問題ではない。


で、被害者の会のリーダーが言うのは、

このペドフィリアのスキャンダルについて「教会」全体を糾弾することで、99%の普通の司祭が後ろ指をさされるようになり、罵倒されたり、スカウト運動や公教要理やらボランティア活動に子供を参加させている親たちを不安にさせたりする。

ひいては神に対する信頼もなくす。激減している司祭のなり手もますます少なくなる。

加害者を守って司教団全員が引責辞任するのでは「実行犯」の責任を曖昧にする。

ペドフィリアは上への「忖度」やら上からの「指示」やらでなされる犯罪などではない。

「聖霊によって叙階された」はずの一司祭が、元の「嗜好」を満足させる機会に遭遇して犯した重罪である。

教会は、賠償などとは別に、当該司祭を徹底的に糾弾し、職務停止し、時効が成立していないなら司法の手に渡し、成立していても隔離し、「悪」を「悪」と名指さなくてはならない。


彼のこの言葉を聞いて、なるほどと思わされた。


これは、チリはもちろん、アイルランドやニューヨークでもなく、ましてやカトリック信徒が人口の0.4% 未満とかいう日本の話ではない。


「共和国主義」が「宗教」となっている今のフランスの場合だ。

今どき、子供たちをスカウト活動に入れたり、公教要理や教会のボランティアに参加させたりするフランスの家庭のマジョリティは、保守的なブルジョワ家庭であって、カトリックということがアイデンティティの一部になっている人たちが多いという現実がある。

で、そういう家庭の子供たちが、そのような活動を通して、使命感を得たり召命を得たりして、教会活動を続ける。中には司祭になる者も出てくる。今のような新自由主義経済の金権社会で、すでに「勝ち組」の家庭に育って教育水準も高い若者たちが、独身で弱者のために尽くしている司祭たちに接して、使命感に目覚め自分もその後に続こうとするわけだ。そのような「今時めずらしい」若者たちが、司祭になったり司教に上り詰めたりする。

それなのに、運悪く、ペドフィリア倒錯者の司祭にあたって被害を受けた少年たちがいた。

彼らが告発し罰してほしいのは直接の加害者だ。

司教団に謝ってもらっても「再発防止」対策をしてもらっても大した意味がない。

被害者の少年たちも、もちろんそれから教会を離れ、恨みにも思ったろうが、ブルジョワ家庭で教育水準が高いこともあり、長じて社会的には「成功」するケースがある。

トラウマの本質を考える余裕も知的な能力もあり、被害者の会を立ち上げて、他の国の被害者と連帯し援助していくスキルもあった。


一方で、そのような被害者たちの「友人」たち、つまり同じような恵まれた環境にいた少年たちで、倒錯犯罪司祭に密室で遭遇しなかった多くの少年たちが存在する。

彼らの中には、教区司祭や修道士たちの献身をみて、自分たちも弱者の側に立たなくてはと思う者が出てくる。その中から、代替経済を考えたり雇用者の人権に配慮したりする企業経営者も生まれれば、ボランティア活動や人道支援団体への寄付を続ける者も出てくる。

そして少数の者は自分も司祭になることを選択するのだ。

で、被害者組織のリーダーの友人にも、司祭になった者がいる。

友情は変わらない。その友人たちが苦しんでいる。ペドフィリア・スキャンダルのせいで、心ない罵声を浴びせかけられたり教会に攻撃の落書きをされたりするからだ。

少年時代に同じようにカトリック教育の中で慈善や利他や謙遜を教えられながら、


そんなことはすっかり忘れて「普通のエゴイストになる」普通の人もいれば、


神と弱者に身を捧げる使命を全うしようとする少数の人もいれば、


ペドフィリアの司祭と2人きりになるという事態を経て癒えることのないトラウマを抱えた少数の人もいる。

被害者の中には、過去に自分たちが信頼していた司祭、今でも信頼に足ると思う多くの司祭たちと「連帯」しようとしている人たちがいるのだ。


被害者の会のリーダーは、ひょっとして、本当の意味で「キリストの教え」に従う「信徒」なのかもしれない。

弱者である少年たちを虐待した強者を弾劾することを絶対にあきらめず、黙って苦しんでいた他の被害者に手を差し伸べ寄り添うからだ。

「ある閉じられた組織内の犯罪」を思う時、「悪」にはみな保身や思考停止や欲望や利益追求などの共通点があるけれど、それぞれの被害者にはそれぞれの立場と生き方と戦いがあるのだなあ、とあらためて考えさせられた。


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by mariastella | 2018-06-16 00:05 | 宗教

カトリック教会のペドフィリア・スキャンダル その1

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今発売中のリベラル・カトリック週刊誌の表紙を見て驚いた。


カトリック教会のペドフィリア問題対策の責任者である司教と、リヨンの司祭を告発することで始まったペドフィリィア犠牲者の会の主催者である40代男性の二人が並んでいる。

この2人は別々にはいろいろなところでインタビューに答えてきたが、公式に同時にインタビューを受けるのは初めてだそうだ。

細かいことをいろいろ書くのはスルーするけれど、リヨンの某司祭がカトリックのボーイスカウトの指導をする中で少年たちに性的な虐待をしていたというスキャンダルだ。しかも、そのことが司教の耳に入った後、司教は、その司祭を別の教区に異動させ、司祭はまた別の教区で同じことをし続けたという。それが何度も繰り返され犠牲者の数が増えた。その間、この事件が公になることはなかった。その司祭は現在職務停止だが逮捕拘禁はされていず判決待ちである。

この犠牲者の一人が、仲間数人と犠牲者の会を立ち上げ、それがきっかけとなって、アイルランドやアメリカや中南米のカトリック教会のスキャンダルがどんどんと明らかになっていった。いや、すでに知られていたものもあるが、声が大きくなり、芋づる式に大スキャンダルに発展したのだ。いわば、どこにでも横行していたセクハラが「#Me Too」運動によってメディアを席巻した構図に似ている。

前にも書いたが、ペドフィリアという未成年(特に子供)に対する性的虐待とその「隠蔽」は、

「子供にとって権威的な立場にある大人(ほとんどが男)が子供(男も女もある)と密室で二人きりにる」

という情況で発生する。


だから一番多い現場は「家庭内」で、父、義父、母の連れ合い、兄、義兄などによるもの、また、学校や部活などでの教師、監督、コーチ、その他の指導者によるもので、「カトリック教会」の中で起こる率は実は少ない。

ボーイスカウト、告解、公教要理のクラスその他だ。

家庭内や学校などより率が低いのは、現代においては「司祭」になるためにすでに性的禁忌や禁欲についての了解事項や誓いが明快なので、ハードルが高いからだろう。

それでも「カトリック教会」内のスキャンダルが最もアグレッシヴに攻撃されるのはいくつかの理由がある。

まず、ハードルが高いことそのものにある。


「神」の名において禁欲やら貞潔やらを誓い、奉仕者を自称するのだから、親や子供たちからの信頼が高い。信頼度が高い分、それを裏切る罪は重い。

「家庭内」のペドフィリアの「責任」追求や罰は加害者個人に向かう。

学校や部活などでは、加害者はもちろんだが、その「上」にある校長や教育委員会などの「監督責任」まで問われることもある。

それらすべてに、そのような加害の温床となっている社会のメンタリティ全体について問いが投げかけられることもあるが、漠然としている。


それに対してカトリック教会というのは、プロテスタント諸派などとは違って、教区や司教会議、ヴァティカン、ローマ教皇と、ピラミッド型のビューロクラシーがはっきりしているので、「カトリック教会」という大きなくくりで「責任」を追及することができる。


また、キリスト教文化圏の国には、もともと、「反カトリック教会」というロビーや無神論イデオロギーが存在するので、プロパガンダ的にも「ペドフィリア」スキャンダルを追求するベースがあるし、報道価値もある。

「カトリック司祭は独身で性的に欲求不満」などという俗受けする攻撃もできる。


「どこそこに住む何某が再婚相手の連れ子を何年も虐待していた」などと言う「ニュース」よりも社会的な価値やニュース価値がある、と認識されるのかもしれない。

誤解のないように言っておくが、この記事では「カトリック教会」内のペドフィリアを相対化しようとしているのではない。

その反対で、カトリックの聖職者によるこの手の犯罪は、世俗社会において罰せられるべきであるだけではなく、職業倫理としてははるかに重大で、「情状酌量」は通用しない。

カトリックの司教たちは、そのスキャンダルを長年にわたって「隠してきた」ことを非難されている。


一つには、もちろん、メンタリティの変化がある。


ひと昔前までは、未成年に関わらず、性的被害にあった者は、「泣き寝入り」した方が害が少ないと思われてきた。その手の被害を公にすることは、相手を罰するメリットよりも被害者の被るマイナスの方が大きいと思われたからだ。それが結果的に加害者をのさばらすことになった。

けれども、「#Me Too」運動もそうだが、レイプが親告罪ではなくなったように、今は、「性的被害をなかったことにしておく。」というメンタリティは大きく変わりつつある。


ひと昔前の「カトリック教会」の司教たち(司祭の監督責任がある)が司祭のペドフィリアを「もみ消した」こと自体は理解できないでもない。もちろんこれも、決定的に「神」に背き、聖職者としての誓いを破ったのだから、本来、「普通の世間」のメンタリティにソマリアっている場合ではない。

しかもリヨンのケースは、その司祭を別の教区に異動させ、そこで「再犯」させていたのだから、司教の罪は重い。

ペドフィリアはもちろん、強い立場にある者が弱者の尊厳を「意図して踏みにじる」ことは、家庭内であれ、学校であれ、職場であれ、スポーツの場であれ、宗教の場であれ、絶対に許されてはならない。

命令系統の明快なカトリック教会であればなおさら、即刻「職務停止」と「隔離」を実行するのが「最低」線で、公の司法にゆだねるのも当然だ。今は、法律上は時効になっているケースにも判例に従って、賠償金を支払うことが検討されている。

で、今やフランスの司教団は、ボーイスカウトの指導者や公教要理の指導者、司祭全員を対象に、密室での告解をしてはならない、未成年と2人きりにならないなどのレクチャーをして「再発」を防ぐ対策をしているというわけだ。

又は、最近、やはりペドフィリアのスキャンダルを受けて、なんと、チリの司教団全員が辞職願をヴァティカンに提出するという事件が起きた。

これは、まるで、「トカゲの尻尾切り」ではなくて、「トカゲの頭」を差し出したわけだ。


一見すると、世界中の多くの「指導者」や「権力者」たちが、「不祥事」を前に自分たちの責任を認めずに、末端に罪を被せたり、嘘を重ねさせたり、辞職させたり、自分たちは給与の一部返上みたいなことでお茶を濁したりすることに比べると、「潔い」と見えなくもない。

もっとも、古いタイプの「カトリック教会」の体質を残している国とは違って、例えばフランスのように、政教分離が進んで知識人の間で不可知論者がデフォルトになっているような国では、「司教」や「枢機卿」などに「昇り詰める」ような人は、使命感に満ちた高潔な人がほとんどだ。生涯独身で、「選挙」の支援団体におもねる必要もないから、二世、三世議員やらが活躍する「政治家」などとはそれこそメンタリティが違う。

だからこそ、彼らには、「ペドフィリアという犯罪を犯す司祭」というものについての「想像力」が完全に欠落している。そう、彼らは、仲間だから、教会の恥だからという思いで「もみ消した」という意識より、「信じられなかった」ということが大きかったと思う。

多くの人はある種の「悪」への想像力がまったく欠如している。それが欠如しているDNAが自然選択されてきたからだともいえる。

自分自身を見ても、ペドフィリアはもちろん、例えば犬や猫を意図的に虐待する、などと言う発想は、まさに「信じられない」。

今はネットなどで、そういう人たちがいて、実際の虐待シーンを公開する人さえ存在することを知ったけれど、やはり想像を絶する蛮行だ。もしも自分の周囲に実はそんな人がいると言われても、茫然として、やはり「信じられない」、と思うだろう。

で、今回の、再発防止の対策担当司教と被害者の会のリーダーの「対決」。


まったく意外だった。 


(前置きが長くなったので続きは後はこの後で。)


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by mariastella | 2018-06-15 00:05 | 宗教

仏法僧 

少し前の記事で、鳴き声から「ブッポウソウ」という名をつけられた(実はその鳴き声は別の鳥コノハズクだそうだが)鳥に触れた。


「仏・法・僧」という仏教の三宝を鳥の声にも聴くという敬虔な?日本人、というイメージを持っていたが、その三宝についての興味ある解説を曹洞宗のお坊さんのブログで読んだ。

現在「読誦経典」として機能している『修証義』という経典についての話だ。


>>>『修証義』はほぼ、読誦経典としての機能のみが取り沙汰されている。無論、ここに至る経緯は、『修証義』成立問題や安心問題、曹洞教会の問題、そして、1990年代以降は人権問題との関連もあって、一筋縄では論じられないものである。<<<(ブログ『つらつら日暮らし』より)


読誦経典という分類も、例えばカトリックの祈りなどでは何に当たるのだろうかと考える。


日本の仏教のお経を唱えるのは、般若心経など有名なものは別として、信者ではなくてもっぱらお坊さんのイメージだ。


普通の人は「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」や「南無大師遍照金剛」のような短い呼びかけを唱える。


カトリックでも、もちろん「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。」のような短いものもあるけれど、ロザリオのアヴェ・マリアの祈りとかかなり長いものも一般的だし、教会では主の祈りとか使徒信条とか「教義」にそのままつながるものが全員で歌われたり唱えられたりする。

特に、ラテン語ではなく各国語で祈られるようになってからは、基本的に「口語」なので意味を把握せずに「読誦経典」としてだけ機能している祈りなどないような気がする。


で、『修証義』で「合掌し低頭して」唱えられる「三法帰依」とは

南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。

ということなのだそうだ。


仏は是れ大師なるが故に帰依す、

法は良薬なるが故に帰依す、

僧は勝友なるが故に帰依す、


と、それぞれ帰依する「理由」を述べているのが新鮮だ。

簡潔でなんだか合理的で説得力がある。

この三つへの帰依を経てはじめて仏教徒となる「戒」を受けることができる。


戒は、三聚浄戒(律儀戒、善法戒、衆生戒)と

十重禁戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不酒戒、不説過戒、不自讃毀他戒、不慳法財戒、不瞋恚戒、不謗三宝戒)


となり、三宝を謗ることの禁止も最後にある。


旧約聖書のモーセの十戒だとか、キリスト教の七つの大罪だとかも想起され、社会的動物の人間、「これはやっちゃいけない」という自覚は普遍的なんだなあとは思う。


でも、信徒共同体に入る前には、三宝帰依だとか信徒信条だとか、まず「共同体独自の言葉」を受け入れなければならないようにでできているのが興味深い。





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by mariastella | 2018-06-12 00:05 | 宗教

アメリカとイスラエルの関係

なんとなくイメージはあったけれど、はっきり言葉にされると思わずたじろぐ、という類の言説がある。最近読んだレジス・ドゥブレの論考にそれが出てきた。

アメリカとイスラエルの関係についてだ。

アメリカが大使館をエルサレムに移転したことでパレスティナ情勢の火に油を注いだとヨーロッパ諸国は非難している。

アメリカとイスラエルの「癒着」といえば、数々のユダヤ「陰謀論」を別にしても、

「アメリカの軍産コングロマリット」と

「ユダヤ金融資本」

との利害が一致しているから、イスラエルの核保有を含むアグレッシヴな政策が止むことを知らないのだという見方が一般的だ。

トランプの娘がユダヤ教に改宗していることなどを見ても、ユダヤロビーが強力なのはもっともだ、という印象をもってしまう。

ところが、これをあっさりと宗教のバランスでひも解くと次のようになる。

どちらも歴史の浅い二つの国の成り立ちは似ている。

建国の「神話」が共通している。


「選ばれた民」

「約束の地」

「植民者であると共に開拓者、パイオニアである」

「運命を切り開く確信」

「ユダヤ=キリスト教的メシア(救世主)信仰」

この共通の構成要素が、不思議な効果を生んでいる。


すなわち、イスラエルを保護する立場の超大国アメリカが、モラルの点ではイスラエルに従うことだ。


アメリカは大統領が聖書に手を置いて宣誓する国、危機が起こるとホワイトハウスで朝の祈りを開催する国、ホテルに旧約聖書が置いてある国だ。

そんな国が、聖典(旧約聖書)が憲法や土地台帳の根拠を提供している国の政治に異を唱えることなどできない。イスラエルは宗教においてアメリカの「兄貴分」であるからだ。

なるほど。

これがカトリック国とイスラエルでは少し違う。

ローマ教皇もユダヤ教は歴史的には「長兄」のようなものだ、と和解の手を差し伸べている。けれども、イエス・キリストは「兄」であるユダヤ教に刃向かったわけではなかった。

ナザレのイエスはユダヤ人でユダヤ教徒だったので、キリスト教は生まれていない。そして、ユダヤ教徒なのに不都合なことを言って当時のあり方を批判したので冒涜だといって殺された。

それに比べると、アメリカの建国神話のピューリタンが生まれた「宗教改革」は、叛旗を翻したリーダーたちは一方的に殺されたのでなく、離反して自分たちこそ正しいキリスト教だと主張した。カトリックとプロテスタントは何十年も戦争状態で血を流し合った。

だから、歴史的に(西ヨーロッパ・ベースで言えば、)、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントの順で長兄、次兄、末っ子になるはずだけれど、プロテスタントはむしろ一種の「父殺し」で外に出た。激しい「家庭内暴力」の末に「約束の地」を外に求めたのだ。


カトリックはユダヤ人を「神殺し」と差別してきた。そしてその延長にあるナチスのホロコーストのせいで、ドイツや、ドイツに占領されていたフランスのような国は、その「罪悪感」のせいで、イスラエルに本気で説教することができない。(スウェーデン、イギリス、スペインなどはその「罪悪感」がないのだそうだ)

で、うちを飛び出して約束の地に「神の国」を建国したアメリカは、イタリア系やアイルランド系のカトリック移民は長い間しっかり差別してきたけれど、直接けんかしていないユダヤ人には「長幼の礼」をもって接し、選民意識を共有しているのだという。

もちろんこれによってアメリカの対イスラエル政策をすべてを説明できるわけではないし、実はアメリカにも「反ユダヤ」のレイシズム」は根強く存在する。


それでも、こういう視点で解説されると、今まで見えていなかったものが見えてきて、パレスティナ危機や中東クライシス(シリアのアサド大統領が金正恩に合うため訪朝するつもりだというニュースを聞いて驚倒したところだ)の平和的解決には、このようなところまで踏み込まないと真の安定はないのかもしれないと思う。


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by mariastella | 2018-06-11 00:05 | 宗教

聖体と核分裂? 聖体の祭日の話(続き)

これは「父の日」の日曜日のミサの後のアペリティフとランチの招待状。

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裏にはユーモラスな突っ込み(白字)入りの文が並ぶ。

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「教区がカナを祝う ! / (結婚式かい・・・)」

(聖書に出てくるカナの婚礼にかけている)

「体を大切にしたまえ、魂がずっと住みたがるようにね ! / (そしたらもちろん体も残ることになるしさ)」

「神は料理の中にもいる ! / (料理に失敗してもね !)」

「マクロン祭りより楽しいぞ !/ (あ、マクロンが来てももちろんOKだよ)」

(マクロン祭りというのは最近行われた反政府デモのネーミングだ)

などなど…。

 

実際、この教区、子供連れの若い夫婦などがたくさん出席する傾向がある。

ヴェリエール師の説教は、ベネディクト16世(B16)が教皇になってすぐ出席したケルンのワールドユースデーに若者たちを連れて行った時の話から始まった。

ケルンでの開催を決めたのはヨハネ=パウロ二世だったが、B16はドイツ人。ケルンでの若者の歓迎はすごくて「ベーネデーット、ベーネデーット」と連呼されたらしい。

B16は遠慮がちに片手をあげて応え、次に両手を合わせた。そして、若者たちに背を向けて、聖体の前に跪いて動かなくなり、若者たちはしーんと静まり返った。

B16は聖体のことを「核分裂」に例えたそうだ。

イメージとしては、目に見えないレベルで激しい反応が起きて大量のエネルギーを発するという感じだろうか。それまでの「自然」が「超自然」に変換されるという。

死者が生き返る、だけでは「魔法」や「魔術」だけれど、「最後の晩餐」のイエスは、自分が死ぬことを分っていながら、自分の体を無酵母パンに託して弟子たちに与えた。つまり、「死ぬより先に死を犠牲として与えることで先取りして死に打ち勝った」というのだ。

うーん、新訳聖書の成り立ちやら教義や神学の歴史をいろいろ考えると、まあ、こういう言い方が「正しい」のだろう。で、典礼の歌にも、「私の体を食べなさい、あなたはもう決してひとりではない」とか「永遠の命を与えられる」などという言葉が並ぶ。

また例の「おひとりさま」のことや、「合理主義の知識人が老い手から宗教に入信するのはいかがなものか」という自称「棄教徒」の上野さんの言葉が思い浮かぶ。


確かに、人間は所詮ひとりで死んでいくのだし、「子や孫」もあてになるかどうかなど分からないのだから、「イエスと結婚する」という修道者だのお遍路さんのようにイエスと「同行二人」と考えて「もう決して一人でない」と「妄想(上野さん用語)」するのも「処世術」の一つかもしれないし、それを潔くないと思う人もいるのかもしれない。


「永遠の命」と言われても、つい、最近耳にしたウディ・アレン(もとはカフカの言葉だという説もある)の「永遠は長い、特に、終わりの方が」(Eternity is a long time, especially towards the end.なんて言葉を思い出してしまう。

などと、雑念満載で聞いていたけれど、ルヴェリエール師が「信じきって」「なりきって」永遠のスパンで生き、話しているのは伝わる。

「聖体を拝領する時にアーメンと合意をすることが大事だ。キリストが体をくれるのにこちらが言葉だけというのは交換として釣り合わないけれど、合意するところに聖霊が働き、自分だけがイエスの体になるのでなく、聖堂全体が、共同体全体がキリストと一体化する。インターアクションが必要だ」

もっともだ。


それにしても、ミサを挙式する司祭さんって大変だなあ、と思う。

本当に民間信仰や新興宗教のノリで、会衆が信じたりすがったり崇めたりする気満々の時代や場所ならいざしらず、本気で「神降ろし」をしなければならない。


独身制のカトリックの司祭は特に、親子代々ってことはあり得ないから、「召命」って本当にあるんだなあ、とあらためて感心した。(感心でなく改心しろよ、といわれそうだけど…)


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by mariastella | 2018-06-10 00:05 | 宗教

聖体の祭日

6/3の日曜ミサは、日本のカトリックでは「キリストの聖体の祭日」というのだそうだ。

フランスでは簡単に「la Fête-Dieu、つまり、「神祭り」などと普通に呼ばれる。

もちろん聖体の祝日、 Fête du Saint-Sacrement, とかラテン語の神の体、キリストの体、Corpus Domini, Corpus Christiとも呼ばれる。


本来は復活祭後60日とか、三位一体祭の後の木曜とかの「移動祝祭日」の一種だ。ポルトガルやブラジルやポーランドのようなカトリック国は公休の祭日のまま残っているけれど、フランスなどは、復活祭やキリスト昇天祭、聖母被昇天祭などは移動祭日のままだけれど「聖体の日」は祭日ではないのでそれに近い日曜日に設定されている。日本でもそのようだ。

ことの起こりは、「聖体パン(ホスティア)」が本当にキリストの体になるなんて、と疑いを抱いた司祭たちの前で、いろいろな奇跡が起こったことの記念だ。聖体パンが突然肉片に変わったとか、血が滴り落ちたとかいう「奇跡」は、カトリック世界のフォークロアとしてはあちこちにある。韓国の血の涙を流すナジュの聖母像で有名になったジュリアさんの口の中であら不思議、小麦と水の後聖体が肉片に変わったというパフォーマンスは20世紀末にも盛んに拡散されていた。

「聖体」を口にする、というのは文字通り考えたらかなり倒錯的なカニバリズムっぽいイメージなので、プロテスタントがそれはシンボリックな意味ですよ、と言ったのは無理がない。「奇跡」のフォークロアを動員してまで「化体」にこだわるカトリック教会も、派手なパフォーマンスを規制している。無酵母パンが肉に「化ける」必要はないので、キリストが自分の体を無酵母パンに託したのだから、「見かけ」は関係がないはずだからだ。

ともかく、フランスのような「カトリック文化圏」の国では、神学的、教義的、フォークロアとの習合の歴史などを別にして、5月の「聖母月」に「母の日」を、6月の「聖体の月」に父の日を、一番気候のいい時期に、家庭や共同体のお祭りを続けてきたわけだ。

で、前の記事で書いた上野さんとは正反対でフォークロリックな祭りも民間信仰も神秘も奇跡も好きな私はもちろんこの「聖体祭」に出かけた。

ルヴェリエール神父がどう話すか聞きたかったこともある。

思えば、私は楽器演奏の生徒たちに、

聴き手は「物理的な音」を聴くのではない、すべての聴覚体験は視覚と同じで脳による再構成なのだから、演奏者の「意図」も込みで聴いている、音が出る前、響く間、消えた後、その全てにどういう意図をこめるかによってそれに応じて聴いてくれるのだ、

と、いつも言っている。

それで「実験」をすると、はっきり違いが分かるのでみんな感心してくれる。

それと同じで、どんな芝居でも小説でも、鑑賞する方は、俳優や監督や書き手の意図や、本気、やる気、なりきり方、伝え方、を、「内容」といっしょに受けとめる。

伝える側の熱意やら意図を受けとめ共有することができれば、「ファクト」の信憑性などは問題にならない。

SFでも、アニメでも、神話でも、命の琴線に触れることがある。

で、「ビュット・ショーモン被昇天のノートルダム」のルヴェリエール師の説教が楽しみだった。

この教会、ラテン語(フランス語の対訳が表示されるとはいえ)の歌も増えて、跪いて口で聖体拝領する人も少なくないし、なんだか、だんだん原理主義っぽくなって、外国に来ているみたいな気もしないでもない。

でもルヴェリエール師の話が興味深いのは、彼が「信じている」からだ。


「ご聖体」を掲げ、「ご聖体」を語る人の「信仰」が、名演奏者の奏でる音楽のように聴こえる。「ご聖体」が楽器で、ルヴェリエール師の「信仰」が弾き手であるかのようだ。

で、どんどん「伝統」主義っぽくなる彼は、子供たちにバラの花びらを撒かせて、祭壇から教会前の広場まで超短い距離をしっかり「聖体行列」をして、それから聖体器を持って教会の屋根のテラスに上がり、町すべてを「祝福」した。

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地面にバラの花びらが見える。祭壇の前で向こうでひざまずいているのがルヴェリエール師。


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お天気がよくてよかったね。

ラマダン期間中とはいえ、何の検査もなく、「聖体」をもって出たり入ったり、道行く人も、日本なら「あ、今日はここのお寺でなんかやってるな」という感じの「普通のパリの下町」のリラックス感にほっとさせられた。

 

6/13「父の日」にはミサの後に無料で昼食会があり、10歳以下の子供にはベビーシッターがつき、10-15歳には映画の上映付きだそうだ。「アルファ」の人たちが食事を担当だという。

 彼の求心力がますます強くなっているのが分かる。

 肝心の「説教」はどうだったかというと…(続く)


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by mariastella | 2018-06-09 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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