L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:宗教( 348 )

神殺し

3月3日、イスラエル首相から、ローマ教皇ベネディクト16世に、積年に渡るキリスト教からの「神殺し」ユダヤ人という無実の罪を晴らしてくれてめでたい、という書簡が寄せられたそうだ。

B16が『ナザレのイエス』の第二巻で神学的コメントとして、ユダヤ人が「民族」として「神であるイエス・キリスト」を十字架につけたのではなく、イエスも使徒もユダヤ人であったのだから、「ユダヤ人」という言葉には民族的意味もなければ差別の意味もない、と明記し、誤った解釈の長きにわたる弊害を認めたからである。

特にヨーロッパのキリスト教社会で「ユダヤ人=神殺し」というレッテルが貼られてユダヤ人迫害の口実にされてきたのは周知の事実だが、ナチスのホロコースト以来、そういう言辞は今はとっくに消しさられていたと思っていたので、意外だった。

キリスト教がユダヤ民族の手を離れてヘレニズム世界に広がり、ローマ帝国の国教となった時点で、キリスト教をローマ化、さらにヨーロッパ化する必要があったヨーロッパ諸民族が、イエスやマリアなどを「脱」ユダヤ化する必要があったので「ユダヤ人=神殺し= 人類の敵」のようにエスカレートさせていったのだと思っていた。イエスに死刑判決を下したローマ人ピラトを免責することも必要だったからだ。

といっても、イエスや使徒の出自がユダヤ民族であることを聖書が隠しているわけではないのだから、ユダヤ人が神殺しという言い方の誤謬は明らかだと「実は」誰でも了解していたのだと、私は考えていた。しかし21 世紀にローマ教皇が明言しなくてはならないほどに根深いことだったらしい。

確かにヨハネの福音書などには「ユダヤ人が殺そうとねらっている(7-1)」など、まるで「ユダヤ人」一般とイエスを対立させているような書き方がいろいろ出てくる。でも、普通のリテラシーがあれば、この時代の書き方がこうなんだろう、と思うところなのだ。

しかし、パウロらの手紙の中でも「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりではなく、私たちをも激しく迫害し・・・(テサロニケ2-15)」のように、「ユダヤ人」が「キリスト教徒」を迫害するという図式が繰り返されているので、いつのまにかそれが定着したのだろう。

もっともパウロは「私は彼ら(イスラエル)が救われることを心から願い…(ローマ10-1)」のように言っている。

だから、べつに偉い神学者でなくとも、新約聖書でイエスを殺したり使徒を迫害したりしたのは律法教条主義者をはじめとする一部のユダヤ人を指している、というのは外部の目からも自明だと思うのだが、二千年も「神殺し」のレッテルを貼られてきた「言葉の力」というのは恐ろしい。

だからこそ、教皇がその著書で明言することも重みがあるのだし、それにすぐに反応するイスラエル首相の言葉も重い。

言葉が偏見を生み偏見が歴史を動かしてきたなら、新しい言葉は新しい関係を築き平和を招き寄せてくれるかもしれない。

そうなると、イスラエルとパレスティナ、ユダヤとイスラムの間でもこのような魔法の言葉があればいいのにと思う。

ユダヤ教とキリスト教とイスラム教はアブラハムに由来する一神教として兄弟のように認識されているのだが、ユダヤ教は民族宗教、キリスト教とイスラム教は地縁血縁を問わない普遍宗教だ。

でもキリスト教は普遍宗教として広まる時に、ユダヤを離れてギリシャ・ローマ人を中心に受け継がれていったのに、イスラム教を担ったアラブ民族の方は、アブラハムの嫡子誕生後に母子ともに追い出された、エジプト人女奴隷との間の庶子イシュマエルの子孫ということになっている。

キリスト教徒がユダヤ人を神殺しなどと言って切り捨てたのに比べて、アラブ人はユダヤ人となまじ「血がつながっている」ことになっているのでかえって屈託もあるかもしれない。

今やパレスティナで大々的に迫害されているのはキリスト教徒たちだ。いや、パキスタンのマイノリティ担当大臣もカトリックだったがつい最近暗殺された。一方イスラエルがパレスティナ人に強権的なのはずっと続いている。

一神教同士なんだから何とかしてほしい。

もちろん日本でたまにいわれるように「一神教のやつらは互いに自分たちの神しか奉じないのだから当然他の一神教を殲滅しようとする」というような話ではない。

同じ民族だろうと同じ宗教だろうと、多神教だろうと無神論者だろうと、人間というものは「自分たちと同じ仲間」でないものを排除すると衝動にかられて殺し合うのが常だ。

だからむしろ、一神教同士なら、今回のように「ユダヤ民族はキリスト教の敵じゃありませんよ」とローマ教皇がひと言いうだけで緊張が緩和するとっかかりがあるのだとしたら、勇気ある権威者がその気になれば、イスラエルとパレスティナにも、イスラムとキリスト教にも、平和をもたらす言葉が見つかるかもしれない、と期待したいのだ。無理かなあ。
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by mariastella | 2011-03-05 09:43 | 宗教

ヨハネ=パウロ二世の列福

前ローマ教皇JP2の列福が5月1日に決まったらしい。

奇跡の治癒例が認められたそうだ。

B16は自分が在任中にJP2を正式に聖人の列に加えたいのだと思う。

彼のバランス感覚や知的なイメージの裏にポーランド人教皇へのけっこうエモーショナルな愛情を感じてしまうのは錯覚だろうか。

カトリック教会がいい形で脱ヨーロッパ化するには、ナチスの時代を生きてきたポーランド人とドイツ人という2人の教皇の時代を経なければならないのかもしれない。
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by mariastella | 2011-01-14 20:54 | 宗教

コプトのキリスト教など

イラクのキリスト教徒たちは、国外に逃げられる人たちはもはやほとんど逃げて、残った人たちは教会にも行けないほどの脅迫を受けている。

エジプトのコプト教会でも自爆テロまであって大変だったのは記憶に新しい。

コプト教会にはカトリック(22万5千人)もいるせいか、フランスではかなりの大騒ぎになった(フランスには4万人のコプト・コミュニティがある)。

エジプトは言わずと知れた初期キリスト教の揺籃の地の一つで、アレキサンドリアはローマと並ぶ国際都市で、あり、神学においても中心地だった。

「コプト」というのはエジプト人を指すギリシア語のaiguptiosを、642年にイスラム教と共にやってきたアラビア人がアラビア風に読んでキリスト教共同体を指すようになった言葉だ。

コプト教会というのはなかなか辛酸をなめてきたグループである。

ヘロデ王による嬰児虐殺を逃れるために生まれたばかりのイエスを連れて聖家族が亡命してきた由緒ある場所であり、使徒マルコが最初の教会を組織したと言われているし、旧約聖書を最初にギリシャ語訳したのもこの場所なのに、ディオクレティニアヌス帝時代の大迫害の時代には厖大な数の殉教者を出した。

それでもキリスト教が壊滅しなかったこと自体(コプト元年は284年)が奇跡だと言われているくらいだし、その上、グノーシスだのマニ教などの二元論の洪水の前にも踏みとどまって、後の隠遁修道会の基礎も作ったし、ニカイアの公会議、エフェソスの公会議と、キリスト教の基礎を築くのに貢献した。

ところが451年のカルケドニア公会議でローマと袂を分かち、東方正教会の一部となり、その後で7世紀のイスラム侵入によって、迫害されたり条件付きで共存を許されたりを繰り返しながら、14世紀にはついにマイノリティになった。エチオピアに移住した者もいる。

その頃からにわかにコプト教会のためにがんばりだしたのがフランシスコ会で、1895年にカトリックのアレキサンドリア主教区ができる頃にはコプト教会のうち10 %がローマの傘下に入った。

しかし90%イスラム化したエジプトの中で、昔ながらのコプトのコミュニティが持ちこたえてくれたからこそ、キリスト教と共に古代エジプト語が継承されたわけで、コプト経由のエジプト語の知識がなければフランスのシャンポリオンが象形文字を解読することもできなかった。

1973年にはカトリック(パウロ6世)とコプト教会による共同信仰宣言も出て、正教会のいうキリストの神性のうちには「受肉した神性」も含まれる(「monophysisme 単性論」で誤解されがちなキリストの人間性の否定でなく「miaphysisme」であること)のだというところがあらためて確認されたこともあった。

こうして1500年以上もキリスト教の内輪でいろいろあったわけであるが、21世紀におけるコプト教会の新しい試練は、テロを辞さないイスラム教原理主義者からやってきた。

この責任はどこにあるかというと、イラクでもそうだが、やはり「欧米の介入」が、アラビア色でまとまっていたイラクや中近東の文化的なバランスをくずしてしまったことだと思う。

少し前まではイスラムがマジョリティであるという安定のもとに、中近東は「アラビア語文化圏」としてまとまっていたのだ。

たとえていえば、そのアラビア語文化圏の中に、サブ・カルチャーとしてエジプトのコプト教会があったりイラクのカルデア教会が共存していたりという形である。

ところが、アメリカなどが介入して民主主義という名のグローバリゼーションを押しつけたので、反動で、その地域にイデオロギーとしてのイスラム勢力がトルコやイランから流入してきた。

トルコ人もイラン人も、アラビア人ではない。コーランを戴くがアラビア語文化圏ではない。

そこで何が起こったかというと、イラクやエジプトにおいて、「アラビア」が「イスラム」に置き換わったのだ。

すると当然、イラクのキリスト教徒やエジプトのキリスト教徒は排除される。

アラビア「文化」からイスラムという「宗教」に合わないものが排除され始めたのだ。

いいかえると、それまで、イラクのムスリムにとってイラクのキリスト教徒は「文化」の違う人であって「宗教」の違う人ではなかった。マジョリティ文化とマイノリティ文化ほどの違いである。

日本人にとってはわりと分かりやすい。

日本では、日本人とか日本文化のくくりがアイデンティティになっているから、少なくとも老舗宗教に関しては、

実家が浄土真宗だとか、宮司の家系だとか、母親がキリスト教で幼児洗礼を受けただとかによって差異化されることはあまりない。

新宗教やあやしげなカルトですら、サブカルチャーの一つぐらいだと思われている。

それはそれで今の時代では危険なのだが、それはまた別の話だ。

とにかく中近東での現在のキリスト教徒大迫害の経緯を見ていると、

世界の平和の秘訣が何かが少し分かる。

人は互いに、

自分の宗教だけを宗教だと思っていればよく、

他の人の宗教は文化だと思っていればいいのである。

無宗教の人は、宗教全般を多様な文化だと思えばいいのだ。

フランスでは長い間のカトリック教会との戦いの歴史の中で、すっかり、政教分離のライシテが根付いているのだが、それは平たく言えば、「宗教は文化と見なして平等にあつかおう」という考え方だ。
宗教を「権力」と見なさずに共和国の「上から目線」で見ているわけである。

フランスのカトリックもその考え方に慣れて、「自分たちの宗教は宗教だが、他の宗教は宗教という名の文化である」という事実上のスタンスをとるのが今や標準である。

だから他の宗教とも国ともけんかにならない。

ところが、そこに宗教イデオロギーをふりかざすイスラムがやってきたから、フランスは少しあわてた。
イスラムから喧嘩を売られて、あらためて「そうか、イスラムは宗教なのか」、と気づくばかりか、「そうか、カトリックって宗教なのか」と気づく人さえ出てきた。

フランスのある町で、公共の広場にクリスマスシーズンにキリスト誕生の馬小屋セットを設置したら、政教分離団体やイスラムからクレームがついたのでひっこめてしまった。公共の場所での宗教シンボルはライシテに反するというのだ。
クリスマス・ソングからも慎重に「祈り」や「幼子イエス」の言葉がカットされたりする。

フランスの地方の町でクリスマスに馬小屋セットが出るのは、宗教じゃなくて文化というかフォークロアであるのに。

日本でクリスマスに町に馬小屋セットが飾られたり
讃美歌が流されたりしても、舶来文化の雰囲気作りの演出だとしか思われない。クリスマスが終わってあわてて正月飾りが置かれても、寺社に初詣に行ってさえ、特に宗教行為をしていると思う日本人は少ない。クリスマスも文化、初詣は伝統文化、くらいの感覚だ。

バレンタインデーはサウジアラビアでは2001年に禁止され、イランでも今年から禁止されるそうだ。

自分ち宗教イデオロギーの強化のために、ただの輸入文化や商業祭が宗教に「昇格?」した例である。

フランスでは中国人コミュニティが陰暦の新年を派手に祝うが、それが年々お祭化している。シャンゼリゼを竜が練り歩こうと、道教の最高神「玉皇大帝」に菜食の供えを奉げて、線香を手に祈ろうと、誰からもクレームがつかない。

中国の宗教は文化でありフォークロアだと思っているからだ。

公立学校での宗教シンボルは禁止令が出ているが、もし日本人の生徒が日本の神社のお札や仏さまの掛け軸を持って行って見せたら「文化紹介」と見なされるだけだろう。

イデオロギー闘争や権力のツールにさえ使われなければ、実際、多宗教は平和に共存できるのである。

だから、平和の秘訣はやはり、

人は互いに、自分の宗教だけを宗教だと思っていればよく、他の人の宗教は文化だと思っていればいい

ということだなあ。

そして、文化とは、互いに影響し合ったり、栄えたり衰退したり変貌したりするものだということも忘れていけない。

外にむかって開かれていない閉じた系、エネルギー交換のない系は生き延びることができない。

まあ、世界中の宗教者が少しずつこういう風に考えをシフトしてくれれば平和が来る、と思いたいところだが、それはそれで別のイデオロギーや全体主義や独裁者がはびこるのを抑止することができなくなるかもしれない。

もちろん「文化」だってイデオロギーの道具になって他の文化を滅ぼすこともある。

だから単純化や一般化はできないのだが、それでも、現在のイラクやエジプトの悲劇を見ていると、イスラムとキリスト教がアラビア文化のサブ・カルチャーのように共存していた頃がむしょうになつかしく感じられる。
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by mariastella | 2011-01-10 04:46 | 宗教

フランスのライシテと仏教徒

私の義妹はフランス仏教連合の代表者の一人で、今、特に、仏教の僧侶の社会保障や年金についての問題を扱っている。

その関係で、仏教連合が、内務省からBertrand Gaume、外務省からOlivier Poupardとを招いて9月に話し合った時の記録を最近読んだ。

Bertrand Gaume は、Bureau Central des Cultes, ministère de l’Intérieur, de l'Outre-mer et des Collectivités territoriales の長官である。

フランスのライシテについてあらためて考える。

フランスのライシテは、

信じることと信じないことの自由を保証すること、、
国の中立性、
各宗教に序列を認めないこと、
宗教活動に干渉しないこと(公共の秩序を乱さない限り)

からなっている。

他のヨーロッパ国と大きく違っているのは、国がある宗教を「公式に認定することはない」ところだ。
宗教は特殊なアソシアシオンの一種 Association cultuelleとして認められると、税制優遇などを獲得するが、「宗教」として認められるわけではない。

しかし国はそれらのアソシアシオンの活動や、個人の信教を「援助する」ことが想定されている。

「宗教」としては認定されていないので、そのような援助を求めて各種アソシアシオンが宗教の名で国と対話するには、フランス仏教連合のような「代表組織」を別に作らなければならない。

個人の信教を援助するとは、どういうことだろう。

たとえば、国は特定宗教者に給料を支払ってはならないのだが、そこに例外があることによって、はっきり分る。

つまり、

- Pour les personnes, empêchées de se rendre dans les lieux de culte de leur choix
du fait de la maladie, de contraintes scolaires ou universitaires, de leur
engagement sous les drapeaux ou d’une privation temporaire de liberté, l’État a
prévu de rémunérer sur fonds publics des aumôniers pour assurer la liberté de
religion dans les hôpitaux, les établissements scolaires et universitaires, les
prisons, les armées. Le symbole de cet alinéa 2 de la loi de 1905 mérite d’être
souligné. Il est la synthèse de cet équilibre entre la liberté de conscience, le libre
exercice des cultes et la séparation des Églises et de l’État. Il renvoie directement
aux textes fondateurs de la République (cf. art.10 de la déclaration des Droits de
l’Homme et du citoyen de 1789)

病気や刑務所や軍隊や学業の場所にいるせいで地域の宗教の行事に参加することができない人のためにそれらの場所に、国が金を出して常駐の宗教者を雇うことができる。

これが国立のリセや大学に常駐するカトリック司祭や従軍司祭や公立病院に必ずチャペルがあることなどを説明している。

だから、理論的には、仏教徒でもイスラム教徒でも、病床で、宗教者にセレモニーを頼んでくれということができる。

実際は、それが、たった一人や極少数や例外的であったり、要するに、国が常駐の宗教者に金を払うほどの正当性がない時は「ボランティアで来い」ということになっている。

だから、事実上、ほとんど、カトリックの司祭が占めている。どんな軍艦にも常駐の司祭がいる。

Olivier Poupard の方は、 Conseiller pour les affaires religieuses (CAR) で、このポストはフランスの公務員で唯一「宗教」の言葉がつくポストだ。

外務相にこのポストが生まれたのも、初めは、もちろんカトリックがらみ、キリスト教がらみだった。

1920年に、依然としてナポレオンのコンコルダ体制のまま、1905年のライシテ法に組み込まれなかった
l’Alsace-Moselleが、フランスに戻ってきたこと、

そして、

シリアとレバノンに対するフランスの委任統治の必要上である。

この二つの国では、「オリエントのキリスト教徒」の保護が、フランスの影響力の行使とセットとなっていたので、その対策が必要だった。

最後に、1904年以来絶縁していたヴァチカンとの国交回復という課題に向けての準備である。

だから、最初のLouis Canetが26年もポストについていたように、「キリスト教の専門家」が想定されていた。

外交の専門家がこのポストにつくようになったのは1993年以来で、アフガニスタンの戦争やイランのホメイニ革命などの後である。

今は、 CAR は、フランスの宗教指導者が外国を公式訪問するときにその国の情報を与えたり、その国の大使館に便宜や保護を求めたり、逆に外国から宗教の指導者がフランスに来る時にあれこれのオーガナイズや国との橋渡しをする。

そういうアシスタンスのポストなのだ。フランス的な特化の仕方である。

またフランスに神学などの勉強に来る外国人にも、ヴィザの取得手続きなどをアシストする。

その目的は、はっきりしていて、

「フランス語のプロモート」だそうだ。

なるほど。

ローマに並んで、カトリック神学の一大中心地だったパリなどの持つ「歴史的強さ」を、「フランスとフランス語の影響力の保全」のために利用しているのだ。

そんなわけで、「文化価値は高いが、初期の戦闘的ライシテの後遺症で貧乏な」フランスのカトリック教会を、国がそれなりに戦略的にアシストしているわけである。

なかなか奥が深い。

で、宗教者専門の社会保障制度も、元がカトリックの司祭用にできているものだから、独身の男が前提で、配偶者をカバーしないし、妊娠や出産に関する保護もない。

他の宗派の妻帯司祭や女性司祭にとっては不備だし、瞑想が活動の中心というタイプの仏教宗派や、一切の経済活動をせず布施だけで生きる宗派や、教育や文化の伝達は関連アソシアシオンに任せている宗派にとってなど、いろいろな不備がある。2000年以来、フランスに3ヶ月以上暮らす人はみなどこかの社会保険に積立金を払うことが義務付けられているのだが、宗教者用のCAVIMACは月々の支払いが410ユーロ、4万円以上だから、無収入の宗教者にはとても払えない。(仕事をしている宗教者は雇い主が一般社会保険に支払っている。)

フランス仏教連合は、カトリック離脱から生まれたライシテが諸宗教に平等に保証するばかりでなくアシストもしてくれるはずの制度に切り込んでいる途中だ。

旧植民地国の移民などが多いムスリムと違って、「フランス人の仏教徒」は、元インテリ左翼という感じの人が多い。フランスの法やソシアルに対する意識も高い。ライシテについてはもちろんだ。そういうインテリが、チベットの亡命僧などの権利を守るために奔走している。

2010年、CAVIMACに積み立てている宗教者は、

仏教徒 が79 人、
イスラム教が 86人、
正教徒が 77人 、
エホヴァの証人が 715 人

だそうだ。

この数字をどう見るのだろう。

よく見るとかなり、驚くべき数字だ。

フランスのライシテの実態を別の角度からのぞく窓にも、なる。
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by mariastella | 2010-11-24 01:46 | 宗教

Sagrada Familia

 教皇B16が、バルセロナのサグラダ・ファミリアを訪れて祝別したという記事を読んだ。その上、ガウディを聖人にするという話も出ているそうだ。全く知らなかった。

数年前にサグラダ・ファミリアを訪れた時、道行く近所の人に話を聞いたことがある。

「近くにあるカテドラルはローマのもので私たちのものではない、このザグラダ・ファミリア教会こそカタルーニャのもので私たちのものだ」

と、得意そうに言うのが印象的だった。

その時はそんなものかと感心した。そんな場所にローマ教皇が行って、ガウディを聖別するというのはカタルーニャの人にとってどうなんだろう。

カタルーニャはスペインでも一番、毎週教会に通うカトリックが少なく5%しかいないそうで、それにも驚いた。マドリードとのライヴァル意識も大きいようだ。
マドリードのカテドラルへのわだかまりもあるそうで、スペインはなかなか複雑だ。

聖ガウディか・・・

認定には奇跡が必要だな。

増殖し続けるサグラダ・ファミリアそのものがすでに奇跡みたいなものだけど。
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by mariastella | 2010-11-13 06:14 | 宗教

イギリスのカトリック

昨日、教皇ベネディクト16世がイギリスを公式訪問していることに触れた。

ヨハネ=パウロ二世も1982年にスコットランドを訪問したのだが彼は人気があり、英国国教会との歩み寄りに大きな意味があった。

今回は、「公式訪問」であり、ゴードン・ブラウン前首相が正式に招いてしまったのでイギリス側に膨大な経費の負担がかかることになったわけだ。

イギリスのカトリックは10%弱の600万人ほどらしいのだが、JP2の頃は主としてアイルランド系ということだった。

今のイギリスではカトリックの6人に1人はポーランド人で、ポーランド人の修道会もいろいろできている。

ポーランドがEUに加入してから門戸を開かなければならなかったからだ。アフリカ系、フィリピン系のカトリックも昔よりずっと増えたらしい。

スラブ系の人は言語的に区別する周波数域が広いので外国語を学ぶのに有利だということを聞いたことがある。実際、スラブ系の人はマルチリンガルが多く、ヨーロッパ中に進出している。

でも、かなり「昔風カトリック」。

イギリスでは、反カトリックの人は、何かというと教皇庁の反動的な倫理観を攻撃する。今回、イギリス人に教皇を歓迎させるにはバチカンが避妊具を売り出すしかないというジョークもある。歴史的な経緯のせいで、国教会との差異に敏感だ。

カトリックが一応マジョリティであるフランスでは、「普通のカトリックの人」は、避妊に関する教皇庁のスタンスなんかほぼぜんぜん気にしていない。

だいぶ差がある。

生粋のイギリス人で、マイノリティであるカトリックをやっている人も、けっこう「古い」のかもしれない。

ネットで世界的に有名になったおばさん歌手のスコットランドのスーザン・ボイルさんは、熱心なカトリックで、有名になったのも、神のおかげ、自分の才能も神の恵み、カトリックは私の生活の根幹、とか言っている。ルルドにも3回巡礼に行き、マリア信心会にも入っている。教会の聖歌隊メンバーであるのはもちろんだ。

JP2が1982年にグラスゴーに来た時ももちろんミサに参加して感激し、教皇のために歌いたかったそうだ。
今回のB16の訪問で、ようやく「教皇の前で歌う」夢がかなって特別コンサートを念入りに用意し、満席だったのに、教皇はなぜかごくはじめに退席してしまったということだ。気の毒。

B16の側近って、ほんとうに、彼の人気を高める戦略がゼロである。



 
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by mariastella | 2010-09-17 22:46 | 宗教

切羽詰った時に採用するストーリー

 
 日本とパラグアイのPK戦の時にちょうどTVのある部屋でPC をやっていたので、偶然見てしまった。試合はもうとっくに終わっていると思ったら、延長の末のPK 戦だった。日本の選手が輪になってひざまずいてシュートの成功を祈っているような、今時の若者たちのその必死な一体感が、意外な感じだった。翌日の新聞にその写真が載っていて「祈る日本チーム」というキャプションがあった。では、あれはやっぱり「祈り」だと認識されているのだ。

 誰に祈ってるんだろう。あるいは何に?

 勝負の神さま? あるいは、みんなで「念」というか「気」というか「エネルギー」を送り込んでるだけ?

 怪我の回復が本格的でないといわれるブラジルのカカは熱心な福音派だそうで、結婚前の純潔とかを公の場所で口にしているそうだ。ブラジルでは昔はカトリックが絶対優勢だったけれど、今は福音派の躍進が著しいので有名だ。特に若者に人気だから、スター選手が福音派でも不思議はない。

 そのカカはブレスレットをしていて、そこに「OQJF?」と書いてあるそうだ。

 「O que Jesus faria?」の略で、「イエスならどうするだろう?」という意味。

 まあ、カトリックでも福音派でも、同じ神だから、輪になって祈っても、「気の道」はつながりやすいかなあ。それにブレスレットの言葉は、「勝たせて下さい」じゃなくて、「御旨のままに」って感じだから、それなりに「正しい」感じもするな。

 うちの末猫が先週亡くなった。いろいろあったのだが、とにかく最後は下がってきた体温を温めるために私がはいつくばって息を吹きかけたりしてたので大変だった。はじめは、生きようとして戦っているように見えたので助けてやりたかったが、だんだんと、死ねないで苦しんでいるように見えてきた。強制給餌しようとしても必死で顔を背けるし、背を向けて隠れようとするし。私はいわゆる安楽死には基本スタンスとして反対なのだが、当然それも視野に入ってくる。取って置きのルルドの水で高栄養パテを溶いたりしたんだけど。

 親戚の仏教徒のところで、子猫が死にかけたことがあり、その人は、安楽死させるかすごく迷って、仏教の僧の意見を聞いた。どちらもフランス人。その時の答えはこうだった。

 「その子猫が苦しんでいるのは前世のカルマのせい。それを短縮したりせずに最後までちゃんと苦しめばそれを浄めることになり、それはよいカルマとなり、子猫は来世でステージアップを期待できる。さらに、安楽死させるなどの決断をするのはあなた自身の殺生の罪となり、悪いカルマになるので、あなたの来世は今より悪くなる」

 その人は、それを聞いて、納得がいったので、獣医のところに連れて行かずに、自然死を待ったというのだ。

 仏教ではカルマのメリットやデメリットを計算できるので、ロジックなフランス人に気に入られているという話を聞いたことがあるが、私なら、うちの猫には絶対採用したくないストーリーである。

 で、私も、別のストーリーをさがしてみた。

 人間はいろいろと罪深いけれど、うちの末猫サリーにはそういう罪も業もない。子供は天国に直行できるというように、うちのサリーもピュアだから、天国に直行。

 うちには、15年前にまだ3歳半の元気盛りで医療過誤によって死んだオス猫ガイアがいて、庭に埋葬してある。すごく愛された猫だから、その後の3匹の猫の守護天使みたいになっていたに違いない。

 そのガイアのことを突然思い出し、気が楽になった。サリーの死後の運命が安心できたからだ。


 で、サリーに何度も言って聞かせた。

 「あんたにはね、実は、あんたの生まれる前に死んだ強いお兄ちゃん(実際は血のつながりはないが)がいて、天国から守ってくれているんだよ、で、サリーちゃんが死んでも、ガイアがちゃんと待ってて、天国でサリーちゃんを守ってくれて、世話してくれるからね」

 このストーリーは私の気に入った。

 サリーちゃん、今は思いがけなく苦しいけど、こうやってママがそばについてるし、天国に行ったら今度はガイアに守られてまた元気に遊べるんだよ。

 すごく安心感がある。

 死後の世界って、こういう時のためのストーリーなんだなあ。

 自分より若い小さなものに死なれる時に特に力を発揮するストーリー。

 「畜生道に堕ちる」みたいなのは、「ペットの死」向きじゃない。

 私が死んでも、ガイアやサリーが楽しくやってるとこには行けそうもないが。

 私はストーリーなしで死んでも納得するつもりだったが、猫に死なれるときには、貴重だ。
 生と死って、存在のモードが変るだけ、っていうのが実感になる。

 そうなると、前に失った猫の記憶も貴重だし、次から次へと生と死が別の生と死を豊かにしてくれるのかもしれない。誰もがそういうストーリーに少しずつ貢献していけるんだとしたら、死は決して喪失ではないし、ましてや敗北ではない。

 近いうちに、前に『聖者の宇宙』という単行本で出したものが文庫化されるはずだが、生と死を超えたこういうインターアクティヴで賑やかな関係って、悪くないなとあらためて、思う。
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by mariastella | 2010-07-02 23:47 | 宗教

キプロス島のベネディクト16世

 6月はじめにB16がキプロス島を訪れた時、ニコシアで、Nazim Haqqani 師 というスーフィーの神秘家と会った時の写真を見たのだが、周りの人々がすごく和やかにこやかで心温まった。キプロスだからトルコ系のスーフィーということだろうか。本物の神秘主義者というのは、何かみな故郷が同じという気がする。神秘主義者たちが宗教間対話の鍵になるんじゃないだろうか。  

 キプロスはもちろん東方教会がマジョリティだが、カトリックも少しいるし、フィリピン移民もいる。B16は彼らを招いてアラブ語、ギリシア語、ラテン語をミックスしたミサを挙げた。

 緊張の高まっている中近東などイスラム世界で生きるキリスト教徒たち、特に聖職者や修道者らのコミュニティが危険を回避して引き上げないで踏みとどまるようにと、教皇は呼びかけた。

 1996年にアルジェリアのトラピスト修道士たちが、イスラム過激派から強迫されていたのに踏みとどまって地域の奉仕を続けた末、全員拉致されて惨殺された事件を扱った映画が今年のカンヌ映画祭で話題になったが、そのことを思い出してしまった。その地に残ると命が危ないと分っているのに絶対残れというのは普通の国の外務相だとかが、危険地域の自国民に避難勧告を出して、勝手に残って誘拐されたら自己責任だからね、とかいって逃げたりするのと対照的だ。

 で、教皇の言うのは、キリスト教がマイノリティで試練に会っている場所にこそ残って、キリストの希望の証しを見せ続けなくてはいけない、と言う。それは、キリスト教徒のためだけでなく、その地域に住むすべての人々のためだそうだ。確かにそういう地帯では、ムスリムである地域住民であれば身が安全というわけではない。彼らはずっと命の危険にさらされている。そんなところに「福音」を伝えに来た宣教師なんかが、さっさと「安全地帯」に逃げ帰ったとしたら、「人は愛し合える」という証言の重みは消えうせるだろう。

 最近、南アのワールドカップがらみで、黒人地区に留まってアパルトヘイトと戦ってきた白人キリスト教司祭たちの話をいろいろ読む機会があって、感動していた。

 アパルトヘイトをキリスト教的に正当化していたのは、旧約聖書のノアの泥酔のエピソードで、父の裸を見た息子ハムが黒人の先祖だと言われていて、「奴隷の奴隷となり兄たちに仕えよ」とノアから呪われた部分らしい。
 このテーマについてはシスティナ天井画の解釈をめぐってあれこれ考えてきたのだが、まあ、普通に考えて、泥酔して裸で寝たノアさんがそれを見つけた息子を一方的に呪うなんて・・・と、ひどい話だと思うんだけど、キリストの受肉によって旧約のいろんな律法とかの意味がラディカルに変わったはずのキリスト教で、アパルトヘイトの正当化にそんな口実が使われていたんだなあ。
 知らなかった。まあ、そういうふうに正当化する必要があったということは、キリスト教内部で、アパルトヘイトの人種差別はキリスト教に見て間違っているという異議申し立てがあったからこそなんだろう。実際、白人の司祭だの修道士だのの中に、当時もちろん違法であったのに勇敢に黒人地域に住み、彼らと共に人種差別撤廃のため、自由のために戦った人たちがいたわけだ。

 その一人のJacques Amyot d'Invilleの書いているものを読むと、ずいぶん危険な生き方をしてきたのに全然悲愴ではなく、「明るいのが一番」という感じなのだ。

 ユーモアの感覚を養い、積極的にオプティムズムを育てようと言う。

 そして、ニーチェがキリスト教徒について言ったことを常に考えなきゃいけないという。それは、

 「私が彼らの救い主を信じるようになるためには、救い主の弟子たち自身がもっと救われた様子をしていないとだめだ!」

 と言うものだ。

 愛を説いたり、救いや希望を説く者、「福音」を説く者が、深刻な顔をして、危機に際して真っ先に逃げ出したりしたら、確かに、救われてるようには見えないなあ。

 よく、拷問されて磔にされた殉教者なんかが、「パライゾ、パライゾ」とか叫んで恍惚として死んでいくイメージがあって、ああいうのは狂信で病的で不健康じゃないかと思っていたけど、一理あるかもしれない。

 そして、神秘家とか、悟った人とかって、確かにいつもニコニコしてたりする。

 私は何かと悲観的な人なのだが、よし、ちょっとは喜びに向うように生きてみよう。
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by mariastella | 2010-06-16 23:39 | 宗教

無神論―二千年の混沌と相克を超えて

  amazonに、 『無神論―二千年の混沌と相克を超えて 』(中央公論新社)のレヴューが出ていた。

 この本を読んで最初になにか言う人の声を聞きたかったので、ネットって、ほんとにありがたい。

 まあ、敷居が低い分、時には無責任や勘違いもあるのでがっかりするけれど、伝えたかったことをきっちりキャッチしてくれた人のコメントを読むと、ほんとにほっとする。その時やっと、本が完成した気がするのだ。
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by mariastella | 2010-05-17 18:03 | 宗教

B16とキリスト軍団

 何かというと脇が甘かったり、批判の対象になってきた教皇B16だが、私はファンだ。
 
 今回のキリスト軍団に関する彼の態度は一貫していた。

 ピウス12世からヨハネ23世、パウロ6世、ヨハネ=パウロ2世と、四代何十年にも渉って騙してきた男を、ラツインガーは執拗にチェックして来た。

 キリスト軍団はメキシコ生まれで、福音派のカトリック版というか、マーケッティング戦略に則った顧客獲得がすごかった。創設当時のイエズス会ってこんな感じだったのかなあと思ったこともあったけど、全くひどい組織だ。

 でも、中にいる人、かわいそう。完全にカルトや秘密結社と同じ構造である。

 あらゆる陰謀系組織もそうだが、オメルタが支配している。オメルタ、は、自由の敵だ。

 B16の融通のきかない誠実なところが、こういうところで発揮できてる。
 彼もラツインガー時代に現金入り封筒を渡されてつきかえしたそうだ。

 カトリックにこういう自浄能力があるのは信頼感をそそられる。

 金、権力、秘密、美辞、脅し、カリスマ、これが組み合わさった「悪意」を告発するのはどんな分野でも容易なことではない。
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by mariastella | 2010-05-16 05:44 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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