L'art de croire             竹下節子ブログ

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バッハのパルティータとラモーとビッグバン

トリオのHが最近バッハのパルティータの4番(ニ長調)のOvertureをフルートとヴァイオリンと通奏低音に編曲したのを見た。

チェンバロやピアノの両手ではどうしても弾き分けられない語りとフレージングの妙、ダイナミックがはっきり分かる。特に導入部は完全なフランス風の語りなのでバロック・ジェスチュエルがどういうものかということが念頭にあるのとないのではまったく変わってくる。

その後に続く部分はとてもイタリア的な展開なのだけれど、宗教的昂揚とそこからの出発がはっきりと分かる。


シオランの言葉に、

「バッハに最も多くのものを負っている者がいるとしたら、それは神だ」

というのがあるけれど、本当に、バッハが見せる(聴かせるのだけれど)天上の世界に参入することで「神の存在」を確信した人々抜きにはキリスト教は今まで続かなかったのではないかと思うくらいだ。


バッハの語りは神の国の構築だ。天上の伽藍を確固として完璧に積み上げる。

でも、音楽の伽藍にはそれを支える地盤がない。で、バッハはどうするかというと、このパルティータでは、Overtureのフランス・バロック風の語りで人に呼びかけ、集め、マジックのように、人の心に入り込んで地盤を固めるのだ。それからようやくイタリア的な正確さで建築が始まる。

で、ラモー。

ラモーは伽藍を構築しない。だからラモーを聞いて神に帰依する人はいないだろう。


で、ラモーを聴いて、人は、生きる。

ラモーにはバッハのような緻密な対称性や構築はなく、絶えず揺らぎ、驚かせる。そこに生まれる不均衡はかろうじて動的平衡で、そういう不均衡こそが「生命」ということだ。

それは「神」とは対極だけれど、神の恵みとしての命のクリエーションだ。

2012年に水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催された「ゲルダ・シュタイナー&ヨルク・レンツリンガー(力が生まれるところ)」展のカタログの中で、ビッグバンについて、ブルーノ・ビンゲリ(バーゼル大学の天文学者)が「宇宙の美:対称性と非対称性の間で」(ここに記事がある)という解説を書いている。


要約すると、

ビッグバンは完璧に調和がとれて対称性が高い。最初に対称性が破れた時点で最初は一種類しかなかった力が四種類(重力、電磁気力、強い力、弱い力)に分化した。均一性から微妙な揺らぎが生まれて、対称性から非対称へと進化する。それは秩序から混沌への過程というよりも不確定なものから確定なもの、一般的なものから特定のもの、潜在的なものから実在するものへの過程だった。

しかし地球という惑星上には最初の対称性へ戻ろうとする経路もある。無機物が有機体へと組織化し、新たな秩序と新たな対称性を構築し始めた。原初の秩序に戻る仮想的な経路。これが宇宙の振動の一部だ。混沌は醜く秩序は美しい? いや、完全な秩序、完全な対称性は生命と相容れない。生命は対称性の破れと構築の結果であり、知性は対称性への努力である。

というものだ。

バッハが神を想起させる美は特異な美で現実的なものではない。しかし対称性と非対称性の間の緊張状態が美的感覚の根源なのだ。


人間は「神の似姿」として創られたという言葉がある。

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1,26

というやつだ。で、人間は見た目が基本的に左右対称にできている。(違う場合は気になる

でも、体の中身は非対称だ。心臓は左にあり、肺の大きさも左右で違う。胃や腸も一定の向きに傾いているし、膵臓、肝臓など他の臓器も偏っている。利き手も右が多い。そもそも発生のごく初期に、胎児の胚の中央部にある細胞の繊毛の高速回転運動で羊水に右から左への流れが形成されるということらしい。最初に地球にたどり着いた細胞の回転方向に左右されるというのも読んだ記憶がある。

うーん、だから、一応「神の似姿」で外側は対称性を確保して完璧?に創られたけれど、所詮は「似姿」であって、中身は非対称、だからこそ、生が駆動する。もちろん死を含めた「生」だ。不死の状態は人間的な意味で生きているとは言えない。

それでも人は、音楽は、原初の対称性、原初の秩序を希求する。「不動」と「死」と「永遠」は紙(神?)一重だ。

能管の槻宅さんから、能管の響きがこの世のかりそめの「秩序」を破り、なにか「真なるもの」への扉を開くという感覚のことを聞いたことがある。「秩序」が破られるところに「生命」が動き始めるということだったのかもしれない。


by mariastella | 2019-02-08 00:05 | 音楽

ナポレオン2世と白鳥の歌

先日、朝のラジオ・クラシックで、ナポレオンの息子の一生を語りながら音楽でたどるものがあった。


私は『ナポレオンと神』で彼のことは少し触れたけれど、主題は父親の方だったから深く掘り下げていない。でも、この若くして死んだナポレオン二世のことを考えるといつも胸が詰まる。


フォンテーヌブローでみたガラガラのおもちゃ、ウィーンでみた子供ベッド(ここに写真あり)、ヒトラーがウィーンから移したアンヴァリッドの墓所。

あの息子がいなかったらナポレオンは討ち死にしていたのではないかと思う。

皇帝とはいっても、フランス革命の後だから、彼はフランス帝国の公邸ではなくフランス人の皇帝と称した。ハプスブルグのマリー=ルイーズを迎えても、息子が生まれるとは限らなかった。誕生の時、逆子ですぐに息をしなかった。

男子だと101の礼砲が、女子だと21の礼砲が撃たれる。国民はそれを待っていた。21発目の礼砲まで緊張が高まっていき、その後で群衆が一瞬凍りついた時、22発目が鳴り響いた。その時のフランス国民の熱狂を再び見るのは、それから百年以上後の1918年の第一次大戦終結の朗報の時だったという。

ナポレオンはチュイルリー宮のバルコニーから息子を両腕に掲げて群衆の歓呼に向けて差し出した。彼はこの息子を「フランス国民」に捧げたのだった。国民もそれを信じた。


(今のフランスは、新大統領の就任式に21の礼砲だから、女子並み? 2013年だったか、イギリスの王子に息子が生まれた時は103発だったそうで、20発は子供のため、21発が女王のため、21発がロンドン市のためと圧ったけれど、では残りの41発は?…)


その後の悲劇、ハプスブルグのフランツ皇帝の孫であるこの息子がウィーンでは「フランツ(=フランソワ=フランス)」と呼ばれながら、悲劇の一生を送ったことは知られている。


で、この息子が結核で亡くなったシーンがラジオで語られた後すぐに流されたのが、シューベルトの「白鳥の歌」の第四曲だった。私にすでに彼の運命への思い入れがあったせいだろうか、この曲が今まで聴いた一番胸に響く葬送曲であるかのように響いた。チェロとピアノの編曲である。

この曲はシューベルトの『セレナーデ』として有名で、初心者でも弾きやすい(実は左手の正確さと右手の三連音符の関係が初心者には難しい)ピアノ曲としても知られていて、私も子供の頃から弾いていた。でもその時はこのような悲劇的な感興を覚えたことはない。センチメンタルという感じはあったけれど。


で、この文脈でのチェロの響き。

曲が終わってから私はすぐにヴィオラを取りに行った。

ェロで弾けるものはすべてヴィオラで弾けるからだ

少しキイを下げてはじめの部分を弾いてみた。

その後で試しにピアノの楽譜を探して弾いてみたけれど、やはりヴィオラには負ける。

もとは歌曲だが、やはり切々と「歌う」ことは人間の声と似た音域のヴィオラやチェロのボウイングによって圧倒的に地平が広がる。

こんなになじみの曲が、ナポレオン二世とその父の運命と突然ぴったり重なったのは衝撃的だった。

藤原真理さんのコンサートではアンコールではいつもサンサーンスの「白鳥」で心が満たされるのだけれど、このセレナーデも聴いてみたい。

40の手習いでヴィオラを始めてもう四半世紀になるけれど、ヴィオラを弾けて良かったと思うのはこういう時だとつくづく思う。



by mariastella | 2019-01-18 00:05 | 音楽

トリックアートとラモー

数ヶ月前、ネットで偶然「noutobook」というトリックアート本を見つけた。(この綴りで画像検索してください)

私は文房具好き、トリックアート好き、子供の頃からノートに落書ばかりするのが好きなので、さっそく日本で注文してもらった。この錯視は二次元が三次元に見えるタイプのものだけれど、特に、スマホなどで撮影するとその角度によって驚くべき効果が現れるようにできている。その点で、いわゆる「インスタ映え」するような「今時」ならではの面白さなのだ。

で、もちろん私自身はスマホすら使わないので、生徒や友人への誕生日プレゼント用に購入した。スマホをいろいろな方向に傾けてもらう。みんなノートに書いてある日本語は分からないけれど、立体的に見える角度を示す写真がついているので楽しめる。

で、先日のトリオの練習の時に、トリオのメンバーの誕生日プレゼントとしてそれを持って行った。

わいわい言いながら、スマホを動かして感嘆し合う。

その後、「そうだ、練習しなくては」と、ラモーとデュフリィを弾いたのだけれど、そのすばらしさにいつもながら、感動する。

どの曲も、何年もかけて、バロック・バレーやバロック音楽論の篩にかけて研究しつくしたもので、それが足らない部分、納得できない部分は、たとえ二小節でも、「理解できないのっぺりとした」ものになる。逆に、理解できたときにはすべてに別の光が当たり、まったく別の世界が立ち上がる。こういう時に、私たちはフランス・バロックの秘密を「誇らしく」思うのだ。

それに対してたとえばバッハの曲などは、もう、楽譜を書かれたとおりに忠実に音にさえすれば、最初から全ての材料がそろっていて、音符がたくさんあって、構築的で、大伽藍ができてしまうキットみたいな面がある。すでに「完成」しているのだ。だから素人が弾いても聞いてもある程度の満足感がある。

けれども、ラモーの曲だと、楽譜通りに音符を弾けば、それはそれで難しいのだけれど、独特の「間」もあり、音の連なりが極小の単位で意味を持っているので、それを意識しない限り、強度がなく、色彩感以外の何も立ち上がってこない。

で、トリオの仲間が、その日の練習の後、そうだ、フランス・バロックはこのトリックアート本みたいだ、と言い出した。

ラモーの天上世界が意味を持って立ち上がる「角度」があって、その正しい角度を見つけて演奏した時だけ、それが立ち現れ、共有することもできるのだ。そしてその「角度」を見つけた時は、あまりにもそれが「自明」なので、それが最初からそのように弾くためにだけ書かれたことが分かる。「正解」があるのだ。

いつもわくわくさせられるのは幸せだ。


by mariastella | 2019-01-04 00:05 | 音楽

象のミュージシャン

もうかなり前に、ピアノを弾ノラという猫の動画が有名になって、それをバックにしたコンサートまで開かれた。(行ったことがある。)

一番有名だったのは、確か隣のピアノでバッハのメヌエットか何かが弾かれていてそれに合わせるようにノラが鍵盤を叩くというものだった。

ところが、最近、タイで撮影された象とのピアノ・・・デュエットの動画の噂を聞いて見てみたら、さらに驚きだった。

オウムが曲に合わせて踊る動画はよくあるけれど、象ってすごい。明らかに曲を聴いて楽しんで、リズムをとったり鍵盤を鼻で叩いたりしている。


全ての音楽とは体の動き、生命のリズムの再現で、音楽のあるところには「生きている体」が出現するというのは本当なんだなあと思う。

それが「象の体」でも同じだ。見た目や大きさがどんなに違っても、命の躍動は同じ息吹の中にあるんだろう。


by mariastella | 2018-11-20 00:05 | 音楽

藤原真理さんのコンサート

(ジョリアンのシリーズは、日本の記事の後で再開します。)

10/24、藤原真理さんに浜離宮ホールのランチタイムコンサートに招待していただいたので久しぶりに築地に行った。

築地市場が引越ししたばかりで、閉まっている店も多く、感慨深い。

ホールは音響も良く、真理さんはもとより、ピアニストの倉戸テルさんが幸せそうなのがとても印象的だった。
ピアノのパートが「歌」でない部分では、明らかにチェロのパートと同化していて、頭や肩の動きが真理さんと完全にシンクロしている時があった。チェロは楽器の性質上、他のパートを 聞いてはいても、頭の中で歌って再現することはできない。それについては前に詳しく書いた。

で、このおふたりでは、倉戸さんが明らかに、ピアノのパートを歌いながら真理さんのパートというかダイナミクスにぴったり寄り添っていて、しかもそれがはっきり動きや表情で見える。こちらも幸せな気分になる。

ベートーベンのチェロソナタは贅沢な曲だ。
1楽章の出だしはいつも感動的だし、ここからコンサートを始めるのって、普通なら緊張するだろうなあと素人考えで思ってしまうが、一瞬で聴衆を別世界に連れて行ってくれる。
3楽章のフーガは舞曲にも似ている。
メシアンが捕虜収容所で作曲したというイエスの永遠性への賛歌は、和声が解決されないままに非常な強度でどこかへ向かっていくところが時代性と、フランス性の濃密全開という感じがする。
第2部で小曲を並べるのはある意味で難しいと思うけれど、コメントもあってリラックスした感じでよかった。シューマンってやはりよくできている。

コンサートの後は、はじめて浜離宮恩賜公園に行って、中島のお茶屋でお抹茶をいただいた。
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帰りには築地本願寺に寄った。ここに入ると本当にフランスの古い教会に入るのと似た気分になる。
コンサートからまる4年が経った。
あらためて、すばらしい機会を頂けたものだなあと思う。


by mariastella | 2018-11-03 00:05 | 音楽

音楽やバレーの新年度が始まっている

先週、新シーズン初めての室内楽の練習に行った。

スカルラッティのシンフォニアと、年度末に上演計画しているオッフェンバックのオペレッタ「Le Violoneux」を始めた。この記事を書こうと思ってタイトルを知るために日本語ネットで少し検索したけれど、この作品(一幕もの、1855年)は見つからなかった。1855 年には6作も発表している。

Violoneuxとは、Violonisteより格が下がり、世紀の教育を受けずに民謡などを弾く「ヴァイオリン弾き」という感じだろうか。今調べたら、英語ではviolonistに対してfiddler という言葉があるそうだ。

そういえば、ミュージカルの『屋根の上のバイオリン弾き』の原題は「Fiddler on the Roof」だった。

「バイオリニスト」は屋根の上では弾かないのだ。

いつもながら、オッフェンバックのオペレッタを弾くと、古臭いのと愉快で陽気でノスタルジックなのが混然一体となって鼻歌を歌いたくなる。歌手やオーケストラを少しずつ足していくが、それは万聖節休みの後になるだろう。

実は、いつものメンバーの一人が休んだ。

この夏、ブルターニュの別荘に行っていて、元気で泳いでもいたのだけれど、連れ合いが突然倒れて入院し、そのまま2週間集中治療室にいたけれど亡くなったのだ。彼女は抗がん剤の錠剤を飲んでいた。

病院で検査すると、血小板がほとんどゼロの状態だったそうで、どうしても正常に戻らなかった。

意識はずっとはっきりしていて、亡くなる前の日も、クロスワードパズルの回答を娘と一緒に考えていたという。

彼女は、私たちのほとんどすべてのコンサートに来てくれた。2007年の宇高会の能の公演にも、2011年の東日本大震災のチャリティコンサートにも、私が招待した日本文化会館の『夕鶴』にも。

現役時代は生物の高校教師で、穏やかで、謙虚で、音楽のアグレガシオンと楽器教授の国家資格を持つ二人の娘と、パリ市の役人でありながらバス歌手とヴァイオリニストの活動もずっと続けてきた夫をずっと支えてきた。

トリオは来年のパリのコンサートのプログラムを練習し始めている。

こちらは順調。

バロックバレーは、カンプラの『L'Europe galante』からトルコ人の踊りだ。

キャラクターダンスだ。実はすごく長くて難しい。最初の部分は男性が女性の前でアクロバティックで力強いところを固持するような振付なので、アントルシャ6なども入って大変だ。

これは全13枚の振り付け譜の最初の2枚。この部分を頭に入れるだけでも毎日譜を眺める必要がある。

このオペラ・バレエは、ヨーロッパとして、フランス、スペイン、ベニスに続いてトルコが出てくるのだ。トルコがEU加盟を望んでいた時にはこういうところを強調すればよかったのに。

それにしても、この楽譜の部分を見てもらうと分かるが、二分音符ふたつから始まるフレーズは5小節、4小節、4小節となって、また5-4-4となる。それに対応するステップの連なりがまた超バロック的だ。

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by mariastella | 2018-10-05 00:05 | 音楽

パリ・オペラ座の『トリスタンとイゾルデ』

先日 バスティーユのオペラ座の『トリスタンとイゾルデ』を観に行った。


この観劇が、いろいろなものをつないでくれるミッシングリンクの発見になるとは思わなかった。

それほど興味深いものとなった。

チケットを買った時はそこまで考えていなかった。


で、いろいろなことを書こうと思うのだけれど、まず、フレンチ・ワーグナーに加えてピーター・セラーズとビル・ヴィオラビデオ作家による演出というものについて一言触れようとして、念のためネットで検索したら、パリオペラ座の引っ越し公演『トリスタンとイゾルデ』というのが日本で2008年にあったことを知った。

その時もこの演出で(歌手たちはイゾルデの侍女役で安定のエカテリナ・グバノヴァ以外は、全員異なる。指揮者も違う。)、すでにたくさんの人が観に行った感想をブログなどにアップしているのを見つけて驚いた。さすが日本。しかも4万円以上のチケットを買った人もいるし、トリスタンの公演はすでにいろいろ見尽くして比べている人もいる。すごい。

パリ公演を観た人、バイロイトで観た人もいる。

そういえば、私の行ったに日も、日本人のツアーらしいグループがいて、終演後に「メトロに乗る前にトイレに行ってください」などと世話係が叫んでいた。

オペラっていつの間に、日本人のスタンダードな趣味になっていたんだろう。バブルがはじけて久しいのに。

で、日本でも演じられたのなら、演出についてのコメントはスルーしようかなと思ったのだけれど、日本のネットでこの演出のビデオのことをめちゃくちゃに貶して(しかも旧仮名ブログで)いる人が目についた。

私はその人の意見に概ね賛成で、特に、初めの方でトリスタンとイゾルデが二つに区切られた画面の奥から歩いてきて、少しずつ服を脱いで全裸になるというストリップにはあきれた。

でも、そのことを、そのブログ主は、アポロンならぬ中年フランス男の体など見たくない、と書いてあるのだ。

日本のプログラムに解説がなかったのだろうか。

別に「フランス男」を弁護する気はないけれど、あのビデオは、2004年にロスアンゼルスでの公演の時に、まずビル・ヴィオラがビデオを作って、ピーター・セラーズはそれに合わせなければならなかったという話だし、ビデオの中で全裸になる男女ももちろんカリフォルニアの役者だ。だから、演出の全体は「メイド・イン・USA」で、こういうと何だけれど、アメリカ西岸テイストだしビル・ヴィオラは有名なビデオ作家だそうだけれど、CG以降の映像の世界では、2004年の映像の使い回しって、「古い」としか思えない。

ピーター・セラーズはそれでも、マルケ王を客席から登場させたり合唱を客席の後ろ、イングリッシュホルンのソロをバルコン、他の歌手もバルコンに配置するなど立体的な演出を工夫している。第三幕でスクリーンが縦型になるのも悪くないし、登場人物も、近頃のオペラによくある変な今風の服よりは地味な黒でビデオの役者の黒子みたいな感じも表現しているのは理解できる。最後の死の床のトリスタンだけ白い服になる。


バロック・オペラでもスクリーンを使う演出はある。それで感心したこともある。

このトリスタンの初公演と同じ2004年に見たパラダンだ。

そのことをサイトのバロック音楽室で少し触れている。

2005年のピグマリオンを観た時の感想だ。

ここの

pigmalionのところ。

該当部分をコピーすると

>>>それで、ピグマリオンの方は、歌もコーラスもあり、バレーが歌のところにも同時に入ってバランスも良く、楽しめましたが、ラストのように明らかに踊りが入ってほしいところに、まったく動きをつけないなど違和感もありました。このオペラの振り付け譜は残っていないのでしょうか。一ヶ所、バック・スクリーン に飛び立つ鳥のシルエットが映し出されたのは印象的でした。私は、ミオンのオペラ復活に向けてもう何年も振り付けを研究しているのですが、去年やはりシャトレー座で観た『パラダン』で、ヴアーチャルナイメージをふんだんに使っていた効果に感心して以来、別に人間の体は必要ないと思うようになっています。バロック・ジェスチュエルをもっとも効果的に使ったアニメ、バロック音楽のダイナミクスをぴったり使った動きを配したら、生身のダンサーは1人でも足りる気がします。
生身のダンサーは、観客のためというより、演奏家にとって、そのダンサーの体を持ち上げたり落としたりする感覚を喚起するために有用なので、まったくアニメだけというわけにはいきません。それにしても、バロックのバレー曲に、そのエスプリに合ったアニメの振り付けが出来れば、ディズニーの『ファンタジア』をはるかに超える心身音楽体験が出来ると思います。予算的にも、オーガナイズ的にもバレー団を動員するよりずっと実現可能性が高そうだし。絵は自分で描けますがデジタル・アニメのノウハウはないので、まだ先が見えません。<<<

その時感心したのではっきり覚えているけれど、実物大よりはるかにクローズアップされた生身の人間などではなくて、私がアニメといったように、とても「デザイン」的なものだった。実写ではないし、「自然の風景」のようなものでもない。その方が「古くならない」と思う。

すっかり「バロック・オペラ」人間になった今、何十年ぶりかで観た『トリスタンとイゾルデ』は、けっこう『ニテティス』に通じると思った。水(ここではこれがメインだが)や火をテーマにした画像が多く、「森」もあったし、ニテティスの四大元素のシンボルや、王を殺された王女の恋だとか、何よりも、装飾音やら不協和音だらけの和声進行とか終始のカダンス抜きで光景ががらりと変わるところとか、その技巧的なところが、あれ、ラモーにも通じるなあ、と一瞬思った。パリ・オペラ座管弦楽団の演奏のせいもあるのかもしれない。

もちろん決定的な違いはある。

ラモーやミオンがひたすら音の色彩感を変化させて行くのに対してワグナーは音の質感の方を変化させるし、やはりロマン派以降の「感情に訴える」という意図が強い(そして成功している)。

これはそうとうの「役者」の演技力が必要で、今回、マルケ王のルネ・パーぺなど、あまりにも真に迫っていて本当に感動してしまった。指揮者のフィリップ・ジョルダンは2020年からウィーンの国立オペラ座の音楽監督就任が決まっているせいか、トリスタン(アンドレアス・シャーガ-)もイゾルデ(マルティナ・セラフィン)もウィーン出身歌手で、ルネ・パーぺもドイツ人だし、ネイティヴだから歌いながらこれだけ感情移入できるのかと思うほどだ。

こちらもすっかりストーリーのディティールにはまり、トリスタンの従僕とイゾルデの侍女の忠誠ぶりはまるで儒教世界だなあ、歌舞伎を見ているみたいだなあ、と思う。何かというと「恥」「不名誉」の感覚が強調されるのも「恥の文化」ですか、といいたくなる。

そして、マルケ王が若い甥のトリスタンを愛するあまり、最初の妻が子をなさぬまま死んだ後も再婚せず、トリスタンに王位を譲るつもりであったのが、トリスタンがイゾルデを連れてくるのを裏切りのように感じる。

フランス語のプログラムではわりとはっきりと、王がトリスタンの最初の愛人だったとある。で、王はイゾルデに触れなかったふしもある。前の王妃に子供がいなかったのもそのせいかもしれない。

つまり、「不倫」はイゾルデではなく、トリスタンが王を裏切ったと何度も強調されている。

そう、イゾルデは罰の対象にならないのだ。トリスタンも王の純愛の対象だから王が自分で罰する気にはなれない。

それらみんながそれぞれの「立場」からの「恥」や「名誉」や「愛」や「義務」に翻弄されているわけで、このオペラには、ワーグナーのゲルマン性や多神教世界とは全く別で、「神」という言葉がまったく出てこない。その徹底ぶりはすごい。

なんとなく共有されている、「王の婚約者を王のもとに連れて行く途中、愛の妙薬を飲んでしまったせいで道ならぬ恋に落ちる」なんていう話ではまったくない。すごく過激で錯綜している。

その情念をマルケ王とトリスタンが思い入れたっぷりに表現するので、イゾルデの立場って何 ? って思ってしまうほどだ。

ワーグナーのトリスタンって、もともとこういうストーリーだったのだろうか。

調べてみると、2004年のロスアンゼルスでの初演の後、2005年にはじめてパリのオペラ座でこの演出で上演された時の本Tristan et Isolde à l'aube du XXIesiècle: trois visions pour une œuvre をネットで読むことができた。そこには、トリスタン物語のもとになった中世の文献を見ても、マルケ王とトリスタンが口にキスをしていたり、マルケ王の横でトリスタンがハープを弾いていたり(ダビデとサウル)の図があるので間違いないのだそうだ。うーん、それなら、あのビデオの生々しい男女の全裸とか、ますます的外れなのでは ?

いやもういろいろな思いが重なって、歌や音楽を批評する気は失せる。

ただ、昔と違って、ヴィオラを弾くようになって四半世紀近く経ち、オーケストラっぽいものにも参加しているせいか、弦楽のバランスがよく聞き分けられる。ヴィオラが効果的に使われているところなどは特に。

そして、こんな長い曲、指揮者も歌手もオーケストラもさぞや大変だろうなあと思う。

(続く)

バスティーユのメトロから地上へ上がると広場が見えてくる。

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後ろを振り返るとグラフィティでいっぱい。

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オペラ座の中からバスティーユの広場を見る。

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二キ・ド・サンファルの回る彫刻。

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劇場の中。

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オーケストラピット。椅子はクッションがあって背もたれも調節可能で間隔もある。

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朱が入った楽譜。大変そうだ。

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カーテンコール。

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by mariastella | 2018-09-26 00:05 | 音楽

ショパン、ルービンシュタイン、ポーランド人の調律師

昨秋は、日本公演の準備もあったので、ピアノの調律をしてもらう時期を逸した。

そのせいで、古いピアノはいろいろ不調が出てきて、生徒たちにも申しわけなかったと思っている。

で、今年は、調律だけでなく、不具合なところを細かく調整してもらった。

しかも、10年ぶりに、昔やってもらっていたポーランド人調律師Sさんに来てもらった。まだリタイアしていず、昨年うちの近くに来たからと言って寄ってくれたのだ。

彼にはじめて頼んだのは26年くらい前。

2台目のアップライト(Kawai)を買った翌年で、ショパンを弾いていたら、その曲で決定的なファのシャープのキイがうまく上がらなくなったのだ。

それ以前に来ていた調律師は引っ越していて、その時は、ともかく、早くショパンのその曲をちゃんと弾きたかったので、「職業別電話帳」を繰った。すると一人、ポーランド風の名の人がいたので、即連絡したのだ。訛りがあった。

でも、ポーランド風だと思ったものの実は「どんな外国人」が来るのかは分からない。

「知らない人」を家に入れるのだからいざとなると少し心配になった。

ドアを開けると、ヨハネ=パウロ二世に少し似たスラブ風のおじさんでほっとした。

彼はアルトゥール・ルービンシュタインがパリにコンサートに来ると必ず呼ばれたのだと言った。

私がその時弾いていたのは、実は、中学生の時に日本でルービンシュタインのリサイタルに行った時に、アンコールで弾いたワルツ7番(嬰ハ短調Op.64-2)だった。

最初の4小節で別の宇宙が現れて、ショパンやルービンシュタインのポーランドへの思いが全部分かった。当時ルービンシュタインはすでに70代後半でテクニックは低下していルービンシュタインとも言われていたけれど、その小曲に凝縮して濃密に立ち上がる「ポーランド性」は圧倒的だった。

しかも、プログラムの他の曲はともかく、そのワルツは、当時の私のテクニックで十分弾けるものだった。

でも、いったい、どうしたらこんな風に弾けるのだろう。

最初の4小節で「全て」が込められ、顕われるなんて。

他のどんなピアニストにも不可能な魔法だった。

その日以来、そのワルツでその時の演奏の秘密を知ることが私の課題になっていた。

そして、ようやく、それが分かった。ショパンの思いが分かった。

その頃に来てもらったのがSさんだったのだ。

調律を終えたピアノでそのワルツを弾くと、彼の顔が輝いたのを覚えている。

で、ルービンシュタインに信頼されていたポーランド人Sさん。

不思議な縁だった。それから彼に、古いアップライトの鍵盤などを新しくしてもらい、私のアソシエーションのアパルトマンのために、彼がアトリエで全面的に手を入れたリッペンのアップライトピアノも用意してもらった。

その後で、そのピアノをうちに引き取り、さらに知り合いを通じて古い小型のグランドピアノが来て、そのピアノをずっと調律していたという調律師に来てもらうようになった。それから近所でサロンコンサートをよく開いていた友人夫妻の調律師が、彼らのピアノを調律する時にうちにも寄るようになった。

で、Sさんとはいつの間にか連絡しなくなっていた。

今回、久々に、アップライト3台とグランドピアノ1台を全部調律してもらったのだ。

 

前の記事で書いたように、第一次大戦から第二次大戦の間のドキュメンタリーの中でポーランド人がどう生きていたかの一端を見たばかりだ。

知識として知ってはいたけれど、ロシア、ドイツなどにさんざん翻弄されてきたポーランド。

ショパンもロシア軍に攻められたワルシャワに二度と戻らず、故郷を思いつつパリで死んだ。

ルービンシュタインも、ポーランドとヨーロッパの激動の時に生きた。

1936年、ソ連は国内のすべてのポーランド人を処刑せよと言った。

ヒットラーはポーランド侵攻によって第二次大戦の幕を切って落とした。

そして独ソ不可侵条約を結んでいたはずのソ連がいつのまにか戦勝国になり、ポーランドを奪い返す形となった。

今思うと、Sさんも、冷戦下の共産圏ポーランドを捨ててフランスにやって来たのだ。

いろいろな思い、別れ、出会いがあったのだろう。

ショパンとルービンシュタインとSさん。

これはリッペンのアップライトを開けたところ。

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これは下の部分。
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メカニズムは、いつも美しい。




by mariastella | 2018-09-24 00:05 | 音楽

ヴァイオリンの響き

ここ20年以上はバロック・バレエとバロック舞曲三昧の生活だけれど、子供時代にクラシックバレエのクラスで踊りと共に心身にしみ込んだクラシック・バレエ曲は、いつ耳にしても、「識っている」という記憶の「型」にすっぽりはまって懐かしい。


私はヴィオラ弾きで、ヴィオラの音域はほぼ私の歌える音域と重なるので、歌っている気分になるのが好きだ。

チェロは男声の音域に重なるだろう。

で、ヴァイオリンは天使の音域、これを清らかにかつしっとり響かせるのは至難の業だ。


それでも、時々聴きたくなるのが、グラズノフの『ライモンダ』のグランド・アダージョだ。


1898年マリンスキー劇場の初演でばりばりのロマン派音楽なのに、このレオニード・コーガンの演奏だけは別世界に誘ってくれる。音と、空気と、バレエの振付が同時に喚起される。

(ここには3曲入っているがそのうちの最初のもので4:07くらいまで。)


ヴァイオリン曲は鳥の求愛の歌の模倣とされて、教会の中で弾くのがタブーだった時期もあるが、確かにこれを聴くと、天使の音なのか悪魔の音なのか分からない。


by mariastella | 2018-09-17 00:05 | 音楽

アドルノとプラトンとクラシック音楽の憂鬱

アドルノの本を読んだのは初めてではないけれど、今読んでいる『音楽のフェティッシュ性』は、なんだか、言われていることがいちいち身に染みる。プラトンやカプチン会の音楽観についても考えさせられることが多い。

プラトンの『国家』のⅢ, 398-399の前後をつくづく読み返してしまった。

ここで引用しようとして日本語のネットで検索したら、『国家』の全文をネットで読めるサイトや論文が私には見つからなかった。フランス語ではネットで注付きの全文がいくらでも読めるのに…。

プラトンにおける「体育」の問題はこの前に書いたスポーツ社会学とも呼応する。

プラトンってここだけ読むとセクシストのタカ派だなあ。(「軟弱で卑怯な男」と「普通の女」が等しいとか言っているし)

で、アドルノのプラトン論については別に書くことにして、今回最初から身につまされたのは、「クラシック音楽」という名前が「野蛮だ」とアドルノが言っている部分だ。

アドルノは、人々がある音楽のことを「好きだ」というのは、「あ、これ、知っている」ということに等しい、という。

人は「知らない」ものについては「好き」になれない。宣伝やら評判やら実績やら曲の切り売りによって「すでに見聞きしている」音楽を人は「好き」になる。

で、そういう「消費財」として生産される時代以前の音楽を、「商品」として「産業」として流通させるためにできたのが、「クラシック音楽」というブランドだった。

「消費財としてつくられた音楽以外のもの」が「クラシック音楽」というレッテルの陳列棚に置かれたわけだという。

本当は、バッハやモーツアルトの音楽は、何百年も前の音楽ではない。今、あなたが、誰かが、あなたの目の前で演奏した時に顕現する「いつも生もの」の音楽だ。

それなのに、人々は、バッハやモーツアルトの評判や、演奏者の評判や、聴きなれた曲名や曲の断片があるから、それを頼りに、演奏会に行ったり録音を購買したりして、「クラシック音楽ファン」になる。

私たちでさえ、もし私たちが、たとえば

「トリオ・ニテティスがシャルル=ルイ・ミオンの『優美な四季』の曲を弾きます」

といったら、「それ、何?」であり、誰も耳を傾けてくれないのは明白だ。

「正五度にカスタマイズしたクラシックギターのトリオが、18世紀フランスのバロック・オペラバレエからサラバンドを演奏します」

と言えばやっと、関心を持ってくれる人もわずかながら現れる。

人々がすでに「知っている」カテゴリーに落とし込むことで、唯一「売れる」可能性が生ずるのだ。

「消費財」として「商品」として作られず流通しなかった音楽は、今も古びることのない「生もの」であるにもかかわらず、「クラシック音楽」だの「バロック音楽」だのというレッテルをいただいてはじめて消費者の目につくかもしれない棚に置いてもらえる。それもどんどん「品薄」になって、「知名度」の高いスター歌手やグループや演奏者の名の付く「棚」とは比べ物にならない。

私たちがミオンの音楽に魅せられたのは、まず、わずかにヴァイオリン曲に残っていた「楽譜」との出会いだった。

その後、オペラ座図書館で発掘した楽譜を弾き起こした時の感激は忘れられない。

私たちが能楽奏者と共演できたのは、そういう「消費財」の「流通」とは別世界にあって、古典芸能、伝統芸能というレッテルをもらうことで存続しているものと通底している本質的な何かがあるからなのだろう、とあらためて思う。


(この記事を書いたすぐ後で、ネットの日本雑誌を見ていたら、フランス映画の『メロディー』が『オーケストラ・クラス』というタイトル(なんだか、「みんなで一致してがんばる」という雰囲気が強調されたタイトルだなあ)で8/18 から公開とあった。それに合わせて、前にコメントしている記事のタイトルも変えておいた。今読み返してみると、この映画で、教師が実際に曲を弾いてみると子供も大人も例外なく感動するという部分が、まさに、音楽が「生もの」であり、クラシック音楽というカテゴリー分けが恣意的だと分かるいい例だと思う。)


by mariastella | 2018-08-23 00:05 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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