L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:音楽( 91 )

シャルル・グノー『血まみれの修道女』(La Nonne sanglante)

6/10、オペラ・コミックにグノーの『血まみれの修道女』(1854)を観に行った。

普段なら、19世紀ロマン派オペラはスルーしているのだけれど、前の週にパリでポスターを見てそのインパクトに打たれて、ついチケットを買ってしまったのだ。

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このポスターはオペラ/コミックの外の壁のもの。

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中にもこうして貼られていて、左にある、今シーズン全体のプログラムそのもののポスターも同じテイストで怖い。

この話はルイスの『マンク』のエピソードをもとにしたゴシック・ロマンというかゴシック・ホラーで、ホフマンらも同時代。私は高校時代、ドイツの小ロマン派の小説が好きで大学ではドイツ語クラスを選択していた。

で、行ってよかった。

エンターテインメントとして最高だった。

もちろんバロック・オペラ愛好家にとっては、「別世界」だ。

挿入されるダンス曲が「ワルツ」なのが、完全な断絶だけれど、それでも、たった11回で打ち切られたという初上演の時は踊られていたと思う。今回は、唯一黒人のソロダンサーがダンス的な動きを見せるシーンの他は、すべてスローモーションのパントマイムみたいな演出だ。フランスのオペラ・バレエの伝統が好きな私としては残念だ。振付が自然に頭に浮かんでしまう。

けれども、そういうバロック頭の先入観なしに見れば、すばらしい演出だった。

ミニマリストでビデオなども駆使しているけれど、コーラスやダンサーの「群衆」像をすべて「絵」にしているのは見事だ。何よりも、歌手たちが役者として優れていて感動ものだった。

ばりばりのベル・カントにも圧倒される。

ホラーの効果も成功しているし、父と息子の確執(この話には「母」が見事に不在で、「父」の権威、「宗教者」の権威、「神」の権威が、女性だけでなく「息子」も完全に支配している)というテーマと意外に相性がいい。

父が20年前に過去の許嫁を殺したと言っているのだから、次男である主人公のテノール、ロドルフはどう計算しても18歳くらいのはずで、父と兄が死に、家長となる一種のイニシエーション・ストーリーだ。(父に殺された女性が血まみれの幽霊となって現れるわけだ。)

中世ボヘミアで互いに戦い殺し合う二人の領主を諫め、平和をもたらすために隠者ピエールという宗教者が、和解のために両家の婚姻を勧める。アニエスという娘は敵の家族の長兄と無理やり婚約させられる。

けれども弟のロドルフは、愛し合うアニエスを兄に奪われても兄と戦おうとはしない。

兄が死んだ後でもアニエスと結ばれるために「血まみれの修道女」の呪いを解くために父を殺すことも拒否してすべてを捨てて去ろうとする。

愛よりも、儒教風の「家族の長幼の義」を守る若者だというのがおもしろい。

それでも、物語はどろどろと展開していくので、音楽を抜きにしたら歌舞伎で「四谷怪談」と「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)・寺子屋」を一度に見たような強烈で「濃い」印象になる。

「血まみれの修道女」のメイクも歌舞伎風にすごいし、手も血まみれというより黒塗りされているのも怖いし、何よりも、メゾソプラノのマリオン・ルベーグがそれこそ歌舞伎の「寄り目」のように「白目」をむいているのが鬼気迫る。

「血まみれの修道女」のライトモチーフの半音階や打楽器の使い方、チェロ、トロンボーン、ハープなども効果的だ。音楽の豊かな色彩感はさすがにフランス音楽だと思う。

舞台がすべてモノクロで、村の婚約者カップルのブルーの服を除いて全員が黒い服、「血まみれの修道女」だけが幽霊らしく白い服(最初の登場シーンでは血まみれになっている)というモノトーンの世界で、音楽の色彩感がいっそう際立つ。

グノーの生誕200年とはいえ、よくこんな作品を復活上演したものだと思う。

女性指揮者のローランス・エキルベイは、コンテキストの理解のために、文学史も学び、ロドルフの心理を理解するためにラカン派の精神分析医のアドバイスまで受けたという

徹底ぶりだ。

アメリカのテノール歌手マイケル・スパイアーズはとにかく出ずっぱりの一人芝居で、歌手冥利、役者冥利に尽きるような力技だが、この人はオテロとかファウストとかドラマティックなものをよく演じている。どちらかというとずんぐりしていて舞台映えするような人ではないのだけれど、演技力あり過ぎ。

ゴシック・ホラーが説得力ある人間ドラマになっている。


グノーはアヴェ・マリアで有名な敬虔なカトリックだったが、この上演当時には、「復讐の悪魔に憑りつかれているいる修道女」などという描き方は不道徳だとか、幽霊は音楽だけで表現すべきで、歌わせる必要はなかったとか、いろいろな批判があった。テオフィル・ゴーチエや、ベルリオーズ(作曲しかけてやめた)からは称賛されている。

修道女役はやはり目を見開いてすごい形相だったようで、死体の動きのために解剖学を研究したのではないか、とまで言われていたようだ。


日本の幽霊は「あちらの世界」の動き方で、「屍」の動き、とは別だと思うが、夜の12時という「境界領域」に現れるこの修道女はやはりまだ「生と死」の境界にいるのだろう。

カーテンコールで、オーケストラの全員が舞台に上がってきたのも珍しい。

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チームの力が絶妙のバランスで感じられるのも快かった。



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by mariastella | 2018-06-17 00:05 | 音楽

ウタツグミ  (閑話休題)

子供の時から鳥を飼っていた。

ジュウシマツのつがいがひなを育てるのを見るのも好きだったし、手乗り文鳥も何羽も育てた。

手乗り文鳥がいる頃に読んでいた本はページの多くがくちばしの形に三角にちぎれていた。

猫を飼うようになってから、鳥とは縁がなくなった。
それでも時々、鳥を近くで観たくなるし、鳥の声を聞きたくなる。幸いうちの猫たちは完全室内外なので、庭には出さないから、庭が鳥たちのパラダイスになっている。

その中で、何度か、ウタツグミの声を聞いた、と確信したことがある。
姿は見ていないので、定かではないけれど。

「ウタツグミ」という名前はこのブログを書くために日本語をネットで検索して見つけた。「歌」という名前がついていてほっとした。
日本では珍鳥中の珍鳥の野鳥だとあった。1860年にヨーロッパから来た、英語ではソング・スラッシュだという。

この鳥は、学名そのものが Turdus philomelos という。philoはフィロソフィーのフィロで愛すること、つまりメロディを愛するツグミ。

フランス語名はGrieve Musicienne (ミュージシャン・ツグミ)。

このネーミングがすごく好きだ。

1km先からも聞えるという鋭い鳴き声、しかも、早朝一番に高いモミの木のてっぺんで歌ったりすることが多い。


鳴き方に即興性があって、独特のモティーフを数回繰り返し、終わりのストロフもちゃんと区別できる。最後に他の鳥の鳴き方を真似て終わることもあるという。

鳴き方を解説したビデオもある。



鳥の鳴き声の音楽と言えば、メシアンを思い浮かべる。

『鳥の小スケッチ』と呼ばれる小品集の題四番がこのウタツグミだ。

Messiaen - Petites esquisses d'oiseaux: IV. La grive musicienne


ちなみにこのメシアンの曲六つのうち半分がヨーロッパコマドリで、他にクロウタドリ、ノヒバリがある。

野ヒバリは、今急激に減っていて絶滅を危惧されているが、50m-100mの空を水平飛行し、フランスの初春を告げる鳥だ。

メシアンがウタツグミの鳴き方を音楽的に分析した文は驚くべきものだ。
作曲家がインスパイアされたのも不思議ではない。
バロック時代は逆に、作曲家たちが自分の曲をカナリアに覚えさせて歌わせていたこともある。
鳥の歌と人間の音楽は互いに通じ合い、インスパイアし合えるということだ。

フランスのサイトでは、あるウタツグミの楽節の一続きの連鎖をこういうオノマトペで表したものがあった。

Pii-èh pii-èh pii-èh
Kvièt kvièt
Pii-èh pii-èh pii-èh
Trruy trruy trruy
codidio codidio

確かにヴァリエーション豊かだ。

その他に、《Tu dis oui》と表すのがある。
チュディウィ、と聞えるのだろうけれど、
「君がウィという。」(いいって言ってくれる、いいんだね、いいって言ってちょうだい)のような様々なニュアンスで、「チュディウィ」と繰り返すように聞こえるわけだ。

日本の鳥で「ブッポウソウ(仏法僧)」という鳴き声の名を持つ鳥がいるが、実際は間違いで、ブッ・ポウ・ソウと鳴くのはコノハズクだという。
ネットで聴いたがいまひとつ心を動かされない。
「日本三鳴鳥」というのがあって、

ウグイスの「ホーホケキョ」、オオルリの「ピリーリー」、コマドリの「ヒンカララ」だという。うーん、鳥は「歌い手」「音楽家」として認識されているというより、いわゆる「花鳥風月」の一要素という愛でられ方のような気がする。

「カッコ―」などの鳴き声も、ヨーロッパ音楽ではダカンなどすばらしい曲のモティーフになっているけれど、そしてドイツ民謡やカッコウ・ワルツなど、日本でも知られているし日本の童謡としても知られているけれど、あれほどはっきりした下降三度で真似られる鳴き声なのに日本では曲にならなかったのだろうか。

鳥の歌を取り入れることはフランス・バロック音楽の感性と近い。
それを考えると、日本の古謡や伝統音楽にもっと鳥の歌のモティーフがあってもいいと思うのだけれど、検索したら「笛・鼓・鳴子などで囃し物をして鳥を追い払う『鳥追舟』」が出てきて、鳥が追い払われていた…。

能管などは鳥の歌にぴったりだけど、即興以外に実際の鳥の歌にインスパイアされてモティーフかされたものは存在するのだろうか。

私が知らないだけかもしれないのでもう少し調べたり考えたりしよう。

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by mariastella | 2018-05-29 00:15 | 音楽

年度末のコンサートとロシア

フランスは6月末のいわゆる学年末が、文化行事の年度末だ。
7、8月は、アーティストもバカンスに出かけてバカンス先のフェスティヴァルに出演したりする。

その「年度末」の三度のコンサートの第一弾が5/25だった。

Torelli のアレグロ、アダージオ、プレストのカルテットを弾いているところ。
(写真はリハーサル)

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その他は、弦楽オーケストラでブランデンブルグの三番の全楽章、
ヴィヴァルディ、ヘンデル、シューベルトなどを弾く。

ヴィオラのトリオでヴィヴァルディの2台のマンドリンのためのコンチェルトをやっていたが、それはひどかった。
私は昔何度もこの曲を2台のギターのヴァージョンで弾いたことがあるけれど、魅力的な曲だ。それなのに、ヴィオラでまったり弾くと曲の魅力が全部隠れる。

こういうアレンジを弾く前に、オリジナルのヴァージョンをまったく研究しないのだろうか。
そういえば、バッハのブランデンブルグをギターのアンサンブルが弾いているのをネットで視聴したことがあるけれど、それは逆に、擦弦楽器のボーイングの魅力がすべて消えた間の抜けたものだった。

その曲の魅力を最大限に引き出すのに適した楽器というのはある。

6/8はラモー、モンドンヴィル、デュフリーなどをトリオ・ニテティスで弾くと同時にヴィオラではホフマイスターの曲、そして生徒たちとのピアノの連弾6曲、

6/13は、またブランデンブルグと、コーラスの伴奏。モーツアルトの宗教曲。

音楽とバレエのレッスンがなかったら私の生活はほぼ引きこもりだから、音楽による「分かち合い」の時間はとても貴重で幸せな時だ。

年度末最後のコンサートが終わったら次の書きおろしに集中できる。

6月はサッカーのワールドカップで盛り上がる時期だけれど、開催国はロシアで、政治的緊張の高まっている国でもある。

5/24、マクロンがロシアでプーチンと声明を出した。1時間の予定の会談が2時間半にのびて声明も遅れた。

ロシアとは、イラン、ウクライナ、シリアという三大問題があるから、話し合いは簡単ではない。それでもマクロンはトランプ大統領よりは「大人」な建設的なトーンでおさめることに一応は成功していた。

すぐそのあとの日本の首相のプーチンとの会談はどうなったのだろう。

首脳会談なのにウニの養殖とかイチゴの温室栽培とか秋田県の贈呈が話題になるのだと揶揄していた人がいたが、本当にそうならあまり意味がない。

これを書いている時点では米朝会談の行方も分からなくなってきたし、気になることはたくさんある。



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by mariastella | 2018-05-28 00:05 | 音楽

ルノー・カピュソンのヴァイオリン

日記 その12

2/25

TVで偶然、ルノー・カピュソンの演奏生中継を視聴した。
することがあったので途中で消そうと思ったのだけれどグァルネリの音色のあまりのすばらしさに、ライブでもないのについ聴き惚れて最後まで聴いてしまった。
その前に少しインタビューに答えていたのを聞いていたら、すごくいい人柄だということも伝わってきた。
先日パリ近郊であったチェロ強盗の話題も出た。

女性チェリストが自宅の近くでナイフを持った強盗に襲われて、携帯電話と130万ユーロ(1億7千万円くらい)相当のチェロを奪われたのだ。
FacebookにSOSを発し、眠れない2日間を過ごした後で、電話がかかってきて、家の前の車にチェロがあるという。窓が壊された停車中の車があり、その中に無事にチェロが見つかった。
そのレベルの楽器なら転売するのは普通の泥棒の手に余る。

ルノー・カピュソンの弟もチェリストだから他人事とは思えなかっただろう。

カピュソンのグァルネリはアイザック・スターンが使っていたものだという。
昔、スターンのリサイタルに行ったことがある。
ひょっとして、頭のどこかにその時の音の記憶があったのかもしれないなあ。

ネットで検索したら出てきた動画を貼り付けておく。






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by mariastella | 2018-03-02 00:05 | 音楽

ラモーのモテットとアンドレ・カンプラのレクイエム(死者のミサ)を聴く

28日、パリのフィルハーモニーにラモーのモテットとシャルパンティエの典礼組曲、カンプラのレクイエムを聴きに行った。

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ラモーのモテットは一つ一つが珠玉だ。宗教曲という名目だけれど、要するに、組曲みたいなものだ。対位法満載で、自由で、難解で複雑なのに、それを完全には出し切っていないで、少し間を置く余裕の名人芸。
30歳くらいでの作だが、宗教曲でいくらでもオペラの予行演習ができていたわけだ。
オペラの方が少し、ポピュリズムというか、観客に受けることも意識していたのでサービス精神が少しあるけれど、モテットにはない。

「神」がクリエイトする時にはサービス精神は要らないのだ。

その代わり、演奏者もクリエイトに参加して聖霊を活性化させないといけない。
でも、普通のオーケストラは、ラモーの複雑な対位法とかを昇華するだけで終わってしまう。だから、例えば、モンドンヴィルのモテットは好きだけれどラモーのは苦手という人はいくらでもいる。モンドンヴィルのモテットは、確かに、サービス精神がある。親しみやすい。弾くのも楽しい。

バスのソロ歌手はまだ若いのか、声に丸みがなかったけれど女性歌手はよかったし、コーラスのバランスはすばらしかった。
ソプラノのコーラスの1人に、昔からよく知っているセシルが入っていた。
彼女のお父さんも歌手で、おかあさんはコンセルヴァトワールのソルフェージュの先生で、私と一緒にリトミックのクラスをやっていたし、セシルも小さい頃から知っている。
バレエもピアノもコーラスも彼女の舞台を見たことがある。今30代後半だと思うが、6歳の娘がいるそうで、公演の旅が多くて娘となかなか会えないと嘆いていると聞いている。でも、楽しそうに歌っていた。

シャルパンティエの曲は、コーラスなしで、最初の序曲はラモーの後なのでちょっと平板に聞えたけれど、最後の「アーメン」という曲は、構成もリズムも完全に舞曲のアルマンドだ。バロックの宗教曲が、オペラやダンス曲を意識して駆使して取り入れたものの典型かもしれないる。

これなら待降節や四旬節の時にオペラ上演が禁止で宗教曲ばかりが上演された時も違和感なく楽しめたのがよく分かる。


カンプラはパリのノートルダム大聖堂の音楽監督だったくらいだから宗教曲も多いが、オペラ曲も多く、私もいろいろ踊ったことがある。

このレクイエムは傑作だ。冒頭からもう、オペラの魔法の世界にようこそ、みたいな感じだし、フォーレのレクイエムと同じように安らかだ(「神の怒り」などが入っていないので子守歌みたいだと評されたこともある)。

「コミュニオン(聖体拝領)」の音楽の低音弦楽器の扱い方なんてとてもユニークだ。

指揮者もラモーを指揮する時よりリラックスした感じだった。

オーケストレーションにヴィオラの数が多いこと、フルート2本を指揮者の前に、オーボエはずっと離れた向かって左端の上に、ファゴットは右にと離れていることもめずらしい。オルガンとチェンバロは直角におかれて、同じ奏者がチェンバロを弾くときもオルガンの譜面台に譜面をおいて体をひねって弾いていた。

歌はどれも素晴らしい。カンプラはたしか歌えた人だったと思う。

フィルハーモニーにも雪が残り、次の終末が中国の新年だというので、外壁一面に祭りの映像が映されていて綺麗だった。

この前フィルハーモニーに聴きに行った時はテレマンだったけれど、テレマンって、プロテスタントだったわりにとてもフランスバロック的感性だなあ、と思う。ブロッケス受難曲は説得力ある宗教ドラマだったけれど、あそこまで職人技を駆使できるのは意外と無神論者じゃなかったのかなあ、ラモーも神を信じていなかったんじゃないか、ラモーは神みたいなクリエイトをしてるしなあ、などと思う。


宗教曲でも、ひたすら神に向かうタイプのアーティストと神の使いみたいなアーティストの二種類がいる。

神に向かう人の音楽は構築性があって堅固だ。

いっしょに神に向かわされる。

一方、ラモーの音楽のように超複雑な対位法をホイホイと気ままに繰り出すので全体像がつかめないまま取り込まれてその中でくらくらしてしまうものがある。

弾くときはその創造の秘密を分け合うまで入り込まないといけない。

そこまで弾きこまれていない時は、聴く方も、創造の神秘の外側に置かれて寄せつけられないような印象をもつかもしれない。

で、バッハはユニヴァーサルだけれどラモーは一部の愛好家のものなどと言われたりするのだ。

神を求めることだけが人間の普遍というわけではないのに。

ラモー、シャルパンティエ、カンプラを聴いて外に出たら、星空だった。


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by mariastella | 2018-02-11 09:31 | 音楽

セッション・モーツァルト、天使の音楽

Arteで、セッション・モーツァルトという番組を視聴。
ベルリンの小さなホールで、オーケストラも聴衆もソリストもみな同じ高さで、リラックスしてグラスを傾けながらモーツアァルトへの愛を語る。ソプラノとクラリネット奏者とピアニストが、それぞれのモーツァルト観を披露しながら、じゃあこれは?これは?と次々に弾いていくというのが楽しくて、まるで私のトリオが練習で集まっている時にラモーの話をしているような感じだ。

最後はフィガロの結婚のシュザンヌと伯爵夫人のデュオの伯爵夫人の部分をピアノとクラリネットが弾く。語りとしてのクラリネットというのは、とてもフランスバロックに近いし、モーツァルトが絶対にセンチメンタルでないところを愛でるのもバロック的だ。

で、途中(27:50)で、アイザイア・バーリンの言葉が引かれているのがおもしろかった。

バーリンはロシア出身のユダヤ人でオクスフォード教授となった哲学者だが、

「奏楽の天使たちが神の前で演奏する時はバッハを弾くが、自分たちだけで内輪で演奏する時はモーツアルトを弾く」

と言った、というのだ。

この言葉には実は続きがあって、

「奏楽の天使たちが神の前で演奏する時はバッハを弾くが、自分たちだけで内輪で演奏する時はモーツアルトを弾き、神はドアの外でそれを聴いている」

というのだ。

私たちトリオのイメージでは、神が天使たちを指揮するならラモーだなあ、と思う。
クリエーションって、ほら、こんなに自由で楽しいよ、って。

ともかく、この番組のこんな感じのコンサートってすごく贅沢で楽しそうだ。
自分たちの演奏を言語化できる人たちって素晴らしい。
彼らはモーツァルトと、ピアノ、クラリネット、ソプラノとの出会いを語るが、彼はヴィオラも弾いたはず。ヴィオラとヴァイオリンの協奏交響曲が好きな私としては、今度はヴィオラ奏者とヴァイオリニストが語り合いながらのヴァージョンも聴いてみたい。


(2/13まで視聴できるので貼り付けておきます。)



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by mariastella | 2018-01-18 03:18 | 音楽

フランス・ギャルとシャルル・アズナブール

フランス・ギャルが亡くなった1/7の夜のニュースの特別ゲストは、全国ツアーコンサートを控えた93歳のシャルル・アズナブールだった。二人はなんと一度だけデュエットで歌っている。フランス・ギャルの父のロベール・ギャルが作詞したマンマというのに曲をつけてくれる人が誰もいなかったところにアズナブールが引き受けて曲をつけてくれたのだ。


ユーロヴィジョンでグランプリ曲になり彼女を日本でも有名にした『夢見るシャンソン人形』は、ゲーンズブールが作曲していたのだということに今さら気づいた。そういえばゲーンズブールっぽい。フランス人には珍しく童顔で声も甘く、でも、エネルギッシュでリズム感がとびぬけてよかった。ジョニーは「神」と形容されていたが、彼女のキャッチ・フレーズは「フランス人の妹」だ。

フランス・ギャルは、おしどり夫婦だったミッシェル・ベルジェ(『夢見るシャンソン人形』を憎悪していたらしい : 付記あり )が1992年に44歳で急死し、ストレスからか自分も乳がんを患い、その後97年に娘に先立たれて、がんも再発、活動を減らしていた。でも2015年に夫の曲をアレンジしたミュージカルを発表して話題になったのを覚えている。生き生きしていた。セネガルやマリの子供たちの教育の支援に熱心で、アフリカに別荘も持っていたという。享年70歳で、がんの再発で年末から入院していたそうだ。


それに引き換え、アズナブールはぴしっと背筋を伸ばし、おしゃれで若々しく、今でも毎日一曲は曲を作るという。次の日にボツにすることがほとんどだが、今までに1400曲を生んだ。映画にも90本出演している。敬愛する歌手は、レオ・フェレ、シャルル・トレネ、モーリス・シュヴァリエの三人。

就寝前の二時間を読書と勉強(今は中国語の勉強)に当てているという。アルメニア移民の子であり多文化に通じていることの豊かさを強調する。

ピアフのもとからデビューした頃から、「背が低くて醜男で悪声で、将来はなかろう」と揶揄され続けてきたそうだ。しかも歌詞がみんな暗くて陰気だとも言われ続けてきた。

でも、93歳で現役。日本や中国でのコンサートも予定されている。

高齢での活躍の秘訣は、と聞かれて、「とにかく働くこと、学ぶこと」と答えていた。

子供、孫、ひ孫らに囲まれた大家長として君臨する昔一度TVで見たことがある。

家族みんなに尊敬されていた。

健康もやる気も含めて一種の天才なんだなあ、と思う。


付記) フランス・ギャルの夫がなぜこの曲を憎悪していたかというと、歌詞の持つ二重の意味のせいだそうだ。

原曲は、「シャンソン人形」というのではなく「蝋と糠でできた人形」、つまり、頭が蝋で、体の部分がおが屑などで詰め物をした布製という18世紀テイストの、でもこの文脈では安物の人形という感じだ。

フランスの女性歌手が、ロリータ扱いをされたのは、72年生まれのヴァネッサ・パラディのように実際14歳で舌足らずの声でデビューしてヒットした人の例もあるが、バネッサは「人形」ではなく、ジーンズで舞台に立っていたし、どちらかというとアンドロギュノス、中性的なイメージだった。

一方、フランス・ギャルがこれを歌ってヒットした時は1965年で、フランスの「建前」を壊した1968年五月革命の前である。

自分で抗議の声を上げられない時代、それを意識化できない時代に、イタリア語や日本語でまで歌わされた。歌唱力も表現力もある歌手なのに、「ブロンドの人形」としてまさにアイドル(偶像)として玩味されたのだ。

日本人にとっては、シャンソンというとエディット・ピアフなどの「大人の歌」を連想している時代だったから、「手の届くかわいい子」のシャンソン歌手がフランスから来て日本語で歌ってくれるなんて珍しくて楽しかっただろう。

日本語の歌詞もロリータ的であるがフランス語ほどの含意は見られない。

で、フランス・ギャルは、そのような立場から脱し、ミッシェル・ベルジェと出会い、自分の意思を表現する大人の女、歌手、プロデューサー、人道活動家になった。

それにくらべて日本はどうだろう。言いたくはないが、未成年の少女たちにコスプレをさせて、脚をださせ、聴きたい歌詞を歌わせて躍らせ続けている。一人一人の主張や個性は問われず、品評会のようなことをしていて、しかも、それに憧れたり、それを勧める親たちがいる。

1965年のフランス・ギャルは、今のフランスの歌謡界には存在の余地がない。

どうして日本のサブカル・シーンからロリコン風味が消えるどころか濃縮になっていくんだろう。


私は『夢見るシャンソン人形』が好きだった。

それは、当時弾いていたベートーヴェンのピアノ・ソナタの第一番の第四楽章のプレスティシモのテーマの一つと重なったからだ。シャンソンの出だしの部分がはっきり聞こえる。

で、今回、あらためて、この曲についてネットで調べてみたら、その相似についてちゃんと書いてあったので驚いた。ゲーンズブールはよくクラシックの曲からインスピレーションを得ていたらしい。

なつかしくなって、すぐに久しぶりにベートーヴェンのソナタアルバムを出してきてピアノに向かった。確かに何度も出てくるし、ラストにも繰り返される。

(今はネットでも聴けるとおもうので興味のある方は確認してください。)



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by mariastella | 2018-01-09 00:05 | 音楽

フランス・バロック弾きが現代曲と出会ったこと

ニテティスのブログに、山陽小野田での写真を少し入れました。田村洋さんが魚眼レンズで撮ってくださったものです。


来年はフランスで田村さん、師井さんといっしょにコラボできるようにまた企画するつもりです。
思えば、私たちが現代曲を世界初演で演奏するなんて不思議なご縁でした。

田村さんのオリエンタルダンスのイメージは暗闇から戦士が現れるようなものもあり、バリ島のダンスやら日本の暗黒舞踏などと通ずるものがあるようです。

瞑想的な植物的なイメージで弾いていた私たちは、田村さんの意図をうかがって焦りましたが、踊る体をリズムが大切であること、は、バロック舞曲と同じなので、少しは田村さんの表現に近づいたかと思います。

三年前は子供のためのコンサートだけしか聴いてもらえませんでしたが、今回のラモーをすばらしいと言っていただいて安心しました。

帰仏早々またフランス・バロックにどっぷり浸かっているいる私たちですが、現代曲との出合いの経験は貴重なものだったとあらためて感謝です。




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by mariastella | 2017-11-13 01:11 | 音楽

メヌエットをどう弾くか

フランス風の舞曲からなる「組曲」について、「舞曲」とはいっても実はその形式を借りているだけで各作曲家はそこで自分の語りたいことを奏でているのだから、実際にダンサーと共演するパフォーマンスでならともかく、コンサートピースとしての舞曲は踊ることを前提にして演奏される必要はない、そうするべきだとするのは、原理主義的な意見だ、と最近言われた。


私も昔からそういうことを耳にしていた。

バッハの無伴奏チェロ組曲など、ダンス曲の名前がついているけれどダンサーのための曲でなくまったくピュアなコンサートピースだとか、フランス・バロックのオペラ・バレエの曲でも、管弦楽でやる時はバレエ曲として弾くがチェンバロのヴァージョンではバレエのステップを前提とした制約を無視して別の独立したコンサート曲として弾くようにというような話だ。アメリカで数人のチェンバロの師に学んだチェンバロ奏者もそう話していた。(その方は、フランスでレッスンをうけてまさにカルチャー・ショックだと衝撃を受けたという)


ところが、フランス・バロックと名のつく曲は、どんな曲でも、ダンスと朗誦とを前提としていないと弾けない。それは、べつに、作られた時がそうだったから、それに忠実に弾かなくてはいけないという「原理主義」ではない。それがないと魂が抜け落ちる。


確かに、1970代にバロック音楽の研究が進んだ時には、まさにバロック・バレエの振り付け譜の解読から実はどのように弾かれていたのかが解明されたという経緯がある。

ベートーヴェンやモーツァルトは、たとえ伝言ゲームみたいに変化することはあっても、一応、彼らの生前から演奏されてきたのを聴いた人たちが次々と継承していったのだけれど、フランス・バロックのほとんどは、いったん完全に途切れた。

ドイツ=イタリア系音楽に席巻されたからだ。その理由などは『バロック音楽はなぜ癒すのか』に書いたことがある。


バレエの振付譜によって、体重の移動やバランスを助けるための附点の強調や装飾音のタイミングが分かってきた。それは画期的な発見だった。


当時のバロック奏者はほとんど未知の世界への冒険家だった。


でも、それが、「古楽器を使った古楽演奏」という妙な選民意識の醸成にもつながった。

21世紀にはそういう「原理主義者」が増えたのは確かだ。


私たちのトリオは、フランス・バロックの魅力を最もよく表現できるものとしてカスタマイズしたクラシックギターを使っている。古楽原理主義とは程遠い。ラモーに聴かせてあげたいといつも思う。

で、これも先に述べた本に書いたのだが、18世紀前半から中盤にかけて最高に洗練されたフランス・バロックの舞曲というのは、別にフランスでフランス人が作曲した曲というわけではない。当時、たとえば同じ作曲家がフランス組曲とイタリア組曲と別々に作曲していたように、一つの形式なのだ。それはバロック・バレエのステップを前提とした形式にほかならない。

バッハは16歳の時、つまり18世紀に入ったか入らないかの頃に、ドイツで舞曲をフランス語で学んでいる。子供たちともいっしょによく踊った。バッハの舞曲はほぼすべて、正統的なフランス・バロック・バレーの文法とステレオタイプを備えている。

当時の多くの作曲家がそうであったように、バッハは舞曲を作曲する時は確実にフランス・バロックの様式とエスプリで臨んでいるので、「形式だけ借りている」というわけではない。

踊る体の感覚を喚起するように作られている。

実際、友人のクリスティーヌ・ベイルが無伴奏チェロ組曲の第五番に振り付けて踊っているのを見ると、それがいかに「踊る」曲だったかということがよく分かる。


もっとも、数あるこの組曲の録音を聴くと、どのダンスでも、踊ることができるような演奏はほとんどない。みな速すぎる、ビブラートをかけて音を伸ばし過ぎるなど、まったくクラシックでロマンティックで思い入れたっぷりか名人芸の披露かというものだ。

私が一番共感したのは藤原真理さんの演奏だった。彼女ほどに弾きこめば、舞曲のエッセンスが自然に体得できるのだろう。

なぜバロック音楽が長い間ロマン派音楽のように弾かれていたのかには、いくつも理由がある。はっきりいって、フランス・バロックのエスプリがフランス革命によっていったん絶滅し、その後ナポレオン戦争によるヨーロッパ各地でナショナリズムが台頭し、ドイツのロマン派音楽がヘゲモニーを確立というのが一番大きい。

フランスだけは19世紀から20世紀にかけて、ナショナリズムにはいかずにエゾテリックな方向に行った。そしてフランス人は実は傲慢なくせになぜか自虐でいるのがよりエリートっぽいと思うらしく、フランスでも最も愛され、評価されたのが、ドイツ=イタリア系ロマン派音楽だった。「大バッハの発見と再評価」も完全にロマン派の文脈で起こった。

ショパンのポロネーズでポロネーズは踊れない、とか、モーツァルトの交響曲のメヌエットではメヌエットは踊れない、というのは事実だ。

それは彼らがすでにクラシックやロマン派のエスプリの作曲家だからで、彼らの時代にはもはやフランスのバロック・バレエはほぼ消滅していた。その後ロマンティック・バレエやロシアのクラシック・バレエへと進化するが音楽と体の関係はラディカルに変化する。

18世紀末以降のコンサートピースの中の「舞曲」には、最低限の形式以外にダンサーを想定するものは何もない。

でも、バッハは、ベートーヴェンやモーツァルトよりざっと100年近く前に生まれた人で、フランスのバロック・バレエを熟知していた。バッハの舞曲は踊る体を想定して書かれている。

日本からの帰りの飛行機の中で、オーディオ・サービスのクラシックの名曲というところに「メヌエット」というのがあった。「憩いのメヌエット」とあり、最初の解説で、「メヌエットはフランスに古くから伝わる優美な踊りです」と言われた。

実際のメヌエットは「憩い」でもなく「優美」を目指してもいず、空間にどのように動線を描いていくかという「移動」の単純ステップだ。でもステップのリズムが単純ではなく少しずつ体を揺さぶるようにできている。それを誘い出すように作られているし演奏しなければいけない。そうするとほんとうに気持ちがいい。

で、機内オーディオのメヌエットのセレクションが、ボッケリーニとバッハが二つと、モーツアルトの交響曲。フランスのものが一つもないのも象徴的だが、最後のモーツァルトがばりばりのドイツ・ロマン派風のカラヤンの指揮のものだというのにも驚いた。

踊れるメヌエットはもちろんひとつもなく、「憩い」となる「優美」なもので、まさに「解説」通りだった。

私はもう20年以上も音楽とバレエでフランス・バロック世界にいるのでもちろん「古楽器至上主義派」との対立や試行錯誤もあれば、常に新しい研究と発見の連続の中にいて、バロック音楽の世界も変化したなあ、と感慨を覚えるのだけれど、「『憩い』と『優美』なメヌエット」と言われていまだにカラヤンの指揮のものが流されるのが「普通」なのだと思うと、驚く。

帰りの機内、トリオの仲間は耳栓をして、ノートパソコンでラモーの複数のオペラ・バレエの総譜を延々と見ながら三台のギターによって弾かれる方がより美しいものをさらに20曲くらいピックアップしていた。

私たちはいつまでこの冒険を続けるのだろう。

ほんとうは、私たちの演奏を聴く側に回りたい。

弾きながら三人とも、いつも、そう思っている。


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by mariastella | 2017-11-05 04:26 | 音楽

日光で三味線を弾く

原宿に戻ったら、ハロウインの仮装をした若者たちにすれ違い、ニュースでは日本にハロウインはすっかり定着しました、などと言っていたけれど、日光や奥日光にはハロウインのかけらもなかった。

コンサートがすべて終わって、台風も去って、みんなで鬼怒川温泉へ。

まず、日光江戸村、ワンダーランドに行った。
平日なので人が少ない。

最初に入ったのがもちろん三味線のお稽古体験。

「さくら、さくら、やよいの空に」

という部分を、弦の番号と、押さえるフレットの位置を図解したものを見ながら教えてもらう。撥の持ち方と、弾き方も。

トリオのメンバーの2人もこのメロディーは知っているので、すぐに、

「見わたすかぎり」

も続けて弾いてしまったので、「お師匠さん」は目を丸くしていた。

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by mariastella | 2017-11-01 01:59 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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