L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:アート( 105 )

サンタンヌ病院の精神病理学アート展

「精神病院」の代名詞になるほどフランスで最も有名なサンタンヌ(聖アンナ)病院。

1950年の最初の精神病理学アート展開催以来、多くの所蔵作品がある。

一番古い作品は1858年のものだという。


アートがセラピーの一環になっているのは事実だけれど、「精神病患者に絵を描かせた」というものではなく、すでに「画家であった人で精神を病んでいる人たちが描き続けた」作品群が今回の中心だ。

病理が絵になるのではなくそれぞれのアーティストの本質であるのアートが絵として表出する。絵で病を治療するのでなく絵によって病を探る、という。

自分の耳を切りおとしてアルルの精神病棟に入れられたゴッホや、晩年を精神病院で過ごしたカミーユ・クローデルはあまりにも有名だけれど、画家には、特にプリミティヴ派といわれる人たちには「幻視画」が知られていて、幻覚体験とアートには深い関係がある。

今回の展覧会は特にシュールレアリスムの流れとの関係も興味深い。

フランスではFous(狂人) とか Folie(狂気)とかいう単語が今でも普通に使われるので、「狂人たちのアート」などと言うタイトルがついているので、どきりとする。もっとも今回は、1950年代に普通にそう使われていた歴史的用語として再現したという。

つまり「狂人アートから精神病理学アートへ」というタイトルだ。

雰囲気はこういうもの。


このビデオで取り上げられているのはウニカ・チュルンUnica Zurnという作家で画家(1916-70)の作品で彼女はこのサンタンヌ病院に一年間入院していた。彼女はドイツ生まれで、夫のハンス・ベルメールと共に早くからパリに住んでシュールリアリストのグループに属していた。夫が脳卒中で半身不随になり彼女は統合失調で入院を繰り返していたけれど、最後に一時外出でアパルトマンに戻り、夫の寝室の窓から投身自殺した。今回は展示されていない。

これはサンタンヌ病院の入り口。

c0175451_03334521.jpeg
高い塀がちょっと刑務所っぽい
c0175451_03340369.jpeg
展覧会のポスターが見える。

c0175451_03342527.jpeg

中に入ってまっすぐ歩くと右手にテニスコートがあり、その横の会談を地下に降りると展覧会場だ。

c0175451_03344970.jpeg
c0175451_03351155.jpeg

「サンタンヌ病院アートと歴史ミュージアム」(MAHHSA)というのが正式名称で、入場は無料。

売店にいたのは元作家で今は絵を描く女性で、精神科病棟のアートセラピーの職員としての本採用のために勉強しているそうだ。いろいろ話をした。

右手の部屋が、「画家」が入院中に描いた作品。

入院したら例えば薬物治療のせいで絵が変わるということはないのかと質問したが、まったくないそうだ。この展覧会の目的のひとつはそのことを知らせたいからだという。つまり、精神的な病と作品とは別のものだということを言いたいわけだ。それはまあ分かる。展示されている絵の中に、「やっぱり精神異常の人が描くからこんな風になるんだなあ」というサインを探ってほしくないということだ。

「でも、狂気と聖性と神秘主義とアートって、別々のものではない同じフェーズがあるのでは?」と聞いてしまった。ここに展示されている「アート」の中から「狂気」を取り去ったら「お絵描き」しか残らないのではないか?

左手の部屋は、病気の発症と画作とが同時期であるもの。

確かに「先入観」をもって見ると、気味悪くグロテスクなものもある。

けれども、奥にあるシリーズはシャルル・シュレイという人のものでまったく別の世界だった。

彼は17歳から入院してずっと病院で過ごした。セラピーの一環で絵を描いたのではなく、ある時偶然に、医師が彼の部屋で大量のスケッチブックを発見して驚倒したのだそうだ。

彼の絵のほとんどは色鉛筆の作品なのだけれど、すべての色が何度も塗り重ねられたものだ。統合失調の診断だったらしいが、どの作品も驚くほど「完成」しているので、私は彼はむしろアスペルガー症候群ではなかったのかと聞いた。統合失調とアスペルガー(自閉症スペクトラム)が併発するいうことはあり得ないのだろうか。

アフリカにこだわっている絵がいくつかあったので、アフリカ出身なのかとも思ったけれど、普通の白人のフランス人で、17歳で入院してから一歩も外に出なかった人でもあり、彼の描く世界、建物、自然、などはすべて彼の脳内の産物らしい。

c0175451_03411757.jpeg

彼のひとつの作品を5分以上見ているのは危険だ、と本能的に思った。5分後には「あっちの世界」に確実にとりこまれている予感がする。建物の構造、角度、デザイン、空気がすべてなじみのある本物に見えてくる。

c0175451_03413574.jpeg
カタログの写真を見るとそんなことはないので、やはり「波動」の交換みたいなものなのだろうか。

知り合いが、有名な作品は美術館で無数の人の視線にさらされているから「目垢」がつく、といっていたけれど、ここにある作品は、目垢がついていない分、「うずうずしている」何かを発散しているのが怖い。

では、サンタンヌ病院内のアートセラピーによって才能が見出されたという例はないのかと聞くと、あるという。ひとりの女性は、アートセラピーで絵を描くうちに才能を見出され、しかも完治して、退院して、個展を開いたり美術館に作品を買い上げられたりしてプロの画家として活躍しているのだそうだ。その人の絵は展示されていなかったけれと、彼女が自分の来た道を語ったセミナーの記録を購入した。

15歳くらいで入院してアートセラピーのアトリエで認められたクリスティーヌ・ラブローという女性の

こういう作品群も迫力がある。

c0175451_03444175.jpeg

今回は展示が終わっていたけれど、1950年代に日本の精神病院からサンタンヌ病院に寄付された絵が数点カタログに載っている。名も不明で病歴も不明なのだけれど、このシリーズが、なんというか、日本人が「狂人の描く絵」に抱いているイメージにそっくりなのだ。その後にはインドから寄贈されたものがあるがまったく違う。個人の差なのか文化の差があるのか。1930年代の作品で、かなりショッキングだ。

これが日本。

c0175451_04111019.jpeg

c0175451_03423996.jpeg
これがインド。

c0175451_03440804.jpeg
c0175451_03432853.jpeg

そういえば、最近は「日本初のアール・ブリュット」がヨーロッパでも人気だという話を聞いたことがある。

「アール・ブリュット」と重なる部分に「サイコ・アート」という分野があって、あちらこちらで展示されているのを今回初めて知った。

私の気に入ったのはジャン・ジャメスのこれ。タイトルはないけれど絶対にナポレオンだ。

c0175451_03442462.jpeg

関係書をたくさん購入したので少しずつ読んでいこう。


by mariastella | 2019-03-14 00:05 | アート

しかめ面のアート

やはりアウトレットで買った三冊目の美術書。
これはストラスブール大学の美術史教授のマルシャル・ゲドロンの著作で、この人は、解剖学に基づいて人間や動物のカリカチュア何度おもしろい本をいろいろ書いている。
昨年は「モンスター -- 先史時代からSF まで」という大著を出している。

今回買ったこれは、先史時代とは言わないがここ5世紀に渡るヨーロッパの絵画や彫刻作品における「過剰な表情」を集めたものだ。
c0175451_03580998.jpeg
単なる「表情」、「しかめ面」ではなくて、首を切られて処刑された者たちの苦悶の表情や解剖図など、恐怖や怒りなどの極端な図像が次々と出てくる。全ては「筋肉」の動きの分析に行きつく。

こういう群像の表情パターンというのもある。
c0175451_04344243.jpeg
何といっても、動物との関係が面白い。
c0175451_04303406.jpeg
c0175451_04160378.jpeg
c0175451_04060207.jpeg
人を動物に見立てたゴヤの連作も。
c0175451_04204474.jpeg
c0175451_04131086.jpeg
c0175451_04103324.jpeg
c0175451_04073213.jpeg

これはドーミエ。写真術の初期に顔を固定させられる男女。
c0175451_04034896.jpeg
それにしても、蛇と虚栄の関係とか、哺乳類との類似は分かるとしても、ヒトがしばしばカエルと結びつけられるのはなぜだろう。カエルの体や動きは「筋肉」そのものという感じがするのは分かるけれど。

この春に日本に行くとき、大阪の中之島にある香雪美術館の高山寺展に誘っていただいている。鳥獣戯画も見ることができると期待している。
ウサギも飛び跳ねる筋肉が発達しているけれどウサギとカエルを同じ大きさにして相撲を取らせるような発想の絵が日本では12-13世紀にもう描かれていたなんておもしろい。

    

by mariastella | 2019-01-25 00:05 | アート

トリプティックが好き

私は教会などにあるトリプティック(三連祭壇画)が好きだ。

三つのテーマが並ぶことでストーリーが感じられる。

で、身近なアーティストの小品を購入する時も、できるだけシリーズのようにして自分でストーリーを作って並べるのが好きだ。

ずいぶん前にこういう絵を買った。日本調だけれど東欧系女性アーティストSylvie Kajmanのものだ。2002年の作とある。内面風景というタイトルのシリーズで、とても惹かれた。
     
c0175451_06222795.jpeg
で、どうしてもスリーを作りたくなって、次の年の展示会で、にこの2点を買った。
c0175451_06231981.jpeg
c0175451_06235555.jpeg
それを横一列に並べて飾っている。
c0175451_06032181.jpeg
それ以来、アーティストによる年末のオリジナルのカード展でもたいてい3枚を買って後で並べて額装することにしている。たとえばこれ。コロンビア出身のConsuelo Barbasa の作品。
c0175451_06042867.jpeg

下のシリーズはは有機的な感じだ。内面というより夢の中のようだ。Mercedes Uribeさん。バスクかスペイン系の名だ。
c0175451_06072618.jpeg
これは上と同じアーティストを昨年購入したもの。中の人物が鋲で留めてあって、くるくる回して向きを変えることができる。
c0175451_06085210.jpeg

今年はこの1枚に惹かれた。これは仏蘭西人女性アーティストSophie Rousseau ソフィー・ルソー。会場で、墨を流して創作する技法を説明していた。

c0175451_06055260.jpeg
で、トリプティックにするために2枚を買い足す。
c0175451_06053300.jpeg
c0175451_06070518.jpeg
で、こういう順番で並べて額装してもらって飾る。眺めていて飽きない。
c0175451_06100061.jpeg
これらのアーティストについては、今はネットで検索できるから、その後どんな作品を作っているのかなど近況が分かる時代なので勝手に親しみもわく。

なんでも3枚購入するわけではない。友人の師井さんの蝶々の作品は2枚並べている。
c0175451_06050977.jpeg

アメリカ人の友人ジョアンヌの作品も2枚並べている。
c0175451_06044725.jpeg

これはずいぶん前に私のアソシエーションで作品展をした日本の写真家の1枚。上のシリーズと同じ部屋に飾ってある。
c0175451_06103626.jpeg
私が選ぶ基準は、いつもどおり、

《私にとって「朝起きて最初に目に入り、夜寝る前に最後に目に入る」ことに耐えられるか》

というものだ。裏切られたことはない。




by mariastella | 2018-12-31 00:05 | アート

パリ・オペラ座の『トリスタンとイゾルデ』 その3

(これは前の記事の続きです)

ここで、ルージュモンの著作や私の論文の内容について書くつもりはない。

今思うと、第二次世界大戦がはじまる少し前に書かれたルージュモンの『愛について――エロスとアガぺ』(原題は「愛と西洋」でトリスタンとイゾルデ文学の系譜をたどっている)にももちろん、ワーグナーのトリスタンとイゾルデが言及されていたのだけれど、マルケ王との愛の関係は記憶がない。

性愛の欲望に焼かれる「エロス」の過激と過剰はそれ自体が「死」をはらんでいて、それが究極には、「アガぺ」という別の価値に拠る生き方につながる逆説というのが印象的だったのを覚えている。(ルージュモンの他の著作は後にフランスでフランス語で読んだが、この本はあれ以来一度も読み返していない)。


で、キリスト教の神秘主義者が語る「神との合一体験」のエクスタシーとの関係とか、昇華作用というものに興味を持った。ワグナーのトリスタンには一度も「神」という言葉は出てこないのに、私の卒論には聖書の引用がたくさんあった。その時の私でも、こんなものをカトリックの神父さんに見せてもいいのか、という気はちらりとしたけれど、アヌーイ神父は、「自分にはよく分かるけれど先生たちには理解できるかどうか心配です」と言ってくれた。


『アクセル』の主人公のアクセルは財宝があるのに世俗を離れて知識を求めようとしている。けれど、人を殺めた後で、生きる欲望が目覚めて導師のもとを去る。ヒロインのサラは修道院にいたけれど抜け出した。2人とも、禁欲の果てに約束される輝かしいものを捨てたのだ。そんな2人が出会って、トリスタンとイゾルデのように愛の妙薬を飲んでもいないのに、はじめての生身の「愛」に向かい合って昂揚するのだけれど、トリスタンとイゾルデの第二幕の二場でトリスタンが突然「生」から「死」へ振れるように、この世では決して至高の「愛」には到達できない、愛を永遠のものにするにはこの世から別のところに行かなければならない、となる。

(それはどちらかというとトリスタンやアクセルの側から来るもので、イゾルデやサラは、この世での至福をまず味わうことのどこが悪いの ?と思っている部分がある。)


で、卒論を書いていた当時の私がまったく無視していたことがある。

リラダンは、『アクセル』を書く前にワグナーに会いに行ってワグナー宅に滞在しているのだ。

1869年の716-25913-18、そして1870719-303回。

トリスタンとイゾルデの初演は1865年。

リラダンの死は1889年。『アクセル』は死の年に書かれたと思われる。

リラダンの信奉者だったジョセフ・ぺラダンが薔薇十字サロン展とワグナーの『パルジファル』の曲を使ったコンサートを開いたのが1892年。『パルジファル』は聖杯伝説も取り入れたキリスト教的救済劇でありぺラダンの求めるものと一致していた。

ぺラダンは1888年にバイロイトに行き、「トータル・アート」であるワグナー楽劇に感動し、リラダンのアクセルもワグナーも薔薇十字風にアレンジした。

ぺラダンは神秘的カトリック至上主義者で、パルジファルとアクセルという傑作はカトリックがテーマであり、ラテン世界においてはカトリックなしに芸術はなく「無」しかない、とまで言っている。

確かにリラダンもカトリックだった。


で、1887年にリラダンが残した回想記にワグナーとの会話がある。(彼は記憶違いで1868年とした)


トリスタンとイゾルデの「愛の死」が、リラダンの最大の関心だったことが分かる。


トリスタンとイゾルデの、死につながっているような至高の愛が、愛の妙薬などによって盲目になって求めあうようという次元の低いものであることの矛盾を感じたリラダンは、神という言葉が一度も出てこないことを含めて、ワグナーに質問したかった。ニーベルンゲンの指輪など北欧の神話とキリスト教について聞いた時のワグナーの答えは明快だった。


グナーは青い目を見開いてリラダンを見つめ、「自分の芸術は祈りである」と答えた。

真のアーティストは自分の信じているものしか歌わず、愛しているものしか語らず、考えていることしか書かない。信じてもいないものを成功や金のために創られる作品は死んだ作品で、そのような裏切り者による「神」の名は、「虚偽」である。熱烈で聖なる信仰、正確で変更不能な信仰こそが真の芸術家の第一の徴である。真の芸術の価値と生の価値は分かつことができない。信仰のない者の作品は芸術家の作品ではない。生を高め、大きく、熱く、強くする生きた炎がないからだ。

科学だけでは器用で整合性があるもののしかできず、信仰だけが、超越に向かう叫びを生み出すが、世俗の耳には支離滅裂だと聞える。 

真の芸術家だけが、科学と信仰という分かつことのできない賜物を結び付け作品芸術作品に消化できるのだ。

私に関しては、私は何よりもまずキリスト教徒である。私の作品のすべてはそのことにインスパイアされている。


グナーのこの言葉を聞いたリラダンは、カトリック教会から異端扱いされたボードレールもこの同じ真実を語っていたと述べている。

(これは私の意訳なのでこの部分のフランス語を記事の終わりにコピペしておく)

リラダンの全文はここで見ることができる。


いやあ、驚いた。

卒論制作当時の私が何をどこまで把握していたか、実はもう覚えていない(読み返すこともなかったので)。

でも、これで見ると、リラダンの『アクセル』のラストシーンにおける主人公2人の「愛の死」はワグナーのトリスタンとイゾルデをキリスト教神秘主義で読み取って突き進めたものといっていいくらいだ。

ワーグナーのこの「19世紀ドイツ風キリスト教アイデンティティ」は、後に反ユダヤ主義に結びつく要因になったともいえる。リラダンやぺラダンのように徹底して高踏、反俗「神秘主義」の方に向かったアーティストとは道が分かれた。

もし、当時、インターネットがあれば、これらの資料をいくらでも使えたかもしれない。いや、当時のワグナーやリラダン研究自体がまだ今ほどには進んでいなかったかもしれない。

逆に、今、私が大学生でこれをテーマに卒論を準備しているとしたら、資料が多すぎて、溺れてしまい、風呂敷はどんどん広がり、ハードルは上がり、迷宮に迷い込むかもしれない。

最も必要な能力は、テーマについて考えることでもそれを理解することや自分の考えをまとめることでもなく、何より先に、まず、ネット資料のリテラシーになる。

ワーグナーのオペラを実際に観たのは高校時代の『トリスタンとイゾルデ』の他には『さまよえるオランダ人』、『ワルキューレ』くらいしかなかった。ビルギット・ニルソンのリサイタルには行ったことがある。

でもイタリア・オペラを観た回数の方がはるかに多い。

フランス・バロック・オペラ頭になってからは、今の自分のやっている音楽とワーグナーの関係など考えたこともない。

私の新刊『神と金と革命がつくった世界史』の第三章にはエリック・サティが1892年のぺラダンの薔薇十字コンサートの音楽監督だったことが書かれている。サティの「信仰」は、ワーグナーやぺラダンの方向には向かわなかった。その点に関して詳しいことは書いていないけれど、今なら、リラダン、ぺラダン、ワーグナー、ルージュモン、サティを組み合わせて、ドイツ音楽とフランス音楽の関係についてももっと本質的な何かについて書いてしまいそうだ。

それにしても、壁だと思っていた場所にいろいろな扉がパタパタと開く思いがけない「パリ・オペラ座のトリスタンとイゾルデ」体験となった。

ドイツ音楽美学の渡辺護さんとフランス象徴派文學の斎藤磯雄さんという私の若い頃の年の離れた「文通相手」が突然、つながった。

今日は、このことをバロック音楽仲間に話して聞かせることにしよう。

(以下、リラダンの回想より、ワーグナーの答えの部分です。

Jeme souviendrai toujours du regard, que, du profond de ses extraordinaires yeuxbleus, Wagner fixa sur moi.

Mais,me répondit-il en souriant, si je ne ressentais, EN MON ÂME, la lumière etl’amour vivants de cette foi chrétienne dont vous parlez, mes œuvres, qui,toutes, en témoignent, où j’incorpore mon esprit ainsi que le temps de ma vie,seraient celles d’un menteur, d’un SINGE ? Comment aurais-jel’enfantillage de m’exalter à froid pour ce qui me semblerait n’être, au fond,qu’une imposture ? — Mon art, c’est ma prière : et, croyez-moi, nulvéritable artiste ne chante que ce qu’il croit, ne parle que de ce qu’il aime,n’écrit que ce qu’il pense ; car ceux-là, qui mentent, se trahissent enleur œuvre dès lors stérile et de peu de valeur, nul ne pouvant accomplir œuvred’Art-véritable sans désintéressement, sans sincérité.

Oui,celui qui – en vue de tels bas intérêts de succès ou d’argent, — essaie degrimacer, en un prétendu ouvrage d’Art, une foi fictive, se trahit lui-même etne produit qu’une œuvre morte. Le nom de DIEU, prononcé par ce traître, nonseulement ne signifie pour personne ce qu’il semble énoncer, mais, comme C’ESTUN MOT, c’est-à-dire un ÊTRE, même ainsi usurpé, il porte, en sa profanationsuprême, le simple MENSONGE de celui qui le proféra. Personne d’humain ne peuts’y laisser prendre, en sorte que l’auteur ne peut être ESTIMÉ que de ceux-làmême, ses congénères, qui reconnaissent, en son mensonge, celui qu’ils SONTeux-mêmes. Une foi brûlante, sacrée, précise, inaltérable, est le signe premierqui marque le RÉEL artiste : — car, en toute production d’Art digne d’unhomme, la valeur artistique et la valeur vivante se confondent : c’est ladualité même du corps et de lâme. L’œuvre d’un individu sans foi ne sera jamaisl’œuvre d’un ARTISTE, puisqu’elle manquera toujours de cette flamme vive quienthousiasme, élève, grandit, réchauffe et fortifie ; cela sentiratoujours le cadavre, que galvanise un MÉTIER frivole. Toutefoisentendons-nous : si, d’une part, la seule Science ne peut produire qued’habiles amateurs, — grands détrousseurs de « procédés », demouvements et d’expressions, — consommés, plus ou moins, dans la facture deleurs mosaïques, — et, aussi, d’éhontés démarqueurs, s’assimilant, pour donnerle change, ces milliers de disparates étincelles qui, au ressortir du néantéclairé de ces esprits, n’apparaissent plus qu’éteintes, — d’autre part,

lafoi, SEULE, ne peut produire et proférer que des cris sublimes qui, FAUTE DE SECONCEVOIR EUX-MÊMES, ne sembleront au vulgaire, hélas, que d’incohérentesclameurs : — il faut donc à l’Artiste-véritable, à celui qui crée, unit ettransfigure, ces deux indissolubles dons : la Science et la Foi. — Pourmoi, puisque vous m’interrogez, sachez qu’AVANT TOUT JE SUIS CHRÉTIEN, et queles accents qui vous impressionnent en mon œuvre ne sont inspirés et créés, enprincipe, que de CELA SEUL.

Telfut le sens exact de la réponse que me fit, ce soir-là, Richard Wagner — et jene pense pas que Madame Cosima Wagner, qui se trouvait présente, l’ait oublié.

Certes,ce furent là de profondes, de graves paroles…

—Mais, comme l’a dit Charles Baudelaire, à quoi bon répéter, ces grandes, ceséternelles, ces inutiles vérités !


by mariastella | 2018-09-28 00:05 | アート

パリの石上純也展

ジャコメッティ館に行った時、すぐ近くのカルティエ財団の現代美術館に寄って石上純也展を観た。

c0175451_21031169.jpeg

好評だとは聞いていたけれどスルーしていたのが、ついでだからと思ってチェックしてみた。

石上純也と言えば、「四角い風船」で、度肝を抜くコンセプチュアルアートという先入観しかなかった。

あらためてネットでインタビュー記事など読むと、作品とそれが置かれる空間、環境を同時に設計する際の発想の自在さが、やはり建築家ならではの感性に依っているのが分かる。

実際に行ってみて、天才だ、と思った。

しかも、透明度があって緑に囲まれたカルチェ美術館にぴったり。

場の全体がデザインされたインスタレーションになっている。

c0175451_21035816.jpeg
c0175451_21050625.jpeg
c0175451_21044390.jpeg
c0175451_21053798.jpeg

「場所に合わせてデザインする」のではなく、「場」そのものを、視線や体の位置との関係で変容させていく。

地下で上映されているインタビューやドキュメンタリービデオも説得力があり、誰一人中座しないでじっと聞き入っていた。新しい世界の発見のようだ。

(日本人だから、日本語でネットを検索してもいろいろ見ることができるのでどうぞ)

中国で造ったものはさすがに金と空間がふんだんにある国での度肝を抜く冒険という感じ。谷間の聖堂は、谷の中にもう一つの谷という聖堂を入れ子にしたものだ。

水との関係も驚倒させられる。

ヴァーチャルなゲームの世界やテーマパークにあふれた世界で育った世代の自在な発想が、マクロなのかマイクロなのか、人工なのか自然なのか、二次元なのか三次元なのか、などの区別を取り払い突き抜けた世界を実現する。

デンマークの水の中の瞑想スペースやシドニーの雲のアーチなども魅力的だけれど、日本でも栃木県や神奈川県の大学や保育園、山口県のレストランなど、魅力的な作品がたくさんあるようで、いつかチャンスがあれば行ってみたい。

愉快なことに、カルチェ美術館の庭園の売店には、日本のドリンクや日本のスナックが置いてあった。

輸入したというより、石上展のスタッフが大量に持ってきた?とでもいうようなファミリーでキッチュな雰囲気で不思議だ。

c0175451_21071630.jpeg
c0175451_21060871.jpeg

私のピアノの生徒で、バカロレアを終えてこの秋から建築の道に進むという学生に、この展覧会は必見だとメールを送った。

ただ一つ喉につかえる気がするのは、近頃の異常気象のせいで潜在意識に刷り込まれた不安のせいだ。

石上純也のような環境を封じ込めたり環境との関係性を変えたりするような空間デザインは、地震だの豪雨や洪水だのに耐えられるのだろうか、という疑問が湧きおこるのをとめられない。


by mariastella | 2018-09-15 00:05 | アート

ジャコメッティのアトリエとジャン・ジュネ

ジャコメッティの最後のアトリエは、私が2005年頃からダンスの研修やクラスに通っていた14区の通りにあった。

そのアトリエの壁に至るまで夫人が大切に保存していたものが、40年後の今年、ラスパーユ近くの瀟洒なアールデコのホテル・パルティキュリエ(一戸建て邸宅)に再現されることになった。


公開されているが、入館チケットの販売はなく、すべてネットでの時間指定の予約のみ。最初の特別展は「ジャン・ジュネが見たジャコメッティのアトリエ」だ。(9/16で終了)

c0175451_20513028.jpeg

前に書いたことがあるけれど、ジャコメッティのアトリエというのは私にとって「伝説」というか神話的な場所だ。

パリに住んで初期の頃にコレ―ジュ・ド・フランスで聴いていた講座にピエール・ブーレーズやイヴ・ボヌフォワのものがある。そして、ボヌフォワの語ったジャコメッティ論が私には強烈なインパクトだった。

ジャコメッティは「本物」、「生命」を表現しようとして工夫していたけれど、どんな肖像画や肖像彫刻を「本物」らしく制作していても、例えば、頭の丸みの中には「何もない」のは明らかだ。内臓や血管や血流も作れないし描けない。

で、ただのマチエールに過ぎない部分をどんどん削り取っていった。

それでも「本物」は現れず、彫像はどんどん細く、どんどん小さくなっていった。

c0175451_21023973.jpeg
マッチ棒のようなものばかりになった時期がある。

それでもまだ命は宿らず、それを鑿の一撃で壊した。

その壊れる一瞬に、火花のように「本物」が現れたという。

いのちとは、形と形の消滅の境界線で輝くらしい。

その頃、もしアトリエが火事になったら、どの作品をもって逃げますか、と聞かれたジャコメッティは、迷わず「この猫」と、愛猫を指したそうだ。

猫は「命」を生きていたからだ。


やがて、すべてを極限に削っていった後に残るのは「視線」だと気づいた。

すべては「視線」を支え、「部分」やディティールの「本当らしさ」はどうでもよくなって、視線を支える「全体」が顕現するようになった。


c0175451_21014253.jpeg


そういう話で、私にはジャコメッティのアトリエは神話の舞台のようで、広く深く薄暗い地下神殿みたいなイメージがなんとなくあった。

で、今回忠実に再現されたというアトリエはすごくコンパクトだった。

c0175451_20523690.jpeg
c0175451_20552311.jpeg
休むためのベッドもそのままだという。

ジャコメッティ自身がアトリエをデッサンしたものも展示されていて、なるほどまさにこんな感じだったのだなと分かる。

c0175451_20595627.jpeg


ここで、彼は、作品に絶えず手を入れ続けた。練って、揉んで、削ってという動きをやめなかった。

c0175451_20562110.jpeg
c0175451_20535499.jpeg
c0175451_20543951.jpeg
c0175451_20573731.jpeg
c0175451_20571460.jpeg
c0175451_20565038.jpeg
そして、彼がある作品をいじりだすと、アトリエにあるすべての「未完成」作品が、脈打ち震えだすようだったというジュネの証言がある。クリエイトの波動がアトリエ内の彼の手による全てのオブジェに伝わっているらしい。

全時間と全空間を巻き込んでいかないような局所的クリエイトなどクリエイトではないのかもしれない。

「到達点に行き着くために探し続けている」のだけれど、「到達した作品は、失敗ということ」だ、と晩年にも言っている。探し続ける過程にのみ真実が宿るということだろう。そうなると、ボヌフォワが語った、全作品がミニチュア化していったスランプの時代と本質的に変わらない。この世における「完成」とはフェイクであり「失敗」なのだ。時間芸術である音楽とは違い「完成」した一点もののオリジナルが「作品」として残る

美術作品のジレンマだ。

だからジャコメッティの作品とは生命の希求、本物の探索をそのまま内包しているもので、それが、鑑賞者の生命哲学と呼応した時に新たに脈打ち始める。

 

c0175451_20554722.jpeg

この犬の像は猫と物と同じく私の好きなものだけれど、アトリエにも置いてあった。

たとえば「犬の剥製」みたいなものと対極にある。

この犬に向ける視線で何かが息を吹き返す。

c0175451_21002653.jpeg

ジャン・ジュネの肖像画。

c0175451_21010289.jpeg
ジャコメッティの右がジャン・ジュネ。

丸顔だ。全てをぎりぎりにそぎ落としていくタイプのジャコメッティのスタイルで残ったぎりぎりの「視線」以外の「温かさ」が感じられる。
一連の作品を昔観たことがある矢内原伊作の顔の方が「ジャコメッティ」向きかなあ。  

いや、ジャコメッティの顔の方が彼の作品に似ているかも。
c0175451_21082530.jpeg
彼は自分もまた「生きている」ことを知っていたのだろう。

おまけ:
今回修復されたこの建物はアールデコの小住宅の傑作で、建築か装飾系の人が窓や壁や階段などを盛んに撮影していた。トイレもドアを開けてから三段くらいステップを降りてこんな感じの作りで驚いた。
ジャコメッティには、似合わない。


by mariastella | 2018-09-14 00:05 | アート

ブルゴーニュ その2 サンフロランタン続き

このステンドグラスは創世記の天地創造を描いたもの。
左上が神がカオス(混沌)からコスモスを作るところ。

神は、まず天と地を分け、その地には闇があり、神の霊が水面を動き、さらに「光」を創造し、昼と闇に分け、さらに水と水を分けて大空を作った。大空の上と下に水を分けた。大空を「天」と呼んだ。
さらに天の下の水を一か所に集めて「海」とし、渇いた部分を作ってそれを「地」と呼んだ。「地」には草と果樹を芽生えさせた。

c0175451_06175587.jpeg
聖書の記述も何か混沌としていて天と地と光との順番がよく分からないのだけれど、その分かりにくい部分を丸い青い「混沌」の真ん中がぱくりと開いて「分けられる」というクリアな図にしているのがおもしろい。「神」の姿がいろいろな司教をモデルにしているようで衣装も違っている。
c0175451_06201572.jpeg
これは聖母被昇天のステンドグラスで、この16世紀初頭のものの隣に同じ大きさでテーマをなぞったもので比べると興味深い。

レリーフのキリスト復活も悪くない。イエスがどうやって墓の中から出てきたのかは誰にも分からない。ただ墓の横穴をふさいでいた大石が動いていて、遺体を包んでいた亜麻布が残っていたという記述だけれど、ここには、石棺の蓋がずれて亜麻布を引きずってにゅーっと出てきたイエスの姿が。頭を覆っていた布はもう下に落ちている。
c0175451_05440368.jpeg
超かわいいのはこの聖母子像。
おむつもしていない赤ちゃんイエスのぷりんとしたお尻がキュート。
聖母は、「ちょ、ちょっとおとなしくしてないと落っこちますよ」という風情。
c0175451_06120055.jpeg
もちろん「普通」に立派な聖母子像もある。戴冠後の公式ポーズ。
c0175451_22213901.jpeg

この教会は、すべての「見どころ」に英仏語でくわしい説明がされていて、「美術館」として充実している。個人で鍵をもらって見学でき、しかも、もちろん無料だから、こんなに「お得」な美術館は珍しい。
c0175451_06214889.jpeg




by mariastella | 2018-08-26 00:05 | アート

ポンピドーとオルセー

新しいコンセプトの展覧会場のAtelier de lumièresに列ができていた(私はネット予約していたが)のに比べて、ポンピドーセンターやオルセー美術館などの通常展示は意外にもふらりと入れる。

c0175451_04554507.jpeg
c0175451_04594642.jpeg
c0175451_04563056.jpeg
c0175451_04574300.jpeg
これは天井が落ちてきたという演出。


なんだかすべてのコンセプチュアルアートは「みんな違ってみんな似ている」。
どこで何を見てもどこかですでに見た、という感じ。

パリだとか、直島だとか、21世紀美術館だとか、「容れ物」とその環境、空気を含めてやっと区別がつくという気がしてくる。

それに比べるとオルセーでの安定のゴッホとかマネとかゴーギャンは、観る方の内側で積み重ねが形成される。


c0175451_05164975.jpeg
c0175451_05183863.jpeg

c0175451_05131815.jpeg
c0175451_05192010.jpeg
前者とは「出会い」がほぼ全てだけれど、
後者は、極端にいうとサファリパークで命を覗いている気分にもなる。

私に出会わなくても彼らは息づいている。
命の密度は視線よりもずっと濃い。

by mariastella | 2018-07-26 00:05 | アート

コロ―とチェロ弾きの修道士

(これはマルモッタン美術館シリーズの続きです)

さて、今回のマルモッタン美術館行きの目的はコロ―の肖像画展だった。

その中でも、もう自分としては、何度も何度も反芻してネット上で眺めた一点を観るためだった。

というのは私は楽器演奏の絵と踊りの絵を複製がほとんどだけれどコレクションしていているのだけれど、特に「チェロ弾き」の絵は独特の雰囲気のあるものが多いことに注目している。

このコロ―の絵はその中でも秀逸で、このシトー会士と思われる感想修道士が、何の背景もなく、ただ、チェロを弾いているのが印象的だ。
光と影の配合が見事だ。
左手がハイポジションであることから、初心者ではないことが分かる。
ミサの伴奏などではなく、瞑想の中にあるようだ。
あるいは、チェロ奏者が何らかの理由で修道請願をしたのかもしれない。

コロ―の最晩年の作品である。(78歳)

c0175451_05503458.jpeg
展覧会ではこの絵と共に、同じ修道士テーマの二点が飾られていた。
三点ともかなり大きい。
本を読む修道士。一つは「自然」の風景の中で、もう一つはチェロ演奏と同じく、ほとんど背景がない。
c0175451_05511145.jpeg
c0175451_05514327.jpeg
で、「チェロを弾く修道士」については、ネット上の画像を何度も見ていろいろな分析もすでにしていたのだけれど、実際にこの三点が飾られているコーナー(文字通り角にある)に立って、戦慄を覚えた。

この三点に囲まれている空間だけが異次元のように密度が違う。何の密度かと言うと、何かスピリチュアルなものとしかいいようがない。
コロ―が描きたかったもの、晩年の死生観を貫きその先へ続く何かが、凝縮している。この「スポット」に入ってしまったら「波動」と光に捕らわれる、というそんな感じだ。自分が「にわか霊能者」になった気分だった。

だから、このブログでこの写真を出してみても、もちろん伝わらない。
観る前に考えていたことを改めて言語化しようとして、今まで「寝かせておいた」のだけれど、まだまとまらない。
こうなると、「複製」の鑑賞と「本物」は何かが本質的に違うと認めざるを得ない。
ライヴの音楽演奏を聴くのと複製音楽との違いとまったく同じような波動や空気やアーティストとの接触が絵画にもあるのだ。

今回の展覧会、コロ―にはこういう肖像画もある。
c0175451_05552235.jpeg
画家のアトリエ、上に彫刻があり、キャンバスに絵があり、でも、女性の持っているのは絵筆ではなくリュートだ。
c0175451_05544300.jpeg
この絵もそうだ。絵と、楽器と、思索、が、コロ―の中で一体になっている。
修道士のように本を読む女性たちの絵もたくさんある。
c0175451_05491159.jpeg
これはマグダラのマリア。(マリー=マドレーヌ)
c0175451_05472286.jpeg
c0175451_05480036.jpeg
本を手にする女性というのは聖母マリアのイコンでもある。受胎告知の時も、幼子イエスを抱いたりあやしたりする時も本を読んでいるマリアの姿は繰り返し書かれてきた。
コロ―の読書する女性たちは、瞑想とメランコリーの間を漂っている感じもする。

それにしても、コロ―と言えば「バルビゾン派の風景画家」という先入観が吹き飛ぶ展覧会だった。







by mariastella | 2018-06-24 00:05 | アート

マルモッタン美術館のナポレオンとモネ

(これはマルモッタン美術館シリーズの続きです)

マルモッタン美術館の常設展示にナポレオンを題材にしたものがある。

私が『ナポレオンと神』(青土社)を書いた時には参考にしなかったけれど、こうしてあらためて見るとアンヴァリッドやフォンテーヌブローのナポレオンとは違った趣がある。

c0175451_01203429.jpeg

c0175451_01210530.jpeg
これは刺繍作品
c0175451_01194444.jpeg
フォンテーヌブロー城近く、舟遊びでくつろぐ珍しい姿。
c0175451_01292969.jpeg
第一執政官だったころの若い姿の肖像。
c0175451_01383785.jpeg
マリー=ルイーズとの結婚式でのエトワール広場の花火の絵。

19世紀始めにこんなに華やかな花火技術があったのだ。しかも街の真ん中で。

この美術館の名の一部でもあるモネの部屋はもちろん充実している。
c0175451_04412102.jpeg
c0175451_04431096.jpeg
ジヴェルニ―の同じ場所を違う時間の違う光の中で描く贅沢さ。画家冥利に尽きるようなライフスタイル。
c0175451_05402723.jpeg
私がジヴェルニーに最後に行ったのは20世紀のことになる。
彼がオランジュリーの水蓮の製作を決心したのは第一次大戦の勝利を記念したかったからで、でも、その意欲と自信と高揚がだんだん怪しくなってくる動揺がはじめて実感できる。それでも、友人だったクレマンソーの励ましで無事に完成して、第二次世界大戦勃発より前に死んだのでヨーロッパの平和が続かなかったのを見なくてよかったなあと思う。

モネの展示室には2017年フィリップ・ガレル作のモネの肖像彫刻があった。
c0175451_04545046.jpeg
何だか悲しい目だ。





by mariastella | 2018-06-23 00:05 | アート



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧