L'art de croire             竹下節子ブログ

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パリ・オペラ座の『トリスタンとイゾルデ』 その3

(これは前の記事の続きです)

ここで、ルージュモンの著作や私の論文の内容について書くつもりはない。

今思うと、第二次世界大戦がはじまる少し前に書かれたルージュモンの『愛について――エロスとアガぺ』(原題は「愛と西洋」でトリスタンとイゾルデ文学の系譜をたどっている)にももちろん、ワーグナーのトリスタンとイゾルデが言及されていたのだけれど、マルケ王との愛の関係は記憶がない。

性愛の欲望に焼かれる「エロス」の過激と過剰はそれ自体が「死」をはらんでいて、それが究極には、「アガぺ」という別の価値に拠る生き方につながる逆説というのが印象的だったのを覚えている。(ルージュモンの他の著作は後にフランスでフランス語で読んだが、この本はあれ以来一度も読み返していない)。


で、キリスト教の神秘主義者が語る「神との合一体験」のエクスタシーとの関係とか、昇華作用というものに興味を持った。ワグナーのトリスタンには一度も「神」という言葉は出てこないのに、私の卒論には聖書の引用がたくさんあった。その時の私でも、こんなものをカトリックの神父さんに見せてもいいのか、という気はちらりとしたけれど、アヌーイ神父は、「自分にはよく分かるけれど先生たちには理解できるかどうか心配です」と言ってくれた。


『アクセル』の主人公のアクセルは財宝があるのに世俗を離れて知識を求めようとしている。けれど、人を殺めた後で、生きる欲望が目覚めて導師のもとを去る。ヒロインのサラは修道院にいたけれど抜け出した。2人とも、禁欲の果てに約束される輝かしいものを捨てたのだ。そんな2人が出会って、トリスタンとイゾルデのように愛の妙薬を飲んでもいないのに、はじめての生身の「愛」に向かい合って昂揚するのだけれど、トリスタンとイゾルデの第二幕の二場でトリスタンが突然「生」から「死」へ振れるように、この世では決して至高の「愛」には到達できない、愛を永遠のものにするにはこの世から別のところに行かなければならない、となる。

(それはどちらかというとトリスタンやアクセルの側から来るもので、イゾルデやサラは、この世での至福をまず味わうことのどこが悪いの ?と思っている部分がある。)


で、卒論を書いていた当時の私がまったく無視していたことがある。

リラダンは、『アクセル』を書く前にワグナーに会いに行ってワグナー宅に滞在しているのだ。

1869年の716-25913-18、そして1870719-303回。

トリスタンとイゾルデの初演は1865年。

リラダンの死は1889年。『アクセル』は死の年に書かれたと思われる。

リラダンの信奉者だったジョセフ・ぺラダンが薔薇十字サロン展とワグナーの『パルジファル』の曲を使ったコンサートを開いたのが1892年。『パルジファル』は聖杯伝説も取り入れたキリスト教的救済劇でありぺラダンの求めるものと一致していた。

ぺラダンは1888年にバイロイトに行き、「トータル・アート」であるワグナー楽劇に感動し、リラダンのアクセルもワグナーも薔薇十字風にアレンジした。

ぺラダンは神秘的カトリック至上主義者で、パルジファルとアクセルという傑作はカトリックがテーマであり、ラテン世界においてはカトリックなしに芸術はなく「無」しかない、とまで言っている。

確かにリラダンもカトリックだった。


で、1887年にリラダンが残した回想記にワグナーとの会話がある。(彼は記憶違いで1868年とした)


トリスタンとイゾルデの「愛の死」が、リラダンの最大の関心だったことが分かる。


トリスタンとイゾルデの、死につながっているような至高の愛が、愛の妙薬などによって盲目になって求めあうようという次元の低いものであることの矛盾を感じたリラダンは、神という言葉が一度も出てこないことを含めて、ワグナーに質問したかった。ニーベルンゲンの指輪など北欧の神話とキリスト教について聞いた時のワグナーの答えは明快だった。


グナーは青い目を見開いてリラダンを見つめ、「自分の芸術は祈りである」と答えた。

真のアーティストは自分の信じているものしか歌わず、愛しているものしか語らず、考えていることしか書かない。信じてもいないものを成功や金のために創られる作品は死んだ作品で、そのような裏切り者による「神」の名は、「虚偽」である。熱烈で聖なる信仰、正確で変更不能な信仰こそが真の芸術家の第一の徴である。真の芸術の価値と生の価値は分かつことができない。信仰のない者の作品は芸術家の作品ではない。生を高め、大きく、熱く、強くする生きた炎がないからだ。

科学だけでは器用で整合性があるもののしかできず、信仰だけが、超越に向かう叫びを生み出すが、世俗の耳には支離滅裂だと聞える。 

真の芸術家だけが、科学と信仰という分かつことのできない賜物を結び付け作品芸術作品に消化できるのだ。

私に関しては、私は何よりもまずキリスト教徒である。私の作品のすべてはそのことにインスパイアされている。


グナーのこの言葉を聞いたリラダンは、カトリック教会から異端扱いされたボードレールもこの同じ真実を語っていたと述べている。

(これは私の意訳なのでこの部分のフランス語を記事の終わりにコピペしておく)

リラダンの全文はここで見ることができる。


いやあ、驚いた。

卒論制作当時の私が何をどこまで把握していたか、実はもう覚えていない(読み返すこともなかったので)。

でも、これで見ると、リラダンの『アクセル』のラストシーンにおける主人公2人の「愛の死」はワグナーのトリスタンとイゾルデをキリスト教神秘主義で読み取って突き進めたものといっていいくらいだ。

ワーグナーのこの「19世紀ドイツ風キリスト教アイデンティティ」は、後に反ユダヤ主義に結びつく要因になったともいえる。リラダンやぺラダンのように徹底して高踏、反俗「神秘主義」の方に向かったアーティストとは道が分かれた。

もし、当時、インターネットがあれば、これらの資料をいくらでも使えたかもしれない。いや、当時のワグナーやリラダン研究自体がまだ今ほどには進んでいなかったかもしれない。

逆に、今、私が大学生でこれをテーマに卒論を準備しているとしたら、資料が多すぎて、溺れてしまい、風呂敷はどんどん広がり、ハードルは上がり、迷宮に迷い込むかもしれない。

最も必要な能力は、テーマについて考えることでもそれを理解することや自分の考えをまとめることでもなく、何より先に、まず、ネット資料のリテラシーになる。

ワーグナーのオペラを実際に観たのは高校時代の『トリスタンとイゾルデ』の他には『さまよえるオランダ人』、『ワルキューレ』くらいしかなかった。ビルギット・ニルソンのリサイタルには行ったことがある。

でもイタリア・オペラを観た回数の方がはるかに多い。

フランス・バロック・オペラ頭になってからは、今の自分のやっている音楽とワーグナーの関係など考えたこともない。

私の新刊『神と金と革命がつくった世界史』の第三章にはエリック・サティが1892年のぺラダンの薔薇十字コンサートの音楽監督だったことが書かれている。サティの「信仰」は、ワーグナーやぺラダンの方向には向かわなかった。その点に関して詳しいことは書いていないけれど、今なら、リラダン、ぺラダン、ワーグナー、ルージュモン、サティを組み合わせて、ドイツ音楽とフランス音楽の関係についてももっと本質的な何かについて書いてしまいそうだ。

それにしても、壁だと思っていた場所にいろいろな扉がパタパタと開く思いがけない「パリ・オペラ座のトリスタンとイゾルデ」体験となった。

ドイツ音楽美学の渡辺護さんとフランス象徴派文學の斎藤磯雄さんという私の若い頃の年の離れた「文通相手」が突然、つながった。

今日は、このことをバロック音楽仲間に話して聞かせることにしよう。

(以下、リラダンの回想より、ワーグナーの答えの部分です。

Jeme souviendrai toujours du regard, que, du profond de ses extraordinaires yeuxbleus, Wagner fixa sur moi.

Mais,me répondit-il en souriant, si je ne ressentais, EN MON ÂME, la lumière etl’amour vivants de cette foi chrétienne dont vous parlez, mes œuvres, qui,toutes, en témoignent, où j’incorpore mon esprit ainsi que le temps de ma vie,seraient celles d’un menteur, d’un SINGE ? Comment aurais-jel’enfantillage de m’exalter à froid pour ce qui me semblerait n’être, au fond,qu’une imposture ? — Mon art, c’est ma prière : et, croyez-moi, nulvéritable artiste ne chante que ce qu’il croit, ne parle que de ce qu’il aime,n’écrit que ce qu’il pense ; car ceux-là, qui mentent, se trahissent enleur œuvre dès lors stérile et de peu de valeur, nul ne pouvant accomplir œuvred’Art-véritable sans désintéressement, sans sincérité.

Oui,celui qui – en vue de tels bas intérêts de succès ou d’argent, — essaie degrimacer, en un prétendu ouvrage d’Art, une foi fictive, se trahit lui-même etne produit qu’une œuvre morte. Le nom de DIEU, prononcé par ce traître, nonseulement ne signifie pour personne ce qu’il semble énoncer, mais, comme C’ESTUN MOT, c’est-à-dire un ÊTRE, même ainsi usurpé, il porte, en sa profanationsuprême, le simple MENSONGE de celui qui le proféra. Personne d’humain ne peuts’y laisser prendre, en sorte que l’auteur ne peut être ESTIMÉ que de ceux-làmême, ses congénères, qui reconnaissent, en son mensonge, celui qu’ils SONTeux-mêmes. Une foi brûlante, sacrée, précise, inaltérable, est le signe premierqui marque le RÉEL artiste : — car, en toute production d’Art digne d’unhomme, la valeur artistique et la valeur vivante se confondent : c’est ladualité même du corps et de lâme. L’œuvre d’un individu sans foi ne sera jamaisl’œuvre d’un ARTISTE, puisqu’elle manquera toujours de cette flamme vive quienthousiasme, élève, grandit, réchauffe et fortifie ; cela sentiratoujours le cadavre, que galvanise un MÉTIER frivole. Toutefoisentendons-nous : si, d’une part, la seule Science ne peut produire qued’habiles amateurs, — grands détrousseurs de « procédés », demouvements et d’expressions, — consommés, plus ou moins, dans la facture deleurs mosaïques, — et, aussi, d’éhontés démarqueurs, s’assimilant, pour donnerle change, ces milliers de disparates étincelles qui, au ressortir du néantéclairé de ces esprits, n’apparaissent plus qu’éteintes, — d’autre part,

lafoi, SEULE, ne peut produire et proférer que des cris sublimes qui, FAUTE DE SECONCEVOIR EUX-MÊMES, ne sembleront au vulgaire, hélas, que d’incohérentesclameurs : — il faut donc à l’Artiste-véritable, à celui qui crée, unit ettransfigure, ces deux indissolubles dons : la Science et la Foi. — Pourmoi, puisque vous m’interrogez, sachez qu’AVANT TOUT JE SUIS CHRÉTIEN, et queles accents qui vous impressionnent en mon œuvre ne sont inspirés et créés, enprincipe, que de CELA SEUL.

Telfut le sens exact de la réponse que me fit, ce soir-là, Richard Wagner — et jene pense pas que Madame Cosima Wagner, qui se trouvait présente, l’ait oublié.

Certes,ce furent là de profondes, de graves paroles…

—Mais, comme l’a dit Charles Baudelaire, à quoi bon répéter, ces grandes, ceséternelles, ces inutiles vérités !


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by mariastella | 2018-09-28 00:05 | アート

パリの石上純也展

ジャコメッティ館に行った時、すぐ近くのカルティエ財団の現代美術館に寄って石上純也展を観た。

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好評だとは聞いていたけれどスルーしていたのが、ついでだからと思ってチェックしてみた。

石上純也と言えば、「四角い風船」で、度肝を抜くコンセプチュアルアートという先入観しかなかった。

あらためてネットでインタビュー記事など読むと、作品とそれが置かれる空間、環境を同時に設計する際の発想の自在さが、やはり建築家ならではの感性に依っているのが分かる。

実際に行ってみて、天才だ、と思った。

しかも、透明度があって緑に囲まれたカルチェ美術館にぴったり。

場の全体がデザインされたインスタレーションになっている。

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「場所に合わせてデザインする」のではなく、「場」そのものを、視線や体の位置との関係で変容させていく。

地下で上映されているインタビューやドキュメンタリービデオも説得力があり、誰一人中座しないでじっと聞き入っていた。新しい世界の発見のようだ。

(日本人だから、日本語でネットを検索してもいろいろ見ることができるのでどうぞ)

中国で造ったものはさすがに金と空間がふんだんにある国での度肝を抜く冒険という感じ。谷間の聖堂は、谷の中にもう一つの谷という聖堂を入れ子にしたものだ。

水との関係も驚倒させられる。

ヴァーチャルなゲームの世界やテーマパークにあふれた世界で育った世代の自在な発想が、マクロなのかマイクロなのか、人工なのか自然なのか、二次元なのか三次元なのか、などの区別を取り払い突き抜けた世界を実現する。

デンマークの水の中の瞑想スペースやシドニーの雲のアーチなども魅力的だけれど、日本でも栃木県や神奈川県の大学や保育園、山口県のレストランなど、魅力的な作品がたくさんあるようで、いつかチャンスがあれば行ってみたい。

愉快なことに、カルチェ美術館の庭園の売店には、日本のドリンクや日本のスナックが置いてあった。

輸入したというより、石上展のスタッフが大量に持ってきた?とでもいうようなファミリーでキッチュな雰囲気で不思議だ。

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私のピアノの生徒で、バカロレアを終えてこの秋から建築の道に進むという学生に、この展覧会は必見だとメールを送った。

ただ一つ喉につかえる気がするのは、近頃の異常気象のせいで潜在意識に刷り込まれた不安のせいだ。

石上純也のような環境を封じ込めたり環境との関係性を変えたりするような空間デザインは、地震だの豪雨や洪水だのに耐えられるのだろうか、という疑問が湧きおこるのをとめられない。


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by mariastella | 2018-09-15 00:05 | アート

ジャコメッティのアトリエとジャン・ジュネ

ジャコメッティの最後のアトリエは、私が2005年頃からダンスの研修やクラスに通っていた14区の通りにあった。

そのアトリエの壁に至るまで夫人が大切に保存していたものが、40年後の今年、ラスパーユ近くの瀟洒なアールデコのホテル・パルティキュリエ(一戸建て邸宅)に再現されることになった。


公開されているが、入館チケットの販売はなく、すべてネットでの時間指定の予約のみ。最初の特別展は「ジャン・ジュネが見たジャコメッティのアトリエ」だ。(9/16で終了)

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前に書いたことがあるけれど、ジャコメッティのアトリエというのは私にとって「伝説」というか神話的な場所だ。

パリに住んで初期の頃にコレ―ジュ・ド・フランスで聴いていた講座にピエール・ブーレーズやイヴ・ボヌフォワのものがある。そして、ボヌフォワの語ったジャコメッティ論が私には強烈なインパクトだった。

ジャコメッティは「本物」、「生命」を表現しようとして工夫していたけれど、どんな肖像画や肖像彫刻を「本物」らしく制作していても、例えば、頭の丸みの中には「何もない」のは明らかだ。内臓や血管や血流も作れないし描けない。

で、ただのマチエールに過ぎない部分をどんどん削り取っていった。

それでも「本物」は現れず、彫像はどんどん細く、どんどん小さくなっていった。

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マッチ棒のようなものばかりになった時期がある。

それでもまだ命は宿らず、それを鑿の一撃で壊した。

その壊れる一瞬に、火花のように「本物」が現れたという。

いのちとは、形と形の消滅の境界線で輝くらしい。

その頃、もしアトリエが火事になったら、どの作品をもって逃げますか、と聞かれたジャコメッティは、迷わず「この猫」と、愛猫を指したそうだ。

猫は「命」を生きていたからだ。


やがて、すべてを極限に削っていった後に残るのは「視線」だと気づいた。

すべては「視線」を支え、「部分」やディティールの「本当らしさ」はどうでもよくなって、視線を支える「全体」が顕現するようになった。


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そういう話で、私にはジャコメッティのアトリエは神話の舞台のようで、広く深く薄暗い地下神殿みたいなイメージがなんとなくあった。

で、今回忠実に再現されたというアトリエはすごくコンパクトだった。

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休むためのベッドもそのままだという。

ジャコメッティ自身がアトリエをデッサンしたものも展示されていて、なるほどまさにこんな感じだったのだなと分かる。

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ここで、彼は、作品に絶えず手を入れ続けた。練って、揉んで、削ってという動きをやめなかった。

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そして、彼がある作品をいじりだすと、アトリエにあるすべての「未完成」作品が、脈打ち震えだすようだったというジュネの証言がある。クリエイトの波動がアトリエ内の彼の手による全てのオブジェに伝わっているらしい。

全時間と全空間を巻き込んでいかないような局所的クリエイトなどクリエイトではないのかもしれない。

「到達点に行き着くために探し続けている」のだけれど、「到達した作品は、失敗ということ」だ、と晩年にも言っている。探し続ける過程にのみ真実が宿るということだろう。そうなると、ボヌフォワが語った、全作品がミニチュア化していったスランプの時代と本質的に変わらない。この世における「完成」とはフェイクであり「失敗」なのだ。時間芸術である音楽とは違い「完成」した一点もののオリジナルが「作品」として残る

美術作品のジレンマだ。

だからジャコメッティの作品とは生命の希求、本物の探索をそのまま内包しているもので、それが、鑑賞者の生命哲学と呼応した時に新たに脈打ち始める。

 

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この犬の像は猫と物と同じく私の好きなものだけれど、アトリエにも置いてあった。

たとえば「犬の剥製」みたいなものと対極にある。

この犬に向ける視線で何かが息を吹き返す。

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ジャン・ジュネの肖像画。

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ジャコメッティの右がジャン・ジュネ。

丸顔だ。全てをぎりぎりにそぎ落としていくタイプのジャコメッティのスタイルで残ったぎりぎりの「視線」以外の「温かさ」が感じられる。
一連の作品を昔観たことがある矢内原伊作の顔の方が「ジャコメッティ」向きかなあ。  

いや、ジャコメッティの顔の方が彼の作品に似ているかも。
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彼は自分もまた「生きている」ことを知っていたのだろう。

おまけ:
今回修復されたこの建物はアールデコの小住宅の傑作で、建築か装飾系の人が窓や壁や階段などを盛んに撮影していた。トイレもドアを開けてから三段くらいステップを降りてこんな感じの作りで驚いた。
ジャコメッティには、似合わない。


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by mariastella | 2018-09-14 00:05 | アート

ブルゴーニュ その2 サンフロランタン続き

このステンドグラスは創世記の天地創造を描いたもの。
左上が神がカオス(混沌)からコスモスを作るところ。

神は、まず天と地を分け、その地には闇があり、神の霊が水面を動き、さらに「光」を創造し、昼と闇に分け、さらに水と水を分けて大空を作った。大空の上と下に水を分けた。大空を「天」と呼んだ。
さらに天の下の水を一か所に集めて「海」とし、渇いた部分を作ってそれを「地」と呼んだ。「地」には草と果樹を芽生えさせた。

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聖書の記述も何か混沌としていて天と地と光との順番がよく分からないのだけれど、その分かりにくい部分を丸い青い「混沌」の真ん中がぱくりと開いて「分けられる」というクリアな図にしているのがおもしろい。「神」の姿がいろいろな司教をモデルにしているようで衣装も違っている。
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これは聖母被昇天のステンドグラスで、この16世紀初頭のものの隣に同じ大きさでテーマをなぞったもので比べると興味深い。

レリーフのキリスト復活も悪くない。イエスがどうやって墓の中から出てきたのかは誰にも分からない。ただ墓の横穴をふさいでいた大石が動いていて、遺体を包んでいた亜麻布が残っていたという記述だけれど、ここには、石棺の蓋がずれて亜麻布を引きずってにゅーっと出てきたイエスの姿が。頭を覆っていた布はもう下に落ちている。
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超かわいいのはこの聖母子像。
おむつもしていない赤ちゃんイエスのぷりんとしたお尻がキュート。
聖母は、「ちょ、ちょっとおとなしくしてないと落っこちますよ」という風情。
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もちろん「普通」に立派な聖母子像もある。戴冠後の公式ポーズ。
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この教会は、すべての「見どころ」に英仏語でくわしい説明がされていて、「美術館」として充実している。個人で鍵をもらって見学でき、しかも、もちろん無料だから、こんなに「お得」な美術館は珍しい。
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by mariastella | 2018-08-26 00:05 | アート

ポンピドーとオルセー

新しいコンセプトの展覧会場のAtelier de lumièresに列ができていた(私はネット予約していたが)のに比べて、ポンピドーセンターやオルセー美術館などの通常展示は意外にもふらりと入れる。

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これは天井が落ちてきたという演出。


なんだかすべてのコンセプチュアルアートは「みんな違ってみんな似ている」。
どこで何を見てもどこかですでに見た、という感じ。

パリだとか、直島だとか、21世紀美術館だとか、「容れ物」とその環境、空気を含めてやっと区別がつくという気がしてくる。

それに比べるとオルセーでの安定のゴッホとかマネとかゴーギャンは、観る方の内側で積み重ねが形成される。


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前者とは「出会い」がほぼ全てだけれど、
後者は、極端にいうとサファリパークで命を覗いている気分にもなる。

私に出会わなくても彼らは息づいている。
命の密度は視線よりもずっと濃い。

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by mariastella | 2018-07-26 00:05 | アート

コロ―とチェロ弾きの修道士

(これはマルモッタン美術館シリーズの続きです)

さて、今回のマルモッタン美術館行きの目的はコロ―の肖像画展だった。

その中でも、もう自分としては、何度も何度も反芻してネット上で眺めた一点を観るためだった。

というのは私は楽器演奏の絵と踊りの絵を複製がほとんどだけれどコレクションしていているのだけれど、特に「チェロ弾き」の絵は独特の雰囲気のあるものが多いことに注目している。

このコロ―の絵はその中でも秀逸で、このシトー会士と思われる感想修道士が、何の背景もなく、ただ、チェロを弾いているのが印象的だ。
光と影の配合が見事だ。
左手がハイポジションであることから、初心者ではないことが分かる。
ミサの伴奏などではなく、瞑想の中にあるようだ。
あるいは、チェロ奏者が何らかの理由で修道請願をしたのかもしれない。

コロ―の最晩年の作品である。(78歳)

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展覧会ではこの絵と共に、同じ修道士テーマの二点が飾られていた。
三点ともかなり大きい。
本を読む修道士。一つは「自然」の風景の中で、もう一つはチェロ演奏と同じく、ほとんど背景がない。
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で、「チェロを弾く修道士」については、ネット上の画像を何度も見ていろいろな分析もすでにしていたのだけれど、実際にこの三点が飾られているコーナー(文字通り角にある)に立って、戦慄を覚えた。

この三点に囲まれている空間だけが異次元のように密度が違う。何の密度かと言うと、何かスピリチュアルなものとしかいいようがない。
コロ―が描きたかったもの、晩年の死生観を貫きその先へ続く何かが、凝縮している。この「スポット」に入ってしまったら「波動」と光に捕らわれる、というそんな感じだ。自分が「にわか霊能者」になった気分だった。

だから、このブログでこの写真を出してみても、もちろん伝わらない。
観る前に考えていたことを改めて言語化しようとして、今まで「寝かせておいた」のだけれど、まだまとまらない。
こうなると、「複製」の鑑賞と「本物」は何かが本質的に違うと認めざるを得ない。
ライヴの音楽演奏を聴くのと複製音楽との違いとまったく同じような波動や空気やアーティストとの接触が絵画にもあるのだ。

今回の展覧会、コロ―にはこういう肖像画もある。
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画家のアトリエ、上に彫刻があり、キャンバスに絵があり、でも、女性の持っているのは絵筆ではなくリュートだ。
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この絵もそうだ。絵と、楽器と、思索、が、コロ―の中で一体になっている。
修道士のように本を読む女性たちの絵もたくさんある。
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これはマグダラのマリア。(マリー=マドレーヌ)
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本を手にする女性というのは聖母マリアのイコンでもある。受胎告知の時も、幼子イエスを抱いたりあやしたりする時も本を読んでいるマリアの姿は繰り返し書かれてきた。
コロ―の読書する女性たちは、瞑想とメランコリーの間を漂っている感じもする。

それにしても、コロ―と言えば「バルビゾン派の風景画家」という先入観が吹き飛ぶ展覧会だった。







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by mariastella | 2018-06-24 00:05 | アート

マルモッタン美術館のナポレオンとモネ

(これはマルモッタン美術館シリーズの続きです)

マルモッタン美術館の常設展示にナポレオンを題材にしたものがある。

私が『ナポレオンと神』(青土社)を書いた時には参考にしなかったけれど、こうしてあらためて見るとアンヴァリッドやフォンテーヌブローのナポレオンとは違った趣がある。

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これは刺繍作品
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フォンテーヌブロー城近く、舟遊びでくつろぐ珍しい姿。
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第一執政官だったころの若い姿の肖像。
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マリー=ルイーズとの結婚式でのエトワール広場の花火の絵。

19世紀始めにこんなに華やかな花火技術があったのだ。しかも街の真ん中で。

この美術館の名の一部でもあるモネの部屋はもちろん充実している。
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ジヴェルニ―の同じ場所を違う時間の違う光の中で描く贅沢さ。画家冥利に尽きるようなライフスタイル。
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私がジヴェルニーに最後に行ったのは20世紀のことになる。
彼がオランジュリーの水蓮の製作を決心したのは第一次大戦の勝利を記念したかったからで、でも、その意欲と自信と高揚がだんだん怪しくなってくる動揺がはじめて実感できる。それでも、友人だったクレマンソーの励ましで無事に完成して、第二次世界大戦勃発より前に死んだのでヨーロッパの平和が続かなかったのを見なくてよかったなあと思う。

モネの展示室には2017年フィリップ・ガレル作のモネの肖像彫刻があった。
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何だか悲しい目だ。





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by mariastella | 2018-06-23 00:05 | アート

マルモッタン美術館の細密画とシューベルト

マルモッタン美術館の常設展示の「enluminure(中世写本の細密画)」の部屋は、すばらしい。

キリスト教世界の細密画はこれまでにも見たことがあるけれど、ここの薄暗い一室に並べられた絵の筆遣い、時代を超えて輝く金の色遣い、疫病も飢饉も戦乱も今では考えられないようなレベルで人々を襲っていた時代に天国や救いや宗教的昂揚を求めた人々の息遣いなどがたちこめている。雰囲気の再現まで何かにまでインスパイアされたかのようだ。

この細密画の「光」は写真ではすべて吹き飛んでしまう。
その前に立たないと伝わらないので載せない。

彫刻も少しあった。これは聖女アニエス。仔羊がシンボルで、犬か猫のように寄りすがっている。
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こういうのを見ると、ああ、中世ヨーロッパにキリスト教の写本文化があってよかったなあ、と、保存状態の良さと同時に感謝したくなる。その感動は、具体的な宗教的コンテキストや鑑賞者の文化的背景とは別のところにあると思う。
例えば私は過去に「源氏物語絵巻」の原本の展示を見たこともあるけれど、教養としての興味の方が大きかった。
中世ヨーロッパの細密画は、伝統的文化的なコンテキストを共有していないのに、もっと迫ってくる切実感がある。

6/13には、弦楽オーケストラで、三度目になるバッハのブランデンブルク3番の他に、モーツアルトの「AVE VERUM CORPUS(アヴェ・ヴェルム・コルプス)」の合唱の伴奏に参加した。「真の体」、つまり先日の聖体の祭日と同じ、カトリックのミサで聖体にキリストの真の体が化体するするという賛歌だ。だから歴史的にはばりばりのカトリック文化の遺産なのだけれど、弾いていて、合唱を聴いていて、どきどきする(宗教とは関係のない文化行事のコンサートだ)。

こういう時も、バッハやモーツアルトらが生きていた時と場所にキリスト教文化があってよかったなあと思う。

目に見える細密画や、耳に聴こえる聖歌が、私たちを現世と「あちらの世界」の境界領域に誘ってくれる。
特に図像は確固としてそこに「ある」けれど、音楽は、演奏する瞬間にしか現れない。
「インスピレーション」の現場により深く立ち会える。

源氏物語絵巻を見る時には物語の文脈を知りたい気がするが、細密画や宗教曲には、テキストの中身や教義を超える「人間」の訴えや心を直接キャッチするだけで多幸感をもたらせてくれる何かがある。



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by mariastella | 2018-06-18 00:05 | アート

マルモッタン美術館の細密画とシューベルト

マルモッタン美術館の常設展示の「enluminure(中世写本の細密画)」の部屋は、すばらしい。

キリスト教世界の細密画はこれまでにも見たことがあるけれど、ここの薄暗い一室に並べられた絵の筆遣い、時代を超えて輝く金の色遣い、疫病も飢饉も戦乱も今では考えられないようなレベルで人々を襲っていた時代に天国や救いや宗教的昂揚を求めた人々の息遣いなどがたちこめている。雰囲気の再現まで何かにまでインスパイアされたかのようだ。

この細密画の「光」は写真ではすべて吹き飛んでしまう。
その前に立たないと伝わらないので載せない。

彫刻も少しあった。これは聖女アニエス。仔羊がシンボルで、犬か猫のように寄りすがっている。
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こういうのを見ると、ああ、中世ヨーロッパにキリスト教の写本文化があってよかったなあ、と、保存状態の良さと同時に感謝したくなる。その感動は、具体的な宗教的コンテキストや鑑賞者の文化的背景とは別のところにあると思う。
例えば私は過去に「源氏物語絵巻」の原本の展示を見たこともあるけれど、教養としての興味の方が大きかった。
中世ヨーロッパの細密画は、伝統的文化的なコンテキストを共有していないのに、もっと迫ってくる切実感がある。

6/13には、弦楽オーケストラで、三度目になるバッハのブランデンブルク3番の他に、シューベルトの「AVE VERUM CORPUS(アヴェ・ヴェルム・コルプス)」の合唱の伴奏に参加した。「真の体」、つまり先日の聖体の祭日と同じ、カトリックのミサで聖体にキリストの真の体が化体するするという賛歌だ。だから歴史的にはばりばりのカトリック文化の遺産なのだけれど、弾いていて、合唱を聴いていて、どきどきする(宗教とは関係のない文化行事のコンサートだ)。

こういう時も、バッハやシューベルトやモーツアルトらが生きていた時と場所にキリスト教文化があってよかったなあと思う。

目に見える細密画や、耳に聴こえる聖歌が、私たちを現世と「あちらの世界」の境界領域に誘ってくれる。
特に図像は確固としてそこに「ある」けれど、音楽は、演奏する瞬間にしか現れない。
「インスピレーション」の現場により深く立ち会える。

源氏物語絵巻を見る時には物語の文脈を知りたい気がするが、細密画や宗教曲には、テキストの中身や教義を超える「人間」の訴えや心を直接キャッチするだけで多幸感をもたらせてくれる何かがある。



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by mariastella | 2018-06-18 00:05 | アート

マルモッタン・モネ美術館

このブログは今は基本予約投稿ばかりなので、書いている時、話題と、アップの時間にかなりのずれができる。

でも、5月の末にようやく観に行ったマルモッタン美術館のコロ―展は、ともかく一見の価値があるので、会期中の7月8日までにパリにいる方にはぜひお勧めなので、今のうちにそのことをアップしておく。

コロ―と言えばバルビゾン派の風景画家、というイメージだけれど、その人物がシリーズがすばらしくて、その中に、私がどうしても観たいものがあって、もちろんすでにネット上ではじっくり見て、それについての記事すら書いていた。
でも、記事にするにはやはり実物を見ておかないと、と、重い腰を上げたのだけれど、その3点の絵の前に立って、衝撃を受けた。

展示室の角のコーナーで直角にかけられていて、その絵の大きさのせいもあるけれど、そこだけがまるで異空間のようなスポットになっているのだ。コロ―とその絵の世界に体ごとワープさせられる気がするほど、何かの「密度」だか「波動」だかが凝縮している。

ネットやカタログで絵を見ていろいろ論評することの傲慢さ、というより、空しさを感じてしまった。
どんな「ほんもの」でも、いったんその出会いの「場」を離れれば、「記憶」のフィールドにインプットされる。
それを「言語化」する時には「記憶」と対峙するのだから、本物でも画集でも「脳内再構成」のアートを養うという意味ではそう変わらないとまで思う時もあった。
音楽だって、自分が弾く曲にしても、毎回異なるわけで、その度のライブの体験が層をなして脳内イメージが形成される。固定したものはない。変化したり進化したりする。
そのような「経験知」を揺さぶるほどの「ほんもの」の強度に驚いた。

で、その絵については後日アップするけれど、ここではともかく、可能なら今、ぜひ、マルモッタン美術館へどうぞ、というお勧めだけひとまずアップ。
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メトロのミュエットで降りるとラネラグの公園があって、そこには一目でラ・フォンテーヌだと分かる銅像がある。
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キツネとカラスの寓話がモティーフ。
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この美術館にはいわゆる美術館カフェはないけれど、帰りには昔の駅を利用したミュエットの「ラ・ガール(La Gare)というレストランで食事できる。
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ここに来るのは久しぶりだったけれど、初夏のいい天気で、昔のレールがあった場所のテラスで食事した。周りより低いので通りの喧騒もなく完全に囲まれた空間なので、落ち着けるし安心できる。大きな声では言えないが、ラマダンの期間中の今、パリの普通のテラスで食事をするのはテロのリスクが気になって避けたいからだ。

昼のコースのデザートのチーズケーキについてきたベリーソースの「ト音記号」がまったく逆向きっていうのには興をそがれるけれど。
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ト音記号がG(ソ)の位置の記号で、Gの筆記体からできたことを知っていればこういうカーブの間違いはあり得ないのだけれど。
そういえばマルモッタン美術館は、今はフランス美術アカデミーの本拠地なので、アカデミー会員が創らせる「剣」の展示があったけれど、音楽評論家でもあったジョルジュ・デュアメルの剣の束はト音記号のデザインだった。
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by mariastella | 2018-06-07 00:05 | アート



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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