L'art de croire             竹下節子ブログ

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猿でもわかるパラダイス その15 (終わり)

15 世界の終わりはいつ来るの ?

福音書は「その時」を注意して待つように促しています。

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ 25,13)とあります。世界の終わりを告げるキリストの再臨(παρουσία / parousía)は信仰上の確信でしたが、その「時」が分からないので、初期のキリスト者の共同体はそれが間もなく起こることだと考えました。黙示録の描写はそれを詩的に表現したものです。それ以来、多くの説教者が、聖書に根差したさまざまな計算法を駆使してその「時」を予告しようとしてきました。「至福千年派」が予告した1848年のものが有名です。そこからは、セブンスデー・アドベンチスト教会のような有名な新宗派が生まれています。

Sekkoのコメント 

うーん、20世紀の終わりに流行った「ノストラダムスの大予言」もそうだけれど、こういう「世界の終わり」系の脅し言説マーケットは苦手だ。『陰謀論に騙されるな』でも書いたけれど、陰謀論と終末論は兄弟みたいなものだ。

「世界の終わり」も「ある特定の個人の終わり」も似たようなものだ。太陽にも寿命があるから地球にも人類にももちろん終わりがあるし、それよりずっと前に個々の人間は等しく「終わり」を迎える。これを読んでいる人はすべて確実に100年後は生きていないだろう。

終わりがあるということを意識して「目を覚ましていなさい」というのは分かる。

「人生は一度しかない、と悟った時から新しい人生が始まる」というやつだ。

とりあえず、あまり壮大なことは考えられないので、21世紀に生まれた若者たちの世代によりよい環境を残す、というのを意識して余生を過ごしたい。

自分も含めて、どういう生き方をした人がどういう人生の納め方をするのかにも興味がある。

ユダヤ=キリスト教においては、旧約聖書の初めあたりでは、ノアの箱舟のノアもそうだけれど、長生きは「報酬」の一種だった。夭逝は懲罰の一種だ。日本の神道のように死は穢れのひとつで、共同体の誰かが死ねば、その日のうちに埋葬し、残った人は服を裂き、断食し、灰を被った。それが『ダニエル書』あたりではじめて「死後の世界」の信仰が登場する。

『第二マカバイ記』で「死」は神の慈悲の采配の範囲となった。

「死者のための祈り」が生まれた。


人と死者と神の関係の進化ってすごく人間的だ。


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by mariastella | 2017-10-31 00:05 | 死生観

猿でも分かるパラダイス その14

問 14  復活は転生とは両立するの ?

転生を信じるということは、同じ魂が「再生」のサイクルの中で次々と複数の肉体を生きると信じることです。「復活」はそうではありません。復活の考えでは、私たちは肉体の死と共に地上での生き方とは別の生き方を始めることになり、それは最終的なものです。

Sekkoのコメント

以前『ヨーロッパの死者の書』の中で書いたことがあるけれど、夭折した子供の「転生」みたいなものを教会が例外として容認する場合も実際には存在した。

まあ、神さまは全能なのでその気になればなんだってしてくれる。新しく生まれた子供がその前に亡くした大切な人の「生まれ変わりだ」と思って慰められるという人間の感情が普遍的にあるのだとしたら、そういう必要に対応するのが宗教の知恵だともいえる。


日本の仏教だって、亡くなった人たちが49日後にどこかに転生してしまったと思うよりも、誰でもちゃんと「成仏」して、または「極楽」に行って、生きている人を見守ってくれる(しかもお盆に戻ってきてくれたり‥)という方向で根付いた。


「転生」は、どこか遠くに行ってしまったり、ステージの低い動物だの虫だのに「格下げ」になってしまったりと考えるのは嫌だけれど、愛することのできる身近なものに「生まれ変わってくれる」と考えられるときに慰めになる。


私にも死んでしまった愛猫が存在の形を変えて私と共に生きていると思える気持ちと、49日後に生まれた子猫をさがして生まれ変わりだと思いたい気持ちが両方ある。

愛の形を継承、再生するという意味では、その二つはひょっとして両立するのではという気も、しないではない。


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by mariastella | 2017-10-30 00:05 | 死生観

三年寝太郎

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厚狭駅 (山口県)前の「寝太郎」像の前で田村洋さんと記念写真。1977年の第19回パリ国際ギターコンクールで作曲部門受賞なさってからちょうど40年ということで、田村さんの新曲を発表できて光栄でした。

私たちと田村さんの出会いからもちょうどまる三年なので、
寝てたわけではないですが、なにか感慨深いです。


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by mariastella | 2017-10-29 00:05 | 雑感

シャークタワーを見て思ったこと

ホテルの部屋でTVをつけたらたまたま、伊戸というところの海中で繰り広げられるシャークタワーというのを見て驚いた。

そこは置き網漁業の場所で、サメに網を食いちぎられるなどの被害に悩んで、餌をやることにしたという。すると、すっかり餌付けされてしまって、決まった時間に餌がもらえるのだから、人間はお友だち、ダイバーたちが潜って撫でても平気、どこのイルカさんですかという雰囲気で、すごい数のサメがタワーのように泳ぎ回る。


これで漁の被害はなくなり、世界中からダイバーやカメラマンたち

が集まり観光資源にもなっているという。


サメというと、フランスでも人が襲われたというような話題ばかりで、凶暴なのだと思っていたけれど、考えてみたら別に人間を憎んでいるわけではないわけで、空腹や防御反応などから来ているのだろう。

サメの種類や生きる環境によって一概には言えないのかもしれないけれど、天然のサメを餌付けすることができる、共存の関係性を作ることも不可能ではないのだなあと感心した。


人間の社会でも、凶暴だ、狂犬だ、根っからのアウトローだ、テロリストだ、好戦的で挑発的な独裁者だ、などと忌み嫌われていて、取り締まる、排除する、抹殺するなどと言われる人やグループが存在する。

でもそういう人に、やみくもに圧力をかけたり、より強い力で制圧しようとする以外の道があるんじゃないかと、生き生き動くサメたちを見ていて思ったのだ。


貧困や差別が、社会からの「落ちこぼれ」を作り出し、恨みや欲求不満から「過激化」を招くというのはすでに言われていることだ。


監獄を増やすよりも学校を増やし、衣食住に安定した満足を供給することが必要なのは自明だ。

全ての人が飢えることなく安全に生きる権利があるというのは本当だ。

一時の「バラマキ」などではなく、調和のとれた共存を実現するためには何が大切なのかについて改めて考えさせられたシャークタワーだった。



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by mariastella | 2017-10-28 00:05 | 雑感

山陽小野田市のコンサート その2

25日は山陽小野田市の文化会館でのコンサート。

師井公二さんとのコラボです。
こんなインスタレーションが、水に反射してきれいです。
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ステージの後ろの4枚組の絵は、今回の新しいレパートリーであるラモーのプログラムをフランスで聴いた師井さんがイメージして制作して下さったもので、ラモーを弾いている時にモチーフがずっと揺れ動いていたという感想を下さった方がいて感激です。
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演奏の後にかわいいこどもたちから花束をもらって溶けてしまっているところです。
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師井さん夫妻とは、2011年に私がパリコンコルド広場の海軍省サロンで開いたチャリティコンサート以来のおつきあいで、今回私たちが初演した曲の作曲者である田村洋さんには、2014年のコンサートの楽屋で5分くらいお話しした以来なのですが、今回、もう、すぐに旧来の仲間という感じがしました。他のメンバーも同様で、この世には「アーチスト」というカテゴリーの人種が確かにいるんだなあとしみじみ思います。

みなさま、ありがとうございました。


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by mariastella | 2017-10-27 00:05

山陽小野田市のコンサート

山陽小野田市での第一回コンサート。中央図書館で。

なんと、フランスとフランス文化の展示までして下さっていた。
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田村洋さんのオリエンタルダンスを初演。

私たちは、いつもこの曲に癒されていたのでなんとなくヒーリング音楽風に弾いていたのだけれど、リハーサルで、田村さんに指揮していただいて、もっとアグレッシブに、アクセントを強調して弾くべきだと分かった。
クラシック・ギターのダンス曲にオリエンタルのものがないので挑戦されたので、確かに私たちの解釈は内省的過ぎた。もっとクリアーに、もっと歯切れよくというのが理解できた。
これをフランスで弾く時には来てくださるということなので、またいろいろなアイデアが浮かぶ。

帰りにはお知り合いの日本酒製造の蔵を見学させていただき、メンバーは、試飲させてもらって感激していた。山猿というお酒です。
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お土産にも持たせていただいたので、ホテルの夕食に、このコンサートに展示やインスタレーションでジョイントして下さった師井公二夫妻と味わいました。


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by mariastella | 2017-10-26 00:07 | 音楽

猿でもわかるパラダイス その13

問 13 復活って結局なあに ?

「肉体」の復活を語る時、キリスト者の信仰は、ある人格がその全体性の中で生きる新しい命のことを宣べています。人間とは、肉体の牢獄に閉じ込められた霊魂ではありません。もし私たちの霊魂だけが神のもとに行けるというなら、それは私たちそのものではありません。私たちの肉体は、その物質的な構成においてはそのまま「よみがえる」わけではなく、塵にかえるでしょう。ですから、肉体の復活というのを死者のよみがえりと混同してはいけません。教会は火葬を許可しています。

Sekkoのコメント

中世のカトリック世界では、信徒の火葬はもちろんあり得ないし(だからこそ異端者は火刑に処せられた)、最後の審判の時に復活するためのモデル像を棺の上に刻んだりした。

本家のイエス・キリストが、両手や脇腹の聖痕を残したまま「復活」したらしいのに、時にはもっとひどい殺され方をした殉教者たちは、死んだ後で傷が消えて美しい姿になっていたという伝説に事欠かない。誰でもゾンビのような蘇生の仕方はしたくない。

十字軍の遠征中に遠方で死んだ騎士などは、さすがに埋葬するために遺体を持って帰れないので、遺体を煮て骨だけを持って帰ったというような例もある。どこの文化でも、朽ちていく「肉」に比べるとそのまま残る「骨」に永遠を託すことのできるエッセンスがあるという考え方はあった。

まあ私は、霊魂だけが転生を繰り返してステージを上げていくとか、霊魂はもともと神から放射されたものが一時的に肉体にとらわれたものだというようなタイプの死生観には、前世の記憶がない限りあまり興味がない。霊肉セットとなった存在形態が別の次元にシフトして今の記憶や生者との関係性を保つことができるという考え方の方が抵抗がない。


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by mariastella | 2017-10-25 00:21 | 死生観

近況

日本に着いてから雨と寒さ、台風と総選挙のニュースとに振り回されて落ち着かなかった。ようやく台風も去り、大きな予定変更もなく、もうすぐ新幹線で厚狭に出発する。(これを書いているのは23日の朝)


フランスでもこの台風が報じられたらしく心配するメールをたくさんもらった。


トリオのメンバーも4度目の同じ時期の公演で初めての長雨と台風に目を丸くしていた。


選挙では沖縄のことが気になった。辺野古埋め立てやヘリ墜落の画像が映されるたびに胸がつまる。


22日は川口市の立派なリリアホールに「バッハとルター」というコンサートにご招待いただいた。さすが新国立劇場の合唱指揮者の三澤洋史さんだけあって、合唱のバランスは完璧だった。アマチュアコーラスが大人数だと音量がありすぎてまいってしまうことが多いのだが完全に三澤さんのカリスマに統制されている。


全体も、バッハやルターというより、三澤さんの信仰と祈りと音楽美学の結晶のようで、三澤さんからのプレゼントという感じだった。

私たちフランスバロック脳のメンバーとしては、管弦楽組曲が、カンタータと対照的な「宮廷音楽」として前座のように紹介されたのはちょっとフラストレーションだったけれど。


また、カンタータは、私は日本語の字幕を見て、メンバーのM はドイツ語を読み、Hが音楽に集中という立体的な聴き方をしたので興味深かった。

それにしても、こんなコンサートに参加する人のほとんどは経済的にも健康上にも問題なく、余裕のある人だと思う。

歌詞にあるような罪深い私に救いを、と必死に訴えるような強迫観念とは縁が薄いのでは、と思った。

正直、今の日本人がバッハをカルチャーとしている意味ってなんだろう、とさえちらりと思う。


バッハはフランスバロックもよく研究していたが、この組曲のフォルラーヌを聴けばわかるが、このダンスにも、アルト(ヴィオラ)で16分音符で埋め立てようという感覚は、フランス的洗練(文字どおり、洗い尽くして、本質だけを残す)には耐えられない構築強迫がある。バッハには「間」が耐えられない。


いつも言っているが、フランスバロックは「間」や「空(くう)」と、そこに軽やかに消えていく装飾音が命で、そういう「間」を味わう感性というのはむしろ日本人的である。


ドイツは連邦国で、今でも旧領邦国家間の確執がしっかり残る。

そしてプロテスタントの峻厳さが加わる。


それに比べて、実際はともかく「単一民族」幻想のある日本や、中央集権の「太陽王」幻想のあるフランスって、いわゆるハイコンテキスト、以心伝心の幻想もあって、ひたすら洗練させていく美、というのが成立する。フランスの宮廷文化は実は日本の町人文化と似ているのだ。


もちろんどの国ののどんな人でも、戦争やら生老病死の危機は免れないから、それこそいざという時には神仏に必死にすがる、という心情はユニヴァーサルではある。

でも、バッハのカンタータは決してユニヴァーサルではないと思う。


三澤さんの情熱にユニヴァーサルな訴求力があるのと、ルターとバッハのカンタータに普遍性が果たしてあるのか、というのは別のような気がする。


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by mariastella | 2017-10-24 00:05 | 音楽

猿でもわかるパラダイス その12

問 12 

リンボ(古聖所,孩所:洗礼を受けなかった幼児やキリスト降誕以前に死んだ善人の霊魂が死後に住む地獄と天国の中間にある場所)ってあるの?

リンボは、特に洗礼を受ける間もなく死んでしまった赤ん坊を受け入れる場所とされていました。カトリック教会は、神が彼らに恵みを与えないとするなどは考えられないと判断して2007年にそれを信ずる必要がないとしています。

Sekkoのコメント

この話を聞くと、思い出すのは、大学時代に見た映画『スケアクロウ』のラストの衝撃だ。妊娠していた妻を五年間も放置していた元船員のアル・パチーノが恐る恐る妻に電話すると、五歳の息子の傍らにいる妻は、子供を産む前に転んで死産した、洗礼を授けてもらっていなかったから子供は地獄に堕ちている、自分はもうすぐ再婚する、と嘘をつく。そのことに衝撃を受けたアル・パチーノは錯乱して、地獄に堕ちた我が子を救うかのように叫びながら、公園にいた子供を抱いて噴水に飛び込み、相棒のジーン・ハックマンに助けられる。

「赤ん坊が洗礼を授けられずに死んだから地獄堕ち」というのは、中世の話かと思っていた。中世でさえ、それではまずいから、形だけいったん蘇生させたことにして急いで洗礼を授けてから埋葬するという習慣があったことも知っている。

アル・パチーノだから、アメリカのイタリア移民でカトリックという想定だろうが、そんなに、錯乱するほどの衝撃なのかと驚いた。もちろん、望みをかけていた妻子との再会の夢が破れて、妻も子供も失った絶望が、「地獄堕ち」という言葉に集約されて増幅したのだろうし、妻も、身勝手な夫に子供を会わせたくないことと、不在に対する一種の「罰」として地獄堕ちなどという言葉(多分夫の泣き所だと知っていて)を口にしたのだろう。

それでも、1970年代半ば、20世紀のアメリカで、そんなことを信じているのだなあ、と印象的だった。そういえばやはり同じころ見た『ゴッドファーザー』のラストシーンもアル・パチーノが代父となった甥の洗礼式に出席しているところだった。ゴッドファーザーという言葉自体が代父(=洗礼親)ということで、イタリア系マフィアにおいて「洗礼」の持つが意味が大きいことは分かるのだけれど。

それにしても、2007年まで待たなくても、昔から赤ん坊には即地獄堕ちではなくて「リンボ」という場所があったのに、妻が「永遠に天国には行けない」と言ったことがこたえたのかもしれない。

天国にしても地獄にしても、様々な「あの世」の表象は、生きている人たちを愛や信頼で結びつけるものであればいいけれど、脅したり罰したり関係性や人間性を壊すものとして使われるのはよくないなあ。



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by mariastella | 2017-10-23 00:10 | 死生観

猿でもわかるパラダイス その11

問 11  地獄に行くのはどんな人 ?

自分の中で「善」と「愛する心」を、修復不可能なまでに破壊してしまった人です。カトリックのカテキズム(要理)によれば、意図的に神を忌避しそれを最後まで貫徹する人ということです。なぜなら神は人を赦すことを決して拒否しませんが、赦しや救いを人に強制することもありません。赦しは受け取ることのできる贈り物なのです。

Sekkoのコメント

「自由意志」というやつだ。キリスト教のこういうタイプの解説を読めば読むほど、神さまが気の毒になってくる。勝手気ままな人間たちに、そむかれても、裏切られても、無視されても、嫌われても、懲りずに愛を捧げてくれるばかりの神さま。

確かに、こういう愛し方や愛され方を体験できたら、神さま、仏さま、と思いたくなる。


イエス・キリストもそうで、共犯にされるのをおそれて自分のことを知らないと三度も言った弟子のペトロのことも、彼が後悔しただけで赦したが、自分を裏切ったユダは赦しを請わないで自死した(ことになっている)ので、地獄に堕ちたなどと言われている。

でも、自由意志というものがどこまで自由意志なのかは実際よく分からない。


幼いころに受けた虐待などのトラウマのせいで愛する心や愛を受け入れる心を破壊されてしまった人もいるかもしれないし。


背を向けながらも背中で「助けて」と言っている人、「無理やり」にでも赦したり救ったりしてくれるのを待っている人もいるかもしれないなあ、と思う。


まあ全能の神なら本音を汲み取ってくれるのかもしれないけれど。


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by mariastella | 2017-10-22 00:15 | 死生観



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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