L'art de croire             竹下節子ブログ

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名前は、ナル

新しい子猫の名前は、ナルです。

今年はNの年で、去年がMの年ということは、前のマヤ(17歳の年に死んだ)が生まれてからの20年が一周したんだなあ、と感慨深いです。

ナルは私が日本のコンサートに行っている間にブルターニュからやってきて、ヌースと呼ばれていました。私は次の子猫は「ネモ、ネオ、ナオ」あたりを考えていたのですが、ナルのきょうだい猫がもうネモという名前をつけられていました。

でも ヌースというのはあまりピンとこないので、NEONAOにしようと日本からLineを送ったら、打ち間違いでNEONEKOと送信されてしまい、みんながNEKOがいい、と返事してきました。それを見たトリオのメンバーもみなNEKOはいいね、と。

でも、いくらなんでもネコでは…

日本人にとっては「吾輩は猫である、名前はまだない」というように、名前と認識されません。

結局、別の名前を考えることにして、ナルが採用されました。


ナルは「成る」で日本語では成就するという意味だ、ついでに、次の天皇陛下も小さいときは「ナルちゃん」と呼ばれていた(字は違うのに)、などと付け加えて、ナルが受け入れられました。
でも、NARUと書けばフランス語ではナルと発音されません。ナルと発音されるにはNALOUと書かなければなりませんが、フランス人はみんな日本語表記の方がかっこいいというのでNARUNalou)と書くことにしました。
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健康手帳に書いてあったNoussを訂正しました。
こういうケースに入っています。
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日本から帰って4週間近くになりますが、こんなに大きくなりました。
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新聞を読んでいると必ず上に乗るのであきらめて写真を撮ります。
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食パン型クッションからもはみだします。
近頃の子供と同じように、アイパッドを置いてあると肉球で操作して動かします。
そんな時はもう何もできないので、CAT GAMES というビデオをダウンロードしているのを開いてやります。ネズミ、ハエ、ハト、紐などいろいろなパターンがありますが、金魚がお気に入りです。トイレに入るとドアの前で待っているのでペーパーを少したたんで隙間に挟むと飛び上がって落とします。忍者の訓練みたいに毎日少しずつ高さを上げていっています。スピヌーは1m50くらいは楽に届いていたっけ。



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by mariastella | 2017-11-30 00:05 |

実は、メロメロ

11月3日にフランスに帰ってきたら、新しい子猫がうちにいました。

スピヌーと同じミルクティー色が基調ですが、白いところはひとつもなく、マーブル模様です。
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上から見ると背中はシマリスそっくりで方の模様が昆虫みたいで、フクロウっぽくもある複雑模様。
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でも横になると、脇腹はこういうかわいらしさ。

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しっぽや脚には縞が入っていますが、その間隔が何とか数列みたいに微妙なリズムです。
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体を縮めると、脇腹の模様が崩れてそれもかわいい。

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食パン型のクッションの上で寝ます。
いつもゴロゴロいって、甘えん坊で、ほおっておいたらお兄ちゃんの食事までゲットしてしまいます。


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by mariastella | 2017-11-29 00:05 |

『オーケストラ・クラス』ラシド・アミ監督、カド・メラッド主演

最近観たフランス映画の続き。

『オーケストラ・クラス(原題メロディーLa Mélodie) 』ラシド・アミRachid Hami 監督、カド・メラッドKad Merad主演


これは暴力シーンも絶対にない精神衛生にいい映画。

50がらみのバイオリニストのシモンがパリの下町の中学1年のクラスでバイオリンを教えることになる。フランスで中1というと日本の6年生の年頃で、反抗期の一歩手前。フランスの小学校には音楽の授業がないから、親に地域の音楽院に登録してもらえなかった子供たちはドレミも読めない。

この映画はいわゆるfeel good movieで、社会的に恵まれない階層の子供が教育者に出会って人生に、未来に、意味と希望が生まれるというもの。その意味では予定調和の世界だ。

カド・メラッドというコメディのイメージが強い性格俳優が、バイオリニストのシモンを演じる。彼もまた、子供たちとの交流から人生の喜び、音楽のすばらしさを再発見するというストーリー。

音楽によって恵まれない子供たちを助けるという試みはいろいろな国にある。ベネズエラが有名で前にも少し書いた

フランスでも、この映画のモデルになったのは2010年から試みられているDémosという政策で、移民の子弟らが多い学区で3000人の子供たちに楽器を与え、教えて、オーケストラに参加して一流のホールで弾かせるというものだ。この映画では、リムスキーコルサコフのシェヘラザードをパリのフィルハーモニー・ホールで演奏する、という目標がたてられる。


去年の6月に、フィルハーモニーで200人のバイオリン(とビオラ)演奏に参加するために暗譜に励んだ私としては親近感あり過ぎ。私の場合はすでに音楽院の中級以上の生徒という条件付きでフランス中から小学生から85歳までが参加というむしろ「贅沢」な冒険だったのだけれど、大勢で、大ホールで、一つの音楽を創るというわくわく感は同じだ。

上演の後で監督のラシド・アミとの質疑応答があった。8歳以上の子供の参加がOKで、子供たちの質問がかわいかった。小学生に、どうして小学生でなくて中学生を使ったんですか ? と聞かれた監督は、12歳未満は一日に2時間までしか拘束できないこと、12歳からは4時間拘束できるので撮影が可能だった、と答えた。

パリとパリの近郊から、一度もバイオリンを弾いたことのない子供たちのオーディションをして15人選んだ。移民の子供(才能を見出されてソリストになる子供はセネガルから来た母子家庭という設定)などが中心なので、映画に出すためには両親の承諾が必要で、シングルマザーの子供のうち4人の父親を探し出してサインしてもらったが、父親に会ったこともない子供たちにはそのことを話せなかった、と言っていた。

映画には、途中で電線のショートで火災になり音楽室が使えなくなるというハプニングがあるのだが、それを心配した子供の質問に答えて、実はこの音楽室だけは、撮影のために特別に作ったもので、それを燃やしたのだという裏話も教えてくれた。

撮影にかけた三ヶ月のうちに、実際に、演技もさせ、バイオリン(鈴木メソード)も習わせてオーケストラと弾かせるという冒険に成功した。全員が、将来も役者になりたいと言い、5人がバイオリンを続ける、ソリスト役の少年はバイオリンの道に進むと言っているそうだ。


映画の中で、子供も、親たちも、実際にシモンが弾くバイオリンの音色に魅せられる。クラシック音楽の敷居が高いとかいうよりも、今の子供たちはイヤホンなどを通しての再生音楽以外はなかなか耳にする機会がないから、生の音楽に涙を流すほど感動するのだ。この辺の実感は分かる。

監督は、ゲットーの子供がバイオリンというノーブルな楽器を持っている姿にドラマを感じたので、管楽器ではなく敢えてバイオリンにした、と言う。

私はいつもは、こういう上映会の後の監督とのディスカッションには積極的に発言するタイプなのだけれど、今回は終始聞くだけにした。

ビオラ弾きでカルテットもやるし、フィルハーモニーでのオーケストラとの共演もし、生徒との交流も仲間とのコンサートもある私にとっては、この映画はいろいろツボにはまりすぎているからこそ満足したのだけれど、それだけに「普通の観客」の視点を持てない。

よけいな突っ込みどころが多すぎるのだ。

映画の中で、カルテットの一員として演奏旅行が決まったシモンが中学校での仕事を途中でやめる、というのだけれど、最初のパリの聖堂でのコンサートの後で、結局、演奏旅行をキャンセルして子供たちの指導を続けることになる。その理由は、聖堂でのコンサートの後で、喜びを感じられなかった、子供たちと音楽をやっている時の方が喜びを感じられることが分かったから、というものだ。

シナリオとしては納得がいくけれど、演奏家としてはまったく信じられない。

あのような場所でモーツアルトのディベルティメントをあのようなパート(第二バイオリン)で弾いた後で「喜びを感じられない」なんてあり得ない。

責任感から子供たちの指導を続けるとしても、カルテットでの演奏旅行の方が絶対にいい。演奏者としてのクオリティ・オブ・ライフとしては比較にならない。

ラストのフィルハーモニーでのシーンも、本番でソリストの少年のうまさに指揮者が驚いたような顔をするのが信じられない。これもシナリオ的には、最初の合わせでひどいレベルだと絶望したシーンがあるので、本番での「奇跡」に指揮者がうなる、という筋書きは分かるけれど、本番の前にさらに何度もリハーサルがあったはずで、フィルハーモニーのリハーサル室や、舞台でもすでに合わせているはずだから、そんな意外性があるわけがない。

バイオリンがノーブルな楽器というのも実は今のフランスの下町の公立音楽院では逆だ。ピアノは自宅にピアノを個人でレンタルするか購入するかが必要だけれど、バイオリンやビオラは、子供用のサイズのものが音楽院から貸し出される。だからシューズやレオタードなどが必要なバレエなどと比べても、バイオリンの方が気楽で子供を通わせることが多い(親の所得が少なければレッスン料も限りなく安くなる)。だから、ピアノのクラスに比べてバイオリンのクラスの方が明らかに外国人の子供や移民の子供が多い。ただし、親がフォローしないので、その多くは途中でやめていくし、学年末の試験で振り落とされる。

他にも不満はある。この映画でシモンが弾いて子供たちや親を感動させるソロ曲はメンデルスゾーンのコンチェルトにバッハのパルティータだ。生徒二人を招いたコンサートで弾いたのはモーツアルト、クライマックスの課題曲がリムスキーコルサコフという選曲。

まあ、リムスキーコルサコフはかなりフランス的な色彩はあるけれど、そして、ソリストの少年を際立たせる効果のために選んだそうだけれど、実際にこの種のプロジェクトの課題曲としては向いていないので不自然だ。

バッハのパルティータのシャコンヌもフランス舞曲風とは程遠い弾かれ方だし…。フランスが舞台の音楽ストーリーなのにフランス音楽が一つもなく、「クラシック音楽=ノーブル=バイオリン=ドイツ音楽」のような先入観に立つのはいかがなものか…

などと、小さな違和感が積み重なる。

もちろん私が知らない世界がテーマの映画なら、ディティールにおいてどんな不自然な場面や考証のエラーやご都合主義があったとしても、それに気づかないだろうし、気にもしないし、それが映画のフィクション世界を妨げることもない。

あまりにも身近なので気になるのだ。

自分もアルジェリア生まれでパリ近郊の貧しい町で育ったという32歳の監督は、中学校で働いたこともあるが6ヶ月しか続かなかったという。小学生の子供が「どうして映画の中の生徒たちは悪い言葉ばかり使うのですか?」と質問したら、「子供に見せるためにもっと上品な言葉を使うことしたらそれは現実とは違うことになる、ぼくもこういう言葉を使っていたし、今も子供たちはこういう風にしゃべっている、ありのままを撮っただけだ」と答えた。

19ヶ国の上映が決まっているそうで、イタリア、アンダルシア、韓国での上映に出席したそうだ。生徒たちの大半が黒人やアラブ系などであることはフランスのサッカーチームと同じで違和感は持たれない、などとも言っていた。

こうなると、この映画の社会的背景はある意味で私と遠いところにあるわけで、弦楽器、フィルハーモニー、生徒に教える、などという共通点がある分、かえって断絶も感じる。

シモンのセリフの中で実感があると思ったのは、「どこにでも才能のある子とまるでダメな子とがいる」と言い切るところだ。

才能のある子もゼロの子もいっしょにグループとして何かを作り上げていくことは難しい。バイオリンがダメでも、スポーツやダンスの才能があったり、絵の才能があったりする子、数学の才能がある子などはいるだろう。でもそんな子供たちはこのプロジェクトにとってはお荷物であり、本人にも苦痛かもしれない。教える方にとっても喜びがない。こういう自明な多様性があるはずなのに、貧しい子供にもバイオリンとクラシック音楽を与えると人生の道が開ける、みたいなオプティミズムにも違和感がある。

今の日本は知らないけれど、私の小中学校の頃は、全員がなんでもかんでもやらされた。嫌いな科目、不得手な科目に苦しんだ者も多かったかもしれないけれど、少なくとも、自分は何が嫌いなのか、不得手なのかを自覚する役にはたったかもしれない。

小学生の頃から私がピアノを教えている生徒が今は高校三年になり、来年のバカロレアで、理系バカロレアのオプションとして音楽も受けるというので、自由曲を準備させている。最初は、フランスであまり知られていないドイツ・ロマン派の曲を練習させていたのだけれど、今年のテーマがかなり現代的なものだということが分かって、サティに切り替えたところだ。ラヴェルの左手のためのコンチェルトなど10曲の課題曲から二つをくじで引いて、当たった曲の作曲者や時代背景や音楽の構成などを審査員の前で発表し、質問に答え、それから自由曲の実技を披露する。その曲の背景の説明や、課題曲との関係も話さなければならない。

私のトリオのメンバーのHは音楽バカロレアの審査員も毎年しているので、アドバイスをもらうつもりだけれど、私の生徒のリセでは、専任の担当教師がいない。私が全部、準備を助ける。

オプションなので、自分の平均点を下回る点数である場合は計算に入れられないので、失敗してバカロレアの平均点の足を引っ張ることにはならないが、受験準備だけでも結構時間は取られる。でも、ここでこの10曲についてしっかり学べば、これからの人生の「教養資産」になると思うよ、と私は彼女に言った。

彼女も私の個人レッスンをずっと受けているのだし、クラシック・バレーもずっとやっていて、私立の進学校に通ってエリートコースを目指しているのだから、「貧しい家庭の子供たちに楽器を教える」冒険などとは程遠い。でも、楽器演奏という純粋にテクニックの習得とそれを超える音と音の間に出現する「音楽」と、曲を通しての作曲家との出会い、時代との出会い、人間性の普遍との出会い、などから生まれる錬金術のようなマジックの瞬間を共有する体験は、何物にも代えがたい。彼女にとっても、私にとっても。

ある曲の演奏について彼女の感性と私の感性がぴったり一致したような時は、その部分でとても特別な関係性が生まれる。


一対一(正確には作曲家も合わせて三人だけれど)の贅沢というのが私にはちょうどいいサイズなのかもしれない。


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by mariastella | 2017-11-28 00:05 | 映画

ミシェル・ウエルベックの発言、メルケルとシドゥオゥ

『従属』Soumissionという小説で、フランスにイスラム教徒の大統領が生まれる近未来の小説で話題になったミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)、ネオ保守の雑誌のインタビューで、


フランスのイスラム教徒たちが満足するのは、フランスがカトリックを国教に戻してその上でイスラムを寛容にとり扱う時だ、


みたいな発言をしているという。


どの国でもマジョリティとマイノリティ、文化、伝統などが相対的な力で社会を動かしているから、彼の一見反動的な極論にも、なるほど、イスラム教徒にフランスでのマイノリティである立場と意識を自覚させれば感謝して謙虚に暮らすだろう、と納得する人もいるかもしれない。


でも、それをいうなら、エリザベス女王を首長とする「国教会」があって、国民全部がいったんは国教会に属するという形式が続くイギリスで、共同体主義の中でイスラム教条主義が横行していたりテロの標的にもなっていたりすることを説明できない。


フランスだって、いわば「ライシテ(フランス風政教分離)の共和国主義」そのものを「国教」としているような国なのだから、そのライシテの中で信教の自由を擁護されるムスリムが、「感謝」などしないで過激派に取り入れられてゆくことを説明できない。

ドイツでメルケル首相のマジョリティ連立政権の試みが、難民問題と環境問題で暗礁に乗り上げているのも心配だ。


過去に、彼女が難民百万人でもドイツはOKと言った時に、EUの他の国からは、現実を知らない理想主義だと叩かれるよりも、それはドイツの高齢化と労働力不足対策だなどと言われた。

彼女が難民OKというのは、「助けを求めて来るものをすべて受け入れるのはEUの精神に合致しているから」という建前だったので、その「正論」に踏み込むことはできずに、まるでそれがドイツの利己的なご都合主義であるかのように批判されたのだ。

私はメルケルの人道主義は本音だったと思う。

その本音を通せない現実との折り合いがつけられなかった。


前にも書いたことがあるけれど、ドイツのようにマッチョな社会で、メルケルが長期間政権を維持してきたことは不思議だ。もちろん好調な経済の後ろ盾があったにしろ、マクダ・ゲッベルスのような女性の悲劇を生んだ国で、しかも、「共産圏」に組み入れられた東ドイツ出身で、よくここまで来たなあと思う。


けれども、それをいうなら今のポーランドの首相ベアタ・シドゥオゥ(シェドワの表記もあり)の白人カトリック・ポーランドファーストもすごい。

今書いている本の中で、「共産主義はキリスト教最後の異端」という言葉があるのだけれど、

メルケル(ルター派)のキリスト教的信条とEUのキリスト教ルーツ、

ポーランドとカトリック、

この旧共産圏の二つの大国(東ドイツとポーランド)の二人の女性首相の対照的な姿勢と、

それぞれに向けられる国民の視線の違い

に感慨を覚える。


彼女らに比べたら、なんだかんだ言ってもフランスは苦労が足りないお花畑の男たちがのさばっているなあ、などとひそかに思う。


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by mariastella | 2017-11-27 00:05 | 雑感

パリのメトロと日本人学者。真鍋 淑郎

今年の春ごろから、パリの高速地下鉄RERB線の北駅の壁に、何やら難しそうな数式が色とりどりの背景色の中に書かれたものが並んでいる。普通は特大の広告が貼られる場所だ。

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このういうのとか

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こういうの。


一見して何の数式かよく分からないし、なんとなく不完全な気もする。

でも、いったい何なのか気になって、人々は答えを探してホームを歩くことになる。


すると、突然「Shukuro Manabe !」とだけあるものが出てくる。

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えっ、なんとなく日本人の名前らしいが、Shukuroってよく分からない。

その人が真鍋 淑郎(まなべ しゅくろう)という日本の気象学者で、今の地球の温暖化説を唱えた先駆者で有名な人だと後で確認する。

何十年もパリの地下鉄に乗っているけれど、日本人の名前だけが書かれているポスターなんてはじめてだ。

説明によると、これはれっきとしたアートで、2015年のパリの環境会議COP 21 を記念してLIAM GILLICK というアメリカ在住のイギリス人アーティストによる「連作」らしい。だから、複雑な数式にインスパイアされているとはいえ、全体としては「デザイン」、「モティーフ」だし、政治的メッセージもある御用アートといったところか。でも、かなり抽象的な数式をこうして並べて注意を引き、視線を動かすことには成功しているし、結果として印象は強烈だ。

イギリスのアーティストがパリのメトロに日本人の名前を書き、気象学の数式を並べる。なかなかシュールだ。


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by mariastella | 2017-11-26 00:05 | フランス

伊藤詩織さんと『パリのすてきなおじさん』

昨日の記事についてサイトの掲示板でコメントをいただいた

ワインスタインに始まったセクハラ告発事件は、日本では対岸の火事的な感じで、飛び火していないらしい。


そのすぐ後、今発売中の週間『女性自身』(私はネットのマガジンサービスでアクセスできる)で、詩織さんが、彼女の本を読んで、


「おなじ女性として恥ずかしい、私なら会見であんな服は着ない」

とか


「私は厳しく育てられたから、飲みに行く場所も人も時間も選ぶ」


などという同性の声があったのが悲しかった、


と言っているのを読んだ。


うーん、「女性の敵は女性」などという言葉もあるが、これでは、「自分も同じ人から似たような被害を受けた」というような女性がもしいたとしても、絶対に名乗り出て連帯しようなどとしてくれないのだろうなあ。

で、その詩織さんが同じ記事の中で、

「最近読んだ『パリのすてきなおじさん』という本があります。ここに登場するおじさんの多くは地位や人種と関係なく、それぞれの人生、自分自身を受け入れています。そして他人と違うことを恐れていません。日本も男女問わずそういう人が増えればいいなって」


とも言っている。

昨日の記事でもふれたように、フランスのセクハラはギャラントリーと表裏一体の伝統があって偽善的だと言われている。女性をリスペクトし、崇めたり、守ったりする騎士道以来の精神やら宮廷のマナーやらも引きずっている。

でも、詩織さんの気にいるような「パリのすてきなおじさん」たちってどんな人だろう。

興味を持ってアマゾンのレビューを見たら、みな高評価でこういうのがあった。

>>あれだけ多くのパリジャンたちを眺めていても、「ふむっ」となるのは移民のおじさんたちばかりというのも非常に興味深い。彼らは深いしわに刻まれた年輪以上に想像を絶する歴史を抱えていたりする。若者おじさんでも、笑顔の奥で深い哀しみをたたえていたりする。彼女は取材相手に寄り添い、その眼はとてもあたたかい。受け入れて共感してもらえると、取材相手も心をほぐす。最後には「孫娘になったような気持ちで」おじさんに肩を抱いてもらう。<<

ええっ、移民のおじさんたちなのかい、

で「最後には『孫娘になったような気持ちで』おじさんに肩を抱いてもらう」のかい。

具体的には

50歳のハゲのクスクス屋のおやじ、かたや92歳の競馬場通いのおじいさん」

などだそうだ。


うーん、この本は読んでいないから何とも言えないけれど、もうチョイスからして突っ込みどころが多すぎだ。こんな人たちはきっとそれぞれの「人生の達人」かもしれないけれど、パリからでも詩織さんを支援するために声を上げてくれるおじさんたちはこんな人たちではないよ、とは思ってしまう。

私がよく知っていて何十年も付き合ってきたパリのおじさんたち、のことを考えてみると、昔は、日本だったらどうだろうなとよく比較したものだが、一番の違いはやはり「世間の目」というやつに落ち着く。

絶対的に弱者の側に立つ「すてきなおじさん」は日本にもフランスにも一定数は必ずいるけれど、日本では弱者の側についただけで自分までいじめの対象になってしまったりすることがある。弱者の側に堂々と立つのが許されるのは特別強い人だけ、という奇妙な現象もある。

このところ、もちろんワインスタイン事件の影響もあるのだけれど、フランスではフェミニズムの本質にかかわるいろいろな議論が起こっている。両親が別れた場合の子供が基本的に両親のそれぞれの家で半々過ごすようにすることなどだ(今は70%ほどが母親の家をメインに暮らす。このことを差別だと父親が訴えている)。昨年ようやく日常必需品として消費税に相当する税が20%から5,5%へと下げられた生理用品を基本的に無料で配布(避妊具の無料配布は存在する)するべきだとか、高所得家庭の子育て支援金を減らしたり撤廃したりすることの問題などだ。(フランスにおける、無差別の子育て援助は、単なる社会福祉政策ではなく、「子供は社会全体が育てる」というメッセージだからだ。)

それにしても、数あるマイノリティ差別の問題でも、実は一番複合的で複雑で、逆説的なのが女性差別なんだろうなあ、とあらためて思う。


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by mariastella | 2017-11-25 02:27 | フェミニズム

ワインスタインと伊藤詩織さん

前に、「詩織さん事件」について、書こうと思ったけれど書けない事情を記事にしたことがある

今は「伊藤詩織」さんとして検察、警察などのブラックボックスについて著書を出して、決して追及をやめず、他の被害者のためにも役立とうとしているのが分かる。

彼女を応援する人も多いと思うけれど、ネットなどで見ると、ハニートラップだとか、「反戦派=左翼=在日」認定など、あまりにもひどい「セカンド・レイプ」の典型のような誹謗中傷が少なくないことに驚く。

前の記事に書いたように、私はこの件について距離を置こうと思っていたのだけれど、このごろ、すごく気になることがある。それはハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが女優やモデルなどからセクハラ行為で訴えた事件が拡大したことだ。


大物女優も声を上げたし、他の監督や有名俳優への告発も芋づる式にどんどん出てきた。

フランスでもこの話題は広がって、それに触発されて、SNSで、私も犠牲者だ、という告発合戦が始まった。


イザベル・アジャーニは、フランスでの女優へのセクハラには別の偽善的な恋愛ゲーム文化がある、と分析している。

"En France, il y a les trois G: galanterie,grivoiserie, goujaterie"

"glisser del'une à l'autre en prétextant le jeu de la séduction" fait partie des"armes de l'arsenal de défense des prédateurs et des harceleurs".

"Laissons savoir à ces messieurs que les actrices,tout comme les ouvrières, les agricultrices, ou les ingénieures, lescommerciales, les institutrices, les mamans ou les putains sont toutes libresde baiser, libres d'avorter. Et libres de parler!".

暇がないので訳さないけれど、女優だけでなく、すべての女性の尊厳と自由に関わることだと述べている。セクハラが「力関係」だけではなくギャラントリーを透過して担保されるような文化背景がフランスにはあるというのだ。

ともかく、セクハラだけでなく、汚職、忖度、身内びいき、体罰などの「事件」が「発覚」する度に、

こういうのは氷山の一角であって、

昔からあった、

どこにでもある、

程度の差こそあれだれでもやっている、

文化、習慣、伝統の一種で、暗黙の合意がある、

というような言説が必ず出てくる。

そのような体質の社会で、ホテルの従業員などではなくて、すでに名を成した大女優だの、詩織さんのように若くて美しくて知的な女性だのが堂々と告発し始めるというのは、勇気もあり、説得力もあるやり方だ。

で、私が不思議だと思ったのは、ワインスタイン事件が日本でも話題になっている割には、例えば日本の大女優がプロデューサーらを告発し始めたという話を耳にしないからだ。

女優でなくとも、若い女性から仕事の紹介やいろいろな根回し、融通を頼まれた「影響力のある男」が、その「役得」として女性を誘ってみたり、セクハラをしたりというのは、決して例外的なことではないと思う。

アメリカに駐在中のTVのプロデューサーだとか政治の中枢に人脈を持っているというような人のところに、何か便宜を図ってもらえないかとコンタクトしたり相談したりする人は多いだろう。

それが若い女性であった場合にセクハラに向かうタイプの人であれば、「そういうことはよくある」のではないだろうか。詩織さんのケースが唯一の例外だとは信じがたい。

だから、ワインスタイン事件でこれまで黙っていた女性たちが「実は私も」と連帯し始めたのを見て、これで、「実は私もその人物からこういうセクハラを受けました」という声を上げて詩織さんを援護する女性が複数出てくるのではないかなあ、そしたら、状況は劇的に変化するだろうなあ、と私は思っていたのだ。


どうもそんな気配はない。


で、「もし、私だったら ?」と想像してみた。

うーん、日本で日本人の男性からセクハラを受けたことがあるとしたら、やはり「いまさら言いたくない」と思う。

で、フランスでフランス人男性からセクハラを受けたことがあるとしたら、「この際だから私も告発に参加しよう」と思うだろう。

この差はなんだろう。

おそるべし、日本文化の壁。


もし両親が生きていたら、お願いだからそんなことしないで、と絶対に言われる。

フランス人なら、少なくとも私の生きているカテゴリーの家族や友達なら、一緒に戦ってくれる気が満々だと思う。

昔、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」などと言う言葉があったけれど、「セクハラ」、「いじめ」、「体罰」、「身内びいき」を告発する赤信号をみんなで渡ろうということにはならないのだろうか。

この赤信号、道路交通法自体を見直す必要まで考えさせられる。


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by mariastella | 2017-11-24 00:05 | 雑感

CD とDVD の申し込み先です。

お知らせ

最近、私の『バロック音楽はなぜ癒すのか』を図書館でお読みになって、CDを注文してくださった方がいるのですが、その方のメールに返信したのに「アドレス不明」で入りませんでした。このCDはもともと本とおそろいで制作したものですが、CDブックにすると流通が変わるというのでばらばらに販売したものです。

今は録音のシステム技術も数段進歩して、ある意味でまったくバロック的ではない部分が目立つので、その後は、バロック・ダンサーのためにだけ少しずつ録音しました。今まで購入してくださった方に感謝します。


現在、まだ入手可能なCDや今回発売した音楽紙芝居『レミとミーファの冒険』のDVDは東京四谷のドン・ボスコ社のショップで取り扱っていただいています。


ドン・ボスコ社のサイトからお問い合わせくだされば、ネットからでも購入できると思います。

よろしくお願いします。

お子様やお孫さんへのプレゼントにぜひ音楽童話をどうぞ。

フランス・バロックを耳にする日本人の子供がいることを想像すると幸せです。


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by mariastella | 2017-11-23 11:57 | お知らせ

マクダ・ゲッベルスの話

公営放送で、ナチスの宣伝相として悪名を馳せたヨーゼフ・ゲッベルスの妻マクダの生涯を語るドキュメンタリーを視聴した。


ナチスの「悪の権化」みたいな人たちは、ハンナ・アーレントが『悪の陳腐さについて』で凡庸な小役人風情のアイヒマンを描写して以来、ヒトラー以外はみな、「すべての人が抱えていて時と場合によって発露する悪」の中に相対化というか回収されていった印象が私にはあった。

そのヒトラーでさえエヴァ(エ-ファ)・ブラウンとのかかわりをたどったドキュメンタリーを見ていると、「人間」の部分が見えて先入観が揺らいだことがある


で、結婚していないエヴァを絶対にファースト・レディにできないヒトラーが、ベルリンオペラやバイロイトなどに一緒に出席してファースト・レディとして扱ったのが金髪碧眼のアーリア的美女のマクダだった。マクダはヒトラーに夢中だったが、自分は結婚しないので自分のそばにいたいなら右腕であるゲッべルスと結婚しろ、と言ったそうだ。

ヒトラーも立ち会った結婚式はなぜか夫妻とも黒づくめの衣装だった。


もっともマクダは、ヒトラーの演説を聴く前にゲッベルスの演説を聴いてナチスに入党する決心をしたくらいだから、ゲッベルスにも心酔はしていた。

よく揶揄されるけれど、ヒトラーの掲げるアーリア人、ゲルマン人のイメージとは両者ともずれていて、ヒトラーは黒髪に近かったし、ゲッベルスは小柄で、ポリオの後遺症で足の長さが違い、補助具をつけた右足を内側に曲げて足を引きずっていた。なで肩で貧相だ。

彼らに比べるとマクダは、アーリア美女の典型だったし、ゲッベルスとの間に9年で6人も生んだ子供たちもみな金髪碧眼風の「ナチス・ドイツの子供たち」のイメージにぴったりだった。実際、この子供たちの週間ニュースが映画館で流されるなど、マクダと子供たちはナチス・ドイツの理想の家庭のプロパガンダとして使われた。(子供たちは、ベルリン爆撃の時には無理やりベルリンにとどめおかれて、ヒトラーとエヴァの自殺の後で、後を追って死ぬゲッベルスとマクダから毒殺された。)


子供たちが整列したり駆け回ったりする映像は、『サウンド・オブ・ミュージック』の7人の子供たちにそっくりだ。実際、地下壕の中でヒトラーを慰めるために歌を歌わされていたそうだ。


このマクダは、ゲッベルスの前に、ギュンター・クヴァントという大富豪の貴族と結婚していた。20歳で生んだハラルトという息子はのちにゲッベルスの養子になった。

この富豪はBMWなども所有しているマルチ企業のトップだったそうで、この人との離婚騒動でマクダは莫大な財産と年金を獲得する。もともと美術史家か弁護士になりたかったというマクダは、その資金でいわばベルリンの社交界の花形、サロンの女主人のようになって、いろいろな浮名を流していた。

しかし、29歳という、当時としては女性としては下り坂に向かって人生の意味を失いかけていたころに、ある貴族のナチ党員に声をかけられてゲッベルスのミーティングに出かける。右手を上げさせて聴衆を巻き込むカルト的な熱狂に感嘆してナチスのイデオロギーにのめりこむことになるのだ。

ゲッベルスも博士号を持つ知識人だった。マクダとゲッベルスは哲学やイデオロギーについて何時間も議論したという。


マクダは決して、単純で世間を知らない女性などではなかった。


幼い時に父と分かれ、ベルギーの寄宿舎に入れられたことでフランス語やオランダ語も話すマルチリンガルだったし、母の再婚相手で養父となったユダヤ人のリヒャルト・フリートレンダーともうまくいっていたし、実父が大学入学の学費を出し、18歳でユダヤ人のハイム・アルロゾルフと大恋愛をしてシオニズム運動に加わり、ダビデの星をアクセサリーにしていたという過去まである。(のちに、フリートレンダーも、イスラエルに渡ったアルロゾロフも殺されているのは偶然ではないだろう)


マクダは自分の自由と放縦が、貴族の大富豪である前夫の金で成り立っているのを知っていた。だから、初めは、「国家社会主義」と「社会主義」を掲げるナチスとの接触が外からの目にも微妙だった。

頭がよくて野心があって自立心がある若い女性が、ユダヤ人に共感してシオニズムの応援をしたり、ナチスの掲げる「社会主義」の理想に洗脳されたりというのは理解できるけれど、自分のブルジョワとしての立場とそれをどう両立していくかは別の問題だった。財産を守り年金を失わないために絶対に「共産主義」にはいかない、というのが境界線だったのだ。

結果として、社交界の花形だったマクダを取り込むことが保守本流の警戒を解き、ブルジョワ保守派も含めてドイツ全体が国家社会主義という名の独裁政権を許してしまう一助ともなった。


ところが、ゲッベルスと結婚してからは、ファースト・レディとしてヒトラーのそばにくっついていられる時期はそう長くなく、「女性は家庭に入って子供に食事をさせる」という戦時ナチスの「理想」の看板にさせられてしまうわけで、それは自由と自立と野心のあるマクダの望んでいたことではなかった。

で、ゲッベルスの方はどんどん権力を持ち、女優と浮気をし、マクダは離婚を望むが、ヒットラーにとめられてヒットラーがその女優を追放して危機をおさめるなどの綱渡りが続いていたのだ。

結婚はしない、自分はすべてのドイツの子供たち(ユダヤ人や障碍者はドイツの子供とはみなされない)と称するヒトラーにとって、別荘にやってくる金髪碧眼のマクダの子供たちをかわいがる「慈父」のプロパガンダ映像は価値のあるものだった。

いつもながら、どこにスポットライトをあてるかで歴史の見方や共感の仕方はころころ変化する。このような稀有な運命の末に子供たちを殺害して自分も死の道しかないと悟った女性の悲劇と、ユダヤ人というだけである日突然逮捕されて貨物列車で収容所に連行されて子供たちもろともガス室で殺される女性の悲劇を比べること自体には意味がない。

でも、私たちは、この悲劇の両方から学ぶもの、学べるものがある。

特に、女性たちは、金、神、知識体系、イデオロギーのどの位相にも内在する性差別も同時に被ってきた。


アンネ・フランク、エティ・ヒレスム、エデット・シュタインら貴重な記録を残してくれたユダヤ人女性の証言は何度も反芻する価値がある。同時に、権力者の伴侶として「悪」に加担してきた女性たちが犠牲に供されてきた歴史の検証も絶対に侮れない。

私はこれまで、その中で独自の場所を占める「女神」「聖母」「聖女」「女性教祖」らの生き方と生かされ方と語られ方に特に興味を持ってきたが、もっともっと複眼的な視点を盛り込んでいきたい、とマクダ・ゲッベルスを見て考えた。

歴史に翻弄されて命を絶たれた人たちの死を無駄にしてはいけない。

何に対して「ノー」と言い続けるべきなのかを学びたい。


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by mariastella | 2017-11-23 00:05 | 雑感

主の祈りと「服従」

キリスト教で一番大切な祈りとされているものにイエス・キリストが伝えた「主の祈り」というものがある(マタイによる福音書6-13など)。

その、今の日本の共同訳聖書で


「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」


という部分は、2000年の、日本のカトリックと聖公会の共通口語訳による「主の祈り」では


「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」


となっているようだ。


確かに「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と言うと、なんとなく「悪い友達」に引きこまれないように、サタンだとか蛇に出会いませんように」というイメージもあるが、「主の祈り」の「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」ならもっと、自分の内面の誘惑や悪を連想するかもしれない。

毎日曜のミサで唱えるものだから、こっちの方がより効果があるのかも。

プロテスタントでは「我らをこころみにあわせず」だったり、正教会では「我等を誘いに導かず」というものなどと、ネットには出てきた。


参考に全文は

「天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。


で、非キリスト教者にも懐かしい文語訳では


「天にましますわれらの父よ、
願わくは御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨〔みむね〕の天に行わるる如く
地にも行われんことを。
われらの日用の糧を
今日〔こんにち〕われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、
われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。」


ヘブライ語の修辞法では最も大事なものが中心にあって、前と後ろに挟まれることになっているという考え方からは、最初の「御名、御国、御旨」というのは「王としての属性」、最後の「罪、赦し、悪」というのが「神としての属性」、一番大切なのが真ん中の、「今日の糧をください」という「父と子の関係」だという説がある。父としての神が一番重要なのだ、という解釈になるほどと思ったことを覚えている。

で、その「神としての神」の部分に、「悪へのいざない」というか、「試み」が出てくるわけだ。


1988年版の英語訳では

Save us from the time of trial


らしくて、「遭わせないでください」というのは試み、誘惑そのものというよりそのtimeということで、よりタイミングのイメージがある。「遭う」という漢字がその意味なのか。

And lead us not into temptation, というのもあった。


そもそも誘惑があり得る環境に人を置いたのは神で、その誘惑に負ける自由意志を与えたのも神だし、いろいろな試練を与えて「試みる」のも神だ。神の子イエス・キリストですら様々な誘惑や試練を与えられた。

だから、「そんなことをしないで下さいよ、おとうさん」と、私たちが言いたくなるのも当然だ。

で、なぜこんなことを書いているかと言うと、123日、つまりクリスマス前の降誕節最初の日曜日のミサから、フランスのカトリック教会で、「主の祈り」のこの部分のフランス語だけがいっせいに変更されることになったからだ。

すでに21世紀の初めから、フランス語圏の司教会議で、典礼に使う聖書の訳の新訳について協議がなされていて、201311月にこの部分の変更が合意されていた。20173月に正式に承認された。

1966年以来これまで、ルター派の改革教会でも正教会でも使われていたフランス語訳は

« ne nous soumets pas à la tentation » だ。

このsoumettreは屈服させる、服従させる、ゆだねる、供するという意味で、いわば、「私たち」を「モノ」のように、有無を言わさず誘惑に遭わせるニュアンスがある。

「お父さん、そんなことしないで」と頼んでいる。

今回の変更(これも2016年にフランスのプロテスタント連盟でも推薦されている)は、

«ne nous laisse pas entrer en tentation »


というものだ。

「私たちが誘惑の中へと引きずられていかないようにしてください」のようなニュアンスだといえるだろうか。


つまり、「私たちが誘惑に弱くそちらに惹かれていく存在であるのはしようがないけれど、何とかそれを引き留めてください」という感じもある。

これでは、まるで「誘惑とはアクシデント」みたいだけれど、実際は、どんな誘惑も試練も、創造の全責任者である神からくるのだから、アクシデントとは言えない。「新訳」の方が、「悪」が別にあるかのような二元論の印象を与えるのではないか。

なぜこれをわざわざ取り上げたのかというと、日曜日に必ず唱えられる「主の祈り」のこの部分だけが変更されたのは実は「イスラム対策」なのだ、という人がいるからだ。


「イスラム」というのはその語源に、「服従」がある。

手っ取り早く日本語のwikipediaをコピーすると、


>>この語は、「自身の重要な所有物を他者の手に引き渡す」という意味を持つaslama(アスラマ)という動詞名詞形であり、神への絶対服従を表す。ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーフに対して己の全てを引き渡して絶対的に帰依し服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。このような神とムスリムとの関係はしばしば主人と奴隷の関係として表現される。<<


別にイスラム教でなくとも、カトリックの中ですら、イエスどころか「マリアの奴隷」を自称するような一派もいたくらいだから、「自主的な服従」というのは人間の社会関係における「選択」のひとつではあるのだろう。

でも、現在、カトリックの力が弱まり、イスラム人口が増え、過激派の言葉が広く響き渡るようなフランスでは、宗教における「神の名のもとの全体主義」への警戒が高まっている。その中で、イスラムの語源として真っ先に「soumission」という訳が出てくるし、イスラム原理主義の中での「従属させられる女性 femme soumise」に対して異議が唱えられている。

そういう含意を持ってしまったsoumission とかsoumettreの動詞活用だから、神と「私たちの関係を表現するものとして「主の祈り」で毎回繰り返すのはよくない、という思惑から、表現が変更されたというのだ。


12/3はぜひルヴェリエ師のミサにでも出て彼がこの変化を何と説明するのか聞いてみたい。この前に彼に会った時の記事で、キリスト教における人と神との関係では絶対的服従でなく「合意した、決意した、引き受けた」と言うのが強調されていたことを書いたが、それもひょっとして今の情勢の中の流れなのだろうか、と今にして思った。


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by mariastella | 2017-11-22 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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