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L'art de croire             竹下節子ブログ

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「テロリストは僕だった」と2017年のマクロン

「テロリストは僕だった」というドキュメンタリーを視聴して、

「ベテラン・フォー・ピース」という退役軍人たちの平和活動を知った。



沖縄からベトナムやイラクに出兵した米兵たちの証言と覚醒の意義は大きい。

沖縄の基地増設反対の座り込みなどに、沖縄の人以外のプロ市民がいるとか、在日だとか反日だとか、だから沖縄の多くの人は実は受け入れているのに「活動家」に利用されているのだ、という類の批判がもっともらしくなされることがあるが、このような運動は多様な人が協働してこそ大きな意味を持つということは前にも書いた。

そんな中に元沖縄の米海兵隊にいた兵士もいるのだということをもっと強調してほしいくらいだ。

一撃必殺、と繰り返させる兵士の「洗脳」の様子は、シリアのISの軍事訓練と変わらない。人間を殺すことについて「命令に従う」という以外のオプションしか与えられないという点ではヒットラーのナチスや世界中の死刑執行官も同じだ。

殺される方ももちろんだけれど、殺す側の尊厳もそこにはない。

兵士になれば教育を受けて、家を建てて仕事も見つかる、などという甘言に惹かれる若者たちの存在は、新自由主義経済社会が生む経済格差の結果でもある。

従軍司祭たちと話をしてみたい。

七二年前、原爆を搭載した飛行機を祝福した従軍司祭もいた。

アメリカのような国では従軍司祭の影響は看過できない。

兵士たちは故郷で「祖国のために戦う英雄」として崇められる。

死ぬか生きるかの前線では、「聖なるもの」にすがる気持ちもあるだろう。

フランシスコ教皇のようにはっきりと戦争を糾弾している首長のいるローマ・カトリックの体制に属しているカトリックの従軍司祭は、今、どういう折り合いをつけているのだろう。

沖縄の日本人信徒から慕われている米人カプチン会のウェイン師が新司教になることはどういう意味を持ってくるのだろう。

2017年、フランスのマクロン大統領は世界中からポジティヴな評価を受けた。

第一に、「先進国」を席巻しつつあるかに思われるポピリュズム国家主義者に選挙でストップをかけて勝利したことがある。

第二に、トランプの不支持と悪評が増し、イギリスの首相はブレクジットで苦戦し、ドイツのメルケル首相も過半数を確保できず弱体化している、という他の「欧米諸国」のリーダーの状態に比べて相対的に強く見える。

第三に、冷戦末期以来、他の先進国が新自由主義に拍車をかけてきたのにフランスだけが、伝統の「社会民社主義」の慣性を引きずって「規制緩和」が遅れていたのをマクロンがついに、新自由主義の中での競争力をつけることを優先的にしているので、大企業家や富裕層から大いに歓迎されている。

自分はずっと4時間睡眠で困らないから、ということで、閣僚にも結果主義の激しいノルマを課しているところはブラック企業みたいだ。

でも、これらの高評価を背景にした自信を持って、地球温暖化の問題などについては、フランスを、久しぶりに「アメリカにNOと言える国」にしている。

地球の環境を守ることと、戦争をなくすことと、武器を捨てることは、本当は一体であることだ。

2018年が未来にとってどういう意味を持つ年になるかは、私たち一人一人の覚悟にかかっている。


by mariastella | 2017-12-31 00:05 | 雑感

サルコジとマクロン

先日の朝のラジオで、移民問題専門家の歴史学者で政治学者のパトリック・ヴェイルが話していたのがとてもよく整理ができていて納得した。

彼にとっては、マクロン政権は移民に対するフランスの原則を否定するとんでもない大統領になりそうな男のようだ。

最近、移民、難民や路上生活者に赤十字などが差し入れた食物や寝袋などに警察が催涙ガスを撒くなどの事件があり、違憲判決などが出ている。
しかし、例えばマニュエル・ヴァルスが内務相の時に暴走した時も、上から支持されたものでなかったが、今のコロン内相は全面的にマクロンの指示でやっている。

また、サルコジとマクロンは正反対だ、という。

サルコジは言葉の上では暴力的だったが、現場ではそれなりに現実的だった。
マクロンは言葉の上では移民にようこそ、などと丁寧で親切だが夜になると食べ物や避難所を襲う。

冬の夜のホームレスを一時迎え入れる避難所に警察を入れて不法滞在者かどうかのチェックをし始めたというのだ。

フランスには、三ヶ所、身分を確認しないで無条件で受け入れる聖なる場所が三つある。

子供を受け入れる学校、
病人を受け入れる病院、
宿のない人を受け入れる避難所

だ。

実際、それを知っているから、あえて就学年齢の子供をフランスに不法に送り込む親もいる。

不法滞在で働いている外国人が、体に異変を感じた時にパリの公立病院に行けば無料でMRIなどの検査をうけて治療も受けられるセクターがある。身分証明書も何もいらない。

ホームレスが炊き出しに並んでも、避難所に宿を求めても、身分の確認はない。

それがフランスの伝統でアイデンティティで、どんな政権も変えることができなかった。

身分の確認をメトロの中で、労働現場でやるのなら別だが、学校、病院、避難所はご法度である。

それに手を付けたマクロンは、核兵器を使用したようなものだという。

来春に向けて新しい移民法案が議論される。
じっくり経過を見ていきたい。


(フランス語OKな人はここで聞けます。)

by mariastella | 2017-12-30 00:05 | フランス

トロカデロの「勝利の踊り」

先日、イエナからエッフェル塔の方に向かってトロカデロを横切った時に、ギリシャの女神アテナの彫像(樹脂製)の前を通った。サラブゾルが1925年に制作したがここに置かれたのは1989年とかで、今まで気づかなかった。

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動きがバロックぽくって気を惹かれて銘を見たら、「勝利の踊り」とあった。

「神々が巨人たちを征服するのに貢献したアテナ」、「物質を支配する知性」に捧げたものだという。(パラス・アテナとあるのは、トリトンの娘で宛名と共に育ちやはり戦いの乙女だったパラスがフランスではアテナと合体したりアテナの異名となっているからだ)

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「物質を支配する知性」というのはタロット・カードの大アルカナの「力」の解説でもある。

このカードのたいていの意匠は若い女性が楽々と、荒れ狂う獅子の口を鼻の鎖でおさえたりしているもので、精神が物質を、知性が本能や欲動を、女が男を、天使が獣を、魂が肉体を支配する、という意味だとされる。


そういえば、「柔よく剛を制す」、という言葉もあったなあ、と思ってネットを検索するとその由来は

>>古代中国の 兵法書「三略」に記載されている。 「柔能剛を制し、弱能く強を制す」とある。 「軍しん」 という、戦についての予言書から引用された句で、「三略」はそれに続けて、 「柔は徳で、 剛は賊である。弱は人が助け、強は人が攻撃するものである」と説いている。<<

だとあった。


「柔は徳」というのがなかなか奥が深い。


古今東西、せっかくこういう考えがあるのに、今の世界を見ていると、弱肉強食がまかり通っているのはいったいどうしたことだろう。


by mariastella | 2017-12-29 00:05 | 雑感

エッフェル塔のジュール・ヴェルヌ

先日、エッフェル塔内のレストラン『ル・ジュール・ヴェルヌ』で食事した。

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ここはフランス革命記念日のパレードに招待されたトランプ大統領夫妻がマクロン夫妻に招かれて会食したことでさらに有名になった。トランプは窓から見える鉄骨を見て、「まだ足場が残っているんだね」と言ったとか言わないとか。

フランスに40年以上も住んでいるけれど、エッフェル塔に上ったのははじめて。エレベーターの列に並ぶのが嫌で、両親が最初にそろってパリに来た時も、凱旋門の上で我慢した。モンパルナスタワーの最上階のパーティには出たことがあって夜景がきれいだったけれど。

で、『ル・ジュール・ヴェルヌ』に行くには専用エレベーターがあって並ばなくてすむ。

けれども、テロ対策で今はエッフェル塔の周りに柵が張りめぐらせてある。

北のゲートと南のゲートがあり、トロカデロにつながる北側の方がメトロに近いので警戒も厳重ですごい列だ。

レストランは南側で、予約専用ゲートのセキュリティ・チェックを済ませて、さらに専用エレベーターを使える。

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料理はアラン・デュカス監修で、ややヌーヴェル・キュイジーヌ風。

窓際の席で寒空の下のセーヌ河が見える。

食事の後は向かいのマルシェ・ド・ノエル(クリスマス・マーケット)を歩いたが、隔てる道は通行止めになっていての徒歩でも横切れない。

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マーケットの入り口にもセキュリティ・チェック。中ほどに子供用のアイススケートのコースが平行に作ってある。

子供たちの歓声を聞いていると、年末の雰囲気が味わえる。

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フランスは観光客が戻ってきているそうで、2020年には一億の大台を目指しているという。

2020年、東京オリンピックは、放射能はアンダー・コントロールと言って、

2024年のパリのオリンピックは、テロがアンダー・コントロールということで

それぞれ、開催地に選ばれた。

何だか、どちらにも、いまひとつ信頼感をそそられないのはなぜだろう…。


by mariastella | 2017-12-28 00:05 | フランス

ヘラルト・ファン・ホントホルスト

クリスマス・イヴのミサでプレゼントとして配られた絵葉書はヘラルト・ファン・ホントホルストの『幼子イエス礼拝』だった。祭壇のスクリーンにも映し出されたが、光を調節しないと、マリアの夫ヨセフの顔が見えない。
こレは光のコントラストが印象的な17世紀オランダの絵画で、光の源はもちろん生まれたばかりのイエスで、かぐや姫みたいに輝いている。

それなのに、向かって右上の少し奥まったところにいるヨセフには光があたらず、背後霊みたいにぼーっとしている。
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でも、このヨセフは、すごく優しい目をしている。
神がマリアをイエスの母として選んだのもすごいけれど、その基準はひょっとしてマリアの許嫁のヨセフの方にあったのではないかなあ、と思うほど、ヨセフの人選はすごかった。ヨセフは「神に信頼された男」ナンバーワンだ。

by mariastella | 2017-12-27 00:05 | アート

クリスマスのミサ

今年のクリスマスの深夜ミサは歩いて5分の近くの教会の入り口にも兵士がふたり立っていて驚いた。出る時には10人くらいになっていた。
非常事態宣言が解除されて、シリアのISも排除されたけれど、ISは特にクリスマスをめがけてのテロを呼びかけていたからかもしれない。
「家族の集まるお祭り」であるクリスマスに、寒空で不動の若い兵士を見ていると気の毒だけれど、銃をしっかり構えているのを見ると、なんだか怖い。
武器を持たせてスタンバイさせる、ということ自体の異常さを身近に感じる。

でもクリスマスイヴのミサはクリスマスの歌がたくさん歌える。
ミサ自体も歌われる部分が多いのだけれど、その他の歌だけでも13曲の歌詞が配られた。
日本の普通の子供にでもなじみなのは『きよしこの夜』だけれど、音楽の時間に『グローリア』を習えたのは印象的だった。小学校だったか中学校だったか覚えていないけれど(公立学校です)ラテン語部分がちゃんとカタカナで書いてあって、独特の節回しは忘れられないものになった。今の日本の公立学校でもグローリアが歌われているのだろうか。日本の民謡で『刈干切唄』というのも同時期に習って、この節回しも快感だった。二つとも、当時は学校で以外耳にしたことがなかったのだけれど、マイレパートリーになった。
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「主の祈り」の前には、「翻訳が変わりましたからね」とだけ伝えられた。
みんなちゃんと新訳を唱和していた。後ろにいた夫婦(多分クリスマスと復活祭にしか教会に来ない人たち)が「いったいどこが変わったんだろう」と言っていたので「もうsoumissionがないんですよ」と教えてあげた。

25日正午には、ローマ法王が世界に向けて発するスピーチ(Urbi&Orbi)の中で、クリスマスは「時の巡礼」だと言っていた。タイムトラベルではなくてタイムピルグリメイジtime-pilgrimageというわけだ。なんだか毎年、キリストの誕生を祝うのは永劫回帰みたいな感じがしていたけれど、前の年のものを繰り返したり踏襲したりするのではなくて、2000年前のベツレヘムの時空へ毎年巡礼するのだというイメージは悪くない。

そして馬小屋で生まれた赤ん坊という降誕のイメージを、「居場所のない子供」ということで、難民の子供、貧しく、家のない子供の中にこのクリスマスの赤ん坊の姿を重ねるのも実感がこもっている。
中東はもちろん、南スーダン、ソマリア、ナイジェリアなどの子供たちのことが喚起された。「子供の形をとった神」というバージョンを一神教に可能にしたのがクリスマスだ。

フランシスコ教皇はさらに、エルサレムをめぐってのパレスティナの対立、ベネズエラ、朝鮮半島、ミャンマー、バングラデシュ、などに言及し、今と未来の子供たちにより人間的でよりふさわしい世界にしようと呼びかけた。

ローマは抜けるような青い空だ。

同一首長を仰ぐ宗派では世界最大のローマ・カトリックのトップが、公の席で世界中の紛争に堂々とコメントするのはある意味では大したものだ。
国家の首長ならやはり自国ファーストだし、「象徴」とされる元首などなら世界どころか自国の政治に関わるようなコメントさえできない。

ローマ法王なら政治家のように選挙民や支援者の顔色をうかがう必要もないし選挙地盤や特権や財産を受け継がせたい子孫もいない。そういう立場の人が正論を口にし続ける意義は大きい。

もうこれで5年も難民の受け入れを呼びかけているのに、カトリック大国であるはずのポーランドがますます閉鎖的になっているのを見ても、ローマ法王の勧告など効果がない、という人がいるが、効果がないから言うのをやめてしまうのと、言い続けるのでは大きな差がある。

サンピエトロの広場に整列するスイスの衛兵たちを見るのも今年は特に印象的だった。

近所の教会で迷彩服の兵士が銃を抱えている威圧的な姿を見たところだったので、ミケランジェロのデザインとも言われる中世の制服を着た衛兵がコスプレ風にずらりと並んでいるのは非現実的だ。
彼らの装備は「軍備」としての「抑止力」にはならない。
ゼロだ。
でも、シンボリックな抑止力はある、と思った。

抑止力としての核兵器の所有を許す暫定期間は終わった、すべての紛争は話し合いと譲り合いと連帯で解決するべきだ、と訴える80歳を超えたリーダーを守るこの中世風の衛兵の列を、誰かが武力で撃破することのシンボリックなハードルは、とてつもなく高い。

クリスマスの午後は4日前から食べ物を口にしなくなった92歳のチベットの高僧を見舞った。
私のために祈ってほしい、と言われた。
私はクリスマスの教会でもすでに彼のために祈っていた。

でもこれまでずっと彼に頼ってきたので、瀕死の彼に向って私は、「私たちのために祈ってください」と厚かましくも頼んだら、彼は「ずっと祈り続けているよ」と言ってくれた。

そうか、これまで私たちのためにずっと祈ってくれている彼が、今はじめて自分のために祈ってくれ、と口にしたのだ。

中国に侵略される前のチベットで最高学歴を極め、ゲールク派の最高学府の院長となり、一代で「活き仏」に認定されたゲンラの一部の何かが、なぜか今、私の中で息づき始めた。



by mariastella | 2017-12-26 07:36 | フランス

フランスの子供たちのカトリック・ジョーク その2

「カテキズム(公教要理)の真珠」から少し紹介。

全部実話。

子供のお祈りの例。

「神さま、私が病気になりませんように、病気になったら、ビタミンをホウレン草の中に出なくママのつくるケーキの中に入れてください」

ソフィが司祭さんに言った言葉。


「来週の水曜日(水曜は学校が休み)にカテキズムに来れるかどうか分かりません。歌の練習にも。」

「どうしたんだね」

「体操の時間の後からずっと肋骨が痛いんです」

「それで ?

「アダムみたいに、肋骨から女の人が生まれると思うんです」

カテキズムの時間


「聖書の中で話される果物を三つ挙げてください」

「ええと、リンゴとブドウと…」

「いいですね。後ひとつ」

「…」

「後一つだけ」

「ええと、おなかの果物…」

これは天使祝詞、アベマリアの歌の中に、

あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。」

のがあって、日本語では「ご胎内の御子」だけれど、


ラテン語は fructus ventris tui Jesus、(腹の果実)

英語なら the fruit of thy womb, Jesus.(子宮の果実)

フランス語なら le fruit de vos entrailles(内臓の果実)


で、いずれもフルーツという言葉が使われている。


普通のフランス語ではentraillesと言えば「腸」という意味だから、子供がこの祈りを丸暗記する時はフルーツとのなんだか奇妙な組み合わせだと感じてしまうだろう。


今どきのカテキズムではこんな質問などないと思うし、あまり意味もないような気がする。

三つ目の果物は何だろう。

イチジクかな。

果実のなる木でシンボリックなのはオリーブの木、イチジクの木、ブドウの木ということになっている。

イチジクは特にイスラエルの国民的果実といわれる。

オリーブは聖霊で、ブドウは宗教的生活のシンボル。

フランスはたまたまブドウ(イエスの血となるワインの原料)と小麦(イエスの体となる聖体パンの原料)の栽培に適した大生産地だったことが「キリスト教」の発展二寄与した。

オリーブとイチジクは「地中海」のイメージだ。

リンゴというのは地中海的じゃないから聖書っぽくない。

キリスト教がヨーロッパに広まった後になって、ヨーロッパに多いリンゴがエデンの園のイコンに使われた。

アダムとイヴが食べた禁断の木の実は、リンゴ、ナシ、イチジク、ザクロなどの説が生まれた。

確かなのは、智慧の実を食べて裸を恥じて腰を覆ったのがイチジクの葉をつづり合わせたものだということだ。

リンゴ、ナシ、ザクロの葉では「つづり合わせる」なんていかにも難しい。


凹凸の多いイチジクの葉があってよかったね。


by mariastella | 2017-12-25 00:05 | フランス語

フランスの子供たちのカトリック・ジョーク その1

毎日曜に教会のミサに出るカトリック信徒は今や人口の10%を切るとか言われているフランスだけれど、今でも、日本ならお宮参り、七五三に当たるような赤ちゃんの洗礼式やら公教要理(カテキズム)のクラスに通っての初聖体をはじめとする冠婚葬祭のためにカトリック教会に行く人たちはたくさんいる。


子供をカテキズムのクラスに入れるというのは、親がイデオロギー的無神論を掲げる家庭でない限り、まあ子供に愛とか道徳とか弱者へのリスペクトとかを教え、文化の基礎となるキリスト教の教養を与えるという意味で、かなりスタンダードな選択だと言ってもいい。


そういう家庭では、祖父母たちが子供を要理のクラスに連れていくことも多いし、同じようなタイプの家族同士が知り合う、という機会も提供している。


ひと昔前はそれこそ「日曜学校」のイメージで聖書の知識をテストするみたいなものもあったが、第二ヴァティカン公会議以降の1970年代になってからは、要理のクラスは、「他の人の生活をより快適にするために努力することが、キリスト的生活だということを学びます」というものに変わった。

で、最近そのカテキズムのクラスに通い始めた6歳の女の子があるジョークを教えてくれた。


AuNom du Père, et du Fils,et du Saint-Esprit. Amen.

(父と子と聖霊の御名によって、アーメン)

に関するものだ。


これは、キリスト教の三位一体の祈りで一番ポピュラーというか基本的なもので、アーメンとは、「合意」「その通りになりますように」を示すヘブライ語由来でキリスト教圏の多くでそのまま通用する。

私の子供の頃は「アーメン、そーめん、冷やそーめん」という言い回しがあった。「父と子と聖霊」というむずかしいものはなかったけれど、アーメンとはキリスト教の特徴的なお祈り言葉だというのは60年前の日本の子供たちにも、ジョークになるほど広く認知されていたということだ。

で、今時のフランスの子から聞いたジョークは、

Au Nom du Père, et du Fils,et du Saint-Esprit. Amène moi ma bière.

父と子と聖霊の御名によって、私のビールを持ってきて!

というのだ。笑える。

フランス人はNの子音だけの発音がうまくなく、たいていはその後に曖昧母音がくっつく。

だからスーパーマンもスーパーマンㇴに聞える。

パリジェンヌもフランス人的にはパリジエンと言っている。

パリジャンの方は鼻母音なので、Nを発音しているわけではない。


だから、アーメンも、「アーメンㇴ」に近く、それはamener(持ってくる)という動詞の命令形「アメーㇴ」と重なる。長母音と短母音の区別も意識されないからだ。

で、「持ってきて、私のビールを」となるわけだ。

面白がって何度も繰り返すので、この「祈り」はしっかりと記憶される。

試しに検索してみたら、フランス人の誰かのハンドルネームに


「Au nom du verre, du vice et du saint-whisky, Amène moi la bouteille !」


というのがあった。


「グラスと悪徳と聖ウィスキーの御名によって、私にボトルを持ってきて」


というのだ。

グラスのヴェールと悪徳のヴィスが、父ペールと息子フィスという言葉と脚韻を踏んでいる。聖霊のサンテスプリがサンウィスキーとなる。

まあここまで凝っていたら、大人のジョークだけれど。

この話で「カテキズムの真珠」という小冊子を持っていたのを思い出した。フランスで子供たちの要理のクラスを受け持つ人々が書き留めた子供たちの面白い秀逸なコメントを200集めたものだ。単純な言い間違い、思い違いが立派なジョークになっているし、子供たちの世界をのぞく窓口にもなっている。


by mariastella | 2017-12-24 00:05 | フランス語

ノートルダム・デ・ランドと宮古島

フランスの西、ロワール・アトランティック県(県庁所在地はナント)にノートルダム・デ・ランドという地区がある。農業と畜産が主要産業ののどかな場所だったのだが、そこに新たな飛行場を作る計画が1960年代から画策され、1970年代に具体的になり、石油危機でいったん凍結し、21世紀に入って、本格的に飛行場建設計画が始まった。

地元民をはじめ、多くの反対者が声を上げた。現在あるナントの飛行場だけで十分であるとも言われる。反対者が予定地を占拠して、もう何年も計画が進まず、住民投票(と言っても、地域全体のもので「経済効果」を期待する人たちの賛成票が上回った)で、政府は反対者の実力排除を決定、反対する人々はゲリラ化して…と、「三里塚闘争」を思い出させる。

 

沖縄の方からカトリック新聞(2017/7/9)に掲載された沖縄の伊志嶺節子さんという方の投書を送っていただいた。

そこには、基幹産業がさとうきびで、美しい海と空の輝く宮古島に、2014年に、500人規模の自衛隊配備が計画され、翌年には700~800人へと規模が拡大したこと、警備、地対空ミサイル、地対艦ミサイルの三部隊を配備するという候補地(実弾射撃場、着上陸訓練場も含む)まであげられたと書いてあった。宮古島は飲料水を始めとして多くを地下水に頼っていて、その水源がその配備計画周辺地区なので汚染も予想されるのに、美しい島を『基地の島』にして、いったい国は軍備で何を守り、どこへ刃を向けようとしているのか、と伊志嶺さんは書く。

同じ紙面に、「パプアニューギニアとソロモン諸島の森林を守る会」の報告の記事も載っていた。1970年以来の日本やマレーシアの企業による不法伐採で川は汚れ、製材の防虫処理に使われるヒ素が地下水を汚染して農業や漁業にも悪影響を与えているという。

何だか、愕然とする。

今は、民間空港だろうが、道路だろうが、建設のために自然を破壊することの重大性が理解されてきている時代だ。森林の大規模伐採が、環境汚染だけでなく地球の温暖化を促進することも知られてきた。

民間空港や道路の建設に反対するために何年も抵抗している人が世界中にいる。

それなのに、沖縄の美しい島で、米軍基地ならぬ自衛隊の基地建設のために環境を破壊するのは粛々と進められるのだろうか。

米軍基地ではないから、日本政府が日本の領地に日本を自衛する部隊のための施設を作るのだから、文句はないだろう、ということなのだろうか。アメリカから買い入れる防衛装備を配備する場所も必要だから?

ほとんど時代錯誤的な気がする。

日米何とかの問題とか、沖縄差別の問題とか、自主防衛の問題とかの以前に、環境破壊「だけ」でも今は「アウト」な時代であるはずだ。

普天間移設のための辺野古の埋め立て、などと言われると、「米軍基地」という枠で語られるから、安全保障問題ばかりがクローズアップされるけれど、そもそも、軍産企業の利益のために環境破壊をすること自体が既に問題なのでは?

思えば、フランシスコ教皇は回勅『ラウダトシー』で環境破壊を激しく糾弾した。

軍産複合体の功利追及はもちろんだが、どこの国がどういう兵器を持っているからどういうリスクがあってどう対応するか、という「戦略」上の問題ですら、人間が自分の住んでいる惑星を汚染し破壊していくという「いのちの冒涜」の重大さと同じレベルで語れるものではない。

米軍基地であろうと自衛隊施設であろうと、世界中で増幅するばかりの無用な空港や道路であろうと、環境をむしばみ、自然災害を助長し、将来に生きる世代の命をおびやかすものにはきっちりと「否」を表明することが今の恩恵を受けて生きている私たちの義務なんだろう。

沖縄でも、基地建設も、リゾート施設やゴルフ場などの「開発」も、「うちでは困る」というような抗議の段階をもはや超えている気がする。


基地の場所を提供して補償金をもらえるだとか原発誘致で地方が潤うだとか、リゾート施設の観光客誘致で経済が活性化するだとかの論理は、考えてみるとみな「金」の論理だ。時代を見据えた命の質、生活の質は視野に入っていない。

戦争がおきればもちろん環境も人も破壊されるけれど、さまざまな「便利」の追求も、度が過ぎると環境や人の尊厳を確実に破壊していく。

沖縄の方から「沖縄のことを考えてくださってありがとうございます」というお言葉をいただいたのだけれど、「沖縄を考えること」で見えてくるのは、「沖縄のこと」ではなくて、自分自身の中にあるさまざまな誘惑だとつくづく思う。


とりあえず自分の「今いるところ」が便利で安全で快適であればよし、

という短いスパンのエゴイズムに依拠する「基準」の妥当性と向かい合うことを余儀なくされる。

パリの寒空の街角で物乞いをしている人をじかに見たり、難民の深刻な状況をTVで見たり、貧困の中で孤立する人についての記事を読んだりする度にも、「このままでいいのか」とか「何とかしなくては」という思いとが浮かび上がる。でもまた、それがすぐに薄れることで逆にひそかに溜まってくる罪悪感がある。さらにその罪悪感を自覚することで後ろめたさが多少薄れる、という繰り返しだ。

沖縄の地理も歴史も、「本土」の人からは遠いかもしれないけれど、日本からもっとずっと遠くに暮らしている私には、切り離せない一体だ。


前の記事にも書いたけれど、東京で台風情報を見ている時は、「ああ、まだ沖縄でよかった」などと思うけれど、フランスから見ていると、沖縄の危機は日本の危機、私が安全に豊かに暮らせてきた日本での生活は沖縄の人々の犠牲と一体だったのだと覚醒できる。

パリのメトロの階段でうずくまっている人から目をそらすことよりも、沖縄のことを考えないことの方が難しい。

「沖縄のことを考えさせてくださってありがとうございます」と言いたいのは、私の方だ。


by mariastella | 2017-12-23 07:07 | 雑感

「普遍」について思うこと

このところ沖縄関係の番組をネットで続けて視聴したせいもあって、沖縄をめぐる他のいろいろな記事もザッピングした。糸数慶子さんという参議院議員の方がいて、かっこいいな、と思った。すると国連の女性差別撤廃委員会で沖縄の民族衣装をつけたこの方をコスプレだと言うなどして、攻撃する人も少なくないのを知った。


彼女を批判する言葉は「サヨク」とか「プロ市民」とかのお決まりのものもあるのだけれど、意外だったのは女性で彼女を批判する人が結構いることだ。女性を批判する女性って、男性から「重宝されている」気がする。

彼女らの中には国連の女性差別撤廃条約反対とか、男女共同参画社会反対とか、カジノ解禁、原発、九条改正、核武装はOKのようなことを表明する人がいる。そう、これらの争点には共通したものがある。力や金の強者の論理の中には当然「男尊女卑」みたいなものが組み込まれるからだ。だから、女性論者がそれをまとめて支持してくれたら、「ほーら、少なくとも、女性も賛成してるだろ」というのでその部分の批判をかわせる「都合のいい」キャラクターになるのだ。

彼女らがかわいいとか美人だとかならもっと便利だ。フェミニストでギャーギャー言うのは「女として男に相手にされない」やつだというステレオタイプを補強できるからだ。


で、沖縄の基地問題にも、そういう人がいて、沖縄防衛情報局とかの主任というGさんという女性が若くてかわいくて、話し方も感じがいい。沖縄タイムスとか琉球新報とかがいかに偏向しているか、一部のサヨクがどんなに沖縄の世論について誤解を与えているかなど、熱心に放送している。ネトウヨのアイドルなんだそうだ。私はこの手のネット放送は視聴しないことにしているのだけれど、このG さんがこんな風に信念を持った感じでがんばっているのがシュールでかなり見てしまった。お父さんの影響だという。彼女は早稲田大学を出ているのだから、そのまま東京で就職する選択もあっただろうけれど故郷に戻って「極右」化していく。


逆に、東京で就職していたのに、故郷に戻って米軍基地への反対運動に積極的に携わる女性もいる。こういう沖縄のコミュニタリアニズムというのも不思議と言えば不思議だ。


いろいろな地方から、いろいろな国から志を同じくする人々がやってきて平和のために連帯するという方が私には自然だと思う。それがアメリカ人だって不思議ではない。那覇新司教に任命されたウェイン師が慕われているのを見ても分かる。


多様であればあるほどいい。


それなのに、高江ヘリパッド増設反対の座り込みで多くの人がよそから来た運動家だとか、本当の沖縄の人は実は賛成している人が多いとか、そういうことが基地支持の根拠にされているのに驚く。


実際は、反対派の人はグアムの人とも共同声明を出しているとかで、連帯を広げていくのはいいことだと思うのに、「地元の問題だから地元民が本気で騒ぐなら許せるが部外者に利用されるのはよくない」という批判の仕方がある程度通用して、反発の材料になること自体が不思議だ。


それは「本土」でのいろいろな「運動」も同じで、実は純粋な日本人じゃない者が混ざっているとか煽動しているとかいうのが批判の理由として通用しているのも不思議だと思っていた。

多様な人々が連帯できる普遍性を持つ理念にのっとった運動の方が長い目で見て本当の前進が可能になると思うのだけれど。


いわゆる「人種」だって、実は生物学上の種とは関係がないからいくらでも他人種間で子供を作ることができる。他国籍間は言わずもがなだ。もともと移民国家であるアメリカのニューヨークなどの大都市には、本当にいろいろな国の人がいるばかりでなく、何代にもわたっていろいろな国出身の先祖を持つ人や、いろいろな国で暮らしてきた人もたくさんいる。もちろん、パリやロンドンでも同じだ。そんな人たちの多くは、祖先のうち一部の人の出身共同体のために特に帰属意識を持つこともなく、「ルーツ」に戻ることが必要というわけでもない。


むしろ「普遍」という感性を獲得していく。


そして、「普遍」の感性で結ばれた共生でしか本当の共生、「共に生きる」ことはできないと分かってくる。みんなが一つの大きな命の一部分なのだから、どこかで排除し合っていたり攻撃し合っていたりしたら、自己免疫疾患みたいなものだ。


弱い部分の声に耳をすまそう。そして、「共に生きる」ということの意味を語っていこう。


視座が変われば見え方は変わる。

視野を広げれば見えなかったものが見える。

見え方が変わることを経験すれば、見えるものが増えてくれば、見えないものへの感性も養われる。

実用とか、リアルポリティクスとか、目先の損得とか、行き過ぎた「今ここで」主義とかによって、共に生きるいのちの意味を矮小化してはいけない。


何を考え何を選択するにしても、まずそのことを自分で何度も言い聞かせておかなくては、とあらためて思う。
by mariastella | 2017-12-22 07:19 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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