L'art de croire             竹下節子ブログ

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テロと英雄と復活祭

(これは、前回、前々回の英雄話の続きです。)

今週の雑誌は軒並み、ベルトラム中佐の「英雄」認定の記事で埋まった。


復活祭の聖週間の特集であるはずのカトリック雑誌も、この「英雄」が敬虔なカトリックだったということで盛り上がっている。


中佐の夫人マリエルさんはカトリック週刊誌『La Vie』の編集長に直接電話して、中佐の犠牲の精神は、キリスト者であることと切り離せない、と証言し、復活祭を待っているという。

ベルトラム中佐ばかりにスポットライトを当てるのもまずいからか、今日(3/29)は首相が他の三人の犠牲者の追悼式に参加し、それぞれの棺に家族が別れを告げる様子がニュースで映し出された。

私や私の家族がもしテロの犠牲になったら、何度も名前を連呼されて画像を映し出されてフランス中に共有されるのは嫌だなあ、と思う。共和国セレモニーを拒否する権利ってないのだろうか。

いや、テロの犠牲者は「テロとの戦争」の犠牲者として戦死者扱いになって国家による遺族補償があるという面もあるから、「公の死」になるのだろうか。

ベルトラム中佐を英雄と賛美することについて、マリエル夫人も、政治利用などされたくない、と述べたそうだ。


おもしろい映像がビデオで流れた。


昨年12月に、「国民的歌手」のジョニー・アリディが亡くなった時、大騒ぎでマドレーヌ寺院での葬儀がメディアで流され、マクロン大統領もコメントし、前大統領のサルコジやオランドらまでも出席するという仰々しさだったのだが、その時にインタビューに答えたマクロンの映像だ。


「人々は時々、英雄を必要としている。彼は国民の英雄だ」みたいなことを言っているのだ。

今回の「英雄賛美」と並べると笑える。


今回は、「国のため、市民の命を守るために命を捧げた」のが英雄だと言って愛国心を鼓舞しているのだけれど、その基準で行くとロック歌手のジョニー・アリディは「英雄」ではなく、まさにアイドル(偶像)だ。

真の英雄を偶像化するのが政治で、偶像を英雄に仕立て上げるのもまた政治だというところか。

この件に関するTVの「英雄」談義に、2015年アムステルダムからパリ行きの特急の中でテロリストに立ち向かったアメリカ人の一人が出演していた。最近クリント・イーストウッドが映画化(『1517分、パリ行き』)したことでさらに有名になった事件だ。イーストウッドの映画に出演して事件を「再現」した人の一人で、「英雄」としてフランスから勲章をもらった米仏二重国籍を持つ人のテレビ出演だ。


ベルトラム中佐のように英雄として死んだ人はそのまま崇められるけれど、生きている英雄は微妙な立場ではないかという話も出た。


カトリックの尊者とか福者とか聖人の認定やその条件である「英雄的」生き方の認定は、死後にしか調査されない。

一方、死ぬどころか巡礼地などで起こる「奇跡の治癒」で「奇跡」を認定されて健康体に戻った人の場合は微妙だ。

奇跡の享受者が修道者や聖職者ならいいけれど、普通の人で、治った後に、もし犯罪にかかわったり、自堕落な生活を送ったりしたら、何のために神が奇跡を起こしたのか分からないので、「教育的」ではなく不適切だ。

だから、奇跡の治癒を得た人が、それによって「回心」するとか、立派で模範的な生き方をするとか、を見極めないといけない。


武器を持ったテロリストに危険を顧みずに立ち向かって結果的に多くの人々を救った、というのは確かに「英雄的行為」だけれど、その後の人生でそれを自覚して模範的に生きてくれるという保証はない。


で、特急内のテロリストと戦った「英雄」は、どういう気持ちだったのか、英雄的な行為をした自覚はあるかと聞かれて、


「アメリカでは子供の頃からテレビなどで常にヒーローものを見せられて鼓舞され、子供はヒーローに憧れて、勇気あるヒーローになりたいと思って育つので、迷いはなかった」


という感じの答えをしていた。


なるほどと思った。


フランス人は、勇気がある、勇ましい人に対して、むしろ「英雄気取り」だとシニックに見る傾向があるから、メンタリティの違いは大きい。


同席していた哲学者が、ヒーローには二種類あって、いわゆる「物語の主人公、主役」という意味のヒーローと、「他者を救うために命を賭して戦う」ヒーローとは別のものだから、とひとこと付け加えていた。


それを言うなら、「他者を救うために命を賭して戦って、勝利する」というのが、アメリカン・ヒーローに近いかもしれない。

ベルトラム中佐は他の人質の命を救うことには成功したけれど、テロリストに殺されてしまった。

だからこそ「犠牲」であり「殉死」であるので、前の記事で書いたように「聖なるもの」の次元と関わる「宗教的概念」と重なる。

アメリカン・ヒーローではない。

アウシュヴィッツのコルベ神父は、一人の囚人の身代わりになって死を受け入れたが、加害者のナチスを「やっつけた」わけではない。

もちろん、アウシュヴィッツで展開していた「悪」は、そこで命令を下す特定の人の「悪」よりもはるかに大きい悪に根差している。

同時にそれは、ハンナ・アーレントが言ったようにある意味では、だれの心の中にもひそんでいる陳腐な悪でもある。

その悪に「勝つ」には、特定の「悪人」を力で制するということではなくて、大いなる善、無償の愛が存在し得るという「証し」が必要なのだろう。

これを書いているのは復活祭に先立つ「聖木曜日」の深夜だ。


自分が捕らわれて殺されることを予知したイエスが、「最後の晩餐」の後、弟子たちが寝込んでしまったのに、たった一人で、オリーブ山の麓、ゲツセマネの園で血の汗をしたたらせながら祈る時刻に相当する。

イエスは、「全ての人の罪」を贖って、無償の愛の証しをするために死ななければならない使命を受け入れることになった。


それから二千年も経ったのに、ベルトラム中佐が、キリスト者として人質の身代わりになり、武器を捨ててテロリストに相対した。


マリエル夫人が、夫と共に復活祭を祝えるのだと信じて期待していると言うのも、イエスの死と復活が全ての人を救ったという証しなんだろう。

復活祭に向けての全ての典礼のプロセスは、夫人にとって、どんな心理セラピーよりも確かな、癒しと命の源になることだろう。




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by mariastella | 2018-03-31 00:05 | 宗教

フランスのテロの「英雄」、カトリック、死刑囚

3/28、朝からアンヴァリッドでベルトラム中佐(カルカソンのテロで人質の身代わりになった)を讃えるセレモニーがあった。

マクロンだけではなくナポレオンにも見守られていることになる。

カトリック系のメディアも、はしゃいでいると言っては悪いがエキサイトしている。

ベルトラム中佐が救おうとした命は、45分間直接拳銃を突き付けられていたレジの女性(そして伏せの姿勢で閉じ込められていた多くの人)の命だけではなく、テロリストの命でもある、という(残念ながらテロリストは結果的に射殺されたが)。

子供を教会や公教要理のクラスに通わせない世俗過程で育った中佐は、士官学校のトップで模範的な愛国者でもあったけれど、2008年、34歳頃、突然回心体験をして、要理のクラスに通い2010年に初聖体と堅信礼を受けたという(マジョリティのフランス人だから生まれた時の洗礼は受けていたのかもしれない。今週のカトリック・メディアで詳しく語られるだろう)。

中佐は愛国や共和国理念のルーツにキリスト教の愛があることを発見したのだという。彼にとっての軍人とは、殺す軍人ではなく、生かすための軍人だった。
それを今回証明したことになる。

で、2015年に聖母マリアに伴侶を与えてくださいと祈り、信仰篤いマリエルさんとめぐりあい、2016年の夏に市役所で結婚し、ある修道院で出会った司祭に教会での結婚を頼み、準備を重ねて今年6月の結婚式が決まっていた。

その司祭は、テロのあった夜に病院に駆けつけて病者の秘跡(終油の秘跡)を授けたけれど、彼には意識がなかったので結婚のセレモニーはできなかった(結婚の秘跡は本人同士の誓いに司祭が立ち会う形で有効になる)。
マリエルさんと神の前で結婚するという意志と愛を表明しながら、今回自分の命を別の人のために捧げたのはマリエルさんへの裏切りではない、キリスト者としては「死」を選んだのではなくまさに「生」を選んだのだから、と司祭は言う。

司祭は、死の床の中佐の肩にパリのバック通りの奇跡の聖母メダル(不思議のメダイ)を貼る許可を得たという。

全体に、今回のテロで、悪をはるかに凌駕する大きな善の前に、感嘆と賛美が起こって「憎悪」や「怒り」がかき消されていることは確かで、印象的だ。

今が、復活祭前のイエスの受難の聖週間に当たっているというのも象徴的だ。
パリ大司教は「愛のみが憎しみに打ち勝ち、生は死に打ち勝つ」と言った。

加賀乙彦の『宣告』を読み終わったところなのだけれど、私が死刑囚だったら迷わずカトリックの洗礼を受けるだろうと思った。
死の予感に苦しみ、無実にして死刑宣告を受け、復活したとはいえ、二千年間も毎年受難を反芻され、十字架上の姿をさらされているナザレのイエスをいただくキリスト教、しかも、そのキリスト教というOSの中で、死刑囚を支え、殉教者や殉死者の英雄性を鼓舞するソフトが充実しているのはカトリックだからだ。

でもオウム真理教出身の確定死刑囚たちの、霊的状態は今どうなっているのだろう。

もともと宗教がらみで尊師に洗脳されていたのだから、殉教意識を維持しているのだろうか。

でも、日本の監獄でカトリックに改宗して、助命運動や死刑反対運動をしてもらえても、祈ってもらえても、文化的なマイノリティ感は否めない。

ベルトラム中佐の棺が通る時ノートルダム大聖堂の鐘が鳴り響き、昨日の記事で書いたように殉教や英雄というカトリックの含意がある言葉が多用されて、寛容や赦しの雰囲気を醸成することなどに比べて、日本の自衛官が突然、国家神道に目覚めて、国のために命を落として靖国神社で国葬してもらい、賛美されるなんて、日本の歴史や現状からあり得ない。

その点で、フランスのカトリック普遍主義のルーツって羨ましい。

いや、結果的に赦しと寛容、共生とリスペクト、絶対平和に向かうのなら、民族宗教でも部族宗教でもなんでもいい。

なんであれ、バランス感覚を持ち、歴史の過ちに学び、反省と修正を重ねる老舗宗教がちゃんと機能していれば、オウム真理教のようなテロリスト・カルトが生まれる隙は、なかったかもしれないのだ。


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by mariastella | 2018-03-30 00:05 | 宗教

フランスのテロと英雄と「無戒」の時代

3/23にカルカソンヌの近くでモロッコ生まれのテロリストがISの名のもとに、車を奪い警官に発砲し、スーパーマーケットに押し入って客と従業員を射殺し、居合わせた人全員を人質にして立てこもった。そこに、憲兵隊の中佐アルノー・ベルトラムが丸腰で人質交換を申し出て、すべての人質が助かったけれど彼は喉を切られた致命傷でその夜に亡くなった。
中佐が通話中に開いておいた携帯電話で中の様子を知ることができた特別隊が中に入って犯人は射殺された。

日本のニュースでは警官とあったが、中佐は、士官学校をトップで卒業した軍人で、この犠牲的行為について彼を知る人のだれもが意外ではない、と証言するように、正義感や義務感の強い人だったそうだ。

で、フランス中が、中佐を英雄だと祀り上げている。
数年来のテロで今回初めて「犠牲者」だけではなく「英雄」が生まれたと。

その中で、極左政党の前議員が、ある環境問題の闘士であった友人がそれを排除する憲兵だか機動隊だかによって殺されたことを思い出していい気味だと思った、マクロンに投票する人間が一人減った、などという感じのツイッター発言をして、すぐに「テロ擁護」で訴追され、党からも除名された。
ある特定の人間が特定のシチュエーションで、武装した攻撃者から、自分を身代わりにして他の人を救った話なのに、政府側の人間だとか、マクロンに投票する側だとか、レッテル付けして安易に満足感を表明したのだから、この人を制裁するのは妥当だ。

もちろん、このテロリストと同じく、「イスラム過激派」やISシンパの人はいるはずで、そういう人たちは、中佐の死を神罰とみなし、射殺されたテロリストがジハードの殉教者だとみなしているかもしれない。まあ、そういうことをつぶやけばそれこそ政府のテロ監視網に引っかかっているだろうけれど。

こういう場合、中佐は、例えば武装して突入した銃撃戦で殺されていたとしても、殉職ではある。
でも、フランスで、こういう情況で殺された時は、「英雄」であり、「殉職」よりも「殉教」に近いニュアンスとなる。

ノルマンディの教会でミサの場でテロリストに殺されたアメル神父ももちろんその宗教的立場によって標的となったのだから「殉教者」だが、フランス語でmartyreというと、殉職も含めた広い意味になる。もとは信仰の「証しをする人」という意味だが、信条に殉じて苦難を被る人として使われ、恋愛に殉じて死んでも同じ言葉が使われる。
だから、このような死には当然、宗教的含意がある。

逆に、「英雄」という呼称も、カトリック教会の尊者、福者、聖人などの正式認定の時に条件として使われる言葉だ。
信仰を英雄的に生きたかどうかというのが照査される。
その時の「英雄的」というのはもちろんテロリストに素手で相対したというようなものではない。
日本語の英雄というのはいかにも雄々しい感じだけれど、蟻の町のマリアとして戦後に社会奉仕を続けた北原怜子さんも、「英雄的徳行」を認定されて「尊者」となっているように、英雄的かどうかは、ぶれない生き方にかかっている。

では、たとえば、唯一神を否認して不信心な生き方をしている罪人たちを殺して自爆したり殺されたりするという「犠牲」の精神をぶれずに持って、殉教者として天国に迎えられることを信じるテロリストも、「英雄的」なのだろうか。

この時の「犠牲」という言葉も、キリスト教文化圏では共通しているが、フランス語ではsacrificeでラテン語のsacrificium = sacer facere つまり、何かを「聖なるものにする」ということだ。もとは神への供儀で、どんな宗教にも共通した典礼の一種だ。

今回の中佐の行為は職業上の任務を超えて、自分で選択した「犠牲的行為」だった。けれども、それは彼がその職業、任務を選択した根っこの部分にある奉仕の精神の延長にある。

今回の英雄的「犠牲」と「殉難」のことを、アウシュヴィッツで、一人の脱走囚が出た見せしめとして10人の囚人が無作為に選ばれて餓死房に入れられた時に、妻子がいるから死にたくないといった男の代わりに身代わりを申し出て餓死刑(2週間後、まだ生存していた3人と共にフェノール注射で殺害された)で死んだフランシスコ会のコルベ神父と比較する人もいる。

中佐も、コルベ神父も、他の人の命が続くために自分の命を捧げた。

自分の命をsacrificeにしたことで、「いのち」を聖なるものにした。
だから、コルベ神父も、中佐も、被害者としての「犠牲者」ではなく、結果として「殺されはしなかった」。
これもとてもキリスト教的だ。

イエスは、ローマ兵が自分を逮捕しに来た日、周りにいた弟子たちに害が及ばないようにかばった。

>>>すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」(ヨハネによる福音書18,8)<<<。

その前にも弟子たちに命についてこう言っている。

>>>わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。(ヨハネ10,17-18)<<<

つまり、他の人の命を救う犠牲としての死は、命を奪われる死ではなく、いのちを与える死であり、「私を殺しても命を奪うことはできない」ことになる。

その考えでいくと、聖戦と称して他人を殺傷し自分が天国にいくつもりの「殉教」を目指すテロリストの「犠牲」は、殉教でも、英雄的行為でもない。

このことについて、神がモーセに与えたという十戒の「殺すなかれ」という戒律は、「あなたは他人の命を奪うことができない」という意味だとラファエル・エントヴェンが言っていた。

十戒にある戒律を人は守れない。
守れない戒律を神が与えるわけがない。
あの言葉は、命とは聖なるものであることを示しているのだ、という。

希望があるようで実は絶望的でもあるなあ、と思っていたら、禅宗のお坊さんのブログで「親鸞聖人における無戒の主張について」という記事を読んで愕然とした。

>>>曹洞宗では授戒を行うのに、浄土真宗では授戒をしないのは何故か?という問いをお寄せいただいた。そこで、拙僧なりに現在学んでいるところから、浄土真宗に於ける凡夫無戒について検討したい。なお、敢えて「浄土真宗」としたからには、親鸞聖人の一部の教説のみを挙げて、さも真実であるかのような論じ方をせず、同教団が歴史的に抱えた問題を探っていきたいと思う。<<<

という前置きで紹介される浄土真宗の聖典の中で引用される伝・最澄撰『末法灯明記』というテキストがある。

単純化して言うと、釈尊入滅後、時が経つにつれて、正法の時代、像法の時代、末法の時代と「劣化」して、戒律も、「破戒」の段階を経て、末法となると「無戒」の時代となるという話だ。そして、もう親鸞の頃は「末法」の世だと思われていたから、もう「戒」を授けたり授かったりする「持戒」の意味はない、だから妻帯しても魚を食しても「破戒」ですらない。浄土真宗には「戒名」なくて「法名」というのもそれが理由なのだ。

記事の分かりやすい部分を引用してみよう。

>>>仏教者として価値ある存在(無価というのは、世俗的な価値を超越した存在のこと)のことを指摘しているのだが、そこで、「いはゆる如来、縁覚・声聞および前三果、得定の凡夫、持戒・破戒・無戒名字」という順番を挙げているわけである。通常であれば、これは如来から始まって、最後「無戒名字(ただ、比丘という名前のみがある存在)」にまで落ちるのだが、これを、「正像末の時の無価の宝」という、時代的な評価を重ねることで、「初めの四つは正法時、次の三つは像法時、後の一つは末法時なり」として、「無戒名字」については末法の時代の「無価」として評価されるとしたのである。いわば、これこそが、末法における「無戒」への評価の根拠になる一節だといえる。それを受けて、親鸞聖人は、以下のように示される。

無戒名字の比丘なれど 
末法濁世の世となりて 
舎利弗・目連にひとしくて
供養恭敬をすすめしむ   
 「愚禿悲歎述懐」、『正像末浄土和讃』、『浄土真宗聖典』619頁

この一節だが、結局「無戒」であり、名ばかりの比丘ではあるが、末法の世となってしまえば、その存在こそが舎利弗や目連に等しい「無価」なのであり、供養し尊敬することが勧められる、という理解が出来ようか。<<<


数え方にはいろいろな解釈があるそうだが、もう何世紀も前から、人は「世も末だ」、「末法の世だ」と認識してきたわけだ。
そして末法の現実に合わせて「聖なるもの」や「完成」や「悟り」のハードルがなんとなく下がっていくというか、形が変わっていくというのは分からないでもない。

それにしても「無戒」の時代って…。

近頃は、ロシアでもエジプトでも中国でも事実上の「独裁者」が生まれるし、日本でも公文書改竄で民主主義の根幹が揺らいでいるし、アメリカの大統領は性的スキャンダルを騒がれているし、なんだか本当に「無戒」の末法的状況を思わせる。

そんな時代だからこそ、他人の命をつなぐために自分の命を捧げる「英雄」が今回のテロで生まれたことに多くの人が救いを感じているのかもしれない。

ドラッグや盗みなどの軽犯罪者が過激化シテテロリストに変貌する時には、「聖戦」の英雄になりたいという「英雄」志向があるとも言われる。

それを予防する意味でも、無戒の末法においても命を尊び続ける信念を捨てない「英雄」が称えられるのは悪いことではない。

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by mariastella | 2018-03-29 00:05 | フランス

不思議なタブロー

(これは昨日の続き)

先日おじゃましたサロンのアパルトマンにたくさんの絵がかけられていた。

正直言って私の好みのもの(つまり、ベッドの向かいに掛けたと仮定した時に、眠る前に最後に目に入る絵で、朝起きた時に最初に目に入る絵として耐えられるかという基準。あるいは、滅亡した地球を去って別の惑星に移住すると仮定した時に、たったひとつの作品を「地球のいのち」というタイトルで持ち出す選択ができるかという基準)はひとつもなかった。

先日の MoMA in Paris 展の続きを観ているみたいだった。

バービー人形にメイクをして衣装を演出した作品が3種類あり、どれも、正面から見ると顔だけで、たとえば「修道女」というタイトルで、斜めから見ると武装している。

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これが正面
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これが斜め。

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これが正面

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これが斜め、というのもあった。

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まあまあ気に入ったのはこれだけれど、ジャック?シュヴァリエだかの作品だそうだが、持ち主自身が画家の名を覚えていないという。それに、他の人たちは誰も絵を眺めていない。常連で見飽きているのかもしれないけれど、私だったら毎回じっくり見て回ると思う。
全体に、メセナではあっても、アーティストの集まりではないので、話題も表面的だ。コレクター本人とさえ、コレクションの内容について、コンテンポラリーアートについての議論がきけない。

まあ私のフランスバロック音楽の話を本気で聞いてくれた人も2、3人はいたし、すてきな場所でのコンサートの可能性について提案してくれる人もいたので無駄ではなかったけれど。

そんな中で、テキサスの大学教授で比較神秘思想が専門だという女性に出会った。
彼女といろいろ話して、確かに同じようなアプローチの人であり、向こうは「こんなところでこんな人に会えるとは思っていなかった。私たちはもう親友です」とえらく感激して、メールアドレスを交換した。
おかしいのは、彼女のフランス語と私の英語のたどたどしさやとっさに言葉が出てこないのまでが同じ程度でもどかしかったことだ。お互いに読む方は何の問題もないので、メールは彼女は英語で私はフランス語で書くことに合意した。話す時もそうすればいいのだけれど、二人ともやはり聞き取り能力もいま一つなので、相手の下手なフランス語や下手な英語の方が意味を汲み取りやすいし、適切な言葉に変換し合うこともできた。アヴィラのテレサについていろいろ話せた。

でもこの女性は、私と意気投合する前に、いる人みんなに「自分は恥ずかしい、あんな大統領がいる国で」とさかんに言っていた。言っていたというより、ほとんど「謝罪している」雰囲気だった。他にもボストンから来た人もいたけれど、こんなサロンに来る人々が、アメリカ人がいるからと言ってトランプ大統領選出の責任を問うとかアメリカを馬鹿にするとかなどあり得ないことなのに、こんなに卑下してまわる気にさせるなんて、本当にトランプは罪作りだ。

でも、こういうパリの夜は、それはそれでおもしろい。




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by mariastella | 2018-03-28 00:05 | アート

パリのアパルトマン

3/22は、マクロン政権になってはじめての公務員ゼネストで、交通が混乱、バロックバレーのレッスンも翌日に変更になったのに、めったにない別の二つの約束が朝と夜にあったので、無理をして出かけた。
全く違う場所にある個人のアパルトマンで、初めて行く場所だったので好奇心はあったのが救いだった。

まず、5番線東の終点ポルトディタリー。
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春分を過ぎても肌寒い。
イタリー大通りに面したタワーマンションの24階。
有名な筆跡鑑定家の自宅兼事務所だ。
ある訴訟で日本人の漢字のサインを偽造した件で揉めている。日本人の目から見たら明らかに不自然な線。
一つひとつ、書き順も、楷書や草書も説明する。
とは言っても私は もちろん公的な鑑定の資格などないからただの非公式の助言だ。

実際は、習字を何年も習っていたことがあって、何か忘れたけれど段位みたいなものももらっていたし、何度も何かの賞をもらった。だからフランスのリセで頼まれて日本語を教えていた時も、筆ペンで必修漢字表を手作りしていた。今のようにいろんな書体などがネットで拾えるような時代ではなかったからだ。写経も時々する。

だから私の説明には信憑性があるのだからそれを強調してくれとも言われたけれど、今となっては、大昔に受けた賞だとか、証明するものなんてもちろんない。ただの自己申告だ。実際に筆を持てばなんでも書けるというだけのこと。

後で弁護士とカフェに入ったら、娘夫婦の危機など家庭の打ち明け話をされて驚いた。女性弁護士の夫君は医師で、娘の教育にも必死だったのに、幼なじみの獣医さんと結婚して専業主婦になった後で危機が訪れた。

夜は7区のセーブルバビロンヌのメトロ前にある古い建物。窓からボンマルシェ前のスクエアが見える。
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35年続く音楽愛好家メセナのプライヴェートコンサートで、こういう高級マンションだのオテルパルティキュリエ(1戸建のお屋敷)だのでカクテル付きのサロンを開いている。「今年もみんなでウィーンに行きましょう、ハプスブルク家と友達だから彼らのところに泊まって…」などと言っている。

その夜のサロンのアパルトマンの所有者は道楽でやっていた画廊を閉めて、気に入ったコレクションをたくさん残して飾っている。
ピアノはスタインウェイだった。
トリオはサンクトペテルブルクやモスクワの音楽院出身の若いピアニスト、チェリスト、ヴァイオリニストで、めずらしいロシアの曲をいろいろ聞かせてくれたが、19世紀ものはあまり食指が動かないし、ヴァイオリンの音質が悪く、聞き辛かった。

でも、その後、おもしろい出会いもあった。(続く)

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by mariastella | 2018-03-27 00:05 | フランス

おしどり夫婦 がんばって。

ネットのおかげで、今までなら、日本にいたとしても多分存在に気がつかなかったような人々の言葉をいろいろ聞ける。

日本人のカップルで素敵だなあと思うのは「おしどりマコケン」ご夫妻だ。

ケンさんがひとめぼれで、会ってから一週間でゴールインしたそうだが、正解です。

ふたりのかけあいでもマコさんが一方的に強くて独り舞台なのだけれど、ケンさんの愛と献身がマコさんを支えているというのがよく分かる。

いろいろと彼らのビデオを視聴したけれど、原発報道などでジャーナリストの関係者が何人も自死していくことが衝撃的だ。日本は自殺が多いとは知っていたが、いじめ、過労、鬱、老い、病気、孤独などを考えていたので、今大騒ぎの公文書改竄もそうだが、政治案件の圧力や口封じで亡くなっていく方がいる現実は深刻だ。

おしどりさんたちがいろいろな圧力にも負けず、大手エージェントに籍を置いたまま活動を続けていられることは貴重で希望がある。


そしてふたりが信頼し合って連携していることのすばらしさにも感動する。




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by mariastella | 2018-03-26 00:05 | 雑感

エジプト、アメル神父の教会、トゥールーズのテロ

少し前の話になるが、エジプトのことよくニュースで取り上げられていた。無神論者が罰せられるというサウジアラビア並みの法案が出ていること、これはなんだかおそろしい。
その他に、女性が高学歴でも仕事がないのでみなが結婚して家庭に入りたがることが語られ、楽しそうなウェディングドレスの試着のシーンが映された。
出生率が以上に高まり、産院では場所がないので、4時間で退院、帝王切開でも24時間しか置いてもらえないという話も。

砂漠が広がり国土の10%にしか住めないので住宅事情が悪くこのままでは国が破綻するので必死に避妊キャンペーンをしているようだ。

そのニュースの後では、でも世界には人口が減る国も40数ヵ国あって、と紹介され、その筆頭が、もちろんダントツで日本だった。中国やイタリアが次に挙げられていた。

うーん。なんだか私としてはいろいろ突っ込みどころがあり過ぎる報道だ。

その他には、TVのドキュメンタリーで2015年に教会の中で殺されたアメル神父についてやっていたのも見た。

前にもこの事件に関して複数の記事を書いたけれど今回のドキュメンタリーはこの記事 の展開ということだろうか。

フランシスコ教皇がアメル神父について、殉教者、福者、に近い言葉で形容して、教会に画像を設けて信者に崇敬させなさいみたいなことを司教に言ったんだそうだ。

で、今は事件を描くえらく詳細な一連のステンドグラスみたいなものができていて、テロリストの情報についても細かく書き込まれているのが映った。正式の列福審査中というのは分かるが、説明的なリアルな図像には違和感が残る。

射殺された犯人と同い年の息子がいる住民が、同じように過激化した自分の息子と絶縁した、みたいなことも言っていた。
住民3万人で、移民も多く、教会の横にあるモスクには毎日の5回の祈りには400人集まり、金曜の礼拝には1000~1500人集まるんだそうだ。

ノルマンディの町ってこういうところもあるんだなあ。
犯人は何度も教会を攻撃するとSNSで言っていて、事件発生の後すぐに誰もが、ああ彼に違いないと思ったそうだ。いわゆるローコースト・テロと言われるものだが、何となく非現実的だ。彼らもテロとは大都市で起きるものだと思っていたらしい。

ところが、このドキュメンタリーの後でやっていた別の番組の方がインパクトがあって深夜まで見てしまった。

それは、2012年の3月に起こったトゥールーズでのモアメッド・メラによる犠牲者の母親のドキュメントだ。有名な人なので名や顔は知っていたけれど、その迫力に驚いた。(メラー事件についてはここでも少し触れた)(続く)

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by mariastella | 2018-03-25 00:05 | 雑感

不服従の勧め  フレデリック・グロの『不服従』

フレデリック・グロの『不服従』というこの本は数年前に90歳を超えたステファン・エッセル(彼についてはこのブログでもいろいろ書いている。例えばこれ)が書いてベストセラーになった『怒れ!』という本を別の形からアプローチしたものだと言える。


このyoutubeでも分かりやすく解説されている。



要約すると、 不服従というのは今や「人間的な行為の一つ」だ。なぜなら、私たちはあまりにも、「服従する」という型にはめられすぎている、服従しないことは、孤立することで怖い、という感情につながる。服従することが「みんなと同じ」という安心感を与えてくれる。

今は「不服従」を学びなおす時だ。もちろん、なんでも反抗しろという反社会性を煽るわけではない。ただ、「服従」の中には、「責任回避」という面があることに注目しよう。

「服従」して何かをするということは、しているけれど自分がその責任者でない、ということだ。


ここで取り上げられるのは、ナントの近くに建設予定だった新空港に反対してもう20年近く、「占拠」して反対運動をしてきた環境保護運動の人々の例だ。

(このブログでは前にこんな記事 を書いた)


彼らはそこで、小屋を建て、新しい暮らし方を実践した。

国は、経済効果を説明して、県民投票もして、建設を確定し、何度も強制排除をしようとしてきた。反対派は、国に対して、ゲリラのように罠をしかけ、道路を封鎖してきた。結局、政府がこの計画を断念した。この反対派に対して、いわゆる「プロ市民」だとか、黒幕がいるとかの非難もなされてきた。でも、結局、彼らの「不服従」が勝ったのだ。

大きな運動となる不服従の決意の前の段階には、「生き方」に関する決意、回心が必要だ。

それは霊的、倫理的な、内的な問いに依って立つ。非暴力というのが前提だ。

内的に恥だと思うものに対して不服従を決意する。例えば不平等や差別や環境破壊などだ。

それらに対して少しでも良心の呵責や怒りを感じるなら、それは、自分が既存のシステムの共犯であることを自覚した証拠でもある。

日本で、成田空港建設反対の三里塚闘争が死者まで出したことや、今の沖縄での辺野古基地建設反対の座り込みなどのことを考えさせられる。

このフレデリック・グロの本は、バカロレアの哲学の課題図書にもなっていることに注目したい。哲学者でパリ政治学院の政治学の教授でもある。

フランスは18歳で選挙権がある。それまでに、中等教育で哲学が必修であり、バカロレアで4時間の作文試験が課せられる。そこで「不服従」についても学ばされるわけだ。

日本では、官公庁でも、上からの指示だの忖度だのによって書類を書き換えさせられたり改竄させられたり、虚偽答弁をさせられたりする事件が次々に問題になっている。そのことを苦にして自殺にまで追い込まれる人もいる。


同調圧力の強い社会だとは分かっているけれど、だからこそ、「不服従」の学びについてみなが考えてほしいとつくづく思う。




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by mariastella | 2018-03-24 00:05 | フランス

防衛装備が殺傷する

3/20、去年から続く戦争でイエメン人が殺傷されている武器の一部がフランス製、戦争が勃発した後でフランスがサウジアラビアやアラブ首長国に売ったものだと判明し、「殺傷武器」を売った、フランス製武器が人を殺している、というのでアムネスティ・インタナショナルとACAT(拷問廃絶のキリスト教運動)という二つのNGOが糾弾している。

なるほど、武器輸出入のことを「防衛装備」輸出入と呼ぶのは、ただの欺瞞かと思っていたら、こういう「建前」の根拠になっているのだなあと思った。

国際法上はすべての侵略戦争は禁じられているので、今あるすべての戦争は防衛戦争という建前なのとセットになっているのだ。


アメリカのハイスクールでまた生徒による銃撃事件があったという。

犯人は警官の「防衛装備」である銃で殺されたようだが、教師に防衛装備を導入するハイスクールも出てきたとか。

小はナイフや拳銃から大は核兵器まで、素手では大した殺傷能力のない人間が「防衛装備」を駆使して結局は殺し合う構図はアルカイックで共通している。


文明ってなんだろう。


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by mariastella | 2018-03-23 00:05 | フランス

ホーキング博士の死とコミュニケーション

先日、ブラック・ホールで有名な車椅子の物理学者スティーヴン・ホーキングが亡くなったニュースをフランスのラジオで最初に聞いた時、内容はすぐに理解したものの、とっさにホーキングという「日本語」が出てこなかった。


フランス語を脳内でカタカナに直す時にホラー作家のスティーヴン・キングの名前が頭をよぎった。

なぜだろうと後から考えたら、フランス語読みでは、スティーヴンはステファン(日本人にはステファヌと聞える)で、ホーキングはHが発音されないで長母音もなく、しかもファーストネームとファミリーネームがリエゾンするので

「ステファノキング」

と発音されていたからだ。

だれのことかというのは文脈上すぐに分かったけれど。


考えてみると、カタカナでは一応「現地読み」に近いものを採用しているから、スティーヴンなのだろうが、そもそもStephen のphenphが濁ってVとなるのは言語学上不思議ではないけれど、この綴りが残っているのはある意味で宗教的ルーツの強さを思わせる。


この名前は、ユダヤ系ギリシャ人で、ユダヤ教会を批判して石打ち刑で殺されたキリスト教最初の殉教者として超有名な「聖ステファノ」から来ている。


キリスト教文化圏には洗礼名や守護者としての聖人の名が圧倒的に多いのだが、言語圏が違うとヴァリエーションが多い。

使徒ペトロがピーター、ピエール、ペドロ、ピョートル、

ヨハネがジョン、ジャン、ジョヴァンニ、フアン、ハンス、などになる。


日本人から見るとまったく違う名前に思えるが、昔、パリの女子学生寮にいた時に、同宿のアメリカ人学生が、スーザンという名前なのにフランスだからというので「私はシュザンヌよ」と何の迷いもなく使っていたのでそんなものかと思った記憶がある。


大抵は何となく想像がつくけれど、驚いたのはこの「ステファン」で、フランス語ではエティエンヌという。気がつくのに一年以上かかった。

元のステファノにより近いStéphane という名が使われ始めたほうが新しい。

女性形の「ステファニー」の方は昔からある。

エティエンヌというのはフランス語の形からいうと女性名のように聞こえるが、男性名しかない。

どうしてSが消えるのかよく分からない。スペインではEsteban エステバンという。これもBのせいで、最初はピンとこなかった。


アングロ・サクソンの「有名人」の名がフランスで語られるときに、フランス語風に読まれるか現地語風に読まれるかというのは必ずしも決まっていない。日本で中国や韓国などの漢字の地名や人名が、今は原則として現地読みに近いフリガナをつけたりカタカナで書かれたりしているけれど、日本の漢字読みで通用しているものも多いことと似ている。

この中国系の固有名詞は、フランスでは一応、「現地読み」に近いものになるので、たいてい漢字しか浮かばない私には、理解したり発信したりするのに苦労する。

で、スティーヴン・ホーキングが「ステファノキング」で、一瞬混乱したわけだ。

ホーキング博士のことを、テクノロジーがコミュニケーションのツールになった成功例として称賛する人がいた。


本当だなあと思う。


昨今、AIが人間の仕事を奪うとか人間の能力を凌駕するとかいろいろ言われているが、普通なら重度の身体障碍者として社会生活が困難になるはずのこの天才が、高度のテクノロジーにアシストされて最後まで世界中にコミュニケートし続けてきたというのはすばらしい。


逆に、身体能力が損なわれていなくても、自分の考えを他者と広くコミュニケートできなくなった、理解し合うことができなくなったというタイプの障碍の闇は深い。


その闇を探ってアシストできるようなテクノロジーというものができる日は、はたして、来るのだろうか。




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by mariastella | 2018-03-22 00:05 | フランス語



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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