L'art de croire             竹下節子ブログ

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マルモッタン美術館の細密画とシューベルト

マルモッタン美術館の常設展示の「enluminure(中世写本の細密画)」の部屋は、すばらしい。

キリスト教世界の細密画はこれまでにも見たことがあるけれど、ここの薄暗い一室に並べられた絵の筆遣い、時代を超えて輝く金の色遣い、疫病も飢饉も戦乱も今では考えられないようなレベルで人々を襲っていた時代に天国や救いや宗教的昂揚を求めた人々の息遣いなどがたちこめている。雰囲気の再現まで何かにまでインスパイアされたかのようだ。

この細密画の「光」は写真ではすべて吹き飛んでしまう。
その前に立たないと伝わらないので載せない。

彫刻も少しあった。これは聖女アニエス。仔羊がシンボルで、犬か猫のように寄りすがっている。
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こういうのを見ると、ああ、中世ヨーロッパにキリスト教の写本文化があってよかったなあ、と、保存状態の良さと同時に感謝したくなる。その感動は、具体的な宗教的コンテキストや鑑賞者の文化的背景とは別のところにあると思う。
例えば私は過去に「源氏物語絵巻」の原本の展示を見たこともあるけれど、教養としての興味の方が大きかった。
中世ヨーロッパの細密画は、伝統的文化的なコンテキストを共有していないのに、もっと迫ってくる切実感がある。

6/13には、弦楽オーケストラで、三度目になるバッハのブランデンブルク3番の他に、モーツアルトの「AVE VERUM CORPUS(アヴェ・ヴェルム・コルプス)」の合唱の伴奏に参加した。「真の体」、つまり先日の聖体の祭日と同じ、カトリックのミサで聖体にキリストの真の体が化体するするという賛歌だ。だから歴史的にはばりばりのカトリック文化の遺産なのだけれど、弾いていて、合唱を聴いていて、どきどきする(宗教とは関係のない文化行事のコンサートだ)。

こういう時も、バッハやモーツアルトらが生きていた時と場所にキリスト教文化があってよかったなあと思う。

目に見える細密画や、耳に聴こえる聖歌が、私たちを現世と「あちらの世界」の境界領域に誘ってくれる。
特に図像は確固としてそこに「ある」けれど、音楽は、演奏する瞬間にしか現れない。
「インスピレーション」の現場により深く立ち会える。

源氏物語絵巻を見る時には物語の文脈を知りたい気がするが、細密画や宗教曲には、テキストの中身や教義を超える「人間」の訴えや心を直接キャッチするだけで多幸感をもたらせてくれる何かがある。



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by mariastella | 2018-06-18 00:05 | アート

マルモッタン美術館の細密画とシューベルト

マルモッタン美術館の常設展示の「enluminure(中世写本の細密画)」の部屋は、すばらしい。

キリスト教世界の細密画はこれまでにも見たことがあるけれど、ここの薄暗い一室に並べられた絵の筆遣い、時代を超えて輝く金の色遣い、疫病も飢饉も戦乱も今では考えられないようなレベルで人々を襲っていた時代に天国や救いや宗教的昂揚を求めた人々の息遣いなどがたちこめている。雰囲気の再現まで何かにまでインスパイアされたかのようだ。

この細密画の「光」は写真ではすべて吹き飛んでしまう。
その前に立たないと伝わらないので載せない。

彫刻も少しあった。これは聖女アニエス。仔羊がシンボルで、犬か猫のように寄りすがっている。
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こういうのを見ると、ああ、中世ヨーロッパにキリスト教の写本文化があってよかったなあ、と、保存状態の良さと同時に感謝したくなる。その感動は、具体的な宗教的コンテキストや鑑賞者の文化的背景とは別のところにあると思う。
例えば私は過去に「源氏物語絵巻」の原本の展示を見たこともあるけれど、教養としての興味の方が大きかった。
中世ヨーロッパの細密画は、伝統的文化的なコンテキストを共有していないのに、もっと迫ってくる切実感がある。

6/13には、弦楽オーケストラで、三度目になるバッハのブランデンブルク3番の他に、シューベルトの「AVE VERUM CORPUS(アヴェ・ヴェルム・コルプス)」の合唱の伴奏に参加した。「真の体」、つまり先日の聖体の祭日と同じ、カトリックのミサで聖体にキリストの真の体が化体するするという賛歌だ。だから歴史的にはばりばりのカトリック文化の遺産なのだけれど、弾いていて、合唱を聴いていて、どきどきする(宗教とは関係のない文化行事のコンサートだ)。

こういう時も、バッハやシューベルトやモーツアルトらが生きていた時と場所にキリスト教文化があってよかったなあと思う。

目に見える細密画や、耳に聴こえる聖歌が、私たちを現世と「あちらの世界」の境界領域に誘ってくれる。
特に図像は確固としてそこに「ある」けれど、音楽は、演奏する瞬間にしか現れない。
「インスピレーション」の現場により深く立ち会える。

源氏物語絵巻を見る時には物語の文脈を知りたい気がするが、細密画や宗教曲には、テキストの中身や教義を超える「人間」の訴えや心を直接キャッチするだけで多幸感をもたらせてくれる何かがある。



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by mariastella | 2018-06-18 00:05 | アート

シャルル・グノー『血まみれの修道女』(La Nonne sanglante)

6/10、オペラ・コミックにグノーの『血まみれの修道女』(1854)を観に行った。

普段なら、19世紀ロマン派オペラはスルーしているのだけれど、前の週にパリでポスターを見てそのインパクトに打たれて、ついチケットを買ってしまったのだ。

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このポスターはオペラ/コミックの外の壁のもの。

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中にもこうして貼られていて、左にある、今シーズン全体のプログラムそのもののポスターも同じテイストで怖い。

この話はルイスの『マンク』のエピソードをもとにしたゴシック・ロマンというかゴシック・ホラーで、ホフマンらも同時代。私は高校時代、ドイツの小ロマン派の小説が好きで大学ではドイツ語クラスを選択していた。

で、行ってよかった。

エンターテインメントとして最高だった。

もちろんバロック・オペラ愛好家にとっては、「別世界」だ。

挿入されるダンス曲が「ワルツ」なのが、完全な断絶だけれど、それでも、たった11回で打ち切られたという初上演の時は踊られていたと思う。今回は、唯一黒人のソロダンサーがダンス的な動きを見せるシーンの他は、すべてスローモーションのパントマイムみたいな演出だ。フランスのオペラ・バレエの伝統が好きな私としては残念だ。振付が自然に頭に浮かんでしまう。

けれども、そういうバロック頭の先入観なしに見れば、すばらしい演出だった。

ミニマリストでビデオなども駆使しているけれど、コーラスやダンサーの「群衆」像をすべて「絵」にしているのは見事だ。何よりも、歌手たちが役者として優れていて感動ものだった。

ばりばりのベル・カントにも圧倒される。

ホラーの効果も成功しているし、父と息子の確執(この話には「母」が見事に不在で、「父」の権威、「宗教者」の権威、「神」の権威が、女性だけでなく「息子」も完全に支配している)というテーマと意外に相性がいい。

父が20年前に過去の許嫁を殺したと言っているのだから、次男である主人公のテノール、ロドルフはどう計算しても18歳くらいのはずで、父と兄が死に、家長となる一種のイニシエーション・ストーリーだ。(父に殺された女性が血まみれの幽霊となって現れるわけだ。)

中世ボヘミアで互いに戦い殺し合う二人の領主を諫め、平和をもたらすために隠者ピエールという宗教者が、和解のために両家の婚姻を勧める。アニエスという娘は敵の家族の長兄と無理やり婚約させられる。

けれども弟のロドルフは、愛し合うアニエスを兄に奪われても兄と戦おうとはしない。

兄が死んだ後でもアニエスと結ばれるために「血まみれの修道女」の呪いを解くために父を殺すことも拒否してすべてを捨てて去ろうとする。

愛よりも、儒教風の「家族の長幼の義」を守る若者だというのがおもしろい。

それでも、物語はどろどろと展開していくので、音楽を抜きにしたら歌舞伎で「四谷怪談」と「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)・寺子屋」を一度に見たような強烈で「濃い」印象になる。

「血まみれの修道女」のメイクも歌舞伎風にすごいし、手も血まみれというより黒塗りされているのも怖いし、何よりも、メゾソプラノのマリオン・ルベーグがそれこそ歌舞伎の「寄り目」のように「白目」をむいているのが鬼気迫る。

「血まみれの修道女」のライトモチーフの半音階や打楽器の使い方、チェロ、トロンボーン、ハープなども効果的だ。音楽の豊かな色彩感はさすがにフランス音楽だと思う。

舞台がすべてモノクロで、村の婚約者カップルのブルーの服を除いて全員が黒い服、「血まみれの修道女」だけが幽霊らしく白い服(最初の登場シーンでは血まみれになっている)というモノトーンの世界で、音楽の色彩感がいっそう際立つ。

グノーの生誕200年とはいえ、よくこんな作品を復活上演したものだと思う。

女性指揮者のローランス・エキルベイは、コンテキストの理解のために、文学史も学び、ロドルフの心理を理解するためにラカン派の精神分析医のアドバイスまで受けたという

徹底ぶりだ。

アメリカのテノール歌手マイケル・スパイアーズはとにかく出ずっぱりの一人芝居で、歌手冥利、役者冥利に尽きるような力技だが、この人はオテロとかファウストとかドラマティックなものをよく演じている。どちらかというとずんぐりしていて舞台映えするような人ではないのだけれど、演技力あり過ぎ。

ゴシック・ホラーが説得力ある人間ドラマになっている。


グノーはアヴェ・マリアで有名な敬虔なカトリックだったが、この上演当時には、「復讐の悪魔に憑りつかれているいる修道女」などという描き方は不道徳だとか、幽霊は音楽だけで表現すべきで、歌わせる必要はなかったとか、いろいろな批判があった。テオフィル・ゴーチエや、ベルリオーズ(作曲しかけてやめた)からは称賛されている。

修道女役はやはり目を見開いてすごい形相だったようで、死体の動きのために解剖学を研究したのではないか、とまで言われていたようだ。


日本の幽霊は「あちらの世界」の動き方で、「屍」の動き、とは別だと思うが、夜の12時という「境界領域」に現れるこの修道女はやはりまだ「生と死」の境界にいるのだろう。

カーテンコールで、オーケストラの全員が舞台に上がってきたのも珍しい。

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チームの力が絶妙のバランスで感じられるのも快かった。



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by mariastella | 2018-06-17 00:05 | 音楽

カトリック教会のペドフィリア・スキャンダル その2

(これは前の記事の続きです)

ペドフィリア対策担当司教と被害者の会の代表との「対決」。

意外だった。

フランスでカトリック司教団の対策委員会がトレランス・ゼロを受けて、すべての司祭や教会内で未成年と接する人々を対象にさまざまな「防止策」を徹底して、通達していることや、チリの司教団が全員で共同責任を取って引責辞任をヴァティカンに願い出たことについて、

私がなんとなく予想していたのは、被害者側が、

そんな「防止策」では足りない、全体の体質を変えるためにチリの司教団のように徹底的に責任を取るべきだ、

と言うか、

フランス司教団の現実認識と自主的な努力は評価する、

と言うかのどちらかだった。

ところが、被害者が言うのは、違っていた。


要約すると、 


「全司祭を対象にして彼らがまるで潜在的なペドフィリア予備軍であるかのようにするのはよくない」


「チリの司教団が全員辞職というのは、実際の加害者の責任を相対化してしまうのでよくない」

ということだった。

確かに、ペドフィリアは「権威や権力のある大人が子供とふたりきりになるような状況」でしか起きないだろう。でもだからといって、そのような状況自体をすべて禁じるのは意味がない。


しつこく小動物の例を挙げると、

小動物と共に一人でいる時にしか虐待は起きないだろうけれど、

ではひとりで小動物といる人には誰でも虐待の誘惑が起こるということはあり得ない。


人の眼がないとメロメロ、デレデレになって犬や猫に愛を注ぐ人の方が多いだろう(まあそれはそれで犬猫にとっては迷惑かもしれないが)。


「自分の欲望を満足させるために小さい者を虐待する」という行為は、遺伝的、環境的、何らかの理由ですでにそのような「嗜好」を持った者が、それが可能な状況に置かれた時に「誘惑」に負けて起こるのだ。


犬猫が虐待されるケースがあるからと言って全てのペットの飼い主を集めて、防止策をレクチャーする意味はない。ほとんどの人は、ペットを飼っていない人たちよりも、虐待に対してさらに怒っているのだから。


もちろん少数の「異常者」を徹底して糾弾することは、そのような「傾向」を潜在的に持っている人が「誘惑」を自制するためにも有効だろう。ペドフィリアは連帯責任で相対化することで済ませるような問題ではない。


で、被害者の会のリーダーが言うのは、

このペドフィリアのスキャンダルについて「教会」全体を糾弾することで、99%の普通の司祭が後ろ指をさされるようになり、罵倒されたり、スカウト運動や公教要理やらボランティア活動に子供を参加させている親たちを不安にさせたりする。

ひいては神に対する信頼もなくす。激減している司祭のなり手もますます少なくなる。

加害者を守って司教団全員が引責辞任するのでは「実行犯」の責任を曖昧にする。

ペドフィリアは上への「忖度」やら上からの「指示」やらでなされる犯罪などではない。

「聖霊によって叙階された」はずの一司祭が、元の「嗜好」を満足させる機会に遭遇して犯した重罪である。

教会は、賠償などとは別に、当該司祭を徹底的に糾弾し、職務停止し、時効が成立していないなら司法の手に渡し、成立していても隔離し、「悪」を「悪」と名指さなくてはならない。


彼のこの言葉を聞いて、なるほどと思わされた。


これは、チリはもちろん、アイルランドやニューヨークでもなく、ましてやカトリック信徒が人口の0.4% 未満とかいう日本の話ではない。


「共和国主義」が「宗教」となっている今のフランスの場合だ。

今どき、子供たちをスカウト活動に入れたり、公教要理や教会のボランティアに参加させたりするフランスの家庭のマジョリティは、保守的なブルジョワ家庭であって、カトリックということがアイデンティティの一部になっている人たちが多いという現実がある。

で、そういう家庭の子供たちが、そのような活動を通して、使命感を得たり召命を得たりして、教会活動を続ける。中には司祭になる者も出てくる。今のような新自由主義経済の金権社会で、すでに「勝ち組」の家庭に育って教育水準も高い若者たちが、独身で弱者のために尽くしている司祭たちに接して、使命感に目覚め自分もその後に続こうとするわけだ。そのような「今時めずらしい」若者たちが、司祭になったり司教に上り詰めたりする。

それなのに、運悪く、ペドフィリア倒錯者の司祭にあたって被害を受けた少年たちがいた。

彼らが告発し罰してほしいのは直接の加害者だ。

司教団に謝ってもらっても「再発防止」対策をしてもらっても大した意味がない。

被害者の少年たちも、もちろんそれから教会を離れ、恨みにも思ったろうが、ブルジョワ家庭で教育水準が高いこともあり、長じて社会的には「成功」するケースがある。

トラウマの本質を考える余裕も知的な能力もあり、被害者の会を立ち上げて、他の国の被害者と連帯し援助していくスキルもあった。


一方で、そのような被害者たちの「友人」たち、つまり同じような恵まれた環境にいた少年たちで、倒錯犯罪司祭に密室で遭遇しなかった多くの少年たちが存在する。

彼らの中には、教区司祭や修道士たちの献身をみて、自分たちも弱者の側に立たなくてはと思う者が出てくる。その中から、代替経済を考えたり雇用者の人権に配慮したりする企業経営者も生まれれば、ボランティア活動や人道支援団体への寄付を続ける者も出てくる。

そして少数の者は自分も司祭になることを選択するのだ。

で、被害者組織のリーダーの友人にも、司祭になった者がいる。

友情は変わらない。その友人たちが苦しんでいる。ペドフィリア・スキャンダルのせいで、心ない罵声を浴びせかけられたり教会に攻撃の落書きをされたりするからだ。

少年時代に同じようにカトリック教育の中で慈善や利他や謙遜を教えられながら、


そんなことはすっかり忘れて「普通のエゴイストになる」普通の人もいれば、


神と弱者に身を捧げる使命を全うしようとする少数の人もいれば、


ペドフィリアの司祭と2人きりになるという事態を経て癒えることのないトラウマを抱えた少数の人もいる。

被害者の中には、過去に自分たちが信頼していた司祭、今でも信頼に足ると思う多くの司祭たちと「連帯」しようとしている人たちがいるのだ。


被害者の会のリーダーは、ひょっとして、本当の意味で「キリストの教え」に従う「信徒」なのかもしれない。

弱者である少年たちを虐待した強者を弾劾することを絶対にあきらめず、黙って苦しんでいた他の被害者に手を差し伸べ寄り添うからだ。

「ある閉じられた組織内の犯罪」を思う時、「悪」にはみな保身や思考停止や欲望や利益追求などの共通点があるけれど、それぞれの被害者にはそれぞれの立場と生き方と戦いがあるのだなあ、とあらためて考えさせられた。


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by mariastella | 2018-06-16 00:05 | 宗教

カトリック教会のペドフィリア・スキャンダル その1

6/11


今発売中のリベラル・カトリック週刊誌の表紙を見て驚いた。


カトリック教会のペドフィリア問題対策の責任者である司教と、リヨンの司祭を告発することで始まったペドフィリィア犠牲者の会の主催者である40代男性の二人が並んでいる。

この2人は別々にはいろいろなところでインタビューに答えてきたが、公式に同時にインタビューを受けるのは初めてだそうだ。

細かいことをいろいろ書くのはスルーするけれど、リヨンの某司祭がカトリックのボーイスカウトの指導をする中で少年たちに性的な虐待をしていたというスキャンダルだ。しかも、そのことが司教の耳に入った後、司教は、その司祭を別の教区に異動させ、司祭はまた別の教区で同じことをし続けたという。それが何度も繰り返され犠牲者の数が増えた。その間、この事件が公になることはなかった。その司祭は現在職務停止だが逮捕拘禁はされていず判決待ちである。

この犠牲者の一人が、仲間数人と犠牲者の会を立ち上げ、それがきっかけとなって、アイルランドやアメリカや中南米のカトリック教会のスキャンダルがどんどんと明らかになっていった。いや、すでに知られていたものもあるが、声が大きくなり、芋づる式に大スキャンダルに発展したのだ。いわば、どこにでも横行していたセクハラが「#Me Too」運動によってメディアを席巻した構図に似ている。

前にも書いたが、ペドフィリアという未成年(特に子供)に対する性的虐待とその「隠蔽」は、

「子供にとって権威的な立場にある大人(ほとんどが男)が子供(男も女もある)と密室で二人きりにる」

という情況で発生する。


だから一番多い現場は「家庭内」で、父、義父、母の連れ合い、兄、義兄などによるもの、また、学校や部活などでの教師、監督、コーチ、その他の指導者によるもので、「カトリック教会」の中で起こる率は実は少ない。

ボーイスカウト、告解、公教要理のクラスその他だ。

家庭内や学校などより率が低いのは、現代においては「司祭」になるためにすでに性的禁忌や禁欲についての了解事項や誓いが明快なので、ハードルが高いからだろう。

それでも「カトリック教会」内のスキャンダルが最もアグレッシヴに攻撃されるのはいくつかの理由がある。

まず、ハードルが高いことそのものにある。


「神」の名において禁欲やら貞潔やらを誓い、奉仕者を自称するのだから、親や子供たちからの信頼が高い。信頼度が高い分、それを裏切る罪は重い。

「家庭内」のペドフィリアの「責任」追求や罰は加害者個人に向かう。

学校や部活などでは、加害者はもちろんだが、その「上」にある校長や教育委員会などの「監督責任」まで問われることもある。

それらすべてに、そのような加害の温床となっている社会のメンタリティ全体について問いが投げかけられることもあるが、漠然としている。


それに対してカトリック教会というのは、プロテスタント諸派などとは違って、教区や司教会議、ヴァティカン、ローマ教皇と、ピラミッド型のビューロクラシーがはっきりしているので、「カトリック教会」という大きなくくりで「責任」を追及することができる。


また、キリスト教文化圏の国には、もともと、「反カトリック教会」というロビーや無神論イデオロギーが存在するので、プロパガンダ的にも「ペドフィリア」スキャンダルを追求するベースがあるし、報道価値もある。

「カトリック司祭は独身で性的に欲求不満」などという俗受けする攻撃もできる。


「どこそこに住む何某が再婚相手の連れ子を何年も虐待していた」などと言う「ニュース」よりも社会的な価値やニュース価値がある、と認識されるのかもしれない。

誤解のないように言っておくが、この記事では「カトリック教会」内のペドフィリアを相対化しようとしているのではない。

その反対で、カトリックの聖職者によるこの手の犯罪は、世俗社会において罰せられるべきであるだけではなく、職業倫理としてははるかに重大で、「情状酌量」は通用しない。

カトリックの司教たちは、そのスキャンダルを長年にわたって「隠してきた」ことを非難されている。


一つには、もちろん、メンタリティの変化がある。


ひと昔前までは、未成年に関わらず、性的被害にあった者は、「泣き寝入り」した方が害が少ないと思われてきた。その手の被害を公にすることは、相手を罰するメリットよりも被害者の被るマイナスの方が大きいと思われたからだ。それが結果的に加害者をのさばらすことになった。

けれども、「#Me Too」運動もそうだが、レイプが親告罪ではなくなったように、今は、「性的被害をなかったことにしておく。」というメンタリティは大きく変わりつつある。


ひと昔前の「カトリック教会」の司教たち(司祭の監督責任がある)が司祭のペドフィリアを「もみ消した」こと自体は理解できないでもない。もちろんこれも、決定的に「神」に背き、聖職者としての誓いを破ったのだから、本来、「普通の世間」のメンタリティにソマリアっている場合ではない。

しかもリヨンのケースは、その司祭を別の教区に異動させ、そこで「再犯」させていたのだから、司教の罪は重い。

ペドフィリアはもちろん、強い立場にある者が弱者の尊厳を「意図して踏みにじる」ことは、家庭内であれ、学校であれ、職場であれ、スポーツの場であれ、宗教の場であれ、絶対に許されてはならない。

命令系統の明快なカトリック教会であればなおさら、即刻「職務停止」と「隔離」を実行するのが「最低」線で、公の司法にゆだねるのも当然だ。今は、法律上は時効になっているケースにも判例に従って、賠償金を支払うことが検討されている。

で、今やフランスの司教団は、ボーイスカウトの指導者や公教要理の指導者、司祭全員を対象に、密室での告解をしてはならない、未成年と2人きりにならないなどのレクチャーをして「再発」を防ぐ対策をしているというわけだ。

又は、最近、やはりペドフィリアのスキャンダルを受けて、なんと、チリの司教団全員が辞職願をヴァティカンに提出するという事件が起きた。

これは、まるで、「トカゲの尻尾切り」ではなくて、「トカゲの頭」を差し出したわけだ。


一見すると、世界中の多くの「指導者」や「権力者」たちが、「不祥事」を前に自分たちの責任を認めずに、末端に罪を被せたり、嘘を重ねさせたり、辞職させたり、自分たちは給与の一部返上みたいなことでお茶を濁したりすることに比べると、「潔い」と見えなくもない。

もっとも、古いタイプの「カトリック教会」の体質を残している国とは違って、例えばフランスのように、政教分離が進んで知識人の間で不可知論者がデフォルトになっているような国では、「司教」や「枢機卿」などに「昇り詰める」ような人は、使命感に満ちた高潔な人がほとんどだ。生涯独身で、「選挙」の支援団体におもねる必要もないから、二世、三世議員やらが活躍する「政治家」などとはそれこそメンタリティが違う。

だからこそ、彼らには、「ペドフィリアという犯罪を犯す司祭」というものについての「想像力」が完全に欠落している。そう、彼らは、仲間だから、教会の恥だからという思いで「もみ消した」という意識より、「信じられなかった」ということが大きかったと思う。

多くの人はある種の「悪」への想像力がまったく欠如している。それが欠如しているDNAが自然選択されてきたからだともいえる。

自分自身を見ても、ペドフィリアはもちろん、例えば犬や猫を意図的に虐待する、などと言う発想は、まさに「信じられない」。

今はネットなどで、そういう人たちがいて、実際の虐待シーンを公開する人さえ存在することを知ったけれど、やはり想像を絶する蛮行だ。もしも自分の周囲に実はそんな人がいると言われても、茫然として、やはり「信じられない」、と思うだろう。

で、今回の、再発防止の対策担当司教と被害者の会のリーダーの「対決」。


まったく意外だった。 


(前置きが長くなったので続きは後はこの後で。)


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by mariastella | 2018-06-15 00:05 | 宗教

閑話休題 不思議ヒールと夏の音楽フェスティヴァル

夏は音楽シーンがパリから地方に移る。

各地でフェスティバルが開催され、そレぞれ工夫したポスターが散見される。

その中で気に入ったのがこれ。

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 バカンスと音楽フェスティバルのうきうきした雰囲気が伝わる。



もう一つ、最近一瞬驚いてつい写真を撮った靴。

教会で前の席に座っていた年配の黒人女性。

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 ヒールがかかとではなくつま先に近い方についていてしかもがっちり安定しているように見える。

はじめて見たのでネットで検索しても、オリジナルなヒールというのはたくさんあったけれどこれはなかった。

モードに詳しい友人に写真を送って問い合わせたら


>>>確かにこれみたいは靴は見たことがありますが(お店で売ってたことがある)でも、まず売れないだろうな〜と思っていました(笑)
こういうのはショーなどで使うことがほとんどだけど、(奇をてらったというか、)結構中国人とかは「流行の先端」と思うのか?実際にこういうのを買ったりするみたいですけどね、、。
でも、デザイン的にも綺麗じゃないし(かかとが取り外しできるのならともかく)意味ないものね〜<<<

という返事をもらった。はいている人の雰囲気から見て、ほとんど「医療用」じゃないかと思ったのだけれど、医療でわざわざこんな高いヒールをはく必要はないと思うからやはり「おしゃれ」なんだろうか。

私ってひょっとして、暇?


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by mariastella | 2018-06-14 00:05 | 雑感

ラ・フォンテーヌの詩をめぐって

ひと昔前ならフランスの小学3,4年生が必ず暗唱させられたラ・フォンテーヌのこの詩。


フランス語なら意外に暗唱しやすいのは音節の他に、脚韻を踏んでいるからで、各行の終わりは4行ごとに、ABAB/ABBA/AABB/AABB/AA という脚韻だ。

Travaillez,prenez de la peine :

Cest le fonds qui manquele moins.ここまでが教訓

Unriche Laboureur, sentant sa mort prochaine,
Fit venir ses enfants, leur parla sans t
émoins.
Gardez-vous, leur dit-il, devendre lhéritage
Que nous ont laiss
é nos parents.
Un tr
ésor est caché dedans.
Je ne sais pas l
endroit ; mais un peu de courage
Vous le fera trouver, vous en viendrez
à bout.
Remuez votre champ d
ès quon aura fait lOût.
Creusez, fouiller, b
êchez ; ne laissez nulle place
O
ù la main ne passe etrepasse.
Le p
ère mort, les filsvous retournent le champ
De
çà, delà, partout ; si bien quau bout de lan
Il en rapporta davantage.
D
argent, point decaché. Mais le père fut sage
De leur montrer avant sa mort
Que le travail est un tr
ésor.


Jean de La Fontaine

だから日本語なら8ビートの五七調で訳すと雰囲気が近くなるだろうが、大要はこういうものだ。

代々の土地を耕してきた裕福な農耕者が死期が近いことを悟って息子たちを集めて、実はこの土地には財宝が隠されているのだけれど自分は見つけられなかった、だから、土地を売ることなく、隅々まで掘り返して宝を見つけるようにと言い残す。息子たちは隅々まで掘り返すが宝は見つからない。でも、よく耕したので豊作になった。宝とは「働くこと」だったのだ。教訓は「努力することが一番確かだ」という感じ。

で、勤勉の勧めであると同時に、「働かざるもの食うべからず」のヴァリエーションのように読まれることもある。

「働かざるもの食うべからず」と言うと聖書の文句やらスターリン憲法も想起してしまって、近頃では「自助努力」至上主義などにもつながって微妙でもある。生活保護バッシングなんていうのもあるし。

まあ、「怠けるのはよくないよ」という基本線は分かるし、フランスでヴォルテールの『キャンディード』にある「我々の庭を耕さなければならない」(リンク先のVoltaireのテキストの終わりから4行目の《il faut cultiver notre jardin.》その後に、人はエデンの園に置かれた時から働くために造られた。何も考えないで働くことが人生を我慢する唯一の方法だ、とある)というのともセットにされて語られることもある。


バカロレアの筆記試験の一つの典型だ。

例題解説をリンクしておく。

ラ・フォンテーヌとヴォルテールと他のふたつのテキストを読み比べて、「労働が人間を築くのか」について意見を述べよ、という問題だ。労働観の変遷について述べる必要があると示唆されている。

でも、ラファエル・エントヴェンが最近のラジオで面白いことを言っていた。

この人は哲学者でなくソフィストだと言われるくらいもはや「哲学芸人」的存在になっている。

でも彼のそのスタンス自体がすごくフランス的でもある。

で、彼は、このラ・フォンテーヌの寓話は、「労働が大切」と読むのでなく、「良い結果を得るには嘘も方便だ」とも読めるというのだ。

息子たちは父の嘘を信じて自分たちで汗を流して必死に働いた。そのことで実りが得られ、達成感、自分自身に信頼、自信を持てた。嘘は自己肯定感に至る道となることもある。

同時に、自己への信頼とは獲得し「所有」するものではなく、常に「求める」ものである。

この話は私が前に書いたように、神だの超越だのを感じるには「ファクト」は必ずしも必要でないし、さまざまな典礼や神話から小説や芝居まで、「真実」に至るためには必ずしも「事実」を必要としない、という話と通じる。

真偽とは別の次元で何かを「信じる」「信じ込む」ことが新しい視界を開いてくれることがある。


逆に「信じる」ことが内向きになり、窓や扉を次々と閉めるような方向に行くのでは「真理」に向かわない。内的な自由の希求につながらないものは「仮置きの真理」ですらない、ということだ。


でもこの頃考えているのは、信じることと合意することとは別だなあということだ。


ネットのアプリなどで、煩雑そうな「規約」をろくに読まずに「合意する」をクリックすることはよくある。

それは「信じる」ことと関係がないが、まさに、「合意する」「受け入れる」ということで、それをクリックしてはじめて開けて参入できる世界がある。


そう思うと、「アーメン」はまさに合意する、受け入れるという部分なのかもしれない。


まあ、この世には、じっくり読んでから「合意する」にクリックしないと面倒になる罠が仕掛けてある「お誘い」も少なくないだろうから、どこに向かいたいのか、何に対して扉を開けておくのかという基本的な方向性について自分の中で納得できるか、を先に考えておかなくては、と自戒する。



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by mariastella | 2018-06-13 00:05 | 哲学

仏法僧 

少し前の記事で、鳴き声から「ブッポウソウ」という名をつけられた(実はその鳴き声は別の鳥コノハズクだそうだが)鳥に触れた。


「仏・法・僧」という仏教の三宝を鳥の声にも聴くという敬虔な?日本人、というイメージを持っていたが、その三宝についての興味ある解説を曹洞宗のお坊さんのブログで読んだ。

現在「読誦経典」として機能している『修証義』という経典についての話だ。


>>>『修証義』はほぼ、読誦経典としての機能のみが取り沙汰されている。無論、ここに至る経緯は、『修証義』成立問題や安心問題、曹洞教会の問題、そして、1990年代以降は人権問題との関連もあって、一筋縄では論じられないものである。<<<(ブログ『つらつら日暮らし』より)


読誦経典という分類も、例えばカトリックの祈りなどでは何に当たるのだろうかと考える。


日本の仏教のお経を唱えるのは、般若心経など有名なものは別として、信者ではなくてもっぱらお坊さんのイメージだ。


普通の人は「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」や「南無大師遍照金剛」のような短い呼びかけを唱える。


カトリックでも、もちろん「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。」のような短いものもあるけれど、ロザリオのアヴェ・マリアの祈りとかかなり長いものも一般的だし、教会では主の祈りとか使徒信条とか「教義」にそのままつながるものが全員で歌われたり唱えられたりする。

特に、ラテン語ではなく各国語で祈られるようになってからは、基本的に「口語」なので意味を把握せずに「読誦経典」としてだけ機能している祈りなどないような気がする。


で、『修証義』で「合掌し低頭して」唱えられる「三法帰依」とは

南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。

ということなのだそうだ。


仏は是れ大師なるが故に帰依す、

法は良薬なるが故に帰依す、

僧は勝友なるが故に帰依す、


と、それぞれ帰依する「理由」を述べているのが新鮮だ。

簡潔でなんだか合理的で説得力がある。

この三つへの帰依を経てはじめて仏教徒となる「戒」を受けることができる。


戒は、三聚浄戒(律儀戒、善法戒、衆生戒)と

十重禁戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不酒戒、不説過戒、不自讃毀他戒、不慳法財戒、不瞋恚戒、不謗三宝戒)


となり、三宝を謗ることの禁止も最後にある。


旧約聖書のモーセの十戒だとか、キリスト教の七つの大罪だとかも想起され、社会的動物の人間、「これはやっちゃいけない」という自覚は普遍的なんだなあとは思う。


でも、信徒共同体に入る前には、三宝帰依だとか信徒信条だとか、まず「共同体独自の言葉」を受け入れなければならないようにでできているのが興味深い。





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by mariastella | 2018-06-12 00:05 | 宗教

アメリカとイスラエルの関係

なんとなくイメージはあったけれど、はっきり言葉にされると思わずたじろぐ、という類の言説がある。最近読んだレジス・ドゥブレの論考にそれが出てきた。

アメリカとイスラエルの関係についてだ。

アメリカが大使館をエルサレムに移転したことでパレスティナ情勢の火に油を注いだとヨーロッパ諸国は非難している。

アメリカとイスラエルの「癒着」といえば、数々のユダヤ「陰謀論」を別にしても、

「アメリカの軍産コングロマリット」と

「ユダヤ金融資本」

との利害が一致しているから、イスラエルの核保有を含むアグレッシヴな政策が止むことを知らないのだという見方が一般的だ。

トランプの娘がユダヤ教に改宗していることなどを見ても、ユダヤロビーが強力なのはもっともだ、という印象をもってしまう。

ところが、これをあっさりと宗教のバランスでひも解くと次のようになる。

どちらも歴史の浅い二つの国の成り立ちは似ている。

建国の「神話」が共通している。


「選ばれた民」

「約束の地」

「植民者であると共に開拓者、パイオニアである」

「運命を切り開く確信」

「ユダヤ=キリスト教的メシア(救世主)信仰」

この共通の構成要素が、不思議な効果を生んでいる。


すなわち、イスラエルを保護する立場の超大国アメリカが、モラルの点ではイスラエルに従うことだ。


アメリカは大統領が聖書に手を置いて宣誓する国、危機が起こるとホワイトハウスで朝の祈りを開催する国、ホテルに旧約聖書が置いてある国だ。

そんな国が、聖典(旧約聖書)が憲法や土地台帳の根拠を提供している国の政治に異を唱えることなどできない。イスラエルは宗教においてアメリカの「兄貴分」であるからだ。

なるほど。

これがカトリック国とイスラエルでは少し違う。

ローマ教皇もユダヤ教は歴史的には「長兄」のようなものだ、と和解の手を差し伸べている。けれども、イエス・キリストは「兄」であるユダヤ教に刃向かったわけではなかった。

ナザレのイエスはユダヤ人でユダヤ教徒だったので、キリスト教は生まれていない。そして、ユダヤ教徒なのに不都合なことを言って当時のあり方を批判したので冒涜だといって殺された。

それに比べると、アメリカの建国神話のピューリタンが生まれた「宗教改革」は、叛旗を翻したリーダーたちは一方的に殺されたのでなく、離反して自分たちこそ正しいキリスト教だと主張した。カトリックとプロテスタントは何十年も戦争状態で血を流し合った。

だから、歴史的に(西ヨーロッパ・ベースで言えば、)、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントの順で長兄、次兄、末っ子になるはずだけれど、プロテスタントはむしろ一種の「父殺し」で外に出た。激しい「家庭内暴力」の末に「約束の地」を外に求めたのだ。


カトリックはユダヤ人を「神殺し」と差別してきた。そしてその延長にあるナチスのホロコーストのせいで、ドイツや、ドイツに占領されていたフランスのような国は、その「罪悪感」のせいで、イスラエルに本気で説教することができない。(スウェーデン、イギリス、スペインなどはその「罪悪感」がないのだそうだ)

で、うちを飛び出して約束の地に「神の国」を建国したアメリカは、イタリア系やアイルランド系のカトリック移民は長い間しっかり差別してきたけれど、直接けんかしていないユダヤ人には「長幼の礼」をもって接し、選民意識を共有しているのだという。

もちろんこれによってアメリカの対イスラエル政策をすべてを説明できるわけではないし、実はアメリカにも「反ユダヤ」のレイシズム」は根強く存在する。


それでも、こういう視点で解説されると、今まで見えていなかったものが見えてきて、パレスティナ危機や中東クライシス(シリアのアサド大統領が金正恩に合うため訪朝するつもりだというニュースを聞いて驚倒したところだ)の平和的解決には、このようなところまで踏み込まないと真の安定はないのかもしれないと思う。


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by mariastella | 2018-06-11 00:05 | 宗教

聖体と核分裂? 聖体の祭日の話(続き)

これは「父の日」の日曜日のミサの後のアペリティフとランチの招待状。

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裏にはユーモラスな突っ込み(白字)入りの文が並ぶ。

c0175451_06005311.jpeg

「教区がカナを祝う ! / (結婚式かい・・・)」

(聖書に出てくるカナの婚礼にかけている)

「体を大切にしたまえ、魂がずっと住みたがるようにね ! / (そしたらもちろん体も残ることになるしさ)」

「神は料理の中にもいる ! / (料理に失敗してもね !)」

「マクロン祭りより楽しいぞ !/ (あ、マクロンが来てももちろんOKだよ)」

(マクロン祭りというのは最近行われた反政府デモのネーミングだ)

などなど…。

 

実際、この教区、子供連れの若い夫婦などがたくさん出席する傾向がある。

ヴェリエール師の説教は、ベネディクト16世(B16)が教皇になってすぐ出席したケルンのワールドユースデーに若者たちを連れて行った時の話から始まった。

ケルンでの開催を決めたのはヨハネ=パウロ二世だったが、B16はドイツ人。ケルンでの若者の歓迎はすごくて「ベーネデーット、ベーネデーット」と連呼されたらしい。

B16は遠慮がちに片手をあげて応え、次に両手を合わせた。そして、若者たちに背を向けて、聖体の前に跪いて動かなくなり、若者たちはしーんと静まり返った。

B16は聖体のことを「核分裂」に例えたそうだ。

イメージとしては、目に見えないレベルで激しい反応が起きて大量のエネルギーを発するという感じだろうか。それまでの「自然」が「超自然」に変換されるという。

死者が生き返る、だけでは「魔法」や「魔術」だけれど、「最後の晩餐」のイエスは、自分が死ぬことを分っていながら、自分の体を無酵母パンに託して弟子たちに与えた。つまり、「死ぬより先に死を犠牲として与えることで先取りして死に打ち勝った」というのだ。

うーん、新訳聖書の成り立ちやら教義や神学の歴史をいろいろ考えると、まあ、こういう言い方が「正しい」のだろう。で、典礼の歌にも、「私の体を食べなさい、あなたはもう決してひとりではない」とか「永遠の命を与えられる」などという言葉が並ぶ。

また例の「おひとりさま」のことや、「合理主義の知識人が老い手から宗教に入信するのはいかがなものか」という自称「棄教徒」の上野さんの言葉が思い浮かぶ。


確かに、人間は所詮ひとりで死んでいくのだし、「子や孫」もあてになるかどうかなど分からないのだから、「イエスと結婚する」という修道者だのお遍路さんのようにイエスと「同行二人」と考えて「もう決して一人でない」と「妄想(上野さん用語)」するのも「処世術」の一つかもしれないし、それを潔くないと思う人もいるのかもしれない。


「永遠の命」と言われても、つい、最近耳にしたウディ・アレン(もとはカフカの言葉だという説もある)の「永遠は長い、特に、終わりの方が」(Eternity is a long time, especially towards the end.なんて言葉を思い出してしまう。

などと、雑念満載で聞いていたけれど、ルヴェリエール師が「信じきって」「なりきって」永遠のスパンで生き、話しているのは伝わる。

「聖体を拝領する時にアーメンと合意をすることが大事だ。キリストが体をくれるのにこちらが言葉だけというのは交換として釣り合わないけれど、合意するところに聖霊が働き、自分だけがイエスの体になるのでなく、聖堂全体が、共同体全体がキリストと一体化する。インターアクションが必要だ」

もっともだ。


それにしても、ミサを挙式する司祭さんって大変だなあ、と思う。

本当に民間信仰や新興宗教のノリで、会衆が信じたりすがったり崇めたりする気満々の時代や場所ならいざしらず、本気で「神降ろし」をしなければならない。


独身制のカトリックの司祭は特に、親子代々ってことはあり得ないから、「召命」って本当にあるんだなあ、とあらためて感心した。(感心でなく改心しろよ、といわれそうだけど…)


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by mariastella | 2018-06-10 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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