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L'art de croire             竹下節子ブログ

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自由、平等、友愛の話 その1

フランス革命の標語で共和国のモットーに有名な「自由・平等・博愛」がある。

最後のfraternitéは、実はどう訳していいか分からない。,

昔は、歴史の教科書で「自由・平等・博愛」と習ったので、なんとなくそう書くことも多いけれど、鳩山由紀夫さんの「友愛外交」の影響で、「友愛」と書いた時期もある。

「友愛」は、2009年の流行語大賞にも選ばれたそうだ。もともと父君の鳩山一郎さんが、自由、平等、友愛と言ったそうだ。

日本語のネットで検索したら、fraternitéのもとの意味は兄弟愛だけれど、フリーメイスンの標語だったように特別の仲間、同志愛のことだから、博愛という訳は適切でない、というような解説もあった。

いや、そう言ってしまうと、アングロサクソン風の共同体主義になって、「普遍」を標榜したフランスの共和国主義とは相容れない。

確かに「博愛」というと、制限のない「お花畑愛」のようだけれど、もとは、一神教の創造神やフリーメイスンの宇宙の大設計者を「父」とするという意味での「人類みな兄弟」の言葉だから、自由と平等と並ぶ普遍価値だ。

もちろん時代の限界というのはあるから、当時の「基本的人権」や「きょうだい愛」には「女子供」が想定されていなかったという事実は否定できない。

だからこそ、「女性の人権」だとか「子どもの人権」などが、その後少しずつ加わっていった。


でも、そういう細かいアイデンティティ別に「人権」を訴えていくと、今度はそれが有色人種の人権とか、障碍者の人権とか、性的マイノリティの人権とか、どこまでも共同体主義の網目から抜け出せなくなる。


問題は、いつも「時の支配階級」が、自分たち以外の他者を劣ったものとして、権利を制限したり認めなかったりという社会の構造を担保していたということだ。(続く)


by mariastella | 2019-06-30 00:05 | フランス語

高橋和巳と「未来」

春に大阪でお会いした清眞人先生から近畿大学日本文化研究所紀要第二号に所収の『「悲の器」としての人 - 高橋和巳における宗教と文学 - 』という論文の紀要をいただいた。

『悲の器』自体はあまりにも今の私の関心から遠いところにあるのだけれど、「全共闘世代」の清さんが、フロムはもちろん、ドストエフスキー、サルトル、ニーチェ、サルトル、三島由紀夫などを動員して語る熱量に圧倒される。「全共闘時代」から問い続けている思想をそのまま深化しているこの世代に続く人たちは果たしているのだろうか。

「女性的な共苦の能力に依る厭戦思想から平和を唱え、強者からの慈悲に期待する」、というものと、「攻撃の情念から来る男性的闘争によって、思い上がった悪人を駆逐する」というものに分かれる二つのタイプの「救済」の考察を興味深く読んだ。

一方、ユダヤ教を例に挙げる意識的無意識的な復讐欲と怨念、ルサンチマンの心理的防衛機制がヒロイズムやテロリズムや革命運動に結びつくというイメージも語られているが、それは私が日頃違和感をもっているものの一つだ。

「そもそも、人間の内部には『子の母に対する憎悪に根差す怨嗟、反抗心、復讐心が巣くっている』というタイプの言説とその裏側にはセットとなった原罪意識がある」、という図式は、図式としてはよくできているけれど、今の私にはまったく説得力がない。

(私は20世紀にユダヤ人無神論者が精神分析に向かい、キリスト教無神論者が実存主義に向かい、キリスト教への回心者が現象学に向ったという傾向の底流にあるものに関心を持っている。)


で、高橋和巳の『暗殺の哲学』を久しぶりに読み返してみた。


「政治的変革は人を頃消すことにはなく制度を改革することにある」という埴谷雄高の指摘や、「集団的戦闘行為があって、どうして個人的テロを排除しうるか」という高橋の言葉は、イスラム過激派の脅威にさらされる21世紀の今、なおさら響く。


「人命を超えるいかなる思想もなく、(テロの後で)罪の意識を相殺できる、いかなる論理もない」という指摘にも賛成できる。

高橋も、「ヒロイズムと虚栄、殉教精神と絶対服従とはしばしば区別しがたい。とりわけテロリストが亡命者であり刑余者である場合、幾重にも疎外された者に特有のコンプレックスと激情的な超越志向が紙一重のものとして短絡する可能性は充分にある」と言っている。

フランスで移民の子弟による暴動があったり、うまく学校生活ができない青年がインターネットで洗脳されてイスラム過激派に加わってしまったりというケースがあることも想起されるし、日本でも、人生に不全感を持っていたり、社会にうまく適応できなかったりする人たちの中で、「自分たちよりも弱い者を排除する」暴挙にでるタイプの事件が報道される。

これら深刻なケースを並びたてられると、お花畑で生まれて育って生き続けていると形容されても言い返せない私には「絶対非戦主義」を大声で唱える勇気はない。


それでも、高橋和巳の引用するカミュの『正義の人々』の中の言葉とコメントには、はっとした。

政府の要人暗殺テロを実行しようとした男が、同じ馬車に子供が乗っていたのを見て中止したエピソードだ。

それは戦闘員と非戦闘員を区別する騎士道でもなく、精神のやさしさやセンチメンタリズムの問題でもない、と高橋は言う。

子供を単に無辜の存在と見なしたからでもない。革命家は子供に原罪はないと見なす有神論者ではない。

無神論者であるからこそ、無神論者にとっての唯一の超越である「未来」を穢し抹殺することはできなかったから、というのだ。

「我々は過去から出てきたが、未来に達することはできないのだ」

子供とは、どうなるものかは解からないけれど、別の世界に生きるべき、いわば「白紙の未来」の象徴だった、とある。


「超越」を語ることは難しい。

「超越神」を信じることを解説するのも難しい。

でも、過去から出てきて現在を生きる人が、自分の知りえない「未来」が子供の中にあると信じる、というのは分かる。

子供を飢えさせたり、虐待したり、殺したりする世界であってはならない。

ナパーム弾で焼け出されて逃げ惑うベトナムの少女の報道写真がピュリツアー賞を受けて全共闘世代の目に焼き付けられたのは、高橋和巳の死後3年経った、1973年のことだった。


by mariastella | 2019-06-29 00:05 | 雑感

仏さまの種

前にも書いたけれど、ここ数年、日本の雑誌百冊以上にネットでアクセスできる環境にある。

もちろん全部を見ているわけでもないし、定期的に開く雑誌も、目次を見て気になったところだけをチェックする。

その中で、『週刊女性』に連載の「サトリのココロ」というのがあって、103回目が日蓮宗妙常寺の37歳の住職本良敬典さんの話だった。このコーナーには若いお坊さんたちの紹介がいろいろあって興味深い。

フランスでも、今の時代、若い司祭がどうして聖職を志すようになったのかという個人ヒストリーには啓発されるものがいろいろあるけれど、日本の若い住職のほとんどはお寺に生まれて親の後を継ぎ、妻子もいていわば家族経営、みたいなケースが多い。それはそれで、どうしてその敷かれたレールを受け入れることになったのか、また、新しい道をどう模索するかなどの問題意識はさまざまだ。

今回の本良さんは、放浪の旅に出て、南極に向かう荒海の航海中に船がどんなに揺れても重心を取り戻す、バランスをとるための中心はなくならない、という体験をした時に、人間にも、「絶対に救われる仏様の種がある」と身をもって知ったという。

心が揺れると仏さまの種も移動し、見失うこともあるけれど、その種があるのは100% 分かると。

辛いことは辛いままで、その中で自分の心の声に耳を傾けて選択すると、きっと幸せが見つかると。

私の周りのフランス人仏教僧は、「執着するのがつらさを生むので、執着をなくせば苦しみが消える」というような言い方をするので(もちろんそれはそれで間違っていないにせよ)、この若い僧の言い方がむしろキリスト者と似ているのが印象的だった。つまり、キリストは、たとえ見失っても必ずあなたの心の中にあり、他の人の心の中にもあるわけで、それが「仏縁」ならぬ「キリスト縁」とでもいう支え合い、助け合いにつながるという感じだ。

どの国のどの文化に生を受けるかで表現は変わってきても、若い宗教者がこういうことを言うのを読むと、彼らの「船」が荒波で重心を取り戻さずに難破したり転覆したりしないことをすなおに祈りたい。


by mariastella | 2019-06-28 00:05 | 宗教

飛行機がなぜ飛ぶか?

日経ビジネスのコラムに『飛行機がなぜ飛ぶか」分からないって本当?』

というのがあった。


とてもおもしろい。

私は飛行機が嫌いで、日本とフランス間以外の単距離中距離の飛行機」は一人で乗ったことはない。

日仏間も、フランス人と乗る時は空港でのあれこれや通訳や説明があるからあまりいろいろ考える暇がないので助かるけれど、一人で乗る時は、いつも、「こんな大きな重いものがこんなに多くの人を乗せてどうして空をとべるのだろう」と心もとなく、今まで見聞きしたあらゆる種類の事故を連想したりする。今は昔と違って座席に着いたらすぐに個人用ビデオを使えるから気を紛らわせることもできるのだけれど。

昨今は飛行機のエンジンの排ガスが車に比べてすごいものだという話が強調されるのでそれにも罪悪感を刺激されるけれど、これはもう、シベリア鉄道やら船で行くなどという選択肢は私にはないので、どうしようもない。

で、このテーマについては多くの学者が正しくないことを書いているそうで、コラムのインタビューの最後の方に、物理学者松田さんによるこういう展開がある。

>>>人間という生き物の本性。そして僕は「松田の最終定理」を考えるに至りました。それは「人間には理性は無い」という定理です。

 ちなみに第1定理は「人は自分の意見は主張する、相手の意見は聞かない」。第2定理、「サルは反省するが人間は反省しない」。要するに人間は理性で動いていないんです。

Y:反省するならサルでもできる、というやつですか(笑)。それにしても。

松田:この問題というのは実に根が深いのですよ。まあ、人間には理性がないと言ったらこれは言い過ぎですね。1割が理性で、残りの9割が感性なんです。

Y:私なんかはそうかもしれませんが、理系の大学の先生まで?

(…)

松田:単純化して言えば「fast thinking」というのは直感です。「slow thinking」というのは論理です。これを僕流に理性と感性と言いますと、人間は理性が1割で感性が9割だと私は思います。だから世の中の動きはだいたいこれで説明できる。あらゆることを感情が支配し、理性、論理を妨げる。

Y:私は、理科系の科学者こそ自分の感情に左右されず、信じていた仮説でも事実の前にはどんどん改めていくような人なんだ、と期待しちゃうんですけど、全然そんなことはないと?

松田:ないですね。まったく。これは知能、その人の思考能力とは関係ない。だって、大学教授になるような人は、入試を良い成績でパスしたはずですよね。頭は良いはずです。でも自信があるだけに思い込みも強い。それが、当人が「論理的」と思っているところにも影響するんだということです。だから、一度思いこんだ仮説を手放さないことも頻繁に起こる。

(…)

人間は「科学は無力であって欲しい」と願っているのかも

「人間はバカだというけどそれは違う。バカはバカなりに合理的なのだ。これは遺伝的に組み込まれているんだ。2人の原始人が300万年前、アフリカのサバンナを歩いていたとしよう。そこに藪があった。前を通り掛かったら、ガサゴソという音がした。これがライオンか風なのか分からない。

 それで1人はばっと逃げた。もう1人は合理主義者で、『これは風かもしれない。だったら逃げる必要はない。ちょっとテストしてみよう』と石を投げてみた。そうしたらライオンが出てきて食われてしまったと。だから、そういう合理主義者、理屈に従う人間は淘汰される。怖がって、理屈も何も無い、何でもいいからぱっと逃げるほうが生き残る」

 これが「fast thinking」と「slow thinking」の辿る運命なんです(笑)。

Y:なるほど。

松田:じっくりと考える論理的思考というのは、これはギリシャとか、フランスの啓蒙主義から出てきたもので。

Y:生活に余裕が出来て生まれた「後付け」なわけですな。

松田:うん。人間にとって非常に不自然なことなんです。

Y:むしろ、下手に身につけると生存を脅かす可能性が高いものだった。

松田:そうそう。だからさっきのカーネマンは、「これを非合理といってくれるな」と。「限定合理性と言え」と。その根は、人間の本性に根差しているからね。

Y:どっちかというと、感情に流される方が人間らしい生き方的なのかもしれない。

松田:そう。だから科学とか合理主義とかいうのは、非常に非人間的なことなのですよ(笑)。飛行機が飛ぶ理由を分からないままにしておきたい気持ちと、つながっているのかもしれませんね。<<<<


ということで、突然、フランスの啓蒙主義に言及されている。

これについては、デカルトの合理主義やラモーの数学主義がフランスの「なんちゃって普遍主義」文化と深く結びついて、アングロサクソン的軽量主義と対抗してきたという経緯をずっと考えてきた私には、いろいろ付け加えたいことがある。


ここでは書いている暇がないけれど、忘れないように、この記事を書くことにした。



by mariastella | 2019-06-27 06:35 | 雑感

哲学のバカロレア

6/17はフランスのバカロレアの哲学の試験だった。


毎年毎年話題になり、もうすぐ実施されるバカロレア改革でもこのフランスの伝統「哲学」の試験だけは触らないで残すそうだ。アングロサクソン文化の影響である弁論術を取り入れるという改革もあるが、それではコミュニケーション障害のあるタイプの生徒に不利になるのではと考えてしまう。まあ、アングロサクソンでなくても、チベットの僧院にだって課せられているものだけれど。


それをいうなら、一つのテーマについて、四時間も小論文の生徒筆記試験を課す哲学バカロレアだってお手上げの生徒もいるだろうとは思うけれど、一行だけ書いて出ていくことも可能だ。


毎年取り上げられるフェイクニュースがある。

Qu’est-ce que l’audace ?大胆さとは何か ?)」というテーマについて、ひと言だけ書いて出ていった生徒が満点を得たという伝説だ。

彼の書いた答えは 「C’est ça.(これだ)」 というもの。

ジョークは別として、どの哲学書から読めばいいかと聞かれた哲学者が、「やはりギリシャ哲学」と答えていた。

この人は6歳児を対象にした哲学のアトリエをやっている人で、世界や人生や社会や自然や全てのものに対して「なぜ?」と質問してくる子供こそ、哲学の真髄に迫っているという。

で、古代ギリシャの人たちも、子供たちと同じで、世界が錯綜し、いろいろな思惑、イデオロギー、利害権益がからんでくる以前の時代に生きていたから、より本質的な問いを突き詰めていくことができたので、わかりやすく役に立つという。

特に、今の世界など、哲学より「心理学」が幅をきかせている。


哲学と心理学の違いは何かというと、

心理学は、「私はだれか?」を問い、

哲学は「私たちはだれか?」を問うことだという。

なんだか、すごく、納得できた。


by mariastella | 2019-06-26 00:05 | 哲学

右の頬を打たれたら…

そういえばそうだなあ、と思うことがあったので覚書。


キリスト教と言ったらその根本は絶対平和主義、何しろ、「神の子」イエスが捕らえられて無抵抗でひどい仕打ちを受け、辱められて殺されたのだから・・・というイメージがあった。


その時に思い浮かぶのは、


「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 (マタイによる福音書5,38-39)」


という有名な言葉だ。


確かに、自分を攻撃する相手に即座に手向かえば事態がより悪化することはありそうだけれど、左の頬も差し出すなんていくら何でもマゾヒスティックじゃないかとか、そもそも「目には目を」というのは、同等の修復以上のことをしてはいけないという戒めなんだよ、という解釈にもうなづけたりする。

でも実際は、イエスは論理的に抗議している。

「なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」

イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。

イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」 (ヨハネによる福音書 18, 21-23


平手で打たれて、別の頬を差し出したのではなくて、堂々と抗議している。

もちろん打ち返したわけではない。


で、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」という言葉のことも、ある司祭が、

「これは、当然反撃してくると思って身構える相手に左の頬を向けることで虚を突いて事態を転換するということなのだ」、と説明していた。


なるほどなあ。


by mariastella | 2019-06-25 00:05 | 宗教

La Procure

サン・シュルピス教会の斜め向かいにある大型書店ラ・プロキュールは120年前にノール地方で聖職者が開いた書店で、パリに進出してからちょうど100年になる。

私が通う?ようになってからも40年以上だ。

いや、実は、近頃はできるだけ行かないようにしている。

行けばついついいろいろな本を買ってしまうのだけれど、買いためた本を死ぬまでに果たして全部読めるのだろうか、と思うようになったからだ。

私は特に「愛書家」というのではないけれど、膨大な蔵書を持っている人たちをよく知っている。あの人たちは、何歳頃から、ひょっとしてそれらの本を読んで消化することで自分の知識なり思想なり情操なりを養う時間が残っているのだろうか、と自問するのだろう。いや、多分そんなことを考えない人も多いのかもしれない。

この書店には、宗教グッズ、CDDVDのコーナーもあるし、神学書、他の宗教の研究書も充実している。もともとイエズス会の修練所だった場所を利用しているので入口と出口も別で複雑な作りになっている。最近は出口付近に修道院の生産物販売コーナーもある。

入口にはすぐ、話題の時事問題コーナーがある。まずそれで人々の関心をキャッチしたら、それについて考えを深めたい人のためにその奥に哲学書のコーナーがあるのだそうだ。

右脇に入れば歴史書などの人文科学コーナー、奥には宗教書コーナーが広がる。聖人伝から神学書、他の一神教や世界各地の宗教の本もある。地下はにもっといろいろな「カトリック・グッズ」もある。

左に進めば文学からコミックまでいろいろなコーナーがある「普通の書店」になる。そこを通ってから修道院グッズとなりレジに向かう。


私は誘惑に負けないように、普段は欲しい本だけを注文して買うのだけれど、6月初めに久しぶりに行った時は、時事コーナーの平台に、ノートルダム大聖堂関連の本が、写真集を中心にどっさりと積まれていた。4月の火災の直後から、普段は宗教に見向きもしないばかりか書店にすら足を踏み入れない人々が詰めかけて、ノートルダムに関するものを何かしら買い求めたそうだ。

それは、単に「話題」を追うというものではなかった。

ニュースを追うなら、テレビでもインターネットでも新聞でもいいし、パリにいるのだから、シテ島の近くに行って眺めることもできる。

そうではなくて、人々は、手に取ってそばに置いておける「モノ」を求めたというのだ。

炎と煙に包まれた迫力ある火災写真や無残な焼け跡の状況は至る所で垂れ流されていたけれど、多くの人は、自分たちの記憶にある無傷の大聖堂の姿を何らかの形にして保存したかった。写真集の多くは大聖堂の内外をあらゆる角度から撮ったものだし、ずっしりと重い。その「重み」もノスタルジーを補強するのだろうなと思う。

こういう時、電子書籍では絶対に代替できない紙の本との一種の「連帯感」が腑に落ちる。

私が最近寄った時には、アルシュの創設者ジャン・バニエが亡くなったばかりだったので、ノートルダムのコーナーの少し向こうにジャン・バニエの本が並んでいた。

ローマンカラーに黒い修道服とサンダルの何人かの若い神学生が熱心に本を探していたので、なんだろうと思っていたら、C.S.ルイスの著作集だった。

どんなものがあるのだろうと後でそのコーナーを見たら、ドミニコ会の神学者ので哲学者のドミニック・コラン師が書いた『キリスト教はまだ存在しない』という本のタイトルが目を引いた。私が『キリスト教は「宗教」ではない』で書いたものの別の言い方だ。私は「宗教」を括弧にいれたけれど、この本は「キリスト教」を括弧に入れた。

歴史的宗教であり文化としての「キリスト教」とは、信者がまだ自分は福音に忠実であるかと自問するのを封印していられるようとに提供された一種の幻想だ、と著者はいう。

福音が真に福音であるなら、人は「自分の将来」ばかり気にかけるよりももっと本質的な問いを発するはずだ。キリストの言葉の継承が停止している時代に、信者かどうかを問わず、真のキリスト教が存在できるよう呼びかける。

こういうアプローチは、いったんキリスト教文化によって育まれた社会だからこそ有効なのかもしれない。

たとえば日本に同じようなタイプの仏教系の総合書店があるとして、こういう方向の訴求力が果たして可能なのかと、ふと考えてしまう。


by mariastella | 2019-06-24 00:05 | フランス

フォードの車

フランスに来てから使っている車はなぜかずっとフォードだ。


こちらに出回っているフォードはヨーロッパ産で、フランスにも工場があるのになぜかドイツの工場のイメージで、ドイツの車は丈夫そうでいいよね、という感じを持っていた。最初のフォードがドイツ経由のものだったからかもしれない。

で、今まで、何度も買い替えてきても、結局いつの間にか、フォードに落ち着いていた。自動車を最初に発明したのがベンツでも、大量生産で庶民の手に届くようにしたのがフォード、という図式も頭にあった。


でも、最近、ヘンリー・フォードの反ユダヤ主義とナチスへの献金について読んだので何だかいやな気分になってしまった。1938年にはナチスから外国人への最高勲章を授与され、ヒトラーの『我が闘争』に出てくる唯一のアメリカ人だそうだ。

第二次大戦中にもフォードはドイツのケルンの工場やフランスのポワシィの工場を稼働していて、まさに金には敵味方もない、というやり方だった。ナチスの戦車も連合軍の戦車も同じモーターだったという話もある。


すでに大戦前の1932年にオルダス・ハクスリーが出した有名な『すばらしき新世界』でも、フォードは「神」の扱いになっている。世界の暦も、フォードの車が発売された1908年から数えるフォード暦という設定だ。

神と言っても、その社会には宗教も霊性も超越もなく、「家族」もない。マルクス主義でもファシズムでもナショナリズムでもない、消費産業社会であってその偶像がフォードなのだ。

この未来世界では、人間が胎児の頃から選別され、管理され、階級ごとに欲望を満たされ、誰もその状態に疑問を抱かない理想的な「平和」な社会が実現している。消費を生む活動だけが意味あるもので、欲望はヴァーチャル・リアリティによって満たされ、知的格差が経済格差と相関している。

舞台はフォード紀元632(西暦2540)で、西暦2049年に勃発した最終戦争の後での「平和」が管理社会だというわけだ。 

2049年。

最終戦争がなくても地球の生態系が壊れていそうな近未来だし、消費経済至上主義やヴァーチャル・リアリティもすでにあるし、もナチス的な優生主義も形を変えて広がっている。

人間性って何だろう、と車に乗る度に考えることになりそうだ。


by mariastella | 2019-06-23 00:05 | 雑感

パリでのコンサート

6/15に、来春の沖縄で予定しているプログラムをはじめて通しで弾いた。

来週からはラモーの別の曲も始めるので、多少は変わるかもしれないけれど、今のところ、ラモーの良さを知ってもらえる最良のプログラムだ。コンサートでも説明したけれど、ラモーのオペラ曲の中のダンス曲、古楽器のオーケストラの演奏会でその真価が分かるものは皆無に等しい。なぜなら、ダンスのステップを支えるには、楽器のアタックが最重要なのだけれど、擦弦楽器にはそれが難しいし、自然に弱くなるべき装飾音の演奏も難しい。その上、たとえば第一ヴァイオリンのパートを十数名以上で弾くなどという場合はなおさら、アタックや装飾音をクリアにすることは至難の業だ。
しかも音楽の構成自体が自在に変化して高度な集中力を要するから、普通のプロのオーケストラが、個人で少し弾いてみて、全員で合わせるのが数回、などという通常のローテーションでは、「破綻しない」というレベルにとどまるだけだ。ステップの体重のかけ方を意識してくれる演奏などめったにない。

会場は、プロテスタントの教会なのだけれど、外目には「教会」らしいところがまったくない普通の建物に見えるので、そんなんところに教会があったなんて知らなかった、という人も多い。
ところが中はまったくホール仕様にもできて、舞台の後ろも全部木なので、音響がとてもいい。メンバーのHは別のバロック・アンサンブルですでにここで2度弾いているし、ギタリストにも人気だ。
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舞台の後ろ横手に階段があって「楽屋」に上ることができる。
今回世話してくれた人はとても気に入ってくれて、次は教会の主催でお願いしたいと言ってくれた。
来春の沖縄支援のコンサートの資金作りということでカンパをお願いするために、沖縄の基地の図面と抗議の集会の写真を置いてみた。
日本の米軍基地の70%が沖縄にあると書いた。
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ご協力くださった方、ありがとうございました。

by mariastella | 2019-06-22 00:05 | 音楽

ジャンヌ・ダルクに乾杯!?

ロレーヌ産のビール。
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ミラベル風味の白ビール。口当たりがやわらかい。
後ろには オルレアン、ランス、ドンレミー、クレシーなどの地名、「獣をやっつけるために戦争に出発」、「ビールを投げつけたらイギリスはたちまち敗退」、のようななんだか「政治的公正」無視の言葉が並ぶが、ビールの最初の一投、というのはビール(bière)と石(pierre)の駄洒落。で、ジャンヌ・ダルクに乾杯! となる。

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でも、こんなジャンヌ・ダルクって、なんだかなあ。

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横に2本棒があるのはロレーヌ十字架。



by mariastella | 2019-06-21 00:05 | ジャンヌ・ダルク



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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