L'art de croire             竹下節子ブログ

不服従の勧め  フレデリック・グロの『不服従』

フレデリック・グロの『不服従』というこの本は数年前に90歳を超えたステファン・エッセル(彼についてはこのブログでもいろいろ書いている。例えばこれ)が書いてベストセラーになった『怒れ!』という本を別の形からアプローチしたものだと言える。


このyoutubeでも分かりやすく解説されている。



要約すると、 不服従というのは今や「人間的な行為の一つ」だ。なぜなら、私たちはあまりにも、「服従する」という型にはめられすぎている、服従しないことは、孤立することで怖い、という感情につながる。服従することが「みんなと同じ」という安心感を与えてくれる。

今は「不服従」を学びなおす時だ。もちろん、なんでも反抗しろという反社会性を煽るわけではない。ただ、「服従」の中には、「責任回避」という面があることに注目しよう。

「服従」して何かをするということは、しているけれど自分がその責任者でない、ということだ。


ここで取り上げられるのは、ナントの近くに建設予定だった新空港に反対してもう20年近く、「占拠」して反対運動をしてきた環境保護運動の人々の例だ。

(このブログでは前にこんな記事 を書いた)


彼らはそこで、小屋を建て、新しい暮らし方を実践した。

国は、経済効果を説明して、県民投票もして、建設を確定し、何度も強制排除をしようとしてきた。反対派は、国に対して、ゲリラのように罠をしかけ、道路を封鎖してきた。結局、政府がこの計画を断念した。この反対派に対して、いわゆる「プロ市民」だとか、黒幕がいるとかの非難もなされてきた。でも、結局、彼らの「不服従」が勝ったのだ。

大きな運動となる不服従の決意の前の段階には、「生き方」に関する決意、回心が必要だ。

それは霊的、倫理的な、内的な問いに依って立つ。非暴力というのが前提だ。

内的に恥だと思うものに対して不服従を決意する。例えば不平等や差別や環境破壊などだ。

それらに対して少しでも良心の呵責や怒りを感じるなら、それは、自分が既存のシステムの共犯であることを自覚した証拠でもある。

日本で、成田空港建設反対の三里塚闘争が死者まで出したことや、今の沖縄での辺野古基地建設反対の座り込みなどのことを考えさせられる。

このフレデリック・グロの本は、バカロレアの哲学の課題図書にもなっていることに注目したい。哲学者でパリ政治学院の政治学の教授でもある。

フランスは18歳で選挙権がある。それまでに、中等教育で哲学が必修であり、バカロレアで4時間の作文試験が課せられる。そこで「不服従」についても学ばされるわけだ。

日本では、官公庁でも、上からの指示だの忖度だのによって書類を書き換えさせられたり改竄させられたり、虚偽答弁をさせられたりする事件が次々に問題になっている。そのことを苦にして自殺にまで追い込まれる人もいる。


同調圧力の強い社会だとは分かっているけれど、だからこそ、「不服従」の学びについてみなが考えてほしいとつくづく思う。




[PR]
# by mariastella | 2018-03-24 00:05 | フランス

防衛装備が殺傷する

3/20、去年から続く戦争でイエメン人が殺傷されている武器の一部がフランス製、戦争が勃発した後でフランスがサウジアラビアやアラブ首長国に売ったものだと判明し、「殺傷武器」を売った、フランス製武器が人を殺している、というのでアムネスティ・インタナショナルとACAT(拷問廃絶のキリスト教運動)という二つのNGOが糾弾している。

なるほど、武器輸出入のことを「防衛装備」輸出入と呼ぶのは、ただの欺瞞かと思っていたら、こういう「建前」の根拠になっているのだなあと思った。

国際法上はすべての侵略戦争は禁じられているので、今あるすべての戦争は防衛戦争という建前なのとセットになっているのだ。


アメリカのハイスクールでまた生徒による銃撃事件があったという。

犯人は警官の「防衛装備」である銃で殺されたようだが、教師に防衛装備を導入するハイスクールも出てきたとか。

小はナイフや拳銃から大は核兵器まで、素手では大した殺傷能力のない人間が「防衛装備」を駆使して結局は殺し合う構図はアルカイックで共通している。


文明ってなんだろう。


[PR]
# by mariastella | 2018-03-23 00:05 | フランス

ホーキング博士の死とコミュニケーション

先日、ブラック・ホールで有名な車椅子の物理学者スティーヴン・ホーキングが亡くなったニュースをフランスのラジオで最初に聞いた時、内容はすぐに理解したものの、とっさにホーキングという「日本語」が出てこなかった。


フランス語を脳内でカタカナに直す時にホラー作家のスティーヴン・キングの名前が頭をよぎった。

なぜだろうと後から考えたら、フランス語読みでは、スティーヴンはステファン(日本人にはステファヌと聞える)で、ホーキングはHが発音されないで長母音もなく、しかもファーストネームとファミリーネームがリエゾンするので

「ステファノキング」

と発音されていたからだ。

だれのことかというのは文脈上すぐに分かったけれど。


考えてみると、カタカナでは一応「現地読み」に近いものを採用しているから、スティーヴンなのだろうが、そもそもStephen のphenphが濁ってVとなるのは言語学上不思議ではないけれど、この綴りが残っているのはある意味で宗教的ルーツの強さを思わせる。


この名前は、ユダヤ系ギリシャ人で、ユダヤ教会を批判して石打ち刑で殺されたキリスト教最初の殉教者として超有名な「聖ステファノ」から来ている。


キリスト教文化圏には洗礼名や守護者としての聖人の名が圧倒的に多いのだが、言語圏が違うとヴァリエーションが多い。

使徒ペトロがピーター、ピエール、ペドロ、ピョートル、

ヨハネがジョン、ジャン、ジョヴァンニ、フアン、ハンス、などになる。


日本人から見るとまったく違う名前に思えるが、昔、パリの女子学生寮にいた時に、同宿のアメリカ人学生が、スーザンという名前なのにフランスだからというので「私はシュザンヌよ」と何の迷いもなく使っていたのでそんなものかと思った記憶がある。


大抵は何となく想像がつくけれど、驚いたのはこの「ステファン」で、フランス語ではエティエンヌという。気がつくのに一年以上かかった。

元のステファノにより近いStéphane という名が使われ始めたほうが新しい。

女性形の「ステファニー」の方は昔からある。

エティエンヌというのはフランス語の形からいうと女性名のように聞こえるが、男性名しかない。

どうしてSが消えるのかよく分からない。スペインではEsteban エステバンという。これもBのせいで、最初はピンとこなかった。


アングロ・サクソンの「有名人」の名がフランスで語られるときに、フランス語風に読まれるか現地語風に読まれるかというのは必ずしも決まっていない。日本で中国や韓国などの漢字の地名や人名が、今は原則として現地読みに近いフリガナをつけたりカタカナで書かれたりしているけれど、日本の漢字読みで通用しているものも多いことと似ている。

この中国系の固有名詞は、フランスでは一応、「現地読み」に近いものになるので、たいてい漢字しか浮かばない私には、理解したり発信したりするのに苦労する。

で、スティーヴン・ホーキングが「ステファノキング」で、一瞬混乱したわけだ。

ホーキング博士のことを、テクノロジーがコミュニケーションのツールになった成功例として称賛する人がいた。


本当だなあと思う。


昨今、AIが人間の仕事を奪うとか人間の能力を凌駕するとかいろいろ言われているが、普通なら重度の身体障碍者として社会生活が困難になるはずのこの天才が、高度のテクノロジーにアシストされて最後まで世界中にコミュニケートし続けてきたというのはすばらしい。


逆に、身体能力が損なわれていなくても、自分の考えを他者と広くコミュニケートできなくなった、理解し合うことができなくなったというタイプの障碍の闇は深い。


その闇を探ってアシストできるようなテクノロジーというものができる日は、はたして、来るのだろうか。




[PR]
# by mariastella | 2018-03-22 00:05 | フランス語

ダニー・ブーンの 『La Ch'tite famille 』

大ヒットした『シチィにようこそ』の続編をダニー・ブーンが作った。

あれからもう10年になるんだそうだ。


ダニー・ブーンはすっかり「ビッグ」になった。

3人目の妻とロンドンに住んでいるそうだ。


今回の 《La Ch'tite famille》(シチット・ファミリー)は、続編といっても、ノール県の方言、訛りをめぐってのフランス内異文化衝突コメディという共通点はあるものの、話はまったく別のものだ。前作が、マルセイユの男がパリをとばして北の果てに行くというシチュエーションだったのに対して今回は、パリのブルジョワ社会とノール県のプロレタリアのコントラストということで、先行上映されたノール県では、紋切り型にすぎる、馬鹿にしている、と批判の声もあったらしい。


シチィの人たちは、発音がはっきりしない訛りが強くて話が通じない。

主人公は20年前にうちを出てパリで成功し、ミラノで出会った美しいデザイナーと結婚している。世間的には、自分は孤児だと言っている。

立派な回顧展に、家族が突然やってきて、その後で妻の父親の車にはねられて17 歳以降の記憶を失ってしまった。完璧に身につけていた標準語も、ブルジョワのマナーも妻徒の出会いも忘れた。


カリカチュラルだ。

でもやはり、ダニー・ブーンはうまい。


役者もそろっているが、親子兄弟という家族をめぐる人情噺と三組の夫婦(主人公ヴァランタンとコンスタンスという成功したデザイナー夫婦、ヴァランタンの兄夫婦、老いた両親)の愛の絆に説得力があって、笑いと涙のバランスがよくとれている。


最後に父親がジョニー・アリディの歌をシチィ方言で披露する。

そういえば、ジョニー・アリディも父親がベルギー人で「北」フランスと相性がよくダニー・ブーンとも仲が良く、いっしょに映画をやる予定もあったという。




[PR]
# by mariastella | 2018-03-21 00:05 | 映画

ルコワントル将軍と石原莞爾

前に、マクロンとぶつかって辞職した参謀総長の後任となったルコワントル陸軍将について少し書いた。

動画で見るとこんな感じの人だ。


彼の最近のインタビューを聞いて、ますます人柄に感心した。

今のフランス軍がアフリカを中心に派兵されているのが引揚げると縮小もできるのではないかという話について、自分たちは何よりも、フランスやフランス人を護ったり救ったりするためにいるので、我々がいるということ自体が「戦争」に対する抑止力でありたい、というのが一番大切なことだ、という。

この人の経歴からいってもとっても説得力がある。

交番があってお巡りさんがいることで、住民が安心して暮らせる、みたいな「抑止力」。

軍隊というより、それこそ「自衛隊」、レスキュー隊みたいなイメージだ。

この人からこう言われると、軍隊、軍人、一律に敵視、廃絶すべきという気にはならない。

「専守防衛」というのは、言葉の遊びでなく自覚、覚悟のある人に率いられている場合には、納得できる。

無責任なシビリアンの政治家なんかよりよほど信頼がおける。

といっても、「軍人」が、タカ派になると恐ろしい。

一年半くらい前、ナポレオンの戦争や日本におけるナポレオンの評価について調べていた時に、石原莞爾の最終戦争論を読んだのだけれど(結局、著書『ナポレオンと神』では使わなかったが)、この人が、日本がアメリカとの戦争に突入する前(1940)にハイテンションで訴えていた最終戦争論って、今から見ると、当たっているところと、予想よりもっとひどくなっているところがあって背筋が冷たくなる。

大量破壊兵器こそが「抑止力」になるというのだが、それで「世界が統一される」なんていうことにはならない。
北朝鮮だろうが、中国だろうが、ロシアだろうが、「独裁に近い権力者を頂き核兵器を持つ国」が今や現実にあるわけだ。
石原の、「弱肉強食の論理」ありきの恐ろしい論文を、戦前のものだと笑うことなどできない。結論部分を少しコピペする。(ここで全文読めます)

>>>>今の世の中でも、もしもピストル以上の飛び道具を全部なくしたならば、選挙のときには恐らく政党は演壇に立って言論戦なんかやりません。言論では勝負が遅い。必ず腕力を用いることになります。しかし警察はピストルを持っている。兵隊さんは機関銃を持っている。いかに剣道、柔道の大家でも、これではダメだ。だから甚だ迂遠な方法であるが、言論戦で選挙を争っているのです。兵器の発達が世の中を泰平にしているのです。この次の、すごい決戦戦争で、人類はもうとても戦争をやることはできないということになる。そこで初めて世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着するのであります。 要するに世界の一地方を根拠とする武力が、全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一することとなります。それから破壊の兵器も今度の欧州大戦で使っているようなものでは、まだ問題になりません。もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力のものができねばなりません。(…)

破壊兵器は最も新鋭なもの、例えば今日戦争になって次の朝、夜が明けて見ると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている。その代り大阪も、東京も、北京も、上海も、廃墟になっておりましょう。すべてが吹き飛んでしまう……。それぐらいの破壊力のものであろうと思います。そうなると戦争は短期間に終る。それ精神総動員だ、総力戦だなどと騒いでいる間は最終戦争は来ない。そんななまぬるいのは持久戦争時代のことで、決戦戦争では問題にならない。この次の決戦戦争では降ると見て笠取るひまもなくやっつけてしまうのです。このような決戦兵器を創造して、この惨状にどこまでも堪え得る者が最後の優者であります。<<<<


こんな「最後の優者」になんかなりたくない。
こんな「トンでも」の人に煽られていた時代などとっくに過ぎたと笑えない。

軍のトップに立つような人こそ、平和を希求する自制心と犠牲精神の権化のような人であってほしい。

[PR]
# by mariastella | 2018-03-20 06:40 | フランス

カリカチュア作家プランチュの半世紀

週刊の新聞で、広告がないから信用できる死応援したくて時々買うものに『le un』というのがある。最近のは、『ル・モンド紙』の第一面にもう半世紀も時事一コマ漫画を連載しているプランチュの特集だった。

c0175451_18500743.jpeg
サルコジはいつも頭上にハエが飛んでいて、このハエを消してくれと頼んだのに聞き入れられなかったとか。
c0175451_18491476.jpeg
政治家にはおもねらなくても、大企業には「忖度」して第一面からこの漫画を外した経緯について当時の担当者が証言している記事もあった。問題になったのはもちろん石油会社のロゴだ。
c0175451_18494903.jpeg
『シャルリー・エブド』が襲撃された原因となったムハンマドのカリカチュア騒ぎがあった時は、「私はムハンマドを描いてははならない」という文だけで、デッサンを浮き上がらせたけれど、ダヴィンチに似ているとかマルクスに似ているとか言われたそうだ。
c0175451_07502707.jpeg
ブランチュ50年の回顧展は3/20からパリの国立図書館で開催される。
カリカチュア作家がテロリストの犠牲になっても屈しなかった国の矜持を思わせる。

[PR]
# by mariastella | 2018-03-19 00:05 | フランス

マラウィの聖母

長崎の浦上教会の瓦礫から発見された有名な被爆の聖母像というのがある。

こういうものでとてもインパクトがある。


信仰の場所で、「聖像」として崇敬の対象になっていて、しかも「神の母」という女性像が破壊された姿はなんとも痛ましい。

今はカトリック教会では復活祭の前の四旬節で、イスラム教でいえばラマダンのような「節制」の期間なので、施しをせよという伝統で、あちこちから寄付のダイレクトメールが来る。


その中にショッキングなものがあった。フィリピンの教会再建のための寄付の呼びかけだ。


フィリピンのミンダナオ島で、昨年、イスラム国系の過激派テロリストと政府軍の間で激しい戦いがあった。10月に首謀者がすべて殺されて、「終結」したとされる。フィリピンと言えばアジアでとびぬけてカトリック人口が多いことで知られているけれど、ミンダナオだけは別で、昔うちに通っていた家政婦さんがミンダナオに残した家族のことを心配していたように、前から、ムスリムとの間に緊張関係があった。そして、今回の戦いの後でマラウィのカテドラルに戻ったカトリック信徒は、聖像が無残に破壊されているのを発見した。

イスラム過激派は、キリスト教に限らず、イラクやシリアの古代遺跡や墓所を破壊している。

修復や復興は、もう不可能なものもたくさんあるだろう。


爆撃で破壊されるのももちろんひどいのだが、日本で明治の廃仏毀釈の時代に破壊された仏像もそうだけれど、偶像であれなんであれ、「人の形」をしたものを憎しみをこめてわざわざ壊すという蛮行の結果は見ていて気分が悪い。

たとえ「独裁者の銅像」などでも、革命などの後でよってたかって引きずりおろされたり倒されたりするのを見るのも好きではない。


で、マラウィの聖母のこの姿。

c0175451_20450336.jpeg


キリストの磔刑像もひどい目に合っているけれど、磔刑像はもうそれ自体が、残酷な屈辱系のシーンなのだから、「冒涜」の意味が錯綜している。

c0175451_20443638.jpeg
c0175451_20453938.jpeg
おかあさんだけは助けてあげたかった、という感慨を通して、戦争のすべての犠牲者に寄せる思いが実感として迫ってくる。




[PR]
# by mariastella | 2018-03-18 07:18 | 雑感

朝市のパヴァロッティ

朝市に行ったら、野菜を売っている人で、「トマト、3キロ、2ユーロだよ」みたいに叫んでいる男がいた。
30歳くらいかなあ。

朝市ではこういう掛け声はあちらこちらで飛んでいるわけだけれど、その人の声はすばらしかった。
地声なのかと思って聞いていると、同じブースにいる人にアラブ語かなんかで話しかけている時は静かな穏やかなソフトな声。

ところが売り声になるとすごい。

音量もすごいのだけれどその出方の密度がすごいのだ。
発せられた声がまとまって形をとって、力と豊饒さと質感がある。
ほれぼれするとしか言えない。

耳の錯覚かと思って他の人たちの売り声にも耳を傾けたけれど、まったく普通の大声かだみ声か、怒鳴り声かだ。

その人の声ならどんな大舞台でも全ホールに朗々と響き渡るだろう。思わず顔をじっと見た。

そこに、声楽家か役者のスカウトマンが行き合わせたら、すぐに声をかけただろう。

この人の声と発声は、普通の人が訓練してもなかなか得られないものだ。
私はもちろん何も言わなかったけれど。(トマトは買った)

こうやって、朝市で野菜を売っている人の中に、「声」の賜物を持っている人がいる。

この人が子供の時に音楽院のコーラスのクラスに通っていたら、即、奨学金をもらって歌か演劇の道を勧められると思う。

思えば、彼らの中には、特別な絵の才能のある人や数学の才能、スポーツの才能のある人だっているだろう。

難民キャンプの子供たちだって、シリアで爆撃されている子供たちだって同じことだ。
テロリストの中にだっていろいろな才能を持っている人がいるだろう。

才能は平等ではない。

けれども、機会の平等がなければ、どんな才能も生かされない。

[PR]
# by mariastella | 2018-03-17 00:05 | 雑感

ナルくん、坂東眞砂子さん、ボードレールと斎藤磯雄

先日は、とてもつらい日だった。
その日のことがずっと前から頭を離れず、前日も、当日も、苦しんだ。
それは末っ子のナルくんを去勢手術に連れて行ったからだ。

手術は無事に終わったし、獣医さんは、猫もそうだと思うけれど、見ただけでこっちが癒されるような人情味あふれる人で、もう20年以上もお世話になっている。
1995年に、うちから歩いて1分という便利なところにある若い優秀な2人の獣医が勤務する最新式の医院で、若い盛りだった3歳半のガイアを誤診に続く二度目の麻酔投与で「殺された」後、歩けば15分かかる、今の獣医さんのところにお世話になっている。

とにかくやさしそうでやさしくて、ちょっと気が弱そうで、でも、この人となら、少なくともうちの猫は愛してもらえるという確信がある。
こちらはもう猫を連れて彼を前にすると無防備、無警戒で依存と弱さ丸出しの状態だが、それを利用されるということは絶対にない。
行く時間が短いように車で往復する。

マヤ(不妊手術)もスピヌーもイズーも手術した。
その度にやましい思い、罪悪感に囚われ、この子たちの一生に責任を持つという自覚を深くした。それでも、どこか、一抹の後ろめたさを抑圧していたんだろうと思う。

ところが、今回は、どういうわけか、とてもつらかった。前の日の夜から水と餌をやってはいけないのだが、私も何も喉を通らなかった。年のせいだろうか。

坂東眞砂子さんのことまで思い出してしまって今検索したら、なんと、数年前にまだ50代で亡くなっていた。
2006年、タヒチで、飼い猫が産んだ子猫を崖下に放り投げ殺していると新聞のエッセイで書いてスキャンダルになったことをよく覚えている。
そして、今回の検索では、実際は、裏の草むらに捨てただけで、それでも拾ってくれる人がいないと死ぬだろうから殺したも同然だと思って敢えて殺したと書いたのだという「真相」が出てきた。

確か、「雌猫から交尾や出産という自然を奪いたくない」が、猫がどんどん増えたら困るので始末したという話だったと思う。

「愛猫家」の理屈では、崖下に投げて殺すというのも裏の草むらに捨てるというのも、ある意味同じくらい許せない話で、生まれてしまった子猫はなんとか里親を見つけ、母猫は不妊手術を、というのが「正解」である。

今は完全室内飼いがスタンダードともなっている。

私の場合は、ヤマトやテオを庭に自由に出した結果、怪我させたり死なせてしまった経験を経て、ガイアで完全室内飼いに踏み切ったのに、もちろん去勢手術もしていたのに、また死なせた。

その後のマヤとスピノザは17年目まで、サリーは9歳、と長生きしてくれた。

動物愛護のイデオロギーや何かがあるわけでもない。
難民の子供たちが寒さで死んでいるのに、猫に食事と暖と愛を与えてメロメロになっているのは倒錯だと言われたこともあり、反論のしようもなかった。

ただ、愛さずにはいられない。
そしてただ愛さずにはいられないという状態になることを教えてくれたことを,猫たちに感謝している。

で、ナルくんの去勢。
彼の意見をきいていない。
完全室内飼いだから、どちらにしても雌猫とは出会えないし、子供も持てない。
ほおっておいたらマーキングをするなどいろいろな弊害が出る。
そして、坂東さんがいうような、雄猫と雌猫が出あって子供を作って、というのが彼らの自然で幸せである、というような決めつけ自体もこちらの勝手だと思う。
一生子供をつくれない雄なんて自然界にはいくらでもいる。

それでも、払いきれない一抹の後ろめたさ。

そういえば、最近、残酷な肉食をやめろというキャンペーンのポスターが出ていた。かわいいウサギの写真のそばに、「私を食べたいなら殺さなくてはなりません」というキャプションがある。
c0175451_05210434.jpeg

日本ではあまりウサギは食べないけれどフランスでは伝統料理の一つだ。

確かにこういう風に言われてみると、肉食はどんなに野蛮かと思うし、他人に殺させておいて肉だけ食べることのグロテスクさというのも痛感させられる。

私は高校かなんかの生物の時間でカエルの解剖もできなかった。

以下、気分を変えるために、斎藤磯雄さん訳のボードレールの『猫』二種類から。(もとは旧仮名です。斎藤さんとは旧仮名で文通していたことがある)

猫こそはこれ、学問の、はた逸楽の友にして、

沈黙(しじま)を慕い、暗闇のすさまじさをば求めゆく。(…)

思ひに耽る折ふしの気高き姿態(さま)は、さも似たり、

悠悠として寂寥の砂漠の奥に横たはり果なき夢路辿りゆく、

かの大いなるスフィンクス。 

***

汝(な)が頭(こうべ)、はた、しなやかの汝(な)が背(そびら)、

ゆくらゆくらにわが指の掻い撫でゆきて、稲妻を孕める肉体(からだ)もてあそぶ、

その逸楽に掌(てのひら)も酔い痴るる(…)


[PR]
# by mariastella | 2018-03-16 00:05 |

フランシスコ教皇の五年

フランシスコ教皇がローマ法王に選出されてから5年が経った。


就任早々、特別の枢機卿評議会を組んで、ヴァチカンの近代化に取り組んだが、代々のイタリアの貴族や名家が作ってきたヴァティカンの体質の強固さはアルゼンチン出身の教皇の想像を超えるものだったらしい。


教皇庁の人員を削り、より機能的にして、ビューロクラシーや教権主義や出世主義も排して刷新し、中央よりも地方の教会に仕える体質に変えたかった。


なかなか簡単にはいかず、とりあえず、それまでの「正義と平和評議会」「開発援助促進評議会」「移住・移動者司牧評議会」および「保健従事者評議会」を統合して「人間開発Integral HumanDevelopment」という上位部署とし、


「信徒評議会」と「家庭評議会」を統合し「信徒・家庭・いのち」の部署、


そして、ヴァティカンのメディアと広報のシステム書記官統合の再編のための広報事務局


という三つを新設した。

最初のものは、移民、助けを必要とする人、病者、迫害を受けている人、服役者、失業者、紛争や自然災害、奴隷状態や拷問の被害者らのために働くというキリスト教の背骨みたいな部分で、核抑止力の有効性否定、エコロジー問題などを通して、「弱い立場の人」の支援も全地球的な有機的な視点なしには真に有効なものにはならない、ということだろう。

多分夏ごろに出る私の新刊の中では、教皇の出身地でもあるラテンアメリカで軍事独裁政権に対抗して共産党とカトリック教会が共闘した「解放の神学」について解説した。


「無産者」が常に犠牲となっているという認識において、マルクス主義とキリスト教の見方は重なる。

先日は、国際女性デーに合わせたようにヴァティカンで聖職者の世話をするシスターたちの無償労働やリスペクトされていないことなどについての声が上がった。

ヴァティカン市国の「政府」の要職に一人の女性もついていないことも取り上げられた。


まあ、他の「主権国家」とはそもそも文脈が違うのでこういう比較はあまり意味がない。


フランスのフェミニストの先駆者はずっとシスターたちだった。

男性聖職者や男性修道士たちに君臨した女子修道院長もいる。

みんな、いろいろな意味でぶっとんでいた。


そのうち、それとは別に、ヴァティカンの女性たちについてのシリーズをアップするかも。


[PR]
# by mariastella | 2018-03-15 00:05 | 宗教

籠池夫妻、原発セールスのマクロン、ガンジー、フクシマ

これを書いているのは311日。


加賀乙彦の『宣告』を読んでいるので、刑務所に収監されている人たちの心身状況のことを思わざるを得ない。フランスでも、刑務所の過剰収容や老朽化、いろいろな問題が山積みだ。『宣告』はかなり前の話なので今の日本は知らないけれど、フランスでは囚人がどういうわけかスマホを持っていて待遇について撮影したり録画したりしたものをSNSで流すという事件もよくある。刑務所でのイスラム過激派による「洗脳」をどう食い止めるかという問題もある。

人権について少し考えても、つい最近でも、沖縄平和運動センター議長の山城博治さんが拘束中の冬に警察が靴下の差し入れも認めなかったこととか、息子さんがお母さんの心身状態が限界にあると心配して訴えている籠池夫妻の不当拘留は現在進行形の話だ。


フランスではマクロン大統領がインドにビジネス旅行?に行って、モディ首相と文字通りべたべたしていたのが印象的だった。BREXITのイギリスはもはやヨーロッパを代表していないからフランスに乗り換えなさい、とアピールしているが、インドはなんといってもクリケットをする国だからなあ。

しかも、マクロンは、二つの最新式原発プラントを売りつけることに成功したらしく、ほくほくしていた。原発プラントを売る国は核兵器だって売ることができるような気がする。

ああ、インドは核保有国だった。


核ではなくても、たとえば、ヨーロッパで公害の原因になることで規格外となったディーゼル車が大量にアフリカ大陸に輸出されている。ベナン共和国のポルトノボに毎日すごい数のヨーロッパ車が到着して、首都はすごく渋滞していて、公害も深刻になっている。

そういうのを見ていると、くらくらしてくる。


国際関係の「大人の事情」はみな金と権力なのだ。


そういえばマクロンも今年が死後70周年だったガンジーの墓に詣でて賛辞を述べているけれど、今にして思えばガンジーも、時代と伝統の偏見から逃れなかった人だなあと思う。

13歳かなんかで、当時の習慣通り見合い結婚、そういう年の少年だからもう性欲のとりこになって、14歳くらいで、死の床にある父を看取ることも忘れて妻と何時間もむつみ合って死に目に会えなかった話など有名だし、よくよくテストステロンのレベルが高い人だったのか、苦しみ続け、37歳かなんかで禁欲を決心、でもその後でも禁欲度をテストするために(?)姪たちを含める若い女性たちを床に侍らせたり、男性と関係を持ったラブレターを残したり、「ハンガーストライキ」で枯れ枯れのイメージとは対極のテンションの高い人だったようだ(だからこそハンストも過激で断固としたものだったのかもしれないけれど)。

息子4人のうち、長男はイスラム教に転向してアブドゥラ・ガンジーとなった。こんな桁外れの父親をもった息子もいろいろ大変だったのかもしれない。今の感覚からすると奥さんも気の毒だ。


日本の3.11から7年ということでフランスでもテレビや新聞が「フクシマ」を取り上げた。ロックスターのように人気のある元首相が原発反対をフランスにも訴えている、まず自国の現首相を説得したらどうだ、などという記事もあったらしい。

津波による打撃とその後で復興に向かう地域の被災者の苦労と、原発被害による避難地域の被災者の苦労は年を経るごとに明らかに違ってくる気がする。家が倒壊した被害と、倒壊していない家や街からそのまま逃げなければいけなかった被害とでは、後者の二次被害が深刻でいわゆる災害関連死の実態が見えにくい。


いろいろな理由で東京オリンピックを盛り上げている人たちにとっての「フクシマ」や沖縄の「遠さ」は、距離ではなくて質的なものなのだろう。


[PR]
# by mariastella | 2018-03-14 00:15 | 雑感

新聞の値段が男と女でちがった日

38日は国際女性デーだった。


フランスでは国際女性の権利の日と言わないとうるさい。

スペインで女性中心の大規模ストがあったとニュースでやっていた。

#me tooの影響もあって、いつもより盛り上がっている。


メトロでは、痴漢やセクハラがあったり見かけたりしたら、通報するための番号をアナウンスしていた。

郊外電車がパリ市内に入ると「私はこの電車の運転士です」という女性運転士のアナウンスがあり、「今日は国際女性の権利の日です」と言った後、「男性にスカートをはけとは言いませんが…」云々と意味のないジョークなどを言っていた。もう少し気の利いたことが言えないのなら黙っていればいいのに。


駅のキオスクの日刊紙リベラシオンが「女性には2ユーロ」と書いてあったので、安くなっているのかと近づくと、2ユーロが通常価格だとある。

女性のサラリーは平均して男性よりも25%低いので、今日だけ男性には25%上乗せして2ユーロ50で売り、その0.5ユーロは、男女平等推進機関に寄付すると書いてある。女性版には「女男平等」と並び方が違う。

c0175451_05233340.jpeg

c0175451_05245576.jpeg

これは左上の「男性用表紙の拡大図」


買った。

午後だったので、もう「女性用」しかなかった。

男性が女性用(表紙だけ違う)のを買うことができるのか、とかその反応とかを見ようとして他のキオスクにも行ったのだけれどもう売り切れていた。


リベラシオン紙は社会党系の新聞だから、寄付金込みでみんな積極的に買ったのだろうか。


何だか不思議なやり方だ。


バロック・バレエのクラスでみんなに見せたら、上乗せを寄付するなら問題ない、でも大体、女性の権利という言葉がおかしい、人権はひとつだ、とフランス人らしいコメントも出た。


「神とフェミ」の記事を、書き溜め始めている。


[PR]
# by mariastella | 2018-03-13 00:05 | フランス

文庫本2冊 加賀乙彦とEMシュミット

c0175451_06535707.jpeg
このところ、執筆していた本の資料ばかり読んでいたので、しかも、マルクス・レーニンの著作とか革命思想についてばかり読んでいたので、これさえ終わったら、何か小説を読もうと決めていた。
他にも読む本はいくらでもあるのだけれど、「小説を読む」というのが一番ぜいたくな感じがする。
しかも、どこでも読みやすい文庫本。

どうせなら、大長編をと思って、ずっと置いてあった加賀乙彦の『宣告』(3巻本)を思い切って手に取る。
興味深いが、確定死刑囚の話なのでどうにも重い。

昔、私の本に、ある人の洗礼名を書いてサインしてくれと言われたことがある。
大阪の拘置所にいる死刑囚への差し入れだった。
死刑反対のパンフレットをもらった。
自分の本が死刑囚の独房で読まれるのかと思うと、何か責任感を感じたことを思い出す。
あの人はどうなったのだろう。

このブログではこことか
ここで書いているように私は死刑廃止論者だ。

他の雑誌にも書いたけれど、人はどうして被害者の側にだけ立って懲罰感情を抱くのだろう。

死刑のある国は、

「もしあなたやあなたの大切な人が殺されたら、あなたの国はあなたの代わりに殺人者に報復してあげますよ」

と言ってくれる国だ。

死刑のない国は、

「もしあなたやあなたの大切な人が殺人者になったとしても、あなたの国は絶対にあなたやあなたの大切な人を殺しはしません」

と言ってくれる国だ。

私は2番目の国に住みたい。

親が子供に「たとえ全世界がお前を罰しようとしても私だけは絶対に守ってあげる」と言うみたいな、人生のベースにおいての絶対肯定感をもらえて生きたい気がするからだ。

というわけで、読み続けてはいるがあまりにも気が重くなるので、並行してフランス語の文庫本も読むことにした。
お気に入りのエリック=エマニュエル・シュミットの『顔の向こうが見えていた男』で、ものすごく奇妙な物語だ。
教会のミサが終わって人々が出てきた所に起こるテロ。目撃した主人公は人の顔の向こうに、霊や天使や悪魔が見えるという超能力がある。それを使って探索が続く。
宗教と暴力、テロリズム、愛と哲学…。2016年に書かれた手記が作者のところに送られて、それが10年後に出版され、さらに2060年に作者の生誕100年に義理の娘の手で付記されて…という複雑な構成だ。シュミットは本当に転生のストーリーテラーだなあと思う。








[PR]
# by mariastella | 2018-03-12 00:05 |

MoMA in Paris  その4

(昨日の続きです)

入念に演出された写真で、実際の光景に立ち会っているような大きさ(174cm x 250.8cm)で、不思議な確固としたインパクトを与えるものがあった。


c0175451_07041689.jpeg
この写真は、1950年代のラルフ・エリソンの『見えない人間』の冒頭シーンを忠実に再現した一種のインスタレーションをカナダのジェフ・ウォールが撮ったものだ。アメリカの黒人は、目に見えない、存在しない、つまり人間としては無視されているという人種差別告発だった。

1369個の電球の灯りとぬくもりの中でジャズを聴いている男の孤独や傷が、細部のリアリティから滲み出すようだ。

それこそ、イラストだって、画像編集だってなんでも可能な今の写真術ならどんなものでもできるだろうけれど、手作りディティールへのこだわりの質がクリエイトの質つながっている例だ。

過去にお蔵入りしたという、黒人が主演映画へのオマージュでもあるという。


ちょうど今、これまでは絶対に商業的には成功しないと思われていた黒人カルチャーの中で黒人ヒーローが活躍する『ブラックパンサー』がヒットしている。


隔世の感がある。


[PR]
# by mariastella | 2018-03-11 00:05 | アート

MoMA in Paris  その3

(昨日の続きです)

音楽のインスタレーションでおもしろいものがあった。

「空間を音で彫り刻む」というのがコンセプトで、インパクトはすごい。

吉井秀文さんの「彫空の本」が私の手元にある。
空間を刻むというコンセプトも好きだし、それが常に変化するということも、私の手の中で私の手の動きがそれに参加するというのも好きだ。
泡と泡のせめぎ合いを見ていると、その中に自分が入り込んでしまう錯覚に陥る。

音楽の場合、もちろん、音楽を演奏する人は、空間を音で裂くことや、満たすことを実感している。
空間に音を積み上げ構築していくタイプの音楽もある。
でも、彫り刻む、というのはありそうでない感覚だ。

で、変則的な天井も高い、かなり広い空間で、40台のスピーカーが、周りをぐるりと取り囲んでいて、その一つ一つが、40人のコーラスの一人一人の声を近くでひろったものになっている。
ソプラノはボーイソプラノで、全部で五声部8人ずつの、16世紀のモテットのアカペラ。スピーカーは立っている人の大体耳の高さに位置するので、一つ一つのそばに行くと、自分がその歌い手の場所で全体を聞いているような感じもする。
で、臨場感あふれる、と言いたいところだが、四方から中央に向かって声が放たれるので、それぞれのエコーもあり、現実にはあり得ないシチュエーションだ。

「アートにおいて特権的な鑑賞ポイントは存在するのか」、という問いがメッセージなのだろう。
システィナ礼拝堂の天井画を見る時、私たちはどのポジションに誘われているのだろうか。
「ディティールに近づくこと」と「全体を受けとめること」の間を選択し行き来することの自由によってもたらされるセンセーション。

真ん中のソファに座って聴くと非現実的だ。目をつぶっている人が多い。視覚情報をカットしないと脳が方向性をどう処理していいのか迷うからかもしれない。で、そうやって聴いていると、教会の葬儀ミサで、自分が祭壇前に置かれた棺桶に入って聴いている気分になった。実際は棺桶の中で聴いても四方からは聞えてこないだろうけれど、方向性を失うので、身体感覚が消える。音に刻まれるのはこちらの体で、そのまま「昇天」しそうだ。埋葬されているのかもしれない。墓所を囲んで人々が歌ってくれている。うまくいくと、天使たちの歌声で、それに押されてやはり魂は天上に?
死んでからは聞えないかもしれないから、それなら死の床で聴きたい。安楽死施設にこういうオプションがあればいいのに、とかつまらないことも考える。聴覚情報のコンテンポラリー設計というのはやはりすごい。
c0175451_02402798.jpeg
c0175451_02405135.jpeg

[PR]
# by mariastella | 2018-03-10 00:05 | アート

MoMA in Paris  その2

(これは昨日の続きです)


コンテンポラリー・アートについて前にこの本を紹介した。


それに関連してフランスのインテリ・ブルジョワ・アーティストを揶揄した映画のことも。

もともと、プロの美術評論家は、ある作品に先行する参照元を探し出すという手続きを経る。現代アートについても、ヨーロッパの美術の掲げた「普遍的な美」に対して、アメリカが、そこから情念を廃して「資本主義」の中で「美」をどのようにデザインするかを知的に開拓してきた歴史の中に位置づけようとする。

けれども、今は、もう、情報空間の質も変わったし、写真、ビデオ、アニメ、AIまで、媒体も発信の仕方も変わった。コンセプトを練り上げてメッセージを伝えるための設計アクセスも「万人仕様」になったので、コンセプトなしでも、メッセージなしでも、知的な努力なしでも、「インパクト」だけを誰でもクリエイトできる。

テロの煽動までデザインできてしまう時代だ。

今回のMoMA in Paris ではじめて見た媒体が、イアン・チェンのAIアニメーションだった。火口に住む部族にエコシステムと社会構造を与えて、環境が変わればどうなっていくのかというシミュレーション・ソフトで、一度始まると勝手に展開していく。シャーマンも出てきて、神や宗教の誕生も見える壮大な三部作《エミッサリー(使者)》の第一部が今回上映されていた、といっても、始まりも終わりもない。

こういう「場」に自分が参入できるというわけであろう「ゲームの世界」のただならぬ魅力もはじめて実感できる。

画像はこんなのを見つけたがあの実は不気味な感じはうかがえない。

ヨコハマ・トリエンナーレのことを思い出した。

もうずいぶん行けていない。

なつかしくなって、前に行った時のブログを読んでみた。


そこに、「直島にあって、横トリにはなかったもの、それは、エレガンスである。」という言葉があった。

よほど気に入ったらしく、次のトリエンナーレの記事でもまた引用している。


今、思うのは、「遍在」と「普遍」は違うなあということだ。


エレガンスを知るには、まず、今自分がどこにいるのかを知らなくてはならない。

(続く)


[PR]
# by mariastella | 2018-03-09 00:05 | アート

FLV(ルイ・ヴィトン財団美術館)のMoMA in Paris

少し春らしくなったブーローニュの森。
斬新な建築のルイ・ヴィトン財団の美術館に初めて行った。
c0175451_02370198.jpeg
前?から見るとこんな感じだけれど、横から見ると甲殻の幼虫みたいで、どこかがパタパタ開いて全体の形があっという間に変わってしまうんじゃないかという動きを感じさせるのはユニークだ。
中も明るい。
c0175451_02372330.jpeg
現代アートについて考察中なので、アメリカン・ポップアートやインスタレーションなどを見た。

デュシャン以来の現代アートの三要素とは
インパクト、コンセプト、レイヤー
だという小崎哲哉の言葉に従ってながめていく。
c0175451_02384057.jpeg
巨大なチューリップ。インパクトもコンセプトも分かりやすい。レイヤーの重ね方は「作りこんでいく」というほどでもない。

c0175451_02375861.jpeg
アメリカの国旗の色(フランス国旗も同じ配色だけど)の三色のセロファンで飴を包んで、山のように壁に寄せ集めている。国にはいろいろなことが起こっている。でもそれを一つ一つ手に取ってみていくと、自分の中で文字通り「消化」することもできる、というコンセプトで、自由にもらってもいい。私は青いのを一つとって食べた。

コンセプトを基に、空間を設計するばかりではなく、それを見る人が形を変える偶然性を取り込んで、しかも、単に、「参加」型ではなく、紙を剥がして中身を食べるという五感動員型インパクトだ。
飴の一つ一つが違う人の手に取られて食べられていくということが「世界の見方」「生きられ方」の含意というレイヤーも手が込んでいる。

アメリカのアートがヨーロッパの時間軸を離れて対抗するために生まれた流れの行きつくところでもある。インパクトだけで終わったらあまり意味がないわけで、コンセプトとレイヤーを読み解かなければならないようにできている。
わっと驚かす部分だけに注目すると、単純なお遊びに見えるけれど、実は考え抜かれたものなので、その反動としてわかりやすく情動に訴えるアール・ブリュットとかサブカルアートがコンセプチュアルアートに並行して生まれたわけだ。

実際、驚かされ、コンセプトを探り、レイヤーを読み解くだけでは、知的には面白くても、それがどうした、ということが多い。デュシャンは「網膜を対象にしたアートではだめだ」と言ったそうだ。だからと言って「便器」で驚かすより、もっとアフォーダンスとかで工夫してほしい。

そういえば、「13世紀のモスクの尖塔(ミナレ)」と称される「アルミの巨大な鉛筆」というのが転がされていたのも記憶に残った。こういうの。
このご時勢にこんなネーミングで挑発的ではないのか、と一瞬どきりとした。それが「インパクト」なのかもしれないが、コンセプトとレイヤーは見えてこない。

(続く)

[PR]
# by mariastella | 2018-03-08 00:05 | アート

自然村の鶏とプール

先日滞在した「自然村」には、もちろん、自然とはかけはなれた全天候型の巨大な温水プールがありました。
c0175451_06110083.jpeg
配られるチップブレスレットですべてができてしまう便利さはいいものの、こういうところでいつも感じるゲイテット・コミュニティにいるような後ろめたさもあります。ベネズエラで餓死する赤ん坊とかシリアで化学兵器に殺される子供たちのことまで考えてしまう。
c0175451_06063153.png
「自然村」ということで、各種動物もたくさんいるのですが、この鶏の頭の小ささと脚の立派な羽根のコントラストに驚きました。歩くときものっしのっしと歩いていました。
c0175451_06073353.png
これってなんのトリだろう。ずっと二羽でくっついて歩いていました。
仕事が一段落したのでずっと読んでいなかった文庫本でも読もうかと持って行ったのに、タブレットでぼーっと雑誌をパラパラ見る以外何も読まなかった。
帰ったらすぐに、やることが山積みです。
夏までにコンサートが三つ。いくらなんでも、練習しなくては。


[PR]
# by mariastella | 2018-03-07 00:05 | フランス

冬の休暇村

パリの近くに最近できた休暇村に行っていました。

ロシアから来た大寒波が去った後でほっとしましたが、池も湖の縁もまだ凍っていて、私にとっては珍しい光景でした。

c0175451_00212981.jpeg
c0175451_00223245.jpeg
白鳥もいましたが、写真をとりそこねました。
昔、セーヌのほとりのヨネヤマママコさんのおうちの前に冬にたくさんの白鳥が来ていたのを思い出します。

c0175451_01283539.jpeg
泊ったバンガローのテラスから見える景色。

これはまだましですが、アパルトマン形式の棟もあって、新しいだけにテクノロジーは充実してるのに、見た目が軍艦島の廃墟みたいな色合いでシュールでした。自然と溶け込む、みたいなのがコンセプトなようで、色も迷彩服風で奇妙な寒々とした感じでした。夏ならともかく、外の照明も暗いし、自然村という名前が、中途半端で欺瞞的でもありどうなのかなあ、という感じ。昔はパリの周りに一面にあった麦畑や林がどんどん「開発」されていくのも寂しいような…。

[PR]
# by mariastella | 2018-03-06 00:05 | フランス

ヤン・ランさんとラザード投資銀行

日記 その15

2/28

日記シリーズは多分これで終わり。

昨日のTVで見た中国人のヤン・ランさんには驚いた。

60歳くらいの女性で、9歳の時文化大革命で家族が逮捕され、母親も8年間投獄されるなど最悪の少女時代を送った後、ジュネーヴやハーバードに留学し、弁護士として20年くらい過ごした後、ビジネスに転身して、今は投資銀行ラザードの大中華圏(中国、台湾、香港)部門のトップだという。中国資本がどんどんフランス企業を買収している一翼を彼女が担っている。

中国の情勢やフェミニズムについても答えていたが、フランス語も完璧だし、ヤン・ファミリーという本も出している。
TVのスクリーンから放っているエネルギーというのが半端でない。
彼女の率いるチームの上位ポストの60%は女性なんだそうだ。
中国では政界でこそ女性の割合が少ないけれど(それでも23%とか言っている)、経済界では女性の起業家をはじめとして女性の活躍がすごいのだという。
(確かに私の友人の華僑女性も、フランスに来るまで半端ではない苦労をしてきたのにビジネスを立ち上げて拡大した。)

私のようなタイプから見るとヤン・ランさんはまるで宇宙人みたいだけれど、そして、これが男性のキャリアだとしたら、いろいろ突っ込みたくなる部分もあるのだけれど、女性だとなぜか感動してしまう。

ヤン・ランさんがすごいのは、

「中国がすごい」のでもなく、
「女性がすごい」のでもなく
「中国人女性がすごい」のでもなく、

「ヤン・ランさんがすごい」

のだけれど、オリンピックの「日本人がすごい」ではないが、ついついわかりやすい属性みたいなものを込みにして感嘆する心理が自分にもあるのに驚いてしまった。

一応ネットで拾ったヤン・ランさんの動画を貼っときます。

(これで日記は終わりと言ったのは、ようやく書きおろしを脱稿したから。日記と言っても、何しろ引きこもっているから毎日ちらっと見るTVとか目覚ましラジオのニュースで気になったものを書き留めているだけだから、何が日記なのかと思うし、しかも、即日アップでなくてずれている。書いたものは少し寝かしておかないと、私が絶対にやりたくないツイッターと同じリスクを負うのは好みではないからだ。)



[PR]
# by mariastella | 2018-03-05 00:15 | 雑感

凍死予防の目的でホームレスを逮捕できるのか

日記その14

2/27

ここの所ヨーロッパを大寒波が襲っている。
私は引きこもっているからあまり影響がない。
昨夜は路上生活者が3人凍死したという。

全ての荷物を持っていけないのが嫌だ、習慣を変えたくない、避難所の安全を信用できない、などいろいろな理由で、夜間避難所に来ることを拒否するホームレスもいる。

でも、零下7度になった昨夜のベルギーのブラッセルでは、ついに、警察が、避難所に来ることを拒否するホームレスの逮捕、収容に踏み切ったんだそうだ。

いくら路上に残る自由があるとしても、生命の危険がある時はその自由は制限されるという理屈だ。
もちろん凍死の危険性があるかどうかのチェックの後だそうだ。

放置するのは自殺幇助のようなもの。

「生命や安全の危機状態にある人を助けない」ことはヨーロッパ基準では「罪」に当たるくらいだから、論理の筋は分かるけれど。

他の都市の市長もさっそくこのブラッセル市の緊急条例のコピーを入手して参考にするという。

「安楽死」の問題とも少し重なる。
「死」を自由意志で選んだ人をサポートすることが罪に問われるのかどうかという議論だ。

路上などの居場所を離れたくないホームレスは、凍死する権利を主張しているわけではない。
その夜過ごす場所を自分の意思に反して強制されることと、凍死の危険を放置できないこととは別の次元だ。

ニースやイタリアでさえ雪が降っている。
全地球レベルで異常気象が増えている今、とりあえず居場所を選択し確保したホームレスにも、安定した生存環境はないということだ。

もちろん、だれがどういう事情でホームレスになっているのかという基本の原因と対策が必要なのはいうまでもない。
避難所でコントロールを受けて国外退去させられるのを恐れる不法滞在者もいる。

それでも、暖をとれる場所が周りにある大都市のどまん中で、「今夜の冷え込み」によって死ぬ人がいる、という現実を、放っておけない、というのは人間性のど真ん中にある。

右利きのあなのたの左手の小指が凍傷になりかけているのを、体の他の部分が暖かい衣服に包まれているからといって、放っておけないのと同じだ。

左手の小指はすぐに体の一番暖かい部分に抱き取られて温められるだろう。

[PR]
# by mariastella | 2018-03-04 00:05 | 雑感

著名女性たちのくぐりぬけてきた試練

日記  その13

2/26

ここのところ毎夕15分くらいしか見ないTVで、今日は偶然アニック・コジャンが新刊について話しているのを耳にした。


いわゆる著名な女性25人に、何が彼女らの人生をそこに到達させたのかという契機についてインタビューしたものらしいが、アメリー・ノートン、アニエスb 、ニコル・キッドマン、ジュリエット・グレコ、アンヌ・イダルゴ(パリ市長)、エレーヌ・グリモー(ピアニスト)、ジョーン・バエズ、ヴァネッサ・レッドグレイヴらが人生を振り返って率直に語ってくれたのを聞くと、ほとんど全員がレイプを含む性暴力の被害者だったという。アニック・コジャン自身が驚いている。


クラウディア・カルディナーレなんて、レイプされて身ごもった息子を生んだことまで告白しているのだ。


インタビューはいずれも「#MeToo」の告発騒ぎよりも前になされたものらしいが、女性たちがいかに暴力にさらされているのか、それでもそのトラウマを克服してきたことのすごさを感じる。

その中で、カトリーヌ・ドヌーヴ型のフレンチ・フェミニズムは童語られていくのだろう。

[PR]
# by mariastella | 2018-03-03 00:05 | フェミニズム

ルノー・カピュソンのヴァイオリン

日記 その12

2/25

TVで偶然、ルノー・カピュソンの演奏生中継を視聴した。
することがあったので途中で消そうと思ったのだけれどグァルネリの音色のあまりのすばらしさに、ライブでもないのについ聴き惚れて最後まで聴いてしまった。
その前に少しインタビューに答えていたのを聞いていたら、すごくいい人柄だということも伝わってきた。
先日パリ近郊であったチェロ強盗の話題も出た。

女性チェリストが自宅の近くでナイフを持った強盗に襲われて、携帯電話と130万ユーロ(1億7千万円くらい)相当のチェロを奪われたのだ。
FacebookにSOSを発し、眠れない2日間を過ごした後で、電話がかかってきて、家の前の車にチェロがあるという。窓が壊された停車中の車があり、その中に無事にチェロが見つかった。
そのレベルの楽器なら転売するのは普通の泥棒の手に余る。

ルノー・カピュソンの弟もチェリストだから他人事とは思えなかっただろう。

カピュソンのグァルネリはアイザック・スターンが使っていたものだという。
昔、スターンのリサイタルに行ったことがある。
ひょっとして、頭のどこかにその時の音の記憶があったのかもしれないなあ。

ネットで検索したら出てきた動画を貼り付けておく。






[PR]
# by mariastella | 2018-03-02 00:05 | 音楽

ハイスクールを銃から守る方法 by トランプ

日記 その11

2/22

フロリダのハイスクール乱射事件で、精神鑑定ばかり口にしていたトランプがついに銃に触れたと思ったら、

乱射はたいてい3分。
警察が駆けつけるのは5-8分後、もう手遅れ。
教師に銃を持たせれば、即座に対応できる、
教師の自衛能力を高める、

みたいな「対策」を言っていた。

誰が考えたのか知らないが、すごいなあ。
これで全米ライフル協会も満足させられる。
兵器産業を設けさせる仕組みとまったく同じなのだ。

どこかの国の頭のおかしいリーダーが攻撃してくるかもしれない。
攻撃されてからでは遅いからこちらもさらに重装備、
しかも一番近いところにある現場の自力対応の訓練が必要だ。

教師を武装させ訓練させる、という今回の「対策」に、銃器製造販売の関係者以外に「なるほど」と思う人がいるのだろうか。
さすがにトランプだ。

関係ないけれど、今日、ついビデオをずっと見てしまったチャールズ・カラン。
この人のこと、なんだかすごく好き。
アメリカにはトランプもいるけれど、チャールズ・カランもいる。

英語だけど一応貼っておく。



[PR]
# by mariastella | 2018-03-01 00:05 | 雑感

文書の場所が分からなくて焦った話

日記 その10

2/20

延々と書いたはずの文がPCの中で見つからない。内容ははっきり覚えているが、何のために書いたのかも覚えていない。雑誌の連載記事ではないようだ。今まとめている本のテーマに通じるのだから、挿入したいと思うのだけれど、どこにあるか分からない。

ブログ記事をストックしてあるところも見てみた。

毎日いろいろな情報が増えるばかりなので、アアウトプットすることで外部メモリーに保存、と思って毎日ブログを更新してきたが、その量も多くなりすぎて、もう、自分でもいつ何をどこに書いたのか混乱してきた。

結局、検索機能を使ってやっと見つけて挿入できた。

次著から抜けるところだった。

ついこの間のように思えるワープロで執筆していた頃と比べて、いろいろと、便利なのか不便なのか分からない。

今の作業は、編集と読み直しだ。まるで自分が、大学の先生かなんかであまり文章がこなれていなくて論文しか書いていないような人がはじめて一般書を出すというのでわかりやすいようにリライトしている覆面ライターのような気分だ。

でも、分かりにくい部分も当然ながら自分ではよく分かっているので、リライトは難しくない。それに自由裁量がいくらでも許されているわけだから楽と言えば楽だ。

ショックなのは、今のwordは、変換が時々、私のクリックしたものとは別に出てくることで、こちらはちゃんと変換したつもりなのに後でプリントアウトを読み返すと、もとがなんであったか分からないものがある。入力ミスをした場合もあるだろう。かな入力でも基本ブラインドなのでいちいち画面を確認することがない。かな入力だから、母音か子音のキーのエラーではない。たまに、文脈を考えながらいくら想像しても元の言葉が分からないことがある。地の文なら前後も変えて書き直せるけれど、引用文であるときは困る。その一つはテルトゥリアヌスの言葉だった。フランス語からの訳だったので、それらしいサイトをいろいろ検索してみたが出てこない。あきらめた。

思えば、いわゆるワープロで仕事していた時は、PCで調べ物をしてもそれをそのまま覚書としてワープロにコピーすることはなかったし、目次立て、章立てをした後は、大体、頭の中にすでにある流れにそって書いていた。今は、なんでも、思いついた部分から書き始めて、最後には、どこに何を書いたのか覚えていないような状況になるのだ。

資料も、PCから国立図書館や大学刊行物に入り放題だし、最後には何をどこから採ったかのか混乱してしまう。自分の書いた本の一字一句を想起できていた頃がなつかしい。

自分の著書はさすがにすべて手元にあるけれどデジタルデータはすべて持ってるわけではない。フロッピーディスクの山にはもう何年も触っていない。
すべてをデジタル化して簡単に検索できるようにしたいし、私の本を読んでくれる人にもデジタル版も手に入れて検索して利用してほしいと思う。そんなときにはデジタル版には私が使った元の論文などにリンクできるようになっていればいいのに。と、利用者の目線で思ったりする。


[PR]
# by mariastella | 2018-02-28 00:05 | 雑感

フランスと日本が一緒でアメリカは違うもの

フランスに長九住む日本人として、アメリカよりもフランスのシェアの方が大きい部門が日本にあるとなんだか嬉しくなる。

生活に密着している者では、たとえば、メートル法に摂氏の温度。

メートル法なんて、完全にフランス革命の産物みたいなものだし、1867年のパリ万博に日本が招待されたことも大きいのかなあ。
英語っぽい「メーター」と表記せずにカタカナも「メートル」とフランス語っぽくなっている。

アングロサクソン国はずっとヤード・ポンド法だったけれど、今ではヤード・ポンドにこだわるのはアメリカくらいだろう。

摂氏温度表示も華氏よりグローバルだ。

私は日本人がアメリカに住んだら、ヤード・ポンド法と華氏で、生活感覚が少し狂うかも、などと思ってしまう。

フランスは時間の数え方を除けば全部10進法で本当に楽だ。(時間も10進法にしようとしたが根付かなかったらしい)

少しとまどうのは、嵐などの時のニュースや天気予報での「風速」表示だ。

日本では風速40mなどと秒速なのに、なぜかフランスは風速144kmなどと時速を使う。

はじめはぴんとこずに、イメージをつかむためにいちいち秒速に脳内変換していた。

1秒で40mというとピューっという風が具体的にイメージされるからいいと思うけれど、時速144kmというと、自動車や列車の速度でイメージするわけだ。それはそれで実感は分かる。

でも日本人だからなんとなく秒速にも変換してみたい。

でも、その時に、時間だけが60進法だから、せっかくのメートル法なのに、暗算に手間取ったりするのが皮肉だ。

それでも、なんでもかんでもアメリカ追随の日本が、戦後にヤード・ポンド法や華氏に変えさせられてアメリカナイズしていなくてよかった、と時々思う。

[PR]
# by mariastella | 2018-02-27 00:05 | 雑感

『Apparition(聖母)ご出現』グザヴィエ・ジャノリ/ヴァンサン・ランドンの

グザヴィエ・ジャノリとのヴァンサン・ランドンの『Apparition聖母ご出現』


ヴァティカンにはじめてやって来たジャーナリストに


「教会は、いつも、偽のご出現を認定してしまうよりは、真のご出現をスルーする方を好むのです」


と説明する聖職者。


文書庫には、これまでボツになった無数のご出現、奇跡、超自然現象についての調査記録のファイルが並ぶ。

2年前と1年前にフランスで聖母のご出現を見たというアンナは今は18歳の見習い修道女で、普段は修道院で羽根布団の製造を手伝っている。舞い上がる夥しい量の羽毛が天使の羽根のようでもあり、雪のようでもあり、作業中にアンナが倒れる時に噴きあがる「運命」みたいなものにも見える。


アンナの信用度や精神状態について執拗な調査がなされる。

教会当局は基本的に安易な奇跡が嫌いなのだ。

イエス・キリストがこの世で起こした奇跡や復活以外に、「信じる」ための奇跡を必要としてはならない。


フランス南東部のご出現の場所には、すでに巡礼グループがブラジルなどからも押しかけている。シーツに血のシミのついた妙な「物証」みたいなものも掲げられている。アンナが出席するミサでは人々が彼女に触れたがる。

ご出現の場所における経済効果に関心を持つ者もいるし、アメリカからやってきてインターネットを通してアンナをブランドにしようと企てる男もいる。

160年前のルルドの洞窟での聖母ご出現に立ち会ったベルナデットの身に起こったことと同じ。それを現代に置き換えている感じなのだけれど、別に160年前だから人々が簡単に信じたわけではない。むしろ、社会全体に「無関心」が多い今よりも当時の方が反教権的な雰囲気は強かったし、教育も受けていない貧しい少女ベルナデットに向けられる軽侮や不信も今よりも激しかった。


私はこのルルドについてもう20年以上前だけれど『奇跡の泉ルルドへ』という本を出した。


章立てが巡礼、聖母出現、聖女出現、聖地出現、奇跡出現、と続く。

普段は、自分の本の検索など絶対にしないのだけれど、今この本を検索してみたらコメントに引かれた私の言葉があって、なんだか、その思いは全然変わっていないなあ、と思った。

そして、聖母や聖女や聖地や奇跡の出現が望まれ、生み出されていく過程の人間的なメカニズムも永遠に変わらないなあと思う。


で、聖母ご出現の調査についての優れたドキュメンタリーといえるほど充実したこの映画を今さら見ても、私にはあまり意味がないのではとも思ったが、意外にも、すばらしくおもしろかった。

百件以上のご出現調査の記録をもとにしたというこの映画をすぐれて今日的にしているのは、「信仰」や「宗教」そのものに懐疑的なジャーナリスト役を社会派の名優ヴァンサン・ランドンが演じているところだ。


彼の演じるジャックは、優秀な戦場ジャーナリストだったが、15年コンビを組んできたカメラマンの殉職にショックを受けてフランスに戻ってきて引きこもっている。そこにヴァティカンから電話があり、話を聞きに来てくれと言われ、アンナの審査に加わることを引き受ける。

ヴァティカンで参考文献として読むようにと手渡される本が、私の持っている本ばかりだった。奇跡礼賛の本ではなくてフェイクはいかにして作られるか、というケース・スタディが中心だ。

ジャックは現地で、神学者や精神科医や司教区から派遣されたエクソシストの神父やらからいろいろなレクチャーを受け、独特な用語の飛び交う彼らの話を聞くのだが、ヴァンサン・ランドンは、その「目」、「視線」だけで、ジャックの懐疑や違和感、それが変化していくのを見事に表現している。

ご出現を見たという少女アンナは、模範的で落ち着いていればいるほど、何か怖い。純粋なのか、下心があるのか、犠牲者なのか、挑発者なのかよく分からないインパクトもすごい。彼らをとりまく人々の造形も素晴らしい。


「信仰は自由で明晰な選択なのです。証拠があるところには神秘はなくなります」とジャックに語る女性精神科医もいい味だ。


ヴァティカンから無認可のまま巡礼地になった場所にやってくる人々の中に、病気なのだろう子供を抱いた父親の姿が見える。

聖母出現と奇跡出現を期待してやってくる人々の姿のインパクトは、実在の巡礼地と同じだ。

「信じていない人」がルルドに行った時、病気の人や病気の人のために祈りに来ている人たちの大群を見ると、不思議なことに、


「こんなの、どうせ治らないのに、こいつら、本気で信じているのか ?


などとは思わない。


そもそも、「信じていない人」が聖地に足を踏み入れた時点で、「聖地に呼ばれた」不思議が働くかのようだ。

「人間って悲しい、でも、人間ってすごい」

という感慨にとらわれる。


この映画は、終始、合理主義者であるジャーナリストの目を通して描かれているわけだが、巡礼地にいる間に起こる彼の心の揺れに同調できる。

監督のグザヴィエ・ジャノリは、これまでにも、

『A l’origine』で嘘から本物の活動家になってしまう詐欺師(フランソワ・クリュゼ)や、

『偉大なるマルグリット』で音痴なのに立派な歌手だと思い込む貴婦人(カトリーヌ・フロ)などを通して、虚実をめぐる人間性の不思議を描いてきた人だ。


文学部にいた頃はユイスマンス(自然主義から印象主義へオカルティズムからミスティックなカトリックに転向した小説家)に夢中だったというから、この映画を作った時のテーマへの向かい方も想像できる。

聖地がらみ、奇跡がらみ、聖人伝がらみの映画は、ただただ精神的なもの霊性を喚起するか、あるいは、無神論、合理主義の側から揶揄するか、ひたすら別世界のお話として提供するか、というのがほとんどだけれど、この映画のスタンスはまるでサスペンス映画のように「真実」を探っていく。


主人公ジャック自身のシリアでのトラウマへと回帰していく偶然、シンクロニシティもあって、ご出現の真偽調査とは別の次元での「徴し」を、「意味」を、見出していく過程も、言葉ではあまり説明されないのに説得力がある。


でも、それだけだったら、変な話、私でもシナリオが書けそうだと思うのだけど、実は、それらすべてとは別に、「もう一つの物語」が織り込まれている。

アンナの運命について意外な展開の後、さらに、衝撃の結末があるのだ。


この映画はシリアで始まり、シリアで終わる。


シリアの難民キャンプで夫と赤ん坊と共に救援活動に従事するメリエムは、教会の教義やら奇跡調査の中で不安定になっていく旧友のアンナとは遠く離れたところで、人の命の尊厳に寄り添って生きている。

ジャックがメリエムの夫に見せるために持って行ったものは、ヨルダンとの国境に近い荒野にある修道院にあったカザンのイコンの複製で、そに描かれた聖母(ロシア正教では生神女)の両眼は弾丸に打ち抜かれて闇の穴のようだ。

この映画が日本で公開されることがあるかどうかは分からない。

でも、この映画の「ネタバレ」を含んだコメントはしたくない。

それが「ネタ」であるとともに、そこからまたすべてが別の様相で見えてきて、それは「全体」と深くかかわっているし、人間とか宗教とかのあり方も深く考えさせてくれるからだ。

オリジナルの音楽の宗教的ではない感じも対照的ないい効果を出しているのだけれど、ここぞという時にすごい迫力で流れるバッハの無伴奏チェロ組曲のプレリュードには、やはりこれしかないなあ、と思わせる。モンドンヴィルの曲の使い方もフランス映画だと感じた。


数ある「奇跡」映画の中で、歴史に残る作品となるだろう。


[PR]
# by mariastella | 2018-02-26 00:05 | 映画

故障を治すということ

日記 その9


2/17

いつもの通りベッドの中で目覚ましラジオを聞いていたら、メダル候補だったフランスのスキー選手が予選落ちしたことがニュースになっていたので、そういえば、フィギュアの羽生選手、どうなったかなと思って聞いていたが、まったく語られない。オリンピックになると、国による報道の違いがよく分かる。

で、ネットを検索したら、金メダルを取ったことが分かり、ネットの動画で演技もちゃんと見ることができた。

先日、この「Seimei」について野村萬斎との対談のことを書いたけれど、少なくとも、能舞台の跳躍では、どんなに素晴らしいものでも、まず、転倒とか怪我の心配はないなあとあらためて思う。

フィギュアスケートはバレエの要素も大きく、力と力のぶつかり合いではないので見るのは好きだけれど、ジャンプがどんどんエスカレートして一流選手でも転倒はもちろん、ひどい怪我をするリスクがある。


バレエでも男性ダンサーの回転とかジャンプはハードで、脚を痛めることはありそうだけれど、氷上のスピードと高さによるほどのリスクはないだろう。

足の故障と言えば、私事で思い出すのは、1999年の夏に日本で本を読みながら上がったメトロの階段を踏み外して足首をひねったことだ。人と会う仕事などがいろいろあったので、腫れが引いた後は、脚を引きずらないで無理して歩いていた。

ある角度での痛みはとれず、フランスに帰ってからやっと医者に行くと、もう固まっているからどうにもできない、などと言われた。

普通の生活はできたので、もし私に「踊る」という生活がなければ、そのまま、「昔、足を痛めたのでうまく走ることはできないおばさん」になっていたかもしれないけれど、バレエのステップが踏めないのは重大だったので、スポーツ医療の専門クリニックに行き、徹底的にリハビリに通うことになった。


まあもともとのレベルが素人のダンスだから、結局、完全に治すことができた。

五十肩の拘縮の後遺症が今でも左腕にあって、右よりもやや可動域が狭いことに比べると、さすがに、足はごまかしがきかないので、最後までリハビリを続けたからだろう。

その11年後に自宅の階段で滑って肩を強打した後でこじらせた。

それ以来、ひたすら転倒が怖くて、どこでも階段では手すりを持つし、バレエでも連続回転は目が回ってバランスを崩す前にやめている。

若い頃に踊っていた時よりも目が回るのが早い。もちろん目が回らないように視線の動きのコツがあるのだけれど、フィギュアスケートの高速スピンを見ていると、人間業とは思えない。検索したら訓練効果で回転も日常動作と同じと認識されて脳が刺激をブロックするのだそうだ。

すごいなあ。


[PR]
# by mariastella | 2018-02-25 00:05 | 雑感

カトリック大司教と赤旗

日記 その8

2/16

サイトの掲示板で、高見長崎大司教が「しんぶん赤旗」2018/2/7で、憲法九条を改定してはならない、という記事を出されているのを教えてもらった。

早速検索して読む。


高見大司教はフランスのドキュメンタリー番組で、インタビューに流暢なフランス語で答えていたのが印象に残ったと前に書いた。その時の彼の発言にも少し触れたことがある

ちょうど6年前に、岡田東京大司教も赤旗のインタビューに答えていたのを思い出す。

「自戒こめたメッセージ 自然と命守り後世に伝える」というもので、

>>>「いますぐ原発の廃止を~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~」日本のカトリック教会が昨年11月に発表した司教団メッセージです。日本にいる3人の大司教の一人、東京大司教の岡田武夫さんに聞きました。2012/2/26<<<とある。

共産党とキリスト教は弱者に寄り添うという一点で共通している。

共産主義政権は、資本主義社会の構造的弱者である「労働者」を「強者」に転換するのを必然としているところが決定的に違う。

日本の社会主義者でソ連のコミンテルンから日本共産党の設立を支援した片山潜はプロテスタントだったけれど、ソ連のボルシェビキが「無神論路線」= 実は神と宗教にとって代わる路線」を採用したので、自分は本当は神を信じていなかった、みたいな弱腰の言葉を残している。でも実は、戦前のキリスト教社会主義者たちは、「御用宗教」としてのキリスト教を擁護していたのではなく、「キリストの教え」に忠実であろうとしたのだった。

日本共産党はその後コミンテルンから離れて独立路線をとったのだから、もう少しイデオロギー色を消して、それこそ、もとの、搾取されている人々を解放する、という方向に、現在の肥大した金融資本主義などの中での労働者の救済ということと、必ず真っ先に弱者が犠牲になる戦争や環境破壊に絶対反対するということに特化すれば、今のカトリックの目指すところと変わらないのは事実だ。

でも、旧ソ連の全体主義と袂を分かった自由諸国内の共産党が次々とそのブランドを捨てていくのに対して、日本の共産党だけはあいかわらず「赤旗」という革命旗を掲げているから、フランスのTVニュースでも取り上げられたくらいだ。

その「赤旗」ブランド死守が生存戦略の一つだというのも、旧社会党の末路と比べると分からないでもないけれど。

で、カトリックというのは、フランスでも二つに分かれている。

ブルジョワ階級のお仲間アイデンティティと、現ローマ法王のフランシスコ教皇と同調して、形や伝統よりも慈しみの実践と偽善の告発に熱心なグループに分かれる。

カトリックが超マイノリティーな日本でさえそんな雰囲気があるのは不思議だが「欧米のイメージ」、「ミッションスクールのお嬢様カルチャー」などのお仲間アイデンティティがフランスとは違う意味で存在していて、「大司教様が赤旗に応えるなんてあり得ない」「聖職者が反体制的な政治運動や発言をするなんてとんでもない」という反応も必ず出てくるようだ。

プロテスタントの方が、もともと個人的に社会主義運動にコミットメントするハードルが低い。

今は「神、金、革命」という次著をまとめている最中なので、いろいろな歴史的、地政学的文脈が頭に浮かぶが、日本でも、超宗派的な日本宗教者平和協議会があって合意事項を明白にしている。どんな宗教でも、人間の死生観に関わるのだから、行きつくところは同じだというのはもっともだ。

合意事項は、今、検索したら、

信教の自由政教分離の確立」、

核兵器の完全禁止と廃絶」、

「(自衛隊及び在日米軍)軍事基地の撤去と軍事条約(日米同盟)の撤廃」、

日本国憲法の擁護と平和・民主条項の実現」、

人権の擁護と民主主義の発展」、

「環境の保全と回復」、「宗教者の国際連帯の強化」(平和五原則

だそうで、宗教が正論に行きつくとこうなるんだなあ、と思う。


[PR]
# by mariastella | 2018-02-24 00:05 | 宗教

釈尊涅槃会と四旬節

日記 その7

2/15


今日は釈尊涅槃会だそうだ。曹洞宗ではその前に『遺教経』を読誦し、釈尊の御遺徳を偲ぶと禅僧のブログにあった。

戒を守ることで心の安定を得られれば解脱につながるという。 


 >>>若し人、能く浄戒を持てば、是れ則ち能く善法有り。若し浄戒無ければ、諸善の功徳、皆な生ずることを得ず。是を以て当に知るべし、戒は第一安穏功徳の所住処たることを。
『仏垂般涅槃略説教誡経』、『大正蔵』巻121110

という引用があった。

カトリックでも四旬節が始まったところで、復活祭に向けて、昔はラマダンのように本格的に断食するとか、肉を食べないとか、善行や苦行をするというのがあった。


「食べない」というのも本来は、いわゆる精進潔斎の他に、「食べない分を貧しい人に施す」という意味なので善行を積むのと同じだ。


でも、「善行」は、「戒」のような形にしないとなかなか果たせない。


「体にいいこと」でもよほど意志が強くないと続かないのと同じかもしれない。

戒を護ると諸善の功徳を生ずる、ともある。その善行がまた心の安定をもたらすのだ。

「心の安定」「禅定」「解脱」。


80歳で静かに涅槃に入ったお釈迦様の説得力ある言葉。


それに比べてキリスト教のキリストは若くして最悪の苦痛を与えられて殺されたし、自分でも血の涙を流して苦しんだ。

まあ、その後で復活したからこそキリスト教が生まれたのだけれど、復活祭の前はそのキリストの苦しみをみんなで追体験しなさい、みたいな雰囲気だ。


もともと苦しいとか痛いとかの状況にあって、「心の安定なんてとても無理」などという人にはこちらの方が救いがあるのかなあ。


いや、「心頭滅却すれば火もまた涼し」で、禅定に入ると天国や極楽に行けなくても苦しみなどなくなって救われる?

「心の安定」なんてこの世では無理かも。


この世で得られるのはいわゆる「動的平衡」で、人生はいつも、綱渡り?


[PR]
# by mariastella | 2018-02-23 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧