海の見える場所に行かなくなってしばらく経つ。
亡くなった母は一年に一度は海を見て海の空気を吸わないとだめだ、といつも言っていた。 フランドルに田舎のうちをもっていたころは、冬場でも海岸に行ってムール貝を食べたものだ。 昨秋リールに行った時は海辺まで足を延ばさなかった。 まあ、ムール貝だけでも、と思って、先日、時々行く近くのベルギー系レストランにムール貝を食べにいった。 店のデコレーションだけでも、海の雰囲気。 つきあいでもなくては外食を楽しむ気にもなかなかなれない。 でも、北の海岸で何度も食べたムール貝にはノスタルジーをそそられて、心が休まった。 #
by mariastella
| 2024-03-14 00:05
| グルメ
(前の記事の続きです)
Q : では、イエスが、その「型」に切り込みを入れて、「型」からあふれ出ようと呼びかけたところを、「教会」が、再び、型に固めてしまったというわけですか? A : 教会は再び型にはめたというより、前よりひどい「型」をつくりました。王の権力と教会が同盟を結んだ時点で最強の型ができました。この体制が教会の地盤を強固にしたと同時に、本来のあり方を失わせることになりました。政治的な立ち位置という理由で、教会は自らを固めてしまい、そのせいで何世紀も、今に至るまで堕落し続けて、当然のように沈黙を守ってきたわけです。それが今日の教会の問題です。どうすれば自らも関与しながら閉じ込められているこのイデオロギーという蓋にひびを入れて、再び自分自身とのずれ、距離を取り戻せるでしょうか。教会自身が「型」から外に出なければ、前代未聞だった「福音」を世界に届けることができるでしょうか。この福音は、この世の霊性を活性化することができます。その霊性というのは人類に普遍的な霊性のことです。(インタビュー終わり) Sekko : これって、中国学者であるフランソワ・ジュリアンやマジョリティの日本人である私やアルゼンチン出身のフランシスコ教皇にはわりと「自明」に見えていることかもしれない。 でも、ローマ帝国の国教として、その後は「神聖ローマ帝国」と組んで今の文化圏を築いてきたヨーロッパにとっては、「王」と「教会」の組み合わせ、権威と権力の組み合わせがあまりにも根強いので、見えにくいのだろう。「型」を破るには武力による革命だとか、政教分離の強制だとか、支配や統制など結局「力」による解決の模索になってしまう。 政治犯として処刑されながら「福音」をもたらしたという逆説的なイエスのメッセージのユニークさはどこにもない。 フランス人にこれを語るのも難しいし、キリスト教を「西洋イデオロギー」として見てきた日本人に語るのも難しい。 フランシスコ教皇のようにヨーロッパやローマの真ん中でそれを語るのも難しい。 でも、福音の残滓はアッシジのフランチェスコなどを通して今も生きている。カトリックは今も列福列聖を続けていて、「福音の証し=人は人を愛することができる」と身をもって生きた人にスポットを当てている。このシステムだけは、「型」に切り込みを入れる道を閉ざさずに残していると言えるだろう。 共感の持てるインタビューだった。(本も読むことにして購入した) (終わり) #
by mariastella
| 2024-03-13 00:05
| 宗教
(前の記事の続きです)
Q : ヨハネが「この世で自分の命を憎む者」と書いた時の「この世」とは何ですか? A : ヨハネは「この世」に新しい意味を付与しました。自分の中にありながらそこから外に出なくてはならないもの、まさにex-isterと言うものですイエスはピラトに「私の国はこの世のものではない(ヨハネ18,36)と答えています。この世の外には、この世を超えるものがあるのではなく、この世から溢れ出るものがあるのです。イエスはこの世に、計り知ることのできない次元を出現させました。イエスはこの世に切り込みを入れることで、硬化した世界に裂け目を生じさせました。それはこの世を裁くためではなく救うためです。「型」が破られた世界だからこそ、その隙間から聖霊が注ぐのです。 Sekko : これは哲学者らしい展開だ。イエスの「自由」観とも合っている。真理の探究と自由とがセットになっているということだ。先入観の固まった世界の枠内でいくら考えようとも「真実」には近づけない。フランソワ・ジュリアンの言う「coïncidence」とは、固定化された「型」ということだと分かってくる。 でも、現代のようにすべてが相対化しすぎて切込みを入れるべき「型」がどこにあるのかもう分からないような時代にはどうなるのだろう。(続く)
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by mariastella
| 2024-03-12 00:05
| 宗教
(前の記事の続きです)
Q : つまり、プシュケーからゾーエに向かうということですか? A : ええ、自分の人生、命のみに固執していると、それを超える大きな命であるゾーエを生きる能力を失ってしまいます。ヨハネの福音書の12章15節に「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」とありますが最初の二つの「命」はプシュケーで最後のがゾーエとギリシャ語は使い分けられています。でも、この世の命を厭世的、禁欲的に生きるという意味で読んではいけません。イエスは、井戸の水も欲したように、この世の命に必要な条件もリスペクトしています。でもイエスは、ただ生きているということに視野を限るのでなく生きる躍動に心を開くように招いているのです。自分の命を「この世」にだけ縛り付けないようにと。 Sekko : このイエスの言葉は、ギリシャのストア派のうちに広まる中で、禁欲的に解釈されていった。けれども、例えば自分を鞭打ったり、極端な断食をしたりという行き過ぎもまた別の形で「この世の命」に固執しているともいえる。イエス自身は、断食する洗礼者ヨハネの禁欲的なグループと違って、人々との会食などを共にしていた。それは最後の晩餐にまで続くし、毎週一度の「聖餐」で自分の肉と血を捧げるという形にまで発展している。 「この世で自分の命を憎む」という言葉が、過度な禁欲主義、自虐に向かう人に根拠を与えてしまったことは否定できないように思うけれど…。(続く)
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by mariastella
| 2024-03-11 00:05
| 宗教
(前の記事の続きです)
Q : それなのに、あなたは『ヨハネによる福音書』を追っていますね。 A : 哲学的関心からです。他の共観福音書に比べて、イエスが「型」を崩すという方法で教えを説く場面が特に目立っているからです。典型的な例がイエスとサマリアの女との対話です(ヨハネ4,5-42)。まず、サマリア人とユダヤ人の関係、男と女の関係についての凝り固まった考え方から女を解き放そうとします。最も原初的な頼み事である「飲ませてください」ということから始めて、「渇いて死なないために水を飲む」ということから、涸れることのない生命の水に至る道を示唆します。サマリアの女はそれを理解してイエスについていくことになります。生命の考え方をヨハネはギリシャ語で二種類に区別して使っています。有限に生存している個々のプシュケーと、その底に流れる無限の生命のゾーエとなっていますが、フランス語では混同されます。 Sekko : 「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して乾かない。私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る(4,13)あたり。 確かに、古代ギリシャ語のプシュケーは精神や心も含み、心理学(プシコロジー)などの語源になり、ソーマは体、ビオスは生物学(ビオロジー)などの語源になっているように、ギリシャ哲学は文化の源流になっている。 でも、十字架につけられたイエスが「渇く」と言ったことを思うと、人間イエスのつらさが身につまされる気がする。 (続く) #
by mariastella
| 2024-03-10 00:05
| 宗教
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