L'art de croire             竹下節子ブログ

『Les pieds dans le tapis』(ペルシャ絨毯につまづいて)

先日、年末から続いたイランのデモ行進が話題になっている時、Arteでイランとフランス合作映画Les pieds dans le tapis』を観た。les pieds dans le tapisというのは、se prendre les piedsdans le tapis (絨毯に足を取られる、つまづく、うっかり失敗する)という表現と、主人公のモルテザがペルシャ絨毯の製造販売の会社の跡取りだということをかけている。


イラン映画は深刻なものばかり見てきたが、これは珍しくコメディだ。

モルテザは特に中国に向けての販売を受け持っていて中国語も話す。経済封鎖のせいで経営は難しく、従業員がストをするのに、社長である父は毎年恒例の泥スパ保養のために韓国に行っている、はずだったが、フランスの地方都市で急死したと知らせが入る。

モルテザの妻との関係、一人娘の婚約式での両家総出の様子、テヘランの排

気ガス公害などのディティールもおもしろい。

モルテザは母親といっしょにフランスに渡る。地方都市だからテヘランより空気がよい。母親はフランス語ができて、ワインを作る市長の弟から言い寄られ、母が通訳してくれないのでモルテザは中国人女性の通訳を雇う。中国語とフランス語の通訳だ。モルテザはその中国の女性(国に4歳の息子を置いてきているフェミニスト)から言い寄られる。

フランスのお役所仕事で、遺体をイランに返すことが経済封鎖の貿易禁止に引っかかるかどうかを確認しなくてはならないなどと言われて困惑する母と息子。

また、父は、レストランで倒れた時に40がらみの金髪女性とウェディングドレスの写真を見ていたという証言がある。その女性は自閉症患者のセンターを経営していることが分かり、訪ねていく。父はそのセンターのためにずっと寄付を続けていたのだった。

実は、父はフランスで医学生だった時代に出会ったフランス女性との間に子供を二人作っていた。二人目の男の子が自閉症だと分かり、女性と協力して自閉症センターを開設する。

金髪女性は父の最初の娘だった。

でもその後でイランに帰った父は母に恋をして結婚し、フランスでの医学も捨て、母子も捨ててペルシャ絨毯商人となったのだ。しかしその後、時々フランスに来てはセンターで子供たちとも過ごしていたわけだ。父には夭折した自閉症の弟がいた。

モルテザは中国人通訳を介して、「ギャング」に、父の遺体を病院から盗み出す依頼をする。「ギャング」だというから「アラブ人」かと思っていたら、元ボリショイバレーのダンサーや医者や宇宙飛行士やエンジニアからなる亡命者グループなどだったという今のフランスの社会風刺もある。

今風と言えば、スマートフォンでのやりとりが効果的に使われているのがうまい。音楽もいい。

最後はコメディらしいドタバタも少しあるのだが、別に特に「共感」できるわけではなく、カルチュラル・スタディみたいなおもしろさの映画だったが、私にとって特別な縁のあるイランの来し方行く末のことを考えていたところだったので、興味を惹かれた。

こういうすごく国際的な設定なのに地方色全開の映画を作れるのはフランスだからこそだなあ、と思う。


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# by mariastella | 2018-01-21 00:05 | 映画

『Le prénom』(子供の名前)

上演された2010年にも面白そうだと思ったけれど見逃した芝居、パトリック・ブリュエル主演の『Le prénom』TVで見た。(その後で映画化もされたがそれも見ていない。)

ブリュエルは、歌手としても有名だけど役者としても本当にうまい。


ブリュエルの演じるのは、不動産の仕事で成功しているやり手の男ヴァンサンで、妹バブーのうちのディナーに招かれてくる。妊娠中の妻はかなり遅れてくる。


そこはパリの五区のアパルトマンで、妹の夫ピエールはエコールノルマルを出て今もデリダについて書くインテリの教授。妹の方は、郊外の中学の数学の先生で、まだ小さい子供が二人いる。子供たちはもう寝かされている。このことで夫婦の居場所の知的レベルの「格差」とコンプレックスや家事育児を押しつけられている妻の不満が分かってくる。


後で映画の予告編もネットでみたが、芝居の方が、リビングというかサロンだけが舞台なので、小道具に工夫がされているのでおもしろい。

天井まで届く大きな本棚がふたつあって、本がぎっしりあることでインテリの住まいだと分かる。でもその棚に仏像の頭部の置物がおいてある。このことで、パリのインテリ左翼無神論者の雰意気が演出されている。

積んである雑誌は『テレラマ』。テレビの番組情報誌だがインテリ向けカルチャー誌で、それを手に取ったヴァンサンが「テレビもないのにテレラマとはインテリ左翼でばかげている」と揶揄している。TVがないことと本がたくさんあることはもちろん関連している。(ヴァンサンは金銭的成功が基準で保守派であり、フィガロ・マガジン系なのだ。バカロレアの哲学は4/20点だったヴァンサンはエコールノルマルに行ったピエールとは正反対でもあるがどちらも相手にある種の嫉妬心がある。)

並んでいる本も、ゾラなどの古典からロマン・ガリーの小説などが見える。

その中に19世紀のバンジャマン・コンスタンの心理小説『アドルフ』も見える。

これにヒントを得て、ヴァンサンは、4ヶ月後に誕生予定の男の子の名前をアドルフに決めた、というジョークをとばす。その前にも、子供のことを聞かれて、今日が超音波検査の日で、いいニュースと悪いニュースがある、好いニュースは男の子だと分かったということで、悪いニュースは、でも死んでいたということだ、と言ってみなにショックを与える。こういう悪い冗談を言って皆の反応を楽しむタイプの男だということでその後の嘘の伏線になっている。

で、「アドルフ」はヒトラーを連想するからとんでもないと皆から言われて、ヒトラーのアドルフはfで終わるけれど自分の子はバンジャマン・コンスタンの小説からとったのでpheなのだと様々な詭弁で意見を変えようとはしない。

もう一人の客もいる。ヴァンサンやバブーの幼友達でラジオ・フランスのトロンボーン奏者であるクロードだ。インテリやビジネスマンであるが音楽家ではない上から目線の他の人々からは、この、トロンボーンという楽器のステイタスが微妙にうつっていることも後から分かる。ヴァイオリニストならきっと尊敬されたかもしれないのだ。

やがてヴァンサンの妻も合流し、この芝居は意外な展開を次々と見せて、結局、皆が衝撃の告白や本音を口にし出して傷つけあう。

私の注意を引いたのはその中に出てくる偏見のディティールだった。

たとえば、クロードはみなから同性愛者だと思われているのだが、その理由は38歳の独身で、音楽家で、マレー地区に住んでいて、キールを飲んで、菜食主義者だという要素を総合してのことだという。

ピエールとバブーの子供たちの名前がクラシックではなくてオリジナルなことも揶揄される。クラシックな名はキリスト教の使徒やカトリックの聖人の名であるわけだが、それに関することや、他の歴史の年代や一般教養なものについても、「教養」のさりげない探り合いがある。

これは、家庭の中の葛藤(バブーは幼いころに母が兄のヴァンサンばかりをかわいがってジェンダー差別をしていたと言うなど)を含むテーマそのものは普遍的なのだけれど、ディティールがフランス的過ぎて、翻訳すれば面白さが全然伝わらないだろうなと思った。

それにしても、フランスのよくできた芝居には、こういう、家庭内や友人間の集まりで、最初は社交的にやっていたのに、偽善の裏表にはりついている嫉妬や自虐が何かのきっかけで炸裂する、というテーマが少なくない。

それを金を払って観に来て大笑いしているフランス人観客(この手の芝居に来る人は、芝居の登場人物とかぶるカテゴリーだ)って、ひょっとして、こういう本音が自分たちのリアルな社交の場にも現れることへの恐怖をこれで解消しているのだろうか。

日本人もよく本音と建前というけれど、フランス人のそれはちょっと違って、自虐と罵倒がセットになって爆発する沸点が日常的にも割と低い。

私は日本で生まれ育ったので、当然ながらフランスの階層間の機微や偏見の度合いが最初は分からなかった。それに、フランスに住むようになったときは最初から、インテリ家庭だけれど伝統的なカトリックの地方出身でパリで日本仏教についての修士論文を書いている女子学生とその家族、パリ大学の講座、パリのエコール・ノルマル・ド・ミュージックのクラス、カトリック修道会の経営する女子学生寮、という環境で暮らした。日本で私のいた環境と大きく違ったわけではない。

インテリ左翼無神論、ノルマリアンの哲学者などとも親しくうちに招き合い、私がカトリックの聖人伝などを研究しているのに驚かれたことはある。「あなたのようなインテリがどうしてまた」などと言われるのだ。しかし本人はイエズス会の中高などを出て実はカトリックの教養がある。でも、彼らは、教会にも絶対に行かないし、フィガロやそれこそフィガロ・マガジンも読まない。このことはむしろ、私にはチャンスだった。

カトリックフォークロアを研究しているのは一部の民俗学者だけで、歴史や社会学をカトリックの視点で見ていくという視点は1968年以来、消え失せていたブルーオーシャンだったからだ。インテリ左派たちが絶対に読もうとはしないカトリック左派雑誌やブルジョワ系雑誌もせっせと読んだ。

その後、ブルジョワの資産家家族とも交流し、代々の貴族家系の家族とも交流したが、最も親密な仲間はやはりトリオの仲間だ。

18世紀の宮廷のバロック音楽をやっているというとどんな保守で懐古派だと思われるかもしれないが、商業主義に巻き込まれない限り、それはリベラルで自由で、普遍主義の最前線であり、トリオの仲間と出会ってからの30 年近くは、建前も本音も超えた自由を目指す生き方を実践している。

私たちのような生き方はもちろんマイノリティだ。

私に関しては、以前にも書いたけれど、インテリ、アーティスト、外国人、しかも女性、と何重にも、「カテゴリー外」なので自由にふるまってもなんとなく許してもらえる便利なポジションを満喫してきた。時々こういう芝居を見ると、こういうステレオタイプの人々と日常的につきあわなくてもいい環境に感謝できる。


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# by mariastella | 2018-01-20 00:05 | 演劇

対日関係新思考

昨年秋にいただいたままの『中央公論』を正月休みになってようやく読み始めた。

10月号にあった論考で、馬立誠の「対日関係新思考」というものの存在を知った。

近頃、どう考えても、最も危うい問題は朝鮮半島にあるのではなくて中国にあるのではないか、米中の新しい「冷戦」時代に入っているのではないだろうか、と考えて深刻な気分だったので、このような考え方が2002年からあったこと、そして中国の若いエリート層から少しずつ認知されているらしいことを知って、救われた気分になった。

ネットで全文読めないかと探したが、かなりの量がこのブログで引用されていることが分かった。

この引用の後には、日本軍と戦ったフィリピンで18歳で戦死した米兵の両親が、保険金で息子の通っていた大学に奨学基金を設立して日本の若者の留学を援助することにしたエピソードが述べられている。奨学生第一号は元特攻隊員で、その後は日米友好のために尽くした。中国はアメリカを社会の現代的管理を進めるモデルにしているのだから、アメリカの日本との関係の処理の例も参考にせよ、という文脈だ。


このブログにはこの記事だけでなく他にもいろいろ有用な情報が紹介されているし、ホームページの方も充実している。少しずつ過去ログを読んでいく。



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# by mariastella | 2018-01-19 00:05 | 雑感

セッション・モーツァルト、天使の音楽

Arteで、セッション・モーツァルトという番組を視聴。
ベルリンの小さなホールで、オーケストラも聴衆もソリストもみな同じ高さで、リラックスしてグラスを傾けながらモーツアァルトへの愛を語る。ソプラノとクラリネット奏者とピアニストが、それぞれのモーツァルト観を披露しながら、じゃあこれは?これは?と次々に弾いていくというのが楽しくて、まるで私のトリオが練習で集まっている時にラモーの話をしているような感じだ。

最後はフィガロの結婚のシュザンヌと伯爵夫人のデュオの伯爵夫人の部分をピアノとクラリネットが弾く。語りとしてのクラリネットというのは、とてもフランスバロックに近いし、モーツァルトが絶対にセンチメンタルでないところを愛でるのもバロック的だ。

で、途中(27:50)で、アイザイア・バーリンの言葉が引かれているのがおもしろかった。

バーリンはロシア出身のユダヤ人でオクスフォード教授となった哲学者だが、

「奏楽の天使たちが神の前で演奏する時はバッハを弾くが、自分たちだけで内輪で演奏する時はモーツアルトを弾く」

と言った、というのだ。

この言葉には実は続きがあって、

「奏楽の天使たちが神の前で演奏する時はバッハを弾くが、自分たちだけで内輪で演奏する時はモーツアルトを弾き、神はドアの外でそれを聴いている」

というのだ。

私たちトリオのイメージでは、神が天使たちを指揮するならラモーだなあ、と思う。
クリエーションって、ほら、こんなに自由で楽しいよ、って。

ともかく、この番組のこんな感じのコンサートってすごく贅沢で楽しそうだ。
自分たちの演奏を言語化できる人たちって素晴らしい。
彼らはモーツァルトと、ピアノ、クラリネット、ソプラノとの出会いを語るが、彼はヴィオラも弾いたはず。ヴィオラとヴァイオリンの協奏交響曲が好きな私としては、今度はヴィオラ奏者とヴァイオリニストが語り合いながらのヴァージョンも聴いてみたい。


(2/13まで視聴できるので貼り付けておきます。)



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# by mariastella | 2018-01-18 03:18 | 音楽

ゲンラのお葬式

ペール・ラシェーズの葬儀から帰ってきたところ。
すぐに載せたかったので、今日のブログは予約投稿せずにあけておいた。

うちを出る前に、バッハの無伴奏五番のサラバンドを弾いた。人生には絶対にバッハ、という局面があるんだなあ。
絶対にハ短調というのも。
最後の上昇アルペジオで少し天に心が行くが、サラバンド後半のレのフラットなど、もう「ずしん」というほかない。バッハに珍しく、暗い底に沈められる。

ラモーはどうなんだ、と言われるかもしれないが、ラモーを誰かそばで弾いてくれるなら、もちろん癒される。
でも、こういう気分の時に自分で弾くにはハードルが高いのだ。
そして、生の音が必要だ。
昔はショパンの葬送行進曲の中間部を弾いて癒されていたが、今日は、バッハ、だった。

で、ペール・ラシェーズ。今日は雨風が強いという天気予報だったのに、火葬場についたら青空。
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さすが、ゲンラ。

ここは上が百席の無宗派セレモニー堂になっている。でもやはりフランスだから、カトリックの聖堂風のスタイルでステンドグラスなどがある。
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私は祭壇に向かって右の前列家族席の四番目に座る。後ろはフランス人を中心にゲンラの教えを受けた人や、チベット仏教コミュニティに出入りしている人たち。
向かって左はスイスのチベット寺院からこの葬儀のためにやってきた20人ばかりの僧侶たちで、師に捧げるお経というのをずっと唱えていたが、リズミカル。

その僧侶たちの後ろに、パリのチベット人コミュニティが全部来たんじゃないかと思うくらいたくさんのチベット人が座り、座れない人たちは後ろにぎっしりと立っていた。

リンポチェが延々とゲンラがいかに偉大な僧であったかを語る。

「お別れ」は、棺の上にカタという白い布や、オレンジや刺繍の入った黄色い布などを一人ずつが広げて重ねる。その後で棺に額をつける。
リンポチェは棺の前で五体投地をしていた。

葬儀が終わった後、帰り支度をする僧侶たちの向こうにステンドグラスが見える。
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これが祭壇。
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お供えのお花を分けてもらったので、うちにも祭壇を作ってみる。
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後ろの扇は般若心経。ゲンラが私の父と一緒に唱え、父の亡くなった後にも唱えてくれた。小さな文殊菩薩は高野山で買ったもの。

1959年にダライ・ラマと同時にチベットから脱出したゲンラの一生は、チベットの生き歴史だ。

私が彼の言葉を最初に紹介したのは、『ノストラダムスの生涯』のp256あたりで、予言や占いについてどう思うかという質問に明快な答えをもらった。
『パリのマリア』に出てくる超能力の話のチベットの空中浮揚も彼に聞いた話をもとにしている。
(このブログ内では、ここここなどに出てくる。)

ゲンラがフランスの若者に講義をする時、質問への答え方がすばらしかった。

インドの僧院でフランス人の若い女性が40年前にはじめて彼に仏教を講義してもらった時、実はゲンラにとっては西洋人の弟子は初めてだった。
けれども実にわかりやすく、相手に合わせて教えてくれたという。
その時は、そういうものなんだと思っていた弟子は、後に、ゲンラがいかに「相手を見て教えを伝える」天才だったかを理解する。

日本の若者も今はほとんどフランスの若者と同じくらい仏教に無知だろうが、仏教的教養が一応ベースにあると思われている日本ではなかなかすなおに質問できない。
ゲンラの講義での質疑応答がすばらしいので、ぜひ日本語に訳して日本の若者に知ってもらおうと思って企画をもちかけたことがある。
その時は、編集の方に、それよりも私の言葉で解説してほしい、と言われて、そのままになった。

時は過ぎ、今の時代には、ネットでも発信できる。ツォンカパの『菩提道次第論』講義だ。彼の講義録を訳していつか発信してみたい。

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# by mariastella | 2018-01-17 03:36

構造的否認と陰謀論

前に『陰謀論にダマされるな』(ベスト新書)という本を書いたことがある。


そこで、終末論は陰謀論のヴァリエーションだと書いた。


陰謀論に関するスタンスはその後も変わっていないのだが、1/3の『シャルリ―・エブド』の記念号にあった「否認のメカニズム」という記事を読んで、なるほどと思ったことがある。

「地震や津波やテロの危険があるとはいっても、今日明日ではないだろう」などというものから、

「そんな恐ろしい話や極端な話はでっち上げだろう」という歴史修正主義や、

「地球温暖化などはフェイクだ、実際寒波は毎年ひどくなっているじゃないか」、とか、

「ひどい話だけれど実はどこにでもあるもので騒ぐほどのことではない」、

という類のものまで、私たちが、事実や現象や統計を正面から見ることを避けて、ネガティヴなものを矮小化したり否認したりするという心理学的なメカニズムは、生存に必要な構造的な心理メカニズムだというのだ。


今の時代に天動説を唱えたり宗教原理主義がダーウィンの進化論を否定したりするというような現象もそうで、これらは、人間の「知」のシステムの中に構造的、根本的に組み込まれている「無知」だという。


どんな正論や自明の事実にも疑いを持ってひたすら相対化することで思考停止、先送りするというのもある。


これを読んでいて、この「否認のメカニズム」とは、まさに、陰謀論や終末論を信じたくなる心理のメカニズムと裏表をなしているのだと思った。

いくら表面的に安全に見えても、実は誰かの陰謀が進んでいて、あなたは、この世界は、欺かれている、破壊される、乗っ取られる、というネガティヴな言説に人は惹かれる。

安心のために無意識に相対化するのとは正反対に、ネガティヴな危機をわざわざ掘り起こして絶対化するのだ。

否認が人間の「知」のシステムに組み込まれた構造的無知なのだとしたら、陰謀論的心性は、その構造的無知と表裏一体をなしているのだろう。

さらなるバランス感覚を必要とする新しい視点を与えられた。


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# by mariastella | 2018-01-16 00:05 | 陰謀論と終末論

カルメン、セリーヌ、ドラクロワ

ビゼーのオペラ『カルメン』のフィレンツェでの新演出が話題になっている。
ラストシーンが、カルメンが殺される前に銃をとってホセ撃ち殺すことで終わる。

このビデオの1:15あたりからがそのラストシーンだ。
ハリウッドのスキャンダル以来のフェミニズム全体主義だと批判する人もいる。

ヒロインは、このカルメンの正当防衛は自由を求める彼女の生き方の当然の帰結だと言っている。

これについてあまりコメントするつもりはない。
ただ、この世界で一番多く上演されていると言われるオペラのストーリーと結末と音楽は一体化しているので、これまでの演出は十分正当化されると思う。
これを見て、自由に生きると殺されるんだなあ、おとなしくしていよう、なんて思う女性の観客はいないし、いざとなったら女を殺すという手もあるな、などと思う男もいないだろう。全員が芸術的なカタルシスを得られて、拍手喝采して幸せな気分で家路をたどる。悲劇的な結末に共感したからではない。
ストーリーと、それが音楽と共にもたらす効果は、リアルなレベルとは別のところにある。このラストでカルメンがホセを殺してしまうのでは、芸術の緩慢な自殺に似ている。プロスペル・メリメの原作小説がある、ということも看過できない。

フランスではこのほか、これまで封印されてきたセリーヌのユダヤ主義パンフレットをガリマールが出版するということについても喧々諤々の議論が起こっている。ヒトラーの『我が闘争』の問題にも似ていて、すでにネットでは読めるし、カナダでは出版もされている、ということで、野放しにするよりも、ちゃんと解説をつけて出版した方がいい、という人と、『夜の果てへの旅』の名作家の全貌を知ることと政治的検閲は別だという人とに分かれる。

これら全部をピューリタンの原理主義で、表現の自由や芸術を弾圧するものだとして批判する人もいる。

女性を殺すというのを検閲しなくてはならないなら、ドラクロワの『サルダナパールの死』も不都合だから隠さなくてはならないだろう、と揶揄する人もいる。

どういうテーマがどういう歴史的、芸術的な文脈で描かれたのかを無視して論ずることはできない。

暴力表現が暴力を誘発するとは限らないし、まったく逆の非暴力のキャンペーンに使うこともできるだろう。
イエスの磔刑図だの夥しい殉教者図なども、見方によれば子供の情操教育にとても悪そうだ。

最近知り合いがヴァーチャル美術館のサイトを始めた。まだまだ続くが、今見られるだけでも、神話や黙示録や文学作品やらいろいろ解説(英語とフランス語)されていてよく分かる。人間性を知る手段として絵画表現があってほんとうによかった、と思う。





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# by mariastella | 2018-01-15 00:05 | 雑感

想像力

昨年のクリスマスに寄せたフランスのプロテスタントの言葉に、

イエスの誕生譚(ノエル=クリスマス)とは、

何かおかしな妊娠、

恥辱を克服した夫、

旅先の馬小屋での出産、

貧しい羊飼いたちが最初に知らされる主の誕生、

博士たちが貧しい赤ん坊の前に跪く、

権力者による幼児殺害命令、

着のみ着のままでの家族の逃避行、

etc...

そう、これは今の私たちの生きる世界だ、

と書いてあった。


パリのユダヤ教の大ラビはこう言っていた。


2015年のシャルリーエブド襲撃に続いたユダヤ人スーパーの人質事件を振り返り、あの時、人々が、「私はシャルリー」というように「私はユダヤ人」と言って共感を示してくれたのは感謝している、でも、その年の11月の多発テロで、パリのカフェやコンサートホールで不特定多数が犠牲になった時に初めて、人々は、ユダヤ人でなくてもみなが標的になるということを理解した。


他者への「同情」や「連帯」と「当事者」意識との違い、はどう埋められるのか。

そして、誰もが真に当事者になるためには、みながアトランダムに犠牲者になるかもしれないという脅威が必要なのだろうか。


地震の起きないパリに住んで日本やハイチの地震に同情する、

原発施設のない地域に住んで反原発を口にしたり、原発の必要性を説いたりする、

米軍基地のない場所に住んで沖縄の人に同情したり我慢しろと言ったりする。


本当は、この地球の誰の身に起こる脅威でも、すべての人にふりかかる脅威なのだ。


さまざまな国や民族や人々がばらばらで敵対しているように見え、環境は破壊され地震や洪水などの自然災害も絶えないように見えるけれど、主義信条の対立する人も脅威となる自然も、実は根っことなる命でつながっている。

めぐる月日も、夜空の星も、どんな人もおなじように吸っている空気も、何一つとして誰かが力によって奪ったり獲得したりしたものではなく、私たちに平等に与えられたものだ。


私たちはそのことに納得もできるし、思い描くこともできる。

すべての人が共有する脅威という形ではなく、すべての人が共有する感謝や希望という方向に想像力を広げよう。



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# by mariastella | 2018-01-14 00:05 | 雑感

新年の事始め

今、今年初めのカルテットの練習から帰ってきたところだ。

今週は月曜日にクラシック・バレエ、火曜日にコンセルヴァトワールでのトリオの練習、水曜日に生徒たちが来て最初のレッスン、木曜にバロック・バレエの最初のレッスン、と続いて、今、コンセルヴァトワールで弦楽カルテットに行ってきたところ。

今日から始めた新曲はテレマンのドン・キホーテ組曲。
弦楽協奏曲だけれどそれをカルテット用に編曲したもの。悪くない。
今日は序曲と、風車に突撃するドン・キホーテの部分を演奏した。

実は最初にモーツアルトとトルレリをさらった時はあまり気分がのらなかった。
でも、このドン・キホーテで、一気に正月、というか、新年のスタートという気分になれた。音楽療法って本当にあるなあ、と今さらながら思う。

ピアノの生徒の1人(思春期の若者専門の心理療法家)と、バロック・バレエの仲間と、例のme tooの話をした。

フランス人的にまず驚くのは(日本人も同じかもしれないけれど…)、あんなに強そうに見えるアメリカの女優達とかが、今になってセクハラを告発し始めたことだ。セクハラという言葉はポリコレ(ポリティカリーコレクトネス)と同じでアメリカ発であり、ピューリタンのアメリカはいろいろ厳しいし、女性も好戦的で黙っていない、というイメージがあった。「自由の国アメリカ」というイメージはフランスにも一応浸透していたのだ。アメリカの二枚舌、ダブルスタンダードというのも、「フランスの常識」の一つではあったけれど、女性差別や人種差別がいまだに深刻な「今日的問題」というのには軽くショックを受ける人が多い。

それでも、ル・モンド紙のフランス女優らの声明の文面が、突っ込みどころが多すぎたのは残念だった。何につけてもよく言われるのだけれど、新たな法律を作らなくても、現行法できっちりと対応できるはずなのに死文化しているものが多すぎる。

確かに、セクハラなど性的な分野においては線引きは難しい。
日本における痴漢冤罪というのはすごいなあ、これでは確かに、男性は大変だろうといつも思っていた。それでなくとも、性関係において確かに合意していたはずの女性が、復讐など何らかの理由で相手を陥れようと思えば、「合意がなかった」と言えば認められる可能性があるのならこわい。

だからいろいろ考えていくとやはり一般論では言えない。
アングロサクソン型の犠牲者主義、加害者と被害者の二元論というのも不毛で、全体主義や原理主義に流れる危険性もあるのだけれど、
フランス風ギャラントリーの文化も、確かに差別の裏返しという側面もある。

私に対して「日本人はスーペリアな民族だ」というお世辞を言うフランス人がいる。
それはすぐに不愉快なものではない。

でも、そういう言い方は、

「自分は民族をランク付けする立場である」
「日本人より劣る民族がいる」

という含意がある、と言われてもしょうがない言い方だ。

同様に、たとえ、お元気ですね、お若いですね、おきれいですね、などという、耳に心地よいお世辞だって、「元気で若くてきれい」なのがよくて、「病気だとか年寄りだとか障害がある」のが悪い、という含意があるだろう、と言われると何も言えなくなる。

すべての言葉も動作も、その意味は、時と場合と相手との関係によってはじめて決まる、としか言いようがない。
けれども、その中でも、それが、弱い立場にある人を傷つけるような「力」として働くものはしっかりと分別して正していかなくてはならない、ということなのだろう。

(今日の予約投稿にリンクしておいたチベットの高僧の葬儀だが、やはり参加することにした。彼と家族的な関係を築いてきた一人として、彼を看取った人の哀しみに寄り添うことは必要だと思ったからだ。そのうちレポートします。)



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# by mariastella | 2018-01-13 02:12 | 雑感

チベット高僧の死

先日の記事で触れた、チベットの高僧が、年明けに亡くなった。
そのことで考えたことを別のブログで記事にしたので、関心のある方はどうぞ。



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# by mariastella | 2018-01-13 00:05 | 雑感

カリマさんの『シャルリー・エブド紙』インタビュー

(これは前の記事の続きです。)

カリマさんは、アングロサクソン風「共同体主義の国」で、女性のイスラムスカーフが「あれはあの共同体の文化、伝統だから」として放置されることにショックを受けている。


女性差別のシンボルなのに、自分たちの多様性容認、寛容のシンボルにされているからだ。

トランプ大統領の反イスラム的政策に抗議するアメリカでのデモで、イスラムスカーフをつけた女性たちがシンボルとして行進した。

これは明らかに間違っているのに、これを批判したら「アンチ・イスラム」だと逆に批判される。(このことは、体を隠す水着モノキニ論争の時にフランスでも問題になった。)

フランスでは、普通のムスリムは穏健派で、過激派と混同するな、伝統に従って自分たちの文化を守って普通に暮らしているだけだ、というアメリカ型の左派知識人が増えてきた。

で、これについてのカリマさんへの質問と答え。

>>>

Q.「穏健なイスラミスト」というのはどうですか? 穏健であれば宗教に基づいた政治体制もあり得ると思いますか?

A. 私にとっては、否、です。

私の父は、過激派とずっと戦ってきました。その前はアルジェリアにおけるフランスの植民地主義と戦ってきました。彼は私に、政治的に考えると、穏健派イスラミストは、イスラム過激派よりももっと危険なくらいだ、と言っていました。なぜなら、「穏健」であるなら受け入れることができると人々が考えてしまうので、穏健派こそ、宗教支配のプロジェクトを進めることが可能になるからです。

テロリズムとそれを促すイデオロギーに関係があることを絶対に見逃してはなりません。残念なことに、宗教支配(宗教法の権力的適用)という考えは、今やかなり普通のことのように見え始めてきています。キリスト教原理主義の言葉がどんどん激しいものになっているアメリカでその傾向があります。自分自身は原理主義者ではない多くの人も、それが有効で大衆に受けるということでそういう言説を使っているのです。そういう人たちこそが、本当の過激派に門戸を開いているのです。

そしていったん開いたその扉を閉じるのはとても難しいのです。


<<<

結局、何が悪いかというと、すべての宗教の、「時の権威者が宗教の名によって自由を規制すること」なのだ。


世界の大宗教はみな根本的には「人間の共存」に合致するメッセージを含んでいるのだけれど、それを「適用」する側がどうにでも曲解できることが問題だ。

モーセの「十戒」の「殺すなかれ」だって、人間が互いに殺すことをしっかり禁じているサバイバルの基本なのに、

「正当防衛ならOK」とか

「神や神の代理人を冒涜するような者は抹殺すべし」とか

「国家や権力組織が合法的に所有する暴力装置によるならば戦争も死刑もOK

のように、実用レベルではもう改変されまくっている。


「解釈改憲」みたいなものだ。


まあさすがに、


「十戒」は神から授けられたもので民衆の意志でないから変えようとか、

現実に即していないから、変えよう、などとは言われないけれど。

この他にもいろいろあるのだが、旧植民地イスラム圏からの移民を多く抱えるフランスの非共同体主義的(すなわち普遍主義的)統合政策をずっと観察してきた非キリスト教文化圏出身の私にとっては実に興味深いコメントがいろいろあった。

その他にもこの『シャルリー・エブド紙』の記念号は考えさせられる記事が満載だった。
犠牲者の死は決して無駄になっていない。

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# by mariastella | 2018-01-12 00:05 | フランス

カトリーヌ・ドヌーヴらによる#MeeTooへの批判声明

今忙しいので、このブログはほとんど予約投稿で入れているので、何かを読んだり観たりした後の感想などがアップされるのがラグがあります。でも、1/10付のル・モンド紙にカトリーヌ・ドヌーヴなど100 名の女性が出した#MeeTooへの批判とそれについてすぐに湧きおこった論争のことを、挿入します。

要するに、女性を一方的に犠牲者にするこういう形の告発の蔓延はピューリタンの国の思考様式で、フランスでは、男性が女性に対してギャラントリーを表現する権利がある、というものです。


何かを強制したり、合意なく女性を触ったりするのは論外で別のことですが、言葉で気を引いたりするのは犯罪ではない、むしろ伝統 ?ということで、アングロサクソンフェミニズムとフレンチフェミニズムの差がはっきりでています。


で、あらためて日本での告発をネットで読むと、当然ながら、ネガティヴなものばかり。性的なニュアンスで、女性を貶める、というのがトラウマになっています。それに比べると、確かに、フランス男が女性に気軽に声をかけるとか、ハラスメントをする時は、たとえ「しつこい」ことがあっても、内容自体はポジティヴなものがほとんどです。嫌がらせとお世辞(たとえ煩わしい不快なものでも)には本質的な差があります。(日本での例を読んでショックでした。)


要するに、女神や聖母を崇めるような下から目線というのが伝統的なベースです。

もちろん、それを女性の方が不快なハラスメントだと受けとることはありますが、「相手の見た目」によることも大きい。早い話、どんなに崇められても、自分の嫌いなタイプの男だったり、見た目が警戒心を誘うような男だったりするとアウトです。で、権力があるとか、金があるとか、結婚もしているし遊ぶ女性にも不自由していなそうに見える男から下から目線でお世辞を言いまくられる場合には、警戒心が刺激されずセーフということもありそうです。

ドヌーヴなどこういう声明を出せるような女性たちは所詮女性の中でも強い立場にある少数者なのだという切り捨て方をされるかもしれません。

前にも猫のことでセクハラおじさんの心理を書いたことがありますが、私もうちの猫がぐっすり寝ているのに、かわいいあまり、あちこち触ってハラスメントすることがよくあります。でもそこに、「下心」というのは、もちろん性的なものも含めて1ミリもない。

そして猫飼いなら分かると思いますが、どんなにハラスメントしても、下から目線でお仕えしています。やり過ぎて引っかかれても、もちろんこちらが悪いのでこれから気をつけよう、と思うだけです。崇める気持ちは変わりません。猫からはますますさげすまれることもありますし、しつこいと顔を見ただけで逃げられたりもするので、こちらも学習します。

フレンチ・フェミニズムのスタンスの人たちが擁護するのはこういう関係なのだと思います。

それを可能にするのは、女性の側も「大人の女」である必要があるのかもしれません。

それだけではなく、それぞれのシチュエーションにおいて文化だけではなくいろいろな要素が複合しているので、アウトかセーフかというだけで割り切れる問題ではないことは自明です。

ともかく、相手に対して「強い立場」にある者がその強さを武器にして弱い者をいじめたり支配しようとしたりするのは論外で、そういう者を告発できる流れは歓迎です。

でも、それで、男はみんな敵、女は犠牲者という二元論的アングロサクソン型フェミニズムがますます広がるのには要注意です。


相対的に強い立場にあって、その強さを相対的に弱い者を支えるためにだけ使う人は必ず一定数存在します。そうでないと人間はとっくに淘汰されています。自分を犠牲にしても赤ん坊や子供を守る人たちがいるからこそ生きのびているのですから。

そして、多くの社会では、相対的に男の方が有利でマジョリティで、平均すると女性より体が大きくて身体能力が女よりすぐれているので、その中で、自分を犠牲にしても女性を守るという生き方をする人の絶対数は看過できないはずです。

それをなんとなく男全部を糾弾するような論調では、本当のリスペクトできる関係、性別とは別の差別の構造(民族とか宗教とか年齢とか心身の障害とか)を互いに協力して壊していく関係が築けない、というのは事実です。


フェミニズムとフリーメイスン、この2つは、アングロサクソン型とフランス型がまったく別の方向を向いている典型です。グローバリゼーションという名でアングロサクソン型が席巻しているのは事実ですが、これからもフランス型を支持していきたいと思います。

その方が絶対に次の世代のために大切なことだと、日本人としても、女性としても、高齢者としても実感します。


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# by mariastella | 2018-01-11 00:05 | フェミニズム

Karima Bennouneカリマ・ベヌーヌ(ベノウネ)

カリフォルニアのDavis大学国際法教授のカリマ・ベヌーヌさん(アルジェリア出身)はイスラム圏の国々を訊ねてイスラム法の原理主義的適用に対抗してレジスタンスやアンチ・テロリズム活動を行っている人々へのインタビューをもとにしたベストセラー本『Your Fatwa Does Not Apply Here』を書いた。

特に英語圏の人々に、イスラム圏の国々にある草の根の人権活動や反過激派の実態を知らせたかったからだ。

彼女はもちろんフランス語も自由に話せる。アルジェリアで人類学教授であるきょうだいからステレオタイプから脱する力になる証言の引き出し方を学んだと言っている(父親も生物学教授だったというから知識人一家である)。

フランス語のインタビューを見つけた。フランス語OKの人は必見。

その中で、アフガニスタンでも女性の人権擁護をするイマムに出会ったことも話している。「もし兄弟や夫が姉妹や妻を尊重しないならばイスラムを尊重しないことになる」というイスラムの中の言葉を根拠にしている。宗教を人間が勝手に解釈していることで宗教のエッセンスを破壊することをイマムも心配しているのだ。

このカリマさん、すてき。私の好み。

日本語で何かないかと検索したらひとつだけあった。

英語のスピーチの右に日本語の訳がついている。

これはいい。日本語の訳だけ読んでも大切なことが十分伝わると思う。

一応フランス語版も貼り付けておく。


実は、この彼女が、先日の『シャルリー・エブド』でもインタビューを受けて語っていたのだが、全面的に納得させられた。(続く)


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# by mariastella | 2018-01-10 00:05 | 雑感

フランス・ギャルとシャルル・アズナブール

フランス・ギャルが亡くなった1/7の夜のニュースの特別ゲストは、全国ツアーコンサートを控えた93歳のシャルル・アズナブールだった。二人はなんと一度だけデュエットで歌っている。フランス・ギャルの父のロベール・ギャルが作詞したマンマというのに曲をつけてくれる人が誰もいなかったところにアズナブールが引き受けて曲をつけてくれたのだ。


ユーロヴィジョンでグランプリ曲になり彼女を日本でも有名にした『夢見るシャンソン人形』は、ゲーンズブールが作曲していたのだということに今さら気づいた。そういえばゲーンズブールっぽい。フランス人には珍しく童顔で声も甘く、でも、エネルギッシュでリズム感がとびぬけてよかった。ジョニーは「神」と形容されていたが、彼女のキャッチ・フレーズは「フランス人の妹」だ。

フランス・ギャルは、おしどり夫婦だったミッシェル・ベルジェ(『夢見るシャンソン人形』を憎悪していたらしい : 付記あり )が1992年に44歳で急死し、ストレスからか自分も乳がんを患い、その後97年に娘に先立たれて、がんも再発、活動を減らしていた。でも2015年に夫の曲をアレンジしたミュージカルを発表して話題になったのを覚えている。生き生きしていた。セネガルやマリの子供たちの教育の支援に熱心で、アフリカに別荘も持っていたという。享年70歳で、がんの再発で年末から入院していたそうだ。


それに引き換え、アズナブールはぴしっと背筋を伸ばし、おしゃれで若々しく、今でも毎日一曲は曲を作るという。次の日にボツにすることがほとんどだが、今までに1400曲を生んだ。映画にも90本出演している。敬愛する歌手は、レオ・フェレ、シャルル・トレネ、モーリス・シュヴァリエの三人。

就寝前の二時間を読書と勉強(今は中国語の勉強)に当てているという。アルメニア移民の子であり多文化に通じていることの豊かさを強調する。

ピアフのもとからデビューした頃から、「背が低くて醜男で悪声で、将来はなかろう」と揶揄され続けてきたそうだ。しかも歌詞がみんな暗くて陰気だとも言われ続けてきた。

でも、93歳で現役。日本や中国でのコンサートも予定されている。

高齢での活躍の秘訣は、と聞かれて、「とにかく働くこと、学ぶこと」と答えていた。

子供、孫、ひ孫らに囲まれた大家長として君臨する昔一度TVで見たことがある。

家族みんなに尊敬されていた。

健康もやる気も含めて一種の天才なんだなあ、と思う。


付記) フランス・ギャルの夫がなぜこの曲を憎悪していたかというと、歌詞の持つ二重の意味のせいだそうだ。

原曲は、「シャンソン人形」というのではなく「蝋と糠でできた人形」、つまり、頭が蝋で、体の部分がおが屑などで詰め物をした布製という18世紀テイストの、でもこの文脈では安物の人形という感じだ。

フランスの女性歌手が、ロリータ扱いをされたのは、72年生まれのヴァネッサ・パラディのように実際14歳で舌足らずの声でデビューしてヒットした人の例もあるが、バネッサは「人形」ではなく、ジーンズで舞台に立っていたし、どちらかというとアンドロギュノス、中性的なイメージだった。

一方、フランス・ギャルがこれを歌ってヒットした時は1965年で、フランスの「建前」を壊した1968年五月革命の前である。

自分で抗議の声を上げられない時代、それを意識化できない時代に、イタリア語や日本語でまで歌わされた。歌唱力も表現力もある歌手なのに、「ブロンドの人形」としてまさにアイドル(偶像)として玩味されたのだ。

日本人にとっては、シャンソンというとエディット・ピアフなどの「大人の歌」を連想している時代だったから、「手の届くかわいい子」のシャンソン歌手がフランスから来て日本語で歌ってくれるなんて珍しくて楽しかっただろう。

日本語の歌詞もロリータ的であるがフランス語ほどの含意は見られない。

で、フランス・ギャルは、そのような立場から脱し、ミッシェル・ベルジェと出会い、自分の意思を表現する大人の女、歌手、プロデューサー、人道活動家になった。

それにくらべて日本はどうだろう。言いたくはないが、未成年の少女たちにコスプレをさせて、脚をださせ、聴きたい歌詞を歌わせて躍らせ続けている。一人一人の主張や個性は問われず、品評会のようなことをしていて、しかも、それに憧れたり、それを勧める親たちがいる。

1965年のフランス・ギャルは、今のフランスの歌謡界には存在の余地がない。

どうして日本のサブカル・シーンからロリコン風味が消えるどころか濃縮になっていくんだろう。


私は『夢見るシャンソン人形』が好きだった。

それは、当時弾いていたベートーヴェンのピアノ・ソナタの第一番の第四楽章のプレスティシモのテーマの一つと重なったからだ。シャンソンの出だしの部分がはっきり聞こえる。

で、今回、あらためて、この曲についてネットで調べてみたら、その相似についてちゃんと書いてあったので驚いた。ゲーンズブールはよくクラシックの曲からインスピレーションを得ていたらしい。

なつかしくなって、すぐに久しぶりにベートーヴェンのソナタアルバムを出してきてピアノに向かった。確かに何度も出てくるし、ラストにも繰り返される。

(今はネットでも聴けるとおもうので興味のある方は確認してください。)



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# by mariastella | 2018-01-09 00:05 | 音楽

シャルリー・エブド襲撃事件から3年

201817日は、2015年のパリのシャルリー・エブド編集部の襲撃事件からちょうど丸3年経った日だ。13日のシャルリー・エブド紙を見て、愕然とした。

あの事件の後、各界からの寄付で、経営難だったシャルリー・エブド紙は大黒字となり、世界的に有名となった。セキュリティも万全となった。前と同じように、いや、さらに過激なカリカチュアを掲載しても、後ろ指をさされるどころか、「表現の自由」の英雄のような扱いを受けてきた。

けれども、彼らには「普通の生活」をする自由は失われていた。

四六時中武装警官に鉄壁ガードされる檻のような編集部で働き、どこに取材に行くにも、警察やガードマンに囲まれるようになったのだ。

完全武装警護。

これでは確かに、テロリストのつけ入る隙はなく、ジャーナリストもカリカチュア作家も心静かに、安心して平和裏に自由な表現行為を満喫できる…のか?

「抑止力」という言葉を思い出す。

核の均衡による平和。

大国による核の所有は正義。

国家警察という正当な暴力装置による防衛装備は正義。

「正当を守る」のが正義。

「守る」という名の暴力によって担保される自由。

以下は1/3の『シャルリー・エブド紙』からいくつか。


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完全警護壁の向こうの「平和」


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安全に自由を楽しむならば、正当な暴力の重荷に耐えなくてはいけない。


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「テロリスト」を撃つため正義の弾なら先に「自由」が打ち抜かれても感謝しなくては。


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# by mariastella | 2018-01-08 00:05 | フランス

絶対平和主義という覚悟

先日、ウーマン村本という人のテレビ(『朝生』)での発言がリテラに載っていたのを読んだ。


日本が武装解除したからといってどこの国がすぐに侵略してくるんですか、という疑問はすごく分かる。こういう感じだったらしい。

>>>

井上「ちょっと質問していいですか。村本さんはじゃあね、非武装中立ね、それは本当に一番筋が通ってるけど、私は間違った理想だと思いますが、ただ多くの人は本当に非武装中立が何を意味するか理解しないで言っているわけね。じゃあ、攻撃されたらどうしますか?」
村本「なぜ攻撃されるんですか」
井上「いや、それを言ってんの。侵略されたら、いや、侵略されないに越したことはない。じゃあ、もし侵略されたらどうするんですか。白旗を挙げて降参なの?」
村本「僕はそっちかなと思います」
井上「そしたら侵略者に対して侵略のインセンティブを与えちゃうよね。それでいいの?」
村本「なぜ侵略される、意味が分からないんですよ」
落合陽一「だって知らない人に通り魔で刺されたりするでしょ?」
村本「だからなぜ中国や北朝鮮が日本を侵略するという発想になるのか、私は分からない」

<<<

で、その後、

>>>

田原「ちょっとまって。具体的に言うと、もしも日本が米軍と自衛隊がいなかったら、尖閣は中国が取るよ」
村本「分かりました。じゃあ僕は逃げずに答えますけども、僕は、僕の意見はですよ……」
田原「取られてもいいわけね?」
村本「僕は取られてもいいです。僕は明け渡します。僕はですよ。うん」
落合「なんで?」
村本「だって、だってもし皆さんの身内に、自衛隊とか軍隊がいて、その身内が人を殺して国を守ることって……」
井上「じゃあ自分の身内が殺されるってときに、敵を殺さないと自分が殺される状況に置かれたらどうするの?」
村本「じゃあ、殺されます」
落合「なんで?」
村本「だって誰かを殺すわけでしょ?」
井上「いや、そうことを言う人は多いの、ね? で、僕はそれはほとんど欺瞞的で……」
村本「僕の考えは僕の考えでいいでしょう!」

<<<


とあり、この村本さんはネットでしっかり「袋叩き」にあったのだそうだ。

この村本さんの言葉を聞いて、沖縄に住む方から少し前にいただいたメールに書いてあった言葉をすぐに思い出した。

「基地問題
勿論要らない! 中国や北朝鮮の脅威を持ち出し、辺野古必然を言う方々多いですが、基地がない為に 日本国がやられるなら潔く受け止めたらよし。」

というものだ。実はこの言葉は私にとってすごく衝撃的だった。

私は、911の後に緊急出版した『テロリズムの彼方に、我らを導くものは何か』という本の中で、自分の平和主義者としての立ち位置を決めた。

自分に直接の脅威が迫っているわけではない時に決めておかないと、実際の危機を煽られるたりすると、理性など吹っ飛んでどう行動するか分からない、と思ったからだ。この本と、『アメリカに「NO」と言える国』で考察したフランス型ユニヴァーサリズムと、無抵抗で殺されたナザレのイエスの絶対平和主義を忘れたくないからだった。

でも、いくら心で思っていても、実際に、一応平和で豊かで自由な国で、平和で豊かで自由に暮らしている結構な身分で、「たとえ殺されても殺す側にはなりたくない」などと口にする勇気などない。

村上さんが、「そうことを言う人は多いの、ね? で、僕はそれはほとんど欺瞞的で……」と言われてしまったように、偽善的、欺瞞的、理想主義のお花畑などと言われるだろうと自分で先回りしてしまう。

こんなことはなかなか言えないだろうと思っていた。

例えていえば、広島の被爆者の方が、「核の傘に入らないとまた攻撃されるというならそれでもよし」と言っているような衝撃だ。

でも、南北朝鮮が話し合いに入り、ひょっとしたら戦争状態が終結するかもしれない、という状況が垣間見えてきた今、村本さんの言っていることの方が正しかった、と言われる日がいつか来るかもしれない、とかすかな光がかすめていった。


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# by mariastella | 2018-01-07 00:05 | 雑感

戌年に捧げる

日本風の正月3日は終わったけれど、ヴァティカンのある枢機卿が飼っていた犬の話を最近読んで、犬のことを書きたくなった。


ヴァティカンには猫は勝手に出入りしているけれど、ちゃんと登録されていた犬はその犬だけで、具合が悪くなったときは、ベネディクト16世が、犬の傍についていてやれるようにと枢機卿に休みをくれ、犬が死んだときは、動物のための天国があると思う、と言ってくれたという。(職員たちの飼い犬はリードをつけて散歩させていたが、この犬だけはフリーで散歩が許可されていたのだそうだ。)

枢機卿が朝つける服によって、一緒についていけるのかどうか、帰りはいつなのかなどすべて把握していて、枢機卿の危機を救った感動的なエピソードもある。

今年は戌年で、うちには何しろ猫グッズばかりなので、犬の絵やグッズは少なく、それでも少し飾った。

でも、このヴァティカンの犬と枢機卿の熱愛ストーリーを読んで、自分の犬のことを思い出した。やっぱり、犬への愛って、犬一般ではなくて、特別な関係性、絆なのだと思う。

アイパッドミニで写真をとるようになってうちの猫たちの写真は飛躍的に増えたけれど、半世紀前の私の愛犬の写真など、手元にないし、そもそもペットの写真を撮る、という習慣などない時代だった。

で、当時、私はデッサンすることを思いついた。その頃人気だったスピッツで、デッサンしやすいように、動かないように玄関のたたきに閉じ込めた。

すると外へ出たくてドアの方ばかり向いているので後ろ姿ばかり。

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その後であきらめてねそべってしまった。でも相変わらず外の方ばかり見ている。
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無理やりこちらに向ける。

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もちろん協力的ではないけれど、出してくれと騒ぐこともない。


半世紀前以上前のデッサンだけれど、手元で見られる愛犬の思い出はこれだけなので、フランスにもちゃんと持ってきて、スケッチ帳は本棚にちゃんとおいてある。

無条件の愛、とか見返りを期待しない忠実、とかがこの世に存在することを教えてもらった。

でもそれを享受するには基本的に一対一の関係である必要がある。


物心ついたときから犬がいたが、私は家族の末っ子だったので、いつもヒエラルキー最下位で、犬からまったくリスペクトされていなかった。

11歳の時にバレエ教室の友達の家のスピッツが生んだ子犬をもらったのが「私の犬」との出会いだったのだ。

「私の犬」の名前はチロだった。墓標もデザインした。


この戌年に愛犬への感謝を捧げます
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# by mariastella | 2018-01-06 00:05 | 雑感

2018年のスティーブン・ピンカー

前にスティーブン・ピンカーについての記事を書いたことがある。

これこれ


そのピンカーが、2月にアメリカで『Enlightment Now』という新刊が発売予定ということで雑誌のインタビューに答えていたのを読んだ。


20世紀末以来の流行である歴史観に、人間の理性偏重と近代化が2度の大戦、ホロコースト、全体主義をもたらし、今は環境破壊と人類滅亡の危機を招いている、というものがあるが、自分は、あらゆる分野において今の世界は過去最良であると断言する、


と、相変わらず説得力のある言葉だ。

女性や子供の産褥死、夭折、虐待、奴隷労働、餓死などは劇的に減り、戦争や暴力も後退した、と。


その理由として、ヒューマニズムの伝播、国際法の拡大、の他に世界の女性化があるという。

支配と栄光の欲望は男性性に関連し、男は罵倒に対してより暴力的に反応する。それは男性ホルモンのテストステロンのせいで男による殺人は女による殺人の10倍で、類人猿にテストステロンを投与すると、暴力的な行動を誘発する。

今は女性が教育を受けて社会に影響力を持つことで社会の暴力性が軽減する。

女性が避妊し、遅く結婚し、子供の数が少ないことで、望まれて生まれた子供たちは虐待される率が少なく教育も受けられる。

一夫多妻が減ったことも大きい。一夫多妻の世界では、家庭を持てない男たちが、暴力集団に囲い込まれる率が多いからだ。etc...

以上は、前著から一貫した主張だが、その全てを徹底して統計と数字から叩きだしている。


ヒュームとライプニッツ以来の人間の認知方法の対立が、ハイブリッドなものだということで落着したのは前世紀の終わりだった。ライプニッツは、人間の思考は論理の適用からなるとし、ヒュームは記憶と観察と組み合わせにベースがあるとしていた)。

新理論の登場や自然淘汰の繰り返しや学習の積み重ねが、少しずつだけれど人間をより非暴力的に進化させてきた。

ピンカーってpinkerで、「よりピンク」、つまり世界を「よりバラ色に見る」という含意がある、とも書いてあった。気がつかなかったが、おもしろい。

もちろん、「総論」としての「進歩」は「各論」の不幸の助けにはならない。

いくら医学が進歩して次々に新治療法ができたと言われても、自分が難病にかかったり事故に遭ったりすれば何の助けにもならない。

また、ピンカーの説には危険ゾーンもある。

数学のフィールズ賞やノーベル賞の授賞者に男性が圧倒的に多いことや、チェスの試合が男女混合でないことについて、それは知性の問題ではなく、知性の傾向の違いにある、脳には非人間的な抽象を扱う部分と、人間的なものを扱う部分があるという。男性に自閉症が多いのもその極端な形だという。

「知能指数」の「民族差」の説明の仮説も危うい。

それでも、ピンカーの言葉にインスパイアされて、ビル・ゲイツは自分の人道活動を飛躍的に拡大した。ピンカーの言葉が人々の耳に届く意味はある。

世の中にはペシミスティックな言葉の方が多いし、マーケットも大きいから無力感を感じる人の方が多いけれど、自分たちは恵まれている、と思える人々が、それを少しでも還元しようというひと押しも必要だ。

ピンカーのオプティミズムにはやはり希少価値があるようだ。


ピンカー目線で2018年を見通すと、


朝鮮戦争が南北の和解で終結し、さしあたっては一国二制度で共存し、

日中韓の問題も、日本が韓国に何をしたとかしないとかでなく、人類が、特に戦時において広く、弱者を搾取、虐待してきた歴史を反省するという共通の視点に立った建設的な方向での共存を目指す、

イランやトルコも、もともと多民族的な国家なのだから、詭弁でない「自由」の方に向く、

などの夢がまんざら夢に終わることがないのかも、などと思いたくなる。




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# by mariastella | 2018-01-05 00:05 | 雑感

ノストラダムスとヒトラー暗殺

大晦日にノストラダムスについてのドキュメンタリー番組が2本、TVで放映された。


最初の『Nostradamus, les prophéties révélées 』というのは、2015年のアメリカ制作のもので、フランスでももう何度か放送されていたようだ。2015年にもなってまだこんなものが制作されていたのか、という感じのトンでも解釈の羅列だ。


2本目の『LesProphéties de Nostradamus』はかなりまともで興味深かった。こちらは今はリタイアしたジャクリーヌ・アルマンさんが出てくるのでもっと前の制作だろうが、やはりアメリカのものらしい。アンテクリストがサダム・フセインだという説やオバマという説があるところを見ると2008年以降の編集なのか。

以下、2本目の方を視聴した感想。


ノストラダムスについては、個人的にいろいろ思い出がある。

1996年にサン・レミ・ド・プロヴァンスやサロン・ド・プロヴァンスで取材した後、97年にTBSヴィジョンの誘いで鏡リュウジさんと一緒にもう一度ロケをして番組を作り、98年に朝日新聞社から、99年に文藝春秋社から単行本を出し、私の本にインスパイアされたという岩波書店からのノストラダムスとルネサンスの本に参加するなど、思いがけない展開があったが、もう20年も前のことだ。


日本ではあまりにも「1999年の7の月」の終末論で知られていたからその後は急速に関心が薄れたようだった。それでも2001年のツインタワービルなどの同時多発テロの時は、それもノストラダムスの予言にあるとかないとかで意見を聞かれたことがある。

そういう懐かしいプロヴァンスの風景や博物館の知り合いの姿などを画面で見てノスタルジーに誘われたし、3人のアンテクリストのことを強調して一人がナポレオン、二人目がヒトラー、というのはいいとして、驚いたのはドイツとの関係だ。


ヒトラーの出現やホロコーストをノストラダムスが予言している、という類の解釈のことは知っていたが、出世作の『化粧品とジャム論』が1573年にドイツでも翻訳されていたことは覚えていなかった。

そして、ヒトラーのドイツがオカルト趣味全盛期だったことは知っていたし、ノストラダムスやその他の予言者を研究したり登用したりというのも知っていたが、その事情に通じていたイギリスが、それを利用したプロパガンダをやっていたのは知らなかった。

イギリスはオカルト科学をまったく信じていなかったが、ナチスが信じていたことを知っていたので、6人がヒトラーを暗殺する、という内容のノストラダムスの4行詩をフェイクで作って、それをプリントしたビラをドイツの上空からばらまいていたというのだ。


そんなことを思いつくのも、実行するのもなんだか信じられないが、


それでどういう効果があったのか、

かなり多かったというヒトラーの暗殺計画や暗殺未遂との関連はあるのか、

あるとしたらいつ、どれと、どういう風につながったのか、


そこのところがとても気になったが、番組では詳しいことは語られていない。



(この50分から51分20あたりに出てくる)


ノストラダムスはフランスのルネサンスの人間で、時の政権からも重用された。

著作はフランス語だ。

予言書と言われる4行詩などはわざと分かりにくく書いているし、それを動詞変化の少ない英語やドイツ語などに訳すると余計に分からなくなる。


なによりも、このノストラダムスを利用して対独のプロパガンダに使おうという発想は、まず、フランスではあり得ないタイプのものだ。


アングロサクソンがゲルマン人に対するものとしてならそれがあったのだ。

うーん、なんとなく納得するが、まだ言語化を試みていないので、ここに覚書として書いておく。

けっこうおもしろい切り口になるかも。


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# by mariastella | 2018-01-04 00:05 | フランス

カトリック信者の結婚、日本とフランス

年末に、私のサイトの掲示板にカトリックの結婚と離婚についての質問がありました。

分かる範囲でお答えしたのがこちらです


実は、このブログで、いろんな方がコンスタントにアクセスする記事に「カトリック信者の離婚と再婚」というものがあります。

こんなこと気にする日本人なんているのかなあ、と思っていたのですが、単純に「カトリックは離婚は禁止」とか思っている人もいるようなので、読んでみて役に立てば幸いです。

離婚は禁止されているのではなく、結婚は夫婦だけでなく聖霊も一緒の絆なので、人間の都合だけでは離婚できないという意味合いです。


ちょうどひと昔前の日本の離婚が、夫婦だけでなく仲人さんの立場もあるからまず相談しなくては、というのと似ているかも。


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# by mariastella | 2018-01-03 00:05 | 宗教

ボストンのバーナード・ロー大司教とパルトニアのガイヨー司教

1216日、ボストン名誉大司教バーナード・ロー師が86歳で、ローマで亡くなった。

この人のことを思うとすごく複雑だ。

アメリカで第四のカトリック信者数、200万人(大部分はアイルランド系)をかかえるボストン大司教区の大司教にまで上り詰めた人だ。枢機卿でもある。

宗教者として優れた人であったことは間違いないはずだ。

両親のいたメキシコで生まれて、ラテンアメリカ事情に強く、キューバの経済封鎖法に激しく反対するなど、アメリカ帝国主義に敵対した。カストロ議長とも電話で直接話しあった。

ハーバード大学で中世史を専攻したのに、召命に従って司祭となり、貧しいミシシッピーで司祭生活を開始した。エイズ患者に寄り添い、黒人やヒスパニックの貧しい人々を助け、ベトナム人難民センターも作った。公民権運動に奔走した。

そんな人なのに、2002年の1/6のボストン・グローブ紙の朝刊で発覚した聖職者による少年の性虐待スキャンダルのスクープで責任を問われて辞職した。4月に出した辞職願いは拒否され、12月にようやく受理された。それ以来、ローマに住み、晩年は長い闘病の末に亡くなったのだ。

このアメリカの聖職者スキャンダルはピューリッツァ賞を受賞し、映画にもなって、世界中に喧伝されて、あちこちに飛び火した。

ボストン大司教区は60年間で237人の司祭による1000人の被害者を数えるという。

2002年の時点ですでに50億円の示談金が支払われていて、2002年からの400人による訴訟でさらに100億円以上の罰金を課せられて、裕福だった大司教区は破産した。

バーナード・ロー師は、問題が発覚した司祭に対して教区を異動させるだけで放置した。その結果、複数の教区で30年の間に130人の少年を虐待していた司祭もいる。

彼の責任は重い。

けれども、どんなに調査されても、本人そのものはまったく嫌疑がかけられていない。

常に弱者に寄り添ってきた彼にとっては、少年にセクハラをする司祭の心理などまったく想像できなかったのだろう。

もちろん、アイルランドやフランスでもそうだが、閉ざされた教会の体質もあるし、「習慣」もあるし、性的被害は、レイプでもなんでも、公けにしない方が被害者のためにもいい、という、ついこの前までの「世間の常識」もあっただろう。

ことが発覚した後で、ベネディクト16世がこの件に関しては「トレランス・ゼロ」、絶対不寛容、を明言した。

家庭内にしろ、学校や部活など教育の場にしろ、教会の合唱隊やボーイスカウトなどの場にしろ、権威と権力を有する大人が未成年に対して性的な暴力を加えることなど、快楽殺人と同じくらい罪は重い。

それを闇に葬ったばかりか、問題司祭を別の場所に異動させて放置した責任は重大だ。

もちろんバーナード・ロー師もそのことを深く謝罪している。

彼は71歳から86歳までの亡命に近いローマでの生活で、枢機卿のタイトルは取り上げられなかったし名誉職も与えられたけれど、実質的に謹慎生活を送った。

彼の後悔、慚愧の念はいかばかりだっただろう。

この人は、本当は、いつも、弱者を助ける現場にいたかったんだろうと思う。

司教の任務は信徒の世話ではなくて司祭たちの世話だ。

でも、彼が本当にしたかったのは、尊厳を奪われている人々の世話や支援だったのだろうと思う。

フランスのノルマンディにガイヨー司教という人がいた。

彼も司教区の世話をしないで、ホームレス、労働者、ジプシー、兵役拒否者、移民、難民の側にばかりいて戦っていたから、何度も戒告を受けた。

とうとうバチカンに呼ばれて、辞職願を出せと迫られた。そうすれば名誉司教となる。拒否したのでアフリカにあるもう存在しない教区パルトニアの司教に任命された。司教や司祭のタイトルを剥奪することはできない。それは聖霊による秘跡で授けられたものだからだ。


で、82歳になる今もガイヨー司教はパリの「現場」で戦っている。


2015年にはバチカンに呼ばれた。 


「我々を自由にし解放しに来たキリストを教会に閉じ込めてはいけない」、というところで、ローマ司教(ローマ教皇のこと)とパルトニア司教が一致したのだ。

私からの憐みなんか必要としないだろうけれど、なんだか、バーナード・ロー師が気の毒になる。

彼の死に対してフランシスコ教皇は通り一遍の言葉を送り、バチカンではボストンのスキャンダルのことを口にする者は誰もいなかった。


メディアは彼の死を、性的虐待スキャンダルと結びつけて伝えたが、彼がマイノリティの権利のために戦った人だったことに触れる記事はなかった。


フランスでも同様のスキャンダルがあり司教が監督責任を問われたし、バチカンの教皇の側近にも嫌疑がかけられている。

世間的な野心なしに大きな管理責任を課せられるのは、きっと、「試練」のひとつなのだろう。


長きにわたる判断の誤り、は誰の人生の上にも、起こる。


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# by mariastella | 2018-01-02 00:05 | 宗教

あけましておめでとうございます。

年末年始に少しでも読みたいと楽しみにしていた本3冊。


でも、まだほんの少ししか読めていない。

佐藤直樹さんの『無くならない - アートとデザインの間』(晶文社)

どうしても読みたいので日本から持ってきてもらった。

これは私の常日頃考えているところに直球で入ってくる。


次に、仏教徒からプレゼントされた『司祭さんがパニックになった』という小説。

フランスのカトリック信徒の共同体の様子がリアルで笑えるがいろいろ考えさせられる。

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次に、長年のお付き合いがあり、数年前に亡くなったゲシェラの書いた『私は自由チベットに生きていた』という手記。チベット仏教コミュニティはよく知っているので、この手の本もいろいろよんだことがあるのだけれど、の、いつもにこにこして、リンポチェに仕えていたゲシェラの言葉はずしりと重い。

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しかし、本がなかなか読めない。

多分、書く時間が多すぎるからだ。

目の調子が良くなってからのここ一年半位、ほとんど毎日ブログを更新している。

我ながら「ブロガー」さんみたいだ。

でも、読者のことを考えるブロガーさんたちと違って、私は、好きなことを好きなように好きなだけ書ける場所としてこのブログを始めたので、長過ぎ、分からない、情報量多すぎ、ついていけない、などとよく言われる。


執筆中の本のテーマと自然に交差することもあるから、執筆の邪魔になるということはないのだけれど、じっくり本を読むひまがないのは問題だ。

自分の持ち時間の残りを考えてしまう。


今年は少しブログをセーブするかも。


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# by mariastella | 2018-01-01 00:05 |

「テロリストは僕だった」と2017年のマクロン

「テロリストは僕だった」というドキュメンタリーを視聴して、

「ベテラン・フォー・ピース」という退役軍人たちの平和活動を知った。



沖縄からベトナムやイラクに出兵した米兵たちの証言と覚醒の意義は大きい。

沖縄の基地増設反対の座り込みなどに、沖縄の人以外のプロ市民がいるとか、在日だとか反日だとか、だから沖縄の多くの人は実は受け入れているのに「活動家」に利用されているのだ、という類の批判がもっともらしくなされることがあるが、このような運動は多様な人が協働してこそ大きな意味を持つということは前にも書いた。

そんな中に元沖縄の米海兵隊にいた兵士もいるのだということをもっと強調してほしいくらいだ。

一撃必殺、と繰り返させる兵士の「洗脳」の様子は、シリアのISの軍事訓練と変わらない。人間を殺すことについて「命令に従う」という以外のオプションしか与えられないという点ではヒットラーのナチスや世界中の死刑執行官も同じだ。

殺される方ももちろんだけれど、殺す側の尊厳もそこにはない。

兵士になれば教育を受けて、家を建てて仕事も見つかる、などという甘言に惹かれる若者たちの存在は、新自由主義経済社会が生む経済格差の結果でもある。

従軍司祭たちと話をしてみたい。

七二年前、原爆を搭載した飛行機を祝福した従軍司祭もいた。

アメリカのような国では従軍司祭の影響は看過できない。

兵士たちは故郷で「祖国のために戦う英雄」として崇められる。

死ぬか生きるかの前線では、「聖なるもの」にすがる気持ちもあるだろう。

フランシスコ教皇のようにはっきりと戦争を糾弾している首長のいるローマ・カトリックの体制に属しているカトリックの従軍司祭は、今、どういう折り合いをつけているのだろう。

沖縄の日本人信徒から慕われている米人カプチン会のウェイン師が新司教になることはどういう意味を持ってくるのだろう。

2017年、フランスのマクロン大統領は世界中からポジティヴな評価を受けた。

第一に、「先進国」を席巻しつつあるかに思われるポピリュズム国家主義者に選挙でストップをかけて勝利したことがある。

第二に、トランプの不支持と悪評が増し、イギリスの首相はブレクジットで苦戦し、ドイツのメルケル首相も過半数を確保できず弱体化している、という他の「欧米諸国」のリーダーの状態に比べて相対的に強く見える。

第三に、冷戦末期以来、他の先進国が新自由主義に拍車をかけてきたのにフランスだけが、伝統の「社会民社主義」の慣性を引きずって「規制緩和」が遅れていたのをマクロンがついに、新自由主義の中での競争力をつけることを優先的にしているので、大企業家や富裕層から大いに歓迎されている。

自分はずっと4時間睡眠で困らないから、ということで、閣僚にも結果主義の激しいノルマを課しているところはブラック企業みたいだ。

でも、これらの高評価を背景にした自信を持って、地球温暖化の問題などについては、フランスを、久しぶりに「アメリカにNOと言える国」にしている。

地球の環境を守ることと、戦争をなくすことと、武器を捨てることは、本当は一体であることだ。

2018年が未来にとってどういう意味を持つ年になるかは、私たち一人一人の覚悟にかかっている。


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# by mariastella | 2017-12-31 00:05 | 雑感

サルコジとマクロン

先日の朝のラジオで、移民問題専門家の歴史学者で政治学者のパトリック・ヴェイルが話していたのがとてもよく整理ができていて納得した。

彼にとっては、マクロン政権は移民に対するフランスの原則を否定するとんでもない大統領になりそうな男のようだ。

最近、移民、難民や路上生活者に赤十字などが差し入れた食物や寝袋などに警察が催涙ガスを撒くなどの事件があり、違憲判決などが出ている。
しかし、例えばマニュエル・ヴァルスが内務相の時に暴走した時も、上から支持されたものでなかったが、今のコロン内相は全面的にマクロンの指示でやっている。

また、サルコジとマクロンは正反対だ、という。

サルコジは言葉の上では暴力的だったが、現場ではそれなりに現実的だった。
マクロンは言葉の上では移民にようこそ、などと丁寧で親切だが夜になると食べ物や避難所を襲う。

冬の夜のホームレスを一時迎え入れる避難所に警察を入れて不法滞在者かどうかのチェックをし始めたというのだ。

フランスには、三ヶ所、身分を確認しないで無条件で受け入れる聖なる場所が三つある。

子供を受け入れる学校、
病人を受け入れる病院、
宿のない人を受け入れる避難所

だ。

実際、それを知っているから、あえて就学年齢の子供をフランスに不法に送り込む親もいる。

不法滞在で働いている外国人が、体に異変を感じた時にパリの公立病院に行けば無料でMRIなどの検査をうけて治療も受けられるセクターがある。身分証明書も何もいらない。

ホームレスが炊き出しに並んでも、避難所に宿を求めても、身分の確認はない。

それがフランスの伝統でアイデンティティで、どんな政権も変えることができなかった。

身分の確認をメトロの中で、労働現場でやるのなら別だが、学校、病院、避難所はご法度である。

それに手を付けたマクロンは、核兵器を使用したようなものだという。

来春に向けて新しい移民法案が議論される。
じっくり経過を見ていきたい。


(フランス語OKな人はここで聞けます。)

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# by mariastella | 2017-12-30 00:05 | フランス

トロカデロの「勝利の踊り」

先日、イエナからエッフェル塔の方に向かってトロカデロを横切った時に、ギリシャの女神アテナの彫像(樹脂製)の前を通った。サラブゾルが1925年に制作したがここに置かれたのは1989年とかで、今まで気づかなかった。

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動きがバロックぽくって気を惹かれて銘を見たら、「勝利の踊り」とあった。

「神々が巨人たちを征服するのに貢献したアテナ」、「物質を支配する知性」に捧げたものだという。(パラス・アテナとあるのは、トリトンの娘で宛名と共に育ちやはり戦いの乙女だったパラスがフランスではアテナと合体したりアテナの異名となっているからだ)

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「物質を支配する知性」というのはタロット・カードの大アルカナの「力」の解説でもある。

このカードのたいていの意匠は若い女性が楽々と、荒れ狂う獅子の口を鼻の鎖でおさえたりしているもので、精神が物質を、知性が本能や欲動を、女が男を、天使が獣を、魂が肉体を支配する、という意味だとされる。


そういえば、「柔よく剛を制す」、という言葉もあったなあ、と思ってネットを検索するとその由来は

>>古代中国の 兵法書「三略」に記載されている。 「柔能剛を制し、弱能く強を制す」とある。 「軍しん」 という、戦についての予言書から引用された句で、「三略」はそれに続けて、 「柔は徳で、 剛は賊である。弱は人が助け、強は人が攻撃するものである」と説いている。<<

だとあった。


「柔は徳」というのがなかなか奥が深い。


古今東西、せっかくこういう考えがあるのに、今の世界を見ていると、弱肉強食がまかり通っているのはいったいどうしたことだろう。


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# by mariastella | 2017-12-29 00:05 | 雑感

エッフェル塔のジュール・ヴェルヌ

先日、エッフェル塔内のレストラン『ル・ジュール・ヴェルヌ』で食事した。

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ここはフランス革命記念日のパレードに招待されたトランプ大統領夫妻がマクロン夫妻に招かれて会食したことでさらに有名になった。トランプは窓から見える鉄骨を見て、「まだ足場が残っているんだね」と言ったとか言わないとか。

フランスに40年以上も住んでいるけれど、エッフェル塔に上ったのははじめて。エレベーターの列に並ぶのが嫌で、両親が最初にそろってパリに来た時も、凱旋門の上で我慢した。モンパルナスタワーの最上階のパーティには出たことがあって夜景がきれいだったけれど。

で、『ル・ジュール・ヴェルヌ』に行くには専用エレベーターがあって並ばなくてすむ。

けれども、テロ対策で今はエッフェル塔の周りに柵が張りめぐらせてある。

北のゲートと南のゲートがあり、トロカデロにつながる北側の方がメトロに近いので警戒も厳重ですごい列だ。

レストランは南側で、予約専用ゲートのセキュリティ・チェックを済ませて、さらに専用エレベーターを使える。

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料理はアラン・デュカス監修で、ややヌーヴェル・キュイジーヌ風。

窓際の席で寒空の下のセーヌ河が見える。

食事の後は向かいのマルシェ・ド・ノエル(クリスマス・マーケット)を歩いたが、隔てる道は通行止めになっていての徒歩でも横切れない。

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マーケットの入り口にもセキュリティ・チェック。中ほどに子供用のアイススケートのコースが平行に作ってある。

子供たちの歓声を聞いていると、年末の雰囲気が味わえる。

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フランスは観光客が戻ってきているそうで、2020年には一億の大台を目指しているという。

2020年、東京オリンピックは、放射能はアンダー・コントロールと言って、

2024年のパリのオリンピックは、テロがアンダー・コントロールということで

それぞれ、開催地に選ばれた。

何だか、どちらにも、いまひとつ信頼感をそそられないのはなぜだろう…。


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# by mariastella | 2017-12-28 00:05 | フランス

ヘラルト・ファン・ホントホルスト

クリスマス・イヴのミサでプレゼントとして配られた絵葉書はヘラルト・ファン・ホントホルストの『幼子イエス礼拝』だった。祭壇のスクリーンにも映し出されたが、光を調節しないと、マリアの夫ヨセフの顔が見えない。
こレは光のコントラストが印象的な17世紀オランダの絵画で、光の源はもちろん生まれたばかりのイエスで、かぐや姫みたいに輝いている。

それなのに、向かって右上の少し奥まったところにいるヨセフには光があたらず、背後霊みたいにぼーっとしている。
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でも、このヨセフは、すごく優しい目をしている。
神がマリアをイエスの母として選んだのもすごいけれど、その基準はひょっとしてマリアの許嫁のヨセフの方にあったのではないかなあ、と思うほど、ヨセフの人選はすごかった。ヨセフは「神に信頼された男」ナンバーワンだ。

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# by mariastella | 2017-12-27 00:05 | アート

クリスマスのミサ

今年のクリスマスの深夜ミサは歩いて5分の近くの教会の入り口にも兵士がふたり立っていて驚いた。出る時には10人くらいになっていた。
非常事態宣言が解除されて、シリアのISも排除されたけれど、ISは特にクリスマスをめがけてのテロを呼びかけていたからかもしれない。
「家族の集まるお祭り」であるクリスマスに、寒空で不動の若い兵士を見ていると気の毒だけれど、銃をしっかり構えているのを見ると、なんだか怖い。
武器を持たせてスタンバイさせる、ということ自体の異常さを身近に感じる。

でもクリスマスイヴのミサはクリスマスの歌がたくさん歌える。
ミサ自体も歌われる部分が多いのだけれど、その他の歌だけでも13曲の歌詞が配られた。
日本の普通の子供にでもなじみなのは『きよしこの夜』だけれど、音楽の時間に『グローリア』を習えたのは印象的だった。小学校だったか中学校だったか覚えていないけれど(公立学校です)ラテン語部分がちゃんとカタカナで書いてあって、独特の節回しは忘れられないものになった。今の日本の公立学校でもグローリアが歌われているのだろうか。日本の民謡で『刈干切唄』というのも同時期に習って、この節回しも快感だった。二つとも、当時は学校で以外耳にしたことがなかったのだけれど、マイレパートリーになった。
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「主の祈り」の前には、「翻訳が変わりましたからね」とだけ伝えられた。
みんなちゃんと新訳を唱和していた。後ろにいた夫婦(多分クリスマスと復活祭にしか教会に来ない人たち)が「いったいどこが変わったんだろう」と言っていたので「もうsoumissionがないんですよ」と教えてあげた。

25日正午には、ローマ法王が世界に向けて発するスピーチ(Urbi&Orbi)の中で、クリスマスは「時の巡礼」だと言っていた。タイムトラベルではなくてタイムピルグリメイジtime-pilgrimageというわけだ。なんだか毎年、キリストの誕生を祝うのは永劫回帰みたいな感じがしていたけれど、前の年のものを繰り返したり踏襲したりするのではなくて、2000年前のベツレヘムの時空へ毎年巡礼するのだというイメージは悪くない。

そして馬小屋で生まれた赤ん坊という降誕のイメージを、「居場所のない子供」ということで、難民の子供、貧しく、家のない子供の中にこのクリスマスの赤ん坊の姿を重ねるのも実感がこもっている。
中東はもちろん、南スーダン、ソマリア、ナイジェリアなどの子供たちのことが喚起された。「子供の形をとった神」というバージョンを一神教に可能にしたのがクリスマスだ。

フランシスコ教皇はさらに、エルサレムをめぐってのパレスティナの対立、ベネズエラ、朝鮮半島、ミャンマー、バングラデシュ、などに言及し、今と未来の子供たちにより人間的でよりふさわしい世界にしようと呼びかけた。

ローマは抜けるような青い空だ。

同一首長を仰ぐ宗派では世界最大のローマ・カトリックのトップが、公の席で世界中の紛争に堂々とコメントするのはある意味では大したものだ。
国家の首長ならやはり自国ファーストだし、「象徴」とされる元首などなら世界どころか自国の政治に関わるようなコメントさえできない。

ローマ法王なら政治家のように選挙民や支援者の顔色をうかがう必要もないし選挙地盤や特権や財産を受け継がせたい子孫もいない。そういう立場の人が正論を口にし続ける意義は大きい。

もうこれで5年も難民の受け入れを呼びかけているのに、カトリック大国であるはずのポーランドがますます閉鎖的になっているのを見ても、ローマ法王の勧告など効果がない、という人がいるが、効果がないから言うのをやめてしまうのと、言い続けるのでは大きな差がある。

サンピエトロの広場に整列するスイスの衛兵たちを見るのも今年は特に印象的だった。

近所の教会で迷彩服の兵士が銃を抱えている威圧的な姿を見たところだったので、ミケランジェロのデザインとも言われる中世の制服を着た衛兵がコスプレ風にずらりと並んでいるのは非現実的だ。
彼らの装備は「軍備」としての「抑止力」にはならない。
ゼロだ。
でも、シンボリックな抑止力はある、と思った。

抑止力としての核兵器の所有を許す暫定期間は終わった、すべての紛争は話し合いと譲り合いと連帯で解決するべきだ、と訴える80歳を超えたリーダーを守るこの中世風の衛兵の列を、誰かが武力で撃破することのシンボリックなハードルは、とてつもなく高い。

クリスマスの午後は4日前から食べ物を口にしなくなった92歳のチベットの高僧を見舞った。
私のために祈ってほしい、と言われた。
私はクリスマスの教会でもすでに彼のために祈っていた。

でもこれまでずっと彼に頼ってきたので、瀕死の彼に向って私は、「私たちのために祈ってください」と厚かましくも頼んだら、彼は「ずっと祈り続けているよ」と言ってくれた。

そうか、これまで私たちのためにずっと祈ってくれている彼が、今はじめて自分のために祈ってくれ、と口にしたのだ。

中国に侵略される前のチベットで最高学歴を極め、ゲールク派の最高学府の院長となり、一代で「活き仏」に認定されたゲンラの一部の何かが、なぜか今、私の中で息づき始めた。



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# by mariastella | 2017-12-26 07:36 | フランス

フランスの子供たちのカトリック・ジョーク その2

「カテキズム(公教要理)の真珠」から少し紹介。

全部実話。

子供のお祈りの例。

「神さま、私が病気になりませんように、病気になったら、ビタミンをホウレン草の中に出なくママのつくるケーキの中に入れてください」

ソフィが司祭さんに言った言葉。


「来週の水曜日(水曜は学校が休み)にカテキズムに来れるかどうか分かりません。歌の練習にも。」

「どうしたんだね」

「体操の時間の後からずっと肋骨が痛いんです」

「それで ?

「アダムみたいに、肋骨から女の人が生まれると思うんです」

カテキズムの時間


「聖書の中で話される果物を三つ挙げてください」

「ええと、リンゴとブドウと…」

「いいですね。後ひとつ」

「…」

「後一つだけ」

「ええと、おなかの果物…」

これは天使祝詞、アベマリアの歌の中に、

あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。」

のがあって、日本語では「ご胎内の御子」だけれど、


ラテン語は fructus ventris tui Jesus、(腹の果実)

英語なら the fruit of thy womb, Jesus.(子宮の果実)

フランス語なら le fruit de vos entrailles(内臓の果実)


で、いずれもフルーツという言葉が使われている。


普通のフランス語ではentraillesと言えば「腸」という意味だから、子供がこの祈りを丸暗記する時はフルーツとのなんだか奇妙な組み合わせだと感じてしまうだろう。


今どきのカテキズムではこんな質問などないと思うし、あまり意味もないような気がする。

三つ目の果物は何だろう。

イチジクかな。

果実のなる木でシンボリックなのはオリーブの木、イチジクの木、ブドウの木ということになっている。

イチジクは特にイスラエルの国民的果実といわれる。

オリーブは聖霊で、ブドウは宗教的生活のシンボル。

フランスはたまたまブドウ(イエスの血となるワインの原料)と小麦(イエスの体となる聖体パンの原料)の栽培に適した大生産地だったことが「キリスト教」の発展二寄与した。

オリーブとイチジクは「地中海」のイメージだ。

リンゴというのは地中海的じゃないから聖書っぽくない。

キリスト教がヨーロッパに広まった後になって、ヨーロッパに多いリンゴがエデンの園のイコンに使われた。

アダムとイヴが食べた禁断の木の実は、リンゴ、ナシ、イチジク、ザクロなどの説が生まれた。

確かなのは、智慧の実を食べて裸を恥じて腰を覆ったのがイチジクの葉をつづり合わせたものだということだ。

リンゴ、ナシ、ザクロの葉では「つづり合わせる」なんていかにも難しい。


凹凸の多いイチジクの葉があってよかったね。


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# by mariastella | 2017-12-25 00:05 | フランス語

フランスの子供たちのカトリック・ジョーク その1

毎日曜に教会のミサに出るカトリック信徒は今や人口の10%を切るとか言われているフランスだけれど、今でも、日本ならお宮参り、七五三に当たるような赤ちゃんの洗礼式やら公教要理(カテキズム)のクラスに通っての初聖体をはじめとする冠婚葬祭のためにカトリック教会に行く人たちはたくさんいる。


子供をカテキズムのクラスに入れるというのは、親がイデオロギー的無神論を掲げる家庭でない限り、まあ子供に愛とか道徳とか弱者へのリスペクトとかを教え、文化の基礎となるキリスト教の教養を与えるという意味で、かなりスタンダードな選択だと言ってもいい。


そういう家庭では、祖父母たちが子供を要理のクラスに連れていくことも多いし、同じようなタイプの家族同士が知り合う、という機会も提供している。


ひと昔前はそれこそ「日曜学校」のイメージで聖書の知識をテストするみたいなものもあったが、第二ヴァティカン公会議以降の1970年代になってからは、要理のクラスは、「他の人の生活をより快適にするために努力することが、キリスト的生活だということを学びます」というものに変わった。

で、最近そのカテキズムのクラスに通い始めた6歳の女の子があるジョークを教えてくれた。


AuNom du Père, et du Fils,et du Saint-Esprit. Amen.

(父と子と聖霊の御名によって、アーメン)

に関するものだ。


これは、キリスト教の三位一体の祈りで一番ポピュラーというか基本的なもので、アーメンとは、「合意」「その通りになりますように」を示すヘブライ語由来でキリスト教圏の多くでそのまま通用する。

私の子供の頃は「アーメン、そーめん、冷やそーめん」という言い回しがあった。「父と子と聖霊」というむずかしいものはなかったけれど、アーメンとはキリスト教の特徴的なお祈り言葉だというのは60年前の日本の子供たちにも、ジョークになるほど広く認知されていたということだ。

で、今時のフランスの子から聞いたジョークは、

Au Nom du Père, et du Fils,et du Saint-Esprit. Amène moi ma bière.

父と子と聖霊の御名によって、私のビールを持ってきて!

というのだ。笑える。

フランス人はNの子音だけの発音がうまくなく、たいていはその後に曖昧母音がくっつく。

だからスーパーマンもスーパーマンㇴに聞える。

パリジェンヌもフランス人的にはパリジエンと言っている。

パリジャンの方は鼻母音なので、Nを発音しているわけではない。


だから、アーメンも、「アーメンㇴ」に近く、それはamener(持ってくる)という動詞の命令形「アメーㇴ」と重なる。長母音と短母音の区別も意識されないからだ。

で、「持ってきて、私のビールを」となるわけだ。

面白がって何度も繰り返すので、この「祈り」はしっかりと記憶される。

試しに検索してみたら、フランス人の誰かのハンドルネームに


「Au nom du verre, du vice et du saint-whisky, Amène moi la bouteille !」


というのがあった。


「グラスと悪徳と聖ウィスキーの御名によって、私にボトルを持ってきて」


というのだ。

グラスのヴェールと悪徳のヴィスが、父ペールと息子フィスという言葉と脚韻を踏んでいる。聖霊のサンテスプリがサンウィスキーとなる。

まあここまで凝っていたら、大人のジョークだけれど。

この話で「カテキズムの真珠」という小冊子を持っていたのを思い出した。フランスで子供たちの要理のクラスを受け持つ人々が書き留めた子供たちの面白い秀逸なコメントを200集めたものだ。単純な言い間違い、思い違いが立派なジョークになっているし、子供たちの世界をのぞく窓口にもなっている。


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# by mariastella | 2017-12-24 00:05 | フランス語



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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