フランソワ・ユグナンのこの本、大部過ぎて、買っても「積ん読」になるのが確実で、手元においていないのだけれど、さまざまな解説を読んだり聞いたりたりするだけで、今まで漠然としか理解していなかったことがはっきり見えてくる。 第二ヴァティカン公会議の位置づけが西洋思想史の中で理解できる。 覚書としてここに書いておくと、まず、西洋の政治哲学は、プラトンから現在までの2500年の間に、古典と近代というふたつの流れがあった。 最初は古典時代、15、16世紀頃のルネサンスくらいまでで、「公共善」「公共の福祉」というものが政治哲学の基礎にあった時代だ。 次に大きな転回点が現れる。近代の登場で、個人の権利と自由を守ることが政治哲学の中心となった。 この二つは、19世紀になって両立しなくなった。 ローマ教皇たちは「反近代」的な言説を量産した。 それが20世紀になってアンリ・ドゥ・リュバックやジャック・マリタンらの考えを取り入れながら、「統合」されていく。 思えば、20世紀後半の第二ヴァティカン公会議が信教の自由を打ち出したのは、私にとって長い間本当に驚きだった。一宗教として「過激」過ぎると思ったくらいだ。 とはいっても、「信仰」のレベルでは、カトリック教会はずっと同じだった。325年のニカイア公会議の「信条」をずっと唱えているのだ。 変わったのは、信仰とは別の宗教としてのアスペクトだ。特にカトリックがローマ帝国の国教になってから、教会の「政治哲学」は大きな意味を持っていく。 そして、この二つの流れが分断を生み、互いの断罪、弾劾にまで至ったものを統合したのが第二ヴァティカン公会議だったわけだ。 ここではすべて説明できないが、この西洋の政治哲学、キリスト教文化圏の政治哲学が近現代を席巻したのだから、ここのところを俯瞰できる視座がないと、日本人の立ち位置も曖昧になる。 フランスはソルボンヌの神学がローマと別に独立した権威を与えられていたように、神学の伝統は根強く、フランス革命での「暴挙」を経たことでさらに研ぎ澄まされて戻ってきたような印象さえ受ける。宗教哲学の良書が量産されそれにさまざまな方法でアクセスできるのは本当にありがたい。 #
by mariastella
| 2024-12-31 00:05
| 本
人間の歴史において、ヨーロッパを中心にいわゆる産業革命が起こって、それ以来、人の暮らしにおける機械の「進歩」は止まることなく、増大し続けてやがて環境汚染や人類絶滅のリスクさえ語られるようになった。
それについて、私が前に了解していた定説は、大きな「発見」や「発明」はアジアにもあったが、それが用をなさなくなると途絶えた、しかし、キリスト教文化圏では「成長」し続けた、というものだった。キリスト教は世界のはじめがあって終わりがある世界観だが、アジアの時間は季節の移ろいのように循環型だからだ、などと言われていた。 時計をはじめ多くのものは先に中国で発明されていたがやがて使われなくなったので、「近代」以降に西洋との差が開きすぎたのだ、とか、日本で16世紀に種子島の鉄砲伝来の後、どんどん改良が進んだのに、ひとたび戦国時代が終わると昔ながらの刀の文化に戻って、鉄砲の技術は失われた、だから19世紀に大砲を乗せた「黒船」が来た時に抵抗できなかったのだ、とかいう言説だ。
けれども四季のあるような場所で人間の考える環境イメージはどこでも同じで、ヨーロッパのキリスト教文化圏でもしっかりと、季節に合わせた「循環型」の行事や典礼が存在している。また、自然が繰り返して循環しても、一人一人は生まれて死んでいくのは共通しているのだから、キリスト教に終末思想があるように、アジアにも末法思想があった。 では、確かに、キリスト教文化圏で「道具」や「機械」の劇的な発展があったのは、なぜなのかということについて、興味深い説を聞いた。 それは、社会のベースから奴隷労働がなくなったからだという。 こういうと、「神の国」アメリカで黒人奴隷を虐待していたではないか、などと思われそうだけれど、キリスト教の源泉にあるユダヤ教の神は本来「奴隷」を認めない。 「主」は神だけだ。 モーセは、エジプトで奴隷労働についていたユダヤ人たちを引き連れて脱出した。ユダヤ人は紀元前14~13世紀頃にわたって奴隷状態にあったとされる。その後も、紀元前6世紀に「バビロン捕囚」という強制移住の憂き目を見た。 「出エジプト」の伝承が「史実」であるかどうかは別として、この「奴隷」の記憶と「捕囚」の記憶がユダヤ教の根本にあるのは確かだろう。だから、本来、ユダヤ人は、「奴隷制」にも「移民労働」にも反対の立場なのだという。 ( とは言っても、モーセに与えられた律法では、奴隷労働は6年まで、7年目に給金なしでの解放とされ、ユダヤ人にだけ適用されていた) その流れにあるキリスト教も同様で、奴隷労働が存在していたギリシャ=ローマ文化とは一線を画していた。もちろんキリスト教がローマ帝国の国教になったり、政治権力と結びついたりした後では別だし、奴隷制を廃止するまでの道のりは長かった。 けれども「奴隷労働」の否定は、ヨーロッパの修道院文化の中で強固に残っていた。修道士たちは、さまざまな典礼やら黙想やらの他に、修道院の雑事や経営のための各種の労働を容易にするためにさまざまな工夫をするようになった。つまり、優れた道具や「機械」を使うことによって「手間」を省くという流れが生まれた。 「奴隷労働」の存在するところでは、奴隷を使い捨てできるから、道具や機械による効率化という概念が発達することがない。 それがキリスト教文化圏で「機械」が発明され導入された理由のひとつである、という説だ。
なるほど。
確かに、カテドラルなどの建設も奴隷ではなく「職人」たちによるものだった。それを言えば、ギリシャのパルテノンなど宗教建築も奴隷によるのではなくて「市民」が携わったと習ったことがある。日本の場合も、例えば領主によって「徴用」された領民が労働力になったなら、いわゆる「奴隷」はいなかったかもしれないけれど、実質的に「人買い」「身売り」された労働力はあっただろう。 日本の僧院などでの労働はどうだろう。より合理的にという発想ではなく、身を粉にして、額に汗をかいて仕えるのが修行のうち、というイメージがある。みなが平等で「余暇」を創るために道具を工夫するという発想はなかったかもしれない。
家庭に「女中さん」や「家政婦さん」や「専業主婦」がいて家事を受け持っているうちは、重労働を軽減する発想はなかった。「共働き」がデフォルトになると、家庭でもいろいろな機械化が進んで、掃除機までロボット化していった。 「余暇」は増えているはずだし、ネットやAIの進化で驚くべき効率化がさらに進んでいるのかもしれない。でもその「余暇」がさまざまなアディクションに食い荒らされているのも事実だろう。 いろいろ考えさせられたのでメモ。 #
by mariastella
| 2024-12-30 00:05
| 宗教
ユダヤ=キリスト教文化圏での権力と権威との関係を地政学的に分析する。 目次紹介。
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by mariastella
| 2024-12-29 00:05
| 本
普通の日本人はbeau というと「美しい」という形容詞(の男性形で女性形はbelle)で、la beauté というと「美しさ」とか「美」という名詞だと理解している。
la belle というと、「美女と野獣」のように「美女」となる。 でもこの他に「le beau」というのもある。これは別に「美男」le bel hommeではなく「美」なのだが、では、la beauté とle beau の違いは何かというと、それを明確に言える人は少ない。 でも、この使いわけは、例えば、私が音楽仲間と演奏している時に出てくる言葉は必ず「le beau」であって「la beauté 」ではない。 la beauté は主観的で、「見た目」が主で、言葉で言い表せないし、見ることもできない「超越的なもの」につながるもの、与えられているものに、le beau が現れる。 すると最近、テレビでおもしろいことを言っていた。 AIにla beauté を検索させて、それに当てはまる人間の姿を映してもらったら、「美女」の姿が出てきた。もちろんステレオタイプの美女で、髪は金髪で長く、顔立ちはコーカソイド(白人)、胸が大きく、ウェストが細く、腰がはっているというキム・カーダシアン型。AIはネット内の「美」に関する映像をすべて検索して最大公約的美女の姿を出したのがそれだった。 その時の解説が、la beauté とは le rapport de force である、というものだった。つまり、力関係で、それは、時代や場所によって変わる。多く検索される、多くの金を稼ぐ、多くの人の憧れの対象になる、商売道具になる、スタンダードになる、ランク付けの対象になる、などだ。 いい得て妙だと思った。 ある音楽や絵画や建築や衣服が「美しい」という時、それは時代の基準、社会での位置づけに関連しているかもしれない。それは la beauté のレベルなのだ。 Le Beau は存在する。 朝日の光かもしれないし、雲の動きかもしれない。 le beau に参入したりつながったり存在の根を揺さぶられたりすることはなんという「恵み」だろう。 パワーバランスとは無縁の世界がそこにある。 #
by mariastella
| 2024-12-28 00:05
| フランス語
袴田巌さんの無罪判決が出た時にこういう記事を書いた。
その後、検察が控訴せず無罪が確定して、あらためてよかった、と思ったが、私のこのブログを読んだ方から、10月22日の私のトリオのコンサートに袴田さん姉弟をぜひ招待したい、と言われて驚いた。袴田さん姉弟はなんと浜松にお住まいなのだ。 お姉さまのひで子さんはあちらこちらでのお祝いの席に招かれていらっしゃるのでスケジュールは合わなかったし、巌さんもコンサートを聴ける状態ではないということで実現しなかった。 でも、コンサート会場が浜松のカトリック教会で、巌さんが死刑確定してからカトリックの洗礼を受けたり2019年の教皇訪日ミサに出席されたりなどの経緯があるし、キリスト教関係のグループは再審や無罪確定に至る道で力になったのだと思う。 でも上のブログでも触れたけれど、カトリック教会が掲げているのは「死刑廃止」なので、厳密にいえば、有罪だろうと冤罪だろうと、死刑そのものを弾劾している。 私も何度も書いてきたけれど、私的な報復、復讐、敵討ちなどを法で規制して、「あなたの大切な人を殺した人は国が請け負って殺します」という死刑制度ではなくて、「あなたやあなたの大切な人が罪を犯したとしても国が殺すことはしません」という国の方を支持する。 その延長として、兵役、徴兵などによって「あなたやあなたの大切な人が殺されたり殺したりする戦場には送りません」とセットになっていてほしいのだが。 昔、死刑囚に私の本を差し入れるという方から献辞を求められたことがある。 私の本は私の分身でもあるから、その時以来「死刑囚一般」という感覚はなくなった。いつも、死刑、死刑囚、家族、弁護士、判決を下した裁判官などをめぐる思考が続いている。 でも、袴田さんの場合は、また別だ。もちろんいったん死刑判決を受けたからには、「死刑制度反対」の運動が命を救う助けになるとしても、冤罪、無実の罪をどのようにしてはらすのか、というより深刻な問題があった。 で、浜松教会でのコンサートの数日前、お世話してくれたカトリック信徒の方から、袴田姉弟をお招きできなくても、私の言葉を伝えたいので手紙を書いてくれないかと頼まれた。 それはプリントアウトされて袴田家に届けられたという。 最近、検察総長が「謝罪」に赴いたことについて、いろいろな記事が出ているのを目にした。少なくとも、控訴を断念したとしても、最後まで検察は有罪を主張していたわけだから、微妙だというのは分かる。 で、何となく、気になるので、私の「手紙」をここに覚書として残しておこうと思う。 ・・・・・・・・・ 袴田巌さま、ひで子さま、 最初にフランスでヴァティカンニュースで巌さんの無罪判決を聞き 何十年も決して諦めず、扉が開くまで叩き続けたのは、ひで子さん それだけではありません。 カトリック教会をはじめ国家が人の命を奪う死刑という制度に断固 でも、私にとって一番大切だったのは、死刑執行が停止になって釈 私は死刑と言う名のすべての殺人に反対です。 ですが、罪の有無にかかわらずあってはならない死刑と、無実の人 だからこそひで子さんは戦われました。巌さんを死刑から救うだけ カイロで最貧の子供たちの尊厳を守るため、スラム街で生きて環境 「私が欲しいと言っているのは哀れみではありません。公正です。 巌さんの無罪確定は単なる手続きの連鎖ではなく、長きにわたる不 99歳で亡くなったシスター・エマニュエルはこういう言葉も残し 「人生の中で決して諦めてはいけない。決して立ち止まることなく ひで子さんがまさに戦い続けて勝利を勝ち取ったことはご両親や巌 ありがとうございます。 私たちはささやかでも、それぞれ違った形で、光の側の世界へと共 音楽はハーモニーなしでは成り立ちません。 演奏者と視聴者が共に耳を傾ける時にだけ生まれる「めぐみ」です 生きる糧となり、慰めにもなるような音楽をお届けできたら幸せで ・・・・・ #
by mariastella
| 2024-12-27 00:05
| 時事
|
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