L'art de croire             竹下節子ブログ

ノートルダム・デ・ランドと宮古島

フランスの西、ロワール・アトランティック県(県庁所在地はナント)にノートルダム・デ・ランドという地区がある。農業と畜産が主要産業ののどかな場所だったのだが、そこに新たな飛行場を作る計画が1960年代から画策され、1970年代に具体的になり、石油危機でいったん凍結し、21世紀に入って、本格的に飛行場建設計画が始まった。

地元民をはじめ、多くの反対者が声を上げた。現在あるナントの飛行場だけで十分であるとも言われる。反対者が予定地を占拠して、もう何年も計画が進まず、住民投票(と言っても、地域全体のもので「経済効果」を期待する人たちの賛成票が上回った)で、政府は反対者の実力排除を決定、反対する人々はゲリラ化して…と、「三里塚闘争」を思い出させる。

 

沖縄の方からカトリック新聞(2017/7/9)に掲載された沖縄の伊志嶺節子さんという方の投書を送っていただいた。

そこには、基幹産業がさとうきびで、美しい海と空の輝く宮古島に、2014年に、500人規模の自衛隊配備が計画され、翌年には700~800人へと規模が拡大したこと、警備、地対空ミサイル、地対艦ミサイルの三部隊を配備するという候補地(実弾射撃場、着上陸訓練場も含む)まであげられたと書いてあった。宮古島は飲料水を始めとして多くを地下水に頼っていて、その水源がその配備計画周辺地区なので汚染も予想されるのに、美しい島を『基地の島』にして、いったい国は軍備で何を守り、どこへ刃を向けようとしているのか、と伊志嶺さんは書く。

同じ紙面に、「パプアニューギニアとソロモン諸島の森林を守る会」の報告の記事も載っていた。1970年以来の日本やマレーシアの企業による不法伐採で川は汚れ、製材の防虫処理に使われるヒ素が地下水を汚染して農業や漁業にも悪影響を与えているという。

何だか、愕然とする。

今は、民間空港だろうが、道路だろうが、建設のために自然を破壊することの重大性が理解されてきている時代だ。森林の大規模伐採が、環境汚染だけでなく地球の温暖化を促進することも知られてきた。

民間空港や道路の建設に反対するために何年も抵抗している人が世界中にいる。

それなのに、沖縄の美しい島で、米軍基地ならぬ自衛隊の基地建設のために環境を破壊するのは粛々と進められるのだろうか。

米軍基地ではないから、日本政府が日本の領地に日本を自衛する部隊のための施設を作るのだから、文句はないだろう、ということなのだろうか。アメリカから買い入れる防衛装備を配備する場所も必要だから?

ほとんど時代錯誤的な気がする。

日米何とかの問題とか、沖縄差別の問題とか、自主防衛の問題とかの以前に、環境破壊「だけ」でも今は「アウト」な時代であるはずだ。

普天間移設のための辺野古の埋め立て、などと言われると、「米軍基地」という枠で語られるから、安全保障問題ばかりがクローズアップされるけれど、そもそも、軍産企業の利益のために環境破壊をすること自体が既に問題なのでは?

思えば、フランシスコ教皇は回勅『ラウダトシー』で環境破壊を激しく糾弾した。

軍産複合体の功利追及はもちろんだが、どこの国がどういう兵器を持っているからどういうリスクがあってどう対応するか、という「戦略」上の問題ですら、人間が自分の住んでいる惑星を汚染し破壊していくという「いのちの冒涜」の重大さと同じレベルで語れるものではない。

米軍基地であろうと自衛隊施設であろうと、世界中で増幅するばかりの無用な空港や道路であろうと、環境をむしばみ、自然災害を助長し、将来に生きる世代の命をおびやかすものにはきっちりと「否」を表明することが今の恩恵を受けて生きている私たちの義務なんだろう。

沖縄でも、基地建設も、リゾート施設やゴルフ場などの「開発」も、「うちでは困る」というような抗議の段階をもはや超えている気がする。


基地の場所を提供して補償金をもらえるだとか原発誘致で地方が潤うだとか、リゾート施設の観光客誘致で経済が活性化するだとかの論理は、考えてみるとみな「金」の論理だ。時代を見据えた命の質、生活の質は視野に入っていない。

戦争がおきればもちろん環境も人も破壊されるけれど、さまざまな「便利」の追求も、度が過ぎると環境や人の尊厳を確実に破壊していく。

沖縄の方から「沖縄のことを考えてくださってありがとうございます」というお言葉をいただいたのだけれど、「沖縄を考えること」で見えてくるのは、「沖縄のこと」ではなくて、自分自身の中にあるさまざまな誘惑だとつくづく思う。


とりあえず自分の「今いるところ」が便利で安全で快適であればよし、

という短いスパンのエゴイズムに依拠する「基準」の妥当性と向かい合うことを余儀なくされる。

パリの寒空の街角で物乞いをしている人をじかに見たり、難民の深刻な状況をTVで見たり、貧困の中で孤立する人についての記事を読んだりする度にも、「このままでいいのか」とか「何とかしなくては」という思いとが浮かび上がる。でもまた、それがすぐに薄れることで逆にひそかに溜まってくる罪悪感がある。さらにその罪悪感を自覚することで後ろめたさが多少薄れる、という繰り返しだ。

沖縄の地理も歴史も、「本土」の人からは遠いかもしれないけれど、日本からもっとずっと遠くに暮らしている私には、切り離せない一体だ。


前の記事にも書いたけれど、東京で台風情報を見ている時は、「ああ、まだ沖縄でよかった」などと思うけれど、フランスから見ていると、沖縄の危機は日本の危機、私が安全に豊かに暮らせてきた日本での生活は沖縄の人々の犠牲と一体だったのだと覚醒できる。

パリのメトロの階段でうずくまっている人から目をそらすことよりも、沖縄のことを考えないことの方が難しい。

「沖縄のことを考えさせてくださってありがとうございます」と言いたいのは、私の方だ。


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# by mariastella | 2017-12-23 07:07 | 雑感

「普遍」について思うこと

このところ沖縄関係の番組をネットで続けて視聴したせいもあって、沖縄をめぐる他のいろいろな記事もザッピングした。糸数慶子さんという参議院議員の方がいて、かっこいいな、と思った。すると国連の女性差別撤廃委員会で沖縄の民族衣装をつけたこの方をコスプレだと言うなどして、攻撃する人も少なくないのを知った。


彼女を批判する言葉は「サヨク」とか「プロ市民」とかのお決まりのものもあるのだけれど、意外だったのは女性で彼女を批判する人が結構いることだ。女性を批判する女性って、男性から「重宝されている」気がする。

彼女らの中には国連の女性差別撤廃条約反対とか、男女共同参画社会反対とか、カジノ解禁、原発、九条改正、核武装はOKのようなことを表明する人がいる。そう、これらの争点には共通したものがある。力や金の強者の論理の中には当然「男尊女卑」みたいなものが組み込まれるからだ。だから、女性論者がそれをまとめて支持してくれたら、「ほーら、少なくとも、女性も賛成してるだろ」というのでその部分の批判をかわせる「都合のいい」キャラクターになるのだ。

彼女らがかわいいとか美人だとかならもっと便利だ。フェミニストでギャーギャー言うのは「女として男に相手にされない」やつだというステレオタイプを補強できるからだ。


で、沖縄の基地問題にも、そういう人がいて、沖縄防衛情報局とかの主任というGさんという女性が若くてかわいくて、話し方も感じがいい。沖縄タイムスとか琉球新報とかがいかに偏向しているか、一部のサヨクがどんなに沖縄の世論について誤解を与えているかなど、熱心に放送している。ネトウヨのアイドルなんだそうだ。私はこの手のネット放送は視聴しないことにしているのだけれど、このG さんがこんな風に信念を持った感じでがんばっているのがシュールでかなり見てしまった。お父さんの影響だという。彼女は早稲田大学を出ているのだから、そのまま東京で就職する選択もあっただろうけれど故郷に戻って「極右」化していく。


逆に、東京で就職していたのに、故郷に戻って米軍基地への反対運動に積極的に携わる女性もいる。こういう沖縄のコミュニタリアニズムというのも不思議と言えば不思議だ。


いろいろな地方から、いろいろな国から志を同じくする人々がやってきて平和のために連帯するという方が私には自然だと思う。それがアメリカ人だって不思議ではない。那覇新司教に任命されたウェイン師が慕われているのを見ても分かる。


多様であればあるほどいい。


それなのに、高江ヘリパッド増設反対の座り込みで多くの人がよそから来た運動家だとか、本当の沖縄の人は実は賛成している人が多いとか、そういうことが基地支持の根拠にされているのに驚く。


実際は、反対派の人はグアムの人とも共同声明を出しているとかで、連帯を広げていくのはいいことだと思うのに、「地元の問題だから地元民が本気で騒ぐなら許せるが部外者に利用されるのはよくない」という批判の仕方がある程度通用して、反発の材料になること自体が不思議だ。


それは「本土」でのいろいろな「運動」も同じで、実は純粋な日本人じゃない者が混ざっているとか煽動しているとかいうのが批判の理由として通用しているのも不思議だと思っていた。

多様な人々が連帯できる普遍性を持つ理念にのっとった運動の方が長い目で見て本当の前進が可能になると思うのだけれど。


いわゆる「人種」だって、実は生物学上の種とは関係がないからいくらでも他人種間で子供を作ることができる。他国籍間は言わずもがなだ。もともと移民国家であるアメリカのニューヨークなどの大都市には、本当にいろいろな国の人がいるばかりでなく、何代にもわたっていろいろな国出身の先祖を持つ人や、いろいろな国で暮らしてきた人もたくさんいる。もちろん、パリやロンドンでも同じだ。そんな人たちの多くは、祖先のうち一部の人の出身共同体のために特に帰属意識を持つこともなく、「ルーツ」に戻ることが必要というわけでもない。


むしろ「普遍」という感性を獲得していく。


そして、「普遍」の感性で結ばれた共生でしか本当の共生、「共に生きる」ことはできないと分かってくる。みんなが一つの大きな命の一部分なのだから、どこかで排除し合っていたり攻撃し合っていたりしたら、自己免疫疾患みたいなものだ。


弱い部分の声に耳をすまそう。そして、「共に生きる」ということの意味を語っていこう。


視座が変われば見え方は変わる。

視野を広げれば見えなかったものが見える。

見え方が変わることを経験すれば、見えるものが増えてくれば、見えないものへの感性も養われる。

実用とか、リアルポリティクスとか、目先の損得とか、行き過ぎた「今ここで」主義とかによって、共に生きるいのちの意味を矮小化してはいけない。


何を考え何を選択するにしても、まずそのことを自分で何度も言い聞かせておかなくては、とあらためて思う。
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# by mariastella | 2017-12-22 07:19 | 雑感

クリスマスツリーのマトルーショカ

いつだったかパリのクリスマスマーケットで買ったクリスマスツリーのマトルーショカ。
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と、こんな感じです。クリスマスツリーとかは猫ゾーンに置けないので、猫ゾーンには落とされても壊れないこういう木の小物ばかり。(鍋置きのタイルはリスボンで買ったもの)
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# by mariastella | 2017-12-21 07:15 |

ロザリオの十字架

私はあちこちの教会などを訪れる時、メダルやロザリオなどの小物を買うのが好き。

たいていは人に差し上げる。
日本人の場合は普通、アクセサリー感覚や旅行のお土産感覚で喜んでくれるけれどフランス人なら、相手の宗教などによって微妙だから結構気を使うので、カトリックだと分かっている人にしか上げられない。

今の季節、毎年、生徒たちにクリスマスソングをアレンジしてあげるけれど、「クリスマスを祝わない」のが信条や方針になっている家庭もあるので要注意。

それでもレッスン室にクリスマスの飾りつけを毎年している。

で、先日、ふとイタリア製のロザリオを手に取ると、十字架のイエスの脚がなにか不自然に開いているのが気になった。
膝がしっかりと開いているのだ。

よく見ると、その奥に見える十字架の木の部分が青い。
青は聖母の色で、ロザリオの祈りも聖母に捧げるのが中心だから、この青い部分にひょっとして聖母の姿でも刻まれている?

いやいや日本じゃあるまいしそんな細かい細工がしてあるわけがない。
日本の数珠などの信心用具に珠の一部が凸レンズになっていて除くと仏さまや観音さまの絵や梵字が見えるものがあるからそれを連想してルーペで見てみた。

分からない。多分、何もないのだろう。
でも、その気になるとなんでも見えてくる。
他のロザリオや十字架をチェックしたら、そんな風に開いているものはなかった。
これまでは十字架上のイエスの視線、顔の向き、上か下か右か左かをチェックしてその歴史や意図、神学的意味をいろいろ調べたのだが、脚は考えたことがなかった。
真っすぐ、足の甲の部分だけ交差、脚も交差、膝が曲がっているけれど平行、イーゼンハイムの祭壇画のようにやや内股、などいろいろあっても、こんな不自然なのはあったっけ…?

ついでにネットでも検索した。何となく仮説が浮かばないでもないが、もっと調べてみよう。(この十字架を作ったメーカーも分かっているので検索したのだけれど何も載っていなかった。)
下が拡大写真。実物は開いた脚の後ろの部分がもっとはっきりと青い。何だかイエスの視線も、まっすぐ下を向いていて膝の後ろをのぞき込んでいるように見えたりして。

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# by mariastella | 2017-12-20 03:33 | 雑感

『沖縄と核』

『沖縄と核』

9月に放映された分の『沖縄と核』をYoutubeで視聴した。


ネットにある賛否両論の感想も読んだ。


普通の「本土」の人にとって、沖縄は、地理的、歴史的にもそうだけれど、心理的にもいかに「遠い」のか、と思い知らされる。

この秋に日本に行った時に、一週間おきに二度も台風に遭遇して困った。楽器を持っての移動のことなど気になって、何度も天気予報をチェックした。

そのたびに、「今、那覇は暴風圏に入って…」などと南国風の街路樹が強風に揺れる映像が出てきた。

そしてそのたびに、私は、「ああ、まだ沖縄か、まあ、東京に来る頃には勢力が落ちているだろうな」などと希望的観測をしていた。

その奥には、「東京直撃だったらいやだけれど、まず他のところに上陸して被害を巻き散らして勢力が弱まればいい」というような気持が無意識にあったような気がする。


東京から見る沖縄の「遠さ」はロンドンにとってのスコットランドやアイルランド、マドリッドにとってのカタルーニャどころではない。


この「遠さ」があるからこそ、平気で「核の傘」とか「抑止力」とかの「本土防衛」が成立したのだろう、と今さら考えさせられる。


第二次大戦の証言者はどんどん少なくなっているけれど、キューバ危機の頃の証言者はまだ見つかって、それでもみな高齢だからか、恐れることなく証言しているのは貴重だ。「沖縄の人は知る権利があると思う」と言っているのが印象的だった。

日本に米軍基地がなければ、北朝鮮や中国が日本を攻撃する必然性はないに等しい、という考えは確かにそうだと思う。

北朝鮮の今の核開発は対アメリカのもので、日本を敵視するだけならのすでにノドンだのテポドンがある。

「核保有国の中で核兵器を使って他国を恫喝、攻撃する国は米国だけだ」という北朝鮮の反論も実情に合っているのかもしれない。


すでに、ソ連、中国という「隣国」との核戦争の危機を切り抜けたのに、今のロシアも中国も核兵器を廃棄はしていない。

軍産複合体の利益を考えずに純粋に日本の「平和」を考えるなら、少なくとも、

東北アジア非核地帯条約のようなものが実現すればよかったのに。


いや、過去形で書いてはいけない。

そして、たとえ「東北アジア」が非核地帯になったとしても、世界のどこで核兵器が使われてもそれは環境破壊と人類絶滅につながるのだから、やはり地球全体を「非核地帯」にするという視野を失ってはならない。

「暫定的」であるべき核の抑止力、核の均衡などを「偶像化」してはならない。

どんなリアルポリティクスも、最も小さい命をもリスペクトするという「あるべき姿」を見失ってはならない、とつくづく思う。


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# by mariastella | 2017-12-19 00:05 | 雑感

『ペリーの告白』

NHK放送の元米国防長官『ペリーの告白』


というのを紹介してもらって視聴した。


このペリーさんは、定年制のないアメリカの大学で、90歳でも教鞭をとっているそうだ。

黒船来航のペリー提督の五代後の縁戚に当たるという。

94年から97年まで国防長官で、2002年には日本の安全保障に寄与したとして勲一等を授与されているそうだ。


日本のTVがペリーさんのサンフランシスコの自宅に迎えられる最初のシーンに、96年に日本の国務大臣(防衛庁長官)臼井日出夫と署名のある「守正不撓」という書が額装されて飾ってあるのが目についた。

そういえば東京都前知事の舛添さんも、自分の書を外国人に寄贈することがあるので中国で書の道具だとか書を書きやすい服だとかを「公費」で買っているなどと追及されていたのを思い出した。

日本の政治家って、こういう「揮毫」が教養のひとつなんだろうか。

でも書いている言葉は中国由来のものがほとんどで、仮名文字のような日本的な感じはしない。

毛沢東も揮毫しているようだけれど、今の中国は簡体字を使っているが、共産党の高官などは今でも「揮毫」を政治的、外交的に使っているのだろうか。


で、例によって臼井氏の書についてネットで検索すると、「衆議院議員 臼井日出夫」の名で、「種谷扇舟氏、書の源と創造」という記事がヒットした。


>>
会場に入ると、多くの大作の中で、圧倒的な迫力で迫ってくるのが、会場中央に掲げてある「謝々中国」「感激人民」の書である。
 扇舟氏は極めて繊細な筆致の作品をたくさん仕上げておられるので、良い作品はそうしたものの中に多いように思う。しかしこの作品のあの肉太の力量感あふれる筆致は、扇舟氏が生涯をかけて愛した中国の書に打ち込んだ作品としての圧倒的な迫力がみなぎっており、大好きな書である。
 私は高校2年生の時に、書道を選択することによって、扇舟氏にご指導いただく機会を得た。当時、剣道部に所属していたバンカラの私の字は、「三悪筆」といわれるくらいひどかったのだが、振り返ってみて、そのワーストスリーから脱出できたのは、扇舟氏の「臼井君、君は自分の字が下手だと心配することはないよ。広い中国には、君の『字』の手本になる『名筆』がちゃんといるからね」の一言だった。
 「うまくなりたい」と力んでいた私の肩から力がスーっと抜けていった。楽しく学んだ1年間、それから書道が大好きになった。<<

だそうだ。


神道政治連盟国会議員懇談会メンバーという臼井氏の経歴から見て、この時の「謝々中国」「感激人民」という書の言葉は皮肉な感じがしないでもないが、ともかく書に自信がおありの方のようだ。

で、本編で、沖縄県知事だった同年配の大田昌秀氏と個人的に交流のあったペリーさんは、普天間基地を移設すべきだが、沖縄の人々の負担は軽くしたい、沖縄以外の場所でも十分機能は果たせる、と当時日本政府に言ったのに結局沖縄のままとなった、と遺憾の念を口にしている。

その「日本側」の防衛庁長官が寄贈した書が「守正不撓」だって。

たわむことなく正義を守るという意味だろう。

似たような言葉に「守正不阿」というのがある。

おもねることなく正義を守るということだ。加計問題の前川喜平さんのことが思い浮かぶ。


こんな書を日本の防衛庁長官がアメリカの国防長官に揮毫していたんだなあ…。


ちょうど、矢部宏治さんが田原総一朗さんとの対談(講談社『本』2017/11)で、富士の演習場の例を挙げて、自衛隊に返還されてからも密約で米軍が優先的に使える、管理経費がかからないし米軍基地でないから周辺住民の反対運動も少ないのではるかに都合がよかった、沖縄でも、辺野古ができた後で普天間を日本に返しても米軍が優先的に使うということだってあり得るかもしれない、と話しているのを読んだところでもある。

『ペリーの告白』、この人の立場でこの人の世代であれば「抑止力」の刷り込みは深く、「米軍基地こそがリスクはあっても戦争勃発を抑止する唯一の手段」という限界があるのはしょうがないと言えばしょうがない。

でも、この人でさえ、今の情勢の方が過去よりも深刻であること、でも、まだ遅すぎるということはない、と言っている。

米軍兵士の一人一人、殺し殺されることも想定した命令に従わなければならない人たち、日本がアメリカの捨て石に、沖縄が日本の捨て石にされているように、名のない一人一人の米軍兵士たちも、歴史の壮大な過ちの犠牲者だ。


11月に「核の抑止力」を否定したフランシスコ教皇とつながるカトリックの那覇教区の新司教に任命されたのがカプチン会の米人司祭だと前の記事で書いた。


沖縄の問題は、単に基地の移転の問題や、犠牲の押し付けなどの問題ではない。米軍機が低空飛行する危険にさらされた住民だけの問題でもない。もっともっと根本的な、「いのち」への視線の問題だ。戦争の多くの犠牲者のいのちを思うことは、「力」によって脅かされているすべての人のいのちを思うことだ。


闇の中にいるからこそ一筋の光が見える、という言葉の意味を改めて考える。


( BSで『沖縄の核』というのが放映されたようです。ペリーさんの国防長官の頃は冷戦後ですがさて、「沖縄の核」については何も言ってないなあ、とあらためて思いました。)


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# by mariastella | 2017-12-18 00:05 | 雑感

『キリスト教は「宗教」ではない』と核兵器禁止条約

10月に出した新書の短評が東京新聞に出たのを送っていただいた。
ほんとうに短いものだけれど、書いた方はこの本をちゃんと読んでくれたんだなあ、と思う。

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あまり「生き方マニュアル」とばかり強調されると、まるでイエスが宗教者ではなかったように誤解されるのではないかと心配だったが、確かに、イエスは少なくとも「キリスト教の教義」は説いていない。

イエスはユダヤ教のコミュニティに生まれ、養父も母のマリアもユダヤ教の教義を守り、息子をその伝統の中で育て、イエスはラビとして尊敬されていた。

けれどもイエスは、当時のユダヤ教が「聖なるもの」を神殿とその祭司に占有させて、遵法第一主義であったことを批判した。

この時代のこのシチュエーション(ユダヤの国がローマ帝国の属国になっていた)で、共同体を超えた自由、平等、博愛、弱者への寄り添い、報復の否定などを唱える人が出てきたなんてまるで奇跡のようだ。(キリスト教的には奇跡というより子なる神の受肉だけど)

今のローマ教皇フランシスコは、11月にヴァティカンで行われたシンポジウムで、ついに、核兵器廃絶を口にした。

1960年代の第二ヴァティカン公会議の時代は、冷戦のまっただ中だった。

だから、「大量破壊兵器の使用は、たとえ正当防衛の場合でも」「神に対する犯罪、人類に対する犯罪」だとしてはいたが、いわゆる「抑止力」としての核兵器所有まで否定するところまでは踏み込めなかった。

いろいろな意見が戦わされたけれど、結局、「Gaudium et spes の中に、科学兵器の所有はそれを使用することだけを目的にするのではなく、国家間の一定の平和を保つ最も有効な手段だと考える者が多い、と記された。

アメリカの司教たちが、「抑止兵器を非道徳的だと教会が断言しても、それに影響されるのは西洋キリスト教圏の国だけだ」と唱えたので、「抑止力としての核兵器の所有」は、是認もされず弾劾もされず、「暫定的に容認」されることになったのだ。(共産国ソ連は無神論の国だった)

つまり、敵対する国が互いを破壊しつくせるという「脅威」が逆説的に平和を保つということを認めはしても、そのような均衡は安定的な平和も、真の平和ももたらさない、として、「脅威による均衡」は人間のより尊厳あるやり方によって紛争解決の手段を見つけるまでの猶予期間であるとしていたのだ。

15年後にユーロミサイルの設置について、ヨハネ=パウロ二世も、それを真の段階的武装解除に向かうまでのひとつの段階としてはまだ道徳的に受け入れられる、とした。けれども、最終的に到達すべき目的は世界を核の脅威から解放することだというのは忘れなかった。

1981年の広島で、教皇は「軍縮とすべての核兵器廃絶のため、たゆむことなく努力することを人類の同胞すべてに約束しましょう」と語った。

けれども198311月、フランス司教団は、マルクス=レーニン主義の攻撃的な脅威の前では核抑止力は暫定的に正当化される、とあらためて発表している。「使用は禁止、所有は容認」の立場が続いたのだ。

しかしソ連の核を念頭に置いた脅威は冷戦の終わりによってなくなった。ロシアではキリスト教のロシア正教が復活した。

1993年の国連で、ヴァティカン代表のマルティの枢機卿は、 

核兵器を21世紀まで持ち続けることはもはや平和の維持ではなくて平和を危うくする、

地球全体の安全という新しい時代に到達するための根本的な障害となる、

と訴えた。

現在、

ひと握りの国の国益を人類の共通善に優先させることは道徳的に許されない、

というフランシスコ教皇は、第二ヴァティカン公会議で設けられた「猶予期間」は終わったとする。

核の均衡は「恐れという論理」の上に成り立っているが、それは紛争中の二国間の脅威ではなく今や全地球の人類の脅威であり、しかも、他のあらゆる「技術」と同じように、事故の可能性はついてまわる。

核兵器の使用だけではなく所有も許してはならない。

フランシスコ教皇は、「死刑」についても、これまでの教皇が死刑存続国にある程度配慮していたのと違って、絶対廃止の立場を明確にしている。

いろいろな国にとってこれほど「不都合なこと」をいう教皇が出て、しかもそのメッセージが今の情報社会ではすぐに世界中に広がる。

おおいに嫌われても不思議ではないし、実際に批判もされている。

でも、キリスト教文化圏の国の指導者が福音書のイエス・キリストの言葉をまともに読めば、

教皇の言っていることも「キリスト教の教義」などではなくて、福音書のダイレクト・メッセージであることは明白だ。

今年、核兵器禁止条約の活動がノーベル平和賞を受賞した。

日本語では広島ブログ(これとかこれ)を読んだ。

フランス語では、この記事の参考にしたカトリック雑誌(La Vie 3772)の同じ号に、国際政治学者の道下徳成さんという人への長いインタビューがあって、金正恩は日本と友達になりたがっている、と書いてあった。詳しいことはここに書かないが、この人はキリスト教徒なのかなあと興味を持って検索してみたが、ネットの世界では、両親ともに北朝鮮人だとか北朝鮮のスパイだなどの中傷がでてきた。

こんなことばが横行するレベルでは核廃絶や平和の道などはるか彼方なのだろうと愕然とする。





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# by mariastella | 2017-12-17 00:05 | 雑感

まさかのジョニー・アリディ

「全フランスが泣いている」式のジョニー・アリディの死にまつわる狂騒を冷ややかに見ていた私が、いやでもいろいろ目に入るので考えさせられたことがある。

まず、彼の葬列と葬儀。


下は、マドレーヌ寺院での葬儀。離婚歴のあるピアフが教会での葬儀を断られたのとは隔世の感がある。

事実婚も含めて5人の伴侶がいたジョニーの葬儀を司式したのはパリの補佐司教、事実上のトップ。

ジョニーがちゃんと洗礼を受けていた、つまり神に愛されていたことを強調し、ジョニーがジャーナリストのインタビューに答えて「どう思われてもいいけれど僕はキリスト教徒のままだろう。イエスが僕にはらをたてたりしないのは確かだと思う」と言っていたことを紹介した。外の大スクリーンでミサの様子を見ていた群衆も微動もしないで真剣に聞いていたそうだ。



これ等の画像を見ていて、ショックだったのは、圧倒的に「白人のフランス」だということだ。


もちろんニュースなどでは「全フランスが泣く」のにふさわしく黒人やアラブ人やアジア人の姿も映されてはいたけれど、ジョニーの死を嘆いて実際に集まる人のほとんどは白人だ。


ほとんど、トランプ大統領の就任式の中継を連想した。


トランプ大統領を英雄視する人たちとジョニーを英雄視する人たちは、「白人」が多いということだ。

パリのように普段はとても国際的でいろいろな人種が混在している場所で、圧倒的に白人が集まり、地方からもわざわざ出てきているのだ。


それを思うと、今さらだけれど、2015年の初めにあったシャルリー・エブド事件の後の「表現の自由」を掲げる共和国デモ行進の「白人率」に思い当たる。

あの時は、ねらわれたのがカリカチュアを掲げる週刊新聞の編集会議で、人気のカリカチュア作家たちが特定宗教の「冒涜者」だとされて殺されたのだから、政教分離と信教の自由と表現の自由を国是とするフランスの共和国主義が大反発したのは理解できる。


世界各国の首脳がやってきてオランド大統領と共に行進した。そこにはアラブ諸国の首脳もブラック・アフリカ諸国の首脳も並んでいた。だから、特に「白人」という意識はなかった。「全フランスが思想テロを糾弾する」という言い方は自然だった。


でも、確かにあの時も、移民の子弟の多いリセなどで黙禱を拒否したり、SNSでイスラム過激派を擁護したりするような生徒がいたこともニュースになり批判されていた。

信者数でフランス第二の宗教となっているイスラムの信者のコミュニティは、自分たちもフランスの共和主義を是とし、過激派を弾劾する、と言っていたけれど、それでも、デモ行進に積極的に参加することの心理的ハードルの高さを語った人もいた。


その時は、テロにも屈することのない表現の自由の国フランス、というのに満足していたし一種の高揚感も覚えていたので、全体主義的な同調圧力は感じていなかった。


それから、10ヶ月後に、無差別多発テロが起こり、次の年にはニースのテロがあり、どちらも多くの外国人がいて、ムスリムも犠牲者になった。

それはもはや「表現の自由」ではなくて、サッカーの試合を見たり、音楽を聴いたり、カフェで談笑したり、海岸で花火を見たりという「楽しんで生きる自由」への挑戦だったので、非常事態宣言がなされたせいもあるが、もう1月の大規模デモ行進のようなものはなく、犠牲者への追悼も、災害の犠牲者への追悼のようになった。

テロも、フランスの共和国イデオロギーへの挑戦というよりは、中東のISを掃討しようとする「有志連合」への報復だという文脈で語られるようになったからだ。

「楽しんで生きる自由」を謳歌できるのは新自由主義経済の諸国だから、実は、その弱肉強食のシステムの中で疎外されていく人々の怒りや絶望をどうするかというアプローチももちろんなかったわけではない。けれども、「一般人の無差別殺傷」が絶対悪だという事実と、強化される「安全対策」による縛りとが、論点を見えにくくしてしまった。

その後で、まさかのトランプ大統領の登場。

「アメリカ・ファースト」に熱狂するプア・ホワイトとか中西部のラストベルトの人々の姿。

黒人スポーツ選手たちのレジスタンス。


あれに比べたら、フランスはずっとましだよなあ、共和国ユニヴァーサリズム支持が行き渡っている、と思えた若いマクロン大統領の登場。


で、今回、ジョニー・アリディの死に慟哭し彼を崇める「全フランス」。


その人たちの映像が、すごく「白人」率が高くて、地方から駆け付ける人も多くて、トランプ支持派のイメージと重なった。

ジョニーがサルコジを応援したように政治的に「保守」シンパであることはもちろん誰でも知っていることだけれど。


彼の死とそれについての言説の中で、今まで見えてこなかった何かが見えてくる。

 

もう一つは、特別番組として2005年制作のローラン・チュエル監督の『 Jean-Philippeジャン=フィリップ』という映画がTVで放映されたのを観たことだ。

ジョニーが俳優として悪くないのを知っているし、共演のファブリス・ルキーニが名優だからなんとなく見てしまった。


ジャン=フィリップというのはジョニーの本名だ。(ラモーと同じ名前 !



ストーリーはファブリスという男がジョニーの歌を外でやかましく歌っていて殴られて気を失うことから展開する。

ファブリスは、ジョニーの大ファンで膨大なグッズを持っているコレクターだ。でも、病院で目を覚ましたら、そこはジョニーの存在しないパラレルワールドだった。

他のすべては妻子も含めて同じなのに、ジョニーがいない。ジョニーのいない世界には耐えられない。

で、本名から検索し、ようやく、ボーリング場を経営している60歳のジャン=フィリップを探し当てる。

妻に去られかけていて、息子と二人暮らしの、疲れの見える初老の男だ。

ファブリスは仕事もやめてジャン=フィリップをジョニー・アリディに育て上げる決心をする。

ジョニーの歌は歌詞もメロディもコードも全部覚えている。

ジャン=フィリップは若い時に書いた歌詞をファブリスがすらすらと書くことに驚く。

ジャン=フィリップはジョニーとしてデビューしようとした時に交通事故に遭って、歌手になる人生を40年前にあきらめてすべてを封印していたのだ。

それから、筋トレも含めて、ファブリスが必死にジャン=フィリップをサポートする。

しかしそううまくはいかない。絶望した時にわざと殴られてこの世を終わらせようとするけれど、気を失っても元の世界に戻れない。

でもジャン=フィリップが斃れているファブリスを助けてくれた。二人の間にはいつか友情と信頼が生まれていたのだ。

で、いろいろあって、最終的に、ジャン=フィリップはサッカーの大スタジアムで突然歌って観衆の心をつかむのだけれど、ファブリスは殴られて気を失う。

気が付いたら自分のうちのベッドの上。

会社に行かなくては、と慌てて出社するが、みんなにじろじろと見られる。

おそるおそる、「ファブリス・ルキーニさんですよね」と言われてサインを求められる。

また別のパラレル・ワールドに来てしまったのだ。

携帯が鳴る。

ジョニーからだった。

実際に友人同士である歌手のジョニー・アリディと俳優のファブリス・ルキーニが生きる世界に降り立ったというわけだ。

二人はデュオで歌う。

現実と虚構が重なったり移ろったりとかなり芸の細かい脚本だ。


若い頃の夢を封印した60歳の男に、そのポテンシャルを信じさせて、彼がなるはずだった者に短期間に仕たてあげることができるのかか、自信と自信喪失と信頼と懐疑、情熱と希望と夢。


ファブリス・ルキーニの演技がうまいのは知っているが、若い頃の事故という偶然で人生を棒に振った男の哀愁と尊厳を演じるジョニーはなかなかのものだ。


そうか、この、破天荒な生活を続けたロックンローラーの秘める、ある種の無防備な弱さというものに人々は惹きつけられるのかもしれない。

夢見ていた人生を送ることがかなわずに初老の域に入ったジゃン・フィリップと同年配の「白人」たちに、夢を見続けさせる何かをジョニーは持っているのだ。


ジョニーは最初、この作品を拒否したそうで、ルキーニも断ったという。

でも、友人同士である2人は、互いに、互いの共演ならということで最終的に引き受けたという。

大いなるお遊び、贅沢な遊びといえる映画だが、ジョニー・アリディがフランスの国民的歌手であるという前提を共有していなければ分からない。

ジョニーのファンは確実に動員できるということでフランスでは商業的に成り立ったのだろう。

これからDVDなども売れるだろうな。

やぼなことを言えば、一卵性双生児だって40年も別の環境で別の暮らし方をしていたら外見も含めて違いが出てくるものだから、パラレルワールドで無名の男だったジャン=フィリップが、60歳になって、いきなりロックスターのジョニー・アリディに変身できるのか、あるいはそれをファブリスに確信させる要素を持ち続けているかというのは、説得力が少ない。

ジョニーはジョニーのままだ。

それでも、ジャン=フィリップの悲哀と底に秘める尊厳とやさしさとをにじませる演技はなかなかのものだった。


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# by mariastella | 2017-12-16 00:05 | 映画

ベアトリス・マッサンの『MASS B』

ベアトリス・マッサンと言えば、クリスティーヌ・ベイルやセシリア・グラシア=ムーラと共に、1980代にフランシーヌ・ランスローが始めた記念すべきバロック・ダンス・カンパニーのRis & Danceriesに加わったフランス・バロック・バレーの先駆者の一人だ。

私も20年以上くらい前に、バロック・バレーの講演会で彼女の話を聞いたことがある。エネルギッシュな感じだった。

私は亡くなる前のフランシーヌと一度だけ会ったことがある。

7区のコンセルヴァトワールではセシリアのバロック・バレーのクラスに初級から上級まで7年くらい通い、フゥィエの振り付け譜の読み方の講座、バロック舞曲の区別の仕方の講座、スペイン・バロックの研修などを受けた。並行して14区でクリスティーヌのルネサンスダンス、イタリア・バロック、バロック・ジェスチュエル、朗誦法の研修も受け、彼女のバロック・バレー・クラスで踊るようになってからももう10年以上経つ。

セシリアはアカデミックなアプローチが魅力的で、クリスティーヌは何よりも人柄に惹きつけられる。セシリアのクラスからクリスティーヌのクラスに移ってきた人は少なくない。

なんだかんだ言ってもマイナーであり続けるバロック・バレーの世界、認められるのも稼ぐのも楽ではない。セシリアの方がクリスティーヌよりもセルフ・プロデュースの力があるし、「名を売る」という点では、ベアトリス・マッサンがいつの間にかビッグネームになっている。

ではベアトリスがバロック・バレーを続けているかというと、実は「ネオ・バロック」と称して、時代に合わせた新しいバロック・バレーを提唱してコンテンポラリー・ダンスを展開しているのだ。

MASS Bというのはもちろん自分の名のBEATRICEMASSINをかけた言葉遊びだろうが、バッハのロ短調(Bマイナー)ミサ(Mass)のこととしていて、それにリゲティの現代曲を配したものを切れ目なく10人のダンサーが1時間踊り続ける。

踊るというより、半分以上は全速力で走ったり跳んだりだから、すごい体力だ。

途中で舞台の上でスポーツドリンクかなんかを補給している。最後の方で二度ほどわざと音が途切れるシーンがあって、その時にはダンサーたちのハアハアという呼吸が聞えてくるのもすごい演出だ。突然リアルに引き戻されるる

バロック・バレーのステップなどは、パ・ド・ブーレ・アン・トゥルナン(回転パ・ド・ブレ)が使われる以外は、腕の形が時々とってつけたようにバロックの4番に固定されるくらいで、これではプログラムに「バロック・バレーの権威であるベアトリス・マッサン」を強調している意味が不明だ。

10人がばらばらでいて全体的に有機的な動きをしているのは、まさにポリフォニーという感じで、踊りが音符のようだ。「音の空間と体の空間の関係の魔法」という形容がされていたが、本当に動きが音符のように繰り出される。

その音符がバッハなのだから動きは複雑精妙でテンポが速い。

全員がほとんど出ずっぱりの1時間だから、踊りのディティールよりも「力技」であり、それでもあまりにもスムーズなので体の動きがデジタルみたいに見える。

不思議な時間だった。


しかし、これでは、クリスティーヌよりは若いだはずだが60代になっているだろうベアトリスには自分で踊る体力はないだろうな、と思う。

終わった後で、ベアトリスが舞台上に出てきたが、その体型に驚いた。

普通の小太りのおばさん、という感じで、構成や振付は別としてダンサーとしてはもう現役ではないというのが明らかに分かる。

71歳のクリスティーヌは現役で、体型もまったく変わっていない。

バロック・バレーだからアクロバティックな動きはなく、体力的にも可能だ。

クラシック・バレーの70代の先生だって「踊れる体」を維持している人はいる。

ダンサーにはいろいろな生き方があるし、体質もあるだろうけれど、クリスティーヌのエスプリとダンサーの体は切り離せない。

ベアトリスとは個人的に話したこともないしいっしょに踊ったこともないけれど、もしこの20年をベアトリスの近くで過ごしていたとしたら、彼女の体型と共に彼女との関係が変わっていただろうか、などと考えてしまった。

数年前に80歳近いヨネヤマママコさんのパントマイムの舞台を見た。

彼女の姿は、私が知り合って以来20年変わらない。

彼女の動きとエスプリ、マイムの振付は、その舞台となる彼女の体と切り離せない。

体を見せて動かす舞台人の難しさだ。


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# by mariastella | 2017-12-15 00:05 | 踊り

フランスにサンタクロースが来た話

フランスでは、クリスマスにやってくる「サンタクロース」は「ペール・ノエル」とか「パパ・ノエル」と呼ばれる。ノエルは「誕生」で、イエス・キリストの誕生日。

「ペール」はお父さんだ。

「プチ・パパ・ノエル」という有名な歌があって、ぼくの靴下、忘れないでね、でも外ではちゃんと暖かくして、風邪ひかないで、風邪ひいたら、それは少しは僕のせいだから、みたいな子供によるかわいいサンタ・クロースへの呼びかけだ。

よく知られていることだが、サンタ・クロースはコカ・コーラだかの宣伝で広まったアメリカ発のキャラクターで、ヨーロッパでは子供にプレゼントを配る聖ニコラウス(フランスではサン・ニコラ)に当たる。

サン・ニコラの祝日は12/6で、ひと昔前までは子供へのプレゼントも、子供のための年末のお祭りも12/6だった。

で、アメリカ発のサンタ・クロース(ニコラウスからクラウス、クロース)をサン・ニコラとは呼べないので、たんに「クリスマスおじいちゃん」みたいなニュアンスで「パパ・ノエル」と呼ばれていたのだ。

この時点で、聖人との接点のない、スカンジナビアに住んでトナカイのそりに乗ってやってくる年末のプレゼント配りのキャラだ。

それが、今年からは、「ブラック・マンデー」のセールと同じように「サンタ・ロース」が登場した。フランスとは関係なかったハロウィーンがフランスでお祭りになったのはもう10年以上になると思うが、ブラック・マンデーは今年初めて大手スーパーチェーンがキャッチコピーに採用した。

そして、今年の年末の家族向きコメディのフランス映画にはじめて『SANTA & Cie』というのが登場した

。警察に連行されたサンタ・クロースが姓名をきかれて、名はサンタ、姓はクロース、などと答えている。


コマーシャルにも、

「あ、君はひょっとして、サンタ・クロース?」と聞かれた女性が

「私はシャンタル・クロッシュよ、」などと答えるのがあった。(クロッシュという何かのブランド)


世のアメリカ化という名のグローバリゼーションの波は世界を呑み込む。


おかげで、昔はフランス人からはぞっとされていた「魚を生で食べる」というのも、アメリカのsushiブームを経由して、刺身やすしがすっかり市民権を得ている。


ブラック・マンデーをやるならそのうち「感謝祭」もやったりして。

何に感謝するのか知らないが。そういえば日本には同じ時期に「勤労感謝の祝日」があったがフランスには何もない。

ともかく、今や、商機になるものなら何でもいい、ペール・ノエルとサンタ・クロースを両方とも動員するのも全然OK、という感じだなあ、と時の移り変わりに感慨を覚える師走だ。


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# by mariastella | 2017-12-14 00:06 | フランス

「主の祈り」をめぐって その8

歌を歌えなかった12/3のミサでいろんなことを考えた。


「主の祈り」の「父」という呼びかけについて考えていると、

「神はあなたを先に愛している」とか、

「あなたには神が見えていなくても、あなたが神を無視しても、神はあなたを見ているし、決して見捨てない」

とか、

「神はあなたに自由意志を与えた。神に背を向ける自由さえあなたは行使できる」

云々


という決まり文句が、別の実感を持って見えてきた。

それは「親子ってそうだよなあ」という親の立場にたっての実感だ。

ここで親子というが、もちろん、世の中には我が子を虐待する親もいれば、血のつながりのない子供を溺愛する人だっている。そういう個別例ではなくて、社会進化論的に選択されてきたスタンダードな親子関係を想定する。

「親」は自由ではない。

親が自由を行使したのは「子をなす」時だけだ。

いったん「子」の親になれば、親にはその子をいないことにする自由はない。

排除する自由も、無視する自由も、恨む自由もない。

愛することしかできない。

そして親は子供が自由で自立した人間となることを願う。

そのために、養い、育てる。

子供の安全を守り自覚を促すために限定的に子供の自由を制限することもある。

でも、子供がその養いや育てに応えなくとも、最終的には子供の自由を尊重することしか親にはできない。

子供が出ていこうと、親を否定しようと、親は子供を愛し続ける。

というパターン。

「父なる神」も、クリエートする部分、「父なる神」となる部分で自由を行使した。

そして「なかなかよくできた」などと言っている。(創世記で何かを作る度に「神はこれを見て、良しとされた。」とある。

で、人間には「自由意志」を与えたのだが、禁断の実を食べた時点で、神と分かれる自我が生まれたので神のもとにいられなくなった。

でも、「父なる神」の側には、子を愛さない、良くないと断定するような自由はない。

だって、「父だから」。


ずうっと愛しっぱなし。


でも「製造責任」は感じるから、時々、それぞれにみあった「試練」を与えることで、「養い育てる」ことを続けようとはする。

思い切って「子なる神」まで派遣した。

「親」的感性に想像力が働く人なら、「父なる神」の立場はすごくよく分かる。

「父権社会」の「権威的父」ではない方の、例の、ノリッジのジュリアンが「天の母」と呼んだ方の「親」的感性。


「自由にふるまう子供を愛し続ける他に自由がない、選択肢のない」親心。

そうやって愛してきた子供が、とつぜんこちらを振り向いて、「お父さん」と呼んでくれた。

「お父さん、私を助けてください、私が正しい道を歩むように、誘惑に負けないように守ってください」

と言ってくれた。

「主の祈り」のように。

それを耳にするお父さんの喜びはいかばかりだろう、

命を与え、養い、愛し続けた苦労が、この信頼によって報われる。

「愛が報われる」っていいな。

「主の祈り」って「命をくれた父の愛に報いる祈り」なのかもしれない。


(しかも、子供たちがきょうだいそろって口をそろえて「いつも見守ってください」と言ってくれるなんて、想像するだに感激だ。親としては、感謝されなくても、頼られなくても、愛は変わらないのだけれど。「父なる神」をたまには労わろう。)


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# by mariastella | 2017-12-13 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その7

(これはこの前からの記事の続きです)


「主の祈り」が特殊なのはやはり、神を「父」とよぶところだろう。


イエスは神のことをabba(パパのような親称)と呼んだ。

人はつらいこと苦しいことに遭うと、辛さゆえにそれを父なる神に責任転嫁する倒錯が起こる。


つらい時に「父なる神」に不平を言ってしまうという誘惑に打ち勝って、子なる神イエスに目を向けなくてはならない、というローマ教皇フランシスコは、「キリスト教のすべての祈りの神秘はこのabbaという言葉に要約できる。この言葉で呼ぶ勇気を持つことでイエスは神は良き父であり、おそれることはない、と啓示したのだ」(2017/6/17)と語る。

ちなみに、1966年より前に一般的だった主の祈りのこの部分は


Ne nous laisse pas succomber à la tentation


だった。


つまり、「私たちがに誘惑に負けないように引き留めてください」というニュアンスだ。

その後の、「私たちを誘惑に引き込まないでください」というニュアンスになってしまいがちなのを避けて、

今回の「私たちが誘惑に入っていくのをとどまらせてください」的なニュアンスになったわけだ。

「負ける」にしろ、「従属させる」にしろ、「力関係」を連想させる言葉がようやく避けられたという印象である。

やはり、そもそも「誘惑」という言葉が曲者だ。

「誘惑」と「試み」と「試練」が混同して使われるからだ。

多分、ひとことでいえば、

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。

(ヤコブの手紙 1 13節)

というのがきっと正しい。


でも、すでにヤコブの頃からこういうことがわざわざ言われているということ自体が、人はいつも、

自分の弱さも

判断の誤りも

困難な状況も

すべてまとめて「誰かのせい」にしたがるという、変わらぬ人間性を物語るのかもしれない。


確かに、「誘惑」と「試練」は別物だけれど、「試練」に出会った時に、それを避けたい誘惑、それを誰かのせいにしたい誘惑、見て見ぬふりをする誘惑などが自分の中に生まれる。

このことについていろいろ考えたがそれはまた別のところで。(続く)



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# by mariastella | 2017-12-12 00:05 | 宗教

新司教の季節

127日、パリの大司教ヴァントトロワ枢機卿が75歳で出す引退願いが即刻受理されて、ナンテール司教のオプティ司教が新大司教に任命された。着座式は16日の公現祭。


オプティ司教は、ヴェルサイユ生まれで、すでにパリ大司教区の補佐司教を経て、パリ郊外ナンテールの司教だったのだから、常に「首都圏」にいた人だ。

パリ大司教区というのは、100以上の小教区と1200人もの司祭を抱えるスーパー教区だが、ただのカトリック教区ではない。歴史的にはもちろん、政治的に大きなインパクトがある。ヴァントトロワ枢機卿の健康状態はずっと良くなくてすでに補佐司教たちが代行していたので、もうずいぶん前から後任の人選が話題になっていた。だから、「定年」の日を待ってすぐ引退願いが受理されたのだ。


ヴァントトロワ大司教を最後に見かけたのは、2年前の19区の教会の献堂式で、その時も疲れが目立った。疲労困憊の大司教が、聖堂周りの12の十字架を聖別するのにいちいち移動式の梯子に上って聖水を振りかけなくてはならない。落ちたら大変だとひやひやしたし気の毒だと思ったが、列席のもっと若い司祭たちは祭壇の上から遠慮なくスマホ写真をパチパチやっていた。それを見て当然列席者もパチパチ。ますます気の毒になったのを思い出す。

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で、新大司教のミッシェル・オプティ師。私とまったく同世代だからすごく若いわけではなく、後10年くらいの現役となるだろう。けれども、実は、例外的な「スピード出世」街道を来た人だ。


なかなかユニークな経歴で、母親だけが日曜に教会に通う国鉄職員の家庭の三人きょうだい。

パリの病院(ビシャやネッケール)で研修後、総合医として医学博士になりパリ郊外の公立病院で11年間勤務医だった。結婚を考えたこともあるという。

で、司祭になる決意をして神学校に入ったのが39歳、司祭に叙階されたのが1995年ですでに44歳だった。神学校で学ぶ間に、神学バカロレアはもちろん、パリ大学で医学倫理の博士号も獲得した。総合医としてあらゆる階層のあらゆる状況の患者を診てきた経験が召命と深くかかわっているのは想像に難くない。

医師としての活動期間と同じ11年間を、パリの中心部の複数の教会の司祭として活動し、2006年に早くもパリの補佐司教に任命されたのだ。

それからさらに11年(その最後の3年半はナンテール司教)後にパリの大司教に任命されたわけだ。


医者として11年、司祭として11年、司教として11年、と11年周期? それで行くと、パリ大司教にも実質11年は留まるかも。


モットーは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネによる福音書10, 10)」

医学倫理の専門家らしく、代理出産などに忌憚なく厳しい見解を述べている。

いろいろな意味で注目していきたい。

日本でも東京大司教区で新大司教が待降節第三日曜の前(12/16)に着座式の予定。教会暦のサイクル初めの日曜とか、パリのように1/6だとかの方がきりがいいのに‥と思ってしまうけれど、リタイアする大司教はヴァントトロワ枢機卿より一歳年上で去年の引退願いがやっと受理されたのだから事情が違う。まだ50代の新大司教は首都圏からではなく広い活動をしてきた人だ。


東京大司教と同年齢でやはり去年「定年」を迎えた沖縄の那覇教区、押川司教の引退願いも受理されて、与那原教会の主任司祭カプチン会のウェイン神父が新司教になるという。何十年ぶりか知らないがまさかの「アメリカ人司教」で驚いた。

それでなくとも米軍基地の脅威にさらされている沖縄で、カトリックもアメリカンで大丈夫なのかなあ、と。

でもすぐに、沖縄のカトリックの方から

「日本語堪能で沖縄の風土、人々のことよくご存じで、柔和でユーモアもあり、信徒からの信頼度一番の神父様です。教区に光がさしてくるようで とても嬉しい」というメールをいただいたのでほっと安心した。

沖縄とカトリックの問題はなかなか難しい。

沖縄に米軍基地の大半を一方的に押し付けることで「本土の平和ボケ」を許してきた現状は誰でも認めることだけれど、それに異議を唱える時に、

1「沖縄だけでなく本土も平等に負担を」と言うのか

2「米軍基地そのものを排除」と言うのか、

3「自衛隊基地も含めて軍備そのものを徹底排除」と言うのか


ではまったく立場が異なる。

カトリック教会の中の「正義と平和委員会」というのは、その理念からいって、「平和憲法」原理主義であっても決しておかしくはないのだけれど、ブルジョワ保守派のカトリックからは、「絶対反米のサヨクにのっとられている」と批判される。

押川司教は、2010年に「カトリック正義と平和委員会に提案と要望」として、


「基地反対を呼び掛け、沖縄に連帯して不正義に基づく沖縄の基地に真剣に取り組む姿勢があるなら、沖縄に来て≪座り込み≫や基地を取り巻く≪人間の鎖≫などに参加するよりも、東京で大集会を開いてください。3万人集会を東京で、政府のおひざ元でやってください。」

と述べたように、どちらかというと1のイメージだ。

一番「現実的」なアプローチをしているのだろうと思っていた。


でも、世界に君臨する軍産共同体の権力機構からどんなに攻撃されても平和の「理想」を掲げてやむことのない現ローマ法王のフランシスコ教皇に任命されたのだからウェイン新司教(着座は来年2月)は別のアプローチをするのかもしれない。


沖縄の司教がアメリカ人というのは、沖縄の米軍兵士の通うカトリック教会やプロテスタント教会との連携も考えられる。

軍隊の規律、武器と力の支配とはまったく別の「権威」が影響を及ぼすかもしれない。


カトリック自体が日本ではマイナーだから想像しにくいが、アメリカではヒスパニック人口が増えているし、兵士たちには従軍司祭や教会は大きな存在だろうから、何かが深いところで変化する可能性があるかもしれない。

カトリック教会は、人間が構成するすべての組織と同じく、理想と現実の間で揺れ動いてきた。

これからどうなるのだろう。

パリ、東京、沖縄の新司教たちをウオッチングしていきたい。

おまけ:
下にパリ新大司教のインタビューを貼ります。フランス語を分かる人はどうぞ。
なかなか好感度大です。
信頼されるお医者さんだったろうなと思わせられます。
司教は司祭の世話をするのが仕事ですが、司祭が司祭職の中で幸せを感じるようにと毎日祈っているそうです。


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# by mariastella | 2017-12-11 00:05 | 宗教

エルサレムの「内なるアメリカ」

アメリカがエルサレムをイスラエルの首都と一方的に宣言したことで、汚職問題で危機にあるネタニヤフ首相は上機嫌で、パレスティナの人々はショックを隠せない。

トランプの中東外遊で何が密約されたのかは知らないけれど、サウジアラビアとイスラエルが対イランで連帯する合意があり、もうエルサレムを追われて何十年にもなるパレスティナ自治区の将来のことは関心が薄れたのかもしれない。アラブ諸国訪問中だったマクロンはトランプを糾弾して見せたが、戦闘機をカタールに売りつけて嬉々としていた。

カタールにもドバイにもイランにも個人的に親しい人がいる。
イスラエルとパリを行き来している親しいユダヤ人もいる。

こんどのことは、シリアやイラクを追われたISの火に油を注ぐようなものだという見方もあるので心配だ。

面白いと思ったのは、フランスでもエルサレムのことをJERUSALEMと書くので、いろんなニュースで、

JERUSALEM  と表記するのを見ることだ。
内なるアメリカ、というやつだ。
しかも、ちょうど真ん中に来る。

私が学生の頃に読んでいた朝日ジャーナルの最後のページの一コマ漫画か何かで、「内なるアメリカ」というキャプションで当時の首相だった佐藤栄作の名をアルファベット表記したものがあった。

EISAKUSATO

というものだ。

当時の学生運動は産学協同反対、米帝追従反対、というものだったから、首相などは完全にアメリカの方しか見ていない、とみなされていた。あまりよくできているので今もまだ覚えている。

そのせいで、JERUSALEM 表記が無意味になつかしかった。

何だか今の日本では、いつのまにか産学共同がデフォルトになっているようだが、さらに軍・産・学が一体となり、政治家も、もう内なるアメリカというより、一体化しているのだとしたら、なつかしいなどと言っている場合ではないのかもしれない




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# by mariastella | 2017-12-10 00:05 | 雑感

ジョニー・アリディとエディット・ピアフ

ジョニー・アリディとジャン・ドルメッソンの生と死の語られ方について、「たかが、かた」のブログ に投稿したら、多くのアクセスがあったのでここにその後の話を書いておく。(注:その後、正しい情報が入ったので、日付や場所などを訂正しました。12/9)


コメントでも、ドルメッソン自身が、コクトーの死がピアフの死でかすんだことを上げて、作家はスターと同時に死んではいけない、という動画を教えてもらった。

笑える。

それでもかろうじてジョニーより一日早く亡くなったドルメッソンの方は金曜日にアンバリッドでマクロンが追悼セレモニーをした。

で、ジョニーの方は、翌日にシャンゼリゼで700台のオートバイに並走される葬列がマドレーヌ寺院まで行き、そこでもマクロンが短いスピーチをするそうだ。

その後は、12日の火曜日に、パリから遠く、カリブ海にあるフランス領サン・バルテレミー(2008年から別荘を持っている)島の墓地に埋葬されるそうだ。

離婚と再婚を理由に教会での葬儀を拒否されたエデット・ピアフが10万人の群衆に囲まれて16区からペール・ラシェーズ墓地に直行し、今でも墓参の人が絶えない有名スポットとなったのは対照的だ。

ジョニーがカリフォルニアとパリ近郊の大邸宅に暮らし、死後はうんと遠くに埋葬されたかったことを思うと、莫大な財産を持つスターの本音とはどんなものだろう、と思ってしまう。

ピアフの方は莫大な借金を残して死んだ。

麻薬とアルコールでボロボロ状態で早く楽になりたい、と言っていたが、なんと、まだ47歳だった。ジョニーの74歳と30年近くの差がある。

ジョニーは、若い頃は不健康だったろうが、としを取ると共に筋トレしてマッチョな体からどんどん声量を増やしていった。

彼のファンは、そのエネルギー、迫力、力強さにしびれていた。

それに比べると一世を風靡した女性歌手は意外に若く死んでいる。

ピアフもそうだが、ダリダも54歳、日本なら越路吹雪56歳、美空ひばり52歳などだ。フランスではバルバラが67歳でエイズで没した。72歳で現役で活躍して講演活動もしているシェイラだとか、80代で啓蒙活動を続けているナナ・ムスクーリ(70歳で歌手引退を宣言している)などには、「堅実な幸せ」感がある。「力」で老若男女を惹きつけるという選択はない。

アイドルの栄枯盛衰には明らかにジェンダーの差があるような気がする。

ジョニーは多くの男たちのアイドルだ。夫婦で大ファンという人もたくさんいる。

それほどに熱狂的な女性ファンがいる女性歌手は思い当たらない。

宝塚のスターには熱狂的女性ファンがいるが、男性ファンは例外だろう。

熱狂的男性ファンがいる女性アイドルは「消費」されることが多い。特に、集団の熱狂は「消費」型だ。

熱狂的男性ファンというと、サッカーのサポーターも連想する。

男性ファンはジョニーやスター選手のカリスマ、強さ、男らしさに夢中になる。

女性のアイドルやスターに対しては、若さや美しさを愛でたり欲望の対象にしたりする。

ファンや、スターやアイドルを取り巻くポピュリズムには明らかなジェンダー差があるのだ。

そして何度も言うが、「強さを礼賛」することは、危険だ

見たくなくともいやになるほど流されるジョニーの舞台のパワーを見て、すなおにすごいなあ、と思う。

私はフランス・バロック音楽の奏者だ。音楽的には対極にある。でも、人は、「大きい音」「音量」に惹かれる。

特に、大勢が集まる場所(それは商業的に成り立つ場所ということだ)で大音量を聞きたい。百人のオーケストラとか、増幅される電子音とか、絶叫する歌手とかに夢中になり、連帯感を持ちたい。

サッカー・スタジアムで声を合わせて叫びたい。

そのことの不条理を感じる。

それこそドルメッソンはいいことを言っていた。

「深いものとつながっている軽さには美がある」

と言って、モーツアルトの音楽を挙げているのだ。

私がラモーに感じていることと同じだ。ドルメッソンならラモーの美しさを分かるだろう。

ジョニー・アリディをめぐる大騒ぎに対してこのようにいろいろ考えてしゃべる私に対して、私の周りの人間は

「興味がない、もうその話はしないでくれ」

と切り捨てる。

私は切り返す。

「ヒットラーが台頭した時に、ドイツ人の全員が熱狂したわけではない、でもその時に『興味がない』と無視した人がいたから、結局は歴史の歯車が回ってしまった。だから、全体主義的な盛り上がりがメディアを覆ってしまうような時こそ、少数の意見の存在をどうしたら届けることができるのか、残すことができるのかを考えるべきだ」

と。

私のこの意見は、かろうじて切り捨てられないで聞いてもらえているのだが…


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# by mariastella | 2017-12-09 00:05 | フランス

「主の祈り」をめぐって その6

ルヴェリエ師の話を聞けなかった123 日。

これならうちでTVミサを見ていた方がよかったかも。

と、実際、後で、ネットでアランソンのカテドラルのミサを視聴してみた。


この50m29から51m23で、今から新しい主の祈りですが、みなさんの席に教区が配布した紙がありますからそれを見てご一緒に、と言って、同じ聖霊の中で唱えるのが大事、として新しい祈りが唱和されている。その前の説教では何の説明もない。


なるほど、雑誌や出版物が大騒ぎしている一方で、この変化はあっさりと、ミニマムに、さりげなく取り扱おうという合意があるのかもしれない。


実は19区の教会でも、新しい主の祈りのプリントが用意されていたのだけれど、それは入り口に置いてあっただけで、席にはなかったし、「みなさん、プリントを持っていますか ? それを見てご一緒に」なんて言われなかった。

私も出る時にやっと気づいた。しかも、アヴェ・マリアの祈りのプリント(これも初めて見たが、別に訳は変わっていない)と並べてさりげなく置いてある。

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主の祈りの訳の変化の理由にはどういう神学的配慮があるのか、という疑問をミニマムにするためのさりげなさなのかなあ、などと考える。

保守的なエリート新司祭B君の意見も聞いてみなくては。(続く)



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# by mariastella | 2017-12-08 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その5

さて、ルヴェリエ師の話を聞きたくてわざわざやってきたのに彼がいなかった12/3のミサ、いよいよ、「主の祈り」が始まる。

司祭はあっさりと、

「いいですね、ne nous laisse pas entrer en tentation ですよ、

わかってますね、ne nous laisse pas entrer ententation と言うんですよ、

ne nous laisse pas entrer en tentation ですからね」

と三回くらい繰り返してから始めた。

何しろ前の週とか前々週に来ていないから分からないけれど、相当前から、12/3から変わりますからね、と言われていたのだろうな。でも、普段は教会に来ていないけれど待降節だから来てみよう、という人がいたら、「えっ、何? 何のこと? 」と思ったかもしれない。

無事に唱和が終わって、それでも別に「はい。よくできました」と言われるわけでもない。

その後が聖体拝領。

これも、歌を歌わないので他の人たちをぼーっと眺めていると、口をもぐもぐしている人が一人いるのに気がついた。

私はホメオパシーの薬の要領でホスチア(聖体パン)が舌の下に入れて溶けるのを待つ。ホメオパシー的にはこれが一番吸収が早いとか。でも、今まで、かじるとか噛むとか考えたことがなかったけれど、ひょっとして「食べ方」ってあるのだろうか。

後で、フランス人(第二バチカン公会議前のカテキズムを受けた世代)に聞いたら

「それは噛んじゃいけない」
「どうして?

「キリストの体なんだからリスペクトを欠くから」

「えーっ、そんなこというなら、キリストの体を食べること自体がリスペクトを欠くじゃない。大体これはミトラ信仰の名残のカニバリズムで云々…」と私。

さらに、「それに、これって、ただ溶けるのを待っていたら口蓋にくっついたりするでしょう。ドライマウスの人はどうするの? 喉に張り付いて窒息死する病人とか老人とかの例は絶対にないの?

考えてみれば、何十年も飲み食いしない完全断食者の神秘家がホスチアだけはするりと喉を通っていく、という記録はよく読んだことはあるけれど、その時はあまり疑問を感じなかった。

第一次大戦の従軍司祭が、傷病兵の間をまわって赦しの秘跡を与えて無理やり口をこじ開けてホスチアを入れるシーンを最近の映画で見たけれど、あれだって、誤嚥で窒息させそうだ。

ギリシャの正教では信者が自分で普通のパンを持って行ってそれを聖別してもらって食べるのだから、しっかり噛まないと無理だろう。

実際、試しに検索しても、食べ方など決まっていないようだ。フランスのカトリックのホスチアは薄くて軽くてすぐに溶けるし、一度口に入れた後では誰も口を開けないから、みなが同じようになるのだろう。でも、寝たきりで嚥下能力のない老人とか胃瘻の人はどうするのだろう。小さく砕いてからあげるなんてことはあり得るのかなあ、などといろいろ雑念が。

ホスチアを口にしただけでキリストと合体して恍惚となる古来の神秘家はすごい。

それにしても、「キリストの体」を食べるという発想はぶっとんでいる。

で、シンメトリーをなす「主の祈り」の真ん中であり、ユダヤの修辞法的には最も大切である「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」という部分にもう一度注目しよう。

これを、「父なる神に今日のパンをねだる」のでもなく「荒野で降ってくるマナ」でもなく、これこそが毎日のミサでいただく「キリストの聖体」なのだという解釈もある。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします

6. わたしたちを誘惑におちいらせず、

7. 悪からお救いください。

7 がかなえられれば 1 が成就し、

6 がかなえられれば 2 が成就し、

5 がかなえられれば 3 が成就し、

それを可能とするのが 4 で、キリストの体を自分の中に受け入れるという毎日の秘跡だというのだ。

キリストと一体になれば神の国が実現し救われる。(続く)


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# by mariastella | 2017-12-07 00:05 | フランス

ジョニー・アリディとジャン・ドルメッソンの死

12月5日から6日にかけて、24時間程の間に、フランスの国民的作家でジャーナリストで映画でミッテラン役も演じた人気パーソナリティのジャン・ドルメッソンと、やはり国民的アイドルのロック歌手で映画俳優としてもいい味を出していたジョニー・アリディ(私の若い頃の日本ではシルヴィー・ヴァルタンとのカップルというイメージがあった。テレビの「ヒッチコック劇場」に挿入されるレナウンのコマーシャルにシルヴィーが歌うものがあり、そこでトレビアーン、などのフランス語を毎週聞いたのを覚えている)とが、亡くなった。

前者は元気とはいえ93歳だったし、後者は74歳だが肺癌の末期ケアだったからどのメディアも特集記事、追悼記事を「準備」していただろうけれど、24時間しかインターバルがなかったので、追悼の仕方、特集の組み方を観察するだけで、そのメディアのポジションとかが分かってなかなか興味深い。

この2人のビッグネームが没したことでいろいろ去来するものがあったので、いまや「健康ブログ」と化した「たかが、肩」に記事をアップした。興味がある方はどうぞ。





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# by mariastella | 2017-12-06 22:18 | フランス

「主の祈り」をめぐって その4

12/3、待降節第一日曜は、新しい「主の祈り」を唱和させるためにどういう工夫がされるのか、ルヴェリエ師なら何と説明するのか、説教にも反映させるのか、などと、興味津々でビュットショーモンの被昇天ノートルダム教会のミサに行った。


ところがルヴェリエ師は欠席していた。来週は来るという。


代わりにミサを司式したのは若い黒人司祭で、コートジボワールのアビジャンで叙階され、ストラスブールで神学を勉強中のヌアマンさんだった。ルヴェリエ師を見ているからか、がんばって声を張り上げて話すのだが、訛りがよけいに目立ってとても聞きづらい。日本で聞いたことがあるアメリカ人司祭、フィリピン司祭の日本語ミサのことを思い出した。どちらも聞きづらかったし、典礼文での明らかな発音のミスもあった。コートジボワールはフランス語が公用語だけれど、訛りは聞き取りにくい。フランス海外県の人のクレオールでも、訛りというよりはっきり発音が違う場合もある。

フランスにもアフリカ系の司祭は少なくないし、普通なら気にならないけれど、わざわざルヴェリエ師の雄弁を聴きに来たのだからがっかりした。日本でも、説教のうまい雄弁な司祭のところには大勢の人が集まるが、その気持ちがはじめて分かる。

そればかりではない。このミサでは、目当てのルヴェリエ師がいなかっただけでなく、いつもなら用意してある式次第で声を出して歌える歌詞が書いてあるものがなかったのだ。壁にそれが映写されたかと思うとすぐに消えた。

要するに、これからは無駄をなくして経費も節減して、式次第はすべて映写式にするということらしいのだけれど、まだ試みの段階で、それがうまくいかなかったわけだ。で、私のように歌詞を見ないと歌えないような人は斉唱に参加できず、時間が流れるのが長い。

そのせいでいろんなことを考えてしまった。

待降節というのはイエスの誕生を待つ希望の時だけれど、同時に終末の時、イエスの再臨、最後の審判に臨むために準備する期間というのがかぶっている。で、その時はいつくるのか、という質問に、日も時間も分からないし、夜に突然やってくるかもしれないのだから、いつ来てもいいように準備していなさい、みたいな話から始まる。

今までは、ああ、そうですか、としか考えなかったけれど、年齢のせいか、まさに、「死」はいつ来るかもしれないのだからちゃんと「終活」しなさい、と言われている気がした。終末論は陰謀論のヴァリエーションだと書いたことがあるけれど、年齢や体調によっては本当に焦ってしまうことがある。

で、待降節が希望の時と言っても、何をしても絶対に救われるというのなら、別に救世主が生まれるのを待望しなくてすむ、闇があるからこそ、光を求め、光が見え、希望の時になるのだ、と説明される。私たちはバビロンに捕囚されているイスラエルの民と同じ状態なのだ、と。

私は何となく、一四世紀の福者ノリッジのジュリアンこの人のイコンに猫を抱いているものがある。これとかこれ。いつかまた書こう)のことを思い浮かべた。


この人はいわゆる見神者で、イエスのことを天の母と呼び、何度もイエスの姿を見てお告げを聴いて書き留めているので有名なのだが、その中でも特によく知られているフレーズがある。

罪を犯した人は救われないのか、と悩んだ時に、イエスから「すべてはうまくいく」と言われたという「all shall be well」というのは、メダルのアクセサリーにも刻まれている。

実際は、


“In myfolly, before this time I often wondered why, by the great foreseeing wisdom ofGod, the onset of sin was not prevented: for then, I thought, all should havebeen well. This impulse [of thought] was much to be avoided, but nevertheless Imourned and sorrowed because of it, without reason and discretion.

“ButJesus, who in this vision informed me of all that is needed by me, answeredwith these words and said: ‘It was necessary that there should be sin; but allshall be well, and all shall be well, and all manner of thing shall bewell.'

こういう文脈なのだけれど、そして全員が救われると言っても、別に幸せに暮らせるというのではなく死後に永遠の命をもらえるということなのだが、この「すべてうまくいく」という楽観的な言葉が独り歩きしている。

(日本語で何かないかと検索したら、大学の紀要に出てきた。このp60から。)


「万事はしかるべくいくものなり。そして汝は自分自身の目で、すべて の物事がしかるべくいくことを目にするものなり」(p69)がこれにあたるのだろう。

まあ、今の時代の普通の人には、いくら「万人救済説(これについては『ユダ(中央公論新社)』でも書いている)」で、何をしてもゆるされて最終的には天国に行けるとか言われても、それだけで今ここでの苦しみや後悔や罪悪感などが解消するとも思えないけれど、

but all shall be well,and all shall be well, and all manner of thing shall be well.」とたたみかけてもらえること自体が確かに救いにならないでもない。(続く)


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# by mariastella | 2017-12-06 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その3

「主の祈り」の解釈の変わり種ひとつ。


一応今の日本のスタンダードな訳をもう一度コピー。


「天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。」


父への呼びかけの後に七つの願いがある。


悪からお救いください。

これを後ろから読むという提案。(『救いの梯子』Alain Noëlよりイエズス会のPeter-Hans Kolvenbach神父の解釈)

後ろから梯子を上っていく。

まず、エジプトから逃れ、荒野で様々な誘惑に遭う、

次に、赦しのステージへ。

次にエジプトを脱出したユダヤの民に天から与えられて40年間の主食となったマンナを求める。

最後にようやく、神のみ旨により約束の地、神の国に到達して、

神の名の秘跡と交わる。それが「私たちの父」という呼びかけ。


というものだ。


神を「私たちの父」と呼ぶことの特殊性が分かる。


たいていの神々は支配者であり、超越した存在であり、人間とは異種の優越者だが、その神を「父」とみなす。つまり家族だ。

日本の国家神道が国民をすべて「天皇の赤子」としたのは一神教にヒントを得たものだと言われているが、確かにユニークで効果的な形容だ。


なるほど。(続く)


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# by mariastella | 2017-12-05 00:05 | 宗教

「主の祈り」をめぐって その2

これは前の記事の続きです。


12/3からフランス中の教会で訳文が変わってしまう「主の祈り」についてのいろいろな意見の出現が最高潮に達している。

非常におもしろい。

実はベルギーでは今年64日の聖霊降臨祭からもう新約が採用されている。(国語としてライバル関係にあるネーデルランド語の新訳がすでにスタートしていたからだそうだ)

フランスは、ヴァティカンの祈祷書のフランス語新版が出るのを待つと言っていたのだけれど、いっこうに出ないので司教協議会が12/3をスタートと決めた。子供たちに要理を教えるカテキストたちは、フランスの新学期である91日からにしてほしい、と言っていた。(確かに、3ヶ月で文面が変わるのはまずいが、78歳向けの要理クラスの1年目の最初の学期は、まだ主の祈りを暗記させるなどという段階ではない。)

12/3から始まる待降節からの「変化」の予告は各教区でいろいろ準備しているし、プリントも配られるそうだし、フランスの司教会議による説明のパンフレットもある。カトリック系雑誌はいっせいに「主の祈り」の特集をしている。

不可知論家庭に生まれながら神を信じたけれどカトリックの洗礼は受けなかった哲学者シモーヌ・ヴェイユの「主の祈り」への没頭は有名だ。

もともと、カトリックの祈祷書の中では朝の祈り、夕の祈り、11度のミサ、とフルコースなら13度も唱えられるのだからうっかりすると、ただぶつぶつと形だけになってしまうこともありそうだが、シモーユ・ヴェイユは、朝に一度、全身全霊で、一語一語の意味をかみしめながら祈るので、その間に一瞬でも気が散ると、最初からやり直す、と言っている。

こういうタイプの人なら、どんな宗教のどんな祈りでも、その没頭そのものの瞑想効果というか、ミスティックな位相が共通しているもので、言葉の意味などは、どんなにかみしめても、ひょっとして、もう別の世界とジョイントしているのかもしれない。

とはいえ、普通の人には意味の分からない神道の祝詞だの仏教のお経だの、それぞれの聖職者によって「上げられる」タイプのものと違って、「主の祈り」って、パーソナルでも集団でも唱えられる祈りで、言葉の意味もまあ分かりやすいので、繰り返しているうちに刷り込まれるサブリミナル効果というのもあるかもしれないから、確かに「訳文」のニュアンスは大切だ。

今回の「変更」について、一番普通に言われるのは、「神が人に誘惑の罠をかけているかのように取られてはならない。悪に誘うのは神ではなくてサタンであり、それに負けないように助けてください、という意味に近い方がいい」というものだ。

実は「soumettre」という動詞がイスラムを連想するから変えたかった、という説は前回紹介した。イスラムは神への絶対服従、ユダヤ=キリスト教では服従は人間の自由意思に基づくもの、キリスト教ではそれがさらに、神の方が人間の中へスライドしてくれる。現在イスラム過激派が掲げる全体主義、教条主義に対抗して、より人間の「自由」な意思による神との「協働」を強調したいというのは分からないでもない。

司祭たちのコメント。

「けれども、復讐する神から、悪の前で無力な神に代わる、というわけではありません。誘惑の存在を合意していても神が敢えて人を誘惑にさらすわけではありません」、

「訳が変わるのは、別にキリスト教が変化したわけではありません。神と人間の関係のどの部分に焦点を当てるかというのは時代によって変わってきました。

過去は『人間の救済に心を砕く神』であり、ここ数十年は『社会の公正に配慮する神』となり、それが今は『ミゼリコルド、いつくしみの神』へと移ってきました。でも、実際は神は最初から慈しみの神でもあったのです。」

やっかいなのは、洗礼を受けて要理も受けているから「主の祈り」は暗唱しているけれど毎週教会に来ることはない多くのフランス人カトリック信者が集まる葬儀、洗礼、結婚式などの特別なミサだ。

そこで唱えられる主の祈りの訳が変わっていることなど皆は知らない。

だから、これからは、そのような冠婚葬祭ミサのために、新訳を必ず手渡すよう、注意を喚起するようにと配慮が求められている。

うーん、外野からみたら、前日までは何十年も「A」という文句だったのにある日突然「B」が正しく「A」は間違いということになる「典礼」自体の「融通のなさ」はナンセンスにも見えかねない。でもまあ「宗教」システムだけでなく、「新常識」がいつの間にかできていたり、「新条例」「新法制」がある日施行されたりするのは広く社会システムにもあることなので、その変化が何を反映して何をねらっているのか、人をより自由に平等に安全に導くものなのか、などをきっちり見極める必要がある。

だから今回の「変更」についていろいろ語られる「主の祈り」の解説も、示唆に富んでいる。

主の祈りの「読み方」について、前回は、7つの願いがシンメトリーになっていて、真ん中の「お父さんにパンを頼む」父としての神が中心で、前半は王(崇拝対象、権威)としての神、後半はモラルの審判者としての神であるというのを紹介した。日本のイエズス会の『神学ダイジェスト』でも読んだことがある。

同じシンメトリーでも違う読み方があるし、もっとアクロバティックな読み方もある。(続く)


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# by mariastella | 2017-12-04 00:05 | 宗教

『外国人』The Foreigner マーティン・カンベル監督/ジャッキー・チェン、ピアース・ブロスナン

『外国人』TheForeigner マーティン・カンベル監督/ジャッキー・チェン、ピアース・ブロスナン

ジャッキー・チェンが政策に加わった英中合作映画。



60代に入ったジャッキー・チェンがまだアクションで活躍する映画は最近『カンフー・ヨガ』を観てそれなりに楽しかったが、こちらは娯楽映画というよりかなり深刻だ。

ジャッキー・チェンの演技がすばらしい。こんなにいい役者だったのだなあと今更発見した感じ。それに、彼のようなアクションスターでいつリタイアしても優雅に暮らしていける財産もあるだろうに、いろいろな作品へのチャレンジが続くのはすごい。このような人が活躍を続けられる「国境のない映画界」は捨てたものではない。


ロンドンのチャイナタウンのレストランの経営者のジャッキーは、高校生の一人娘のショッピングに付き合って、車から降ろして待つことにしたが、店に入った娘は爆弾テロに巻き込まれて死ぬ。「真のIRA」による犯行宣言が出された。

IRA(アイルランド共和軍)はイングランドに対して「武装闘争」を繰り返してきた。その過激だった時代をテーマにした映画に『父の祈りを』があり、前に数回にわたってコメントした

1998年のベルファスト合意以来、IRAのテロは一応終わり、元のメンバーが首相になっているという設定だ。19年も平和を保ってきたというのに、分派した過激派「真のIRA」の無差別テロによって政治的危機に陥るのは過去の闘士であるリアム・ヘネシーで、その役を演じるのが元007役者のピアース・ブロスナンだ。

彼は本当にアイルランド出身だそうだ。そういえば初代007のショーン・コネリーもスコットランド人アイデンティティを掲げているし、「英国紳士」なんてとてもひとくくりにできない。

ともかく、往年の007と往年のクンフーのヒーローが対決するこの映画は、ロンドンという国際都市で、1984年に移民してきた初老の男(だから何の危険もないと最初は見逃されるが実はベトナム戦争でUSに特殊訓練を受けたゲリラだった)と、一見「立派な英国紳士」だがやはり過去にはIRAのゲリラでテロ攻撃にもかかわった歴史的マイノリティの立場にある男、という、国籍があっても「外国人」であり続ける二人を「対決」させた。

亡命の途中でタイの「海賊」に襲われて娘二人を失うというつらい過去を乗り越えた男が、最後に恵まれた末娘、産後に妻も亡くし、たった一人残った家族である末娘の「復讐」を誓う。

IRAのメンバーや旧ゲリラたちも、多くの家族を失ってきた。


それら「過去の闘士」たちの抱く歴史の痛み、運命への怒り、が並び、重なり、うねりとなる。

ふたつのストーリーを同時に見ていると、ジャッキー・チェンがブロスナンに「あんたたちはカトリックなのに」と言うシーンがあるのだけれど、不正や悲しみや恨みや復讐の意志などは、宗教も人種とは実は関係がないと分かる。

宗教や人種や国籍などは排除や憎悪や攻撃の口実だったり、契機であったりしても、本当の理由ではない。ロンドンでのテロと言うと、近頃はもちろんイスラム過激派のテロを思い浮かべてしまうが、この映画でISではなくIRAを使ったのは、その意味で大いに意味がある。

テロの後のシーン、暴力シーン、撃ち合い、殺人など、ヴァイオレンス満載で、プロの警備員たちが復讐劇に巻き込まれていくのは不当だとしか言えないけれど、最後は、一応のカタルシスと一応のハッピーエンドとなる。

黒人の警察リーダーと中国人の移民と政治家という3人の中心人物が、最終的に互いの苦しみや立場の中で「絶望」の淵には落ちていかないし落とさない強さがありそうなのが救いと言えば救いだ。


この映画の上映には不思議な噂があって、その中には宣伝を自粛させているというものがある。

フランスの緊急事態宣言下、カタルーニャの独立騒ぎ、イスラム過激派のテロや、一匹狼のテロリストなどのいろいろな問題があるところに何かピンポイントで「不都合な」部分があるのだろうか、と勘繰ってしまう。警察の特殊部隊が生き残ったテロリストに自白させた後でその場で撃ち殺すシーンも「不都合」だろう。007も「殺しのライセンス」だけれど、軍隊も特殊警察も諜報員も、結局は国家による「司法抜きの殺人装置」として機能しているのが現実なのだ。


考えてみると、私のごく近くにはチベット、中国、ベトナム、イラン、スペイン、アルゼンチンなどからフランスに来た人たちがいる。中国人の友人はカンボジアでクメール・ルージュに銃を突き付けられた、と言っていた。他の人たちもみな大変な目にあってきただろう。アルジェリア戦争後に成人したフランス人や戦後生まれの日本人は、なんだかんだと言っても「戦争」を直接体験しないで生きることができた。

こういう映画を見ると、その僥倖をあらためて感じるし、残された時間で何をすべきかという自問に別の方向から光が差してくる。






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# by mariastella | 2017-12-03 00:05 | 映画

『マダムMadame』 Amanda Sthers 監督/トニ・コレット、ロッシ・デ・パルマ

フランス映画をもう一本

『マダム』


フランスのアメリカ人を描いた映画はカルチュラルスタディとしていつもおもしろいので観に行くことにした。

これはそれに階級差を配して、アメリカ人、イギリス人、フランス人の金持ちの間に東洋人、スペイン人のメイドらが加わる。フランスかぶれのアメリカ人の金持ち夫婦が、豪勢な自宅のディナーに、ロンドンの新市長のゲイ・カップルやアイルランド貴族の美術ビジネスマンなどを招待するが、13人になってしまって縁起が悪いのでメイドのマリアが友人に仕立て上げられる。マリアはできるだけしゃべるな、飲むな、と言われるのだが…。

一見、一種のシンデレラ・ストーリーとして始まるのだけれど、このシンデレラが、貧しいけれど実は美しくて若くて頭がいい、というのではなく、ブルジョワたちの美の基準(つまり、現代の商業的美の基準)に当てはまらないような個性的な容貌のロッシ・デ・パルマ。ペドロ・アルモドバルの映画での常連である50代の熟年女性だ。大柄で顔も大きくインパクトがある。

監督はまだ30代の若いフランス人女性作家で、フランス人らしくインターナショナルだ。

母親がブルターニュの弁護士、父親がチュニジアのユダヤ人精神医でマイアミの大学でも学び、パリのテロの後でロスアンゼルスに住んでいる。


夫役のハーヴェイ・ケイテルは78歳でこの役には年取り過ぎている感じだ。

で、夫婦とも、フランス語やフランス文化の個人授業を受けているという設定なのだけれど、どちらも相手と浮気する気が満々だというのは、フランスとフランス人へ向けるステレオタイプがベースで、すべて紋切り型でカリカチュラルだ。

最近の『ラ・メロディ』だとか『ル・ブリオ』でも階級差がステレオタイプに描かれていたにもかかわらずそこから引き出されるメッセージの方向性がはっきりしていたけれど、この『マダム』にはそれがない。

監督の目がどの登場人物に対しても等しくシニックなのだ。


大きなうねりもないし、結末の後味も良くないし、カルチュラル・スタディとしても人間劇としても失望した。

ロッシ・デ・パルマほどの個性的な人を使ったのに「途方もない感じ」を出せなかったのはもったいない。

私が映画に求めているのは何なんだろうと自問するという意味はあった。


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# by mariastella | 2017-12-02 00:05 | フランス

『Le Brio』イヴァン・アタル監督

最近のフランス映画をもう少し。まず、 

Le Brio』イヴァン・アタルIvan Attal 監督 .

ダニエル・オトゥイユ Daniel Auteuil, カメリア・ジョルダナCamélia Jordana



これは、いわば、先日の『メロディ』のような環境の子供たちが10年後にどうなるか、そして音楽の先生でなく法学部の教授と出会うとどうなるか、というもう一つのカルチャー・ショックのストーリー。


パリ南郊外で育った「アラブ系」のネイラがアサスのパリ大学法学部へ。

ブルジョワ子弟風が多い学生たちといっしょにネイラが建物に入ろうとすると黒人の警備員が学生証の提示を求める。

ユニークなのは、『メロディ』のように、二つの別々の世界、別々の世代が出会って、才能にほれ込んでメンターになる、というのではなく、ピエール・マザール教授が最初から差別主義者で、講義に遅れてきたネイラに差別的発言をしたことだ。それが問題になり、懲罰委員会にかけられる前に、「多様性を尊重」する証明としてネイラを弁論大会に出すために訓練しなければいけない羽目になる。

つまり、出発点にルサンチマンや相互の憎悪があるわけだ。

大学の講堂で学生たちがすぐに、教授の言葉に反応して「差別だ差別だ」と騒ぐこと自体がフランス的ではあるけれど、それは「偽善」でもあることも分かる。


今の学生たちがほとんどノートパソコンを持って講義を聴いていること、教授の差別的言辞などはスマートフォンで録画され、facebookに上げられることなどは、どこの大学でもそうかもしれないけれど、今の私から見たら、こんなところで講義もしたくないし、講義も受けたくない、という感じがした。

バカロレアに合格すれば原則的には誰でも講義に出ることができるので、昔のアサスも一年目は学生の私語などがもっと多かった、今はもっとひどいんじゃないか、という人もいる。私はソルボンヌの大講堂で受けた講義などもう40年前だけれど、普通に静かだったような気がする。1年生用ではなかったけれど。

でも、学生が多すぎて、教授が遠すぎて、集中もできずにすぐ眠たくなったので途中でやめた記憶がある。日本の大学でも最初の2年くらいは大教室での講義に出たことがあり、全共闘がやってきて中止させるということがたまにあったけれど、まあ、普通だったし、眠らないために大抵は前の席に座ることにしていた。

アサスもよく知っているのでなんとなく懐かしい。


で、弁論大会(大学対抗であり、アサスは最近優勝者を出していない)の準備をさせるための個人授業が始まる。ネイラは自分が教授のアリバイ作りに加担させられているとは知らない。

ネイラは少しずつ地元の幼友達たちと別の世界に生きていることに気づくようになる。

シングルマザーと暮らしている。

教授は独身で、老いた母ともうまくいっていない。

大学教授で教養もあるが実は孤独で気難しく誰ともいい関係を築けない。

ネイラも教授も、ある意味で典型的でカリカチュラルなシチュエーションだ。

社会寓話という感じになっている。

この2人は互いの偏見を乗り越えることはできるのか ? 

そして、古典や哲学の知識とか弁論術のスキルなどの高度な教養はどのように教えたり学んだりして継承するのか ?

教授はネイラにメトロの中でテキストを大声で読ませたり、高齢者に話しかけさせたりと、さまざまな方法で訓練する。ネイラと一緒にフランス各地の大学(フランスは基本的には国立大学しかない)を回って予選を勝ち抜いていく。決勝はもちろんパリだ。

これが子供たちの成功と満場の拍手というような『メロディ』風の予定調和なら、当然、最後に優勝してハッピーエンドとなっても不思議ではないが、実は思いがけない息をのむラストになっている。

ネイラ役のカメリア・ジョルダナはいわゆるアラブ系と言われるアルジェリア人の両親を持つが両親ともに歌手でのブルジョワ家庭に育っているので、この映画での「役」とは重ならない。監督のイヴァン・アタルはアルジェリアから引き揚げてきたユダヤ人家庭の子供で、映画の舞台であるパリ南の郊外の町で実際に育った。

ショーペンハウエルの『争論弁証法』(必ず言い負かす技術)にある「戦略」を徹底的に叩き込まれる。真実などはどうでもいい、論理や分析や哲学も関係なく、ただ、論争に勝つための実用的技術、手練手管というものだ。ポスト・トゥルースの走り。

それを軸にして、ラブレー、ニーチェなども援用される。

この本は日本で何と訳されているのだろうかと検索してみたら、岩波文庫の『知性について』の中で「論理学と弁証法の余論」として収録されているようだ。日本語の要約がないかと探してみたら、ある感想文の中に一部があった。こういうものだ。

>>>第七戦術…拡張解釈の手。論敵の主張を――その当然の限度以上に押し広げ――彼が意図しあるいは明言した範囲以上に広い意味に受取り、このように拡大解釈されたテーゼをわけもなく反駁する手。
 対策…「反論を受けた場合は、自分が言明した主張を、用いた言葉遣いやそれに当然含ませられる意味だけに、はじめから厳しく限定すること」
 
 第八戦術…「理屈詰めの手。論敵のテーゼに、それと主語や述語の点で似ている第二のテーゼを、それもたいていは無断で付け加える。そしてこの二つを前提として、そこから真ならざる――たいていは悪意的な――結論を引き出してきて、その責任を論敵に負わす。
 例…「フランス国民がシャルル十世を追放したことを甲が賞賛する。すると直ちに乙が『ではあなたは我々が我々の国王を追放することをお望みなのですね』と言い返す」
 
 第九戦術…「方向転換の手。討論中に、どうもうまくゆかぬ、論破されそうだと気づくと、論点変更によって――すなわち議論を第二次的な別の対象の方へそらせ、必要とあればそういう題目へ一気に飛び移って、いちはやく敗北の厄を防ごうと努める。〜彼らが窮地に陥ると、必ずといってもよいほど出現してくるものなのである」<<<

etc,etc…

なんだか国会答弁で「野党からの追及のかわし方」として、使われているごとくだ。
 
もっともショーペンハウエルはこれを学べと言っているのではなく、これを使う相手とは即座に話を打ち切るべきであると推奨しているのだから、要するに、真理を問題にしないこういう土俵にはひき出されるな、ということだろう。
 

映画の弁論のシーンは、なかなかいい。戦略だけでなく、ネイラの恋愛なども反映されていて説得力がある。弁論スキルの中にネイラにはどこか「真実」があるのだ。

ダニエル・オトゥイユは名優だが、なんだかファブリス・ルキーニとキャラがかぶるイメージだった。ルキーニ・ヴァージョンも見てみたくなる。

スケールはささやかだが私好みで気にいった映画だけれど、弁論シーンをはじめ、「フランス語」のおもしろさが際立っている映画だから、例えば日本で字幕上映されたりしたらどの程度伝わるのだろう。

特筆すべきはネイラの幼馴染の青年で、大学生になったネイラからメールでも綴りを訂正されたり、しゃべり方や語彙についても注意を受けたりするなど、ネイラが自然に「上から目線」になったことも感じながら、その愛情は変わらないし、クライマックスシーンに大きな役割を果たす。

その前にネイラは彼のことを評して「まっすぐで、曲がらなく、恐れもなく、刃物のような人」のようないろいろな形容をする。それを聞いているだけで、彼女が、彼の環境や教養や学歴や仕事などと関係なく、人間として最も大切な部分を把握していて、それがどんなに稀で、すばらしいことかということを理解していることが分かる。

幼い時からのつきあいで、見抜いていたのだ。

こういう「絶対にぶれない信頼のおける男」というのは、少数だけれどどの世界にもいる。ネイラがそれを見抜く力があってよかった。

この映画の設定だったら、メンターとなる教授とネイラの間に疑似恋愛が成立するというシナリオでも不思議ではなかったのに、短いシーンで若い恋人たちの心の機微をきっちりと描いて、愛するとはどういうことなのかを見せているのはすばらしい。カメラワークによる表現力もすぐれていて満足。


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# by mariastella | 2017-12-01 00:05 | 映画

名前は、ナル

新しい子猫の名前は、ナルです。

今年はNの年で、去年がMの年ということは、前のマヤ(17歳の年に死んだ)が生まれてからの20年が一周したんだなあ、と感慨深いです。

ナルは私が日本のコンサートに行っている間にブルターニュからやってきて、ヌースと呼ばれていました。私は次の子猫は「ネモ、ネオ、ナオ」あたりを考えていたのですが、ナルのきょうだい猫がもうネモという名前をつけられていました。

でも ヌースというのはあまりピンとこないので、NEONAOにしようと日本からLineを送ったら、打ち間違いでNEONEKOと送信されてしまい、みんながNEKOがいい、と返事してきました。それを見たトリオのメンバーもみなNEKOはいいね、と。

でも、いくらなんでもネコでは…

日本人にとっては「吾輩は猫である、名前はまだない」というように、名前と認識されません。

結局、別の名前を考えることにして、ナルが採用されました。


ナルは「成る」で日本語では成就するという意味だ、ついでに、次の天皇陛下も小さいときは「ナルちゃん」と呼ばれていた(字は違うのに)、などと付け加えて、ナルが受け入れられました。
でも、NARUと書けばフランス語ではナルと発音されません。ナルと発音されるにはNALOUと書かなければなりませんが、フランス人はみんな日本語表記の方がかっこいいというのでNARUNalou)と書くことにしました。
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健康手帳に書いてあったNoussを訂正しました。
こういうケースに入っています。
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日本から帰って4週間近くになりますが、こんなに大きくなりました。
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新聞を読んでいると必ず上に乗るのであきらめて写真を撮ります。
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食パン型クッションからもはみだします。
近頃の子供と同じように、アイパッドを置いてあると肉球で操作して動かします。
そんな時はもう何もできないので、CAT GAMES というビデオをダウンロードしているのを開いてやります。ネズミ、ハエ、ハト、紐などいろいろなパターンがありますが、金魚がお気に入りです。トイレに入るとドアの前で待っているのでペーパーを少したたんで隙間に挟むと飛び上がって落とします。忍者の訓練みたいに毎日少しずつ高さを上げていっています。スピヌーは1m50くらいは楽に届いていたっけ。



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# by mariastella | 2017-11-30 00:05 |

実は、メロメロ

11月3日にフランスに帰ってきたら、新しい子猫がうちにいました。

スピヌーと同じミルクティー色が基調ですが、白いところはひとつもなく、マーブル模様です。
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上から見ると背中はシマリスそっくりで方の模様が昆虫みたいで、フクロウっぽくもある複雑模様。
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でも横になると、脇腹はこういうかわいらしさ。

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しっぽや脚には縞が入っていますが、その間隔が何とか数列みたいに微妙なリズムです。
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体を縮めると、脇腹の模様が崩れてそれもかわいい。

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食パン型のクッションの上で寝ます。
いつもゴロゴロいって、甘えん坊で、ほおっておいたらお兄ちゃんの食事までゲットしてしまいます。


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# by mariastella | 2017-11-29 00:05 |

『メロディー』ラシド・アミ監督、カド・メラッド主演

最近観たフランス映画の続き。

『メロディーLa Mélodie 』ラシド・アミRachid Hami 監督、カド・メラッドKad Merad主演


これは暴力シーンも絶対にない精神衛生にいい映画。

50がらみのバイオリニストのシモンがパリの下町の中学1年のクラスでバイオリンを教えることになる。フランスで中1というと日本の6年生の年頃で、反抗期の一歩手前。フランスの小学校には音楽の授業がないから、親に地域の音楽院に登録してもらえなかった子供たちはドレミも読めない。

この映画はいわゆるfeel good movieで、社会的に恵まれない階層の子供が教育者に出会って人生に、未来に、意味と希望が生まれるというもの。その意味では予定調和の世界だ。

カド・メラッドというコメディのイメージが強い性格俳優が、バイオリニストのシモンを演じる。彼もまた、子供たちとの交流から人生の喜び、音楽のすばらしさを再発見するというストーリー。

音楽によって恵まれない子供たちを助けるという試みはいろいろな国にある。ベネズエラが有名で前にも少し書いた

フランスでも、この映画のモデルになったのは2010年から試みられているDémosという政策で、移民の子弟らの学区で3000人の子供たちに楽器を与え、教えて、オーケストラに参加して一流のホール弾かせるというものだ。この映画では、リムスキーコルサコフのシェヘラザードをフィルハーモニーで演奏する、という目標がたてられる。


去年の6月に、フィルハーモニーで200人のバイオリン(とビオラ)演奏に参加するために暗譜に励んだ私としては親近感あり過ぎ。私の場合はすでに音楽院の中級以上の生徒という条件付きでフランス中から小学生から85歳までが参加というむしろ「贅沢」な冒険だったのだけれど、大勢で、大ホールで、一つの音楽を創るというわくわく感は同じだ。

上演の後で監督のラシド・アミとの質疑応答があった。8歳以上の子供の参加がOKで、子供たちの質問がかわいかった。小学生に、どうして小学生でなくて中学生を使ったんですか ? と聞かれた監督は、12歳未満は一日に2時間までしか拘束できないこと、12歳からは4時間拘束できるので撮影が可能だった、と答えた。

パリとパリの近郊から、一度もバイオリンを弾いたことのない子供たちのオーディションをして15人選んだ。移民の子供(才能を見出されてソリストになる子供はセネガルから来た母子家庭という設定)などが中心なので、映画に出すためには両親の承諾が必要で、シングルマザーの子供のうち4人の父親を探し出してサインしてもらったが、父親に会ったこともない子供たちにはそのことを話せなかった、と言っていた。

映画には、途中で電線のショートで火災になり音楽室が使えなくなるというハプニングがあるのだが、それを心配した子供には、実はこの音楽室だけは、撮影のために特別に作ったもので、それを燃やしたのだという裏話も教えてくれた。

撮影にかけた三ヶ月のうちに、実際に、演技もさせ、バイオリン(鈴木メソード)も習わせてオーケストラと弾かせるという冒険に成功した。全員が、将来も役者になりたいと言い、5人がバイオリンを続ける、ソリスト役の少年はバイオリンの道に進むと言っているそうだ。


映画の中で、子供も、親たちも、実際にシモンが弾くバイオリンの音色に魅せられる。クラシック音楽の敷居が高いとかいうよりも、今の子供たちはイヤホンなどを通しての再生音楽以外はなかなか耳にする機会がないから、生の音楽に涙を流すほど感動するのだ。この辺の実感は分かる。

監督は、ゲットーの子供がバイオリンというノーブルな楽器を持っている姿にドラマを感じたので、管楽器ではなく敢えてバイオリンにした、と言う。

私はいつもは、こういう上映会の後の監督とのディスカッションには積極的に発言するタイプなのだけれど、今回は終始聞くだけにした。

ビオラ弾きでカルテットもやるし、フィルハーモニーでのオーケストラとの共演もし、生徒との交流も仲間とのコンサートもある私にとっては、この映画はいろいろツボにはまりすぎているからこそ満足したのだけれど、それだけに「普通の観客」の視点を持てない。

よけいな突っ込みどころが多すぎるのだ。

映画の中で、カルテットの一員として演奏旅行が決まったシモンが中学校での仕事を途中でやめる、というのだけれど、パリでのコンサートの後で、演奏旅行をキャンセルして子供たちの指導を続けることになる。その理由は、聖堂でのコンサートの後で、喜びを感じられなかった、子供たちと音楽をやっている時の方が喜びを感じられることが分かったから、というものだ。

シナリオとしては納得がいくけれど、演奏家としてはまったく信じられない。

あのような場所でモーツアルトのディベルティメントをあのようなパート(第二バイオリン)で弾いた後で「喜びを感じられない」なんてあり得ない。

責任感から子供たちの指導を続けるとしても、カルテットでの演奏旅行の方が絶対にいい。演奏者としてのクオリティ・オブ・ライフとしては比較にならない。

ラストのフィルハーモニーでのシーンも、本番でソリストの少年のうまさに指揮者が驚いたような顔をするのが信じられない。これもシナリオ的には、最初の合わせでひどいレベルだと絶望したシーンがあるので、本番での「奇跡」に指揮者がうなる、という筋書きは分かるけれど、本番の前にもう何度もリハーサルがあったはずで、フィルハーモニーのリハーサル室や、舞台でもすでに合わせているはずだから、そんな意外性があるわけがない。

バイオリンがノーブルな楽器というのも実は今のフランスの下町の公立音楽院では逆だ。ピアノは自宅にピアノを個人でレンタルするか購入するかが必要だけれど、バイオリンやビオラは、子供用のサイズのものが音楽院から貸し出される。だからシューズやレオタードなどが必要なバレエなどと比べても、バイオリンの方が気楽で子供を通わせることが多い(親の所得が少なければレッスン料も限りなく安くなる)。だから、ピアノのクラスに比べてバイオリンのクラスの方が明らかに外国人の子供や移民の子供が多い。ただし、親がフォローしないので、その多くは途中でやめていくし、学年末の試験で振り落とされる。

他にも不満はある。この映画でシモンが弾いて子供たちや親を感動させるソロ曲はメンデルスゾーンのコンチェルトにバッハのパルティータだ。生徒二人を招いたコンサートで弾いたのはモーツアルト、クライマックスの課題曲がリムスキーコルサコフという選曲。

まあ、リムスキーコルサコフはかなりフランス的な色彩はあるけれど、そして、ソリストの少年を際立たせる効果のために選んだそうだけれど、実際にこの種のプロジェクトの課題曲としては向いていないので不自然だ。

バッハのパルティータのシャコンヌもフランス舞曲風とは程遠い弾かれ方だし…。フランスが舞台の音楽ストーリーなのにフランス音楽が一つもなく、「クラシック音楽=ノーブル=バイオリン=ドイツ音楽」のような先入観に立つのはいかがなものか…

などと、小さな違和感が積み重なる。

もちろん私が知らない世界がテーマの映画なら、ディティールにおいてどんな不自然な場面や考証のエラーやご都合主義があったとしても、それに気づかないだろうし、気にもしないし、それが映画のフィクション世界を妨げることもない。

あまりにも身近なので気になるのだ。

自分もアルジェリア生まれでパリ近郊の貧しい町で育ったという32歳の監督は、中学校で働いたこともあるが6ヶ月しか続かなかったという。小学生の子供が「どうして映画の中の生徒たちは悪い言葉ばかり使うのですか?」と質問したら、「子供に見せるためにもっと上品な言葉を使うことしたらそれは現実とは違うことになる、ぼくもこういう言葉を使っていたし、今も子供たちはこういう風にしゃべっている、ありのままを撮っただけだ」と答えた。

19ヶ国の上映が決まっているそうで、イタリア、アンダルシア、韓国での上映に出席したそうだ。生徒たちの大半が黒人やアラブ系などであることはフランスのサッカーチームと同じで違和感は持たれない、などとも言っていた。

こうなると、この映画の社会的背景はある意味で私と遠いところにあるわけで、弦楽器、フィルハーモニー、生徒に教える、などという共通点がある分、かえって断絶も感じる。

シモンのセリフの中で実感があると思ったのは、「どこにでも才能のある子とまるでダメな子とがいる」と言い切るところだ。

才能のある子もゼロの子もいっしょにグループとして何かを作り上げていくことは難しい。バイオリンがダメでも、スポーツやダンスの才能があったり、絵の才能があったりする子、数学の才能がある子などはいるだろう。でもそんな子供たちはこのプロジェクトにとってはお荷物であり、本人にも苦痛かもしれない。教える方にとっても喜びがない。こういう自明な多様性があるはずなのに、貧しい子供にもバイオリンとクラシック音楽を与えると人生の道が開ける、みたいなオプティミズムにも違和感がある。

今の日本は知らないけれど、私の小中学校の頃は、全員がなんでもかんでもやらされた。嫌いな科目、不得手な科目に苦しんだ者も多かったかもしれないけれど、少なくとも、自分は何が嫌いなのか、不得手なのかを自覚する役にはたったかもしれない。

小学生の頃から私がピアノを教えている生徒が今は高校三年になり、来年のバカロレアで、理系バカロレアのオプションとして音楽も受けるというので、自由曲を準備させている。最初は、フランスであまり知られていないドイツ・ロマン派の曲を練習させていたのだけれど、今年のテーマがかなり現代的なものだということが分かって、サティに切り替えたところだ。ラヴェルの左手のためのコンチェルトなど10曲の課題曲から二つをくじで引いて、当たった曲の作曲者や時代背景や音楽の構成などを審査員の前で発表し、質問に答え、それから自由曲の実技を披露する。その曲の背景の説明や、課題曲との関係も話さなければならない。

私のトリオのメンバーのHは音楽バカロレアの審査員も毎年しているので、アドバイスをもらうつもりだけれど、私の生徒のリセでは、専任の担当のがいない。私が全部、準備を助ける。

オプションなので、自分の平均点を下回る点数である場合は計算に入れられないので、失敗してバカロレアの平均点の足を引っ張ることにはならないが、受験準備だけでも結構時間は取られる。でも、ここでこの10曲についてしっかり学べば、これからの人生の「教養資産」になると思うよ、と私は彼女に言った。

彼女も私の個人レッスンをずっと受けているのだし、クラシック・バレーもずっとやっていて、私立の進学校に通ってエリートコースを目指しているのだから、「貧しい家庭の子供たちに楽器を教える」冒険などとは程遠い。でも、楽器演奏という純粋にテクニックの習得とそれを超える音と音の間に出現する「音楽」と、曲を通しての作曲家との出会い、時代との出会い、人間性の普遍との出会い、などから生まれる錬金術のようなマジックの瞬間を共有する体験は、何物にも代えがたい。彼女にとっても、私にとっても。

ある曲の演奏について彼女の感性と私の感性がぴったり一致したような時は、その部分でとても特別な関係性が生まれる。


一対一(正確には作曲家も合わせて三人だけれど)の贅沢というのが私にはちょうどいいサイズなのかもしれない。


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# by mariastella | 2017-11-28 00:05 | 映画

ミシェル・ウエルベックの発言、メルケルとシドゥオゥ

『従属』Soumissionという小説で、フランスにイスラム教徒の大統領が生まれる近未来の小説で話題になったミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)、ネオ保守の雑誌のインタビューで、


フランスのイスラム教徒たちが満足するのは、フランスがカトリックを国教に戻してその上でイスラムを寛容にとり扱う時だ、


みたいな発言をしているという。


どの国でもマジョリティとマイノリティ、文化、伝統などが相対的な力で社会を動かしているから、彼の一見反動的な極論にも、なるほど、イスラム教徒にフランスでのマイノリティである立場と意識を自覚させれば感謝して謙虚に暮らすだろう、と納得する人もいるかもしれない。


でも、それをいうなら、エリザベス女王を首長とする「国教会」があって、国民全部がいったんは国教会に属するという形式が続くイギリスで、共同体主義の中でイスラム教条主義が横行していたりテロの標的にもなっていたりすることを説明できない。


フランスだって、いわば「ライシテ(フランス風政教分離)の共和国主義」そのものを「国教」としているような国なのだから、そのライシテの中で信教の自由を擁護されるムスリムが、「感謝」などしないで過激派に取り入れられてゆくことを説明できない。

ドイツでメルケル首相のマジョリティ連立政権の試みが、難民問題と環境問題で暗礁に乗り上げているのも心配だ。


過去に、彼女が難民百万人でもドイツはOKと言った時に、EUの他の国からは、現実を知らない理想主義だと叩かれるよりも、それはドイツの高齢化と労働力不足対策だなどと言われた。

彼女が難民OKというのは、「助けを求めて来るものをすべて受け入れるのはEUの精神に合致しているから」という建前だったので、その「正論」に踏み込むことはできずに、まるでそれがドイツの利己的なご都合主義であるかのように批判されたのだ。

私はメルケルの人道主義は本音だったと思う。

その本音を通せない現実との折り合いがつけられなかった。


前にも書いたことがあるけれど、ドイツのようにマッチョな社会で、メルケルが長期間政権を維持してきたことは不思議だ。もちろん好調な経済の後ろ盾があったにしろ、マクダ・ゲッベルスのような女性の悲劇を生んだ国で、しかも、「共産圏」に組み入れられた東ドイツ出身で、よくここまで来たなあと思う。


けれども、それをいうなら今のポーランドの首相ベアタ・シドゥオゥ(シェドワの表記もあり)の白人カトリック・ポーランドファーストもすごい。

今書いている本の中で、「共産主義はキリスト教最後の異端」という言葉があるのだけれど、

メルケル(ルター派)のキリスト教的信条とEUのキリスト教ルーツ、

ポーランドとカトリック、

この旧共産圏の二つの大国(東ドイツとポーランド)の二人の女性首相の対照的な姿勢と、

それぞれに向けられる国民の視線の違い

に感慨を覚える。


彼女らに比べたら、なんだかんだ言ってもフランスは苦労が足りないお花畑の男たちがのさばっているなあ、などとひそかに思う。


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# by mariastella | 2017-11-27 00:05 | 雑感

パリのメトロと日本人学者。真鍋 淑郎

今年の春ごろから、パリの高速地下鉄RERB線の北駅の壁に、何やら難しそうな数式が色とりどりの背景色の中に書かれたものが並んでいる。普通は特大の広告が貼られる場所だ。

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このういうのとか

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こういうの。


一見して何の数式かよく分からないし、なんとなく不完全な気もする。

でも、いったい何なのか気になって、人々は答えを探してホームを歩くことになる。


すると、突然「Shukuro Manabe !」とだけあるものが出てくる。

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えっ、なんとなく日本人の名前らしいが、Shukuroってよく分からない。

その人が真鍋 淑郎(まなべ しゅくろう)という日本の気象学者で、今の地球の温暖化説を唱えた先駆者で有名な人だと後で確認する。

何十年もパリの地下鉄に乗っているけれど、日本人の名前だけが書かれているポスターなんてはじめてだ。

説明によると、これはれっきとしたアートで、2015年のパリの環境会議COP 21 を記念してLIAM GILLICK というアメリカ在住のイギリス人アーティストによる「連作」らしい。だから、複雑な数式にインスパイアされているとはいえ、全体としては「デザイン」、「モティーフ」だし、政治的メッセージもある御用アートといったところか。でも、かなり抽象的な数式をこうして並べて注意を引き、視線を動かすことには成功しているし、結果として印象は強烈だ。

イギリスのアーティストがパリのメトロに日本人の名前を書き、気象学の数式を並べる。なかなかシュールだ。


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# by mariastella | 2017-11-26 00:05 | フランス

伊藤詩織さんと『パリのすてきなおじさん』

昨日の記事についてサイトの掲示板でコメントをいただいた

ワインスタインに始まったセクハラ告発事件は、日本では対岸の火事的な感じで、飛び火していないらしい。


そのすぐ後、今発売中の週間『女性自身』(私はネットのマガジンサービスでアクセスできる)で、詩織さんが、彼女の本を読んで、


「おなじ女性として恥ずかしい、私なら会見であんな服は着ない」

とか


「私は厳しく育てられたから、飲みに行く場所も人も時間も選ぶ」


などという同性の声があったのが悲しかった、


と言っているのを読んだ。


うーん、「女性の敵は女性」などという言葉もあるが、これでは、「自分も同じ人から似たような被害を受けた」というような女性がもしいたとしても、絶対に名乗り出て連帯しようなどとしてくれないのだろうなあ。

で、その詩織さんが同じ記事の中で、

「最近読んだ『パリのすてきなおじさん』という本があります。ここに登場するおじさんの多くは地位や人種と関係なく、それぞれの人生、自分自身を受け入れています。そして他人と違うことを恐れていません。日本も男女問わずそういう人が増えればいいなって」


とも言っている。

昨日の記事でもふれたように、フランスのパワー・セクハラはギャラントリーと表裏一体の伝統があって偽善的だと言われている。女性をリスペクトし、崇めたり、守ったりする騎士道以来の精神やら宮廷のマナーやらも引きずっている。

でも、詩織さんの気にいるような「パリのすてきなおじさん」たちってどんな人だろう。

興味を持ってアマゾンのレビューを見たら、みな高評価でこういうのがあった。

>>あれだけ多くのパリジャンたちを眺めていても、「ふむっ」となるのは移民のおじさんたちばかりというのも非常に興味深い。彼らは深いしわに刻まれた年輪以上に想像を絶する歴史を抱えていたりする。若者おじさんでも、笑顔の奥で深い哀しみをたたえていたりする。彼女は取材相手に寄り添い、その眼はとてもあたたかい。受け入れて共感してもらえると、取材相手も心をほぐす。最後には「孫娘になったような気持ちで」おじさんに肩を抱いてもらう。<<

ええっ、移民のおじさんたちなのかい、

で「最後には『孫娘になったような気持ちで』おじさんに肩を抱いてもらう」のかい。

具体的には

50歳のハゲのクスクス屋のおやじ、かたや92歳の競馬場通いのおじいさん」

などだそうだ。


うーん、この本は読んでいないから何とも言えないけれど、もうチョイスからして突っ込みどころが多すぎだ。こんな人たちはきっとそれぞれの「人生の達人」かもしれないけれど、パリからでも詩織さんを支援するために声を上げてくれるおじさんたちはこんな人たちではないよ、とは思ってしまう。

私がよく知っていて何十年も付き合ってきたパリのおじさんたち、のことを考えてみると、昔は、日本だったらどうだろうなとよく比較したものだが、一番の違いはやはり「世間の目」というやつに落ち着く。

絶対的に弱者の側に立つ「すてきなおじさん」は日本にもフランスにも一定数は必ずいるけれど、日本では弱者の側についただけで自分までいじめの対象になってしまったりすることがある。弱者の側に堂々と立つのが許されるのは特別強い人だけ、という奇妙な現象もある。

このところ、もちろんワインスタイン事件の影響もあるのだけれど、フランスではフェミニズムの本質にかかわるいろいろな議論が起こっている。両親が別れた場合の子供が基本的に両親のそれぞれの家で半々過ごすようにすることなどだ(今は70%ほどが母親の家をメインに暮らす。このことを差別だと父親が訴えている)。昨年ようやく日常必需品として消費税に相当する税が20%から5,5%へと下げられた生理用品を基本的に無料で配布(避妊具の無料配布は存在する)するべきだとか、高所得家庭の子育て支援金を減らしたり撤廃したりすることの問題などだ。(フランスにおける、無差別の子育て援助は、単なる社会福祉政策ではなく、「子供は社会全体が育てる」というメッセージだからだ。)

それにしても、数あるマイノリティ差別の問題でも、実は一番複合的で複雑で、逆説的なのが女性差別なんだろうなあ、とあらためて思う。


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# by mariastella | 2017-11-25 02:27 | フェミニズム



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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