ある読者の方からお手紙が来て、私が『知の教科書キリスト教』で聖書の新共同訳を推奨していることについていかがなものかと言われた。
プロテスタントの文語体の聖書は荘重流麗で人の心を打つが共同訳の拙劣さは耳をおおわんばかりで、たとえば、 「真に真に汝らに告ぐ」 とあるとありがたいが、 「はっきり言っておく」 ではまるでけんか腰でみもふたもない、 とおっしゃる。 笑ってしまった。 私だってそう思う。 「天にまします我らの父よ」 なんてフレーズも、7-7で語呂がよく、キリスト教信者でなくても、知ってる言葉だったから、急に 「天におられるわたしたちの父よ」 って言われてもね。 でも、私のあの本は、「キリスト教と特に関係ない大学生、大学院生を対象に」、ということで書かれたもので、新共同訳の親切さはやはりよくできてると今も思う。今はじめて聖書を読んでみたいという若い人に勧めるとしたら、新共同訳が現実的だ。 コーランは、基本的にアラビア語が神の言葉だったんで、翻訳は厳密には聖典ではない、というか、原語にあたらなくてはならないと言われてきた。 それに比べてキリスト教の聖書は、書かれた言語が変化したり、ヘレニズム世界で展開したり、ラテン世界でラテン語でヨーロッパ化したものがもっとも「近代社会」のヘゲモニーを得たので、どれが「啓示の言葉」なんだと言われても、けっこうハイブリッドになっている。 だから、翻訳された「聖句」はそれぞれの言語のそれぞれの時代の文化を背負ってるし、受け手の感性もそれぞれだろう。 でも、これも、芸教分離論と同じで、 確かに美しいことは力であり、美しい言葉で伝えられた「ありがたい」言葉はいっそうありがたいと思うけれど、 今の私は、何となく、もう、「ありがたさ」を運ぶものは、 言葉にしろ、建築にしろ、音楽にしろ、絵画や彫刻にしろ、 美や芸術的価値から分離して考えた方がいいんじゃないかと思っている。 美や芸術を軽視して言ってるんじゃない。 むしろその反対で、美や芸術の力はすごいから、 たとえ偏狭や不寛容や、いや、悪や頽廃を隠していたって、 ありがたく、美しく、目くるめくこともあり、それに仕えたくなるからである。 翻訳の言葉が拙劣で、それで本質なものを失ってしまうような宗教なら、それはその宗教の器なのかもしれない。 日本の聖書も、有名な東北弁のケセン語訳とか、大阪弁訳、なんてのもあるそうだ。イエスの語った言葉が、その時その場所でどのような語感を持っていたのかは分からない。結局、一度テキストの形になれば、後はコンテキストと共に読むしかない。流麗な文語で聖書を学んだ世代の方には、古式ミサの美しさやそれを取り巻く時代の雰囲気そのものがそのコンテキストになっているだろう。 美を分離した宗教なんて耐えられない、って思う方もいるだろうし、美は神を讃えたり祈ったりすることの本質とつながっているんだ、という方もいるだろう。宗教的美と聖なるものへの信仰心こそが美や芸術を生んだのだという考えもあるだろう。 それでも、私は、美と宗教を分離しない時の危うさはあると思う。 イスラム教で今も政教がセットになっていたり、宗教と教育が切り離せない社会も多くあるように、美と宗教もフュージョンしていてそれがありがたさのよりどころになってたりするから、その分離は思いもつかず、分離後の世界を想像できないと思いそうだが、それでも、私の中ではそういう時期が来ていそうだ。 美と分離して「みもふたもなくなって」しまったところで、どこまで宗教が普遍であり得るかを探りたい。その意味では、やっぱり、新共同訳は貴重なとっかかりであると思う。 #
by mariastella
| 2008-08-26 22:03
| 宗教
小鍛冶邦隆のWeb連載「音楽・知のメモリア」の第5回は「テロリスト・ルードヴィッヒ」を読んだ。
バッハ、モーツアルトと続いた後で、ゲルマン人は、ベートーベンに来て本格的にラモーから遠くに来たなあ、と思った。 ラモーは、システムの変革をしなかった。 ラモーにとって、システムは、どうでもよかったのだ。 その意味を新たに考えさせられる。 一定の視点と視野の設定はラモーにもある。ってか、それしかない。 それが確固としてるのにシステムの構築に結びつかないところがすごい。 数学者ラモーのハーモニー論を、バッハも研究し尽くした跡がある。 バッハの記号的、教育的な曲の組み立て方を見てるとよく分かる。 ベートーベンにおいては、不協和音が身体的な暴力装置になっているという指摘がすごい。懲罰的だって。 ラモーにおいて、きらきらした雲母のような、白銀の月の火口のような、「色」になる不協和音が、ベートーベンでは、規律性を起動するための破綻となるのだ。 まあ、ラモーの不協和音を近代楽器でやったら、懲罰的になることもあるかも。 ラモーの不協和音には、バロック楽器という素材が前提だったから。 ベートーベンは、身体性によって、構造の側から聴き手を「順化」させようとしたのだそうだ。これって、すごくゲルマン的ではないか。 ラモーの身体性は、聴き手を招待する。あれほど数学的な脳内人工楽園の創造主が、なんで共感覚的な世界を展開できるんだろう。 ベートーベンに殴られるのが好きな人は多そうだが、 私はラモーに淫するのが好き。 #
by mariastella
| 2008-08-25 06:48
| 音楽
政教分離の萌芽は、ローマ法が完備していたローマ帝国世界で発展したキリスト教自体の中に潜んでいた。
しかし、現実は、たとえばローマ教会が領地を得て封建領主化したように、宗教と政治はなかなか切り離せなかった。 今のヨーロッパ、特にフランスは政教分離が進んでいる。私は日本からフランスに来たからぴんとこないが、社会が宗教離れしている点では日本とフランスは今の世界でも特異な国だろう。 でもそこに至った経緯は全然違うので、要注意なんだが、それはまた別の話。 で、政教分離がよくできているのは、教育と宗教が分離してる教教分離の様子でよく分かる。アメリカの公立学校から十字架や祈りがなくなったのなんて1960年代だ。 私がこの頃思うのは、自分の中の芸術と宗教の分離である。これは見落とされがちだけど、けっこう本質的ななにかを秘めているかも。 カトリックからラテン語ミサが姿を消していたのが、最近、併用OKになった。それで、ノスタルジーも含めて、古式豊かなのが荘厳でいいというような話をあちこちで耳にするようになった。 私は、キリスト教の教会美術や教会音楽や建築を過小評価するわけではない。 カトリックに改宗したユイスマンスがパリのあちこちの教会のミサや典礼を比較して、審美眼を駆使した『En route』なんて何度読んだか分からないし、バロックのモテットも好きだし、レクイエムも好きだし、バッハの教会音楽も好きだし、フランスでもわざわざソレムスにグレゴリアン聖歌を聴きに行ったこともある。 ただ、それと、いわゆる信仰を結びつけたことはない。 人が、超越的なものをいかに表現しようとするかとか、霊的なものを求めるとか、それがどうやって美に向かうのかとかいうことにはとても興味がある。 芸術における精神性や聖性に感動することもある。 でもそれは、たとえば、比叡山の声明を聴いても、ペルシャの宗教音楽を聴いても、グレゴリアン聖歌を聴いても、変わらない。 声明に感動したからといって天台宗に帰依したくなるとか、スーフィーの踊りを見てシーア派になるとかならないように、別にすばらしいミサ曲やレクイエムを聴いても、だからキリスト教がすてきだとは思わない。 実際、いろいろな宗教や宗派の中で、明らかにキッチュでありがたくないような建築物や絵や音楽にも出合う。玉石混交だ。というか、どのようなコンテキストにおいても、ほんとうに深く美しいものは少ない。 もちろん、宗教の中で、特に宣教とか布教において、芸術の力が効を奏することはあるだろう。美しい女神や聖母像や仏像を見て心を動かされて回心することがあるだろう。貧しいブラックアフリカの真ん中に突如としてこの世の天国のような金色に輝く大聖堂が建てられ、そこではじめて、「この世」とは別の精神性に出会い、洗礼を受けるばかりか修道士や修道女になり、その美の豊かさに支えられて清貧の奉仕活動をしたあげくテロに巻き込まれて殉教した人々も知っている。美によって愛に触れる人だっている。 でも、宗教が政治や教育とくっつくと、いろいろな取り込まれ方をするように、芸術が宗教に取り込まれると、その美の優越性のゆえに、美を所有している側が優越を主張したり、偏狭になったりする。 美の祭神なんて言葉があるように、美そのものも宗教化しやすい。美の神とはたいてい不寛容だ。美と原理主義ってその点で親和性があったりする。 でも、宗教は芸術を担保にしてはいけないし、 芸術は宗教を担保にしてはいけない。 芸術が、広義な聖なるものとか超越の感情なしに成り立つものかどうかは難しいところだ。でも、芸術や美は、残念だけど、モラルなしでも成り立つと思う。 そこのとこも含めて、芸教分離の意味をよく考えてみたい。 人は火が好きだ。火は超越だの美だの命だの聖なるものを喚起する。 ルルドの夜のろうそく行列を見るとキリスト教でない日本の学生たちも感動する。でも、外国人が日本の寺の火祭りや薪能を見ても感激するし、人はテーマパークの光のパレードでも、隅田川の花火でも、感動するのだ。 部屋の電気を消し、光ファイバーのクリスマスツリーが繊細に光の漣を繰り出す時、どんな子供でも、目を輝かせて見入る。 うちの猫たちは、全く興味をしめさない。 こういう時だけ、やつらが死を恐れない理由が分かるような気がするよ。 昔は、美や祝祭は、宗教が独占していた。 今は劇場があり、音楽会があり、美術館もあり、テーマパークがあり、室内プラネタリウムだってある。 そんな時代に、芸教分離とはどんな可能性を持つのか。 政教分離、教教分離、の後の、最後の何かになり得るんだろうか。 #
by mariastella
| 2008-08-25 05:05
| 宗教
無神論的表現と詩作について、19世紀において文学者が信仰を失うということについて考えようとして、ジュール・ラフォルグの詩集『月聖母のまねび』なんかどうだろうと思い立った。
象徴派の詩は昔、若い頃にたくさん訳詩を読んだけど、また、訳詩を原詩と照らし合わせるというような作業は何度もしたけれど、そう、今は、すっかりフランス語も自家薬籠のものになってるから、ラフォルグを訳さずに直接読んだらさぞやインスピレーションを受けることだろう・・・・と思った。 今は便利な時代。ラフォルグの詩なんてすぐネットで拾える。 http://www.laforgue.org/laforgue.htm さっそく『月聖母のまねび』を選んで、インスピレーションの得られそうなタイトルを次々に開く。 おや、『ギター』なんてのもあるではないか。 しかし・・・ 難しいよ。 昔の日本の仏文学者って、すごいなあ。 彼らはたとえばマラルメやユイスマンスがラフォルグを読んで愛したようにラフォルグを愛したんだろうか。 それとも、「マラルメやユイスマンスがラフォルグを愛した」と知って、ラフォルグに挑み、一つ一つの言葉を日本語に置き換えて、それを研磨して、きらめくような日本語の詩を創り上げたんだろうか。 アラン・ポーの詩の英語はそんなに難しいものではない。 でも、あれが日夏耿之介の訳詩になるにはどんな錬金術があったのやら。 その秘密はポーの側にあるんじゃなくて明らかに日夏耿之介の側にあるなあ。 哲学関係の本や思想書なら、昔、翻訳で読んでえらく難解そうだったものが、今フランス語で読むとすごく分かりやすいということがよくある。 詩や歌詞もフランス語のほうがしっくり分かりやすいし綺麗だと思うことがよくある。 でも、ラフォルグを前にして、詩作表現に見る無神論の不安の分析をやる気力が萎えた。 絵画表現や音楽表現はうまく行ったんだけど。 言語の壁って独特だ。それともラフォルグの壁なのか・・・ 結局、評論においてもそれが問題だ。 言語が介在しない分野では、誰でも評論家気どりができる。 この音楽は気に入らないとか、この絵は分からない、とかね。 説明できなくても平気だ。感性の問題だから、とか言える。 でも、言語で表現されてるものはね・・・ わかんなければ頭が悪いんじゃないかとか、語学力がないんじゃないかとか悩んでしまう。 一読しただけでラフォルグがわかんないとは、思わなかったよ。 #
by mariastella
| 2008-08-23 06:16
| フランス語
『聖骸布の男』(講談社)というムックでも縁があった不思議好きの編集者から、ルネサンスのキリスト教絵画の中に散見されるUFOについてのコメントを求められる。
私のサイトの宗教質問箱では、福音書に出てくる「おかしな記述」をどう信じるかについての質問が来ていた。まだ、答えてない。 他のブログで、聖母の処女受胎についてのコメントであれこれ過剰反応があったからみたいだ。 受肉と復活というのは、キリスト教が成り立つには信じざるを得ない部分で、まあ、これを受け入れると、必然的に、聖母の処女性とかなんとか、細かいことにファンタズムも生まれるし、そこにのめりこむ神学もある。 今年は聖パウロの年というんで、パウロの手紙を読み返してると、彼のとらえたキリスト教というものの骨格がすごく分かって、それに感動したら、聖母にまつわる議論がいかに本質的じゃないかが実感できる。時には「変だよ」とか、「神の子にしてはいまいち・・」と指摘されるイエスの言動だって、受肉と復活のダイナミズムが、ヘレニズム世界の弁証法に合流して、今につながる近代理念だのそれがはらむテクノロジーの肥大だのを生む「歴史」がスタートしたことのすごさに比べたら、瑣末なことに感じられる。 神の化身というのは繰り返し、神の受肉というのは1回きりである。 すごい発想だが、これがあるから、「では、イエスが生まれる前の時代に生きた人類は永遠に救われないんですかい」という素朴な問いに対する答えに窮するわけだ。 こんな苦しいキリスト教がシンクレチックに風化しないで、常に異端を創ることで自らを確立していったのは驚きだ。その道があまりにもアクロバティックだったので、そこから逃れるのはたまに起こるミスティックな狂熱だけだったのだろう。 それで、原則として、キリスト教にまつわる枝葉の奇跡譚には、結構辟易しているのだが、グアダルーペの聖母だけは、執拗に存在感を押しつけてくる。 昨年メキシコ人の音楽学者と話した時、メキシコでもインテリは誰も信じてないよ、教会がいろんなデータをでっち上げてるのはみんな知ってるよ、みたいに一笑された。 メキシコという土地がまた微妙である。 これがヨーロッパなら、どんな田舎でも、たとえばメジュゴリェの聖母御出現なんかでも、のめりこむ人もいるが、シビアに切って捨てる人もいて、いろんな解析が可能だ。司教の認定とかヴァチカンのお墨付きとかにはまずならない。 アフリカとかアジアでも、データが乏しい、伝統が乏しい、すごく蒙昧かそれを批判するインテリかに分かれそう、非宗教的オカルトやカルトや超常現象趣味と区別が曖昧になる、などの理由で、ま、お話として聞いときましょう、面白かったらそれでいいんじゃない、という感じになる。 ヨーロッパで、しかもカトリックの伝統のあるところ、スペインとかフランスとかイタリアに分散するイエスの聖骸布系の奇跡は、中世に山のようにあった「偽物」が全て淘汰されてきた末に生き残ったのだから、その信憑性を云々するのはかなり慎重かつ深刻になる。「最新のテクノロジーを駆使した科学的検証」というのになりがちで、奇跡のイメージと対照的だ。 で、メキシコ。 やってることは、「欧米か」って言えるほど、科学的検証っぽい。 『大人のためのスピリチュアル超入門』でも書いたけど、グアダルーペの聖母がプリントされたファン・ディエゴのポンチョには不思議が多すぎ。 染料が特定できない、筆の跡がない。(1936年化学者に繊維を分析させた。) 1791年に塩酸がたれて右上に10センチの穴が開いたが30日後にふさがった。 同じ繊維の布にコピーが作成されたが、15年で塵となった。 1921年、アナーキストがダイナマイトを仕掛け爆発したが、ポンチョもガラスも無傷。 1929年、カメラマンが聖母の右目に人の姿発見。 1956年、眼科医が聖母の眼底を見ようとしたら瞳孔が閉じたり開いたりした。 同年、8ヶ月にわたる研究の結果、Purkinge-Samson光学反応を聖母の目に発見。 1979年2月、メキシコのIBMの科学センター所長がデジタル処理をしたら聖母の目に12人の姿が。2500倍ではポンチョを見せるディエゴの姿が見えた。 同年7月、フロリダ大学の生化学教授などNASAのメンバー二人が、絵具の不在と、ポンチョが、原因不明に、36,6から37度の「体温」を維持していることを「発見」。 1981年、聖母のマントの上の星模様は、1531年12月12日(ディエゴがポンチョを司教に見せた時)の冬至の10時26分のメキシコの空のものだと発見され、天文学者が認める。 NASAによると、聖母の姿から10センチまで近づくと、色が見えなくなる。横からレーザー光線を当てると、絵が布から0,3mm浮いているように進む。 聖母は妊娠していて、その腹に聴診器をあてると、115-120の心拍音が聞える。これは胎児の心拍数に相当。 極めつけ。 去年、2007年、4月24日、中絶法が通過した後で、聖母の姿が薄くなり、変わりに強烈な白い光が差し、胎児の形に輝いた。 多くの人が写真を撮り、それを分析した専門家たちは、それが合成でもなくフラッシュの光でもないことを証言。 この最後のはまだ司教の認定を待ってる最中。 何かやり過ぎ。 政治的なのもモラル的なのもうさんくさい。 じゃあ、実際に見ればといわれても、今は、動く歩道式に参拝するだけだし、テーブルマジックのトリックだって見抜けない私が行って検証したってどうなるものでもない。本を読んだり写真を見たりするだけ。 結構まともな文書もある。ディエゴの列聖が最近だったので、いろんな研究書が出たからだ。 イエスの遺骸を包んだ血塗れの布がヨーロッパのあちこちで大事に取っておかれたってことは、まあ、理解できる。でも、16世紀にメキシコで突然出現した聖母の絵に、これだけの「不思議譚」をこれでもかこれでもかって、付け加える意味は何? メキシコのインテリたちは「けっ」といって無視するから、「民衆御用達」のままでいいのか? ヨーロッパのキリスト教というのは、それが最初からかかえる弁証法の中に無神論を包含していた。脇に無神論の壁を築くことで神学が発達したといっていいぐらいだ。 だから、奇跡譚にもそれなりの含羞だとか陰影がある。ニュアンスがある。 メキシコのなりふりかまわなさはなんだ。 王様は裸って言う人はないのか。 聖母のマントの星の模様に見える星はそんなに多くない。 いつの年のいつの空にだって、任意にこの位置の星を取り出せるだろうと思うのは私だけか。 不思議話は魅力がある。 どんどん深入りしていくことの魅力。 5月に直島の南寺で、ジェームス・タレルの光の作品を見た。 暗闇の中で瞳孔の開くのを待つ。 奇跡みたいだったよ。 #
by mariastella
| 2008-08-23 04:02
| 宗教
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