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L'art de croire             竹下節子ブログ

超越について その2 

 昨日、B16が一般向けに言ったことの中で、文化の真の基礎は神の探求にある、みたいなのがあった。「真の=veritable(B16はフランス語が達者なんでフランス語の講演だ)」というのは、「相対主義」と戦う彼の文脈の中では「絶対」に近いかな。

 この「神の探求(recherche de Dieu)」について、「価値の探求と同義ですね」と解説した人がいた。「絶対の探求ですね」という人も。

 フランスのインテリが、教皇の言葉を非宗教的に言い換えるこだわりはおもしろい。
 日本人が天皇制について、客観的にものを言いにくかったり、すぐに誤解されてしまうのを恐れるのと同じだ。

 その分裂ぶりを正直に語って好感が持てたのは、ジャーナリストのジャック・ジュリアールである。彼は自分のことを

 「心理的には無神論者、

  文化的には反教権主義者、

  霊的にはキリスト者」


 だと言っている。

 朝起きると、無神論者だし、考え方も無神論者。
 家庭、教育など成育環境からは反教権主義者。つまり、カトリック教会や教皇の権威に批判的。
 しかし、スピリチュアルには、キリスト教的教養があり、イエスのメッセージを核においている、んだそうだ。ヨーロッパ世界の平和主義とかユニヴァーサリスムとか、神の前の平等主義はたいていイエスのメッセージから来てるんだから無理もない。

 平均的な戦後日本人の私は、一神教的な無神論の感覚はない。
 困った時に「神さま、ほとけ様」、と言う時点で神も無神論もない。有神論のないところでは無神論もないのだ。無神論は有神論や理神論のヴァリアントであり進化形であり、神を担保するものだ。
 カトリックは超マイノリティだから、日本には反教権主義なんてものもない。フランスに反ダライラマがないみたいなもんだ。
 日本では同じマイノリティであるある種のカルトやプロテスタントなんかが反カトリックを唱えるかもしれないが、一般の人はその区別なんてつかないだろう。

 で、ジュリアールが、霊的(=spirituellement)にはキリスト者(=chretien)、って言っちゃえるところもフランス的だなあ。日本人が「霊的にはご先祖様信仰」という程度の自然さと根深さがありそうだ。

 そして、こういう正直なインテリたちが、教皇に、彼らのアイデンティティの分裂ぶりを破壊しないような言辞を期待する様子はおかしい。教皇はカトリックの長なんだから、いくらヨーロッパ的インテリであっても、無神論や反教権主義にはなり得ないんだから、「神」を口にして何ぼである。
 
 で、「文化の真の基礎(拠り所、土台=fondement)が神の探求にある」ってところだが、分裂気味キリスト者のインテリたちは、これを「絶対価値の探求」とか、「超越の探求」とか置き換えて、霊的な共感を示したりするのである。

 しかし、「神の探求」が「価値の探求」とか、「超越の探求」とかに置き換えられるとしたら、文化の拠り所として重要なのはひょっとして「探求」の部分ではないだろうか。

 彼らの言ってるのは、「探求が文化の源泉である」ということで、人が神や価値や絶対や超越を押し付けられたら、そこには真の文化が成立しないってことかもしれない。

 そう考えたら、超越って言葉のよさも分かる。

 神だの価値だの絶対だのは、

 「ほうら、これこれであるぞ、ありがたく拝め」

 という風に「おしつけられ」がちである。

 いや、歴史においてはたいてい、権力者による支配ツールになってきた。

 しかし「超越」と言ってしまえば、せいぜい、その方向を漠然と指すだけで、何しろ超越なんだから、押し付けにくい。
 超越という概念は、神や何々主義や価値の押し付けの安全弁になり得る。

 本当に大切なものは目には見えないんですよ、

 というやつだ。

 本当に大切なものを見ようとする視線だけが残る。
 探求が残る。

 文化とか芸術が生まれてくる。

 という仕組みかもしれない。

 そしなら、

 「ひょっとしたら、神も仏もいないのかも」

 って疑いだした人が、「超越」まで放り捨てて、

 物質主義の中で固定されたり、
 現実を失ってヴァーチャルなコンフォルミズムの波にすくわれたり、
 金やブランドや権力の偶像をひたすら拝んだり

 という自体を防げるかもしれない。

 だとしたら、超越が必要なのは、永遠の探求を可能にしてくれるからだ。

 探求の自由を含まない自由なんて、自由じゃない。


 
# by mariastella | 2008-09-13 22:44 | 宗教

超越について

 公営TVをつけてみたら、教皇のパリ到着の特別番組をやっている。
 
 ヨーロッパ人は3人に一人は「信者」と答え、フランス人は2人に1人しか信じてると言わない。無神論者が一番多いのもフランス。
 でも、JP2がなくなった前後は、全チャンネルがヴァチカンに釘付けだったし、今回もいざ教皇が来るというと、明日のアンヴァリッドのミサのためにフランス中から集まる若者が今夜から広場で集まるのだそうだ。今日の午後は多分ライシテに関してのスピーチ、夜はノートルダム、日曜はルルドのミサ、これもTVで放映されると言っていた。
 こういう時は、フランスはカトリックの国なんだなあと思う。ミシェル・オンフレイのような昔タイプの無神論者が健在なのもそのせいだろう。 
 サルコジ夫妻は教皇を空港に迎えた。これも信者というより、ブッシュ夫妻の猿真似だろうな。調子に乗ってライシテ・ポジティヴで「神、神」って言うなよ。

 今執筆中の本のために無神論を研究することは、思想史や精神史をすべて無神論のフィルターにかけなおすことだった。
 私は平均的日本人なんで、神がいるとかいないとかの論議にはあまり揺さぶられないだろうと思っていた。

 意外だったのは、「超越」は存在しないという論議だった。

 神とか「聖なるもの」は、文化や歴史の産物なので、いろいろなヴァリエーションがあると思っていたが、漠然と、「超越存在」はあると信じていたらしい。

 ある意味で、超越はまさに超越なんだから、「どのようにあるか」は意味論的には認識できないんだが、人間が、生まれる前とか、死んだ後とかの観念を持つ以上、この世の時空以外の「超越」観念をかかえているのは自明だと思っていたのだ。
 音楽のような非物質的な美を鑑賞したりできることも、「超越」を受け入れられやすくしていたかもしれない。
 
 でも、無神論にまつわる物質主義というのは、一貫して「超越」の否定だったのだ。
 
 ボードリヤールが継承したので日本でも知られているギイ・ドゥボールの『スペクタクルの社会』のことを考える。

 資本主義のプロパガンダ、中央集権的なマルキシズムのプロパガンダ、嘘、虚構に基づいている点で実は一つのものであるとドゥボールは看破し、いまや、その統合形が北京オリンピックとなった。現代世界は市場経済原理が自律的に牛耳るので政府の力や責任は幻想に近い。
 で、現実と虚構が相互貫入し、一種のニヒリズムが生まれ、それも、アクティヴなニヒリズムというか、破壊、脱構築の世界である。
 今は、相互貫入どころか、ウェブの発達でヴァーチャル世界が現実の外装フィルムみたいになっている。人はそのフィルムの上で生きている。あるいはフィルムと現実の隙間で。

 そして、超越が消滅する。

 つまり、世界は、現実を失った時に、「神」も一緒に失うのだ。

 ということは、実は、「神は現実の側にいる(いた)」らしい!

 神や超越が現実を担保していたのだ。
 少なくとも、現実構築の一要素だった。

 虚構の世界には、政府が要らないように、神も要らない。

 神や聖なるものなんて「嘘だ、迷信だ」と、無神論者が長い間声を上げてきたが、何のことはない、世界中が虚構になれば、神も消えるのだ。

 仏教が、現実の苦悩からの救済理論として、超越を否定した無神論だというのも、こう考えるとロジックである。
 苦悩に満ちた「この世」は幻に過ぎない。
 つらい現実と見えるものは、存在のモード、命のモードの一つに過ぎず、不定のものである。
 現世は夢まぼろし。苦悩はもうないし、神や超越も必要ない。

 大日如来なんかテイズムの神に似てるしな。テイズムやデイズムは無神論のヴァリエーションだった。

 西洋における「汎神論=パンテイズム」という言葉も、無神論を指す造語だったことを思うと、感慨深い。

 じゃあ、ネオリベのアメリカ人がしきりに神、神、って言ってるのは一体なんだ。
 アリバイか?
 神を口にすることでよりよく虚構世界を管理するつもりなんだろうか。

 私はヴァーチャルな人間ではないらしく、また、この世は幻と見る悟りにも程遠く、超越とセットになった現実を実感してるようだ。

 考えてみると、フランス・バロック音楽理論とその実践における人工性というものは、広い意味では現代と同じ「虚構」や「スペクタクル」でも、実は脱構築やニヒリズムとは正反対で、「超越と現実をセットで再構成する」という意思と方向性を持っている。

 だから、楽しい。
 果たして強者の遊びなんだろうか。
 「生の歓び」っていうのは私にとって自然な一つのテーマなんだけど。
 人は、神が死に、現実を失った世界でも、楽しく生きられるのか?

 (余談だが、ドゥボールに触れようとして、「状況主義」という言葉を日本語で検索してみたら、状況によって行動が変わるというパーソナリティ理論とか、日本は状況主義国家で状況に流されるだけ〈日和見に近い意味らしい〉、なんていうのが最初に出てきた。芸術運動としても、68年当時の過激左派としても、「状況主義」は消滅した感がある。)
# by mariastella | 2008-09-12 19:48 | 宗教

B16 がフランスに来ることでいろいろ。

 ベネディクト16世がフランスに来るんで、それなりに盛り上がってる。ライシテ・ポジティヴとかいってサルコジが馬鹿なことをしたり言ったりしませんようにと、フランスのカトは冷や冷やしている。フランスのカト側は、もう、ライシテとカトリックの対立は過去のことで、教皇が来たからといって、カトは、特にプロパガンダを展開しようというわけではない。サルコジの変に宗教っぽい挑発的言動によって政治的な厄介ごとが起きないように願っている。
 サルコの宗教趣味は、ハンガリー貴族というその出自のせいではなくて、WASP的アメリカの政治的セレブが宗教帰属を表に出して宗教ロビーを大事にしてることの猿真似であろう。

 私個人は、B16個人が相変わらず、どちらかというと好きだ。いつも見た目が可愛いと思うんで、彼が悪人顔とかいう人の気持ちが全然分からない。
 若い時の写真なんてほんとうにハンサムで可愛くて上品だ。ちょっとワイルドなお兄さんと対照的。

 確かに、教理省の長官だったり、ドイツ人だったり、悪名高いDominus Iesus を発表したり、こわもての保守主義者ってイメージはあるが、何しろここ3世紀の最高齢で教皇位に就いただけあって、もうすっかりJP2晩年と重なるような枯れぶり。

 『ナザレのイエス』って著書を出したが、序文で、教皇でなく一神学者として書いたと断る腰の低さで、教皇庁プレスのイエズス会士は、わざわざこういう区別をしたことに不満だったらしい。

 後、私がB16を好きな二つの理由。

 彼はヴァチカンの自分の部屋にピアノを入れた。ヴァカンス先でもピアノを弾いて、それを写真に撮らせたりTVに映されても嫌がらない。大体、モーツアルトがレパートリー。で、
 ピアノを弾くとき、たとえ写真に撮られても平気で右手の薬指の聖ペトロの指輪を外す。教皇のシンボルの一つの金の重そうなやつである。だから、ピアノを弾くときには外して、重ねた楽譜の上とかにちょこんと置いておく。

 どうでもいいことかもしれないけれど、楽器を弾くときにできるだけ軽くしようとしてブレスや腕時計や指輪を外す私には親愛感を感じさせる。これって、なんていうか、人間として信頼感と好感をそそる。

 もう一つは、うふっ、彼が猫好きなところ。

 Pentlingの地所にいるお気に入りの猫は私好みのクリーム・ベージュのヨーロピアンのChicoちゃん。なんと、ドイツでは、『ヨーゼフ(B16の名)とChico』っていう子供向きの本まで出ていて、Chicoちゃんの視点でB16の生涯が語られてるそうだ。教皇秘書官の序文つきで。

 まあね、キリスト教の未来を考えるなら、私はベルギーのガブリエル・ラングレ神父と同意見で、はっきり言って、今のローマ教会とかは、もう、肥大と硬化と、地政学的コンテキストのせいで、キリスト教の本質を貫くのは無理、まあ、歴史によって学習した智恵と技術を駆使して、今できる限りの最大の寄与を地球の平和と安全のためにがんばってしてください、と思うだけだ。

 聖アウグスチヌスを通したプラトン主義者であると自他共にいうB16だって、だから、本来は、キリスト教のイデアに忠実でいようと努力しているのだ。宗教と理性が切り離せないという、グレコ=ロマンの伝統にある人で、その思考の方程式は、

 「信仰 + 理性 = 解放する真実」

 というのに尽きる。

 ナチズムの全体主義の中では、聖職を選ぶことが内的自由の確保だった。それはJP2も同様だ。

 その後、そのリベラルな精神を維持していたが、1960年代以降のポストモダン的相対主義に失望した。

 逆説的ではあるが、ポストモダン的な相対主義や脱構築は、ユニヴァーサル理念を瓦解させる結果、ばらばらの個人を「エゴと欲望に忠実であれ」という知的モラル的な画一主義へと向かわせがちなのである。そういう画一主義を利用して個人を消費者として再編成するマーケットの力がそれを助長する。

 だから、B16が、ヴァチカンⅡの重要性よりも、キリスト教を「イエス・キリストとの出会い」に位置づけなおそうとした気持ちも分かる。

 残念なのは、ちょっとKYで、メディアの使い方に疎いし、自分でヴァチカン政治に乗り出さず全てを担当枢機卿に委任したりするので、去年、ワルシャワ新大司教の就任の日に共産党秘密警察との関係が暴露されるとか、この春、宗教間対話担当のトラン枢機卿が知らされぬままに元ムスリムを洗礼してしまうとか、齟齬が生じる。
 エコロジーがらみなどでなかなかいいことも言ってるのに注目されず、保守的な言動ばかり叩かれる。

 プラトン=アウグスチヌス系の世界観が、アリストテレス=トマス系と違ってペシミスティックなのも暗い感じだ。

 しかし、彼は、JP2の対極で、演技とか、演出とかを絶対にしない人で、根回しやらロビーイングにも疎い人、信者に個人崇敬されることを嫌い、カリスマ的でないので、相手を魅惑したり呪縛しないで、自由にさせる人だそうだ。目立たず、無理をせず。

 今回、現役教皇としてルルドに巡礼する二人目で、ポーランドの田舎っぽいイメージのJP2ならいざしらず、知的で理性主義のドイツ人B16までがルルドに来るんだぜ、って感じでフランス人カトはけっこうはしゃいでる。

 でも、マリアの「母なる御加護をみなさんに・・・」なんてメッセージを口にしてるのをTVで見ると、白髪の教皇と聖母崇敬は似合ってるよな、と思う。
# by mariastella | 2008-09-12 01:26 | 宗教

グルジアについて

 グルジアの問題について何か言うのはすごく難しい。
 
 私は物心ついたときから、いわゆる「東西冷戦」真っ只中だったので、世界とはそういうもんだ、という刷り込みが何となくあった。
 だから、KGB出身のプーチンのあの顔見るだけで、悪役っぽいなあとか思うし、佐藤優さんがいかにソ連がすごかったかあちこちで語ったり、かなり反動的なあやしいことも言ってたはずのソルジェニーツィンが亡くなったとたんにまるで自由の聖人のようにいっせいに讃えられたりするのを聞くと、さもありなんとか思ってしまう。

 ほんとは、ひそかに、コーカサスでのアメリカのやり方はあまりにもひどいロシアの挑発だと思うし、なんだか、第2次大戦に突入してしまった日本の哀れさなんかも連想してしまって、冷戦をやめてないのはアメリカだろ、と思うことがある。

 冷戦だの9・11だので、アメリカ=自由の国につくか、それ以外のあやしい国につくか、みたいな二元論に慣れさせられて、そりゃ、どっちかって言うとアメリカだよな、って思うし、状況によってはアメリカ批判は唇寒し、って感じだ。
 フランスにいても、サルコジが親米なんで、アメリカ批判はサルコジ憎しの反動だけだと受けとられかねないしな・・・。

 確かに、プーチンは見るからに怖そうだ。
 相似形でポーランドの大統領と首相を務めるザ・双子のカチンスキーも、見るだけで「信じられなーい」と思う。

 でも、フランスで、パリ地方の一つで最も所得の高い県であるオードセーヌ県議会の与党のプレジデントは、サルコジの21歳の息子だ。

 常識で考えたら、いや、戦略的に見ても、対外的に見ても、普通はあり得ないチョイスだろう。

 21歳だよ。

 日本でもいくら2代目3代目議員がいるといっても、ここまではないだろう。

 しかもメディアにも出まくってるし。国営ラジオがサルコジ夫人の歌のCDの宣伝してるし。

 こわもてのプーチンも、カチンスキー兄弟も、当地では普通なんだろう。

 で、CIAがオレンジ革命だのバラ革命だの資金援助しまくって、他国の国境線定義には介入しないと約款しているヨーロッパを無視してアメリカがコソボの独立宣言を2月に公認したり、3月にウクライナとグルジアのNATO入りを提唱してうまく行かなかったり、なんと言っても、核兵器のあるなしに関わらずに世界の安全の脅威となる国に対しては核攻撃を仕掛けることができるって理論を去年の終わりにNATOに採択させたことなど、ロシアを硬化させた。
 この7月8日、アメリカによるアンチミサイルのレーダー設置にチェコが合意したし、8月14日にはポーランドが2012年の10台のアンチミサイルの砲台設置にサイン。7月にはアメリカ軍人1000人がグルジアで軍事教練を指導していた。アメリカ政府がグルジア軍のオセアチア自治区攻撃準備を知らなかったとは思えないし、ロシア軍がそれに備えて待機していたことも知っていたはずだ。すべては、ロシアの反応の速さとロシア世論の展開をテストするための挑発だったのかもしれない。

 どっちにしても、コーカサスから、ロシア軍を追い出してNATO軍に置き換える、という意図は見え見えで、こんなことされ続けたら、プーチンじゃなくてもキレルかもしれないし、少なくとも、それを逆に利用して、とにかく力には力を、って連鎖は終わりそうもない。

 今日は9・11の7周年ってことで、昨日の夜、TVでそれに関する英国のブレアのドキュメンタリーをやってた。その時に、2003年、国連の承認なしのイラク派兵に反対するシラクが、ブレアに、「戦争は汚いモノ(une seule chose)だから」という理由を第一に挙げていたのを、あらためて、共感を持って見た。

 そんなこともあって、グルジアを巡る情勢を

 「冷戦が終わっても、ロシアは本当には西側民主主義の国にはなれないのよね」

 式の旧共産圏差別やアメリカ・グループ正当化の言辞では矮小化したくない。

 金と権力に対する欲望の増大が、ありとあらゆる機会をねらい、ありとあらゆる理屈をつけて、弱い者を殺しながら、世界を踏み潰していく。

 所有しているモノや消費するモノで人を測る精神の罠から脱して、自分がいかにあるか、他者をいかにリスペクトできるか、を、自分でも自覚しながら、次世代にも伝えていかなくてはならない。
# by mariastella | 2008-09-11 21:05 | 雑感

Theopsychologie

 ドイツの哲学者 Peter Sloterdijik が Theopsychologie というのを提唱している。従来の宗教異常心理学とちょっと違って、主に一神教原理主義に現れる死への傾斜、タナトスから人々を解放しようというものだ。

 イスラムのジハードとか、キリスト教が聖餐で犠牲の救世主の血をみなで飲み合うというようなのは本来の戦いのエネルギーよりも死を鼓舞し、ストレスが最大になると彼は言う。

 アメリカの終末論的カルトグループには、堂々と自殺奨励を謳ったもの(安楽死教会、1991よりChrissy Korda)がある。

 「他者を破壊するより、自分を壊せ、動物を破壊するより、自分を壊せ、太陽と森を破壊するより自分で死ね、今夜、今すぐ」

 と勧めている一種のディープ・エコロジーだが、宗教法人として認められていて税金優遇処置を受けている。
 ヨーロッパではいくらなんでもこんなことはない。

 どちらにしても、宗教原理主義と死への傾斜が一神教に特有というのは、ちょっと違うだろう。

 破壊的な宗教原理主義との戦い方には、啓蒙主義以来、アングロサクソン型とフランス型と2種ある。

 ジョン・ロックが、どのような宗派も自分たちを正統だと思っているのだから、共存には寛容の道しかない、狂信主義とは、いつも、権力と権威に抵抗する人間の戦いの徴であるのだから、と言った。

 つまり、権力側が寛容を示して共存を認めれば、狂信はなくなると思ったのだ。確かに、21世紀の宗教原理主義のテロリズムなどは、ネオリベの競争原理に取り残された南北格差や貧困などによって拍車がかかっているかもしれない。でも、ジョン・ロック型の、どんなおかしな言い分の宗教でもみんな寛容の精神で公認してしまうというやり方で、自他の破壊主義が緩和するとは言えない。

 フランス型はヴォルテール型で、狂信は伝染病のようなものだと言う。野放しにすると広がるばかりなので、予防や撲滅も必要だと言う。

 フランス型は一つ間違うと、アンチ・リベラルの全体主義にも使われそうだ。実際、初期共産主義社会では、宗教そのものが、天然痘みたいに撲滅すべき対象だと考えられた。

 ここに「自由」尊重の問題も関わってくる。自然な内なるモラルを行使することが真の自由であり、神はそのような実践理性に要請されるものだとカントは言った。カントの考えるような内なるモラルや自然とは、タナトスや破壊衝動から免れているのだろう。

 Sloterdijik によるテオ・サイコロジー=神心理学、の提唱も、考えると、皮肉だ。もともと心理学の成立そのものが、無神論の一表現だったからだ。神や神々にリアリティのある社会や文化圏では、心理学など存在せず、発祥もなかった。というか、全ての「人文科学」が、神を心的現象に疎外したのだ。
 少なくとも西洋近代史の中では、科学と宗教が対立するのではなく、人文科学と神学が対立するのだ。無神論の誘惑に最も悩んだのは、自然科学者ではない。
 それを思うと、明治の日本の和魂洋才なんて簡単だった。

 エコロジーとの関連でいくと、Patrice de Plunkett の提唱する「新しい解放の神学」の、消費主義と決別する姿勢は共感が持てる。でもこの人のブログを見てると、明日からフランスにやってくるローマ教皇萌えぶりにちょっと引いてしまう。彼が福音派やオプス・デイと仲よさそうなところも。

 いくらよいテキストを発表しても、著者は当然、コンテキストも読まれてしまう。他のところで言ったり書いたりしたことを完全に囲ってしまうことはできない。肝に銘じなくては。

 
# by mariastella | 2008-09-11 19:42 | 宗教



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