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L'art de croire             竹下節子ブログ

Catherine Kintzler

 Kintzler女史の説には、いつも、もっともだと思う。

 フランスの18世紀においてオペラは古典演劇の隠れた部分に注目して、それを表に出した。
「隠れた部分」というのは、超現実的ディメンションの出来事だったりする。
 たとえば、古典劇では戦争があった、とセリフでは言っても、戦闘シーンは見せない。死後の冥界なんかも見せない。オペラでは全部見せる。
 言葉による魅惑の美学から、大掛かりな機械仕掛けのけれんの美学になったと言う。
 大掛かりに、全て見せるが、深さはなく、ヴァーチャルである。

 まあ、古典劇の詩想の要求にはしたがっていたので、アナロジーの法則があるらしい。

 それって、パロディとはどう違うんだろう。

 たとえば、能でシンボリックに表現するものを歌舞伎では全部見せる、って言うのがある。見せれば見せるほど、深さはなくなりヴァーチャルで人工的になるのも同じ。

 しかし、能で見せないものを別の見せ方で見せたら、狂言になる。

 フランス古典劇にも、「リリック悲劇」と呼ばれたバロック・オペラにいく前に、本流の「古典悲劇」と違って「喜劇」もあった。古典悲劇と古典喜劇の関係が、能と狂言の関係に近いんだろうか。

 隠すところが多いと深くなる、または深く見えるというのは、洋の東西を問わない感覚らしい。
 全部見せるというやり方には、笑いたくなるやり方と、存在の重みを消してしまうやり方と2種類あるらしい。

 
 

 
# by mariastella | 2008-09-17 02:15 | 演劇

カトとソシアル

 夕べはリーマン・ブラザーズの倒産のニュースのせいで、大騒ぎだった。大手保険会社(AIGではない)重役の親戚がちょうどうちに泊ってたからだ。彼らの1人息子(私の甥)の親友がロンドンのリーマン・ブラザーズで働き始めたところで、彼らの姪の1人もドバイのAIGで働いているからだ。

 といっても、みんな独身だし、もともと実家に金がある上に本人たちも国際的に高学歴の連中だから、別に困らないんじゃない? と私が言ったので「危機感を共有しないやつ」って感じで見られた。

 少なくともイスラム系の金融機関にはサブプライム危機はないと読んだことがある。金が金を生んではいけないというコーランの原則が生きていて、現物経済にしか投資しないし、無理なローンを組むというメンタリティもないのだそうだ。
 カトリックも元はそれが生きてたときいている。だから、ユダヤやプロテスタント資本に太刀打ちできなかったとかいう文脈だった。(テンプル会はどうなんだ?)
 どちらにしても、サブプライムが高度資本主義の病気であることは確かなのだろう。

 ヨーロッパのカトリック、特にフランスのカトリックは産業革命以降の大都市で生まれたの工場労働者の悲惨さに対抗して弱者救済の事業を次々と起こした。普遍宗教と名がつく宗教はたいていその発祥において弱者救済の社会事業を興している。
 しかし、たとえば日本史なら、光明皇后が仏教に帰依して悲田院とか施薬院を創設した、みたいに上からの慈善、という感じがするが、伝染病などは社会の秩序維持のために隔離されるのが為政者として「正しい」やり方という認識があったのではないだろうか。16世紀の宣教者たちが日本のあちこちで、「お家芸」ともいえる、不可触賤民(ハンセン氏病患者など)の保護施設を作って親身に世話した時は、そんなソシアルの発想のなかった日本の領主などが驚いた、そして立派だと言ったという記録が残っている。

 Claude Gutman という人の保育所についての本を翻訳している人から、パリの養護施設と愛徳姉妹会の関係について質問されたのでちょっと調べてみたら、フランスの社会福祉事業の大もとは、ほとんどヴァンサン・ド・ポールと彼の姉妹会の関係者が一手に基礎を築いてることが分かってあらためて驚いた。

 「社会的弱者に仕える」というのはもともとすごく福音書的なので、政教分離がぱっとしないアメリカの大統領候補者たちは誰でもみな福音書をわざわざ引きながら弱者救済をうたっている。金権選挙を勝ち抜く彼らの口からでるとしらじらしいというか、ほんとにそう思ってるんだったら世界がもうちょっとどうにかなってるはずなんだが、と思う。

 フランスでは宗教にソシアルを求めるという伝統はそれでも潜在的に根強く、B16が来るというので、多くの人が、彼から「世直し」のインスピレーションを期待していたのが印象的だった。

 資本主義の害悪がはっきりしてきたと思われた1891年、レオ13世が『Recum novarum』を発表した時、フランスの社会主義者ジャン・ジョレスは、「こりゃあ、社会党のプログラムじゃないか」と叫んだという。

 カトリックのソシアルの過激ぶりが目立たなくなったのは、というか、ニュアンスが変わったのは、人間性を奪われて搾取される労働者を同じように救おうとして声を上げながら同時にキリスト教を蛇蝎のように排除しようとした共産主義の台頭のせいだ。

 キリスト教はもともと「人間はシステムよりも価値がある」という姿勢だから、共産党独裁システムにもそぐわなくて、結局、カトは、リベラリズムもマルキシズムも批判して、「システムの構築ではない、現場での草の根的救済策を守った。その結果的な中立路線のあまり、カトリック・ソシアルの帰結だった中南米の「解放の神学」をも切り捨てたくらいだ。
 JP2は、1991年に、共産主義陣営を倒してポーランドを救った勢いからか、『Centesimus annus』の中で、市場主義経済の擁護(警戒の意味もあったはずなのだが)ともとられることを言って、経済というものを分かる初めての教皇だ、などと言われたこともある。

 フランスには、カマンベールと同じくらいの特産と言われる「左派カトリック」(カト左派というより〉というのがあって、社会党のミシェル・ロカールやジャック・ドロールなんかがそうだった。彼らの政策はあまりにも「現実的過ぎる」として、建前や理想主義、理念にはしる社会党から嫌われたくらいだ。
 今でもセゴレーヌ・ロワイヤルが「超越」という言葉を口にするなど、カトの香りはないでもないが、サルコジのカトすりよりと対して変わらぬレトリックの域をでない。68年世代のPascal Lamy とか Jacques Maillot などを別として、いまや、若い世代は、政党よりもNGOの中でのソシアルに向かっているようだ。

 サルコジに至っては、彼の「神すりより言辞」はアメリカの真似プラス、ボナパルティスト的な行動原理ゆえである。
 この男は、フランス的エレガンスというものを持っているふりさえしないという驚くべきキャラで、去年、あるカトリック系雑誌(La croix)のインタビューに答えてこう言ったらしい。

 「ええ、たまに教会に行くのは好きだよ、私にとっては文化的、アイデンティティ的な手続きのひとつだね。いろんな思い出がよみがえるよ」

 だそうだ。昨年12月にはじめてヴァチカンでB16と会見する時30分遅刻したり、B16の説教の間に携帯メールを確認したり、2度の離婚3度の結婚の履歴も含めて、こんな男にこんなことを言われたくないとフランスのカトは思っているだろう。
 
# by mariastella | 2008-09-17 01:54 | 宗教

神に呼ばれる時

 超越についてのその2で「文化の真の基礎」と書いてしまったが、今日、教皇の講演を読み返すと、「真の文化の基礎」だった。
 訂正ついでに、その部分を載せておく。理性についてのB16の見方がよく分かる。

« Chercher Dieu et se laisser trouver par lui : cela n’est pas moins nécessaire aujourd’hui que par le passé. Une culture purement positiviste, qui renverrait dans le domaine subjectif – comme non scientifique – la question concernant Dieu, serait la capitulation de la raison, le renoncement à ses possibilités les plus élevées et donc un échec de l’humanisme, dont les conséquences ne pourraient être que graves. Ce qui a fondé la culture de l’Europe, la recherche de Dieu et la disponibilité à l’écouter, demeure aujourd’hui encore le fondement de toute culture véritable. 》

 で、よく見てみたら、Chercher Dieu や、la recherche de Dieu は、
 se laisser trouver par lui と、la disponibilité à l’écouter とセットになっているのだ。

 神を探すことは、神に見出され、神の声に耳を傾けること、とセットになってる。

 実際、たとえば、

 「私がシスターになりたかったわけじゃない、神に呼ばれたんだ」

 というような証言はよく耳にする。

 だとすると、この場合の神は、「絶対」とか「超越」には置き換えられない。
 有神論や理神論の神でも呼んでくれなさそうだ。
 「無」神論の神だけが、「呼んでくれる神」と相補的存在だから、沈黙によって、存在を主張してる。

 ともかく、「超越」は、こちらからの探求はできるけど、超越の方が声をかけてくれたり、こちらを見つけに来てくれるというのは無理だ。
 「呼んでくれる神」というのが、ひょっとしてキリスト教的ペルソナ神のいいところかもしれない。

 神に呼ばれるというのはどんな感じだろうか。
 ついつい、統合失調症の「やらされ体験」症状だとか、いわゆる「電波系」のこととか思い出してしまう。実際、神秘家と呼ばれている人の「お告げ体験」も、現象だけを見ると明らかに病理的なものもある。

 今年になって、大部の『聖母マリア御出現事典』(Fayard)を出したこの道の権威ローランタン師は、2000年には、400から500の事例と言っていたのに、いまや、2450例を挙げている。「御出現」が何らかの(信仰にとってポジティヴな)跡を残した、何かを生んだ、という例を全部数えたらそうなったのだそうだ。御出現はドグマでないから、線の引きようがない。公認されたのはたったの13か14(間接的)だそうだ。公認といっても、容認みたいなもので、司教や教皇も、非公式になら個人的に信じていることを公言してもいい、とされている。

 ともかく、信仰というのはどうやら双方向的なものであるようだ。
 呼びかけに答えたり、召しだしに応じたりすることも探求の一つの形であり、逆に、神はどこにいるんだろうと探しそうとすることがすでに神から見出されていることになるのかもしれない。神とはそうやって双方向的なかたちではじめて存在するのだろうか。


 
# by mariastella | 2008-09-16 08:24 | 宗教

神の存在の仕方

 今日はルルドでの教皇ミサをTVでちょっと見た。

 昨日のアンヴァリッドの野外ミサの方がよかったな。

 国際色豊かなところがルルドっぽいし、水が潤沢にふるまわれるところもルルドっぽいが、各国から枢機卿とか偉い人がたくさんいるのが、ルルドとそぐわない。
 ルルドは弱い人が主役のところだから、偉い人が並ぶと変だ。
 最晩年のJP2がぼろぼろになった体で巡礼したのは似合ってたけど。

 『理性の限界』(講談社現代新書)で、ハイゼンベルクの不確定理論とかについて読み返してたら、聖なるものって、光子とか電子みたいに存在してるのかなあ、と思った。つまり、あるべきところ全体に波のように広がっていて、見神者という観察者が現れると御出現みたいに、粒子的ににキャッチされるという感じ? 御出現は聖なる電子の波の収縮。しかし、聖なるものはどこかでキャッチされても、収束した残りが消えるわけじゃない。比喩はぴったりこないかな。
 もっとも、波とか粒子とかいう概念そのものがニュートン物理学的概念だから、パラダイムを変えれば、電子のありようだって別に奇妙じゃないのかもしれない。神のありようだって、実はすごく自然で、人間の体の原子の中で電子が「奇妙な形」で存在してるように、内的でミクロなところにも充満してるのかも。

 それに、「神は存在する」というのは、実は、真偽性と関係ないのかもしれない。
 つまり、「神は存在する」というのは、命題ではなく、感嘆文なのである!!
 だとしたら、 「神は存在しない」というのは必死の「命令文」かも。

 そして、有神論と無神論は電子の波と粒子みたいに相補的な共存の仕方をしているのかもしれないな。

 こう考える方が、不完全定理による神の非存在論よりもずっとおもしろい。

 道元なんかは、「佛性があるとかないとかいう言い方についての限界や例外が本当にあり得ないのか」を問うたそうである。それは、「佛性があるかないか」という言い方が自壊するほどに問いを強靭にすることらしい(by宮川敬之)。

 これも、存在するとかしないとかを命題にすることの拒否だろう。

 道元って、すごく弁証法的だし、近代的だなあ。空海がスコラ哲学的なのとは大分違う。

 
# by mariastella | 2008-09-15 02:49 | 宗教

B16 の野外ミサ

 朝11時にアンヴァリッドのミサがどうなってるかと思ってTVをつけたら、1チャンネルも2チャンネルも中継をやっていた。25万人とかいう人出だそうだ。

 TVの解説を聞いていると、数年前のJP2の臨終と葬儀の時にTVがヴァチカン放送みたいになってたのを思い出した。

 JP2ほどのカリスマ性も演技性もないB16だが、人は目にみえるシンボルが好きなんだなあ。
 アンヴァリッドに集まった若者の1人がインタビューされて、「人生と愛とSEXについての教皇の大事なメッセージを期待してる」と返事していた。

 どんな育ち方をしたらこんなことを真面目に言えるんだろう。

 戦争中などの国でレイプされて妊娠したが中絶したくないと思う女性が、教皇の言葉にすがれるのはいいなと思う。中絶はつらくとも、まあ日にち薬というのがある。でも子供を生めば一生だ。中絶できるんならすればよかったのに、と周り中から思われながら子供を育てるのはつら過ぎる。少なくとも、「教皇様」は一生この誕生を祝福してくれる。

 それに中絶する人はそれどころじゃなくて、ヴァチカンの意向なんて最初から気にしてない。いわゆる信者でも、罰則さえなきゃどうってことない。
 第一、中絶禁止を含む「Humanae Vitae」って、51%対49%の多数決で採択されている。 実際、もっとリベラルな決定をしている司教会議〈ベルギーなど〉だってある。
 カトリックより保守的なことも多い正教においても、この種の決定〈中絶など〉は、当事者と司祭とがプライヴェートに相談して合意した決定を教会は批准する、ってなっている。

 いや、素直な若者を揶揄してるわけではない。でも、一応平和な国フランスで、裕福そうな多分ブルジョワの階級の若者が、愛や人生やSEXについてくらい、自分で悩めよ、と思う。最初からアドヴァイスやガイドラインに期待するなよ。

 ま、フランスは伝統的に反教権主義が盛んだったから、教皇が人を集めてることにアレルギー反応を示す人もたくさんいる。
 でも、教皇を生で見て感激してぽーっとしている信者さんの顔を見てると、ついこないだフランスに来ていたダライラマを拝んでた熱心なフランス人仏教徒たちと同じ顔だ。

 宗教儀礼は社会的な連帯体験として優れているという見方もある。

 今はちょうど、共産党の「ユマニテ祭」の時期でもある。

 集団で儀礼や祝祭で盛り上がるには、メガ・アイドルのコンサートというのもあるだろうし、スポーツ観戦もあるだろうし、まあそういうのは栄枯盛衰が激しいと客の方も知ってるから、個人崇拝の次期は短い。
 熱狂的な党大会っていうのは体質的に嫌いだ。独裁者に万歳というのは問題外。

 まあ、息子を大企業のパトロンの娘と結婚させたどこかの大統領の周りで熱狂したり陶酔したりするよりは、80近くで最高位に就いたものの子孫も持たず家庭も持たぬB16や、同じく生涯独身で苦労人のダライラマを見て感涙を流す方がずっとましである。

 B16は芝居気がないから、ミサも地味である。でも、聖餐のために、司祭たちがずらりと列をなして、アレクサンドル3世橋の方までびっしり埋まった信者に聖体を運んで配るのは、壮観だ。お天気良くてよかったねえ、そう、君、教皇からのアドヴァイスを待ってた君の心がけが良かったんだよ、と言いたくなる。
 このイエスの「体」を食べることをもって、キリスト教って、カニヴァリズムで野蛮で好戦的だって言うこちらのインテリがいるが、シエナの聖カタリナでもなければ、ぱりんとした聖体パンを「ああ、血の滴る主の体だなあ」と陶酔して食べる人はいないだろう。

 むしろこのシーンは、イエスが、パンや魚を奇跡的に増やして4千人とか5千人の群集に分けて食べさせた文字通りの「分かち合い」、のイメージだろうな。聖体拝領してアドレナリンが出て聖戦に出発って思う人はいないだろう。お釈迦さまにさし上げるものが何もないからって、自分の身を火に投げたウサギの話なんかの方が迫力があるくらいかもしれない。

 で、ミサはほとんどフランス語だが、「主の祈り」はラテン語だった。TVの画面を見てると、言えてない若者も多そうだった。唇の動きから、明らかに勝手にフランス語で唱えてるなあ、という人もいそうだった。ま、解説によると、B16は懐古趣味でなく、多様性を取り戻したいと思っているんだそうで、ミサは美しさや沈黙の部分を大切にして、聖なるものの喚起を目指してるんだそうだ。

 私は個人的には静かなのが好きだ。熱狂は困る。

 こういう「荘厳」な儀礼を見るのはいやじゃない。

 昭和が終わった時には日本にいなかったので、いろんな儀礼の荘厳さとかが実感できなかった。日本のTVの記憶で、荘厳っぽいのは、大晦日の「ゆく年来る年」くらいである。除夜の鐘はもちろん、あれで、毎年、はい、長崎の天主堂の大晦日のミサの風景です、みたいなのがキリスト教風景としてインプットされた。儀礼とは、「超越の探求」の装置なんだろうなあ。

 病者や障害者がヴォランティアに先導されて前の優先席に陣取ったり、教皇から直接聖体拝受する人が、セレブじゃなくて「貧しい人(といっても厳選されてるんだろうけど)」優先っていうのもお約束とはいえなかなかいい。

 アベ・ピエールの後でエマウス共同体のトップになっていたマルタン・ヒルシュが、サルコジの左派取り込み路線で閣僚になっているが、この夏、ついに、悲願のRSA法案を大統領に承認させた。20年前社会党政権が実現したRMIという最低保障支給の進化形だ。日本でも、生活保護を受けてる人が少しでも働き出すと打ち切られてしまうという問題があるように、RMIも、パートでも働くともらえなくなって、生活が成り立たないので働かない方がまし、というケースが多かったのだ。
 今回の連帯アクティヴ保障は、収入に応じて、足らない分を補給してくれる。その財源は庶民からでなく資本からとりたてる。簡単そうで難しい改革である。

 そう、「社会的弱者に仕えよ」というのがイエスのメイン・メッセージであって、その意味で、キリスト教は本来とても「ソシアル」なのだ。

 Patrice de Plunkett が「convertiは必然的にソシアルに向かう」というようなことを書いていた。converti とは回心者のことで、この文脈では「真に神に目覚めた者は」、というような意味だろう。  
 してみると、B16風に言って神の探求は文化とか美に向かい、神の目覚めは弱者救済に向かうのか? 多分同根なんだろう。そうでない神なんて存在論より存在理由論の対象になりそうだ。
 
 
# by mariastella | 2008-09-14 00:12 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

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