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L'art de croire             竹下節子ブログ

教条的ディスクール

 朝起きたら、自分のサイトの掲示板に投稿があったというメールが来ていた。

 「哲学・宗教質問箱」だ。

 「ラザロ」さんの「愚かな金持ち」という投稿だ。

 キリスト教関係の掲示板化してるので、そういう言葉に反応して送られてくるスパムの一種だろう。質問箱の趣旨に合わないということで、このサイトを管理してくださっているスタッフが消去してくれるだろう、それとも自分で消しとこうと思ったが、一応読んでみた。その後消されるかもしれないので、ここにコピーしとく。



  イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいのである。あなたがたに言うが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、やさしい」。  新約聖書の言葉

富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。


 以上だ。

 別に異論はない。

 「イエスの口から出た言葉」だって、文脈を無視して切り取られてぽんと出されたら、かなりへんなものだってあることを思うと、この言葉は、まあ納得できる。

「富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。」

 という部分は、まあ、富んでいる人や、満腹してる人、笑っている人から見ると「大きなお世話だ」と思われるだろう。


 でも、この警告だのアドヴァイスは、パウロの『テモテへの手紙1』の6章からの抜き書きみたいなものでなっている。パウロと福音宣教の志を同じくするテモテへの言葉だからこれでいいので、「神の人」という自覚のない人に突然突きつけられても、違和感あり過ぎかもしれない。

 まあ、近頃はサブプライム金融危機とかネオリベ市場主義の崩壊、のようなご時世なので、これを読んで、「なるほど、投機による『欲張り』は行き過ぎると罰が当たるなあ」とか、「おいら、下流でよかったよ」みたいになごむ人もいるかもしれないが。

 あまりにも富み過ぎでいるのがよくないのは分かる。「笑う」のは、上機嫌という意味では絶対にいいと思うけど。「満腹」っていけないのか?

 ここで、最強のあの方の言葉を拝聴。
 ネットで拾っただけだが・・
 
 日野原重明著 「生きるのが楽しくなる15の習慣」 講談社プラスアルファ文庫

 から、


 1  愛することを心の習慣にする
 2  「良くなろう」と思う心を持つ
 3  新しいことにチャレンジする
 4  集中力を鍛える
 5  目標となる人に学ぶ
 6  人の気持ちを感じる
 7  出会いを大切にする
 8  腹八分目より少なく食べる
 9  食事に神経質になりすぎない
 10 なるべく歩く
 11 大勢でスポーツを楽しむ
 12 楽しみを見出す
 13 ストレスを調節する
 14 責任を自分の中に求める
 15 やみくもに習慣にとらわれない


 この8番目、「腹八分目より少なく食べる」ってのがある。

 そうか、満腹はよくない。

 日野原さんみたいに元気で楽しそうでしかも人のためになる生き方をしてる方の言葉を聞くのは、「あやかりたい」という気持ちになる。33歳で十字架につけられたイエスや、やはり投獄されたり処刑されたパウロの言葉もありがたいが、同じ日本人のDNAを持っていて97歳で現役って人は魅力的だ。

 もっとも、50代や60代ですでに体にガタが来ている人や、若くして病気や障害とともに生きている人もいるので、そういう人には日野原さんの元気はまぶしくてうっとおしいかもしれない。

 それでは、と、中島義道さんのことを思い出す。

 これもネットで拾ってみよう。

 『私の嫌いな10の人びと』新潮社

 1 笑顔の絶えない人
 2 常に感謝の気持ちを忘れない人
 3 みんなの喜ぶ顔を見たい人
 4 いつも前向きに生きている人
 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人
 6 「けじめ」を大切にする人
 7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
 8 物事をはっきり言わない人
 9 「おれ、バカだから」と言う人
10 「わが人生に悔いはない」と思っている人

 この人って、偽善や欺瞞を憎むっていう点では、まさにイエスかパウロって感じである。隠れキリシタンみたいな人だ。

 日野原さんは、さすがに年の功というか、最後の

 15 やみくもに習慣にとらわれない

 っていうところで、ちゃんとガス抜きを用意してくれている。

 さて、漠然と、日常の中で「生きにくい」と思っている人たちは、どちらを読むといいんだろうか。

 どちらにも罠がある。

 どちらの本を読んでも、多くの読者は、「自分と引き比べて」考えてしまうからだ。

 「あ、私って、これかも」

 「一体どうしたらこういう風になれるんだろう」

 「おいらにはとても無理無理」

 「この人たち所詮、(おいらに比べると)勝ち組じゃん」

 「ええい、だからどうしろっていうんだよ、これじゃダブル・バインドだよ」

 エトセトラ・・・

 多分、問題なのは、「自分」を基準にして読むことだ。「自分」を主役にして生きることだ。「自分」のパフォーマンスを追求したり、「自分」の好悪に忠実だったり、「自分らしさ」や「自己実現」や「自分の幸せ」をさがすことだ。

 私たちそれぞれの「自分」が、私たちを窒息させる。私たちを閉じ込める。

 パウロが、神にのみ望みを置くように、というのは、別に「自分と神」が特別親密になろうといってるわけではない。むしろ自分を消していく、ぎりぎりの孤独があって、そこでは自分というものは、点でしかない。点とは、数学上の定義どおり、位置だけあって、面積がないものである。神と出会うというのは、自分が点になるということで、多くの宗教の「悟り」の言葉は、そういう境地を表している。「絶対無」とか「空」とかいうのも、虚無ではなくて、点に近い。その「点」を失えば、「悟り」は「虚」になる。

 そして、自分が「点」になれば、その神との出会いの「無」において、「他者」との出会いやつながりが広がるのだろう。

 「神と富とに仕えることはできない」というのが本当だとしたら、

 「神と他者」には仕えることができる。

 その「他者」とは、私たちが譲歩したり、優先権を差し出すことのできる他者である。つまり、「相対的に弱くて小さい者」だ。

 自分より弱い他者とつながり支えることができないような「智恵」は、教条主義から免れるのは難しい。

 信号の色がなんであろうと、

 大型トラックは乗用車に気を配り、
 乗用車は自転車に気をつけ、
 自転車は歩行者に譲り、
 歩行者は杖を突いて歩く人に譲り、
 支配者は被支配者に譲る。

 たとえ楽しく生きられなくても、生きるのにはマナーが必要だ。
 


 
 
# by mariastella | 2008-10-07 19:07 | 雑感

二元論の避け方

 神学の歴史を眺めていつも思うのは、二元論の克服というのがいつも隠れた主題になっていることだ。 
 それは、超越か非超越かの問題でもある。

 啓示の宗教である一神教では、神の言葉である「聖典」を神に属するもの=超越に属するものと見るかどうかによって解釈、または解釈の自由度が変わってくる。

 ユダヤ教はかなり古くから、ギリシャ哲学を応用した。

 1世紀におけるフィロンによるピタゴラス-プラトン-ネオプラトニズムの適用。
 そして12世紀におけるマイモニデスによるアリストテレスの応用。

 ナポリ時代の聖トマスの師であるアイルランドのペトロは、ユダヤ人たちと一緒にマイモニデスのユダヤ聖典(キリスト教にとっては旧約聖書)を学んだ。その頃までは、少なくとも、ユダヤ=キリスト教間では、旧約の預言者解釈についてのつっこんだ宗教間対話があったわけだ。

 1240年に聖ルイ王がパリでタルムードを焚書し、聖トマスが著作を始めたのはその後だったからマイモニデス(ラビ・モーセ)への言及は限られているが、その影響は大きい。だから、Guggenheimも、「信仰と理性」の統合はユダヤ教とキリスト教、と言っている訳だ。

 詳述はしないが、ポイントになるのは、言語テキストとしての聖典と、それが内包する意味、意義の関係である。この二つは、別物なのかどうか。

 意味は、神から与えられた。だから超越。

 文は預言者の言葉の記録である。だから人間のもの。

 で、意味は文に隠されている。文を削いで、文の奥に到達して真実に迫らなければいけない。

 キリスト教神学者たちは、はじめ、「文=人間の部分」を軽視していた。

 マイモニデスは、言語テキストのうちに「理性」が適用できると考えた。
 文字の裏に真理が隠されてるのでなく、真理は文字によって表出してくるからだ。

 それは肉体と魂の二元論の克服と似ている。

 プラトン風には、肉体は魂の牢獄だ。

 しかし、アリストテレスは hylemorphisme を説いた。

 存在というのはマチエールに支えられている、という認識だ。

 今の科学が、思考だって脳の電気反応だと言うのに似ている。
 エネルギ=物質 だというのにも合致する。

 とにかく、この考えによって、聖トマスにおいては、肉体と魂は、聖アウグスティヌスなんかよりもずっと、統合されている。肉体はそのまま「救済の場所」でもある。(これって、真言における即身仏の概念にもつながるなあ)

 そして、肉体と魂が両輪をなすというか、肉体が魂を支え、表現するという考えが、そのまま、テキストとその意味との関係に応用された。

 つまり、ユダヤ教やキリスト教のような契約の聖典においては、そのテキストは、神と人間の共同作業なのである。それが「契約」思想でもある。真実は一つでも、人的部分であるテキストの解釈は多様性があり得る。

 キリスト教は、さらに、神をペルソナ化して、父と子と聖霊とすることで、「超越と内在」を同時に成立させる可能性を秘めている。

 ユダヤの神はペルソナ化していないから、聖典を読み解く神学としては、その点を深化できなかったかもしれないが、その伝統は、スピノザや、フッサールやエディット・シュタインに受け継がれた。

 これに比べると、聖典としてのコーランは性質が違った。

 コーランを「被造物」としたのは、主知主義のムアタジラ派である。アラーの啓示があったとしても、預言者としてのムハンマドは人間だから、それが彼の文化の言語であるアラビア語化した時に、テキストは理性で分析可能な「被造物=非超越」として現れる、とすれば、ギリシャ的アプローチも可能だった。
 しかし、ムアタジラ派は発展しなくて、コーラン=「非-被造物」というのが正統派になったので、コーランの扱いはぐっと難しくなった。預言者ムハンマドですら神格化、と言うと語弊があるが、神聖不可侵となってしまった。

 アヴェロエス的な主知主義は、むしろ、「魂側」に行って、イスラム神秘主義に継承されたのだろう。

 ある意味で、コーランを「非-被造物」と見なすことは、イエスの神格化に似ている。コーランは人間の形でないから「受肉」ではないが、「神がロゴスとなって現れた」という考えのヴァリエーションだとも言える。

 で、何を言いたかったのかと言うと、今の世界では、聖書原理主義とか、一神教国が聖典を字義通り解することが非寛容や戦争やテロを生んでいる、などと外部から安易に評されているが、宗教間対話や、超越智と人間知の関係や、テキストと意味の関係などは、もう大昔からあれこれ議論されているということだ。

 たとえば、現代アメリカ生まれの福音派キリスト教が、天地創造説にこだわって、ダーウィン進化論を批判し、理科の教科書にも天地創造説を載せろと言っているような話。

 そこだけ聞けば、今時のフツーの人は、

 「ええっ、そんなこと、本気で信じているのか? おかしいんじゃないの?
 キリスト教って、変だよー」

 と思うだろうが、そして私もちょっとそう思ってたけど、こうやって、聖典の解釈史を見てきたら、福音派の人が今の時代にそういうことを本気で思うのには、別に彼らが「中世のままの頭」(実は中世はしっかりと複雑だったわけだが)だからでなく、実はそれなりの理由があるのだろう。

 もちろんアメリカのピューリタン的な歴史とか、60年代の反動とか、宗教ロビーの力学とかもあるだろうが、たとえば、来年はダーウィンの『種の起源』の150年記念で、トンでも説もちらほら出てきたので、ことの複雑さが分かる。

 『種の起源』が出た時代が微妙だったこともあって、彼の「進化論」や「適者生存」の自然淘汰などは、二つの大きな「悪」に利用された。鬼子を生んだといってもいい。

 1、弱肉強食の正当化。今のネオリベにまでつながるもので、人を勝手に競争させていれば、生存に適した強いものが残るのだから、政府などが人的に介入してはならない。

 2、優生主義。 劣等なものを淘汰して、優秀なものを残すように、積極的に介入すべきである。これはナチスのホロコーストにまで行きつく。「優生保護」のための中絶や断種もこの流れ。

 キリスト教的考え方は本来これと対極で、最も弱く小さいものに神が宿る。
 これこそ受肉して処刑され犠牲となったキリスト教の神が体現する「超越と内在の弁証法」の帰結でもある。

 そう考えると、福音派によるダーウィニズムの攻撃も、ただ彼らが「聖書を字義通りに解釈して科学的思考を排除する」偏狭な人たちだからだ、と言えるものでもなく、ダーウィニズムから派生した1や2の傾向がこの世界を住みにくくしていることへの抗議というか、生き方の不全感の表明かもしれない。

 思えば、ダーウィニズムだけでなく、キリスト教だって歴史の中で何度も権力者の都合のいいように歪められてきた。

 超越と内在を両立させることで2元論を克服する、のがいつの時代でも、良好感を持って人生を生きるための最も有効な方法かもしれない。

 しかしこういうことを大きな声で言うと、前回書いたように結構地雷原なんで、宗教や神学には触れない方が無難だ。必ず「お前はxx神学を知らない」云々と批判する人が出てくる。

 で、超越と内在の弁証法を、音楽論に応用することにした。音楽のテキスト、音楽のエクリチュール、そして演奏と鑑賞と、その意味や意義の関係について。

 一神教神学の方法論を音楽論に応用する。

 面白くなりそうだ。

 
# by mariastella | 2008-10-02 21:24 | 宗教

大事なことは

 昨日の続き。

 Gouguenheim についての論考を読み続け、Alain de Libera の意見に共感した。

 あらためて、フランスのような環境でのキリスト教(それを補完するものとしての無神論も含めて)を思考の枠組みとする人たちが、「理性」とか「ギリシャ」とかについて発言することの含意の深さを知らされた。

 キリスト教を「ギリシャ化」することは、宗教改革の痛みや啓蒙の世紀の痛み、フランス革命にまつわるルサンチマンを「忘れる」ことでもあるのだ。
 それは、たとえば、日本で、「江戸文化」を称揚することが、日清日露や第二次大戦の痛みを忘れることに利用されることがあるのとも似ている。

 アヴィセンナはアリストテレスを読んだし、マイモニデスはアヴィセンナを読み、メンデルスゾーンはマイモニデスを読んだ、ヨーロッパの知の継承の中では、アテネもローマもパリもベルリンもつながっているし、どこかで何かを「なかったことにすること」はできない。

 今の世界では、それがさらに複雑に有機的につながっている。

 昨日、ムアタジラ派という言葉を書こうとしたとき、Motazilisme というフランス語を読んでいたので、それが普通カタカナでなんと書くのか分からなかった。

 日本語のWebにアルファベットを入力して探ろうとしたが分からなかった。
 そこで思い出したのは、アンリ・コルバンの『イスラーム哲学史』の訳本がどこかにあるはずだということだ。
 あった。岩波書店。1974年。当時の定価で3000円である。

 それで、ムアタジラ派というカタカナ表記を見つけた。
 ここに書くのに説明が必要かと思ったが、今度は「ムアタジラ派」で検索すると、日本語でもたくさん出てきた。これなら、これを読んでる人はだれでも簡単に調べられる。

 1974年の訳には、日本のイスラム学はまだ端緒に着いたばかりだとある。

 今は誰でもネットでチェックできる。

 情報は、歴史や文化や情報技術の新しい文脈の中で新しい形で現れる。

 時々、私が日本人でしかも女性でよかったと思う時がある。

 「トマス神学は12世紀トレドのイスラム文化抜きでも成立した」

 なんていう言辞は、別の言い方をすれば、

 「トマス神学はアフリカの黒人なしでも成立した」

 とか、

 「日本人なしでも成立した」

 とか、

 「障害者なしでも成立した」

 とか、

 「女性なしでも成立した」


 とか言える。

 カトリックで女性が司祭に叙階されないのは、

 「イエスが選んだ十二使徒がみな男だったから」

 という伝統があるからだという人がいる。

 それを敷衍したら、十二使徒には黒人も日本人も、いや、コーカソイドもいなかった。
 障害者もいなかったし病人もいなかった。
 「普遍」の適用範囲はどんどん変わる。

 イエスは使徒を1人ずつ、固有の名で呼び出したのであり、男とか、ユダヤ人を呼び出したのではない。

 トマス神学は「この私」なしで成立した。

 でも、今の私は、トマス神学なしでも、もちろんアリストテレスなしでも、宗教改革や無神論論議やフランス革命なしでも、成立しない。ラモーなしでも。

 もし私がたとえば「伝統的フランス人の男のインテリ」だったりしたら、なんだか似非「正統性」がすっきりして、「日本人は単一民族」とかいうのと同じで、マジョリティの権力的な単純化の無意識な操作が自分の中でたえずおこるかもしれない。

 それを思うと、周縁にいながら、多様性をしっかり骨肉にしている感覚があることは思索者として幸運である。

 
# by mariastella | 2008-10-01 01:00 | 宗教

地雷原

 Antoine Guggenheim の  『Les preuves de l’existence de Dieu』

 を読んでたら、なんと、

 Sylvain Gouguenheim の、『 Aristote au Mont-saint-Michel』

 に迷いこんだ。

 前者は司祭でエコール・ノートルダムの教授。
 後者はENSリヨンの教授で、ビンゲンのヒルデガルトについての研究もある中世学者。

 Gouguenheim は明らかに、Guggenheim のフランス語化じゃないだろうか。
 この二人には関係があるのではないだろうか。
 検索してもでてこない。

 でも、Guggenheimが、「マイモニデスとトマス・アクィナスの二人がアリストテレス的知性を信仰の知に応用したのに、イスラム世界ではアリストテレスが宗教や哲学には直接の影響を与えていない」と書いているのを読んだ時、「アヴィセンナやアヴェロエスのアリストテレス注解を無視した」としてこの春以来大騒ぎになった後者の著作のことが稲妻のように頭をよぎった。

 Guggenheim は Gouguenheim を踏まえて言っているんではないだろうか。

 後者の騒ぎとはこういうことだ。

 彼は、一般に言われている図式を否定した。

 その図式というのは、

 中世のヨーロッパは暗黒時代で、ラテン語しかなかったが、アラブ=イスラム世界では宗教が共存し、バクダッドには「智恵の学校」があり、スペインのアラブ世界でもギリシャ語の著作が翻訳され、科学や医学も発展し、ヨーロッパは、そのアラビア語をラテン語に翻訳することでイスラムの光に照らされ、ルネサンスと近代化の端緒につけた、みたいなことだ。

 そして、この図式は、現代の地政学上、イデオロギー化している部分がある。

 排他的で不寛容で封建的で蒙昧だったヨーロッパが、アラブ世界に啓蒙されて文化的になったくせに、帝国主義と資本主義に走っていつのまにか世界を征服し、アラブ世界を搾取したり見下したりするから、アラブ世界が反撃している、という見方が出てきたりするのだ。

 そしてこのような見方は、フランスのインテリ左翼好みでもある。

 ところが、Gouguenheim は、

 トレドからアラビア語経由でギリシャ哲学がもたらされる50年前に、すでに、モンサンミッシェルの僧院では、ビザンチンに滞在したことのあるヴェネチアのジャック(ヤコブ)という僧がアリストテレスを翻訳していた。

 大体において、ラテン世界がギリシャ古典をまったく所有していなかった時期はなく、抄本はいつも出回っていたし、オリエントの教会との人的、学問的交流はずっとあった。

 紀元千年の時点では中東の人口の半分はキリスト教徒で、シリアのキリスト教徒がギリシア古典のテキストをアラム語系統のシリア語に訳した。それをアラビア語に訳した人が、アラビア語にはなかった医学や科学の語彙を発明したのだ。

 という事実を挙げる。これらの話は、別にGouguenheimの新説でなく、中世学の研究成果らしい。

 しかし、これは、ヨーロッパの文化ルーツからイスラムを排除しようとするイデオロギーだと解されて、ENSの教授連が自分たちはこれにくみしないという署名運動までした。
 彼がアヴェロエスなどを挙げないのは、彼らがギリシア語の原点にあたっていないからだそうで、しかし、それは聖トマスも、オッカムも同じこと、という。

 私の気になったのは、まず、

 Guggenheim が、ユダヤ教とキリスト教は神学における理性主義と弁証法を取り入れたのに、イスラムは違うとしたことだ。

 キリスト教が、啓示の聖典として、途中で性格が変わったユダヤの聖典(ユダヤ人の救済預言)と新約聖書(非ユダヤ人の救済)の両方を統合したことは、それだけで弁証法的思考を要したから、神学がややこしくなったというのは分かる。

 それなら、そういう分断のないユダヤ教と、やはりコーランだけを拝するイスラム教は、いずれもキリスト教と違ってくるのではないか。アヴェロエスを無視しながらマイモニデスだけ聖トマスと並べるのはどうなんだろう、ということ。そこには、ユダヤ教とキリスト教が聖典を共有しているからという、イスラムへの排他意識がないか? 

 それから、ムアタジラ派はどうなんだ、ということ。

 神学における理性至上主義はどうしてイスラムでは立ち消えたんだろう。

 中世ヨーロッパでは、強くなるローマ教皇の権力を牽制するために、王や王の法官たちが、教権に対抗する拠り所のインスピレーションをギリシャに求めて、つまり、ギリシャ・ローマにおける政教分離をモデルにしようとして、ギリシャ古典を僧院で訳させたらしい。

 イスラム世界では、宗教権威が封建諸侯の一種であるという形での権力の拮抗がなかった。

 だから、理性至上主義は、エリートの思弁だけに終わった?

 もともと、ストア派的考えだのアリストテレスやプラトンの光に照らすと、大体は、無神論まではいかなくとも、「宗教無用論」に近づく。それは、どんな文化でも、エリートによる形而上学の行き着く先かもしれない。

 2006年9月のラティスボンでのB16の信仰と理性についての講義が大騒動になり、テロにまで発展したことも記憶に新しい。

 あれは、つまり、

 キリスト教=信仰と理性は両立=民主的平和
 イスラム=理性的でない=暴力

 という図式だと誤解されたわけである。
 しかし、これだと、信仰が暴力の源泉で、理性が平和を維持するとなる。
 本来なら、信仰こそが暴力を否定するモラルとセットになってるはずなのだが。
 暴力に走る信仰は、間違っているのだ。別に理性が足らないからではない。
 
 で、理性中心主義が神学を哲学にして政教分離と非宗教的公空間の形成に至ったキリスト教と、そういう方向に行かなかったイスラムがある。

 ギリシャ的理性中心主義が無神論を内包していることは、暗黙の了解だったのではないか。

 こんな議論は、今の時代ではすでに毒がないと思っていた。

 しかし、「ヨーロッパのルーツ」「ユニヴァーサリズムのルーツ」がイスラム世界を経由してるとかしてないと発言するだけで、インテリから叩かれ、インタネット上でイスラムフォビーに取り込まれ、大変なことになるのが実情である。無神論は今でも充分地雷原になるらしい。要注意。

 

 
 

 

 
# by mariastella | 2008-09-30 08:30 | 宗教

三つの言葉

 今の世界のネオリベや市場原理にのみ支配される際限のない「開発」に意義を唱えたり、歯止めをかけようという傾向や運動の言葉で代表的なのが三つある。

1 Développement durable

2 Décroissance soutenable

3 Sobrieté heureuse

日本語でどういう訳が定訳なのか分からない。

 1は、持続可能な発展で、これは1987年の国際合意というから手垢がつき、まあ、「地球に優しい開発」みたいなスローガンが金権主義の隠れ蓑や免罪符になっていたりする。

 2は、もっと積極的に、エコな生き方を提唱するので、低成長というより、マイナス成長、というか、生活の仕方を変えようという感じだ。しかし、いたずらに「昔にかえろう」、「原始時代がいい」とか「江戸時代が理想」というのではなく、余剰を削ろうという感じである。リヨンに発行元がある 『La Décroissance-le journalde la joie de vivre』という月刊新聞は個性的でおもしろい。でも過激で理想主義的過ぎると思われている。広告やブランドの攻勢を洗脳として戦う姿勢はもっともだと思う。エコ原理主義に傾くリスクは確かにある。

 3は、フランスではすごくインパクトがあるNicolat Hulot が2005年に唱えたもので、必要を自制しながら、ものよりも人とのつながりを楽しもうというちょっと楽隠居みたいなニュアンスの言葉だ。これが1と3の間で、現実的でよろしいんじゃないか、という話だ。

 何かをする時のネーミングはフランス人にとって特に大事な気がする。

 スローフードという運動があるが、あれを唱えだしたイタリア人は、1986年にフランスの農業従事者の運動を見てインスピレーションを得たそうだ。でも、今は国際的に広がっているのに、フランスではあまり流行っていない。というか、言葉の知名度がない。スローフードが英語ってこともあるが、文化的にアルプスの向こうの国にコンプレックスやらライヴァル意識があるので、イタリア発のものは、なんとなく抵抗があるらしい。

 自分ちで、自分たちの考えた言葉を掲げて行こうという姿勢は共感がもてるが・・・

 今から、Andre Paul の『クムランとエッセネ派-あるドグマの崩壊』(Cerf)という本を買いに行く。1947年の死海文書発見以来、エッセネ派の僧院跡だとされてきたクムランだが、実は全然確かじゃないのだそうだ。この説はあまりにも常識化してたので、私も『知の教科書 キリスト教』(講談社選書メチエ)にトピックとして書いているから、責任を感じてしまう。

 イデオロギーから自由で、とても良心的でかつ刺激的な本だそうだ。楽しみ。

 

# by mariastella | 2008-09-26 21:29 | フランス語



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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