L'art de croire             竹下節子ブログ

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ポンピドーとオルセー

新しいコンセプトの展覧会場のAtelier de lumièresに列ができていた(私はネット予約していたが)のに比べて、ポンピドーセンターやオルセー美術館などの通常展示は意外にもふらりと入れる。

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これは天井が落ちてきたという演出。


なんだかすべてのコンセプチュアルアートは「みんな違ってみんな似ている」。
どこで何を見てもどこかですでに見た、という感じ。

パリだとか、直島だとか、21世紀美術館だとか、「容れ物」とその環境、空気を含めてやっと区別がつくという気がしてくる。

それに比べるとオルセーでの安定のゴッホとかマネとかゴーギャンは、観る方の内側で積み重ねが形成される。


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前者とは「出会い」がほぼ全てだけれど、
後者は、極端にいうとサファリパークで命を覗いている気分にもなる。

私に出会わなくても彼らは息づいている。
命の密度は視線よりもずっと濃い。

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by mariastella | 2018-07-26 00:05 | アート

イプセンの遺作『わたしたち死んだものが目覚めたら』

行きつけの小劇場Théâtre du Nord Ouestのイプセン全作上演シリーズのうち、最晩年の作で文学的遺言とされる『Quandnous ressusciterons d'entre les morts(わたしたち死んだものが目覚めたら)』を観に行った。

イエネールでなくエミリー・サンドルが演出・照明・・衣装すべてを担当。


国際的に著名なノルウェーの彫刻家ルベックを通して、人生と作品の間における芸術家のジレンマ、一方のためにもう一方を捨てるという永遠の間違った選択についてのイプセンの自問が、ここでは、「あの世」との境界を取り除くことによって「アートや恋に殉ずること」ことの意味を問う形になっている。


ルベックは『復活の日』という大理石の大作で知られる彫刻家。

晩年に若い妻と故国ノルウェーに戻る。海辺の保養地で無為の中で人生の意味を問い直している。

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舞台の初めはそれぞれ新聞を読んでいる二人。今ならそれぞれがスマホを見ている感じだ。


妻マイアとのすれ違いがあらわで、マイアは不満をつのらせている。そこに現れた野性味あふれる猟師にマイアはすぐに惹かれる。

自由を求めるマイアが猟師と去った後で、ルベックの前に、『復活の日』制作のミューズとなったイレーヌが出現する。

若かった頃の彼はアートへの情熱に目がくらんでイレーヌの人生を踏みにじった。イレーヌはルベックを愛していたが、ルベックはイレーヌに触れなかった。作品こそが2人の「子供」になるはずだった。

イレーヌは魂をすべてルベックの作品につぎ込まれて、以後の人生を抜け殻のようになって死んだのだ。ルベックはイレーヌを取り戻すことができるのか、イレーヌは生き返ることができるのか ?

理想と現実と狂想、夢と現が交錯する。イレーヌは『血まみれの修道女』のアニエスのように白服で、黒服の霊媒のような女性を連れて現れる。


ルベックはイレーヌに


「何よりも芸術家、人生をかけた名作を創ろうという欲望に憑りつかれた。『復活の日』というタイトルでなければならず、死から目覚める若い女の姿でなければならなかった。君はぼくにとってただのモデルではなかった。ぼくの想像の源泉だった」


 という。

けれども、今は美術館に収められている『復活の日』は、当初のプランでイレーヌが信じていたものとは違う。イレーヌが去った後、復活の処女神の周りに次々と群像が付け加えられ、イレーヌがモデルだった彼らの「子供」は隅に追いやられて「その他大勢」でしかなくなっていた。

死の世界とつながるイレーヌの恨みつらみも、ルサンチマンもすごいが、

「お前は私の芸術のミューズではない、何のインスピレーションも与えてくれない」と言われ訂正るに等しい立場の妻マイアの怒りと絶望と欲求不満も深刻だ。

イレーヌとルベックには、その後どのような失望や別れがあったとしても、一時はこの世のものとも思えない何かにインスパイアされてアートのクリエーションを分かち合った思い出が共有されている。

マイアのように、芸術家のそばにいてそのアートから締め出されているのは連れ合いにとって残酷だ。

それにしても、この戯曲を通して浮かび上がるイプセン自身のこれほどまでの懊悩の背景は何だろう。

 この作品はイタリアやドイツなどに住んでいる頃に有名になったイプセンが晩年にノルウェーに戻ってアートと人生について自問したものだ。


『ペール・ギュント』も書かれたのはローマだ。ドレスデンやミュンヘンでも暮らしている。彼がローマやミュンヘンというカトリック地域で暮らしたことは興味深い。


ノルウェーで生まれ育ったという出自自体が家庭環境と相まってイプセンのトラウマになっていたらしい。

事業に失敗した父親がアルコールに走り、母親はプロテスタント神秘主義にのめりこんだという。

イプセンが生まれ育った時代から1945年に至るまで、ノルウェーはルター派プロテスタントであるルーテル教会だけが唯一の宗教で、1683年以来、カトリック信者は財産を没収されて国外追放されるという宗教原理主義のような国だった(ルーテル教会が「国教」「でなくなったのは2012年)。

そんな空気の中で、家庭的に不幸だった母親による厳しい倫理観などが、芸術家魂を持つイプセンにとって傷となったことは間違いない。

イプセンはノルウェーの国民的作家として認知されているし、文学サロンで知り合った妻と生涯連れ添っている。政治家となった一人息子はイプセン生存中の1903年に首相になり、1905年にノルウェーがスウェーデン王国から分離するのに大きな役割を果たした。少なくとも晩年は「家庭的に不幸」そうではない。それでもこのような作品が生まれた。


明治の日本でも成功を博したという『人形の家』(これは妻がぜひ読めといったジョン・スチュワート・ミルの女性の地位擁護に得たヒントから生まれたという)も、当時はスキャンダルとなった。

しかも、ドイツやイギリスのプロテスタント国で上映禁止になったり結末を書き換えるように言われたりの圧力を受けたのだ。


ところが、カトリック国では何の問題にもなっていない。1894年のパリでの初演は大成功で、ノラ役の女優レジャーヌはイプセンから「私の夢が実現した。レジャーヌはパリでノラを創造した」という電報を受け取った。

巷のイメージからいうとカトリックの方が離婚不可能で女性は聖職者にもなれないで抑圧されている、と思われるかもしれないが、『人形の家』で最もスキャンダルになったのはノラが3人の子供を置いて家を出ていくという場面だった。

牧師の妻帯が許されていて模範的な「牧師の家庭」の模範的な子育てモラルが規範になっているプロテスタント文化においての方が、この「結末」が「不都合」だったのだ。


カトリック文化では、子供を乳母に育てさせたりすることがごく普通だった。

宗教上の建前と実際の生き方が乖離しているのはどこの社会でもあることだろうが、一般にピューリタン社会の方がそれに罪悪感を持つ。もともと、カトリックのモラルが崩壊して堕落しているということを糾弾して分かれたのがプロテスタントだから当然だと言える。

この「宗教改革」に驚いたカトリック教会は自分たちも遅ればせながら「改革」に着手するのだけれど、すでに「旧社会」の実情は、本音と建前が乖離していてもそれが何か ?というユルイものだった。

イギリス王は離婚が認められないからと言ってローマ教会から離脱したけれど、フランス王はどんなに愛人を作っても、年に一度告解することでチャラにするなどいろいろなレトリックを使って教会を活用し続けた。


とはいえ、19世紀はヨーロッパのブルジョワ世界での女性の拘束が強まった時代でもある。


ノルウェー人であるイプセン夫婦がヨーロッパの各地で暮らし(息子もイタリア生まれ)、名声を得た後で故郷に戻るというシチュエーション自体は、この『わたしたち死んだものが目覚めたら』の夫婦に似ている。


主人公であるルベックの最高作品が最初の意図からさまざまに姿を変えていったことは、イプセンの作品群の歴史の何かを反映しているのだろうか。


今回、めったに上演されない作品をこうしてパリで観ることができたおかげでいろいろなことを考えさせられた。

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カーテンコールから。妻のマイア役とあの世から来たイレーヌ役がにこやかに手をつないでいる。


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by mariastella | 2018-07-10 00:05 | 演劇

コロ―とチェロ弾きの修道士

(これはマルモッタン美術館シリーズの続きです)

さて、今回のマルモッタン美術館行きの目的はコロ―の肖像画展だった。

その中でも、もう自分としては、何度も何度も反芻してネット上で眺めた一点を観るためだった。

というのは私は楽器演奏の絵と踊りの絵を複製がほとんどだけれどコレクションしていているのだけれど、特に「チェロ弾き」の絵は独特の雰囲気のあるものが多いことに注目している。

このコロ―の絵はその中でも秀逸で、このシトー会士と思われる感想修道士が、何の背景もなく、ただ、チェロを弾いているのが印象的だ。
光と影の配合が見事だ。
左手がハイポジションであることから、初心者ではないことが分かる。
ミサの伴奏などではなく、瞑想の中にあるようだ。
あるいは、チェロ奏者が何らかの理由で修道請願をしたのかもしれない。

コロ―の最晩年の作品である。(78歳)

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展覧会ではこの絵と共に、同じ修道士テーマの二点が飾られていた。
三点ともかなり大きい。
本を読む修道士。一つは「自然」の風景の中で、もう一つはチェロ演奏と同じく、ほとんど背景がない。
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で、「チェロを弾く修道士」については、ネット上の画像を何度も見ていろいろな分析もすでにしていたのだけれど、実際にこの三点が飾られているコーナー(文字通り角にある)に立って、戦慄を覚えた。

この三点に囲まれている空間だけが異次元のように密度が違う。何の密度かと言うと、何かスピリチュアルなものとしかいいようがない。
コロ―が描きたかったもの、晩年の死生観を貫きその先へ続く何かが、凝縮している。この「スポット」に入ってしまったら「波動」と光に捕らわれる、というそんな感じだ。自分が「にわか霊能者」になった気分だった。

だから、このブログでこの写真を出してみても、もちろん伝わらない。
観る前に考えていたことを改めて言語化しようとして、今まで「寝かせておいた」のだけれど、まだまとまらない。
こうなると、「複製」の鑑賞と「本物」は何かが本質的に違うと認めざるを得ない。
ライヴの音楽演奏を聴くのと複製音楽との違いとまったく同じような波動や空気やアーティストとの接触が絵画にもあるのだ。

今回の展覧会、コロ―にはこういう肖像画もある。
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画家のアトリエ、上に彫刻があり、キャンバスに絵があり、でも、女性の持っているのは絵筆ではなくリュートだ。
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この絵もそうだ。絵と、楽器と、思索、が、コロ―の中で一体になっている。
修道士のように本を読む女性たちの絵もたくさんある。
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これはマグダラのマリア。(マリー=マドレーヌ)
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本を手にする女性というのは聖母マリアのイコンでもある。受胎告知の時も、幼子イエスを抱いたりあやしたりする時も本を読んでいるマリアの姿は繰り返し書かれてきた。
コロ―の読書する女性たちは、瞑想とメランコリーの間を漂っている感じもする。

それにしても、コロ―と言えば「バルビゾン派の風景画家」という先入観が吹き飛ぶ展覧会だった。







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by mariastella | 2018-06-24 00:05 | アート

マルモッタン美術館のナポレオンとモネ

(これはマルモッタン美術館シリーズの続きです)

マルモッタン美術館の常設展示にナポレオンを題材にしたものがある。

私が『ナポレオンと神』(青土社)を書いた時には参考にしなかったけれど、こうしてあらためて見るとアンヴァリッドやフォンテーヌブローのナポレオンとは違った趣がある。

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これは刺繍作品
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フォンテーヌブロー城近く、舟遊びでくつろぐ珍しい姿。
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第一執政官だったころの若い姿の肖像。
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マリー=ルイーズとの結婚式でのエトワール広場の花火の絵。

19世紀始めにこんなに華やかな花火技術があったのだ。しかも街の真ん中で。

この美術館の名の一部でもあるモネの部屋はもちろん充実している。
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ジヴェルニ―の同じ場所を違う時間の違う光の中で描く贅沢さ。画家冥利に尽きるようなライフスタイル。
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私がジヴェルニーに最後に行ったのは20世紀のことになる。
彼がオランジュリーの水蓮の製作を決心したのは第一次大戦の勝利を記念したかったからで、でも、その意欲と自信と高揚がだんだん怪しくなってくる動揺がはじめて実感できる。それでも、友人だったクレマンソーの励ましで無事に完成して、第二次世界大戦勃発より前に死んだのでヨーロッパの平和が続かなかったのを見なくてよかったなあと思う。

モネの展示室には2017年フィリップ・ガレル作のモネの肖像彫刻があった。
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何だか悲しい目だ。





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by mariastella | 2018-06-23 00:05 | アート

マルモッタン美術館の男と女  マネとモリゾー

(これはマルモッタン美術館シリーズの続きです)


 マルモッタン美術館では、コロ―から印象派にかけての時代の作品だけではなく、彼らの交流の歴史が実感を持って繰り広げられている。


彼ら同志が肖像画も描き合っている。

 

例えばこれはルノワールが描いた「新聞を読むモネ」の肖像画。

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なんといっても、この美術館の「顔」ともなっている出色の肖像画はエドゥアール・マネによるベルト・モリゾーの肖像画だ。

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ベルトはコロ―の弟子だった女流画家だ。

マネの兄と結婚した。娘も絵を描いた。

彼女の姉も画家で、マネの親友と結婚した。


この時代で意外なのは、女性たちが男性画家のアトリエで弟子として「修行」することが流行っていたことだ。熱心に師匠の作品を模写する者もいれば、単なる「お稽古事」気分の者もいたようだ。そんなアトリエ風景を描いた絵もある。中央にいるのが師匠で、女性たちはまじめに聞いている者もいれば窓の外を眺めている者もいる。

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ベルト・モリゾーは、姉と二人でルーヴル美術館でルーベンスの絵を模写している時にマネと出会った。

その時すでにマネは結婚していた。

『草の上の昼食』の裸の絵がスキャンダルになっていた頃だ。マネを評価していたボードレールが死んで2年後である。

マネはもともと「女性」が好きで話もうまかった。カリスマ性もあった。

ベルトはマネにすぐ惹かれるけれど、その他大勢の一人でなくマネのミューズでありたいと思う。

二人の恋はそれなりのスキャンダルにもなったらしい。

ベルトが姉に書き送った書簡をもとにしたマネとベルトの物語をマンガ化した大判のコミック(BD)まで出版されているのには驚いた。

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このコミックを見ていると、フランスのアート・シーンと知識人サークル(文学者、哲学者など)におけるギャラントリーとエレガンスにおける男女の協働関係の伝統がよく分かる。

17世紀から続くサロン文化から日本でも有名だったサルトルとボーヴォワールの内縁関係、#Metoo に向けたカトリーヌ・ドヌーヴらの違和感にまで通底している流れだ。

「エリート」「アッパークラス」にだけ通用する話だと言われればそれまでだけれど、だからこそ、ひとつの独特の「文化」を形成してきた。


マルモッタン美術館には、ベルトの作品がたくさんある。

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それにしても、マネによるベルトの肖像画の表情や眼の光を見ていると、ベルトの性格や葛藤や挑発などがみな透けて見えてきて、「二人の関係」が知的にも芸術的にもいかに刺激に満ちたものであったかが容易に想像できる。



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by mariastella | 2018-06-22 00:05 | フェミニズム

マルモッタン美術館の細密画とシューベルト

マルモッタン美術館の常設展示の「enluminure(中世写本の細密画)」の部屋は、すばらしい。

キリスト教世界の細密画はこれまでにも見たことがあるけれど、ここの薄暗い一室に並べられた絵の筆遣い、時代を超えて輝く金の色遣い、疫病も飢饉も戦乱も今では考えられないようなレベルで人々を襲っていた時代に天国や救いや宗教的昂揚を求めた人々の息遣いなどがたちこめている。雰囲気の再現まで何かにまでインスパイアされたかのようだ。

この細密画の「光」は写真ではすべて吹き飛んでしまう。
その前に立たないと伝わらないので載せない。

彫刻も少しあった。これは聖女アニエス。仔羊がシンボルで、犬か猫のように寄りすがっている。
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こういうのを見ると、ああ、中世ヨーロッパにキリスト教の写本文化があってよかったなあ、と、保存状態の良さと同時に感謝したくなる。その感動は、具体的な宗教的コンテキストや鑑賞者の文化的背景とは別のところにあると思う。
例えば私は過去に「源氏物語絵巻」の原本の展示を見たこともあるけれど、教養としての興味の方が大きかった。
中世ヨーロッパの細密画は、伝統的文化的なコンテキストを共有していないのに、もっと迫ってくる切実感がある。

6/13には、弦楽オーケストラで、三度目になるバッハのブランデンブルク3番の他に、モーツアルトの「AVE VERUM CORPUS(アヴェ・ヴェルム・コルプス)」の合唱の伴奏に参加した。「真の体」、つまり先日の聖体の祭日と同じ、カトリックのミサで聖体にキリストの真の体が化体するするという賛歌だ。だから歴史的にはばりばりのカトリック文化の遺産なのだけれど、弾いていて、合唱を聴いていて、どきどきする(宗教とは関係のない文化行事のコンサートだ)。

こういう時も、バッハやモーツアルトらが生きていた時と場所にキリスト教文化があってよかったなあと思う。

目に見える細密画や、耳に聴こえる聖歌が、私たちを現世と「あちらの世界」の境界領域に誘ってくれる。
特に図像は確固としてそこに「ある」けれど、音楽は、演奏する瞬間にしか現れない。
「インスピレーション」の現場により深く立ち会える。

源氏物語絵巻を見る時には物語の文脈を知りたい気がするが、細密画や宗教曲には、テキストの中身や教義を超える「人間」の訴えや心を直接キャッチするだけで多幸感をもたらせてくれる何かがある。



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by mariastella | 2018-06-18 00:05 | アート

マルモッタン美術館の細密画とシューベルト

マルモッタン美術館の常設展示の「enluminure(中世写本の細密画)」の部屋は、すばらしい。

キリスト教世界の細密画はこれまでにも見たことがあるけれど、ここの薄暗い一室に並べられた絵の筆遣い、時代を超えて輝く金の色遣い、疫病も飢饉も戦乱も今では考えられないようなレベルで人々を襲っていた時代に天国や救いや宗教的昂揚を求めた人々の息遣いなどがたちこめている。雰囲気の再現まで何かにまでインスパイアされたかのようだ。

この細密画の「光」は写真ではすべて吹き飛んでしまう。
その前に立たないと伝わらないので載せない。

彫刻も少しあった。これは聖女アニエス。仔羊がシンボルで、犬か猫のように寄りすがっている。
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こういうのを見ると、ああ、中世ヨーロッパにキリスト教の写本文化があってよかったなあ、と、保存状態の良さと同時に感謝したくなる。その感動は、具体的な宗教的コンテキストや鑑賞者の文化的背景とは別のところにあると思う。
例えば私は過去に「源氏物語絵巻」の原本の展示を見たこともあるけれど、教養としての興味の方が大きかった。
中世ヨーロッパの細密画は、伝統的文化的なコンテキストを共有していないのに、もっと迫ってくる切実感がある。

6/13には、弦楽オーケストラで、三度目になるバッハのブランデンブルク3番の他に、シューベルトの「AVE VERUM CORPUS(アヴェ・ヴェルム・コルプス)」の合唱の伴奏に参加した。「真の体」、つまり先日の聖体の祭日と同じ、カトリックのミサで聖体にキリストの真の体が化体するするという賛歌だ。だから歴史的にはばりばりのカトリック文化の遺産なのだけれど、弾いていて、合唱を聴いていて、どきどきする(宗教とは関係のない文化行事のコンサートだ)。

こういう時も、バッハやシューベルトやモーツアルトらが生きていた時と場所にキリスト教文化があってよかったなあと思う。

目に見える細密画や、耳に聴こえる聖歌が、私たちを現世と「あちらの世界」の境界領域に誘ってくれる。
特に図像は確固としてそこに「ある」けれど、音楽は、演奏する瞬間にしか現れない。
「インスピレーション」の現場により深く立ち会える。

源氏物語絵巻を見る時には物語の文脈を知りたい気がするが、細密画や宗教曲には、テキストの中身や教義を超える「人間」の訴えや心を直接キャッチするだけで多幸感をもたらせてくれる何かがある。



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by mariastella | 2018-06-18 00:05 | アート

マルモッタン・モネ美術館

このブログは今は基本予約投稿ばかりなので、書いている時、話題と、アップの時間にかなりのずれができる。

でも、5月の末にようやく観に行ったマルモッタン美術館のコロ―展は、ともかく一見の価値があるので、会期中の7月8日までにパリにいる方にはぜひお勧めなので、今のうちにそのことをアップしておく。

コロ―と言えばバルビゾン派の風景画家、というイメージだけれど、その人物がシリーズがすばらしくて、その中に、私がどうしても観たいものがあって、もちろんすでにネット上ではじっくり見て、それについての記事すら書いていた。
でも、記事にするにはやはり実物を見ておかないと、と、重い腰を上げたのだけれど、その3点の絵の前に立って、衝撃を受けた。

展示室の角のコーナーで直角にかけられていて、その絵の大きさのせいもあるけれど、そこだけがまるで異空間のようなスポットになっているのだ。コロ―とその絵の世界に体ごとワープさせられる気がするほど、何かの「密度」だか「波動」だかが凝縮している。

ネットやカタログで絵を見ていろいろ論評することの傲慢さ、というより、空しさを感じてしまった。
どんな「ほんもの」でも、いったんその出会いの「場」を離れれば、「記憶」のフィールドにインプットされる。
それを「言語化」する時には「記憶」と対峙するのだから、本物でも画集でも「脳内再構成」のアートを養うという意味ではそう変わらないとまで思う時もあった。
音楽だって、自分が弾く曲にしても、毎回異なるわけで、その度のライブの体験が層をなして脳内イメージが形成される。固定したものはない。変化したり進化したりする。
そのような「経験知」を揺さぶるほどの「ほんもの」の強度に驚いた。

で、その絵については後日アップするけれど、ここではともかく、可能なら今、ぜひ、マルモッタン美術館へどうぞ、というお勧めだけひとまずアップ。
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メトロのミュエットで降りるとラネラグの公園があって、そこには一目でラ・フォンテーヌだと分かる銅像がある。
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キツネとカラスの寓話がモティーフ。
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この美術館にはいわゆる美術館カフェはないけれど、帰りには昔の駅を利用したミュエットの「ラ・ガール(La Gare)というレストランで食事できる。
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ここに来るのは久しぶりだったけれど、初夏のいい天気で、昔のレールがあった場所のテラスで食事した。周りより低いので通りの喧騒もなく完全に囲まれた空間なので、落ち着けるし安心できる。大きな声では言えないが、ラマダンの期間中の今、パリの普通のテラスで食事をするのはテロのリスクが気になって避けたいからだ。

昼のコースのデザートのチーズケーキについてきたベリーソースの「ト音記号」がまったく逆向きっていうのには興をそがれるけれど。
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ト音記号がG(ソ)の位置の記号で、Gの筆記体からできたことを知っていればこういうカーブの間違いはあり得ないのだけれど。
そういえばマルモッタン美術館は、今はフランス美術アカデミーの本拠地なので、アカデミー会員が創らせる「剣」の展示があったけれど、音楽評論家でもあったジョルジュ・デュアメルの剣の束はト音記号のデザインだった。
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by mariastella | 2018-06-07 00:05 | アート

沖縄で観た世界の「シーサー」たち

2016年に松江と出雲に行った時、ユニークな立ち姿の狛犬を見て、それに関する文書を見つけて読んだことがある。「大社の史話」25.9 176号の中の「大社の狛犬(藤原慧)」という記事だ。いわゆる「お座り」型ではなく、勇み獅子とか出雲かまえ獅子とかいうもので尻を突き上げた姿は、これが「犬」ではなく、ネコ科の獅子だなあと思わせるものだった。


沖縄ワールドの歴史博物館で世界の獅子像の展示があった。

ここでは「親子モノ」に興味がわいた。

母子なのか父子なのか?

獅子の親子、と言えば頭に浮かぶのは「連獅子」の親子の踊りとか、そのもとになる「子は我が子を千尋の谷に落とす」とかいう言い回しだ。

歌舞伎の鏡獅子は父子と決まっているが、生まれて三日目の子を落とす、というのなら、それは母獅子の役目のような気もしないではない。

でも沖縄で観た親子獅子たちはみんなとても人間味がある。

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これは「千尋の谷」落としなのかもしれないが、なんだかじゃれているようにも見える。


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単独の獅子でもこんなユーモラスというかペーソスを感じさせるものがある。

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勇壮というのとは程遠い。猿みたいだ。これでも「魔除け」になるのだろうか?

「獅子」という「猛々しさ」のシンボルへのイメージの託し方が興味深い。
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これは沖縄の珊瑚による作品。迫力がある。


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これも沖縄の石灰岩の作品。こっちはやはり「ネコ科」っぽい。



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by mariastella | 2018-06-06 00:05 | アート

美術館の花見

4/26

今年は桜を見損なったので、山種美術館の『桜さくらSAKURA』展を観に行った。
前にもここの桜展を観たのでなじみのある絵に再会。

その中に河合玉堂のものもあって、これも2日前のイメージと重なってなつかしい水の流れ。
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でも、前回と同様、一番魅力的に思えるのは川端龍子のこの『さくら』。
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千住博さんの『夜桜』も、相変わらずの迫力で、これは絶対実物を見ないと伝わらない。今回は、千住さんの「秘密」がなんとなくわかる気がした。
でもまだ言語化できない。




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by mariastella | 2018-05-11 00:05 | アート



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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