L'art de croire             竹下節子ブログ

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マクロンとローマ法王、フランスとアルゼンチン

6/26、マクロン大統領がローマ法王を公式訪問した。


ブリジット夫人は、プロトコルどおりの黒服だが黒ヴェールはつけず。


マクロンはイエズス会系の学校出で、イエズス会のフランシスコ教皇とは話が合う、と言われていた。

マクロンが通い洗礼を受けブリジットと出会ったアミアンの学校はフランスにある14のイエズス会学校の一つだ。

イエズス会にはプラグマティズムがある。

フランスにはその「二枚舌」を攻撃するtwitterのハッシュタグがあって、「偽善者」「風見鶏」などと揶揄されている。

「宗教改革」真っただ中の1534年創立の、ある意味で、カトリック教会の「バロック」戦術の空気の中で生まれた。「一方向」に集中するタイプの修道会ではなく柔軟に戦線を広げてきた。

リベラルな言説と保守的な姿勢を併せ持つ教皇はもちろん、「右でも左でもない」と称するマクロンのやり方もイエズス会的だといえなくもない。


フランシスコ教皇が会談した各国首脳でこれまで一番長かったのはオバマ大統領で52分だったがマクロンは57分で歴代一位だと、会見が終わって一分後にエリゼ宮が発表したんだそうだ。必死で時計を見ていたのだろうか。


恒例のプレゼント交換はマクロンがベルナノスの『田舎司祭の日記』の初版本で、教皇はメルケルなど他のヨーロッパの首脳にも贈呈するサン・マルタン(マルティヌス :自分の来ていたマントを剣で半分に切って貧者に分け与えた

)で「私たちはみな貧しいのです」との教皇の言葉とセットだった。


そしてラトランのバジリカ聖堂(これがローマ司教の聖座)の参事員という例の称号を与える典礼にもマクロンは参加した。

ポンピドー、ミッテラン、オランドはこれをスルーした。サルコジは大得意だった(サルコジから教皇へのプレゼントは献辞入りの自著だったそうだ)。


マクロンと教皇は最後にハグし合ってみなを驚かせた。

エリザベス女王とハグするくらいにあり得ないことらしい。


マクロンって、「善良な年配者」キラーみたいなところがあるとこれまでも思っていたが、本格的だ。


移民難民問題をめぐってイタリアとフランスが激しく対立しあっているタイミングだから、ここで弱者救済のヨーロッパ理念を共有する教皇とフュージョンしているのを見せることは政治戦略的に大きな意味がある。

前日に到着した時も、ヴァチカンのフランス大使館のあるボナパルト館ではなくイタリアのフランス大使館のあるファルネーゼ宮に泊まった。

朝食時は移民支援に熱心なフランスのカトリック信者のサン・エジィディオの代表者とブリーフィング、教皇との会談の後はフランス人枢機卿等と昼食、ラトランのセレモニーの後でヴァティカンのフランス人コミュニティを訪問。

ローマにあるフランス教区に属する二つの教会には行かない。


要するに、ヴァティカンにおけるフランスの影響力を増すこと、それによってヨーロッパの立て直しについてのフランスの発言力をバックアップさせることなどをねらったのだろう。


「主権国家」でありながらたアルゼンチン人の教皇や多国籍の大臣やら国民を擁するヴァティカンに歴史的に縁の深いフランスがそれを利用しないという手はない、ということだ。


その日の夜、ロシアのワールドカップの決勝トーナメントの一回戦でフランスとアルゼンチンが戦うことが決まったのは、また、別の話。


一次リーグの一位通過がすでに決まっていたフランスの最終試合は「退屈」で、一時リーグ敗退の危機にあったアルゼンチンは気合の入った勝利だったという。


私のアルゼンチン人の知り合いと言えばカルテットのヴァイオリニストの他には、もうずっと前に友人の連れ合いだった女性作家がいる。やはり亡命してやってきた彼女は、マラドナについての本を書いてそれが日本語で訳されたので私にプレゼントしてくれた。その後、いろいろなトラブルがあって友人にトラウマを残す別れ方をしたが、生命力あふれる「濃い人」だったのを思い出す。
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by mariastella | 2018-07-01 00:05 | 雑感

カトリック教会のペドフィリア・スキャンダル その2

(これは前の記事の続きです)

ペドフィリア対策担当司教と被害者の会の代表との「対決」。

意外だった。

フランスでカトリック司教団の対策委員会がトレランス・ゼロを受けて、すべての司祭や教会内で未成年と接する人々を対象にさまざまな「防止策」を徹底して、通達していることや、チリの司教団が全員で共同責任を取って引責辞任をヴァティカンに願い出たことについて、

私がなんとなく予想していたのは、被害者側が、

そんな「防止策」では足りない、全体の体質を変えるためにチリの司教団のように徹底的に責任を取るべきだ、

と言うか、

フランス司教団の現実認識と自主的な努力は評価する、

と言うかのどちらかだった。

ところが、被害者が言うのは、違っていた。


要約すると、 


「全司祭を対象にして彼らがまるで潜在的なペドフィリア予備軍であるかのようにするのはよくない」


「チリの司教団が全員辞職というのは、実際の加害者の責任を相対化してしまうのでよくない」

ということだった。

確かに、ペドフィリアは「権威や権力のある大人が子供とふたりきりになるような状況」でしか起きないだろう。でもだからといって、そのような状況自体をすべて禁じるのは意味がない。


しつこく小動物の例を挙げると、

小動物と共に一人でいる時にしか虐待は起きないだろうけれど、

ではひとりで小動物といる人には誰でも虐待の誘惑が起こるということはあり得ない。


人の眼がないとメロメロ、デレデレになって犬や猫に愛を注ぐ人の方が多いだろう(まあそれはそれで犬猫にとっては迷惑かもしれないが)。


「自分の欲望を満足させるために小さい者を虐待する」という行為は、遺伝的、環境的、何らかの理由ですでにそのような「嗜好」を持った者が、それが可能な状況に置かれた時に「誘惑」に負けて起こるのだ。


犬猫が虐待されるケースがあるからと言って全てのペットの飼い主を集めて、防止策をレクチャーする意味はない。ほとんどの人は、ペットを飼っていない人たちよりも、虐待に対してさらに怒っているのだから。


もちろん少数の「異常者」を徹底して糾弾することは、そのような「傾向」を潜在的に持っている人が「誘惑」を自制するためにも有効だろう。ペドフィリアは連帯責任で相対化することで済ませるような問題ではない。


で、被害者の会のリーダーが言うのは、

このペドフィリアのスキャンダルについて「教会」全体を糾弾することで、99%の普通の司祭が後ろ指をさされるようになり、罵倒されたり、スカウト運動や公教要理やらボランティア活動に子供を参加させている親たちを不安にさせたりする。

ひいては神に対する信頼もなくす。激減している司祭のなり手もますます少なくなる。

加害者を守って司教団全員が引責辞任するのでは「実行犯」の責任を曖昧にする。

ペドフィリアは上への「忖度」やら上からの「指示」やらでなされる犯罪などではない。

「聖霊によって叙階された」はずの一司祭が、元の「嗜好」を満足させる機会に遭遇して犯した重罪である。

教会は、賠償などとは別に、当該司祭を徹底的に糾弾し、職務停止し、時効が成立していないなら司法の手に渡し、成立していても隔離し、「悪」を「悪」と名指さなくてはならない。


彼のこの言葉を聞いて、なるほどと思わされた。


これは、チリはもちろん、アイルランドやニューヨークでもなく、ましてやカトリック信徒が人口の0.4% 未満とかいう日本の話ではない。


「共和国主義」が「宗教」となっている今のフランスの場合だ。

今どき、子供たちをスカウト活動に入れたり、公教要理や教会のボランティアに参加させたりするフランスの家庭のマジョリティは、保守的なブルジョワ家庭であって、カトリックということがアイデンティティの一部になっている人たちが多いという現実がある。

で、そういう家庭の子供たちが、そのような活動を通して、使命感を得たり召命を得たりして、教会活動を続ける。中には司祭になる者も出てくる。今のような新自由主義経済の金権社会で、すでに「勝ち組」の家庭に育って教育水準も高い若者たちが、独身で弱者のために尽くしている司祭たちに接して、使命感に目覚め自分もその後に続こうとするわけだ。そのような「今時めずらしい」若者たちが、司祭になったり司教に上り詰めたりする。

それなのに、運悪く、ペドフィリア倒錯者の司祭にあたって被害を受けた少年たちがいた。

彼らが告発し罰してほしいのは直接の加害者だ。

司教団に謝ってもらっても「再発防止」対策をしてもらっても大した意味がない。

被害者の少年たちも、もちろんそれから教会を離れ、恨みにも思ったろうが、ブルジョワ家庭で教育水準が高いこともあり、長じて社会的には「成功」するケースがある。

トラウマの本質を考える余裕も知的な能力もあり、被害者の会を立ち上げて、他の国の被害者と連帯し援助していくスキルもあった。


一方で、そのような被害者たちの「友人」たち、つまり同じような恵まれた環境にいた少年たちで、倒錯犯罪司祭に密室で遭遇しなかった多くの少年たちが存在する。

彼らの中には、教区司祭や修道士たちの献身をみて、自分たちも弱者の側に立たなくてはと思う者が出てくる。その中から、代替経済を考えたり雇用者の人権に配慮したりする企業経営者も生まれれば、ボランティア活動や人道支援団体への寄付を続ける者も出てくる。

そして少数の者は自分も司祭になることを選択するのだ。

で、被害者組織のリーダーの友人にも、司祭になった者がいる。

友情は変わらない。その友人たちが苦しんでいる。ペドフィリア・スキャンダルのせいで、心ない罵声を浴びせかけられたり教会に攻撃の落書きをされたりするからだ。

少年時代に同じようにカトリック教育の中で慈善や利他や謙遜を教えられながら、


そんなことはすっかり忘れて「普通のエゴイストになる」普通の人もいれば、


神と弱者に身を捧げる使命を全うしようとする少数の人もいれば、


ペドフィリアの司祭と2人きりになるという事態を経て癒えることのないトラウマを抱えた少数の人もいる。

被害者の中には、過去に自分たちが信頼していた司祭、今でも信頼に足ると思う多くの司祭たちと「連帯」しようとしている人たちがいるのだ。


被害者の会のリーダーは、ひょっとして、本当の意味で「キリストの教え」に従う「信徒」なのかもしれない。

弱者である少年たちを虐待した強者を弾劾することを絶対にあきらめず、黙って苦しんでいた他の被害者に手を差し伸べ寄り添うからだ。

「ある閉じられた組織内の犯罪」を思う時、「悪」にはみな保身や思考停止や欲望や利益追求などの共通点があるけれど、それぞれの被害者にはそれぞれの立場と生き方と戦いがあるのだなあ、とあらためて考えさせられた。


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by mariastella | 2018-06-16 00:05 | 宗教

カトリック教会のペドフィリア・スキャンダル その1

6/11


今発売中のリベラル・カトリック週刊誌の表紙を見て驚いた。


カトリック教会のペドフィリア問題対策の責任者である司教と、リヨンの司祭を告発することで始まったペドフィリィア犠牲者の会の主催者である40代男性の二人が並んでいる。

この2人は別々にはいろいろなところでインタビューに答えてきたが、公式に同時にインタビューを受けるのは初めてだそうだ。

細かいことをいろいろ書くのはスルーするけれど、リヨンの某司祭がカトリックのボーイスカウトの指導をする中で少年たちに性的な虐待をしていたというスキャンダルだ。しかも、そのことが司教の耳に入った後、司教は、その司祭を別の教区に異動させ、司祭はまた別の教区で同じことをし続けたという。それが何度も繰り返され犠牲者の数が増えた。その間、この事件が公になることはなかった。その司祭は現在職務停止だが逮捕拘禁はされていず判決待ちである。

この犠牲者の一人が、仲間数人と犠牲者の会を立ち上げ、それがきっかけとなって、アイルランドやアメリカや中南米のカトリック教会のスキャンダルがどんどんと明らかになっていった。いや、すでに知られていたものもあるが、声が大きくなり、芋づる式に大スキャンダルに発展したのだ。いわば、どこにでも横行していたセクハラが「#Me Too」運動によってメディアを席巻した構図に似ている。

前にも書いたが、ペドフィリアという未成年(特に子供)に対する性的虐待とその「隠蔽」は、

「子供にとって権威的な立場にある大人(ほとんどが男)が子供(男も女もある)と密室で二人きりにる」

という情況で発生する。


だから一番多い現場は「家庭内」で、父、義父、母の連れ合い、兄、義兄などによるもの、また、学校や部活などでの教師、監督、コーチ、その他の指導者によるもので、「カトリック教会」の中で起こる率は実は少ない。

ボーイスカウト、告解、公教要理のクラスその他だ。

家庭内や学校などより率が低いのは、現代においては「司祭」になるためにすでに性的禁忌や禁欲についての了解事項や誓いが明快なので、ハードルが高いからだろう。

それでも「カトリック教会」内のスキャンダルが最もアグレッシヴに攻撃されるのはいくつかの理由がある。

まず、ハードルが高いことそのものにある。


「神」の名において禁欲やら貞潔やらを誓い、奉仕者を自称するのだから、親や子供たちからの信頼が高い。信頼度が高い分、それを裏切る罪は重い。

「家庭内」のペドフィリアの「責任」追求や罰は加害者個人に向かう。

学校や部活などでは、加害者はもちろんだが、その「上」にある校長や教育委員会などの「監督責任」まで問われることもある。

それらすべてに、そのような加害の温床となっている社会のメンタリティ全体について問いが投げかけられることもあるが、漠然としている。


それに対してカトリック教会というのは、プロテスタント諸派などとは違って、教区や司教会議、ヴァティカン、ローマ教皇と、ピラミッド型のビューロクラシーがはっきりしているので、「カトリック教会」という大きなくくりで「責任」を追及することができる。


また、キリスト教文化圏の国には、もともと、「反カトリック教会」というロビーや無神論イデオロギーが存在するので、プロパガンダ的にも「ペドフィリア」スキャンダルを追求するベースがあるし、報道価値もある。

「カトリック司祭は独身で性的に欲求不満」などという俗受けする攻撃もできる。


「どこそこに住む何某が再婚相手の連れ子を何年も虐待していた」などと言う「ニュース」よりも社会的な価値やニュース価値がある、と認識されるのかもしれない。

誤解のないように言っておくが、この記事では「カトリック教会」内のペドフィリアを相対化しようとしているのではない。

その反対で、カトリックの聖職者によるこの手の犯罪は、世俗社会において罰せられるべきであるだけではなく、職業倫理としてははるかに重大で、「情状酌量」は通用しない。

カトリックの司教たちは、そのスキャンダルを長年にわたって「隠してきた」ことを非難されている。


一つには、もちろん、メンタリティの変化がある。


ひと昔前までは、未成年に関わらず、性的被害にあった者は、「泣き寝入り」した方が害が少ないと思われてきた。その手の被害を公にすることは、相手を罰するメリットよりも被害者の被るマイナスの方が大きいと思われたからだ。それが結果的に加害者をのさばらすことになった。

けれども、「#Me Too」運動もそうだが、レイプが親告罪ではなくなったように、今は、「性的被害をなかったことにしておく。」というメンタリティは大きく変わりつつある。


ひと昔前の「カトリック教会」の司教たち(司祭の監督責任がある)が司祭のペドフィリアを「もみ消した」こと自体は理解できないでもない。もちろんこれも、決定的に「神」に背き、聖職者としての誓いを破ったのだから、本来、「普通の世間」のメンタリティにソマリアっている場合ではない。

しかもリヨンのケースは、その司祭を別の教区に異動させ、そこで「再犯」させていたのだから、司教の罪は重い。

ペドフィリアはもちろん、強い立場にある者が弱者の尊厳を「意図して踏みにじる」ことは、家庭内であれ、学校であれ、職場であれ、スポーツの場であれ、宗教の場であれ、絶対に許されてはならない。

命令系統の明快なカトリック教会であればなおさら、即刻「職務停止」と「隔離」を実行するのが「最低」線で、公の司法にゆだねるのも当然だ。今は、法律上は時効になっているケースにも判例に従って、賠償金を支払うことが検討されている。

で、今やフランスの司教団は、ボーイスカウトの指導者や公教要理の指導者、司祭全員を対象に、密室での告解をしてはならない、未成年と2人きりにならないなどのレクチャーをして「再発」を防ぐ対策をしているというわけだ。

又は、最近、やはりペドフィリアのスキャンダルを受けて、なんと、チリの司教団全員が辞職願をヴァティカンに提出するという事件が起きた。

これは、まるで、「トカゲの尻尾切り」ではなくて、「トカゲの頭」を差し出したわけだ。


一見すると、世界中の多くの「指導者」や「権力者」たちが、「不祥事」を前に自分たちの責任を認めずに、末端に罪を被せたり、嘘を重ねさせたり、辞職させたり、自分たちは給与の一部返上みたいなことでお茶を濁したりすることに比べると、「潔い」と見えなくもない。

もっとも、古いタイプの「カトリック教会」の体質を残している国とは違って、例えばフランスのように、政教分離が進んで知識人の間で不可知論者がデフォルトになっているような国では、「司教」や「枢機卿」などに「昇り詰める」ような人は、使命感に満ちた高潔な人がほとんどだ。生涯独身で、「選挙」の支援団体におもねる必要もないから、二世、三世議員やらが活躍する「政治家」などとはそれこそメンタリティが違う。

だからこそ、彼らには、「ペドフィリアという犯罪を犯す司祭」というものについての「想像力」が完全に欠落している。そう、彼らは、仲間だから、教会の恥だからという思いで「もみ消した」という意識より、「信じられなかった」ということが大きかったと思う。

多くの人はある種の「悪」への想像力がまったく欠如している。それが欠如しているDNAが自然選択されてきたからだともいえる。

自分自身を見ても、ペドフィリアはもちろん、例えば犬や猫を意図的に虐待する、などと言う発想は、まさに「信じられない」。

今はネットなどで、そういう人たちがいて、実際の虐待シーンを公開する人さえ存在することを知ったけれど、やはり想像を絶する蛮行だ。もしも自分の周囲に実はそんな人がいると言われても、茫然として、やはり「信じられない」、と思うだろう。

で、今回の、再発防止の対策担当司教と被害者の会のリーダーの「対決」。


まったく意外だった。 


(前置きが長くなったので続きは後はこの後で。)


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by mariastella | 2018-06-15 00:05 | 宗教

聖体と核分裂? 聖体の祭日の話(続き)

これは「父の日」の日曜日のミサの後のアペリティフとランチの招待状。

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裏にはユーモラスな突っ込み(白字)入りの文が並ぶ。

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「教区がカナを祝う ! / (結婚式かい・・・)」

(聖書に出てくるカナの婚礼にかけている)

「体を大切にしたまえ、魂がずっと住みたがるようにね ! / (そしたらもちろん体も残ることになるしさ)」

「神は料理の中にもいる ! / (料理に失敗してもね !)」

「マクロン祭りより楽しいぞ !/ (あ、マクロンが来てももちろんOKだよ)」

(マクロン祭りというのは最近行われた反政府デモのネーミングだ)

などなど…。

 

実際、この教区、子供連れの若い夫婦などがたくさん出席する傾向がある。

ヴェリエール師の説教は、ベネディクト16世(B16)が教皇になってすぐ出席したケルンのワールドユースデーに若者たちを連れて行った時の話から始まった。

ケルンでの開催を決めたのはヨハネ=パウロ二世だったが、B16はドイツ人。ケルンでの若者の歓迎はすごくて「ベーネデーット、ベーネデーット」と連呼されたらしい。

B16は遠慮がちに片手をあげて応え、次に両手を合わせた。そして、若者たちに背を向けて、聖体の前に跪いて動かなくなり、若者たちはしーんと静まり返った。

B16は聖体のことを「核分裂」に例えたそうだ。

イメージとしては、目に見えないレベルで激しい反応が起きて大量のエネルギーを発するという感じだろうか。それまでの「自然」が「超自然」に変換されるという。

死者が生き返る、だけでは「魔法」や「魔術」だけれど、「最後の晩餐」のイエスは、自分が死ぬことを分っていながら、自分の体を無酵母パンに託して弟子たちに与えた。つまり、「死ぬより先に死を犠牲として与えることで先取りして死に打ち勝った」というのだ。

うーん、新訳聖書の成り立ちやら教義や神学の歴史をいろいろ考えると、まあ、こういう言い方が「正しい」のだろう。で、典礼の歌にも、「私の体を食べなさい、あなたはもう決してひとりではない」とか「永遠の命を与えられる」などという言葉が並ぶ。

また例の「おひとりさま」のことや、「合理主義の知識人が老い手から宗教に入信するのはいかがなものか」という自称「棄教徒」の上野さんの言葉が思い浮かぶ。


確かに、人間は所詮ひとりで死んでいくのだし、「子や孫」もあてになるかどうかなど分からないのだから、「イエスと結婚する」という修道者だのお遍路さんのようにイエスと「同行二人」と考えて「もう決して一人でない」と「妄想(上野さん用語)」するのも「処世術」の一つかもしれないし、それを潔くないと思う人もいるのかもしれない。


「永遠の命」と言われても、つい、最近耳にしたウディ・アレン(もとはカフカの言葉だという説もある)の「永遠は長い、特に、終わりの方が」(Eternity is a long time, especially towards the end.なんて言葉を思い出してしまう。

などと、雑念満載で聞いていたけれど、ルヴェリエール師が「信じきって」「なりきって」永遠のスパンで生き、話しているのは伝わる。

「聖体を拝領する時にアーメンと合意をすることが大事だ。キリストが体をくれるのにこちらが言葉だけというのは交換として釣り合わないけれど、合意するところに聖霊が働き、自分だけがイエスの体になるのでなく、聖堂全体が、共同体全体がキリストと一体化する。インターアクションが必要だ」

もっともだ。


それにしても、ミサを挙式する司祭さんって大変だなあ、と思う。

本当に民間信仰や新興宗教のノリで、会衆が信じたりすがったり崇めたりする気満々の時代や場所ならいざしらず、本気で「神降ろし」をしなければならない。


独身制のカトリックの司祭は特に、親子代々ってことはあり得ないから、「召命」って本当にあるんだなあ、とあらためて感心した。(感心でなく改心しろよ、といわれそうだけど…)


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by mariastella | 2018-06-10 00:05 | 宗教

聖体の祭日

6/3の日曜ミサは、日本のカトリックでは「キリストの聖体の祭日」というのだそうだ。

フランスでは簡単に「la Fête-Dieu、つまり、「神祭り」などと普通に呼ばれる。

もちろん聖体の祝日、 Fête du Saint-Sacrement, とかラテン語の神の体、キリストの体、Corpus Domini, Corpus Christiとも呼ばれる。


本来は復活祭後60日とか、三位一体祭の後の木曜とかの「移動祝祭日」の一種だ。ポルトガルやブラジルやポーランドのようなカトリック国は公休の祭日のまま残っているけれど、フランスなどは、復活祭やキリスト昇天祭、聖母被昇天祭などは移動祭日のままだけれど「聖体の日」は祭日ではないのでそれに近い日曜日に設定されている。日本でもそのようだ。

ことの起こりは、「聖体パン(ホスティア)」が本当にキリストの体になるなんて、と疑いを抱いた司祭たちの前で、いろいろな奇跡が起こったことの記念だ。聖体パンが突然肉片に変わったとか、血が滴り落ちたとかいう「奇跡」は、カトリック世界のフォークロアとしてはあちこちにある。韓国の血の涙を流すナジュの聖母像で有名になったジュリアさんの口の中であら不思議、小麦と水の後聖体が肉片に変わったというパフォーマンスは20世紀末にも盛んに拡散されていた。

「聖体」を口にする、というのは文字通り考えたらかなり倒錯的なカニバリズムっぽいイメージなので、プロテスタントがそれはシンボリックな意味ですよ、と言ったのは無理がない。「奇跡」のフォークロアを動員してまで「化体」にこだわるカトリック教会も、派手なパフォーマンスを規制している。無酵母パンが肉に「化ける」必要はないので、キリストが自分の体を無酵母パンに託したのだから、「見かけ」は関係がないはずだからだ。

ともかく、フランスのような「カトリック文化圏」の国では、神学的、教義的、フォークロアとの習合の歴史などを別にして、5月の「聖母月」に「母の日」を、6月の「聖体の月」に父の日を、一番気候のいい時期に、家庭や共同体のお祭りを続けてきたわけだ。

で、前の記事で書いた上野さんとは正反対でフォークロリックな祭りも民間信仰も神秘も奇跡も好きな私はもちろんこの「聖体祭」に出かけた。

ルヴェリエール神父がどう話すか聞きたかったこともある。

思えば、私は楽器演奏の生徒たちに、

聴き手は「物理的な音」を聴くのではない、すべての聴覚体験は視覚と同じで脳による再構成なのだから、演奏者の「意図」も込みで聴いている、音が出る前、響く間、消えた後、その全てにどういう意図をこめるかによってそれに応じて聴いてくれるのだ、

と、いつも言っている。

それで「実験」をすると、はっきり違いが分かるのでみんな感心してくれる。

それと同じで、どんな芝居でも小説でも、鑑賞する方は、俳優や監督や書き手の意図や、本気、やる気、なりきり方、伝え方、を、「内容」といっしょに受けとめる。

伝える側の熱意やら意図を受けとめ共有することができれば、「ファクト」の信憑性などは問題にならない。

SFでも、アニメでも、神話でも、命の琴線に触れることがある。

で、「ビュット・ショーモン被昇天のノートルダム」のルヴェリエール師の説教が楽しみだった。

この教会、ラテン語(フランス語の対訳が表示されるとはいえ)の歌も増えて、跪いて口で聖体拝領する人も少なくないし、なんだか、だんだん原理主義っぽくなって、外国に来ているみたいな気もしないでもない。

でもルヴェリエール師の話が興味深いのは、彼が「信じている」からだ。


「ご聖体」を掲げ、「ご聖体」を語る人の「信仰」が、名演奏者の奏でる音楽のように聴こえる。「ご聖体」が楽器で、ルヴェリエール師の「信仰」が弾き手であるかのようだ。

で、どんどん「伝統」主義っぽくなる彼は、子供たちにバラの花びらを撒かせて、祭壇から教会前の広場まで超短い距離をしっかり「聖体行列」をして、それから聖体器を持って教会の屋根のテラスに上がり、町すべてを「祝福」した。

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地面にバラの花びらが見える。祭壇の前で向こうでひざまずいているのがルヴェリエール師。


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お天気がよくてよかったね。

ラマダン期間中とはいえ、何の検査もなく、「聖体」をもって出たり入ったり、道行く人も、日本なら「あ、今日はここのお寺でなんかやってるな」という感じの「普通のパリの下町」のリラックス感にほっとさせられた。

 

6/13「父の日」にはミサの後に無料で昼食会があり、10歳以下の子供にはベビーシッターがつき、10-15歳には映画の上映付きだそうだ。「アルファ」の人たちが食事を担当だという。

 彼の求心力がますます強くなっているのが分かる。

 肝心の「説教」はどうだったかというと…(続く)


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by mariastella | 2018-06-09 00:05 | 宗教

夙川教会(訂正あり)

4/21

日本についてからの最初の頃と違って初夏の陽気。

墓園に。

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その後で夙川教会に寄る。
前に書いたブログで話題にした中井久夫さんが2年前に洗礼を受けられたどこかで紹介されていた記事を読んでから訪れたいと思っていた教会だ。85年前にパリ外国宣教会のボスケ神父が建てた。

(追記: 洗礼を受けられたのは神戸の垂水教会でした。誤りを指摘くださったT 先生、ありがとうございます。この時なんとなく勘違いして、教会でお会いした方にも「ここで中井先生が...」などと話しかけたのですが、反応もなく否定もされなかったので勘違いが続きました。垂水教会だったということはよく記憶しています。2003年に私のトリオがはじめて日本で公演した時の第一回の公演が垂水教会だったからです。舞子の愛徳姉妹会に泊めていただいたご縁からです。本当にお世話になりました。夙川教会は子供の頃によく行っていた場所のすぐ近くで、中井先生のお書きになったものを読んで、今回思い立って入ってみました。)

若いご夫婦が生まれてくる赤ちゃんのために祝福を受けに来ていた。
精神衛生にすごくいいシステムだなあと思った。
祝福を授けてもらうだけなら信徒でなくてもいいのか聞かなかったけれど、見ているこちら側も幸せを祈る気分になった。
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by mariastella | 2018-05-04 00:05 | 雑感

修道経済 その11

(これは前の記事の続きです)

Q 10 聖ベネディクトの戒律は現代のこの世界に何かをもたらすでしょうか?

A  これらの修道院が示すことは、聖ベネディクトの戒律に従うことで、この世で幸せに生きられるということです。修道士も修道女もみな幸せです。もちろん彼らの幸福が彼らの「霊性」と無関係だとは言えません。けれども、彼らの生活の仕方が、彼らの存在を満足なものにしているのです。

いくつかの、まったく世俗の組織が、この修道会の経済とマネージメントのアプローチにインスパイアされてそれを取り入れようと試みています。HEC(フランスで最難関のビジネス・スクール)は、聖ベネディクトの戒律に依拠したマスターコースをユーグ・マンゲ神父が受け持っています。マネージメントのコンサルタントでこの戒律にインスパイアされる人たちが増えています。修道院のオーガナイズの方法は社会全体に一般化できるようなものではありません。けれども、この修道院の生き方は、ある方向性の中で、新しい、思いがけない何かを生む運動につながるきっかけを示唆しているのです。

私たちはまさに『ラウダート・シ』の中にあります。

( 『ラウダート・シ』はフランシスコ教皇がエコロジーを呼びかける回勅で、アッシジのフランチェスコの「太陽の賛歌」と同じく「あなたが称えられますように」と、万物の創造主を称える言葉だ。ユーグ・マンゲ神父の活動はすでに2001年に、経済成長と開発を優先する社会に対して「意味と発展」学院をベネディクト修道院に設けられた。マネージメントと倫理についてのセミナーを続け、ついにビジネス・エリートを輩出するHECにまで迎えられたのだ。ベネディクト修道院は、過重労働でバーンアウトした人たちにも積極的に癒しの場所を提供している。)

ある講演会でのマンゲ神父のビデオ。11:10くらいから姿が見える。

「今日はみなさんにお話しするために来ましたが、(みなさんのお話を)聴くためでもあります。聖ベネディクトの戒律の最初は『耳を傾けよ』ですから」

みたいな感じで話し始めている。


あるベネディクト会女子修道院での「仕事」の様子のビデオもリンクしておく。



本当にみんな楽しそうだ。

そのあまりにも楽しそうな様子に、最初に観た時は一抹の疑問も抱いていたのだけれど、今回の修道経済の記事を読んで納得がいって、ほっとした。このビデオの中に出てくるすてきな笑顔の女性の一人のおばあさまが、彼女の修道院入りを嘆いていたのを知っているのでこの記事を送ってあげることにした。

この修道女のことは実は前にブログで少し触れている


このシリーズはこれでおしまいです。





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by mariastella | 2018-05-01 00:05 | 宗教

修道経済 その10

(これは前の記事の続きです)

Q 9 修道女や修道士自身には、自分たちが代替モデルであるという自覚があるのですか?

A 彼らは、財産や世界や他者との関係性を、ホスピタリティをベースにした福音書的な一つの証しだと見ています。「私たちがどんな風に生活しているか見に来てください」という姿勢です。「代替経済」という概念は、経済学者や社会学者によるアカデミックな構築物で、典型的な修道会の言説の中には溶け込まないのです。けれども、彼らの生活の中には、今の世界の経済的アプローチである利潤第一主義や個人主義、簡便さや速さの追求、霊性の次元の欠如などへの批判を見出すことができます。


(ホスピタリティ、おもてなし、だ。ホスピスも、ホテルも、ホスピタル(病院)も、中世から巡礼者や病者や貧者を支える組織として、キリスト教に通底する弱者に寄り添う義務と共に発展してきた。もっと言えば、それは「愛」という言葉になる。これが一番難しいのはいつの時代も同じで、「リスペクトする」ことと「愛する」ことの間には実は深淵がある。それこそ「天」を経由しなくてはならないかも。)





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by mariastella | 2018-04-30 00:05 | 宗教

修道経済 その9

(これは前の記事の続きです)

Q 8 修道経済の研究におけるもう一つの重要なテーマはエコロジーでしたね。

A  出発点ではむしろそれが私の軸方向だったのです。でも、そのうちに、修道院においては、修道者自身によっても、深く考察されるに値するアスペクトであるとすでに自覚されていることが分かりました。だから、むしろ労働についての彼らの考えを聞く方が重要だと思うようになったのです。でも結果的には、修道院では、はっきりとした形をとらないでもエコロジックな実践がされているという結論に至りました。

例えばピエール・キ・ヴィール修道院では、生産高第一主義の農業を捨てたのですが、それは、環境保全に対する確信からではなく、そのアプローチではやっていけなくなったからでした。またランドル修道院では、チーズを生産していますが、もちろん添加物などない昔からの自然製法ですが、BIO(自然食品、オーガニック食品として認定されたものに許可されるマーク)という認定マークをわざわざ申請して付けていません。そのマークが彼らのマーケティングに何らの影響を与えないだろうからです。

修道生活のもう一つのエコロジー的な側面は、ほとんどの修道院において、聖書の「詩編」が週一度は全編歌われていることです。

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 (詩編19,2

と毎週歌っていて、

Lex orandi,lex credendi (祈りの法が信仰の法=祈りの中で唱える言葉が信仰を生む)と典礼の中でも歌い続けるうちに、どんな修道者も、自分では気づかないままに、神の被造物である自然をリスペクトして信仰を深め、エコロジストとなっているのです。

(今のフランシスコ教皇の福音宣教の大きなテーマの一つがエコロジーであることとも合致する。聖書世界では、自然は人間と同じ被造物であり、共に生きて神の栄光をたたえることになっている。

「多神教世界では自然と共に生きるがキリスト教世界では人間が他の生き物を支配して自然も破壊した」

などというような言説がなされることがあるが、それは、人間が科学技術の発展と共に神を捨てて勝手に暴走した結果だ。利潤追求至上主義の蔓延は、文化や宗教と関わりなく、社会を、地球を、子供たちの未来を蝕んでいる。)





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by mariastella | 2018-04-29 00:00 | 宗教

修道経済 その8

(これは前の記事の続きです)


Q 7 その「他者性」を認める原則に基づいて、ある修道者に仕事を任せる基準はどうなりますか?


A それぞれの修道者に見合った任務を与えるのは修道院長の責任となります。同時に、修道院に必要な仕事のすべてにおいて適切な修道者を見出すという責任もあります。けれども、仕事の内容と報酬が対応しているわけではないので、ある修道士に、その仕事における利潤率によっては正当化されない仕事を与えることが可能です。とはいっても、役に立たない無駄な仕事があるというわけではありません。他者への関係性は仕事との関係性にも反映されます。自給的な仕事と報酬が発生する仕事は同じレベルで尊重されます。一般社会では、家庭の母親が育児をする労働は国の経済指標である総所得(GNI)の中に計算されていません。母親が育児係を雇って給料を払う場合には計算されます。



(これも本質的な問題だ。修道院には、自分たちの生きる分の自給自足の食料生産をしたり、料理、掃除、洗濯、メンテナンスをしたりなどの家事的労働も多いが、チーズ、ビール、クッキー、各種の食品から陶器、レース編み、キルトなど「商品価値」を持って販売されるたくさんの生産労働もある。利益率で労働を評価するわけではないから、その二つは同じレベルにある。それが実現している世界では何が起きているのかというと…)





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by mariastella | 2018-04-28 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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