L'art de croire             竹下節子ブログ

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愛は掟

先日、「今日の心の糧」というカトリック系のラジオ番組をネットでも配信しているサイトで、

タイトル:「人生を変えた言葉」執筆者:末盛 千枝子

というのを読んでなるほどと思った。

そのはじめの部分をコピー。

                 

 >>>私が大学に入学した時のこと、母が私に、「どこの大学にも、カトリックの集
まりがあるはずだから、そこに籍だけでも入れておきなさい。人生に悩んで、親
ではなく、誰かに相談したいと思うことが必ずあるはずだから。」というのです。

 私は、時代的なこともありましたし、洗礼を受けたのは、小学生の時でしたし、
自分がキリスト教徒であることを、しかもカトリックであることをなんとなく不
自由で、うしろめたいことに感じていました。
でも、面と向かって母に反対するほどの勇気もなく、仕方なくという感じでカト
リック栄誦会というクラブに入ったのです。
ところが、そこで出会った学生たちは、私が恐れていたような堅苦しい人たちで
はなく、実に気持ちのいい人たちでした。

 そして読書会や定期的にあった集まりには、いろんな講師もお見えになりました。
そんなある日、沢田和夫神父様がお見えになって、
たった一言、「愛はすすめではなく、掟です。」と静かに、しかし、強い口調で
おっしゃったのです。
そのときのショックは忘れられません。脳天に一撃を食らうというのは、こうい
うことを言うのだと思ったほどでした。<<<

なるほど。

私が大学に入った時も「聖書研究会」というのは見かけたけれど、カトリック系の集まりがあるかどうかなどとは思いもつかなかった。聖書何とかとかキリスト教何とかというのは、悪くするとカルト、よくても超まじめな融通のきかない集団か自己満足な人たちの集まり、くらいの漠然としたイメージだったろうか。

これを読むと確かに、「カトリック系の集まり」というのは一つの知恵かもしれない。

プロテスタントには諸派あって、とても、素人には識別できないし、本当にカルトがひそんでいるかもしれない。いわゆる無教会派というのもあるけれど、それは指導者の技量や人格に激しく左右されるだろう。

その点「カトリック」と名がつけば、ヴァティカンを頂点に、「教え」や「方針」が明確で公に書かれているから、明確だし、第二ヴァティカン公会議以降はいわゆる「勧誘」はないはずだから、「信者」でなくとも受け入れてくれるはずだ。

別に宗教的、あるいは哲学的な悩みの種がない学生には必要ないかもしれないけれど、霊的なことに「免疫」がない若者が、人生でふとした疑問や不全感を抱いたときにカルトに付け込まれるという例があるし、オウム真理教事件を見ても深刻な結果を招きかねない。「仏教系」というのもありかもしれないけれど、これも教派がたくさんあって、仏教系カルトだってあるのだから、識別はつきにくい。そう思うとカトリックってなかなか手頃な停泊地かもしれない。

で、その次の、「愛はすすめでなく、掟です」というのもすごい。

たしかに、「すすめ」くらいで「汝の敵を愛せよ」なんて言われても絶対に無理だ。

フランスのカトリック系の中学校の入学式で、

「学校の全員、クラスの全員を愛さなければならない、とは言いません。けれども、全員をリスペクトしなくてはなりません。これだけは譲れないことです」

という言葉を聞いたことがある。

全員を愛せよなどと言う建前や理想論ではなく、現実的な最低線をちゃんと示すのはなかなかいいなあと感心した記憶がある。

けれども、聖書にはちゃんと

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」

という掟があるわけで、その隣人というのも、「同じ共同体の人」というのではなく、たとえ行きずりでも困っている人に手を差し伸べる関係だと明確に述べられている。

神を愛することと神の似姿として創られたすべての人を愛することはセットになっているのだ。

そしてそれはとても「勧め」られて実行できるようなことではない。

だとすれば、全ての人を愛することが「不可能」なくらいに、神を愛することも不可能だ。

そんなことができるのはまさに「神業」だ。

で、「掟」。

神の掟は人間の掟とは違う。

人間の掟では、個体や共同体の存続が優先するから、侵入者や弱者や少数者は排斥され、攻撃されれば報復する。「敵」は「悪」であり、憎み抹殺すべき存在だ。でも人間社会の「敵」は時と場所によって変わる。昨日の敵は今日の友、「鬼畜米英」が「日米安保条約」に。

今日の「多数の正義」に従っていたら明日は裁かれて殺される身になるかもしれない。

そんな「人間の掟」の世界で、不可能に近いような「神の掟」を守るというのは、ある意味で究極の「自由意志の行使」なのかもしれない。


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by mariastella | 2018-09-19 00:05 | 雑感

ブルゴーニュ  その19 サン・ペール

ヴェズレーから数キロ離れた小さな村サン・ペールは、最初にヴェズレーにやって来たベネディクト会の修道院の分院もあったところだ。もう何も残っていないけれど、ここにはゴシック大聖堂のミニチュア版のようなノートルダム教会がある。13世紀から15世紀にかけてのブルゴーニュの建築技術の粋を極めた傑作だと言われている。


村の入り口に巨大樹の木陰にテラス席が広がるレストラン。

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村の中心に向かうと、教会の尖塔の十字架が見えてくる。


全貌が見えてくる。

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古くて黒ずんでいるけれど風雪に耐えた感じのファサード。

ここもヴィオレ=ル=デュックが修復した。

小ぶりなので、「子持ち風ガルグイユ(ガーゴイル)」もすぐそばに見える。

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中もゴシックのカテドラル仕様。
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ラッキーだったのは、その日のコンサートのリハーサルを聴けたことだ。

カウンターテナーを中心としたアンサンブル・セラドン。


その日のタイトルは「DEO GRATIAS ANGLIA」。

コンサートの曲目は、13世紀から15世紀にかけてのブルゴーニュの作者不詳の典礼音楽とイギリスのキャロル音楽の組み合わせだ。

時は英仏百年戦争、ブルゴーニュ公国はイギリス側と連携していた。

で、イギリスの民衆舞曲が教会音楽に転化したものが混ざっている。

もともと教会の祝祭行列で使われたようで、鈴を振りながら歩いて歌う。その動き方と音の響き方を試行錯誤しているところ。

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変化に富み、非常に魅力的で、ナイーヴさとバイタリティが同居している。

アンサンブルのメンバーと話ができたのは、コンサートを聴きに来たよりありがたかった。

ノートルダムを出てシェール川を渡る。
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木靴(サボ)職人の店があるのも、まるで中世のテーマパーク風。

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川を渡ったところから教会を見る。

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川のせせらぎに癒される。

音楽が、どこにでも、ある。



(お知らせ) 新刊のコメントをアップしました。


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by mariastella | 2018-09-12 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その16 ヴェズレー 7

ジュール・ロワの家から坂を下りていくと、右手にジョルジュ・バタイユの家。

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彼が住んだのは1942年から49年という「戦後」の時代。

ヴェズレーを去ってからも何度も訪れ、1962年に死んでこの地に埋葬された。


彼がヴェズレーについて書いたものには様々な「音」が喚起される。風の音、鐘の音、虫の鳴き声、鳥の鳴き声。バタイユと言えば「無神論者」と自称していたのだから、一見ヴェズレーと異質のようだが、彼の全作品と生涯は神秘主義とエロティシズム、死と生と聖なるもののはざまで揺れ動いている。

もともとランスで暮らしていた時に、第一次大戦勃発時、17歳でランスのカテドラルでの司教ミサに出て「回心」し、一度は司祭になろうとして神学校にも在籍していたくらいだから、「神が存在しない」というタイプの無神論者とは程遠い。

「この世のカトリック教会の神」より大きな霊的存在を求めていたらしい。

ジュール・ロワもそうだけれど、20世紀前半を生きたフランス人はみな、2度の大戦のトラウマを背負っている。それが、イエスの復活に唯一立ち会った「罪の女」マグダラのマリアに惹かれる要因になったのかもしれない。

フランスが愛国熱に駆られた第一次大戦にはっきりと異議をとらえたロマン・ロランの晩年の家もヴェズレーにある。

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こう見てくると、ヴェズレーは「巡礼地」ではなくて「住みたい場所」なのかもしれない。

なんとなく、分かる。(続く)


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by mariastella | 2018-09-09 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その15 ヴェズレー 6

バジリカ聖堂を出てすぐ右に、ジュール・ロワの家がある。

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ここから見える聖堂は最高のアングルで、ヴェズレーへの「狂おしい愛」を切々と語り続けた彼の冥利に尽きる。

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この作家は、1907年フランス領アルジェリアに生まれ、空軍パイロットとして第二次大戦で戦い、最初はヴィシィ政権を支持したが後でドゴールの自由フランスの空軍に加わる。第二次大戦後はすぐにインドシナ戦争に従軍したが、このあたりでフランス軍も含めた戦争の野蛮さや不条理に耐えられなくなって辞職。ジャーナリストとしてアルジェリア戦争にも従軍し、その残虐さを告発し、数々の戦争を総括するアクティヴな平和主義者になった。

1978年からヴェズレーのバジリカ聖堂の斜め向かいの家に住み、多くの政治家、文学者らが彼のもとを訪れた。2000年に93歳で死に、ヴェズレーに埋葬された。

彼の書斎がそのままの形で残されている。ここも無料。

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これはロストロポーヴィチがヴェズレーでのバッハ無伴奏チェロ組曲のコンサートと録音をした際の記録を本にしたもの。『ロストロポーヴィチ、ゲンスブール、そして神』

非常におもしろい。


ヴェズレーでロワと暮らしていたタチアナ夫人はロシア人だったのでロストロポーヴィチのために通訳もした。

ロワは、信者でないとバッハは弾けない、と断言している。

また、バッハに一番感謝しなければならないのは神だとも。

復活祭の聖週間、3月のまだ底冷えのするバジリカ聖堂での練習風景やコンサートでのアンコール演奏が五番のサラバンドというさらに凍りつくチョイスなどが詳細に書かれている。

私はロストロポーヴィチのこの演奏を聴いたことがないので何とも言えないけれど、ロワの文を読む限りは、「舞曲」とはかけ離れた感じだったようだ。


最も興味深いと思ったのは、ロストロポーヴィチが、自分は絶対にロシア正教の教会の中では弾かない、と言ったというエピソードだ。なぜなら、装飾品が多すぎるからだそうだ。

確かに。


ドイツ、イタリア、ハンガリーなどのカテドラルにもインスパイアされなかった。

ヴェズレーではすぐにここがバッハを弾く場所だと分かったという。


ヴェズレーのバジリカ聖堂は、簡素そのものだ。音響はすばらしい。


今回ヴェズレーに来た目的の一つが夜のコンサートだ。


「奏楽の動物たち」が修復されず居場所を与えられなかった聖堂で、17世紀のミサ曲を聴く。

(続く)


(お知らせ)新刊が出ました。

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サイトでもまたお知らせします。








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by mariastella | 2018-09-08 06:01 | フランス

ブルゴーニュ  その14 ヴェズレー 5

聖堂の奥の方に、昔は壮大な修道院棟が続いていた。

今は残ったその一部が博物館になっていて、19世紀のヴィオレ=ル=デュックが柱頭彫刻などを修復した記録が残っている。

その一部は、修復できなかったオリジナルで、新しいものと取り換えられた。

個々ではオリジナルを見ることができる。

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たくさんの紋章がかかっていた。これは、ヴェズレーが単独で世界遺産になってから、再びサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道の一つ(フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼地)として1998の年に世界遺産に指定されてから20周年ということで、サンティアゴに行くまでに通過する場所の紋章を展示したものだ。


ヴィオレ=ル=デュックの仕事は驚くほど緻密だ。

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デッサン。


こういう天使が

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こうなる。

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描かれた聖書と言われる柱頭群は傑作ぞろいだけれど、聖書だけではなく聖人伝もある。

これは聖アントニウスを誘惑する悪魔。

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これも聖人と悪魔。

ブルゴーニュ風の葡萄畑の場面もある。

3月はまだブドウの木が成長していない。

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4月になると葡萄の葉をヤギに食べさせることができる。

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この場所でしか見られないのは「奏楽の天使」ならぬ「奏楽の動物たち」。

これはヴィエルを弾いている。弓が欠損している。

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完全形はこれ。
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これは、楽譜を持っているのではなく、パンフルートを吹いているところ。

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ヴィエルもパンフルートも、鳥の求愛の連想で堕落した「世俗音楽」とされ、この動物の横には、片側に、淑女が配され、反対側には、音楽を聴いて踊り、胸をはだけた遊女風に「堕落した」姿が配されていたという。

なぜかこの奏楽の動物の柱頭は復刻されないままになった。

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本来ならこの部分だ。

ネットで「奏楽の動物たち彫刻」をフランス語で検索したら、ところどころに残ってはいるようだ。

でも最初にヒットするのがグリム童話の「ブレーメンの音楽隊」の彫刻だったのは笑える。

修道院跡から裏手に回るとブルゴーニュ風景のパノラマが見える。

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by mariastella | 2018-09-07 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その13 ヴェズレー 4

「聖遺物」が「類推魔術」のような効果をもたらすためには「量」や「形」(聖女リタはミイラのまま飾られている)に左右されるのかもしれない。 その点、リアルな姿を表現した「彫像」は人の心をインスパイアしてくれやすい。

大聖堂にあるマリー・マドレーヌのチャペルにはこういう像がある。

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ちゃんとここにも柱のところに「聖遺物」がはめ込んである。


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ロウソクも供えられている。

この女性像を見上げると、地下の豪華な聖遺物入れを前にした時よりも、聖処女マリアと原罪をもたらしたイヴとをつなぐ架け橋としてマグダラのマリアに託されてきた人々の思いが伝わってくる。(続く)

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by mariastella | 2018-09-06 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その12 ヴェズレー 3

ヴェズレーのバジリカ聖堂は、建築的に見ると、19世紀にヴィオレ=ル=デュックによって修復された本堂の柱列の柱頭彫刻群が何といってもすばらしい。

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最初のロマネスク様式と後ろのゴシック様式の組み合わせも天井部分ががらりと変わるのが圧巻だ。

ロマネスクからゴシックを見るとこう。

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ゴシックからロマネスクを見るとこう。
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グループでやってくる巡礼仕様にできているので、本堂に入るまでに広いナルテックスがあり、そこがいわば俗世間と聖なる空間の中間地帯ということになっている。

ナルテックスから本堂に入る時の中央上のタンパン彫刻が、外部にある最後の審判図と違って、あらゆる人に伝えられる福音ということでフォークロリックに見ても非常におもしろい。

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ひと昔前なら、このブログでそういうことすべてをいろいろ解説するところだけれど、多くの写真集や研究書が存在するし、何よりも今は、ネットでいろいろ検索できるから、スルーする。

で、すぐに、地下聖堂(クリプト)へ。

これがこの地をメジャーにしたかの有名なマリー・マドレーヌ(マグダラのマリア)の聖遺物なのかと言われれば、そうではない。この聖堂も、聖遺物も、何度も、壊され、奪略され、それでも復活してきた。

イタリアのアッシジのフランチェスコのバジリカ聖堂やら、聖女リタの聖遺物があるカスシアの聖堂などとは違う。ユグノー戦争とフランス革命の傷は深い。

それでも、巡礼者のほとんどはそもそも聖遺物の「真偽」など気にしない。

それぞれの個人史の中で、それぞれの形で、奇跡があり、ご利益があり、信仰心が高まり、イエス・キリストとのつながりを感じ、生きるエネルギーがもらえ、宇宙の神秘に浸ることができればいいからだ。

地下墳墓といっても、掘れるような土はなく、床はそのまま岩盤だ。

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柵の向こうに聖遺物が。

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その前には願い事を書くための紙と鉛筆が置いてあり、カゴに入れておくようになっている。

典礼的にはその反対側にあるこの祭壇がもちろん一番「偉い」。

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でも、マグダラのマリアの聖遺物からは、トスカーナの「不可能案件の聖女リタ」の遺体が放っているようなオーラは感じられない。


ヴェズレーのこの聖遺物は、必死で祈る巡礼者の姿なしには、「賞味期限」が切れているのでは、などとさえ感じられる。


「モノ」ではなく、ここからサンチアゴ・デ・コンポステーラに向かうという「コト」がヴェズレーに息を吹き込み続けているのだろうか。 (続く)


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by mariastella | 2018-09-05 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その11 ヴェズレー 2

ヴェズレーのバジリカ聖堂の裏手は大パノラマが広がる崖の上。

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この「聖霊の満ちた丘」で、1146年3月31日に、シトー会の創始者クレルヴォ―のベルナルドゥスが、第2回十字軍を呼びかけ、鼓舞する説教を行った。フランス王ルイ7世もいた。

ヴェズレーはその1世紀前からマグダラのマリアの聖遺物を祀ったことで絶頂期にあった。


そのことは歴史的には興味深いけれど、21世紀に入る前にヨハネ=パウロ二世が十字軍の誤りについて謝罪したように、「十字軍の盛り上がり場所」というと今では政治的公正に反して後ろめたいのでは…と思われるかもしれない。


ところが、さすがに「聖霊の宿る丘」、実は、ヴェズレーは第二次大戦後の平和のシンボルにもなった。

それは十字軍ならぬ「十字架の道」である。


十字架の道と言えば、イエスの受難と復活までを14のシーンに表現して教会の内側にぐるりと置かれている絵などを順番に回って祈ってイエスの受難の追体験をする「行事」だ。復活祭の前の聖週間にどこでも行われている。(野外で実物大に作られているものもある。たとえばポンシャトー)(この頃はブログに写真を貼り付けていなかった。『キリスト教の謎』p231に載せた。)

どこの教会の「十字架の道」もそれぞれ個性もあり歴史もあって興味深いのだけれど、なんと、ヴェズレーでは、大きな木の十字架がずらりと並んでいるのだ。

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それは、戦後間もない1946年に、ベルナルドゥスの十字軍呼びかけの800年記念が行われた時のことだ。

二度の大戦にすっかり疲弊したヨーロッパの国々はもう二度と互いに殺し合うような愚行をしないように誓い、憎しみに打ち勝つことを祈った。

で、十字軍ではなく、14の「平和の十字架」を奉献することにしたのだ。

ヴェズレーは平和の出発点とならなくてはならない。

フランスの各地だけではなく、イギリスからも、ベルギーからも、スイスからも、リュクサンブールからも、イタリアからも次々と十字架を運ぶ徒歩の巡礼者たちがヴェズレーに集まった。何のしるしもないシンプルなものもある。

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これはアルザスからだと刻まれている。
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これはベルギー。
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これはリュクサンブルク。

こうして14の十字架がそろうことになった。

すると、近くの捕虜収容所にいたドイツ軍の捕虜たちが、自分たちも十字架を奉納したいと申し出た。彼らの十字架は、戦火で朽ちた民家の梁を使ってつくられた。

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十字架の道はイエスの埋葬で終わる。

15本目の十字架は、和解と平和のシンボルで、まさに「復活」であり、新しいヨーロッパの誕生への希求となったのだ。

15本の十字架が進む行列と共に、3万人の巡礼者がヴェズレーに集まった。


ヴェズレーはこれを「平和の十字軍」と呼んだ。


800年前の「侵略十字軍」は、ヨーロッパを焦土化した戦争の後で、「平和の十字軍」に上書きされたのだ。

ヴェズレーは、いわゆるユネスコの世界遺産指定でもあるけれど、単なる歴史遺産ではない。

壮麗な過去の栄光や過ちの先に、よりよい未来に向かって進もうという祈りを促す何かがあったのだ。(続く)


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by mariastella | 2018-09-04 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その10 ヴェズレー

さて、いよいよ、目的地のヴェズレー、マリー=マドレーヌ・バジリカ聖堂へ。

どうしてまたヴェズレーへ行ってみたくなったのかというと、つい最近マグダラのマリアについての記事を雑誌に書いたからだ。

説明代わりにそこから少し引用しよう。


>>> フランスの「マドレーヌ」という名前はマリー(聖母マリア)やアンヌ(聖母の母アンナ)と並んで愛されたシンボリックなものだ。ネオクラシックの柱列で有名なパリのマドレーヌ寺院も、カトリック教会を排除しようとしたフランス革命をはさみながら立派に完成した。マドレーヌというファーストネーム(一般に洗礼名と同じ)を持つ女性も多い。マドレーヌさんのレシピである焼き菓子のマドレーヌは、プルーストの『失われた時を求めて』で少年時代の記憶を喚起する香りと共に日本でもよく知られている。そのマドレーヌという名前はマグダラのマリアのフランス読みであるマリー=マドレーヌに由来する。

 イエスの受難と復活に立ち会った後、教会の公的な歴史から姿を消したかに見えるマグダラのマリアにまつわる数々の逸話と崇敬は、マグダラのマリアの終焉の地とされるフランスで誕生した。九世紀ごろから出回った「聖人伝」によると、マグダラのマリアはマルトやラザロらと共に、南フランスの海岸に漂着した。マルトはタラスコンに行って怪物(タラスク)を退治したという伝説を残し、マリアは、贖罪のために裸でサント・ボームの洞窟で暮らし、三二年間、水も食物も口にせず、日に七度、天使によって天に上げられ音楽を聴いたとされる。歴史上の重要な人物が姿を消した後、実は遠くの国に漂着して長い余生を送ったという「貴種流離譚」は世界各地にあるので、その一つということだろう。
 ヨーロッパの歴史の中で力をつけていった頃のフランスは王権神授説も唱えたし、十字軍も組織して「お宝」をたくさん持ち帰った。しかし、強引にフランスに持ち帰ったお宝よりも、生身のマグダラのマリアが自分から南仏プロヴァンスに来て生を終えたという方がインパクトははるかに大きい。この伝説があるからこそ、ダヴィンチ・コードで有名になったような、マグダラのマリアが実はイエスの子供を宿していて共にフランスに来てフランス王家の先祖となったなどというたぐいの「とんでも」裏歴史も形成されるのだ。

一二六五年にはブルゴーニュ公国がヴェズレーの女子ベネディクト会修道院にマリアの「聖遺骨」を招致し、フランス王や教皇庁大使により公認された。マグダラのマリアの崇敬は最高潮となり、クリュニー修道会の支援もあってヴェズレーからスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラまでの巡礼ルートは中世ヨーロッパの「巡礼経済」の根幹となった。ところが一二七九年に、プロヴァンスのサン・マクシマンの古墓所からローマ時代の骨が見つかり、プロヴァンス伯はそれがマグダラのマリアのものであると主張した(バジリカ聖堂地下に祀られている頭蓋骨や髪の毛などは何度も調査の対象になり、一四八センチくらいの地中海タイプの五〇歳位の女性のらしいと言われている)。

以来、ブルゴーニュ公とフランシスコ会(ベネディクト会の後を継いだ)に管理されたヴェズレーと、ナポリ王でもあるプロヴァンス伯とドミニコ会によって管理されるサント・ボーム近くのバジリカ聖堂は、政治と修道会を巻き込むライバル関係となった。

月日は流れたが、現在の二つのバジリカ聖堂には今も多くの巡礼者が訪れる。
 

二〇一六年の六月にローマの教皇庁はマグダラのマリアを使徒と同格にして毎年の七月二二日の祝日を全教会に義務付けた。翌年の四旬節の黙想でフランシスコ教皇はマグダラのマリアが「新しい、最も大きな希望の使徒となった」と表現した。復活のイエスに最初に出会って、弟子たちに復活と昇天を伝えるようにと告げられた(ヨハネによる福音書20, 17)のだから、「福音」の第一宣教者としてふさわしい。<<<

以上が引用部分。


プロヴァンスの「聖遺物」の方が完全な形でインパクトがあって、「本物」認定されてから、ヴェズレーは勢いを失った。サンチアゴ・デ・コンポステラに向かう巡礼の出発点の一つとしては今でも現役だけれど、どうもここにある「聖遺物」の骨は、最初から量の少ない骨片だったようだ。


量があればご利益が増す、それを支えるストーリーが充実していれば奇跡が頻発するというのはどこでも同じだ。『キリスト教の謎』(中央公論新社)で紹介したケルン大聖堂の一万一千人の処女殉教者の遺骨だとか、東方の三博士(三賢王)の遺骨と同じだ。(2016年に東京カテドラルにも分けられたけれど、量とストーリーが欠如しているので奇跡を期待する人はほとんどいないかもしれない)

けれども、ヴェズレーの魅力は、なんといってもその立地にある。

強い傾斜の尾根の上をバジリカ聖堂に向かってさらに上っていく道には僅か200軒ほどの集落。その形が「サソリ」と形容されてきた。

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石上純也さんが、ヨーロッパの教会は、街並みが環境で教会だけが独立した建物のようだ、と言っていたのを思い出す。
それに比べると東京の街は、個々の建物が主体になっていて、それが環境にもなっていて両立していて境目がない、というような話だった。悪く言えば東京は統一が取れていなくてばらばらの気がするが、石上さんはそれをおもしろいと感じている。
ヴェズレーでは、バジリカ聖堂だけが「建物」で、街並みはその環境で、またその全体が、サソリのような有機物として、ブルゴーニュの緑の環境に包まれている。

この地を熱愛して居を定めた文学者や音楽家は少なくない。

ロマン・ロランも住んだし、ジュール・ロワは『ヴェズレー、狂おしい愛』という本を残したし、バジリカ聖堂の裏の墓地に埋葬されたジョルジュ・バタイユは《Le Coupable》の中で詩的な描写を残している。

アラゴンは「ヴェズレー、ヴェズレー、ヴェズレー」と三度繰り返し、これがフランス語で最も美しいアレクサンドランの一つだと言った。

ロストロポーヴィチはこの聖堂でバッハの無伴奏チェロ組曲の全曲を録音した。

フレンチ・ポップスの巨人セルジュ・ゲンスブールも晩年をここで過ごした。


聖堂に向かってはるか上っていくという景勝の立地としては、フランスなら、モン・サン・ミッシェルとか、ヴェズレーと同じくサン・ジャック・ド・コンポステラの巡礼路の出発点であるロカマドゥールがある。


けれども、どちらも、一大観光地でもあり、観光客の方が巡礼者よりも多いし、観光産業、観光経済が支配している。だから、内省する人が、ここに住みたい、とインスパイアされるような空気はない。

ヴェズレーにはそれがある。 


それしかない、くらいだ。


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by mariastella | 2018-09-03 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その8 オセール(続き)

オセールのサン・ジェルマン修道院の聖堂。

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ここはその地下聖堂が何といっても圧巻だ。

地形そのものが崖のようになっているから建物の構造も複雑で、9世紀から15世紀くらいに少しずつ広がった地下墳墓がまさに地下聖堂の観を呈している。

普通は代々の司教はカテドラル(司教座聖堂)に安置されるのに、オセールの司教たちはカテドラルでなくこの修道院の聖堂地下に安置された。そのせいでどんどん広げられた。

しかも、20世紀になってから発見されたフレスコ画が残っていて、「インディアナ・ジョーンズみたいだったんですよ」とガイドの女性がいうくらい、劇的だったそうだ。司教から司教への教えの継承のシンボル化が非常に興味深い。もちろん写真撮影禁止なので「地下教会」の雰囲気はこの絵葉書の写真で。

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上の聖堂には現代彫刻展も。
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これはサン・ドニ像(15世紀)。  彩色がよく残っている。

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切り落された自分の首を持って、モンマルトル(殉教者の丘)まですたすた歩いて行ったというパリの殉教聖人。この像は味がある。

地下墳墓の石棺が上から見える場所もある。

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このガルグイユも悪くない。

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修道院の住居部分は美術館になっていて、今は「女性とアート」がテーマだった。無料。

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              「彼女たちも--女性で芸術家 1850-1930」

女性が絵を描くアトリエ。

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伝統的なジェンダー・バイアスの問題なども解説され、なかなか充実。


女性アーティストの作品群も展示されている。

19世紀後半のリュシ―・シニョレ=ルディユ―の糸巻き少女(ディジョン美術館提供)の表情は胸に迫るものがある。

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同時代のヴィルジニ―・ドゥモン=ブルトンのこの「イスマエル」の大作も迫力があった。

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イスマエル(イシュマエル)というのは、アブラハムの最初の息子で、アラブ人の祖先とされる。
後継ぎができないまま年を重ねた妻のサラが、自分の女奴隷であるエジプト人ハガルをすでに86歳だった夫の側女にして生まれるたのがイシュマエルだ。けれど、アブラハム99歳の時にサラは奇跡的にイサクを身ごもり、まあ、いろいろあって、アガルとイシュマエルは荒れ野に追放されてしまう。子供の泣き声を聞きつけたに神が井戸を与えて助けた。
このストーリーによってユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「アブラハムの宗教」として「兄弟関係」にあるとされる。最初から理不尽な展開だ。

この母子をテーマとする絵はたくさん描かれてきたけれど、はじめて目にする女性画家のこの絵は迫力がある。

前にマルモッタン美術館の記事で書いたモリゾーの絵ももちろんあった。

美術によって自由を求めフェミニズムの嚆矢となった女性たちのアートへのアプローチは興味深い。


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by mariastella | 2018-09-01 00:05 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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