L'art de croire             竹下節子ブログ

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夙川教会(訂正あり)

4/21

日本についてからの最初の頃と違って初夏の陽気。

墓園に。

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その後で夙川教会に寄る。
前に書いたブログで話題にした中井久夫さんが2年前に洗礼を受けられたどこかで紹介されていた記事を読んでから訪れたいと思っていた教会だ。85年前にパリ外国宣教会のボスケ神父が建てた。

(追記: 洗礼を受けられたのは神戸の垂水教会でした。誤りを指摘くださったT 先生、ありがとうございます。この時なんとなく勘違いして、教会でお会いした方にも「ここで中井先生が...」などと話しかけたのですが、反応もなく否定もされなかったので勘違いが続きました。垂水教会だったということはよく記憶しています。2003年に私のトリオがはじめて日本で公演した時の第一回の公演が垂水教会だったからです。舞子の愛徳姉妹会に泊めていただいたご縁からです。本当にお世話になりました。夙川教会は子供の頃によく行っていた場所のすぐ近くで、中井先生のお書きになったものを読んで、今回思い立って入ってみました。)

若いご夫婦が生まれてくる赤ちゃんのために祝福を受けに来ていた。
精神衛生にすごくいいシステムだなあと思った。
祝福を授けてもらうだけなら信徒でなくてもいいのか聞かなかったけれど、見ているこちら側も幸せを祈る気分になった。
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by mariastella | 2018-05-04 00:05 | 雑感

修道経済 その11

(これは前の記事の続きです)

Q 10 聖ベネディクトの戒律は現代のこの世界に何かをもたらすでしょうか?

A  これらの修道院が示すことは、聖ベネディクトの戒律に従うことで、この世で幸せに生きられるということです。修道士も修道女もみな幸せです。もちろん彼らの幸福が彼らの「霊性」と無関係だとは言えません。けれども、彼らの生活の仕方が、彼らの存在を満足なものにしているのです。

いくつかの、まったく世俗の組織が、この修道会の経済とマネージメントのアプローチにインスパイアされてそれを取り入れようと試みています。HEC(フランスで最難関のビジネス・スクール)は、聖ベネディクトの戒律に依拠したマスターコースをユーグ・マンゲ神父が受け持っています。マネージメントのコンサルタントでこの戒律にインスパイアされる人たちが増えています。修道院のオーガナイズの方法は社会全体に一般化できるようなものではありません。けれども、この修道院の生き方は、ある方向性の中で、新しい、思いがけない何かを生む運動につながるきっかけを示唆しているのです。

私たちはまさに『ラウダート・シ』の中にあります。

( 『ラウダート・シ』はフランシスコ教皇がエコロジーを呼びかける回勅で、アッシジのフランチェスコの「太陽の賛歌」と同じく「あなたが称えられますように」と、万物の創造主を称える言葉だ。ユーグ・マンゲ神父の活動はすでに2001年に、経済成長と開発を優先する社会に対して「意味と発展」学院をベネディクト修道院に設けられた。マネージメントと倫理についてのセミナーを続け、ついにビジネス・エリートを輩出するHECにまで迎えられたのだ。ベネディクト修道院は、過重労働でバーンアウトした人たちにも積極的に癒しの場所を提供している。)

ある講演会でのマンゲ神父のビデオ。11:10くらいから姿が見える。

「今日はみなさんにお話しするために来ましたが、(みなさんのお話を)聴くためでもあります。聖ベネディクトの戒律の最初は『耳を傾けよ』ですから」

みたいな感じで話し始めている。


あるベネディクト会女子修道院での「仕事」の様子のビデオもリンクしておく。



本当にみんな楽しそうだ。

そのあまりにも楽しそうな様子に、最初に観た時は一抹の疑問も抱いていたのだけれど、今回の修道経済の記事を読んで納得がいって、ほっとした。このビデオの中に出てくるすてきな笑顔の女性の一人のおばあさまが、彼女の修道院入りを嘆いていたのを知っているのでこの記事を送ってあげることにした。

この修道女のことは実は前にブログで少し触れている


このシリーズはこれでおしまいです。





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by mariastella | 2018-05-01 00:05 | 宗教

修道経済 その10

(これは前の記事の続きです)

Q 9 修道女や修道士自身には、自分たちが代替モデルであるという自覚があるのですか?

A 彼らは、財産や世界や他者との関係性を、ホスピタリティをベースにした福音書的な一つの証しだと見ています。「私たちがどんな風に生活しているか見に来てください」という姿勢です。「代替経済」という概念は、経済学者や社会学者によるアカデミックな構築物で、典型的な修道会の言説の中には溶け込まないのです。けれども、彼らの生活の中には、今の世界の経済的アプローチである利潤第一主義や個人主義、簡便さや速さの追求、霊性の次元の欠如などへの批判を見出すことができます。


(ホスピタリティ、おもてなし、だ。ホスピスも、ホテルも、ホスピタル(病院)も、中世から巡礼者や病者や貧者を支える組織として、キリスト教に通底する弱者に寄り添う義務と共に発展してきた。もっと言えば、それは「愛」という言葉になる。これが一番難しいのはいつの時代も同じで、「リスペクトする」ことと「愛する」ことの間には実は深淵がある。それこそ「天」を経由しなくてはならないかも。)





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by mariastella | 2018-04-30 00:05 | 宗教

修道経済 その9

(これは前の記事の続きです)

Q 8 修道経済の研究におけるもう一つの重要なテーマはエコロジーでしたね。

A  出発点ではむしろそれが私の軸方向だったのです。でも、そのうちに、修道院においては、修道者自身によっても、深く考察されるに値するアスペクトであるとすでに自覚されていることが分かりました。だから、むしろ労働についての彼らの考えを聞く方が重要だと思うようになったのです。でも結果的には、修道院では、はっきりとした形をとらないでもエコロジックな実践がされているという結論に至りました。

例えばピエール・キ・ヴィール修道院では、生産高第一主義の農業を捨てたのですが、それは、環境保全に対する確信からではなく、そのアプローチではやっていけなくなったからでした。またランドル修道院では、チーズを生産していますが、もちろん添加物などない昔からの自然製法ですが、BIO(自然食品、オーガニック食品として認定されたものに許可されるマーク)という認定マークをわざわざ申請して付けていません。そのマークが彼らのマーケティングに何らの影響を与えないだろうからです。

修道生活のもう一つのエコロジー的な側面は、ほとんどの修道院において、聖書の「詩編」が週一度は全編歌われていることです。

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 (詩編19,2

と毎週歌っていて、

Lex orandi,lex credendi (祈りの法が信仰の法=祈りの中で唱える言葉が信仰を生む)と典礼の中でも歌い続けるうちに、どんな修道者も、自分では気づかないままに、神の被造物である自然をリスペクトして信仰を深め、エコロジストとなっているのです。

(今のフランシスコ教皇の福音宣教の大きなテーマの一つがエコロジーであることとも合致する。聖書世界では、自然は人間と同じ被造物であり、共に生きて神の栄光をたたえることになっている。

「多神教世界では自然と共に生きるがキリスト教世界では人間が他の生き物を支配して自然も破壊した」

などというような言説がなされることがあるが、それは、人間が科学技術の発展と共に神を捨てて勝手に暴走した結果だ。利潤追求至上主義の蔓延は、文化や宗教と関わりなく、社会を、地球を、子供たちの未来を蝕んでいる。)





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by mariastella | 2018-04-29 00:00 | 宗教

修道経済 その8

(これは前の記事の続きです)


Q 7 その「他者性」を認める原則に基づいて、ある修道者に仕事を任せる基準はどうなりますか?


A それぞれの修道者に見合った任務を与えるのは修道院長の責任となります。同時に、修道院に必要な仕事のすべてにおいて適切な修道者を見出すという責任もあります。けれども、仕事の内容と報酬が対応しているわけではないので、ある修道士に、その仕事における利潤率によっては正当化されない仕事を与えることが可能です。とはいっても、役に立たない無駄な仕事があるというわけではありません。他者への関係性は仕事との関係性にも反映されます。自給的な仕事と報酬が発生する仕事は同じレベルで尊重されます。一般社会では、家庭の母親が育児をする労働は国の経済指標である総所得(GNI)の中に計算されていません。母親が育児係を雇って給料を払う場合には計算されます。



(これも本質的な問題だ。修道院には、自分たちの生きる分の自給自足の食料生産をしたり、料理、掃除、洗濯、メンテナンスをしたりなどの家事的労働も多いが、チーズ、ビール、クッキー、各種の食品から陶器、レース編み、キルトなど「商品価値」を持って販売されるたくさんの生産労働もある。利益率で労働を評価するわけではないから、その二つは同じレベルにある。それが実現している世界では何が起きているのかというと…)





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by mariastella | 2018-04-28 00:05 | 宗教

修道経済 その7

(これは前の記事の続きです)

Q 6 「他者との関係」というのも修道経済の特色ですね。

A ええ、そのベースは「他者性」を認めることです。各人はそれぞれの価値を持つ異なる人格であり、あるがままに尊重されるべきです。基礎となるこの認識が受け入れられた時点から、「パーソナライゼーション(個性化)」の追求を避けることができます。例えば、世俗社会に置けるように、服装によって自分についての情報を発信するというようなことが必要なくなります。

私の調査においては、特に、修道者で芸術家である人に注目しました。彼らは多くの場合かなりユニークな人たちです。みなと同じ修道服を着ているからと言って、キャラクターのオリジナリティが薄まるということはないのです。

(全ての人がそれぞれの特性をもつオンリー・ワンであることをみなが認識しさえすれば、逆に、「他人と違う個性」を演出する必要がないというのは興味深い。修道院と言えばみなが同じ服を着て同じ時間に同じ典礼に従うというイメージがあるから、没個性であり、自分らしさを発揮できない世界ではないかと思われがちだけれど、その逆で、表面的にみんな同じで平等であるからこそ、自分自身であり得る。他者からも内面的な違いがよく見えるのでリスペクトしてもらいやすい。

確かにそうかもしれない。世俗社会では無理やりに社会規範に合ったヒエラルキーを反映する服装規定みたいなものがあるからこそ、そこから逸脱しないように苦労するとか、逸脱する人を非難するとか、反発して奇矯な服装で挑発するとか、特殊であることを個性だと勘違いするとか、いろいろな葛藤や無駄な時間や無駄な出費がある。ファッション市場には「自分らしさの追求」という言葉による誘惑があふれている。

もちろん修道服も一般社会に出ればコードなのだけれど、修道院のミクロな生活圏では、非常に合理的なシステムで、外的なセルフ・プロデュースなど必要なくなる世界だ。これを可能にするのが基盤にあるリスペクトなのだろう。)





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by mariastella | 2018-04-27 00:05 | 宗教

修道経済 その6

(これは前の記事の続きです)


Q 5 あなたの研究は労働、働き方についても向かっています。修道経済は働き方に何をもたらすのでしょう?

A 最も重要な要素は、労働と報酬とを分離することにあります。これはもう長い間論議されているベーシックインカムという考え方の一つの形だといえるでしょう。修道者たちの受け取るものは、それぞれの必要に応じた者であり、例えば学歴などとは関係がありません。このやり方は、あるポストを獲得するための競争原理を撤廃します。修道院長であることと倉庫番であることは受ける収入になんらの違いももたらしません。今の社会における所得格差について大きな問いを投げかけます。企業のトップと平社員の所得格差が20:1ならまだ容認できますが、250:1などは異常です。修道経済が教えてくれるのは、有能な経営者を引き抜くために莫大な報酬を提示する必要などないということです。では、必要経済においては報酬を決定する基準を定めるのは誰でしょう? 修道会においては、そのような基準の上位に「聖ベネディクトの戒律」があるわけです。世俗社会において、異常な格差を正すためには、市場原理の上位となる基準コンセプトが必要です。



(金権社会、利潤追求が第一の社会では、一部の強者が弱者を搾取したり切り捨てたりすることに歯止めが利かない。政治の部分では、立法府や行政府の暴走に歯止めをかける「憲法」があるわけだが、経済の分野では多くが「野放し」だし、「規制緩和の法律」なども、それがどのように「基本的人権」を侵害するかというような直接のチェックは困難だ。もっと分かりやすい分野でも、違憲が実体化すると憲法の方を変えようとするくらいだ。憲法の条文を変えるとしても、その上に立つ理念や理想にさらに近づけるためのものでなくては意味がないはずだが、なかなかそうはいかない。「聖ベネディクトの戒律」の上位にキリスト教の根源にある平等主義や平和主義や兄弟愛、弱者優先の理念があるから、今でも機能しているのかもしれない)




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by mariastella | 2018-04-26 00:05 | 宗教

修道経済 その5

(これは前の記事の続きです)

Q 4 もう一つのアスペクトである必要経済というのは、どんなことでしょう?

A それは「他者性」に基づいています。「あなた」は「私」ではない。ある領域に関しては、あなたは私よりも多くを必要としているし、別の領域においては私はあなたよりも多くを必要としている。それぞれの修道者が労働に必要とするために支給されるツールは、とてもシンプルなものから洗練されたものまで幅があります。

陶芸の才能がある修道女のためには、最新式の陶器窯が導入されました。それで修道院の名で販売する陶器を製作するのです。一方で、ソレムのベネディクト会修道院で志願者の教育係を受け持つ修道女はテキストを製作するのに20年前のパソコンを今でも使っています。ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの言葉を使えば、それぞれの人にそれぞれのできることを実現するために必要なものを与えるということです。

 

(ここで「それぞれのできること」と訳したのは、アマルティア・センの「潜在能力」(ケイパビリティ)をフランス語化したcapabilité が括弧付きで書かれていたからだ。

いわゆるキャパシティ、capacitéとはニュアンスが違う。キャパシティが「器の容量」のイメージだとすると、社会的な環境によって与えられた器そのものを、その人に本当に適したものに随時変えることまでを含むニュアンスがある。

日本語のwikiで検索すると

>>>潜在能力とは 「人が善い生活や善い人生を生きるために、どのような状態にありたいのか、そしてどのような行動をとりたいのかを結びつけることから生じる機能の集合」としている。具体的には、「よい栄養状態にあること」「健康な状態を保つこと」から「幸せであること」「自分を誇りに思うこと」「教育を受けている」「早死しない」「社会生活に参加できること」など幅広い概念である。<<<

とある。修道院で各人に与えられるものとは、才能や仕事の能力だけではなく、その時その時における「well being」に適うような配慮がなされるということだろう。)





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by mariastella | 2018-04-25 00:05 | 宗教

シネティ師の選択

先日の復活祭のミサで出会ったパリ総代理司教のブノワ・ド・シネティ師は、4/4

『声をあげなくてはならない』 という「難民受け入れ」についての呼びかけの本を出版した。

難民の一人一人が「命」で「顔」なのに、我々は、「難民」というカテゴリーで冷たく扱っている。なぜ彼らはやってくるのか、なぜ我々は恐れるのか、について語った本だ。

この本についてのメディアからのインタビューを受けて、「またジョニー・アリディの葬儀ミサについて話すのはやめたいですね」と始めた。

ジョニー・アリディの歌の歌詞とパウロの言葉をつなげた印象的な説教は、テレビ中継を通してフランスで最も多くの人に聞いてもらえた説教だっただろう。

その彼は、復活祭のミサでも、ユーモラスで、庶民的で、余裕があってしかも説得力があった。まっとうなことしか言っていないのに、こちらの内面に伝わるような言葉だった。

この人はジョニー・アリディなど芸能人やセレブたち担当どころか、パリでは難民担当で、サン・ジェルマン・デ・プレ教会改修の650万ユーロの資金を集めた時と同じ情熱で難民のために必死になっている。

パリのブルジョワ・カトリックの多くが、生まれる子供(代理出産問題)や死に向かう人(孤独死や安楽死問題)では子供や病人の生命の尊厳を絶対擁護するのに、避難場所を求める難民の命の尊厳については関わりたがらないことについて、ブノワ氏は容赦しない。

趣味はボクシングでその堂々とした体格と、無邪気にさえ見える自然体は、他のパリのエリート聖職者とかなり雰囲気が違う。

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《La Vie》No 3789


前に書いたようにパリ新司教のオプティ師が、30代の終わりになって神学校に入る前に、医師として11年間働いたように、エリート聖職者には最高学歴を経て一流会社に就職経験のある人も少なくない。ところがこのシネティ師は、なんと弱冠20歳で神学校に入ったのだ。

1968年の五月革命の年に生まれた若者だというのに。

母方の大叔父がパリの教区司祭で、日曜ごとに彼の家族の食卓を囲み、信仰や神について自然に普通に意見をかわしあうことを知ったという。ブノワ少年は、五歳年下の弟ポールとともに、福音書についての大叔父の話を途中で遮って質問をすることが許されていた。しかも、この大叔父の姪に当たるブノワの母親は、離婚していた。敬虔なカトリックで離婚に至ったのだから挫折感があったかもしれないのに、母は、二人の息子を世話するだけでなく七区のアパルトマンに、悩みを抱えていたり行き場のなかったりする人々をいつも受け入れていたという。ブノワ少年は、フランクラン、スタニスラス、とパリのカトリック名門リセで学んだ。

どんなグランゼコールのエリートコースにでも行けたのに、20歳で神学校に入った理由は? と聞かれた答えがこれ。

「確かに、簡単な選択ではありませんでした。でもどんな選択も簡単ではありませんし、何であれ、選択したものに忠実であることも簡単ではありません。私の幸運は、何が起こっても、いつも、愛されているという気持ちがあることです。神の存在を疑ったことはありません。なぜなら、自分が愛されていると疑ったことがないからです」

そういえば、確かに、この人には「幸せオーラ」が漂っていた。

幸せな人、いつも愛されていると感じている人が、こんな風にがんばるのを見るのは気持ちがいい。





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by mariastella | 2018-04-19 00:05 | 宗教

カトリックが「便利」であること

前の記事で、「見ていない映画」にインスパイアされていろいろ書いた後で、「読んでいない本」についてコメントするのも気が引けるが、ある友人が、中井久夫さんの洗礼について触れられた本のことを紹介されていたので、ひとこと書きたくなった。


精神医学者としても文学者としても大きな業績を残された中井先生は、2年前に神戸でカトリックの洗礼を受けられた。中井先生と同じ80代のカトリックの友人はその洗礼式に出席された。私は中井先生の洗礼の記念に「精神の健全さについて」というシリーズをこのブログの中で書いている。


これが第1回で、


15回 まで続いている。


中井流の「スキゾ親和性」というものとカトリックの相性がいいのではないか、と思ったのだ。

で、その友人が紹介した本というのが『おひとりさまVSひとりの哲学』山折哲雄、上野千鶴子 (朝日新書)というもので、上野千鶴子さんが、


「優れた近代合理主義の知性である加藤周一、中井久夫、そして上野の師でもあった吉田民人などが、死を前にしたり施設の病床で、カトリックに入信したり仏教に傾倒したことにショックを受ける」(ネットの読者コメントから引用)部分だ。


友人のまとめによると、

>>「ブルータスお前もか!」という感じだと書いていました。「あの知性の高い中井先生がカトリックだって!!ブルータスおまえもか?っていいたくなりますよ。なぜ?カトリックに?って訊くとゆっくり「べんり、だから、ね」と言われた」そうです。<<<

「人は来世の信仰など宗教の支えなしに死んでいけるか」というテーマなようで、上野さんの無神論スタンスが、あまりにも、フランスのインテリ左翼無神論者の典型なのが新鮮だった。フランスの無神論はインテリ・イデオロギーというかアイデンティティの一つだけれど、日本にもこんな人っているんだなあ。

フランス左翼無神論者の欠点は、イデオロギッシュなので、信仰者の話をまともにきかなかったり、啓蒙時代の「蒙昧」、「迷信」のカテゴリーに宗教を一括したりで、超越性というものへの感性に自ら蓋をするところだ。

とはいっても、フランスのインテリである以上、実は、ギリシャ・ラテン文化とその延長としてのキリスト教についての造詣は深いのが特徴だ。でもそれだけいっそう、教養、文化としてのキリスト教を「信仰」に結びつけないような努力やジェスチャーや棲み分けを無意識にしている。

彼らの中にはフランスでは「無神論だ、宗教ではない」とみなされる仏教を実践する人もいるが、そういう人たちはなおさらキリスト教の本質に対する思い入れがある。

でも、日本のインテリ左翼無神論者や日本の一般の仏教徒は、当然ながら、文化の基盤ではないキリスト教の知識や教養が、ないか、少ないか、偏っている。

無神論者といっても、サルトルらのようにある日「神はいない」という回心体験を経た無神論体験を経るわけではなく、単に、西洋型インテリ左翼無神論者のモデルを採用している人の方が多いだろう。

キリスト教文化圏型の「無神論」に行きつくには、「神」や神の形象に対峙しそれを否定するという葛藤や選択が必要なので、日本のように一般に「無関心型」で宗教宗派への帰属感の薄い社会ではそれがない。


一般の仏教徒といえば、これも空気としての日本仏教や事物や行事への感性はあっても、仏がいるとかいないとか神がいるとかいないとかといった問いの立て方をしない。キリスト教に関しても、漠然と、「西洋」を連想し、イエスかノーかで融通のきかない一神教は不寛容で、その点、八百万神を許容する日本は寛容だとか、自然と共生するとか、農耕文化だから一神教とは相容れないだとかなどという言説が、エリート仏教者の口からさえも出てくる。

「西洋」だってベースは多神教だったのだし、農耕が始まって定住するようになってから文明が発達したのは人類共通だ。また生きるのに最も大切な太陽に生活を負っているのも普遍的なことで、太陽神を最高神として戴くような感性も地球上に共通している。

多神教だから寛容だというわけでもなく、どんな文化のどんな社会にも、残念ながら他者排斥型の心理メカニズムは存在してきた。

それなのに、「知性の高い中井先生も高齢になり健康を害したらカトリックの洗礼を受けるなんて、死を前にしたら知性よりも非合理的なものに救いを求めたくなるなんて、ブルータス、お前もか」と思うのは、単純すぎる。


中井さんほどの人が、どういう風に人間の心理を探り、信仰にたどり着き、しかも、カトリックを選んだのかということはスリリングなヒストリーであって、何も老いや病で弱ったからではない。

スキゾ親和性に「精神の健全さ」を探った中井さんでこその大きな意味がある。

そして、彼の答えの「便利だから」というのも言いえて妙だ。

前にこのブログで、死刑囚になったら断然カトリックに入れてもらう、と書いたけれど、そしてオウム真理教事件の死刑囚たちの霊的ケアがどうなっているのか気になると書いた。ここここ


キリスト教というOSは弱者にやさしいし、歴史上、いろいろなバグやプログラムのエラーや齟齬も経験してきたけれど、それをフィードバックしてバージョンアップする努力を惜しまずに生きのびたし、中でも老舗のカトリックは、マルチナショナルで開発費用も潤沢だったからか、秘跡やら奇跡やらのアプリが豊富で、カスタマイズもしやすくできているから、「便利」だと思う。

信仰は知性と対立するものではなくて、人が自由に飛翔するための両翼のようなものだとは今のカトリックの見解だ。


それにしても、今や、ハイゼンベルクやゲーデルによって不確定性や不完全性という理性の限界が考察され、脳神経学のレベルでも、脳障害で感情を失った人は理性の論理立てはできても最終判断ができないこと、理性が機能するには感情が必要だと分かってきた時代だ。

それなのに未だに、「近代合理主義の知識人が宗教とか信仰とかに向かうのはおかしい」というようなひと昔前の「インテリ左翼無神論」が残っているのは不思議でさえある。これはフランス的というよりむしろ、アングロ・サクソンのピューリタニズムの原理主義やその反対の偽善に叛旗を翻すアメリカ型無神論の影響なのかもしれない。

もちろん、人が精神と肉体を統合するための霊性、「超越」を必要とする時に、それが既成の宗教である必要はない。山折さんがいうような、日本的な野山の中でひとりになって自然と一体化するというような体験でももちろんいいし、多くのアーティストのように、アートの創造性におけるインスピレーション(霊感)に対する感受性を育てることでもいい。

利潤、コストパフォーマンスや自分ファーストの論理とは逆の人道活動などに専念している人を動かしているのも、「合理主義」とは別の位相にあるものだろう。


そういうものに比べて、宗教は、時には、「霊性を求める人々をターゲットにして霊性ビジネスをするカルト」の姿をまとうことがある。

カルトはまさに、老いや病を前にして弱った人々につけこむ場合が多いわけで、そのようなリスクを避けるには、「宗教の勧誘」一般を警戒するというのも分からないではない。


その点、日本での仏教だとかフランスのカトリックなど、その国の老舗宗教は、そういう新興カルトを批判する側に立つもので、主流秩序であったがための歴史上の様々な誤りを批判され尽くしているから、「宗教」に向かうなら老舗宗教がリスクが少ないですよ、というのは一応言えると思う。


日本仏教はもう長い間、インドや中国の仏教と離れて、まさに日本的心性とフュージョンし、民族宗教っぽくなっているので、例えばフランスに住むフランス人が「日本仏教」に帰依するというのはいろいろな落とし穴がある。それこそ「仏教系カルト」に取り込まれることもある。

その点では、日本に住む日本人がキリスト教を採用する時に、カトリックは今でも中央集権的ピラミッド構造があって末端の逸脱をコントロールするツールが少しは機能しているので、「リスクが少ない老舗」としては確かに「便利」だ。


そして、日本でキリスト教家庭に生まれた人は別として、成人洗礼を受けるような人は、安土桃山の時代から内面の葛藤や外的な不都合を乗り越えて「選択」した人が多い。

自分が「神」を求めるかどうかは別として「神を求めた人々」の軌跡を辿ることは、それこそ霊性とは何かをインスパイアしてくれる。

「知性」ある人がそれを切り捨ててしまうのは残念だ。

で、カトリックはいろいろな意味で「便利」なのだが、それでも、実際に洗礼を受けないと分からない「便利さ」がひとつある。それは「死が怖くなくなる」ためではなく、「生きる」ためであり、「生かす」ための便利さだ。

何を、誰を「生かす」のか、という答えは、書かない。





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by mariastella | 2018-04-17 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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