L'art de croire             竹下節子ブログ

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「きれいになった」イザベル・アジャーニとフェミニズム

 先日ヘアサロンで手に取った週刊誌パリマッチ誌に、すっかり痩せて30年前と変わらない若さと美しさのイザベル・アジャーニが『イザベル・アジャーニの春』というタイトルのインタビューに答えている記事があった。

 インタビュアーである男性作家から「何というスタイル!」という第一声。

 読んでいるだけで、女性の体形をすぐに口に出すのは、昨今ならセクハラ?という気遣いが起こらないでもない。

セクハラ告発の嵐の中で、カトリーヌ・ドヌーヴらが、男性が女性にお世辞を言う権利、ギャラントリーの文化について声明を出してすぐに「炎上」してしまったことは記憶に新しい。でもアジャーニは「あれはアッパー・クラスの女性にのみ通用することだから」とこの記事で答えている。

その自分自身が、若い頃の体型を取り戻したことを真っ先に賛美されて、余裕で話を続けているのは、もちろん彼女自身が「アッパークラスの女性」だという認識があるからだろう。

シェイプ・アップすること、痩せることについては、ダイエットなどで自分を囚人にしてしまうのは意味がない、自然食品、運動、瞑想などでゆっくり自然にシェイプ・アップするのがいい、と自分の体験を話しているのだけれど、自然食品、運動、瞑想などという三点セットで自然に健康に痩せる、というコンセプト自体が、「アッパークラス」的と言えないでもない。

さらに、

「大切なのは、美しくあることではなく、自分を美しいと感じられることだ」

「女性として自分を美しいと肯定的に見られることこそが自由の旗となる」

などと言っている。で、自らは業界大手のロレアル化粧品の顔を引き受けている。


ロレアルと言えば「ロレアル ― あなたには価値があるから」のキャッチコピーで有名だし、70歳のスーザン・サランドンなども「顔」として起用している。


イザベル・アジャーニの語るイメージはSois belle et t’es toi」だ。

この tes toiというのは、tais-toiとのかけ言葉だ。

Tais-toiなら、黙っていろ、ということで、

「女性は見かけがきれいならばいいので口は開くな、意見を言うな」というニュアンスなのを、

tes toiなら、君は君である、つまり、「あなたは美しい、あなたはあなたである」「美しい時こそあなたは本当のあなた」というフェミニズム的美の賛辞となる、というわけだ。

要するに、「他人のために化粧するのでなく自分のために化粧する」という発想の転換と言いたいのだろうけれど、そういう自分磨きの「美しさ」の規準だって世間や社会や時代と無縁ではない。

女性が自分で自分のことをきれいだと思えることのハードルは「見かけ」よりもずっと高いともいえる。

 世間の基準に照らした時、ダイエットや整形手術では決して変えられない、持って生まれた「マイナス点」というものはあるし、老化や病気という「マイナス」もある。

また、「女性として」の見かけを自分で肯定できない人や拒絶する人もいる。

そもそも人は自分の「見かけ」をナマで把握することすらできない。


「見かけ」に左右されるような存在の良好感を「自由」の出発点にはしたくない。


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by mariastella | 2018-06-02 00:05 | フェミニズム

『マドモワゼル・パラディ』 その2 ハンディと創造性

(この記事は前回の続きです。)

見てもいない映画について延々と書くのもなんだが、この実際の事件には、いろいろと私のツボにはまる要素が満載だ。

メスメリズム、心霊治療もそうだし、昨年訪れたばかりのウィーンの情景も浮かぶし、そしてこの映画がテーマとして切り取っているマリア・テレジア・パラディス(記事のタイトルにはフランス語読みでパラディと表記した。パラダイス、つまり天国で、この人もメスメル同様、パリにも公演に来て絶賛されたから、マドモワゼル・パラディと呼ばれていたのだと思う。)はフランスに視覚障碍者のためのはじめての音楽学校を作るという業績も残しているのだ。


1784年のパリのコンサートは、メスメルがパリにいた時期と重なっているが、彼と彼女の関係(治療ができなかった例)を知っている者はいたのか、彼ははたして彼女のコンサートに出かけたのか、などと疑問がわいてくる。

メスメルに遭遇した18歳の頃もすでにウィーンの音楽サロンで大人気だったようだけれど、マリア・テレジアは結局60歳過ぎまで活動し、ピアニストとしてだけでなく作曲家としても歌手としてもキャリアを積んだ。

メセナとしての面もあり、自分のための作品をモーツアルトらウィーンに住んでいた作曲家たちに注文もしている。

この映画の監督のバルバラ・アルベルトは、マリア・テレジアのことを、目が見えないというハンディだけではなく、女性であること、そして「ハンディのある女性が優秀なピアニストである」ことにビジネス・チャンスというか利点を見出した周囲の人間たちの思惑から逃れられなかった存在であり、その彼女が自分の運命をどう扱うのか、彼女にとって「自由」とは何かということを問おうとした。

マリア・テレジアがメスメルによる治療を打ち切って、「全盲のピアニスト」としての生き方を全うしようと決心したのはなぜだろう。

一対一の診療治療がもたらすスキャンダルのリスクを回避したかったのか、心霊治療が成功して、「全盲のピアニスト」というセールスポイントを失いたくなかったのか、あるいは、本当に、目が見えだしたことで、ピアノがうまく弾けなくなるという事態が起こったことに動揺したのか、映画ではどのように描かれているのか、見ていないから分からない。

そして、実在のマリア・テレジアや彼女を取り巻く人々がどういう思いだったのかも、もちろん分からない。

マリア・テレジアは驚異的な記憶力と、聴力、音感を持っていたという。60曲以上のコンチェルトの他にピアノソロと宗教曲の膨大なレパートリーを持っていたという。

知覚器官の一部にハンディのある人は、それを補うように他の知覚が鋭くなることはよく知られている。ほとんどの楽器の演奏は触覚と聴覚があればできるわけで、実際、目は楽譜を追うくらいであり、演奏そのものに視覚を動員すると触覚と聴覚の何かが緩くなって音楽の強度が下がることがある。


楽器演奏でなければ、普通の人の知覚情報の中では圧倒的に視覚経由のものが多い。

だからこそ、目を閉じるなどして視覚情報を遮断すると、集中力が増す。


演奏する時も、聴衆の姿やホールの様子などが目に入ると気が散ったりあがったりするひとは多いだろう。視覚が雑念につながる。


前回の記事でリンクした私の五十肩体験からだけいっても、身体機能のどこかが突然失われると、もちろん不自由で苦労するのだけれど、なんだか、心身のすべてに向ける観察能力が亢進し、人との共感能力も亢進するので、生き方の密度も強度も高くなることがある。

そういう濃密な内的世界を生きていたマリア・テレジアの前に、メスメルという特異なカリスマを持つ男が現れて、何か深いところに侵入され揺さぶられ、視力まで回復してきた。

再発見した視覚情報に魅惑されると同時に、演奏の時にはまったく必要としていなかった視覚をどう扱っていいか分からない。目が見えるようになって「演奏技術が落ちた」という話ではなく、集中力と音の世界にのみ没入する心身のととのえ方のバランスが崩れたのだろう。

よく観察すると、この物語は「ハンディ」と「ビジネス」の関係を探ったものだとも見えてくる。

健康な若い男が華々しい名人芸を披露する場合は、その「神わざ」ぶりだけが売り物になる。

子供時代のモーツアルトや、今のネットのYoutubeで見かけるような「幼い子供」による「パフォーマンス」や「子供たち」による一糸乱れぬロボットのように正確なパフォーマンスも「見世物」になる。

マリーア・テレジアがサロンの寵児となっていたのは、

「幼い頃から視力を失うというハンディのある若い女性」が超絶技巧と抜群の記憶力で演奏する

というマーケティング上のセールスポイントがあったからだ。

それを「愛でる」人たちも、後にパリやロンドンでも演奏旅行をしたように、オーガナイズして「稼ぐ」人もいたはずだ。

それが成り立つには、そもそも、「子供だとか、女性であるとか、障害がある人には高レベルのアーティスティックな活動ができない」という先入観の共有が前提となる。

私がネットで読むことができる日本の雑誌の中の『クーリエ・ジャポン』の20185月号に、「母親になったら創造性は消えるの ?  -- キャリアと出産・育児の両立は「超人」がすることなのか ?」という記事があった。

>>米「アトランテッィック」誌に掲載されて大論争を呼んだ大型記事。育児と仕事の両立という普遍的なテーマに「クリエイティビティ」が絡むとどうなるのか。<<

というキャプションだ。

先入観としては、「独身の時は男に伍して活躍していた女性アーティストが出産・育児をすると創造性が消える」、言い換えると、「家事や育児という家庭生活とアート活動の両立は不可能」「だから、家事や育児を妻に任せて自分の活動に集中、専念できる男の方が優秀」ということになる。

で、この記事は、出産したラットの実験では、明確に「出産すると脳は柔軟になる」という結果を紹介している。ラットの神経回路は妊娠中に再プログラミングを始めて、子供が生まれると大胆になり危険でも日中に狩りをするようになる(夜間は子供たちのそばにいる必要があるから)。狩りの腕も、子を持たないラットの4倍の速さに上がる。脳のモーターや感覚システムも研ぎ澄まされ、問題解決の斬新なアプローチを見つけ、創意に富み、不屈で、要領がいい。

そして、いったんこのように変化した母ラットの神経回路は子供が自立した後もそのまま維持される。年をとっても記憶が衰えにくく、ナビゲーション能力も高く、早く迷路をクリアする。

母親の脳は認知力、感情、行動、あらゆる面で柔軟性を必要とされる。これはもちろん創造性に不可欠だ。

というわけで、要は、人間だけが、「母となると劣化する」かのように言われるのは、社会のシステムの問題なのだ、という結論を導きたいのだろう。

その逆に、肉体的であろうと社会的であろうと、何かのハンディを負わせられるとそれに対応するために柔軟になり、適応して、より努力するので、より高いパフォーマンスに到達できるともいえる。

その意味では、マリア・テレジアの視覚障害が、それをカバーする触覚や聴覚や記憶力を獲得させた、と考えるのは妥当だ。

でも、母ラットが獲得した神経回路を生涯維持するというのに、マリア・テレジアの場合は、ほんの一時期、視覚を取り戻しただけで、演奏技術が衰えたのだろうか。

実際のところ、脳には可塑性があり、失った機能、回復した機能に応じて、常に再プログラミングが可能だという研究もある。人間のように発達した脳をもって長生きする動物の場合、独身、出産育児時代、壮年期や老後と、神経回路も変わりパフォーマンスも変化するのかもしれない。

でもマリア・テレジアの場合は、視力を回復しかけて演奏技術が落ちた時、それをビジネス的には「不都合」だと思った人たちがいたのかもしれない。

もしも、じっくりと時間をかけて本当に視力が戻ったのなら、一時の動揺を乗り越えて、前と変わらぬ演奏を続けていたかもしれない。

それでも、「商品」としてのインパクトは下がっただろう。

彼女自身の中にも、幼い頃から「盲目の天才少女」というアイデンティティが刷り込まれていたから、それを「奪われる」恐怖があったのかもしれない。

マリア・テレジアは、少なくとも生涯独身だから「母性のハンディ」はなかった。

「女性でかつ障碍者」であるということのハンディはそれを乗り越えることで「超人」のセールスポイントになる。

けれども「母であるのに超人」というのをアーティストのセールスポイントにすることは社会的に「不都合」だ。

彼女の生きた時代のブルジョワサロン文化はヨーロッパの歴史上でも突出して、女性に「良妻」であり「母」であることを推奨し、価値観を押し付けた時代だった。だから「母であるから創造性がない、アーティストになれない」という貶めも「不都合」で、「女性であるから創造性がない、アートには向いていない」という前提のみが採用された。

マリア・テレジアは「女性でかつ障碍者」というスタンスで、一世を風靡したのだ。

売り物の一つである「若さ」が強調できなくなった30歳の年から、マリア・テレジアは、コンサートよりも作曲活動に向かうこととなった。

30代で、五つのオペラと三つのカンタータを世に出し、最後のオペラが不評に終わった後、40代からは教育に力を入れた。

50歳で、故郷のウィーンに音楽学校を創立し、若い娘たちに自ら歌、ピアノ、音楽理論を教授した。毎日曜に生徒のコンサートを開き評判になったという。

64歳で亡くなるまで現役だった。彼女の作った多くの作品は、散逸してもう聴けないということだ。


いろいろな人に利用されたり使い捨てられたりされる状況にありながら、最後まで自立して創造性を失わず、弱さを強さに変えてきたマリア・テレジアに拍手したい。


(実際のところ、性別、老若、ハンディのあるなしにかかわらず、優れた能力がある人はごく稀で、持って生まれたその能力と、それを育てる耐性、努力を続ける環境がそろった時にのみ才能が開花する。シリアで毒ガス攻撃にさらされている子供たちや世界中の難民キャンプやスラム街でサヴァイヴァルを強いられる子供たちの中にも同じ確率でモーツアルトやアインシュタインの仲間がいるはずだ。「子供たちの機会均等」の実現は、普通に暮らせているすべての人々に突き付けられる課題だと思う。)






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by mariastella | 2018-04-15 00:05 | 雑感

竹信三恵子さんの「日本の母親=押し入れ説」

講談社の広報誌『本』の12月号で、愛読していた竹信三恵子さんの『「母親神話」の国、日本』が最終回だった。


この雑誌には同時に下重暁子さんの『その結婚、続けますか?』という連載もあって、どちらもフェミニズムの流れとして読んでいたのだけれど、いつも、そのアプローチの違いの大きさにとまどっていた。


竹信さんはジャーナリストとあり、その抑制的で客観的な筆致から、30代か40代のアカデミックな感じの人だと思っていた。

下重さんはもう80代だそうだが、結婚生活についてのいろいろな例を挙げているにもかかわらず、自分語りとの区別がつかず、ただの回想記なのか何かよく分からない。「反芻する恋がある限り、私は年をとらない。少女にもどれる。」とか、幸せな人だ。


竹信さんの記事の方は説得力があり具体的な提言もある。正直言って母親たちの、「内なる檻」「自虐のルール」などの話も、新世代「草の根封建オヤジ」の話も、あまりにも私にとっては異星の出来事みたいで実感がないのだけれど、とにかく竹信さんの論理の筋道がきっぱりしていて小気味よい。

で、はじめてネットで検索してみたら、私より少し若いが同世代の人だと知って意外だった。

しかも、記事ではまったく私生活を感じさせないのに、夫君を50代で海難事故で亡くして、『ミボージン日記』という私生活全開のような本を出されていることも知った。夫君が1950年生まれの灘中灘高から東大というのも、早生まれでなかったら東大入試中止の年だったはずだから、70年入学だとしたら、その年の一浪してきた灘高出身の友人たちの思い出があるので親近感がわく。

ネットで竹信三恵子さんのインタビューや講演記事を拝見して、すてきな人だなあ、と思った。


それにしても、フェミニズムの言説は難しい。

特に今の時代では、どこのどんな人が発言しているのかすぐに分かってしまう。


その人の経歴や年齢や外見や肩書についての先入観が、言説を読むときの邪魔になることが多い。


「先入観とのイメージが違う」ことがプラスになる場合もマイナスになる場合もある。


たとえば貧困者の自立支援をしているサポートセンターの「もやい」の中心メンバーである湯浅誠さんとか稲葉剛さんだとかがどちらも東大出身と聞くと、いくらでも他の出世街道に進めたのに偉いなあ、などと思うけれど、


フェミニストのエリザベト・バダンテールがフランス屈指の金持ちでエリートの夫、娘や孫に囲まれてパリの一等地に住んでいることを知った時に「こんな人に普通の女性の悩みが分かるのだろうか」と思ったりする。


アンチエイジングなどやめてありのままがいい、などと主張する人が生まれつき肌がきれいで色白の美人である時と、肌や髪がぱさぱさで年よりも老けて見える「オバサン」であるのとでは、たとえ同じことを言われても受け取られ方が違う。


フランスで同性愛者たちのトーク番組を見ていた時、格好いいカップルが出てくると嬉しいが、ぱっとしない人が話すと、「異性に相手にしてもらえない人が同性愛にはしる」などと思われそうでいやだ、と思った。


聖職者や修道者でもそうで、いい家庭の出で姿もよく高学歴の人が独身の誓いを立てたら何か崇高なものに見えるが、その正反対の人が立派な志を語ったら、この人、他に道がなかったんだろう、などと思ってしまう。


このような反応は、プラスにしてもマイナスにしても等しくすごくプリミティヴで差別的で、どうしようもなくくだらないと分かっているのに、多分、多くの人に脊髄反射的に刷り込まれている偏見だ。


そういう先入観のみじんもない人を私は知っている。

私にはある。

偏見がなく本質的なものをまっすぐ観ることのできる人は存在するが、そんな人には、偏見のほんとうの卑しさなど想像もつかないだろう、

私は少なくとも、偏見の根づき方や克服の仕方やその深刻さをいろいろと考えざるを得ないという点だけでは、よかったかもしれない。





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by mariastella | 2018-02-01 00:05 | フェミニズム

ダウドさんとフェミニズム

カトリーヌ・ドヌーヴらがル・モンド紙に出した、ピューリタン的な男の敵視に対して、「男が女を誘惑する権利」擁護の声明が物議をかもしている。

それを眺めていて、そもそも、欲望に「力」を持ちこむのが人間の進化の歪みなんだろうなあなどとと考えていた。
自然界では、パンダの交配やら野良猫の生殖の季節をみていても、メスに選択権があって、オスは、フェロモンを感知してむかっていっても、受け入れてもらえないとあえなく引き下がる、というパターンだし、クジャクの羽根みたいに必死にメスにアピールなどするし、ハーレムを作っているようなオスも、力を行使するのは他のオスに対してであって、メスたちは一番強そうなオスのところにとどまる、という感じだ。

働きバチだの働きアリなどは人間の目から見るともっと悲惨で、生殖というのはまず類的存続をかけたもので、「個」は不平等すぎる感じがする。

人間でも、社会的な格差などのない学校のクラスなどでは、男生徒や男子学生の方が、一般に女子より弱くなる。より多く欲するものがより弱くなるのだ。

で、対等な関係である場以外のところで、つまり、「支配力」を行使できるところで欲望を満たすということがある。「力」は腕力だったり金力だったりもする。
人間の社会には、そういう役割を押しつけられるオブジェとしての女性、犠牲としての女性がたくさんいるのだ。

ル・モンドに声明を出すような女性たちは、社会的に「男と対等な関係の場」で生きている人がほとんどだろう。
学校や地域の幼馴染や同級生などの自然な対等の場とは別の「大人の世界」でも、「男と対等な関係の場」で生きている女性、だから、求愛する男性より相対的に強い立場にあるという女性であり、それは少数なのだろう。

などと思っていたら、『ル・ポワン』紙でカメル・ダウドが、この声明を激しく批判していた。(彼の記事は前にも紹介したことがある)

要約すると、

ピューリタンがどうのこうのと言っているのはお花畑であって、イスラム(ダウドはアルジェリア人)世界のことを考えてみろ、
イスラムの男たちはもっとピューリタンで、女性にはヴェールをかぶせて隠すし、さっさと結婚させるし、性的自由など認めない、で、それは女性を対等な人間として認めていないわけだから、人妻以外の女性や、共同体以外の女性や、戦利品としての女性や、ふしだらな女性に対しては、暴力をふるっても許されると思っている、
ドヌーヴらの声明はそういう男たちを力づけてしまうひどいものだ、

という言い分だ。

なるほど、情報のグローバリゼーションとはすごいなあと思う。今の世の中、だれのどんな片言隻句でも、文脈を離れてどんな風にでも改ざんされてどんな読み方でもされてしまう。
だからこそ、影響力のある発信者は、世界中にいる最も弱い立場の人のことも視野に入れて発信すべきだ、というのは正論かもしれない。

すべての人が、情報を正しく解読するリテラシーを持っているわけではないし、もちろん自分の都合のいいように故意に意味を捻じ曲げる人もいる。

こうなると、「表現の自由」ということそのものにも、いろいろな自己規制がかかりそうだが、何にしろ、発信者がコンテンツを明確な目的、意図というものを明記したパッケージに包んで差し出すことを考えなくてはいけない、自戒する。

けれども、肝要なのは、やはり、ユニヴァーサリズムとコミュニタリアニズムの区別ができていず、混同されているのを整理することだ。

ムスリムの社会での女性のスカーフやアバヤ(全身を隠す)の問題は、コミュニタリアニズム内でのフェミニズムの問題だ。

他の社会で他の文脈ではフェミニズムの問題にならない。

コミュニタリアニズムの観点に立ったフェミニズム(男女同権に近い)を絶対として押しつけることが不当なように、

ユニヴァーサリズムの観点に立ったフェミニズム(人間の平等)を都合よく捻じ曲げて特殊なコミュニティの主流秩序正当化に使うことも間違っている。

この二つの間違いをどちら側も互いに批判するので論点がかみ合わない。

それを明確にする視点でユニヴァーサリズムとしてのフレンチ・フェミニズムについて俯瞰するものを書ける人は、ほとんどいない。

これまでも、このテーマで企画を出したことがあるけれど、「フェミニズムは売れない」とされてきた。
だから、切り口を変えて、『女と神』という企画を考えているところだった。
「#me too 」とドヌーヴのおかげで、書くチャンスが訪れるかも。



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by mariastella | 2018-01-27 00:05 | フェミニズム

カトリーヌ・ドヌーヴらによる#MeeTooへの批判声明

今忙しいので、このブログはほとんど予約投稿で入れているので、何かを読んだり観たりした後の感想などがアップされるのがラグがあります。でも、1/10付のル・モンド紙にカトリーヌ・ドヌーヴなど100 名の女性が出した#MeeTooへの批判とそれについてすぐに湧きおこった論争のことを、挿入します。

要するに、女性を一方的に犠牲者にするこういう形の告発の蔓延はピューリタンの国の思考様式で、フランスでは、男性が女性に対してギャラントリーを表現する権利がある、というものです。


何かを強制したり、合意なく女性を触ったりするのは論外で別のことですが、言葉で気を引いたりするのは犯罪ではない、むしろ伝統 ?ということで、アングロサクソンフェミニズムとフレンチフェミニズムの差がはっきりでています。


で、あらためて日本での告発をネットで読むと、当然ながら、ネガティヴなものばかり。性的なニュアンスで、女性を貶める、というのがトラウマになっています。それに比べると、確かに、フランス男が女性に気軽に声をかけるとか、ハラスメントをする時は、たとえ「しつこい」ことがあっても、内容自体はポジティヴなものがほとんどです。嫌がらせとお世辞(たとえ煩わしい不快なものでも)には本質的な差があります。(日本での例を読んでショックでした。)


要するに、女神や聖母を崇めるような下から目線というのが伝統的なベースです。

もちろん、それを女性の方が不快なハラスメントだと受けとることはありますが、「相手の見た目」によることも大きい。早い話、どんなに崇められても、自分の嫌いなタイプの男だったり、見た目が警戒心を誘うような男だったりするとアウトです。で、権力があるとか、金があるとか、結婚もしているし遊ぶ女性にも不自由していなそうに見える男から下から目線でお世辞を言いまくられる場合には、警戒心が刺激されずセーフということもありそうです。

ドヌーヴなどこういう声明を出せるような女性たちは所詮女性の中でも強い立場にある少数者なのだという切り捨て方をされるかもしれません。

前にも猫のことでセクハラおじさんの心理を書いたことがありますが、私もうちの猫がぐっすり寝ているのに、かわいいあまり、あちこち触ってハラスメントすることがよくあります。でもそこに、「下心」というのは、もちろん性的なものも含めて1ミリもない。

そして猫飼いなら分かると思いますが、どんなにハラスメントしても、下から目線でお仕えしています。やり過ぎて引っかかれても、もちろんこちらが悪いのでこれから気をつけよう、と思うだけです。崇める気持ちは変わりません。猫からはますますさげすまれることもありますし、しつこいと顔を見ただけで逃げられたりもするので、こちらも学習します。

フレンチ・フェミニズムのスタンスの人たちが擁護するのはこういう関係なのだと思います。

それを可能にするのは、女性の側も「大人の女」である必要があるのかもしれません。

それだけではなく、それぞれのシチュエーションにおいて文化だけではなくいろいろな要素が複合しているので、アウトかセーフかというだけで割り切れる問題ではないことは自明です。

ともかく、相手に対して「強い立場」にある者がその強さを武器にして弱い者をいじめたり支配しようとしたりするのは論外で、そういう者を告発できる流れは歓迎です。

でも、それで、男はみんな敵、女は犠牲者という二元論的アングロサクソン型フェミニズムがますます広がるのには要注意です。


相対的に強い立場にあって、その強さを相対的に弱い者を支えるためにだけ使う人は必ず一定数存在します。そうでないと人間はとっくに淘汰されています。自分を犠牲にしても赤ん坊や子供を守る人たちがいるからこそ生きのびているのですから。

そして、多くの社会では、相対的に男の方が有利でマジョリティで、平均すると女性より体が大きくて身体能力が女よりすぐれているので、その中で、自分を犠牲にしても女性を守るという生き方をする人の絶対数は看過できないはずです。

それをなんとなく男全部を糾弾するような論調では、本当のリスペクトできる関係、性別とは別の差別の構造(民族とか宗教とか年齢とか心身の障害とか)を互いに協力して壊していく関係が築けない、というのは事実です。


フェミニズムとフリーメイスン、この2つは、アングロサクソン型とフランス型がまったく別の方向を向いている典型です。グローバリゼーションという名でアングロサクソン型が席巻しているのは事実ですが、これからもフランス型を支持していきたいと思います。

その方が絶対に次の世代のために大切なことだと、日本人としても、女性としても、高齢者としても実感します。


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by mariastella | 2018-01-11 00:05 | フェミニズム

伊藤詩織さんと『パリのすてきなおじさん』

昨日の記事についてサイトの掲示板でコメントをいただいた

ワインスタインに始まったセクハラ告発事件は、日本では対岸の火事的な感じで、飛び火していないらしい。


そのすぐ後、今発売中の週間『女性自身』(私はネットのマガジンサービスでアクセスできる)で、詩織さんが、彼女の本を読んで、


「おなじ女性として恥ずかしい、私なら会見であんな服は着ない」

とか


「私は厳しく育てられたから、飲みに行く場所も人も時間も選ぶ」


などという同性の声があったのが悲しかった、


と言っているのを読んだ。


うーん、「女性の敵は女性」などという言葉もあるが、これでは、「自分も同じ人から似たような被害を受けた」というような女性がもしいたとしても、絶対に名乗り出て連帯しようなどとしてくれないのだろうなあ。

で、その詩織さんが同じ記事の中で、

「最近読んだ『パリのすてきなおじさん』という本があります。ここに登場するおじさんの多くは地位や人種と関係なく、それぞれの人生、自分自身を受け入れています。そして他人と違うことを恐れていません。日本も男女問わずそういう人が増えればいいなって」


とも言っている。

昨日の記事でもふれたように、フランスのパワー・セクハラはギャラントリーと表裏一体の伝統があって偽善的だと言われている。女性をリスペクトし、崇めたり、守ったりする騎士道以来の精神やら宮廷のマナーやらも引きずっている。

でも、詩織さんの気にいるような「パリのすてきなおじさん」たちってどんな人だろう。

興味を持ってアマゾンのレビューを見たら、みな高評価でこういうのがあった。

>>あれだけ多くのパリジャンたちを眺めていても、「ふむっ」となるのは移民のおじさんたちばかりというのも非常に興味深い。彼らは深いしわに刻まれた年輪以上に想像を絶する歴史を抱えていたりする。若者おじさんでも、笑顔の奥で深い哀しみをたたえていたりする。彼女は取材相手に寄り添い、その眼はとてもあたたかい。受け入れて共感してもらえると、取材相手も心をほぐす。最後には「孫娘になったような気持ちで」おじさんに肩を抱いてもらう。<<

ええっ、移民のおじさんたちなのかい、

で「最後には『孫娘になったような気持ちで』おじさんに肩を抱いてもらう」のかい。

具体的には

50歳のハゲのクスクス屋のおやじ、かたや92歳の競馬場通いのおじいさん」

などだそうだ。


うーん、この本は読んでいないから何とも言えないけれど、もうチョイスからして突っ込みどころが多すぎだ。こんな人たちはきっとそれぞれの「人生の達人」かもしれないけれど、パリからでも詩織さんを支援するために声を上げてくれるおじさんたちはこんな人たちではないよ、とは思ってしまう。

私がよく知っていて何十年も付き合ってきたパリのおじさんたち、のことを考えてみると、昔は、日本だったらどうだろうなとよく比較したものだが、一番の違いはやはり「世間の目」というやつに落ち着く。

絶対的に弱者の側に立つ「すてきなおじさん」は日本にもフランスにも一定数は必ずいるけれど、日本では弱者の側についただけで自分までいじめの対象になってしまったりすることがある。弱者の側に堂々と立つのが許されるのは特別強い人だけ、という奇妙な現象もある。

このところ、もちろんワインスタイン事件の影響もあるのだけれど、フランスではフェミニズムの本質にかかわるいろいろな議論が起こっている。両親が別れた場合の子供が基本的に両親のそれぞれの家で半々過ごすようにすることなどだ(今は70%ほどが母親の家をメインに暮らす。このことを差別だと父親が訴えている)。昨年ようやく日常必需品として消費税に相当する税が20%から5,5%へと下げられた生理用品を基本的に無料で配布(避妊具の無料配布は存在する)するべきだとか、高所得家庭の子育て支援金を減らしたり撤廃したりすることの問題などだ。(フランスにおける、無差別の子育て援助は、単なる社会福祉政策ではなく、「子供は社会全体が育てる」というメッセージだからだ。)

それにしても、数あるマイノリティ差別の問題でも、実は一番複合的で複雑で、逆説的なのが女性差別なんだろうなあ、とあらためて思う。


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by mariastella | 2017-11-25 02:27 | フェミニズム

ワインスタインと伊藤詩織さん

前に、「詩織さん事件」について、書こうと思ったけれど書けない事情を記事にしたことがある

今は「伊藤詩織」さんとして検察、警察などのブラックボックスについて著書を出して、決して追及をやめず、他の被害者のためにも役立とうとしているのが分かる。

彼女を応援する人も多いと思うけれど、ネットなどで見ると、ハニートラップだとか、「反戦派=左翼=在日」認定など、あまりにもひどい「セカンド・レイプ」の典型のような誹謗中傷が少なくないことに驚く。

前の記事に書いたように、私はこの件について距離を置こうと思っていたのだけれど、このごろ、すごく気になることがある。それはハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが女優やモデルなどからセクハラ行為で訴えた事件が拡大したことだ。


大物女優も声を上げたし、他の監督や有名俳優への告発も芋づる式にどんどん出てきた。

フランスでもこの話題は広がって、それに触発されて、SNSで、私も犠牲者だ、という告発合戦が始まった。


イザベル・アジャーニは、フランスでの女優へのセクハラには別の偽善的な恋愛ゲーム文化がある、と分析している。

"En France, il y a les trois G: galanterie,grivoiserie, goujaterie"

"glisser del'une à l'autre en prétextant le jeu de la séduction" fait partie des"armes de l'arsenal de défense des prédateurs et des harceleurs".

"Laissons savoir à ces messieurs que les actrices,tout comme les ouvrières, les agricultrices, ou les ingénieures, lescommerciales, les institutrices, les mamans ou les putains sont toutes libresde baiser, libres d'avorter. Et libres de parler!".

暇がないので訳さないけれど、女優だけでなく、すべての女性の尊厳と自由に関わることだと述べている。セクハラが「力関係」だけではなくギャラントリーを透過して担保されるような文化背景がフランスにはあるというのだ。

ともかく、セクハラだけでなく、汚職、忖度、身内びいき、体罰などの「事件」が「発覚」する度に、

こういうのは氷山の一角であって、

昔からあった、

どこにでもある、

程度の差こそあれだれでもやっている、

文化、習慣、伝統の一種で、暗黙の合意がある、

というような言説が必ず出てくる。

そのような体質の社会で、ホテルの従業員などではなくて、すでに名を成した大女優だの、詩織さんのように若くて美しくて知的な女性だのが堂々と告発し始めるというのは、勇気もあり、説得力もあるやり方だ。

で、私が不思議だと思ったのは、ワインスタイン事件が日本でも話題になっている割には、例えば日本の大女優がプロデューサーらを告発し始めたという話を耳にしないからだ。

女優でなくとも、若い女性から仕事の紹介やいろいろな根回し、融通を頼まれた「影響力のある男」が、その「役得」として女性を誘ってみたり、セクハラをしたりというのは、決して例外的なことではないと思う。

アメリカに駐在中のTVのプロデューサーだとか政治の中枢に人脈を持っているというような人のところに、何か便宜を図ってもらえないかとコンタクトしたり相談したりする人は多いだろう。

それが若い女性であった場合にセクハラに向かうタイプの人であれば、「そういうことはよくある」のではないだろうか。詩織さんのケースが唯一の例外だとは信じがたい。

だから、ワインスタイン事件でこれまで黙っていた女性たちが「実は私も」と連帯し始めたのを見て、これで、「実は私もその人物からこういうセクハラを受けました」という声を上げて詩織さんを援護する女性が複数出てくるのではないかなあ、そしたら、状況は劇的に変化するだろうなあ、と私は思っていたのだ。


どうもそんな気配はない。


で、「もし、私だったら ?」と想像してみた。

うーん、日本で日本人の男性からセクハラを受けたことがあるとしたら、やはり「いまさら言いたくない」と思う。

で、フランスでフランス人男性からセクハラを受けたことがあるとしたら、「この際だから私も告発に参加しよう」と思うだろう。

この差はなんだろう。

おそるべし、日本文化の壁。


もし両親が生きていたら、お願いだからそんなことしないで、と絶対に言われる。

フランス人なら、少なくとも私の生きているカテゴリーの家族や友達なら、一緒に戦ってくれる気が満々だと思う。

昔、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」などと言う言葉があったけれど、「セクハラ」、「いじめ」、「体罰」、「身内びいき」を告発する赤信号をみんなで渡ろうということにはならないのだろうか。

この赤信号、道路交通法自体を見直す必要まで考えさせられる。


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by mariastella | 2017-11-24 00:05 | 雑感

命を狙われて生きるということ

テレビのインタビュー番組で、2015年のシャルリー・エブド襲撃テロ以来、ジハディストからひどい言葉で「死刑宣告」を受けているフランス人とモロッコ人のハーフの女性ジャーナリストで宗教社会学者のZinebが話しているのをみた。

カサブランカ生まれで、彼女の共同体のイスラム教が女性を劣位に見なしているというその一点で、早くからイスラム教を丸ごと捨て去ったという。
すごく明快だ。

純潔を守って善き妻となり金曜日ごとに夫の家族をもてなさない女は、即「遊び女」とみなされる。
17才半でモロッコから抜け出した。

宗教社会学などはパリで学んだ。
モロッコの刑法ではラマダンの期間にムスリムが正当な理由なしに公の場所で飲み食いすると罰金と6ヶ月の懲役が制定されている。それに抗議して2009年に、ラマダン中にピクニックすることを呼びかけるなどの活動で官憲に追われ、スベロニアに亡命し、シャルリー・エブドに記事を書くようになった。

当時のシャルリー・エブドは破産寸前の苦しい経営だったけれど、編集長のシャルブらが自分たちの給料をカットしてまでZinebを正式に雇い入れてフランスに招いたのだそうだ。

それは初耳だった。

テロの日はカサブランカにいて襲撃を免れたが、「ムスリム女性」(父親がムスリムのモロッコ人なので自動的にムスリムとなる)でありながら冒涜的なシャルリー・エブドに加わっているのだから、過激派にとってはZinebは万死に値する。

で、2015年に生まれた娘を抱える身で、身の安全のためにパリのアパルトマンを転々としながら外では完全に警護されて暮らしている。

「一歩外に出たら自由ではない」という逆説的な状況。

まだ35才だ。

人はどの時代にどの国に生まれるかは選べない。

私は生まれた国には住んでいないが、不思議なことにあまりカルチャーショックがなかった。

日本にいた頃に主婦連だとかウーマンリブとかいう活動は知っていたが、身近の女性はみな不当なくらいに優雅に暮らしていた。女性であることはちやほやされることはあっても、社会の中で差別に向かい合うほど長く日本にいなかった。
日本の社会に女性差別があるのは分かっていたけれど、それは分かりやすい「宗教」の文脈などではなくて、漠然とした同調圧力みたいなものだったから、「戦う」とかいう対象にはならなかったのだろう。

でも、フェミニズムにかかわることで「死刑宣告」を受ける文化があるのだ。

フランスのテロはその後「無差別テロ」や「警官、軍人」を標的にしたテロへとシフトしていっているので、私たちは「シャルリー・エブド」事件の記憶を風化させてしまっている。

名指しで死刑宣告された一人の女性は、もう大勢の同志と「連帯」して通りを行進することはできない。

昨日の記事で書いたACT UPの若者たちも、エイズという病によって理不尽に死を宣告されたが、団結することはできた。

Zineb女史の孤絶を思うと愕然とする。

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by mariastella | 2017-09-07 02:50 | フェミニズム

地球のために何ができる? 2

承前


エリザベト・バダンテールはアングロサクソン型の男女同等、犠牲者主義(男は敵で女は被害者)、クォータ制、逆差別推進というタイプのフェミニストではなく、人類は皆自由と平等だというフランス型普遍主義のフェミニストだ。すべての人が人間としての尊厳を損なわれないで生きていけるための戦いの一環としてだけフェミニズムも現れてくる。

私はそういうフレンチ・フェミニズムの支持者だ。

「男と同じようになる」とか「男に勝つ」とか「男を敵にする」という二元論的闘争は苦手だ。でも、「男と戦う」のでなく「自由のために戦う」女性を見るのは好きだ。オジャランのロジャヴァ革命の理論やクルドの女性戦士なんてぞくぞくする。

ずいぶん前に女性編集者から「竹下さんのフェミニズム論を読んでみたい」と言われた時には意外な気がした。

私はすでに、アングロサクソン風フェミニズムの裏返しである恩恵ばかり受けてきた人間なのでそのことが後ろめたかったからだ。

詳しいことは書かないが、要するに、ただ、これまで甘やかされ放題で生きてきたということだ。まともに振り返れば、ほとんどアベル症候群になってもよさそうなくらいだ。

(アベル症候群を説明するのに、今、日本語で検索したらこういう論文〈天理大学カウンセリングルーム紀要 第 l巻 2004 共感との関連からみた罪悪感:発達的観点から〉というのが出てきたので該当部分をコピーする。)

>>>>富裕の罪悪感  他人と比較して自分が恵まれた幸せな境遇にいることを自覚することで生じる罪悪感である。 1960年代の有産階級出身の若者を社会運動に駆り立てた動機がこの富裕の罪悪感であったと Hoffmanは考えている 。社会経済学的にいえば、それは「階級的罪悪感」ともいえる。これは共感の最終段階である「目前状況を超え出た視点からの共苦を基盤に形成される発達的に上位段階での罪悪感である。しかし、時代、地域といった文化的影響を受けやすく、現在では目にする 機会が減ったと述べている 類似の現象については、 Modell(1984, chap. 5)が論じている 。この種の罪悪感の背後には、 「自分が何か良いものを手に入れることは、他の誰かが剥奪されることを意味する」 p75)という空想が伺えるという。(註九

Ellenberger (1954)は、この種の罪悪感を「アベル症候群」と呼び、その心理的構成要素に ついて、論じている 。アベル症候群のひととは、「運命に甘やかされた人」で、「他人より幸福 なのを自覚して、漠然とした罪業感を覚え、他人のやっかみを感じているが、十分な自己防衛はきていない人」(p306)である 。アベル症候群は、「(1)幸運と、(2)その結果としての漠然と した罪業感と、(3)羨望の的となっている事実と、(4)不十分な自己肯定感(p307)とから構成されているという <<<<

私の「幸運」は、平和な時代に豊かな国に生まれて育ってきたこともあるが、その中には、たまたま「女の子」だったからすべてが許されてきたというのも含まれていたので、犠牲者主義のフェミニズムに対しても罪悪感があったのだ。

飢えで死んでいくソマリアの子供たちとか、ナパーム弾で焼かれるベトナムの子供たちとか、ありとあらゆるこの世の不幸と不条理は子供の頃から耳にし目にしてきた。フランスでは知識人がアンガージュマンを、と言って、ラテン・アメリカのゲリラに加わったりスペイン戦争やらに参加したりしていた時代だった。

でもフレンチ・フェミニズムは犠牲者主義ではなく、男たちとも連帯して「人間」を扱ったものだったから、私にはハードルが高くなかった。

その第一の論客がエリザベト・バダンテールだったのだ。

しかも彼女はシンプルでエレガントで、知的で堂々としていてすてきだった。

夫君のロベール・バダンテールと同じ理念と志をもって歩んでいるところも理想的だった。それ以上のプライバシーには興味がなかった。

ところが、ある時、彼女が自分には3人の子がいて孫たちもいる、とインタビューに答えた時、なんだか裏切られたような気がしたのには自分でも驚いた。

少し調べると、パリの一等地のすばらしいアパルトマンに住んでいて、世界有数のの広告代理店の創業者の孫で大株主だということも知った。

それ以来、彼女がどんなに弱者の側に立って社会正義のために正論を言っても、失業中のシングルマザーやDVを受けて子供と非難している女性などの苦境にほんとうに共感できるのだろうか、愛も家族も金も知性も地位も権力もすべて持っている「あんたに言われたくない」と思われないだろうか、などと違和感を感じるようになったのだ。

一方で、民衆が立ち上がったフランス革命の理論的支柱となったのは、啓蒙の世紀の貴族や聖職者の知識人たちである。ほんとうに虐待されたり奴隷状態にあったりする人はその日のサバイバル以上のことは考えられない。生活に困っていない人だけが、広く他者に目を向けることができる、と言うのは真実だとも思った。

目を向けるだけでなく、フランスの大貴族のラ・ファイエット侯爵が自費でアメリカに渡って独立戦争を助けたように、身の危険を冒してでも遠くにいる他者の支援に駆けつける人も実際にいた。

恵まれた環境でぬくぬくしているのではなく積極的に「行動」を起こす人もいるわけだ。日本でなら、先ごろ亡くなった犬養道子さんのような人も思い浮かぶ。「おじょうさま」で特権もあり知名度も人脈もある人が、貧しい子供たちに出会ってから人道支援、難民救済に尽くした。

弱者に寄り添うために同じ弱者である必要はない。ビル・ゲイツだってメリンダ夫人(カトリック)と共に、世界最大の慈善基金財団を創って実際に「現地」へ足を運び続けている。

そうは思っても、バダンテールでもなく犬養さんでもなくビル・ゲイツでもなく、ただ親や周囲の人に甘やかされてきたというだけでチキンな私が、いくら世界の不公正に義憤を覚えても、地球の環境悪化や温暖化に危機を感じても、何もできないし何もやらない日常は変わらない。資源ゴミをリサイクルして、多少は省エネを心がけたしたとしても、原発依存国フランスで電気をたくさん使って不自由なく暮らしている事実は変わらないのだ。

私は『ラ・デクロワッサンス』のようなメディアから叩かれるような有名人ではもちろんないから、それでも、ひっそり偽善的に生きていける。いや、この新聞を買うだけで、多少の「償い」感を得させてもらっているくらいだ。

で、バダンテール女史はいったいそこでなんと言われて叩かれているのだろうか ?

おそるおそる読んでみると・・・


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by mariastella | 2017-07-26 06:18 | フェミニズム

前川さん証言と詩織さん事件 その3

前川さんに続いて詩織さんのことを書こうと思ったのだけれど、結局どう書いていいかまだ分からない。
あるブログで、フェミニズムの女性論客たちがほとんどこの件について発信していないことを指摘したものがあった。上野千鶴子さんや香山リカさんやらのツィッターに何も出ていないということだった(今は知らない)。
江川紹子さんはきっちりと発信していて、私も読んだけれど、彼女って本当にすてき。

個人的に言うと、「顔出し」をした詩織さんの外見があまりにも私の好みだったので、まず外見に反応した後ろめたさがあって、距離をおけなかった。
江川さんはもちろん詩織さんの外見などには触れない。

家族に配慮して姓は公表しないという話だったが、私も他の多くの人と同じくネットで彼女のFBをすぐに見た。ますます見とれた。

彼女が私の娘だったら、私もばんばん表に出て支援するだろうし、彼女が私の恋人だったとしても、顔出しで共闘すると思う。

そういうバイアスがかかっているので、彼女が戦おうとしているモノや彼女を踏みにじったヒトたちに対してどういうひどい言葉を発してしまうか自分でも分からないので、やはりここは自粛して、真に役立つ言葉が醸成されるまで待つことにした。

若くて美しい女性を前にして、やにさがるのも、征服しようとするのも、逆におとしめて攻撃するのも、みんな同じルーツであるような気がする。

詩織さんに見とれている自分が上等だとももちろん思えない。
でも彼女を応援します。

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by mariastella | 2017-06-09 02:54 | フェミニズム



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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