L'art de croire             竹下節子ブログ

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『ヒロシマ、そしてフクシマ』

小寄道さんのこのブログでフランス人監督によるドキュメンタリー映画『ヒロシマ、そしてフクシマ』紹介されていた。


その最も印象的だと言われる部分が監督のサイトで観ることができる。

福島の女性たちが必死で訴えるこの箇所は、男性の観客にとって映画の印象や、その好き嫌いが別れる場面だったのだそうだ。


確かに、「男性には想像力がない」と決めつけているのはジェンダーバイアスだともいえる。

想像力がない、というよりも、男性には、「想像力を働かせ、行動に反映させる」ことを阻む社会的な構造や圧力がより強く働いているということだろう。


弱者の身になって寄り添うという行動パターンには、次世代を残すという類的な利点があるから男女ともにあるはずだ。

でも「テリトリー」(地位や財産も含む)を守るという行動パターンの方は「オス」に顕著だから、自分のテリトリー外の弱者の立場への想像力を封印してしまうことが多いのかもしれない。


この場面での女性の訴えのインパクトは強烈で、受けて立つ役人がどうしてこんなに無感動をよそおえるのかと感心するほどだ。


けれども「男性には想像力がない」とジェンダー仕様にすることで、「当事者と役人」の構図が、「感情的な女性と冷静な男性」のような構図にすり替えられてしまうリスクが高まった。


それでもこれを見ると、「当事者と傍観者」として、災害に対する想像力の大切さをあらためて考えさせられるので一見の価値はある。


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by mariastella | 2018-07-18 00:05 | 映画

『La promesse de l’aube』(夜明けの約束)と『Ôtez-moi d'un doute.(疑いを晴らしてください)』

帰りの機内で観た映画 その3


フランス映画『La promesse de laube』(夜明けの約束) エリック・バルビエ監督。


イヴ・サンローラン役がはまっていたピエール・ニネと、シャルロット・ゲンズブールという二人のユニークな性格俳優が母と息子の年代記を演じる。


ピエール・ニネはなんとなくスラブ顔だが、ゲンズブールはポーランド人に見えない。いや、実際は、彼女の演じるニーナ・カツェフはロシア人の元女優で、息子が生まれた頃はポーランド領とされていた地域に住んでいたが、ユダヤ人でロシア正教に改宗しているらしい複雑な背景だ。


1980年に66歳で自殺した人気作家ロマン・ガリーの自伝が原作で、母親は息子を一人で育てているが、何としても息子にフランスで一旗あげてほしい、父親はフランス人であると強調する(実際のロマン・ガリーの父はユダヤ系ロシア人だったらしいが当時のアーティストたちにとってはフランスは憧れの祖国的存在だったようだ)。


で、14歳で母子そろって憧れのフランスのニースに移住するが、母の期待を受けて小説を描き続け、しかし、第二次大戦がはじまって空軍のパイロットとなり、その後でイギリスに逃れて「自由フランス」のレジスタンス戦士として活躍するなど、波乱万丈の生涯を送る。


これも、ヨーロッパの複雑な歴史と地政学的状況、文化、宗教、ロシアとロシア革命、二度の大戦、反ユダヤ主義などの背景が具体的な一組の母子の運命を通して浮きあがってくるのが面白い。


この手の背景は、「昔の話」ではなくて「当事者」が今でもいくらでも「再生産」され、研究も深まるので、「映画的ごまかし」はきかないから、かなり本気で制作されている。

母子関係だけを見るととんでもない「鬼母」で、教育的に絶対「正しくない」圧力のかけぶりで、息子は絶望的なマザコンだけれど、激動の時代に異常なテンションとボルテージ、執念と強迫と才能とが火花を散らしてフランス文学の「天才」作家が生まれた。その何かが足りなくて時代の犠牲になった無数の若者たちがいたことはいうまでもない。

最後がごくシンプルなフランス映画のコメディ『Ôtez-moi d'un doute.(疑いを晴らしてください)』だ。


女性監督のカトリーヌ・タルディュー。


今や名優となりつつあるフランソワ・ダミアンに、すっかり熟女になったセシル・ド・フランスなどが出ている。

バック・ミュージックにヴィヴァルディの二台のマンドリンの協奏曲とか、モーツアルトのオペラとかが効果的に使われているのが印象的だった。


親族間の遺伝子検査で父親と血がつながっていないと知ったブルターニュの不発弾回収者エルヴァンはやもめだが、育ての父親も愛しているし、妊娠中の娘も愛している。母はもういない。


しかし私立探偵をやとって実の父について調査し始める。

それらしいと分かった老人のもとを訪ねてうちとける。その前に偶然出会った女医に惹かれるが、彼女はその老人の娘だった。ということは異母兄妹という関係かもしれない。

他にいろいろな人間関係が絡むのだけれど、お涙頂戴でもなく笑い飛ばすわけでもなく、ぎりぎりのところで知的でエレガントに仕上がっていて、それには主演の二人の「品」が寄与している。


特殊な家族関係のドタバタでありながら、ヒューマンドラマになっているところに好感が持てた。


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by mariastella | 2018-06-27 00:05 | 映画

『天国でまた会おう』と『若きマルクス』

帰りの機内で観た映画  その2

フランス映画もいくつか観た。


『天国でまた会おう』( Au revoir là-haut


2013年のゴンクール賞を獲得したピエール・ルメートルの原作を映画化したもの。


もとはミステリー作家だけれど、この映画にはまるで『天井桟敷の人々』を観ているような香りと味わいがある。

マルセル・マルソーのピエロの化粧と、顔を失った男の仮面とが重なる。


 第一次大戦後のパリというのは独特の欠落と自由と不安と享楽が混在した独特の雰囲気で、『天井桟敷の人々』の舞台のパリとは一世紀も隔たっているのだけれど、同じ不思議な魅力がある。


「傷痍軍人」が支給されたモルヒネを売って生きのびたり、戦士の記念碑のデザイン詐欺によって金儲けをしたりというそれぞれのサバイバルのエネルギーに圧倒される。

 アートと戦争、アートと金儲けとサバイバル、そして父と息子、見どころ、考えどころがたくさんある。

ルイーズ役の11歳の少女が、あごを失ってうまく発音できない主人公エドゥアールペリクール(これを演じるのはあの『BPMビート・パー・ミニット』「バロック俳優」ナウエル・ペレズ・ビスカヤールで、彼なしにこの映画は成り立たない)の独特の言葉をどうやって通訳できるのか分からないが、彼女の存在もまるでユゴーの世界みたいだ。

『若きマルクス』はフランス・イギリス・ベルギー製作でラウル・ペック監督。でも邦題はなぜか『マルクス・エンゲルス』


パリで若きマルクスが眺めるアナーキストの演説に出てくる標語は「労働、平等、一致」だ。

マルクスはケルンを追われて、1844年にパリに出てくるが、子供が生まれて生活は楽でない上に、不法滞在でもある。

マルクスはプロテスタントに改宗したユダヤ人ラビのの息子だが妻はウェストファリアの貴族の娘だ。

イギリスのマンチェスター工場で出会ったアイルランドの女工であるエンゲルスの連れ合いの方は、何よりも「自由でいたい」ために、子供も欲しくないし、貧乏なままでいたいという。エンゲルス自身はプロテスタントの裕福な紡績事業主の息子だ。

この二組のカップルを見ていると、組み合わせの妙、カップルの力というのは大きいなあ、と思う。


フランスに長年暮らしている身として感慨深いのは、マルクスもエンゲルスも、独仏英の三か国語がペラペラだったんだなあ、ということだ。

マルクス夫妻もマルクスとエンゲルスも、フランスでは他人がいなくても互いにフランスで話してしまうシーンも、「あるある」だ。

ロシア人ももちろん出てくるが、ロシア人もフランス語を話す。


『共産党宣言』の起草にあたって「カトリックに代わって新しい宗教を創る!」 と言っているのもおもしろい。こういう時に反面教師というかモデルになるのは、やはりプロテスタントではなくて教義も組織も盤石で続いてきたカトリックの方らしい。


最近、近刊の資料としていくつかのマルクス伝を読んできたけれど、ヨーロッパの多言語がとびかう映像による再構成というのは追体験として貴重だと改めて思った。


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by mariastella | 2018-06-26 00:05 | 映画

『ボヴァリー夫人とパン屋』アンヌ・フォンテーヌ

最近TVで観た映画その2


『ボヴァリー夫人とパン屋』アンヌ・フォンテーヌ


ついこの前観たルルーシュの映画に出てきたエルザ・ジルベスタンがやはり、彼女にぴったりな軽いインテリまがい、アーティストまがいの女性の役で出ている。

これほど「それらしい」キャラばかりやっていたら、役の幅が広がらないんじゃないかと気になってしまうくらいだ。

パン屋の夫妻と、その向かいに越してきたイギリス人夫妻の話だが、イギリス人の妻がパン屋に買いに来た時に出会うフランス人女性の役だ。

ひまわりの種のパンを説明する時にヒマワリという言葉を英語で言えないパン屋に「sunflower」だと助け舟を出してくれる。彼女はイギリス人と結婚しているのだ。(フランス語ではtournesolで、「陽周り」という感じだからヒマワリに近い)


で、三組の夫妻が食事をするシーンがあって、イギリスとフランスの互いの文化に対する憧れと国民への悪感情の両立を吐露して百年戦争はやめよう、などというジョークが出てくる。

彼らの言葉が英語になったりフランス語になったり、どちらもなまっていたり、少し不自由で仲間外れの気分になったり、という微妙なカルチャー・ショック、国民性や階級差、パリと地方、などのテンションが通奏低音になっているので、日本語版の予告編を見て、全部日本語の字幕を読んでいたらこの映画の言葉の面白さが抜け落ちてしまうなあと思う。


それにしても、ルキーニって、文学好きの妄想男役がはまりすぎていて、いつもは感心するばかりだけれど、この映画を観ていて、本当に大丈夫か、この人、って思ってしまった。

ジェマ役のジェマ・アータートンの魅力で成り立っているのかもしれないけれど、あまりこちらの琴線には触れない。

確かに公開当時は話題になった映画だし、ある種のフランス文学(マリヴォーとか?)にもあるフランス的くどさというか素直でない不自然さがべっとりとしているのが、ノルマンディの美しい風景で救われているという感じだった。


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by mariastella | 2018-06-01 00:05 | 映画

『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲』クロード・ルルーシュ

3年前の映画。相変わらずがんばっているルルーシュの映画はなんだかさすがに新鮮味が感じられなくて最近見ていなかったが、仕事が一段落したのでなんとなくTVで視聴した。


原題は『Un + Une』つまり、有名な『男と女』の原題『Un homme et Une femme』の冠詞だけを残した感じ。


でも実際は、『男と女』の3年後の69年にベルモンドとアニー・ジラルドというキャラの合わない男女が引かれ合うという『あの愛をふたたび Un homme qui me plaît (1969)』(既婚のフランス女優とイタリア人の妻がいる作曲家がアメリカで恋に落ちるストーリー)という映画をどちらも好きだったジャン・デュジャルダンとエルザ・ジルベスタンの二人が、このようなストーリーをやりたいと監督に話して実現したものだそうだ

趣味や感受性やライフスタイルが似ている者同士のマッチングを図るネットの出会い系サイトやパートナー・サービスとは違って、実は違う者ほど惹かれ合うというフランスっぽい愛の定義に合っている。

ルルーシュは男と女の力関係の駆け引きをボクシングの試合のラウンドのように構成したという。

前に『À bras ouvertsで、ブルジョワのアーティスト夫人を演じたのが印象に残ったエルザ・ジルベスタンがインドにいるフランス大使夫人役で、こういうある意味の俗物役がこの人にはよく合っている。

大使は60代になったクリストフ・ランベールで懐かしく、登場場面は少ないのになかなか癖があり凄みもある。

主人公はこの映画を撮った2015年には人気絶頂だったジャン・デュジャルダンだ。


いきなり宝石店の強盗シーンから始まる冒頭のインパクトはなかなかのものだし、

そのエピソードにヒントを得た「インドのヌーヴェル・バーグ」風の監督が白黒写真で「ジュリエットとロメオ」という映画を作るというサイドストーリーもおもしろい。インドが舞台のロード・ムービー風という売りどころも分かるし、色彩豊かでエキゾチックで効果的なのも認める。でも、正直言って、「貧しく見えても人が生きるために生きている」国、「不幸の受容がある」国、正直で寛大で、インドに行くとヨーロッパ人のエゴイズムが叩きのめされる、と感嘆するルルーシュの「上から目線」のヴァリエーションみたいなものが鼻につかないでもない。


ルルーシュと組んできたフランシス・レイやミシェル・ルグランらへのオマージュでもあり、ルルーシュは彼らの音楽を通して神が表現しているのだ、などと言っている。(この映画の音楽もフランシス・レイだ。)

インドの群衆の様子と、実在の女性カリスマであるアンマの話も重要なファクターになっている。このアンマについては前に書いたことがある。

TVでこの映画の放映が終わって、二人の主人公やクロード・ルルーシュがゲストになってインタビューされながらルルーシュ映画を振り返る番組が続いた。ルルーシュの若々しさには驚く。80歳の老巨匠というより、まるで若者のように生き生きしている。この映画も当時78歳の監督がはるばるインドで撮影したのだからすごい体力だし、カメラワークひとつとっても、無邪気なくらいの生き生きした感嘆が伝わってくる。

けれども、映画が、もともとオリエントの霊性を研究していた夢見がちのフランス人女性と、合理的で自分の才能と才覚だけを信じている現世的な男との出会い、となっているのだけれど、そのどちらにも共感できない。

そんな二人を楽しそうに撮っている恋愛映画の名手というルルーシュ(この映画を久々の名作だという評もある)の若さには感心するけれど、全体にフランス人の悪い意味での軽さがインドを通して透けて見える。

主人公が自分のことについて「arrogance à la française」などと認めるシーンがあるが、そう、まさに、フランス人のエレガンスと自虐趣味と微妙にセットになっている独特の傲慢さが、全編を貫く軽さから匂い立つ。

大群衆の中の一人になった後で「たったひとり」としてアンマに抱擁されて「覚醒」するとか「再生」するみたいなスピリチュアル体験にもひいてしまう。

このアンマという人、こんなことを毎日、何年も続けていて、どういう心理状態にいるのだろう。

「先進国で心の病んだ人、疲れた人ご用達」という現実を見るだけで距離を置きたくなる。

アンマに抱擁してもらいたくないし、ルルーシュはすごいけれど、別に友達になりたくない、と思った。


これはフランスに来たアンマとルルーシュの抱擁のyoutube (広告が先に出た場合はskipした後)。



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by mariastella | 2018-05-23 00:05 | 映画

『Apparition(聖母)ご出現』グザヴィエ・ジャノリ/ヴァンサン・ランドンの

グザヴィエ・ジャノリとのヴァンサン・ランドンの『Apparition聖母ご出現』


ヴァティカンにはじめてやって来たジャーナリストに


「教会は、いつも、偽のご出現を認定してしまうよりは、真のご出現をスルーする方を好むのです」


と説明する聖職者。


文書庫には、これまでボツになった無数のご出現、奇跡、超自然現象についての調査記録のファイルが並ぶ。

2年前と1年前にフランスで聖母のご出現を見たというアンナは今は18歳の見習い修道女で、普段は修道院で羽根布団の製造を手伝っている。舞い上がる夥しい量の羽毛が天使の羽根のようでもあり、雪のようでもあり、作業中にアンナが倒れる時に噴きあがる「運命」みたいなものにも見える。


アンナの信用度や精神状態について執拗な調査がなされる。

教会当局は基本的に安易な奇跡が嫌いなのだ。

イエス・キリストがこの世で起こした奇跡や復活以外に、「信じる」ための奇跡を必要としてはならない。


フランス南東部のご出現の場所には、すでに巡礼グループがブラジルなどからも押しかけている。シーツに血のシミのついた妙な「物証」みたいなものも掲げられている。アンナが出席するミサでは人々が彼女に触れたがる。

ご出現の場所における経済効果に関心を持つ者もいるし、アメリカからやってきてインターネットを通してアンナをブランドにしようと企てる男もいる。

160年前のルルドの洞窟での聖母ご出現に立ち会ったベルナデットの身に起こったことと同じ。それを現代に置き換えている感じなのだけれど、別に160年前だから人々が簡単に信じたわけではない。むしろ、社会全体に「無関心」が多い今よりも当時の方が反教権的な雰囲気は強かったし、教育も受けていない貧しい少女ベルナデットに向けられる軽侮や不信も今よりも激しかった。


私はこのルルドについてもう20年以上前だけれど『奇跡の泉ルルドへ』という本を出した。


章立てが巡礼、聖母出現、聖女出現、聖地出現、奇跡出現、と続く。

普段は、自分の本の検索など絶対にしないのだけれど、今この本を検索してみたらコメントに引かれた私の言葉があって、なんだか、その思いは全然変わっていないなあ、と思った。

そして、聖母や聖女や聖地や奇跡の出現が望まれ、生み出されていく過程の人間的なメカニズムも永遠に変わらないなあと思う。


で、聖母ご出現の調査についての優れたドキュメンタリーといえるほど充実したこの映画を今さら見ても、私にはあまり意味がないのではとも思ったが、意外にも、すばらしくおもしろかった。

百件以上のご出現調査の記録をもとにしたというこの映画をすぐれて今日的にしているのは、「信仰」や「宗教」そのものに懐疑的なジャーナリスト役を社会派の名優ヴァンサン・ランドンが演じているところだ。


彼の演じるジャックは、優秀な戦場ジャーナリストだったが、15年コンビを組んできたカメラマンの殉職にショックを受けてフランスに戻ってきて引きこもっている。そこにヴァティカンから電話があり、話を聞きに来てくれと言われ、アンナの審査に加わることを引き受ける。

ヴァティカンで参考文献として読むようにと手渡される本が、私の持っている本ばかりだった。奇跡礼賛の本ではなくてフェイクはいかにして作られるか、というケース・スタディが中心だ。

ジャックは現地で、神学者や精神科医や司教区から派遣されたエクソシストの神父やらからいろいろなレクチャーを受け、独特な用語の飛び交う彼らの話を聞くのだが、ヴァンサン・ランドンは、その「目」、「視線」だけで、ジャックの懐疑や違和感、それが変化していくのを見事に表現している。

ご出現を見たという少女アンナは、模範的で落ち着いていればいるほど、何か怖い。純粋なのか、下心があるのか、犠牲者なのか、挑発者なのかよく分からないインパクトもすごい。彼らをとりまく人々の造形も素晴らしい。


「信仰は自由で明晰な選択なのです。証拠があるところには神秘はなくなります」とジャックに語る女性精神科医もいい味だ。


ヴァティカンから無認可のまま巡礼地になった場所にやってくる人々の中に、病気なのだろう子供を抱いた父親の姿が見える。

聖母出現と奇跡出現を期待してやってくる人々の姿のインパクトは、実在の巡礼地と同じだ。

「信じていない人」がルルドに行った時、病気の人や病気の人のために祈りに来ている人たちの大群を見ると、不思議なことに、


「こんなの、どうせ治らないのに、こいつら、本気で信じているのか ?


などとは思わない。


そもそも、「信じていない人」が聖地に足を踏み入れた時点で、「聖地に呼ばれた」不思議が働くかのようだ。

「人間って悲しい、でも、人間ってすごい」

という感慨にとらわれる。


この映画は、終始、合理主義者であるジャーナリストの目を通して描かれているわけだが、巡礼地にいる間に起こる彼の心の揺れに同調できる。

監督のグザヴィエ・ジャノリは、これまでにも、

『A l’origine』で嘘から本物の活動家になってしまう詐欺師(フランソワ・クリュゼ)や、

『偉大なるマルグリット』で音痴なのに立派な歌手だと思い込む貴婦人(カトリーヌ・フロ)などを通して、虚実をめぐる人間性の不思議を描いてきた人だ。


文学部にいた頃はユイスマンス(自然主義から印象主義へオカルティズムからミスティックなカトリックに転向した小説家)に夢中だったというから、この映画を作った時のテーマへの向かい方も想像できる。

聖地がらみ、奇跡がらみ、聖人伝がらみの映画は、ただただ精神的なもの霊性を喚起するか、あるいは、無神論、合理主義の側から揶揄するか、ひたすら別世界のお話として提供するか、というのがほとんどだけれど、この映画のスタンスはまるでサスペンス映画のように「真実」を探っていく。


主人公ジャック自身のシリアでのトラウマへと回帰していく偶然、シンクロニシティもあって、ご出現の真偽調査とは別の次元での「徴し」を、「意味」を、見出していく過程も、言葉ではあまり説明されないのに説得力がある。


でも、それだけだったら、変な話、私でもシナリオが書けそうだと思うのだけど、実は、それらすべてとは別に、「もう一つの物語」が織り込まれている。

アンナの運命について意外な展開の後、さらに、衝撃の結末があるのだ。


この映画はシリアで始まり、シリアで終わる。


シリアの難民キャンプで夫と赤ん坊と共に救援活動に従事するメリエムは、教会の教義やら奇跡調査の中で不安定になっていく旧友のアンナとは遠く離れたところで、人の命の尊厳に寄り添って生きている。

ジャックがメリエムの夫に見せるために持って行ったものは、ヨルダンとの国境に近い荒野にある修道院にあったカザンのイコンの複製で、そに描かれた聖母(ロシア正教では生神女)の両眼は弾丸に打ち抜かれて闇の穴のようだ。

この映画が日本で公開されることがあるかどうかは分からない。

でも、この映画の「ネタバレ」を含んだコメントはしたくない。

それが「ネタ」であるとともに、そこからまたすべてが別の様相で見えてきて、それは「全体」と深くかかわっているし、人間とか宗教とかのあり方も深く考えさせてくれるからだ。

オリジナルの音楽の宗教的ではない感じも対照的ないい効果を出しているのだけれど、ここぞという時にすごい迫力で流れるバッハの無伴奏チェロ組曲のプレリュードには、やはりこれしかないなあ、と思わせる。モンドンヴィルの曲の使い方もフランス映画だと感じた。


数ある「奇跡」映画の中で、歴史に残る作品となるだろう。


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by mariastella | 2018-02-26 00:05 | 映画

まさかのジョニー・アリディ

「全フランスが泣いている」式のジョニー・アリディの死にまつわる狂騒を冷ややかに見ていた私が、いやでもいろいろ目に入るので考えさせられたことがある。

まず、彼の葬列と葬儀。


下は、マドレーヌ寺院での葬儀。離婚歴のあるピアフが教会での葬儀を断られたのとは隔世の感がある。

事実婚も含めて5人の伴侶がいたジョニーの葬儀を司式したのはパリの補佐司教、事実上のトップ。

ジョニーがちゃんと洗礼を受けていた、つまり神に愛されていたことを強調し、ジョニーがジャーナリストのインタビューに答えて「どう思われてもいいけれど僕はキリスト教徒のままだろう。イエスが僕にはらをたてたりしないのは確かだと思う」と言っていたことを紹介した。外の大スクリーンでミサの様子を見ていた群衆も微動もしないで真剣に聞いていたそうだ。



これ等の画像を見ていて、ショックだったのは、圧倒的に「白人のフランス」だということだ。


もちろんニュースなどでは「全フランスが泣く」のにふさわしく黒人やアラブ人やアジア人の姿も映されてはいたけれど、ジョニーの死を嘆いて実際に集まる人のほとんどは白人だ。


ほとんど、トランプ大統領の就任式の中継を連想した。


トランプ大統領を英雄視する人たちとジョニーを英雄視する人たちは、「白人」が多いということだ。

パリのように普段はとても国際的でいろいろな人種が混在している場所で、圧倒的に白人が集まり、地方からもわざわざ出てきているのだ。


それを思うと、今さらだけれど、2015年の初めにあったシャルリー・エブド事件の後の「表現の自由」を掲げる共和国デモ行進の「白人率」に思い当たる。

あの時は、ねらわれたのがカリカチュアを掲げる週刊新聞の編集会議で、人気のカリカチュア作家たちが特定宗教の「冒涜者」だとされて殺されたのだから、政教分離と信教の自由と表現の自由を国是とするフランスの共和国主義が大反発したのは理解できる。


世界各国の首脳がやってきてオランド大統領と共に行進した。そこにはアラブ諸国の首脳もブラック・アフリカ諸国の首脳も並んでいた。だから、特に「白人」という意識はなかった。「全フランスが思想テロを糾弾する」という言い方は自然だった。


でも、確かにあの時も、移民の子弟の多いリセなどで黙禱を拒否したり、SNSでイスラム過激派を擁護したりするような生徒がいたこともニュースになり批判されていた。

信者数でフランス第二の宗教となっているイスラムの信者のコミュニティは、自分たちもフランスの共和主義を是とし、過激派を弾劾する、と言っていたけれど、それでも、デモ行進に積極的に参加することの心理的ハードルの高さを語った人もいた。


その時は、テロにも屈することのない表現の自由の国フランス、というのに満足していたし一種の高揚感も覚えていたので、全体主義的な同調圧力は感じていなかった。


それから、10ヶ月後に、無差別多発テロが起こり、次の年にはニースのテロがあり、どちらも多くの外国人がいて、ムスリムも犠牲者になった。

それはもはや「表現の自由」ではなくて、サッカーの試合を見たり、音楽を聴いたり、カフェで談笑したり、海岸で花火を見たりという「楽しんで生きる自由」への挑戦だったので、非常事態宣言がなされたせいもあるが、もう1月の大規模デモ行進のようなものはなく、犠牲者への追悼も、災害の犠牲者への追悼のようになった。

テロも、フランスの共和国イデオロギーへの挑戦というよりは、中東のISを掃討しようとする「有志連合」への報復だという文脈で語られるようになったからだ。

「楽しんで生きる自由」を謳歌できるのは新自由主義経済の諸国だから、実は、その弱肉強食のシステムの中で疎外されていく人々の怒りや絶望をどうするかというアプローチももちろんなかったわけではない。けれども、「一般人の無差別殺傷」が絶対悪だという事実と、強化される「安全対策」による縛りとが、論点を見えにくくしてしまった。

その後で、まさかのトランプ大統領の登場。

「アメリカ・ファースト」に熱狂するプア・ホワイトとか中西部のラストベルトの人々の姿。

黒人スポーツ選手たちのレジスタンス。


あれに比べたら、フランスはずっとましだよなあ、共和国ユニヴァーサリズム支持が行き渡っている、と思えた若いマクロン大統領の登場。


で、今回、ジョニー・アリディの死に慟哭し彼を崇める「全フランス」。


その人たちの映像が、すごく「白人」率が高くて、地方から駆け付ける人も多くて、トランプ支持派のイメージと重なった。

ジョニーがサルコジを応援したように政治的に「保守」シンパであることはもちろん誰でも知っていることだけれど。


彼の死とそれについての言説の中で、今まで見えてこなかった何かが見えてくる。

 

もう一つは、特別番組として2005年制作のローラン・チュエル監督の『 Jean-Philippeジャン=フィリップ』という映画がTVで放映されたのを観たことだ。

ジョニーが俳優として悪くないのを知っているし、共演のファブリス・ルキーニが名優だからなんとなく見てしまった。


ジャン=フィリップというのはジョニーの本名だ。(ラモーと同じ名前 !



ストーリーはファブリスという男がジョニーの歌を外でやかましく歌っていて殴られて気を失うことから展開する。

ファブリスは、ジョニーの大ファンで膨大なグッズを持っているコレクターだ。でも、病院で目を覚ましたら、そこはジョニーの存在しないパラレルワールドだった。

他のすべては妻子も含めて同じなのに、ジョニーがいない。ジョニーのいない世界には耐えられない。

で、本名から検索し、ようやく、ボーリング場を経営している60歳のジャン=フィリップを探し当てる。

妻に去られかけていて、息子と二人暮らしの、疲れの見える初老の男だ。

ファブリスは仕事もやめてジャン=フィリップをジョニー・アリディに育て上げる決心をする。

ジョニーの歌は歌詞もメロディもコードも全部覚えている。

ジャン=フィリップは若い時に書いた歌詞をファブリスがすらすらと書くことに驚く。

ジャン=フィリップはジョニーとしてデビューしようとした時に交通事故に遭って、歌手になる人生を40年前にあきらめてすべてを封印していたのだ。

それから、筋トレも含めて、ファブリスが必死にジャン=フィリップをサポートする。

しかしそううまくはいかない。絶望した時にわざと殴られてこの世を終わらせようとするけれど、気を失っても元の世界に戻れない。

でもジャン=フィリップが斃れているファブリスを助けてくれた。二人の間にはいつか友情と信頼が生まれていたのだ。

で、いろいろあって、最終的に、ジャン=フィリップはサッカーの大スタジアムで突然歌って観衆の心をつかむのだけれど、ファブリスは殴られて気を失う。

気が付いたら自分のうちのベッドの上。

会社に行かなくては、と慌てて出社するが、みんなにじろじろと見られる。

おそるおそる、「ファブリス・ルキーニさんですよね」と言われてサインを求められる。

また別のパラレル・ワールドに来てしまったのだ。

携帯が鳴る。

ジョニーからだった。

実際に友人同士である歌手のジョニー・アリディと俳優のファブリス・ルキーニが生きる世界に降り立ったというわけだ。

二人はデュオで歌う。

現実と虚構が重なったり移ろったりとかなり芸の細かい脚本だ。


若い頃の夢を封印した60歳の男に、そのポテンシャルを信じさせて、彼がなるはずだった者に短期間に仕たてあげることができるのかか、自信と自信喪失と信頼と懐疑、情熱と希望と夢。


ファブリス・ルキーニの演技がうまいのは知っているが、若い頃の事故という偶然で人生を棒に振った男の哀愁と尊厳を演じるジョニーはなかなかのものだ。


そうか、この、破天荒な生活を続けたロックンローラーの秘める、ある種の無防備な弱さというものに人々は惹きつけられるのかもしれない。

夢見ていた人生を送ることがかなわずに初老の域に入ったジゃン・フィリップと同年配の「白人」たちに、夢を見続けさせる何かをジョニーは持っているのだ。


ジョニーは最初、この作品を拒否したそうで、ルキーニも断ったという。

でも、友人同士である2人は、互いに、互いの共演ならということで最終的に引き受けたという。

大いなるお遊び、贅沢な遊びといえる映画だが、ジョニー・アリディがフランスの国民的歌手であるという前提を共有していなければ分からない。

ジョニーのファンは確実に動員できるということでフランスでは商業的に成り立ったのだろう。

これからDVDなども売れるだろうな。

やぼなことを言えば、一卵性双生児だって40年も別の環境で別の暮らし方をしていたら外見も含めて違いが出てくるものだから、パラレルワールドで無名の男だったジャン=フィリップが、60歳になって、いきなりロックスターのジョニー・アリディに変身できるのか、あるいはそれをファブリスに確信させる要素を持ち続けているかというのは、説得力が少ない。

ジョニーはジョニーのままだ。

それでも、ジャン=フィリップの悲哀と底に秘める尊厳とやさしさとをにじませる演技はなかなかのものだった。


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by mariastella | 2017-12-16 00:05 | 映画

『マダムMadame』 Amanda Sthers 監督/トニ・コレット、ロッシ・デ・パルマ

フランス映画をもう一本

『マダム』


フランスのアメリカ人を描いた映画はカルチュラルスタディとしていつもおもしろいので観に行くことにした。

これはそれに階級差を配して、アメリカ人、イギリス人、フランス人の金持ちの間に東洋人、スペイン人のメイドらが加わる。フランスかぶれのアメリカ人の金持ち夫婦が、豪勢な自宅のディナーに、ロンドンの新市長のゲイ・カップルやアイルランド貴族の美術ビジネスマンなどを招待するが、13人になってしまって縁起が悪いのでメイドのマリアが友人に仕立て上げられる。マリアはできるだけしゃべるな、飲むな、と言われるのだが…。

一見、一種のシンデレラ・ストーリーとして始まるのだけれど、このシンデレラが、貧しいけれど実は美しくて若くて頭がいい、というのではなく、ブルジョワたちの美の基準(つまり、現代の商業的美の基準)に当てはまらないような個性的な容貌のロッシ・デ・パルマ。ペドロ・アルモドバルの映画での常連である50代の熟年女性だ。大柄で顔も大きくインパクトがある。

監督はまだ30代の若いフランス人女性作家で、フランス人らしくインターナショナルだ。

母親がブルターニュの弁護士、父親がチュニジアのユダヤ人精神医でマイアミの大学でも学び、パリのテロの後でロスアンゼルスに住んでいる。


夫役のハーヴェイ・ケイテルは78歳でこの役には年取り過ぎている感じだ。

で、夫婦とも、フランス語やフランス文化の個人授業を受けているという設定なのだけれど、どちらも相手と浮気する気が満々だというのは、フランスとフランス人へ向けるステレオタイプがベースで、すべて紋切り型でカリカチュラルだ。

最近の『ラ・メロディ』だとか『ル・ブリオ』でも階級差がステレオタイプに描かれていたにもかかわらずそこから引き出されるメッセージの方向性がはっきりしていたけれど、この『マダム』にはそれがない。

監督の目がどの登場人物に対しても等しくシニックなのだ。


大きなうねりもないし、結末の後味も良くないし、カルチュラル・スタディとしても人間劇としても失望した。

ロッシ・デ・パルマほどの個性的な人を使ったのに「途方もない感じ」を出せなかったのはもったいない。

私が映画に求めているのは何なんだろうと自問するという意味はあった。


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by mariastella | 2017-12-02 00:05 | フランス

『Le Brio』イヴァン・アタル監督

最近のフランス映画をもう少し。まず、 

Le Brio』イヴァン・アタルIvan Attal 監督 .

ダニエル・オトゥイユ Daniel Auteuil, カメリア・ジョルダナCamélia Jordana



これは、いわば、先日の『メロディ』のような環境の子供たちが10年後にどうなるか、そして音楽の先生でなく法学部の教授と出会うとどうなるか、というもう一つのカルチャー・ショックのストーリー。


パリ南郊外で育った「アラブ系」のネイラがアサスのパリ大学法学部へ。

ブルジョワ子弟風が多い学生たちといっしょにネイラが建物に入ろうとすると黒人の警備員が学生証の提示を求める。

ユニークなのは、『メロディ』のように、二つの別々の世界、別々の世代が出会って、才能にほれ込んでメンターになる、というのではなく、ピエール・マザール教授が最初から差別主義者で、講義に遅れてきたネイラに差別的発言をしたことだ。それが問題になり、懲罰委員会にかけられる前に、「多様性を尊重」する証明としてネイラを弁論大会に出すために訓練しなければいけない羽目になる。

つまり、出発点にルサンチマンや相互の憎悪があるわけだ。

大学の講堂で学生たちがすぐに、教授の言葉に反応して「差別だ差別だ」と騒ぐこと自体がフランス的ではあるけれど、それは「偽善」でもあることも分かる。


今の学生たちがほとんどノートパソコンを持って講義を聴いていること、教授の差別的言辞などはスマートフォンで録画され、facebookに上げられることなどは、どこの大学でもそうかもしれないけれど、今の私から見たら、こんなところで講義もしたくないし、講義も受けたくない、という感じがした。

バカロレアに合格すれば原則的には誰でも講義に出ることができるので、昔のアサスも一年目は学生の私語などがもっと多かった、今はもっとひどいんじゃないか、という人もいる。私はソルボンヌの大講堂で受けた講義などもう40年前だけれど、普通に静かだったような気がする。1年生用ではなかったけれど。

でも、学生が多すぎて、教授が遠すぎて、集中もできずにすぐ眠たくなったので途中でやめた記憶がある。日本の大学でも最初の2年くらいは大教室での講義に出たことがあり、全共闘がやってきて中止させるということがたまにあったけれど、まあ、普通だったし、眠らないために大抵は前の席に座ることにしていた。

アサスもよく知っているのでなんとなく懐かしい。


で、弁論大会(大学対抗であり、アサスは最近優勝者を出していない)の準備をさせるための個人授業が始まる。ネイラは自分が教授のアリバイ作りに加担させられているとは知らない。

ネイラは少しずつ地元の幼友達たちと別の世界に生きていることに気づくようになる。

シングルマザーと暮らしている。

教授は独身で、老いた母ともうまくいっていない。

大学教授で教養もあるが実は孤独で気難しく誰ともいい関係を築けない。

ネイラも教授も、ある意味で典型的でカリカチュラルなシチュエーションだ。

社会寓話という感じになっている。

この2人は互いの偏見を乗り越えることはできるのか ? 

そして、古典や哲学の知識とか弁論術のスキルなどの高度な教養はどのように教えたり学んだりして継承するのか ?

教授はネイラにメトロの中でテキストを大声で読ませたり、高齢者に話しかけさせたりと、さまざまな方法で訓練する。ネイラと一緒にフランス各地の大学(フランスは基本的には国立大学しかない)を回って予選を勝ち抜いていく。決勝はもちろんパリだ。

これが子供たちの成功と満場の拍手というような『メロディ』風の予定調和なら、当然、最後に優勝してハッピーエンドとなっても不思議ではないが、実は思いがけない息をのむラストになっている。

ネイラ役のカメリア・ジョルダナはいわゆるアラブ系と言われるアルジェリア人の両親を持つが両親ともに歌手でのブルジョワ家庭に育っているので、この映画での「役」とは重ならない。監督のイヴァン・アタルはアルジェリアから引き揚げてきたユダヤ人家庭の子供で、映画の舞台であるパリ南の郊外の町で実際に育った。

ショーペンハウエルの『争論弁証法』(必ず言い負かす技術)にある「戦略」を徹底的に叩き込まれる。真実などはどうでもいい、論理や分析や哲学も関係なく、ただ、論争に勝つための実用的技術、手練手管というものだ。ポスト・トゥルースの走り。

それを軸にして、ラブレー、ニーチェなども援用される。

この本は日本で何と訳されているのだろうかと検索してみたら、岩波文庫の『知性について』の中で「論理学と弁証法の余論」として収録されているようだ。日本語の要約がないかと探してみたら、ある感想文の中に一部があった。こういうものだ。

>>>第七戦術…拡張解釈の手。論敵の主張を――その当然の限度以上に押し広げ――彼が意図しあるいは明言した範囲以上に広い意味に受取り、このように拡大解釈されたテーゼをわけもなく反駁する手。
 対策…「反論を受けた場合は、自分が言明した主張を、用いた言葉遣いやそれに当然含ませられる意味だけに、はじめから厳しく限定すること」
 
 第八戦術…「理屈詰めの手。論敵のテーゼに、それと主語や述語の点で似ている第二のテーゼを、それもたいていは無断で付け加える。そしてこの二つを前提として、そこから真ならざる――たいていは悪意的な――結論を引き出してきて、その責任を論敵に負わす。
 例…「フランス国民がシャルル十世を追放したことを甲が賞賛する。すると直ちに乙が『ではあなたは我々が我々の国王を追放することをお望みなのですね』と言い返す」
 
 第九戦術…「方向転換の手。討論中に、どうもうまくゆかぬ、論破されそうだと気づくと、論点変更によって――すなわち議論を第二次的な別の対象の方へそらせ、必要とあればそういう題目へ一気に飛び移って、いちはやく敗北の厄を防ごうと努める。〜彼らが窮地に陥ると、必ずといってもよいほど出現してくるものなのである」<<<

etc,etc…

なんだか国会答弁で「野党からの追及のかわし方」として、使われているごとくだ。
 
もっともショーペンハウエルはこれを学べと言っているのではなく、これを使う相手とは即座に話を打ち切るべきであると推奨しているのだから、要するに、真理を問題にしないこういう土俵にはひき出されるな、ということだろう。
 

映画の弁論のシーンは、なかなかいい。戦略だけでなく、ネイラの恋愛なども反映されていて説得力がある。弁論スキルの中にネイラにはどこか「真実」があるのだ。

ダニエル・オトゥイユは名優だが、なんだかファブリス・ルキーニとキャラがかぶるイメージだった。ルキーニ・ヴァージョンも見てみたくなる。

スケールはささやかだが私好みで気にいった映画だけれど、弁論シーンをはじめ、「フランス語」のおもしろさが際立っている映画だから、例えば日本で字幕上映されたりしたらどの程度伝わるのだろう。

特筆すべきはネイラの幼馴染の青年で、大学生になったネイラからメールでも綴りを訂正されたり、しゃべり方や語彙についても注意を受けたりするなど、ネイラが自然に「上から目線」になったことも感じながら、その愛情は変わらないし、クライマックスシーンに大きな役割を果たす。

その前にネイラは彼のことを評して「まっすぐで、曲がらなく、恐れもなく、刃物のような人」のようないろいろな形容をする。それを聞いているだけで、彼女が、彼の環境や教養や学歴や仕事などと関係なく、人間として最も大切な部分を把握していて、それがどんなに稀で、すばらしいことかということを理解していることが分かる。

幼い時からのつきあいで、見抜いていたのだ。

こういう「絶対にぶれない信頼のおける男」というのは、少数だけれどどの世界にもいる。ネイラがそれを見抜く力があってよかった。

この映画の設定だったら、メンターとなる教授とネイラの間に疑似恋愛が成立するというシナリオでも不思議ではなかったのに、短いシーンで若い恋人たちの心の機微をきっちりと描いて、愛するとはどういうことなのかを見せているのはすばらしい。カメラワークによる表現力もすぐれていて満足。


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by mariastella | 2017-12-01 00:05 | 映画

『メロディー』ラシド・アミ監督、カド・メラッド主演

最近観たフランス映画の続き。

『メロディーLa Mélodie 』ラシド・アミRachid Hami 監督、カド・メラッドKad Merad主演


これは暴力シーンも絶対にない精神衛生にいい映画。

50がらみのバイオリニストのシモンがパリの下町の中学1年のクラスでバイオリンを教えることになる。フランスで中1というと日本の6年生の年頃で、反抗期の一歩手前。フランスの小学校には音楽の授業がないから、親に地域の音楽院に登録してもらえなかった子供たちはドレミも読めない。

この映画はいわゆるfeel good movieで、社会的に恵まれない階層の子供が教育者に出会って人生に、未来に、意味と希望が生まれるというもの。その意味では予定調和の世界だ。

カド・メラッドというコメディのイメージが強い性格俳優が、バイオリニストのシモンを演じる。彼もまた、子供たちとの交流から人生の喜び、音楽のすばらしさを再発見するというストーリー。

音楽によって恵まれない子供たちを助けるという試みはいろいろな国にある。ベネズエラが有名で前にも少し書いた

フランスでも、この映画のモデルになったのは2010年から試みられているDémosという政策で、移民の子弟らの学区で3000人の子供たちに楽器を与え、教えて、オーケストラに参加して一流のホール弾かせるというものだ。この映画では、リムスキーコルサコフのシェヘラザードをフィルハーモニーで演奏する、という目標がたてられる。


去年の6月に、フィルハーモニーで200人のバイオリン(とビオラ)演奏に参加するために暗譜に励んだ私としては親近感あり過ぎ。私の場合はすでに音楽院の中級以上の生徒という条件付きでフランス中から小学生から85歳までが参加というむしろ「贅沢」な冒険だったのだけれど、大勢で、大ホールで、一つの音楽を創るというわくわく感は同じだ。

上演の後で監督のラシド・アミとの質疑応答があった。8歳以上の子供の参加がOKで、子供たちの質問がかわいかった。小学生に、どうして小学生でなくて中学生を使ったんですか ? と聞かれた監督は、12歳未満は一日に2時間までしか拘束できないこと、12歳からは4時間拘束できるので撮影が可能だった、と答えた。

パリとパリの近郊から、一度もバイオリンを弾いたことのない子供たちのオーディションをして15人選んだ。移民の子供(才能を見出されてソリストになる子供はセネガルから来た母子家庭という設定)などが中心なので、映画に出すためには両親の承諾が必要で、シングルマザーの子供のうち4人の父親を探し出してサインしてもらったが、父親に会ったこともない子供たちにはそのことを話せなかった、と言っていた。

映画には、途中で電線のショートで火災になり音楽室が使えなくなるというハプニングがあるのだが、それを心配した子供には、実はこの音楽室だけは、撮影のために特別に作ったもので、それを燃やしたのだという裏話も教えてくれた。

撮影にかけた三ヶ月のうちに、実際に、演技もさせ、バイオリン(鈴木メソード)も習わせてオーケストラと弾かせるという冒険に成功した。全員が、将来も役者になりたいと言い、5人がバイオリンを続ける、ソリスト役の少年はバイオリンの道に進むと言っているそうだ。


映画の中で、子供も、親たちも、実際にシモンが弾くバイオリンの音色に魅せられる。クラシック音楽の敷居が高いとかいうよりも、今の子供たちはイヤホンなどを通しての再生音楽以外はなかなか耳にする機会がないから、生の音楽に涙を流すほど感動するのだ。この辺の実感は分かる。

監督は、ゲットーの子供がバイオリンというノーブルな楽器を持っている姿にドラマを感じたので、管楽器ではなく敢えてバイオリンにした、と言う。

私はいつもは、こういう上映会の後の監督とのディスカッションには積極的に発言するタイプなのだけれど、今回は終始聞くだけにした。

ビオラ弾きでカルテットもやるし、フィルハーモニーでのオーケストラとの共演もし、生徒との交流も仲間とのコンサートもある私にとっては、この映画はいろいろツボにはまりすぎているからこそ満足したのだけれど、それだけに「普通の観客」の視点を持てない。

よけいな突っ込みどころが多すぎるのだ。

映画の中で、カルテットの一員として演奏旅行が決まったシモンが中学校での仕事を途中でやめる、というのだけれど、パリでのコンサートの後で、演奏旅行をキャンセルして子供たちの指導を続けることになる。その理由は、聖堂でのコンサートの後で、喜びを感じられなかった、子供たちと音楽をやっている時の方が喜びを感じられることが分かったから、というものだ。

シナリオとしては納得がいくけれど、演奏家としてはまったく信じられない。

あのような場所でモーツアルトのディベルティメントをあのようなパート(第二バイオリン)で弾いた後で「喜びを感じられない」なんてあり得ない。

責任感から子供たちの指導を続けるとしても、カルテットでの演奏旅行の方が絶対にいい。演奏者としてのクオリティ・オブ・ライフとしては比較にならない。

ラストのフィルハーモニーでのシーンも、本番でソリストの少年のうまさに指揮者が驚いたような顔をするのが信じられない。これもシナリオ的には、最初の合わせでひどいレベルだと絶望したシーンがあるので、本番での「奇跡」に指揮者がうなる、という筋書きは分かるけれど、本番の前にもう何度もリハーサルがあったはずで、フィルハーモニーのリハーサル室や、舞台でもすでに合わせているはずだから、そんな意外性があるわけがない。

バイオリンがノーブルな楽器というのも実は今のフランスの下町の公立音楽院では逆だ。ピアノは自宅にピアノを個人でレンタルするか購入するかが必要だけれど、バイオリンやビオラは、子供用のサイズのものが音楽院から貸し出される。だからシューズやレオタードなどが必要なバレエなどと比べても、バイオリンの方が気楽で子供を通わせることが多い(親の所得が少なければレッスン料も限りなく安くなる)。だから、ピアノのクラスに比べてバイオリンのクラスの方が明らかに外国人の子供や移民の子供が多い。ただし、親がフォローしないので、その多くは途中でやめていくし、学年末の試験で振り落とされる。

他にも不満はある。この映画でシモンが弾いて子供たちや親を感動させるソロ曲はメンデルスゾーンのコンチェルトにバッハのパルティータだ。生徒二人を招いたコンサートで弾いたのはモーツアルト、クライマックスの課題曲がリムスキーコルサコフという選曲。

まあ、リムスキーコルサコフはかなりフランス的な色彩はあるけれど、そして、ソリストの少年を際立たせる効果のために選んだそうだけれど、実際にこの種のプロジェクトの課題曲としては向いていないので不自然だ。

バッハのパルティータのシャコンヌもフランス舞曲風とは程遠い弾かれ方だし…。フランスが舞台の音楽ストーリーなのにフランス音楽が一つもなく、「クラシック音楽=ノーブル=バイオリン=ドイツ音楽」のような先入観に立つのはいかがなものか…

などと、小さな違和感が積み重なる。

もちろん私が知らない世界がテーマの映画なら、ディティールにおいてどんな不自然な場面や考証のエラーやご都合主義があったとしても、それに気づかないだろうし、気にもしないし、それが映画のフィクション世界を妨げることもない。

あまりにも身近なので気になるのだ。

自分もアルジェリア生まれでパリ近郊の貧しい町で育ったという32歳の監督は、中学校で働いたこともあるが6ヶ月しか続かなかったという。小学生の子供が「どうして映画の中の生徒たちは悪い言葉ばかり使うのですか?」と質問したら、「子供に見せるためにもっと上品な言葉を使うことしたらそれは現実とは違うことになる、ぼくもこういう言葉を使っていたし、今も子供たちはこういう風にしゃべっている、ありのままを撮っただけだ」と答えた。

19ヶ国の上映が決まっているそうで、イタリア、アンダルシア、韓国での上映に出席したそうだ。生徒たちの大半が黒人やアラブ系などであることはフランスのサッカーチームと同じで違和感は持たれない、などとも言っていた。

こうなると、この映画の社会的背景はある意味で私と遠いところにあるわけで、弦楽器、フィルハーモニー、生徒に教える、などという共通点がある分、かえって断絶も感じる。

シモンのセリフの中で実感があると思ったのは、「どこにでも才能のある子とまるでダメな子とがいる」と言い切るところだ。

才能のある子もゼロの子もいっしょにグループとして何かを作り上げていくことは難しい。バイオリンがダメでも、スポーツやダンスの才能があったり、絵の才能があったりする子、数学の才能がある子などはいるだろう。でもそんな子供たちはこのプロジェクトにとってはお荷物であり、本人にも苦痛かもしれない。教える方にとっても喜びがない。こういう自明な多様性があるはずなのに、貧しい子供にもバイオリンとクラシック音楽を与えると人生の道が開ける、みたいなオプティミズムにも違和感がある。

今の日本は知らないけれど、私の小中学校の頃は、全員がなんでもかんでもやらされた。嫌いな科目、不得手な科目に苦しんだ者も多かったかもしれないけれど、少なくとも、自分は何が嫌いなのか、不得手なのかを自覚する役にはたったかもしれない。

小学生の頃から私がピアノを教えている生徒が今は高校三年になり、来年のバカロレアで、理系バカロレアのオプションとして音楽も受けるというので、自由曲を準備させている。最初は、フランスであまり知られていないドイツ・ロマン派の曲を練習させていたのだけれど、今年のテーマがかなり現代的なものだということが分かって、サティに切り替えたところだ。ラヴェルの左手のためのコンチェルトなど10曲の課題曲から二つをくじで引いて、当たった曲の作曲者や時代背景や音楽の構成などを審査員の前で発表し、質問に答え、それから自由曲の実技を披露する。その曲の背景の説明や、課題曲との関係も話さなければならない。

私のトリオのメンバーのHは音楽バカロレアの審査員も毎年しているので、アドバイスをもらうつもりだけれど、私の生徒のリセでは、専任の担当のがいない。私が全部、準備を助ける。

オプションなので、自分の平均点を下回る点数である場合は計算に入れられないので、失敗してバカロレアの平均点の足を引っ張ることにはならないが、受験準備だけでも結構時間は取られる。でも、ここでこの10曲についてしっかり学べば、これからの人生の「教養資産」になると思うよ、と私は彼女に言った。

彼女も私の個人レッスンをずっと受けているのだし、クラシック・バレーもずっとやっていて、私立の進学校に通ってエリートコースを目指しているのだから、「貧しい家庭の子供たちに楽器を教える」冒険などとは程遠い。でも、楽器演奏という純粋にテクニックの習得とそれを超える音と音の間に出現する「音楽」と、曲を通しての作曲家との出会い、時代との出会い、人間性の普遍との出会い、などから生まれる錬金術のようなマジックの瞬間を共有する体験は、何物にも代えがたい。彼女にとっても、私にとっても。

ある曲の演奏について彼女の感性と私の感性がぴったり一致したような時は、その部分でとても特別な関係性が生まれる。


一対一(正確には作曲家も合わせて三人だけれど)の贅沢というのが私にはちょうどいいサイズなのかもしれない。


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by mariastella | 2017-11-28 00:05 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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