L'art de croire             竹下節子ブログ

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修道院の秘密?

フランスは、宗教戦争後の絶対王権も、革命後のナポレオンまでも、ローマ・カトリックの神を自分たちの権威の担保にしていたので、「反教権主義」という反カトリック教会の運動も根強かった。


では、反教権主義者は近代的で民主的で、カトリック教会の中世的、封建的なことを徹底的に批判しているのかと言えば、なんだか変なものもある。


カトリック教会を揶揄する時に、丸々太った司祭だの、修道女たちの姿を戯画化するのはお約束だけれど、反教権共和主義者こそ、1944年にようやく成立した婦人参政権に激しく反対したのだ。

「我らの敵、女」などという講演をした自由思想家アンドレ・ロリュロは1930年に、伝統的な反教権主義の雑誌を再刊した。


1911年の表紙は、修道女と司祭が「修道院の秘密」みたいな怪しげな本をいっしょに読んで笑っている絵柄だ。

でも、膝に乗っている猫も快楽のシンボルなのかもしれないけれど、ツボにはまり、なんだか、みんな自由で、楽しそうでいいなあ、と思えてしまう。

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by mariastella | 2018-02-16 00:05 | フランス

中国の春節祭の認知度と戌年記念のフランス切手

郵便を使うことがとんと減って、切手もあまり買わなくなったが、必要になって買いに行くと、12枚つづりの犬の置物シリーズが。

フランスにおける中国の春節祭の認知度は毎年高くなっているので、今年は「犬の年」だということもすでにあちこちで耳にする。

それにちなんだのか、ルーブル、オルセー、ギメなどにあるコレクションの中から12の犬の作品が記念切手になっていた。

日本のもの、中国のもの、エジプト、オリエント、アフリカ、ヨーロッパと幅広く網羅。
日本の犬だけが、台に座らされていてなんだか猫っぽい。

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その他に、なんだかボールで遊んでいる猫っぽいのももう一つあるなと思って見ると、中国の chien de FO と書いてある。
えっ、私のイメージでは紫禁城とかのこれとか台湾のこれだったけれど。

というか、日本の狛犬も、考えたら「chien de FO」だろう。

急に気になって、FOって何だろうと検索したら、
昔は "Dogs of Fu-Lin" とか "Fo-Lin"とか呼ばれていたという。コンスタンティノープルを著すFolinから来た犬(獅子、ライオン)という意味で、トルコやペルシャやビザンティン帝国、ローマ帝国など西方全般がFolinだったらしい。

フランス語で検索したから、Folinに当たる漢字が分らない。
ピンインを漢字に変換するサイトを調べてみたがうまくいかなかった。

どちらにしてもこの「FOの犬」は鞠にじゃれている猫ではなくて、同じネコ科のライオンをベースにした神話の犬が宝珠を守っている、みたいな図柄だということになる。

よく見るとあちこち突っ込みどころがある犬12態の切手シートだった。






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by mariastella | 2018-02-15 00:05 | フランス

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」と動物行動学

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。」

マタイによる福音書10,16-17

福音をイスラエルの民に伝えるために12使徒を送り出したイエスの言葉だ。


悪霊を追い出すという癒しの超能力まで授けて送り出すにしては全能感を鼓舞するどころか、やけに現実的だ。

福音書がイエスの死後何十年も経ってから書かれたもので、イエスの受難やのキリスト者の迫害を経験し来るべき迫害にも備えたいろいろ「後付け」の編集があるのかもしれないけれど、ちょっと複雑な気持ちになる。

迫害されるという予言は別としても、

蛇のように賢く、鳩のように素直に」

というところがもう、妙な含蓄がありすぎる。

「蛇のように賢く」というのは、蛇に欺かれないような分別を持てというのから、鳩を守る番人としての蛇だとか、いろいろな解釈がある。

でも、実際の福音伝道者が、この言葉を引用して、「相手に布教だと分からせないように何気なくローマ法王の伝記を歴史書として同僚に貸した」と満足しているケースもあるから、まあ、頭を使え、という感じでもいいのかもしれない。


「鳩のように素直に」、というの「イエスへの信頼」というのが平均的な解釈のようだけれど、聖書の中の「鳩」っていうのも、特に聖霊のシンボルである白鳩というのがなんとなく特権的でカラスがかわいそう、などと私は思ってしまう。

カラスは鳥の中で一番頭がいいことで知られているから、ここはいっそ、「カラスのように賢く、鳩のように素直に」の方がいいかなあ、と思ったり。


でも、鳩についても、動物行動学のローレンツの有名な『ソロモンの指環』で、種内攻撃に抑制本能が働く猛獣などと違って「鳩は同族をいびり殺す」というエピソードがすぐに頭に浮かぶ私は、素直という言葉に違和感を持ってしまう。


先日、沖縄の辺野古がある名護市の市長選で基地容認派が勝利した、

というニュースを聞いた時に、複雑な気持ちを整理しようと思ったら、こんな言葉を連想してしまったのだ。


なぜだか、分からない。


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by mariastella | 2018-02-10 00:05 | 雑感

コンスタンス・ドゥブレと宝塚

最近、『プレイボーイ』という自伝風小説を出版したコンスタンス・ドゥブレ。

おじいさんが、第五共和制憲法にかかわりドゴール大統領の第五共和制の最初の首相になったミシェル・ドゥブレだ。ミシェルの父のロベール・ドゥブレは小児医学の草分けで彼の名を冠した病院もパリにあるし、ミシェルの四人の息子はいずれも政治家やジャーナリスト、作家など有名人で、コンスタンスはその一人のヴァンサンの二人の娘の1人だ。コンスタンスは弁護士で妹はジャーナリスト。

細かく言うといろいろあり、それはこの本にも書かれているのだけれど、とにかくこの人がすてきすぎる。

後に貼っておくが、本の紹介のために出た番組で入ってくるときの長い手足を持て余したようなちょっと照れたようなしぐさ、とか可愛い。

日本人の女性で宝塚のトップスターに憧れたことのある人なら彼女に夢中になると思う。何というか、宝塚のツボにはまりすぎている。


45歳なのだけれど、そして20年の結婚歴があって一人息子もいるそうなんだけれど、途中で自分がバイセクシュアルではなくて完全に女性が好きなのだと気づいて、以来、二人の女性との愛と別れがあり、とにかく今は、「見た目」を男に変えてしまった。

カルチェラタンの10平米の一部屋で暮らしているんだそうだ。

彼女の写真いろいろ。髪の長かった頃のものもある。


彼女が出てくるインタビュー番組。



まあこの人の場合は、代々のブルジョワの名門家庭の出身で、弁護士でもあり、マヌカンにもなれそうな容姿で、しかも、見た目が宝塚の男役、ってユニーク過ぎる。

こんな人のフェミニズムへの意見とか聞いてみたい。


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by mariastella | 2018-01-28 00:05 | 雑感

ダウドさんとフェミニズム

カトリーヌ・ドヌーヴらがル・モンド紙に出した、ピューリタン的な男の敵視に対して、「男が女を誘惑する権利」擁護の声明が物議をかもしている。

それを眺めていて、そもそも、欲望に「力」を持ちこむのが人間の進化の歪みなんだろうなあなどとと考えていた。
自然界では、パンダの交配やら野良猫の生殖の季節をみていても、メスに選択権があって、オスは、フェロモンを感知してむかっていっても、受け入れてもらえないとあえなく引き下がる、というパターンだし、クジャクの羽根みたいに必死にメスにアピールなどするし、ハーレムを作っているようなオスも、力を行使するのは他のオスに対してであって、メスたちは一番強そうなオスのところにとどまる、という感じだ。

働きバチだの働きアリなどは人間の目から見るともっと悲惨で、生殖というのはまず類的存続をかけたもので、「個」は不平等すぎる感じがする。

人間でも、社会的な格差などのない学校のクラスなどでは、男生徒や男子学生の方が、一般に女子より弱くなる。より多く欲するものがより弱くなるのだ。

で、対等な関係である場以外のところで、つまり、「支配力」を行使できるところで欲望を満たすということがある。「力」は腕力だったり金力だったりもする。
人間の社会には、そういう役割を押しつけられるオブジェとしての女性、犠牲としての女性がたくさんいるのだ。

ル・モンドに声明を出すような女性たちは、社会的に「男と対等な関係の場」で生きている人がほとんどだろう。
学校や地域の幼馴染や同級生などの自然な対等の場とは別の「大人の世界」でも、「男と対等な関係の場」で生きている女性、だから、求愛する男性より相対的に強い立場にあるという女性であり、それは少数なのだろう。

などと思っていたら、『ル・ポワン』紙でカメル・ダウドが、この声明を激しく批判していた。(彼の記事は前にも紹介したことがある)

要約すると、

ピューリタンがどうのこうのと言っているのはお花畑であって、イスラム(ダウドはアルジェリア人)世界のことを考えてみろ、
イスラムの男たちはもっとピューリタンで、女性にはヴェールをかぶせて隠すし、さっさと結婚させるし、性的自由など認めない、で、それは女性を対等な人間として認めていないわけだから、人妻以外の女性や、共同体以外の女性や、戦利品としての女性や、ふしだらな女性に対しては、暴力をふるっても許されると思っている、
ドヌーヴらの声明はそういう男たちを力づけてしまうひどいものだ、

という言い分だ。

なるほど、情報のグローバリゼーションとはすごいなあと思う。今の世の中、だれのどんな片言隻句でも、文脈を離れてどんな風にでも改ざんされてどんな読み方でもされてしまう。
だからこそ、影響力のある発信者は、世界中にいる最も弱い立場の人のことも視野に入れて発信すべきだ、というのは正論かもしれない。

すべての人が、情報を正しく解読するリテラシーを持っているわけではないし、もちろん自分の都合のいいように故意に意味を捻じ曲げる人もいる。

こうなると、「表現の自由」ということそのものにも、いろいろな自己規制がかかりそうだが、何にしろ、発信者がコンテンツを明確な目的、意図というものを明記したパッケージに包んで差し出すことを考えなくてはいけない、自戒する。

けれども、肝要なのは、やはり、ユニヴァーサリズムとコミュニタリアニズムの区別ができていず、混同されているのを整理することだ。

ムスリムの社会での女性のスカーフやアバヤ(全身を隠す)の問題は、コミュニタリアニズム内でのフェミニズムの問題だ。

他の社会で他の文脈ではフェミニズムの問題にならない。

コミュニタリアニズムの観点に立ったフェミニズム(男女同権に近い)を絶対として押しつけることが不当なように、

ユニヴァーサリズムの観点に立ったフェミニズム(人間の平等)を都合よく捻じ曲げて特殊なコミュニティの主流秩序正当化に使うことも間違っている。

この二つの間違いをどちら側も互いに批判するので論点がかみ合わない。

それを明確にする視点でユニヴァーサリズムとしてのフレンチ・フェミニズムについて俯瞰するものを書ける人は、ほとんどいない。

これまでも、このテーマで企画を出したことがあるけれど、「フェミニズムは売れない」とされてきた。
だから、切り口を変えて、『女と神』という企画を考えているところだった。
「#me too 」とドヌーヴのおかげで、書くチャンスが訪れるかも。



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by mariastella | 2018-01-27 00:05 | フェミニズム

ポール・ボキューズとローマ法王

日本でもフランス料理の権威として有名なポール・ボキューズが91歳で亡くなったので、ニュースになっている。


懐石料理に影響を受けたとか言われるヌーヴェル・キュイジーヌが流行ってからも、料理に古いも新しいもない、おいしい料理かどうかだけだ、と言っていて、毎朝8h15に、朝市を見て回るのが最後まで日課だったとか。

食材に挨拶するためだったという。


おもしろいのは彼を形容するのに、フランス料理のPapeだと言われることだ。

Papeはローマ法王、教皇のこと。


日本でも業界の実力者などを「・・天皇」などと形容するのを見たことがあるが、こういう時に、「王さま」という言葉は使われない。


「王」は支配者であり、天皇やローマ教皇は、支配力を行使しないで尊敬されているというニュアンス、シンボルという感覚があるのだろうか。


ポール・ボキューズの愛称が「ムッシュー・ポール」だったこともおもしろい。


フランス語ではムッシュ-やマダムの後には姓をつけるし、親しい人にはファースト・ネームだけで呼ぶから、ファースト・ネームの前にムッシューなどとつけるのは正しくない。

特殊枠、芸人的な感じだ。


でも、ポール・ボキューズの場合は、教皇がフランシスコなど、ファースト・ネームだけで呼ばれるのも連想してしまった。

リヨンのレストランはミシュランの星の最長記録を更新していて、亡くなって空の星になったというイメージで、


「ムッシュー・ポールは、星々の間にいる」


と言われるのもほほえましい。


料理に関しては、いろいろな意味での総合芸術としての演劇心が印象的だ。

それが彼の名を一大ブランドにしたのだろう。


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by mariastella | 2018-01-22 00:05 | フランス

『Le prénom』(子供の名前)

上演された2010年にも面白そうだと思ったけれど見逃した芝居、パトリック・ブリュエル主演の『Le prénom』TVで見た。(その後で映画化もされたがそれも見ていない。)

ブリュエルは、歌手としても有名だけど役者としても本当にうまい。


ブリュエルの演じるのは、不動産の仕事で成功しているやり手の男ヴァンサンで、妹バブーのうちのディナーに招かれてくる。妊娠中の妻はかなり遅れてくる。


そこはパリの五区のアパルトマンで、妹の夫ピエールはエコールノルマルを出て今もデリダについて書くインテリの教授。妹の方は、郊外の中学の数学の先生で、まだ小さい子供が二人いる。子供たちはもう寝かされている。このことで夫婦の居場所の知的レベルの「格差」とコンプレックスや家事育児を押しつけられている妻の不満が分かってくる。


後で映画の予告編もネットでみたが、芝居の方が、リビングというかサロンだけが舞台なので、小道具に工夫がされているのでおもしろい。

天井まで届く大きな本棚がふたつあって、本がぎっしりあることでインテリの住まいだと分かる。でもその棚に仏像の頭部の置物がおいてある。このことで、パリのインテリ左翼無神論者の雰意気が演出されている。

積んである雑誌は『テレラマ』。テレビの番組情報誌だがインテリ向けカルチャー誌で、それを手に取ったヴァンサンが「テレビもないのにテレラマとはインテリ左翼でばかげている」と揶揄している。TVがないことと本がたくさんあることはもちろん関連している。(ヴァンサンは金銭的成功が基準で保守派であり、フィガロ・マガジン系なのだ。バカロレアの哲学は4/20点だったヴァンサンはエコールノルマルに行ったピエールとは正反対でもあるがどちらも相手にある種の嫉妬心がある。)

並んでいる本も、ゾラなどの古典からロマン・ガリーの小説などが見える。

その中に19世紀のバンジャマン・コンスタンの心理小説『アドルフ』も見える。

これにヒントを得て、ヴァンサンは、4ヶ月後に誕生予定の男の子の名前をアドルフに決めた、というジョークをとばす。その前にも、子供のことを聞かれて、今日が超音波検査の日で、いいニュースと悪いニュースがある、好いニュースは男の子だと分かったということで、悪いニュースは、でも死んでいたということだ、と言ってみなにショックを与える。こういう悪い冗談を言って皆の反応を楽しむタイプの男だということでその後の嘘の伏線になっている。

で、「アドルフ」はヒトラーを連想するからとんでもないと皆から言われて、ヒトラーのアドルフはfで終わるけれど自分の子はバンジャマン・コンスタンの小説からとったのでpheなのだと様々な詭弁で意見を変えようとはしない。

もう一人の客もいる。ヴァンサンやバブーの幼友達でラジオ・フランスのトロンボーン奏者であるクロードだ。インテリやビジネスマンであるが音楽家ではない上から目線の他の人々からは、この、トロンボーンという楽器のステイタスが微妙にうつっていることも後から分かる。ヴァイオリニストならきっと尊敬されたかもしれないのだ。

やがてヴァンサンの妻も合流し、この芝居は意外な展開を次々と見せて、結局、皆が衝撃の告白や本音を口にし出して傷つけあう。

私の注意を引いたのはその中に出てくる偏見のディティールだった。

たとえば、クロードはみなから同性愛者だと思われているのだが、その理由は38歳の独身で、音楽家で、マレー地区に住んでいて、キールを飲んで、菜食主義者だという要素を総合してのことだという。

ピエールとバブーの子供たちの名前がクラシックではなくてオリジナルなことも揶揄される。クラシックな名はキリスト教の使徒やカトリックの聖人の名であるわけだが、それに関することや、他の歴史の年代や一般教養なものについても、「教養」のさりげない探り合いがある。

これは、家庭の中の葛藤(バブーは幼いころに母が兄のヴァンサンばかりをかわいがってジェンダー差別をしていたと言うなど)を含むテーマそのものは普遍的なのだけれど、ディティールがフランス的過ぎて、翻訳すれば面白さが全然伝わらないだろうなと思った。

それにしても、フランスのよくできた芝居には、こういう、家庭内や友人間の集まりで、最初は社交的にやっていたのに、偽善の裏表にはりついている嫉妬や自虐が何かのきっかけで炸裂する、というテーマが少なくない。

それを金を払って観に来て大笑いしているフランス人観客(この手の芝居に来る人は、芝居の登場人物とかぶるカテゴリーだ)って、ひょっとして、こういう本音が自分たちのリアルな社交の場にも現れることへの恐怖をこれで解消しているのだろうか。

日本人もよく本音と建前というけれど、フランス人のそれはちょっと違って、自虐と罵倒がセットになって爆発する沸点が日常的にも割と低い。

私は日本で生まれ育ったので、当然ながらフランスの階層間の機微や偏見の度合いが最初は分からなかった。それに、フランスに住むようになったときは最初から、インテリ家庭だけれど伝統的なカトリックの地方出身でパリで日本仏教についての修士論文を書いている女子学生とその家族、パリ大学の講座、パリのエコール・ノルマル・ド・ミュージックのクラス、カトリック修道会の経営する女子学生寮、という環境で暮らした。日本で私のいた環境と大きく違ったわけではない。

インテリ左翼無神論、ノルマリアンの哲学者などとも親しくうちに招き合い、私がカトリックの聖人伝などを研究しているのに驚かれたことはある。「あなたのようなインテリがどうしてまた」などと言われるのだ。しかし本人はイエズス会の中高などを出て実はカトリックの教養がある。でも、彼らは、教会にも絶対に行かないし、フィガロやそれこそフィガロ・マガジンも読まない。このことはむしろ、私にはチャンスだった。

カトリックフォークロアを研究しているのは一部の民俗学者だけで、歴史や社会学をカトリックの視点で見ていくという視点は1968年以来、消え失せていたブルーオーシャンだったからだ。インテリ左派たちが絶対に読もうとはしないカトリック左派雑誌やブルジョワ系雑誌もせっせと読んだ。

その後、ブルジョワの資産家家族とも交流し、代々の貴族家系の家族とも交流したが、最も親密な仲間はやはりトリオの仲間だ。

18世紀の宮廷のバロック音楽をやっているというとどんな保守で懐古派だと思われるかもしれないが、商業主義に巻き込まれない限り、それはリベラルで自由で、普遍主義の最前線であり、トリオの仲間と出会ってからの30 年近くは、建前も本音も超えた自由を目指す生き方を実践している。

私たちのような生き方はもちろんマイノリティだ。

私に関しては、以前にも書いたけれど、インテリ、アーティスト、外国人、しかも女性、と何重にも、「カテゴリー外」なので自由にふるまってもなんとなく許してもらえる便利なポジションを満喫してきた。時々こういう芝居を見ると、こういうステレオタイプの人々と日常的につきあわなくてもいい環境に感謝できる。


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by mariastella | 2018-01-20 00:05 | 演劇

構造的否認と陰謀論

前に『陰謀論にダマされるな』(ベスト新書)という本を書いたことがある。


そこで、終末論は陰謀論のヴァリエーションだと書いた。


陰謀論に関するスタンスはその後も変わっていないのだが、1/3の『シャルリ―・エブド』の記念号にあった「否認のメカニズム」という記事を読んで、なるほどと思ったことがある。

「地震や津波やテロの危険があるとはいっても、今日明日ではないだろう」などというものから、

「そんな恐ろしい話や極端な話はでっち上げだろう」という歴史修正主義や、

「地球温暖化などはフェイクだ、実際寒波は毎年ひどくなっているじゃないか」、とか、

「ひどい話だけれど実はどこにでもあるもので騒ぐほどのことではない」、

という類のものまで、私たちが、事実や現象や統計を正面から見ることを避けて、ネガティヴなものを矮小化したり否認したりするという心理学的なメカニズムは、生存に必要な構造的な心理メカニズムだというのだ。


今の時代に天動説を唱えたり宗教原理主義がダーウィンの進化論を否定したりするというような現象もそうで、これらは、人間の「知」のシステムの中に構造的、根本的に組み込まれている「無知」だという。


どんな正論や自明の事実にも疑いを持ってひたすら相対化することで思考停止、先送りするというのもある。


これを読んでいて、この「否認のメカニズム」とは、まさに、陰謀論や終末論を信じたくなる心理のメカニズムと裏表をなしているのだと思った。

いくら表面的に安全に見えても、実は誰かの陰謀が進んでいて、あなたは、この世界は、欺かれている、破壊される、乗っ取られる、というネガティヴな言説に人は惹かれる。

安心のために無意識に相対化するのとは正反対に、ネガティヴな危機をわざわざ掘り起こして絶対化するのだ。

否認が人間の「知」のシステムに組み込まれた構造的無知なのだとしたら、陰謀論的心性は、その構造的無知と表裏一体をなしているのだろう。

さらなるバランス感覚を必要とする新しい視点を与えられた。


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by mariastella | 2018-01-16 00:05 | 陰謀論と終末論

想像力

昨年のクリスマスに寄せたフランスのプロテスタントの言葉に、

イエスの誕生譚(ノエル=クリスマス)とは、

何かおかしな妊娠、

恥辱を克服した夫、

旅先の馬小屋での出産、

貧しい羊飼いたちが最初に知らされる主の誕生、

博士たちが貧しい赤ん坊の前に跪く、

権力者による幼児殺害命令、

着のみ着のままでの家族の逃避行、

etc...

そう、これは今の私たちの生きる世界だ、

と書いてあった。


パリのユダヤ教の大ラビはこう言っていた。


2015年のシャルリーエブド襲撃に続いたユダヤ人スーパーの人質事件を振り返り、あの時、人々が、「私はシャルリー」というように「私はユダヤ人」と言って共感を示してくれたのは感謝している、でも、その年の11月の多発テロで、パリのカフェやコンサートホールで不特定多数が犠牲になった時に初めて、人々は、ユダヤ人でなくてもみなが標的になるということを理解した。


他者への「同情」や「連帯」と「当事者」意識との違い、はどう埋められるのか。

そして、誰もが真に当事者になるためには、みながアトランダムに犠牲者になるかもしれないという脅威が必要なのだろうか。


地震の起きないパリに住んで日本やハイチの地震に同情する、

原発施設のない地域に住んで反原発を口にしたり、原発の必要性を説いたりする、

米軍基地のない場所に住んで沖縄の人に同情したり我慢しろと言ったりする。


本当は、この地球の誰の身に起こる脅威でも、すべての人にふりかかる脅威なのだ。


さまざまな国や民族や人々がばらばらで敵対しているように見え、環境は破壊され地震や洪水などの自然災害も絶えないように見えるけれど、主義信条の対立する人も脅威となる自然も、実は根っことなる命でつながっている。

めぐる月日も、夜空の星も、どんな人もおなじように吸っている空気も、何一つとして誰かが力によって奪ったり獲得したりしたものではなく、私たちに平等に与えられたものだ。


私たちはそのことに納得もできるし、思い描くこともできる。

すべての人が共有する脅威という形ではなく、すべての人が共有する感謝や希望という方向に想像力を広げよう。



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by mariastella | 2018-01-14 00:05 | 雑感

カリマさんの『シャルリー・エブド紙』インタビュー

(これは前の記事の続きです。)

カリマさんは、アングロサクソン風「共同体主義の国」で、女性のイスラムスカーフが「あれはあの共同体の文化、伝統だから」として放置されることにショックを受けている。


女性差別のシンボルなのに、自分たちの多様性容認、寛容のシンボルにされているからだ。

トランプ大統領の反イスラム的政策に抗議するアメリカでのデモで、イスラムスカーフをつけた女性たちがシンボルとして行進した。

これは明らかに間違っているのに、これを批判したら「アンチ・イスラム」だと逆に批判される。(このことは、体を隠す水着モノキニ論争の時にフランスでも問題になった。)

フランスでは、普通のムスリムは穏健派で、過激派と混同するな、伝統に従って自分たちの文化を守って普通に暮らしているだけだ、というアメリカ型の左派知識人が増えてきた。

で、これについてのカリマさんへの質問と答え。

>>>

Q.「穏健なイスラミスト」というのはどうですか? 穏健であれば宗教に基づいた政治体制もあり得ると思いますか?

A. 私にとっては、否、です。

私の父は、過激派とずっと戦ってきました。その前はアルジェリアにおけるフランスの植民地主義と戦ってきました。彼は私に、政治的に考えると、穏健派イスラミストは、イスラム過激派よりももっと危険なくらいだ、と言っていました。なぜなら、「穏健」であるなら受け入れることができると人々が考えてしまうので、穏健派こそ、宗教支配のプロジェクトを進めることが可能になるからです。

テロリズムとそれを促すイデオロギーに関係があることを絶対に見逃してはなりません。残念なことに、宗教支配(宗教法の権力的適用)という考えは、今やかなり普通のことのように見え始めてきています。キリスト教原理主義の言葉がどんどん激しいものになっているアメリカでその傾向があります。自分自身は原理主義者ではない多くの人も、それが有効で大衆に受けるということでそういう言説を使っているのです。そういう人たちこそが、本当の過激派に門戸を開いているのです。

そしていったん開いたその扉を閉じるのはとても難しいのです。


<<<

結局、何が悪いかというと、すべての宗教の、「時の権威者が宗教の名によって自由を規制すること」なのだ。


世界の大宗教はみな根本的には「人間の共存」に合致するメッセージを含んでいるのだけれど、それを「適用」する側がどうにでも曲解できることが問題だ。

モーセの「十戒」の「殺すなかれ」だって、人間が互いに殺すことをしっかり禁じているサバイバルの基本なのに、

「正当防衛ならOK」とか

「神や神の代理人を冒涜するような者は抹殺すべし」とか

「国家や権力組織が合法的に所有する暴力装置によるならば戦争も死刑もOK

のように、実用レベルではもう改変されまくっている。


「解釈改憲」みたいなものだ。


まあさすがに、


「十戒」は神から授けられたもので民衆の意志でないから変えようとか、

現実に即していないから、変えよう、などとは言われないけれど。

この他にもいろいろあるのだが、旧植民地イスラム圏からの移民を多く抱えるフランスの非共同体主義的(すなわち普遍主義的)統合政策をずっと観察してきた非キリスト教文化圏出身の私にとっては実に興味深いコメントがいろいろあった。

その他にもこの『シャルリー・エブド紙』の記念号は考えさせられる記事が満載だった。
犠牲者の死は決して無駄になっていない。

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by mariastella | 2018-01-12 00:05 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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