L'art de croire             竹下節子ブログ

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主の平和と遠藤周作

先日「神の平和」という言葉をカトリック関係の雑誌に書こうとして、日本語チェックのためにネットで調べると、「主の平和」が圧倒的だった。

カトリック教会のミサでの「主の平和」タイムは、日本では近くの人と会釈し、フランスでは握手かハグだが、「キリストの平和」という。


「神の平和」と「主の平和」は少し違う。私の記事の文脈での「神の平和」は、神に祈りと願いを捧げ打ち明ければ「人知を超える神の平和」が心と考えを守ってくれる(フィリピの信徒への手紙4, 7)」という部分と関係がある。

一方、「キリストの平和」は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。(ヨハネ14,27)」の文脈だろう。また受難の時に逃げていた弟子たちに復活のイエスが「あなたがたに平和があるように(ルカ24,36)」と赦した言葉もそれを補強した。


神を「主」と表現するようになったのは「蛮族世界」の領主を戴くヒエラルキーを使って分かりやすく布教する過程だったという。ラテン語のdominusは「支配」と同じ語源だし、フランス語のSeigneur(英語ならLord)は、もとはいわゆるシニアと同じ「年長者」から来ているが封建時代の領主であることが一番の含意だった。

もちろん、キリスト教の三位一体的には、父なる神だけが「主」でなく、「主イエス・キリスト」で問題ないのだけれど、今のフランスのカトリックなどでは、「主」という言葉は単独で使うとなんとなくアナクロな感じがする。司教の敬称としてのMonseigneurなどは普通だけど。

で、日本語のネットには、カトリックの信徒が手紙の初めや最後に十字のマークと共に「主の平和」と書くとあった。なるほど。

で、そういう「習慣」や表現について詳しく論じている信徒のブログなどをつい見ていると、なかなか真剣で時には深刻で驚かされる。そのうち、遠藤周作の本に影響を受けて受洗することの是非のようなテーマに入り込んでしまい、そこでも驚いた。

久松健一さんという人の『遠藤周作の秘密』という論文がネット上ですべて読めるのだ。

私は還俗して日本人と結婚した宣教師のことを書いた遠藤の『影法師』も読んだことがあるけれど、それがこんなにも遠藤のトラウマを形成している事件だとは知らなかった。

それにしても遠藤さんってトラウマで満身創痍みたいな人だったんだなあ。

まず、世代的にも、満州で育ったり、戦争中に青年時代を過ごしたり、戦後の混乱を体験した世代だし、当時には少ない離婚家庭で父を恨むシングルマザーに育てられ、厳しい母親に逆らえない形で軍国日本ではネガティヴでマイナーなキリスト教の共同体に所属し、高学歴エリートぞろいの家族の中では落ちこぼれ、戦後初のフランス留学をしても肺結核で吐血して途中で帰国など、どれをとっても、屈折しまくりそうだ。

しかも、一生カトリックとしての「アイデンティティ」に悩んで思索し続け、そのおかげでいろいろな作品も生まれたのだけれど、そのカトリック・アイデンティティの危機のルーツの一つが、自分の妻といとこの妻に公教要理を教えていた神父が、いとこの妻と結婚したことだったようだ。人妻、人妻の離婚、神父の還俗というトリプル・ショックだった。

その神父はかって母親のアイドルであり、完璧で高潔なキリスト者の手本として彼にプレッシャーを与え、強者に反発して弱者としての道を歩ませるきっかけとなった人だった。それでも、父の反対を押し切って妻にも洗礼を受けてもらい結婚式をその司祭に司式してもらった。『影法師』ではその元司祭が『沈黙』の転び宣教者のように孤独な姿で描写されている。

遠藤周作の生きた時代と家族関係が信仰への強迫的で苦渋に満ちたこだわりを醸成したのだろう。まるで、子供の頃からカルト宗教の中で育てられた人が引きずるトラウマみたいだ。

で、彼は「日本人にやさしい」自然宗教っぽいキリスト教にたどり着いたようだが、そこまで苦労してもカトリックから離れなかったのはやはり母親への思いだったのかもしれない。そんな遠藤周作は間違ったキリスト教観を人に与えるといって一部から厳しく批判されたこともあった。

なんだか、タイプがまったく違うあるカトリックのカリスマ司祭のことを思い浮かべてしまう。「あなたは救われている」と自信に満ちて福音を振りまいている人だ。キリスト教と言うと「悔い改めよ、罪深い人は地獄に堕ちる」的な先入観もある日本の社会でひたすら「もうだいじょうぶ、だってイエスと出会ったのだから」と宣言しまくるので、遠藤周作とは別の形で「ハードルを下げている」ことに眉を顰める人々がいるのだ。

おどけても、湿っぽくしても、汎神論風に風呂敷を広げても、和のテイストを強調しても、自信満々で輝きと歓びを伝染させても、どこかで必ず「間違っている」と言われるのだなあ、日本のキリスト教コミュニティ。

浄土真宗の人がお釈迦さまだの阿弥陀如来だの親鸞のことを自己流解釈して声高に語ってもそれこそ「公序良俗」に反しない限り注意をひかない。

フランスではカトリックがちょうどそういうスタンスなので、日本との落差は大きい。

それにしても、インターネット上のヴァーチャルな「フィールドワーク」が可能な時代になって、いろいろと驚かされると同時に、多様性の底にひそかに流れる「一致への切実な思い」のさざ波をそれでも感知してしまうのは、はたして希望的錯覚なのだろうか。


遠藤周作さんが「主の平和」のうちにあることを祈る。


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by mariastella | 2018-07-13 00:05 | 宗教

スリランカ・フェスティヴァル

6月末の週末、ヴァンセンヌの森の仏教パゴダでスリランカのフェスティヴァルがあった。爽やかな天気で湖の周りの散策も楽しい。ボートに乗ればクジャクの島にも行ける。昔はなかったものがいろいろある。
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水鳥のカップルも日向ぼっこ?
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白鳥も優雅に。
久しぶりに行くパゴダではやはりお釈迦さまの「仏舎利」に挨拶。最初にこの仏舎利追いかけをしたのはもう9 年も前のことだった。
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このパゴダの金色の仏像の前でバロックコンサートをしたのももう3年前になる。
パゴダの入り口には実物大のインド象が二頭。
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スタンドには上座仏教の七曜仏のミニチュアがいろいろあった。一週間の毎日を守護してくれるというのは面白い発想だなあと思う。七つの頭を持つ蛇神ナーガのとぐろの上に座している仏さまを記念に買った。

パゴダの中にはフランス中の仏教コミュニティからのいろいろな寄贈品が飾られている。
タイのコーナーにはバンコクのゴールデンマウンテンの模型がある。
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そのすぐ横にはまるで聖母子像のような観音様(?)が。

子を抱く観音様というと、子安観音とか子育て観音とか、水子を救う慈母観音、切支丹のマリア観音とかいうのは知っているけれど、何となく雰囲気が違う。記憶の中の慈母観音は子供をもっと胸の前でだいていたような。
これは布を被せられている姿がヨーロッパの聖母子像の雰囲気にますます似ている。
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この母子像の由来を傍にいた人に聞いてみたが、スリランカ人なので分からなかった。

でも、仏はすべての者に姿を変えて現れる、キリスト教の聖母もイエスもみな仏の別の姿だ、と言われる。
さらに、私が日本人だと分かると、ほら、「ミタマ」ですよ。仏の「ミタマ」がいろいろな形をとるのです、と言われた。

ちょうど、日本のワールドカップ番組のテーマソングか何かで、「燃える御霊」がなんとかいう歌詞について軍歌調云々の批判があったという話をネットで読んだばかりだったので「おお、すごいな、ミタマの認知度」と思ってしまった。

全ての「聖像」に姿を変えて現れているのは、霊的な支えを求める古今東西の人々の心、魂なのかもしれない。


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by mariastella | 2018-07-07 00:05 | フランス

仏法僧 

少し前の記事で、鳴き声から「ブッポウソウ」という名をつけられた(実はその鳴き声は別の鳥コノハズクだそうだが)鳥に触れた。


「仏・法・僧」という仏教の三宝を鳥の声にも聴くという敬虔な?日本人、というイメージを持っていたが、その三宝についての興味ある解説を曹洞宗のお坊さんのブログで読んだ。

現在「読誦経典」として機能している『修証義』という経典についての話だ。


>>>『修証義』はほぼ、読誦経典としての機能のみが取り沙汰されている。無論、ここに至る経緯は、『修証義』成立問題や安心問題、曹洞教会の問題、そして、1990年代以降は人権問題との関連もあって、一筋縄では論じられないものである。<<<(ブログ『つらつら日暮らし』より)


読誦経典という分類も、例えばカトリックの祈りなどでは何に当たるのだろうかと考える。


日本の仏教のお経を唱えるのは、般若心経など有名なものは別として、信者ではなくてもっぱらお坊さんのイメージだ。


普通の人は「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」や「南無大師遍照金剛」のような短い呼びかけを唱える。


カトリックでも、もちろん「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。」のような短いものもあるけれど、ロザリオのアヴェ・マリアの祈りとかかなり長いものも一般的だし、教会では主の祈りとか使徒信条とか「教義」にそのままつながるものが全員で歌われたり唱えられたりする。

特に、ラテン語ではなく各国語で祈られるようになってからは、基本的に「口語」なので意味を把握せずに「読誦経典」としてだけ機能している祈りなどないような気がする。


で、『修証義』で「合掌し低頭して」唱えられる「三法帰依」とは

南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。

ということなのだそうだ。


仏は是れ大師なるが故に帰依す、

法は良薬なるが故に帰依す、

僧は勝友なるが故に帰依す、


と、それぞれ帰依する「理由」を述べているのが新鮮だ。

簡潔でなんだか合理的で説得力がある。

この三つへの帰依を経てはじめて仏教徒となる「戒」を受けることができる。


戒は、三聚浄戒(律儀戒、善法戒、衆生戒)と

十重禁戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不酒戒、不説過戒、不自讃毀他戒、不慳法財戒、不瞋恚戒、不謗三宝戒)


となり、三宝を謗ることの禁止も最後にある。


旧約聖書のモーセの十戒だとか、キリスト教の七つの大罪だとかも想起され、社会的動物の人間、「これはやっちゃいけない」という自覚は普遍的なんだなあとは思う。


でも、信徒共同体に入る前には、三宝帰依だとか信徒信条だとか、まず「共同体独自の言葉」を受け入れなければならないようにでできているのが興味深い。





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by mariastella | 2018-06-12 00:05 | 宗教

アメリカとイスラエルの関係

なんとなくイメージはあったけれど、はっきり言葉にされると思わずたじろぐ、という類の言説がある。最近読んだレジス・ドゥブレの論考にそれが出てきた。

アメリカとイスラエルの関係についてだ。

アメリカが大使館をエルサレムに移転したことでパレスティナ情勢の火に油を注いだとヨーロッパ諸国は非難している。

アメリカとイスラエルの「癒着」といえば、数々のユダヤ「陰謀論」を別にしても、

「アメリカの軍産コングロマリット」と

「ユダヤ金融資本」

との利害が一致しているから、イスラエルの核保有を含むアグレッシヴな政策が止むことを知らないのだという見方が一般的だ。

トランプの娘がユダヤ教に改宗していることなどを見ても、ユダヤロビーが強力なのはもっともだ、という印象をもってしまう。

ところが、これをあっさりと宗教のバランスでひも解くと次のようになる。

どちらも歴史の浅い二つの国の成り立ちは似ている。

建国の「神話」が共通している。


「選ばれた民」

「約束の地」

「植民者であると共に開拓者、パイオニアである」

「運命を切り開く確信」

「ユダヤ=キリスト教的メシア(救世主)信仰」

この共通の構成要素が、不思議な効果を生んでいる。


すなわち、イスラエルを保護する立場の超大国アメリカが、モラルの点ではイスラエルに従うことだ。


アメリカは大統領が聖書に手を置いて宣誓する国、危機が起こるとホワイトハウスで朝の祈りを開催する国、ホテルに旧約聖書が置いてある国だ。

そんな国が、聖典(旧約聖書)が憲法や土地台帳の根拠を提供している国の政治に異を唱えることなどできない。イスラエルは宗教においてアメリカの「兄貴分」であるからだ。

なるほど。

これがカトリック国とイスラエルでは少し違う。

ローマ教皇もユダヤ教は歴史的には「長兄」のようなものだ、と和解の手を差し伸べている。けれども、イエス・キリストは「兄」であるユダヤ教に刃向かったわけではなかった。

ナザレのイエスはユダヤ人でユダヤ教徒だったので、キリスト教は生まれていない。そして、ユダヤ教徒なのに不都合なことを言って当時のあり方を批判したので冒涜だといって殺された。

それに比べると、アメリカの建国神話のピューリタンが生まれた「宗教改革」は、叛旗を翻したリーダーたちは一方的に殺されたのでなく、離反して自分たちこそ正しいキリスト教だと主張した。カトリックとプロテスタントは何十年も戦争状態で血を流し合った。

だから、歴史的に(西ヨーロッパ・ベースで言えば、)、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントの順で長兄、次兄、末っ子になるはずだけれど、プロテスタントはむしろ一種の「父殺し」で外に出た。激しい「家庭内暴力」の末に「約束の地」を外に求めたのだ。


カトリックはユダヤ人を「神殺し」と差別してきた。そしてその延長にあるナチスのホロコーストのせいで、ドイツや、ドイツに占領されていたフランスのような国は、その「罪悪感」のせいで、イスラエルに本気で説教することができない。(スウェーデン、イギリス、スペインなどはその「罪悪感」がないのだそうだ)

で、うちを飛び出して約束の地に「神の国」を建国したアメリカは、イタリア系やアイルランド系のカトリック移民は長い間しっかり差別してきたけれど、直接けんかしていないユダヤ人には「長幼の礼」をもって接し、選民意識を共有しているのだという。

もちろんこれによってアメリカの対イスラエル政策をすべてを説明できるわけではないし、実はアメリカにも「反ユダヤ」のレイシズム」は根強く存在する。


それでも、こういう視点で解説されると、今まで見えていなかったものが見えてきて、パレスティナ危機や中東クライシス(シリアのアサド大統領が金正恩に合うため訪朝するつもりだというニュースを聞いて驚倒したところだ)の平和的解決には、このようなところまで踏み込まないと真の安定はないのかもしれないと思う。


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by mariastella | 2018-06-11 00:05 | 宗教

聖体と核分裂? 聖体の祭日の話(続き)

これは「父の日」の日曜日のミサの後のアペリティフとランチの招待状。

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裏にはユーモラスな突っ込み(白字)入りの文が並ぶ。

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「教区がカナを祝う ! / (結婚式かい・・・)」

(聖書に出てくるカナの婚礼にかけている)

「体を大切にしたまえ、魂がずっと住みたがるようにね ! / (そしたらもちろん体も残ることになるしさ)」

「神は料理の中にもいる ! / (料理に失敗してもね !)」

「マクロン祭りより楽しいぞ !/ (あ、マクロンが来てももちろんOKだよ)」

(マクロン祭りというのは最近行われた反政府デモのネーミングだ)

などなど…。

 

実際、この教区、子供連れの若い夫婦などがたくさん出席する傾向がある。

ヴェリエール師の説教は、ベネディクト16世(B16)が教皇になってすぐ出席したケルンのワールドユースデーに若者たちを連れて行った時の話から始まった。

ケルンでの開催を決めたのはヨハネ=パウロ二世だったが、B16はドイツ人。ケルンでの若者の歓迎はすごくて「ベーネデーット、ベーネデーット」と連呼されたらしい。

B16は遠慮がちに片手をあげて応え、次に両手を合わせた。そして、若者たちに背を向けて、聖体の前に跪いて動かなくなり、若者たちはしーんと静まり返った。

B16は聖体のことを「核分裂」に例えたそうだ。

イメージとしては、目に見えないレベルで激しい反応が起きて大量のエネルギーを発するという感じだろうか。それまでの「自然」が「超自然」に変換されるという。

死者が生き返る、だけでは「魔法」や「魔術」だけれど、「最後の晩餐」のイエスは、自分が死ぬことを分っていながら、自分の体を無酵母パンに託して弟子たちに与えた。つまり、「死ぬより先に死を犠牲として与えることで先取りして死に打ち勝った」というのだ。

うーん、新訳聖書の成り立ちやら教義や神学の歴史をいろいろ考えると、まあ、こういう言い方が「正しい」のだろう。で、典礼の歌にも、「私の体を食べなさい、あなたはもう決してひとりではない」とか「永遠の命を与えられる」などという言葉が並ぶ。

また例の「おひとりさま」のことや、「合理主義の知識人が老い手から宗教に入信するのはいかがなものか」という自称「棄教徒」の上野さんの言葉が思い浮かぶ。


確かに、人間は所詮ひとりで死んでいくのだし、「子や孫」もあてになるかどうかなど分からないのだから、「イエスと結婚する」という修道者だのお遍路さんのようにイエスと「同行二人」と考えて「もう決して一人でない」と「妄想(上野さん用語)」するのも「処世術」の一つかもしれないし、それを潔くないと思う人もいるのかもしれない。


「永遠の命」と言われても、つい、最近耳にしたウディ・アレン(もとはカフカの言葉だという説もある)の「永遠は長い、特に、終わりの方が」(Eternity is a long time, especially towards the end.なんて言葉を思い出してしまう。

などと、雑念満載で聞いていたけれど、ルヴェリエール師が「信じきって」「なりきって」永遠のスパンで生き、話しているのは伝わる。

「聖体を拝領する時にアーメンと合意をすることが大事だ。キリストが体をくれるのにこちらが言葉だけというのは交換として釣り合わないけれど、合意するところに聖霊が働き、自分だけがイエスの体になるのでなく、聖堂全体が、共同体全体がキリストと一体化する。インターアクションが必要だ」

もっともだ。


それにしても、ミサを挙式する司祭さんって大変だなあ、と思う。

本当に民間信仰や新興宗教のノリで、会衆が信じたりすがったり崇めたりする気満々の時代や場所ならいざしらず、本気で「神降ろし」をしなければならない。


独身制のカトリックの司祭は特に、親子代々ってことはあり得ないから、「召命」って本当にあるんだなあ、とあらためて感心した。(感心でなく改心しろよ、といわれそうだけど…)


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by mariastella | 2018-06-10 00:05 | 宗教

「おひとりさま」を少し考えた

前に、本を読まないで、「おひとりさまVSひとりの哲学」という山折哲雄さんと上野千鶴子さんの対談本の内容についてアップしたので、先日日本に行った時に買って読んでみた。


このお2人の書いた「おひとり」モノ自体も読んだことがないので何とも言えないが、誰かが書いていたようにもっぱら上野さんが山折さんを論破している、という印象は別に受けなかった。


上野さんは昔風に言うと「つっぱっている」雰囲気で、山折さんは自然体の感じなので、山折さんの方が「上品」に見えてしまう。


例えば上野さんはすぐに「おっさんはいい気なもんだ」と「ムラっと怒」りが湧くというのだけれど、山折さんの方は上野さんを前にして「おばはんはいい気なもんだ」などとは絶対に口にできないだろう。

 ただ、上野さんは、本当はいわゆる情にあつい人なんだなあと思う。

自分には「絶対に『この人は自分を見捨てないだろう』という子も孫もいない」


とか、


「わたしは日本では超レアケースの確信犯的おひとりさまなんです。家族を作ることを、自分の意思で選択しなかった。そのことをまったく後悔していません。どうしてかっていうと、誰かと運命共同体になることを一切したくなかったからです。」


とか言っているからだ。

「子や孫は絶対に自分を見捨てない」などと思っている人なんて、それこそ超レアか、彼女の言葉でいえば妄想の部類のような気もする。


そして、家族を作ったからと言って運命共同体になるかどうかだって分からない。

人は、自分の生きる時代や環境と運命共同体にならざるを得ない部分はあるけれど、「運命共同体」になりたいからと言って結婚を決める人がどれだけいるのだろう。


結果的に社会や世間や風土や経済状況や健康状態などいろいろな状況によって「運命共同体」になってしまうカップルだってもちろんいるだろうけれど、それは「結婚」自体の属性ではない。


上野さんはおとうさまの介護や看取りをなさったということだから、そういう義理堅いタイプで、親を「見捨てる」ことなど絶対になかったわけだ。責任感があって、いい人なんだなあと思う。


この世には、親につぶされたり捨てられたり、子供に裏切られたり搾取されたりするケースなんていくらでもあるような気がするのは、上野さんではなく私がよほど「性格悪い」(上野さんが自虐的にあるいはレトリックとして自分を形容する言葉)からかもしれない。

それに、普段は、性的マイノリティをLGBTとくくってロビー活動したりする人を冷ややかに見ている私なのだが、こうシンプルに「おっさん」と「女」に分けて論じられると、「おっさん」アイデンティティのない男や「脳内おっさん」の女や、ジェンダーでカテゴリー分けされたくない人たちはどうなるんだろう、と気になる。

上野さんは、宗教についても筋金入りの無神論で「神秘主義と超越はノーサンキュー」と切って捨てるのだけれど、それはなんとご自分が「棄教徒」だから、「あの世」とか「彼岸」とか「霊」に頼るまいというのがアイデンティの一部なんだそうで、これも驚きだ。


「棄教徒」アイデンティティということは以前に本気で信じていたということだろうか。

「のめりこんでいた新興宗教から抜ける」というようなケースの他には、日本では、「棄教」するほど宗教帰属意識のある人自体が少数派だと思う。

私が『無神論』で書いたようなキリスト教文化圏での「無神論」への回心や反宗教イデオロギーとも少し違う。

日本でそんなイデオロギーを掲げても持って行き場がないような気がする。

この点に関しては、「風土の差」というのは厳然としてあるのではないだろうか。


山折さんのアニミズムと一神教の関係の仮説にも前から異論があるけれど、この本では、むしろ、上野さんっていい人なんだなあという感慨の方が残った。

私も「死に行くとき」は、幸いに事故や災害や犯罪などではなく普通の病気や老衰ならば、プロに普通に苦痛をケアしてもらって看取ってもらえるだけでけっこうで、残る人の愁嘆場もみたくないし上野さんが言う「感動ポルノ」もごめんだと(少なくとも今の時点では思っている)いう点では、まったく彼女と同意見だ。

「神秘」や「超越」については、それ自体を求めるというより、神秘や超越と深く関わったり体現していたり激しく求めたりする「人々」に惹かれる。


神秘も超越も、私にとっては、そういう人々や彼らの営為、残してくれた生き方や証言を通して、ガラスに反射して見える太陽の光やぬくもりの気配のように「ある」貴重なものだ。

そんな「人々」がいる限り、私は決して「おひとりさま」ではないなあと思う。


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by mariastella | 2018-06-08 00:05 | 宗教

沖縄を考える  その5  ユタとノロと最初の切支丹

5/1に斎場御嶽やガンガラーの谷に連れて行ってもらった観光ハイヤーの運転手さん當銘さんには、ユタやノロについていろいろお話をうかがった。

どの地域にも一人いるユタだが彼も若い頃はまったく興味を持っていなかった。けれども結婚するにあたって、一家を構えるのだから、大人たちがしてきたことはすべてしておくように、と言われて、ユタのところにはじめて行った。

ユタは元グスクの近くに集められていたので、名前に「城」がつく人が多い。

彼の地域のユタは山城さんだった。家族の将来などについて一つずつ予言がなされるのだれど、彼の場合は、長男についてだけが不思議にあたっていた。怪我を予言された後で事故に遭ったというのだ。「予防できないのなら意味がないのでは?」と質問したが、ともかく、それからは、長男については何でも相談するようになったという。

子供たちも巣立って長らくご無沙汰していたが、最近妻が悩み事を抱えて山城ユタをたずねていった。すると、もう高齢なので、体力が持たないので霊媒はできないと言われて戻ってきたという。

「霊媒」としてお告げを聴く時の心は心身にとても消耗する重労働だからだそうだ。

ユタやノロの暮らしは代々共同体から支えられているけれど、今は後継者がいなくて大変だともいう。


共同体のおかかえ占い師のスタンスのユタと違って、巫女的な位置づけのノロの場合はもっとたいへんで、ノロが集中している久高島出身の人などは、本島で誰かと付き合っても、結婚話が出ると、「久高島出身」というだけでひかれてしまうので、なかなか結婚もできず、後継者もいなくなるそうだ。

もちろん基地についての話もいろいろ聞いたのだけれど、この方は歴史好きで、図書館から借りてきたという『首里城内の女たち』という本を貸してくれたので、車の中で読んだ。

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この中の第四話に尚灝王(しょうこうおう)の名吟というのが出てくる。


上下やつまて  中や蔵たてて

奪ひとる浮世  治めくれしや


国王や人民は困っているが中の役人たちは蔵を建てるほど利益をむさぼっている。実に治めにくい世の中だ


という意味だ。なんだか、実感がこもっている。


同じ本の中に、沖縄で迫害されたキリシタンの男の話があった。

『切支丹里之子』というタイトル。


山本秀煌の『近世日本基督教史』の中に、過去に琉球政府からベトラム(ベッテルハイム)の護衛につけられた青年が梁木につけられているのに遭遇したエピソードが引かれ、プロテスタントだけではなくカトリックの最初の信者もいたと書かれている。

1844年にフランス軍官アルメーヌ号で来球したフランスの司教フォルカード師がアウグスチヌス高という中国人の神学生を伴って泊村天久聖現寺に2年間留まって以来のフランス人宣教師たちの様子と洗礼を受けた立った一人の琉球人の話だ、


ちょうど、前の日に沖縄のカトリックの方々とお会いして、『キリスト教の死生観と沖縄における望ましい祖先記念行事のガイドブック」(沖縄宣教研究所――宗教と習俗委員会)という小冊子を読んだところだったので、興味深かった。


明治維新以来の、国家神道の押しつけと民間信仰とキリスト教の関係について、沖縄で起こったことは日本で起こったことの縮図のような部分がある。

これについてはまた別のところに書くことになるだろう。(続く)


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by mariastella | 2018-05-22 00:05 | 沖縄

カトリックが「便利」であること

前の記事で、「見ていない映画」にインスパイアされていろいろ書いた後で、「読んでいない本」についてコメントするのも気が引けるが、ある友人が、中井久夫さんの洗礼について触れられた本のことを紹介されていたので、ひとこと書きたくなった。


精神医学者としても文学者としても大きな業績を残された中井先生は、2年前に神戸でカトリックの洗礼を受けられた。中井先生と同じ80代のカトリックの友人はその洗礼式に出席された。私は中井先生の洗礼の記念に「精神の健全さについて」というシリーズをこのブログの中で書いている。


これが第1回で、


15回 まで続いている。


中井流の「スキゾ親和性」というものとカトリックの相性がいいのではないか、と思ったのだ。

で、その友人が紹介した本というのが『おひとりさまVSひとりの哲学』山折哲雄、上野千鶴子 (朝日新書)というもので、上野千鶴子さんが、


「優れた近代合理主義の知性である加藤周一、中井久夫、そして上野の師でもあった吉田民人などが、死を前にしたり施設の病床で、カトリックに入信したり仏教に傾倒したことにショックを受ける」(ネットの読者コメントから引用)部分だ。


友人のまとめによると、

>>「ブルータスお前もか!」という感じだと書いていました。「あの知性の高い中井先生がカトリックだって!!ブルータスおまえもか?っていいたくなりますよ。なぜ?カトリックに?って訊くとゆっくり「べんり、だから、ね」と言われた」そうです。<<<

「人は来世の信仰など宗教の支えなしに死んでいけるか」というテーマなようで、上野さんの無神論スタンスが、あまりにも、フランスのインテリ左翼無神論者の典型なのが新鮮だった。フランスの無神論はインテリ・イデオロギーというかアイデンティティの一つだけれど、日本にもこんな人っているんだなあ。

フランス左翼無神論者の欠点は、イデオロギッシュなので、信仰者の話をまともにきかなかったり、啓蒙時代の「蒙昧」、「迷信」のカテゴリーに宗教を一括したりで、超越性というものへの感性に自ら蓋をするところだ。

とはいっても、フランスのインテリである以上、実は、ギリシャ・ラテン文化とその延長としてのキリスト教についての造詣は深いのが特徴だ。でもそれだけいっそう、教養、文化としてのキリスト教を「信仰」に結びつけないような努力やジェスチャーや棲み分けを無意識にしている。

彼らの中にはフランスでは「無神論だ、宗教ではない」とみなされる仏教を実践する人もいるが、そういう人たちはなおさらキリスト教の本質に対する思い入れがある。

でも、日本のインテリ左翼無神論者や日本の一般の仏教徒は、当然ながら、文化の基盤ではないキリスト教の知識や教養が、ないか、少ないか、偏っている。

無神論者といっても、サルトルらのようにある日「神はいない」という回心体験を経た無神論体験を経るわけではなく、単に、西洋型インテリ左翼無神論者のモデルを採用している人の方が多いだろう。

キリスト教文化圏型の「無神論」に行きつくには、「神」や神の形象に対峙しそれを否定するという葛藤や選択が必要なので、日本のように一般に「無関心型」で宗教宗派への帰属感の薄い社会ではそれがない。


一般の仏教徒といえば、これも空気としての日本仏教や事物や行事への感性はあっても、仏がいるとかいないとか神がいるとかいないとかといった問いの立て方をしない。キリスト教に関しても、漠然と、「西洋」を連想し、イエスかノーかで融通のきかない一神教は不寛容で、その点、八百万神を許容する日本は寛容だとか、自然と共生するとか、農耕文化だから一神教とは相容れないだとかなどという言説が、エリート仏教者の口からさえも出てくる。

「西洋」だってベースは多神教だったのだし、農耕が始まって定住するようになってから文明が発達したのは人類共通だ。また生きるのに最も大切な太陽に生活を負っているのも普遍的なことで、太陽神を最高神として戴くような感性も地球上に共通している。

多神教だから寛容だというわけでもなく、どんな文化のどんな社会にも、残念ながら他者排斥型の心理メカニズムは存在してきた。

それなのに、「知性の高い中井先生も高齢になり健康を害したらカトリックの洗礼を受けるなんて、死を前にしたら知性よりも非合理的なものに救いを求めたくなるなんて、ブルータス、お前もか」と思うのは、単純すぎる。


中井さんほどの人が、どういう風に人間の心理を探り、信仰にたどり着き、しかも、カトリックを選んだのかということはスリリングなヒストリーであって、何も老いや病で弱ったからではない。

スキゾ親和性に「精神の健全さ」を探った中井さんでこその大きな意味がある。

そして、彼の答えの「便利だから」というのも言いえて妙だ。

前にこのブログで、死刑囚になったら断然カトリックに入れてもらう、と書いたけれど、そしてオウム真理教事件の死刑囚たちの霊的ケアがどうなっているのか気になると書いた。ここここ


キリスト教というOSは弱者にやさしいし、歴史上、いろいろなバグやプログラムのエラーや齟齬も経験してきたけれど、それをフィードバックしてバージョンアップする努力を惜しまずに生きのびたし、中でも老舗のカトリックは、マルチナショナルで開発費用も潤沢だったからか、秘跡やら奇跡やらのアプリが豊富で、カスタマイズもしやすくできているから、「便利」だと思う。

信仰は知性と対立するものではなくて、人が自由に飛翔するための両翼のようなものだとは今のカトリックの見解だ。


それにしても、今や、ハイゼンベルクやゲーデルによって不確定性や不完全性という理性の限界が考察され、脳神経学のレベルでも、脳障害で感情を失った人は理性の論理立てはできても最終判断ができないこと、理性が機能するには感情が必要だと分かってきた時代だ。

それなのに未だに、「近代合理主義の知識人が宗教とか信仰とかに向かうのはおかしい」というようなひと昔前の「インテリ左翼無神論」が残っているのは不思議でさえある。これはフランス的というよりむしろ、アングロ・サクソンのピューリタニズムの原理主義やその反対の偽善に叛旗を翻すアメリカ型無神論の影響なのかもしれない。

もちろん、人が精神と肉体を統合するための霊性、「超越」を必要とする時に、それが既成の宗教である必要はない。山折さんがいうような、日本的な野山の中でひとりになって自然と一体化するというような体験でももちろんいいし、多くのアーティストのように、アートの創造性におけるインスピレーション(霊感)に対する感受性を育てることでもいい。

利潤、コストパフォーマンスや自分ファーストの論理とは逆の人道活動などに専念している人を動かしているのも、「合理主義」とは別の位相にあるものだろう。


そういうものに比べて、宗教は、時には、「霊性を求める人々をターゲットにして霊性ビジネスをするカルト」の姿をまとうことがある。

カルトはまさに、老いや病を前にして弱った人々につけこむ場合が多いわけで、そのようなリスクを避けるには、「宗教の勧誘」一般を警戒するというのも分からないではない。


その点、日本での仏教だとかフランスのカトリックなど、その国の老舗宗教は、そういう新興カルトを批判する側に立つもので、主流秩序であったがための歴史上の様々な誤りを批判され尽くしているから、「宗教」に向かうなら老舗宗教がリスクが少ないですよ、というのは一応言えると思う。


日本仏教はもう長い間、インドや中国の仏教と離れて、まさに日本的心性とフュージョンし、民族宗教っぽくなっているので、例えばフランスに住むフランス人が「日本仏教」に帰依するというのはいろいろな落とし穴がある。それこそ「仏教系カルト」に取り込まれることもある。

その点では、日本に住む日本人がキリスト教を採用する時に、カトリックは今でも中央集権的ピラミッド構造があって末端の逸脱をコントロールするツールが少しは機能しているので、「リスクが少ない老舗」としては確かに「便利」だ。


そして、日本でキリスト教家庭に生まれた人は別として、成人洗礼を受けるような人は、安土桃山の時代から内面の葛藤や外的な不都合を乗り越えて「選択」した人が多い。

自分が「神」を求めるかどうかは別として「神を求めた人々」の軌跡を辿ることは、それこそ霊性とは何かをインスパイアしてくれる。

「知性」ある人がそれを切り捨ててしまうのは残念だ。

で、カトリックはいろいろな意味で「便利」なのだが、それでも、実際に洗礼を受けないと分からない「便利さ」がひとつある。それは「死が怖くなくなる」ためではなく、「生きる」ためであり、「生かす」ための便利さだ。

何を、誰を「生かす」のか、という答えは、書かない。





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by mariastella | 2018-04-17 00:05 | 宗教

『マグダラのマリア』その3 テレーズと星の王子さま

(これは前の記事の続きです)


使徒としてのマグダラのマリアの近年における「復権」は、女性へのセクハラ抗議がこれほど「市民権」を持つようになった今の時代性と無縁な現象ではない。


けれども、フェミニズムには、「女性も男性と同等の知性や能力がある」という主張と「女性には男性にはない直観や共感力がある」という主張の両面のニュアンスがある。

その後者の考え方は、父権社会の中で長い間女性が「女子供」としてくくられてきたことの反動で、「大人が知性の獲得と共に忘れたり失ったりした神や自然に近い感性を(女や)子供は持っている」という見方を生み出す。

カトリック教会は、14歳で修道院に入って24歳で死んだリジューのテレーズが唱えた、「幼子のような小さい道」を評価してテレーズを「教会博士」の列に加えるという不思議で巧妙な決定をしている。抵抗せずに十字架上でみじめに殺されたナザレのイエスが復活した(しかも逮捕された後で弟子たちには逃げられ、復活した後もすぐには信じない者もいた)というルーツの持つ逆説には合致していないでもない。

確かに、福音書のイエスは救いにおける子供の優位 ?を語ってはいた。

>>>イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。

しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 (ルカ18,15-16<<<

というものだ。

弟子たちは、当時からしっかり「大人の論理」を掲げていたようだが、まあ、このおかげで、今もカトリック教会のミサの途中で赤ん坊が泣き出しても、叱られることはない。「日本と違ってヨーロッパでは子供のしつけが厳格だ」という先入観は裏切られる。

で、『星の王子さま』はこのような、「子供は大人が失った純粋な魂を持ち、偏見もなく、真実を見る心を持っている」式の、大人が勝手に作ったステレオタイプの子供称賛バイブルだという批評がある。

「大人になってしまったあなたに」捧げられている本であって、子供に捧げられているわけではない。

日本でも有名な「本当に大切なものは目に見えない」とか「大切なものは心の眼で見る」というのも言われてみれば確かに、プラトンとパスカルの転用で、そんなセリフをキツネと子供の間で言わせると、「子供は大人より真実を見る」という幻想になる。

星の王子さまやキツネや神の国の子供たちは、もう子供ではなくなり女でもない「大人の男」たちが描く「夢」なのだとも言える。


実際は、子供が本能のままに衝動的だったり残虐だったりというような例はいくらでもある。(智慧の木の実を食べてこそ ? 分別や自制が生まれるのかもしれないし、想像力や共感力も少しずつ学び養われるものだということもできるだろう。

「信仰と理性は人間の精神が飛翔するための両翼のようなものだ」

とは、ヨハネ=パウロ二世の言葉だけれど、結局は、この映画のペトロ的なものとマグダラのマリア的なものの両方が必要で、だからこそ映画のイエスも二人に使命を託したのだ。

そのどちらかが肥大する時代にはもう片方を強調しないと精神は飛び立てないということなのだろう。

それにしても、私も、子供の頃に『星の王子さま』を読んだが、強烈に心をつかまれたのはプラトンやパスカルの言葉ではなくて、冒頭の、象を丸呑みにした大蛇の絵だった。

c0175451_06240069.png

帽子にしか見えない第一の絵をすぐに大蛇に消化される象だと見抜いた王子さまの登場が鮮烈だった。

これはもう、「つかみ」の勝利だなあ、と思う。

あの「帽子」の種明かしという冒頭の「つかみ」がなかったら、『星の王子さま』が世界的なベストセラーになることはなかったのではないだろうか。

プラトンも、パスカルも、ドストエフスキーも、「どうしてただの帽子がこわいんだね ?」と言うに違いない、と思う。

『マグダラのマリア』から話が脱線したので、ここでひとまずおしまい。





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by mariastella | 2018-04-11 00:05 | 宗教

ガース・ディヴィスの『マグダラのマリア』

先日、ガース・ディヴィスの『マグダラのマリア』を見た。

ガース・ディヴィス作品では、前に『ライオン 25年目のただいま』を機内で見た

ように、オーストラリア出身の監督だが、この『マグダラのマリア』はイギリス映画で、フランスの俳優も重要な役で出ている。フランスの役者と言っても、トルコ人のチェッキー・カリョー(なつかしい。1984年の『年の満月の夜』は、封切後に急逝したパスカル・オジェと若かったファブリス・ルキーニとの三角関係が強烈な印象を残したエリック・ロメール映画だ)やアルジェリア系の若手の名優タアール・アイムなど、癖のある人ばかりだ。

この映画については内容的に突っ込みどころが多すぎるのだけれど、少しずつ書いていく。

まず配役だけコメントすると、監督がそのカリスマ性で彼しかいない、とイチオシだったというホアキン・フェニックスがナザレのイエスを演じているのだけれど、カリスマ性がどうとかいうより、外見がものすごく老けていて、43歳だというが、クローズアップも多くて、しわが深く刻まれた顔はとても33歳のイエスに見えない。体もがっしりし過ぎている。


これまでいろいろなイエス・キリスト受難系の映画を観たけれど、一番違和感があった。

彼もヒロインのマグダラのマリアも青い目だけれど、それは気にならない。


今の時代の中高年は見た目年齢が昔の七掛けだというから、2000年前にパレスチナで紫外線を浴びて暮らしていた男なら33歳でも今の43歳の外見かもしれないけれど、でも、とにかくイメージとかみ合わない。

母の聖母マリアもまだ40代の終わりくらいのはずだけれどえらく老けている。

まあ息子の外見と釣り合っているとはいえるけれど。

ペトロを演じるのが黒人俳優。

ミュージカルや映画の『イエス・キリスト=スーパースター』でユダ役を演じて歌ったカール・アンダーソンが黒人だったのが印象的だったことを思い出した。


で、イエスが、この映画で「特別の使徒」として並べて扱ったのがペトロとマグダラのマリアで、黒人と女性、というわけで、なんだか、その後のキリスト教の白人男性世界の実態を思うと、これも「政治的公正」の配慮なのか、などと思ってしまう。

もっとも、ナザレのイエスがユダヤ人であることさえ認めたくないというヨーロッパ系キリスト教徒だっていつの時代もいたわけで、ヒトラーなどはイエスがアーリア人だと言っていた。


タアール・アイムのユダは悪くない。彼は30歳だが、それこそなんだか七掛けで20歳そこそこに見える。このユダのローマ兵への憎しみは、なんだかISに家族を殺されたシリアのキリスト教徒の痛哭のようで、真に迫る。

でも、このユダの若々しさ、みずみずしさ、と並ぶと、ますますイエスの「渋い濃さ」が際立って、違和感が消えない。

最後まで、ほとんど何の感情移入もできない珍しい「受難」映画だ。


「マグダラのマリア」とされてきた女性は聖書の中に出てくる三人の女性を591年にグレゴリウスが「罪の女」に一括りにしたのが、2016年に「復権」して、「使徒の中の使徒」「復活のイエスに最初に立ち会った人」と宣言されたし、フランスでは遺骨まで崇敬されているユニークな存在だ。


マグダラのマリアの聖書外伝とフェミニズム神学をミックスしたのがこの映画の視点だと言われているのだが…(続く)






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by mariastella | 2018-04-09 00:05 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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