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L'art de croire             竹下節子ブログ

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ノートルダムの疎開先  その3

説教壇に立ったオプティ師が真っ先に口にしたのは、

「女は男の将来だ」La femme est l'avenir de l'homme

という言葉。

日本語にするとちょっと分かりにくい。

男の将来は女にかかっている、という意味だけれど、フランス語の「男」は「人」一般も差す。

(けれどそれがよくないというのでフェミニストは「人」という言葉の代わりに「人類」という言葉を使えと言っている)

ともかく、「人の将来は女次第」という風にも聞える。

この言葉はすごく有名で、

ジャン・フェラという歌手がそれをタイトルに歌ったシャンソンはスタンダードナンバーになっている。



もとははシュールリアリズムの詩人であるルイ・アラゴンの言葉で、「男の将来は女だ」"l'avenir de l'homme est la femme"と言ったのをジャン・フェラが順番を変えた。アンダルシアを舞台に異文化との共存を歌う『エルザに夢中』(1963)の中に2度出てくる。

ジャン・フェラはアラゴンの詩にそのまま曲をつけて歌っているのが10曲もありるのだけれど、このヒット曲はアラゴンの詩ではなくて、「アラゴンが言うとおり」と引用して歌っているのだけれど、こちらの言い回しの方が有名になったのだ。

「詩人はいつもわかってる。

地平線より上を見る。

未来は詩人の王国だ。

我らの世代を前にして

僕はアラゴンのように宣言する

女が男の将来だって。」

から始まり、

「男たちが法律を作り聖書を根拠になんと言おうとも、

イヴとリンゴのイメージを詩人たちは破る」、

と言って、またアラゴンと共に「女が男の将来だ」と宣言する。


で、オプティ師は、「これは本当ですよ、なぜなら女とはマリアのことです。我々みんなの将来は聖母マリアにかかっているのです。だって天の門を開いてくれるのは聖母マリアなのですから」

と続けた。

人が神との関係に入る時のかけ橋となってくれるのが聖母。

みんな、そんな必要はないと思っているかもしれないが、いつか死の時が来たら、何に頼れますか?


という展開だ。

体について興味深いことも言っていたけれど、私の思ったのは、


ああ、この人って、ほんとうにマリアさまが好きなんだろうなあ、

ノートルダムが焼けてショックだったろうなあ、

でも聖母像がみな無傷で嬉しかったんだろうなあ、


ということだった。

聖母を崇敬している人たちって、強くて弱い、弱くて、強い。








by mariastella | 2019-08-18 00:05 | 宗教

ノートルダムの疎開先  その2

サン・シュルピス教会に入ったのは久しぶりだ。

『ダ・ヴィンチ・コード』の時はすっかり有名になってアメリカの観光ツアーなどが来ていた。子午線や天文時計がお目当てだった。
私はもう35年以上前に、解説ツアーに参加したことがあって、その時のことは今もよく覚えている。ドラクロワの絵にもちろん感激した。

聖母被昇天祭は、今は公現祭などと同じで日曜日のミサと合わせてやることになっているので、祭日にもかかわらず8/15に特別ミサをする教会は実は少ない。

でも、ノートルダム大聖堂は、そこで聖母にフランスを奉献したルイ一三世やそれを感謝するルイ一四世が像を造らせたものがあるのだから、被昇天祭がすごく大切なものになる。フランス革命後のナポレオンですら、8/15を自分の誕生日で聖ナポレオンの日として祭日にしたのでずっと残った。

サン・シュルピス教会はノートルダムのようなゴシック大建築とは違って宗教戦争後の建物で、17、18世紀の意匠だけれど、フランス革命で司祭たちが革命政府に忠誠を誓わされるのを断固拒否した教区司祭の勇気によって、教会の破壊や収奪を免れたという由緒がある。
1791年1月9日の劇的なシーンはこの説教壇上だった。
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ミサの後に、バチカン国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿が完璧なフランス語でフォローしていた。すごく感じのいい人だった。
ノートルダムもそういえばここ数年は入ったことがなかった。テロ騒ぎ以来、パリの観光名所は避けていたからだ。(そしたら今日のサンシュルピスで怖がるな!というヨハネ=パウロ二世の言葉と顔を書いたプラカードを持っていた人がいた)

サン・シュルピスはノートルダムと違ってロマン派先取りっぽくエモーショナルだ。
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聖歌などはラテン語。左にフランス語がある。カテドラルの疎開先だから、外国人の聖職者や信徒もたくさん来ているから「共通語」なんだろう。
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オプティ師が最後にパリ大司教らしくパリのメイン守護聖人に祈った。
聖女ジュヌヴィエーヴと聖ルイ王。

オプティ師は、最後に、ノートルダムの屋根が崩れ落ちても聖母像は立っていた、聖母は我々が立っているよう支えてくれる、と言った(あの時に聖母像も損壊していたらなんて言ったんだろう…)けれど、メインの説教ではノートルダム大聖堂のことには触れなかった。その代わりにこういうフレーズを真っ先に口にした。(続く)



by mariastella | 2019-08-17 00:05 | 宗教

オルバン大統領とキリスト教

前にこういう記事を書いた。



私の頭の中では、ハンガリーと言えば、冷戦中にずっと上智大学にいて日本のイエズス会の中心的役割をしてきたハンガリーのネメシェギ神父のイメージがあり、日本のハンガリー人にとってもカトリックの共同体はアイデンティティの大切な部分だという認識があったので、極右ポピュリストなどと評されるオルバン首相もカトリックだと何となく思っていた。ポーランドと同じく、旧共産圏のカトリック国は、結局古いタイプのアィデンティティ宗教で、移民に対して偏見があるのかなあと。

そしたら、全然違った。

ガボール・イヴァニイという人がいる。プロテスタントのメソジスト教会の牧師だったが1970年代に共産主義体制に異を唱え、国の支配下にあった教会から除名された。それに対する抗議の徴しに、その時以来髭をそらないと決めたので、今でもまるでギリシャ正教の司祭みたいだ。この人が、1988年、民主化を求める学生運動のリーダーだった24歳のオルバンと意気投合した。

オルバンとイヴァニイの2人は共に、共産党が権力を失った1989年の議会に参加することになった。同時に、オルバンはそれまでの無神論的立場からキリスト教に回心し、1993年に、ブダペスト近郊のイヴァニイの教会で結婚式を挙げた。フィデス党の党首になった年だ。オルバン夫妻はすでに7年前に共産主義政権下で結婚していたが、教会の結婚式はしていなかったからだ。同時に、89年に生まれた娘にも92年に生まれた息子(彼はその後ペンテコスタ派の説教師になっている)にも洗礼を授けてもらった。

1998年から2002年に首相になった時は、プロテスタントであると公言していたが、イヴァニイの支援は得られなかった。イヴァニイはジプシーの統合政策を掲げてナショナリストたちに嫌われていたからだ。2011年に政権に返り咲いた時、議会は、イヴァニイが創設したハンガリー福音協会を、国の補助金を受ける資格のある宗教団体のリストから外した。そのせいで、毎日1500人のジプシーを世話するイヴァニイの慈善活動は立ちいかなくなった。イヴァニイは政府に公開書簡を出して、ハンガリーがファシズムに向かっていった二度の世界大戦の間の時期に後戻りしている、キリスト教をナショナリストのツールにしていると批判した。今のハンガリーでは45%が特定の宗教に属していないと答え、37%がカトリックで、14%がプロテスタントという抗生なのに、ルバンはキリスト教が国のアイデンティティだと煽動している。ム2015年にアフガニスタンとシリアの難民がヨーロッパに入ろうとして押し寄せた時に、オルバンはそれをイスラム教の侵略だと形容し、2018年の四度目の政権就任演説では、国の標語はプロテスタントのモットーである「Soli DeoGloria」(ただ神のみに栄光)でならないと声をあげた。

イヴァニイは、オルバンの政府にはキリスト教的なものはひとつもない、と返した。

ブダペストに、ホームレス、ジプシー、難民のための避難所を造るイヴァニイは野党からの出馬の誘いも断り、福祉活動に専念している。2017年には新聞紙上で、「もしオルバンが目の前にいるなら、地獄に堕ちるぞ、と警告したい」と言った。2019年、オルバンは、「イヴァニイは自分のことをファシストだと言った。彼をゆるせないのはそのことだけだ」と返したそうだ。(La Vie no3854 より)

私は今のハンガリー政府が宗教団体に補助金を出すタイプの政府だということすら知らなかった。

もう90歳をかなり過ぎておられるおだろうネメシェギ神父は、これらのことをどう考えてどう発信しているのだろうか。

母はネメシェギ神父にずいぶん助けられた、と言っていた。

社会主義の全体主義政権の時代に苦しんだり、その後の展開の中でさまざまな形のトラウマを受けたりした人たちはたくさんいるだろう。ソ連の崩壊にともなったロシア正教の露骨な使われ方のことも思い出す。人間が必要としているのが神なのか偶像なのか、分からなくなる。

イヴァニイのような人を神が必要としていることは、何となく、分かる。


by mariastella | 2019-08-03 00:05 | 宗教

麻生大臣と山本太郎の共通点って・・・

麻生大臣と山本太郎の共通点って。


ふたりとも、名前が「太郎」。

ふたりとも、カトリックってとこ。


山本太郎が、安保法制の強行採決の時に民主主義は死んだってことで「お焼香パフォーマンス」をした時に使った数珠は衆議院議員会館の売店で買った、という話をした時に、「僕はもともとカトリックだから」と答えている。(この最後の方、1015秒あたりから。)


それに対してネットでは、カトリックはサタニストに乗っ取られているとか、ロスチャイルドがどうだとか、例の陰謀論が語られているのを見た。 やれやれ。


麻生さんの方って、今では「え―っ」と声をあげたくなるような発言しかしていないけれど、2007年だったかに外相として中東和平構想を語ったスピーチは当時もすごく感心したのを覚えている。



このすばらしいプロジェクト、その後、どうなってしまったんだろう。


麻生さんがカトリックっていうのは有名だから、この中東の平和のアイディアにも、どこかにカトリックの平和主義があるのかなあ、と当時は好意的に考えていた。

フランスならいわゆる「洗礼を受けている人」をカトリックと見なすなら、数は多いから、それがどうした ? という感じだけれど、カトリックが人口の1%にも満たないマイノリティである日本でカトリックを公言している人って、多少はカトリック的な考え方をするのかなあとも思ったのだ。


しかも、麻生さんは「戦後日本で初めてのカトリック信徒の首相」ということで海外で話題になったし、洗礼名もフランシスコで今のローマ法王と同じだし。幼児洗礼で、祖父の吉田茂とも関係の深い東京カテドラルにクリスマスのミサに家族で行くとか、伊勢神宮に参拝したことで日本のカトリック中央協議会から抗議されるとか、まあ、日本のブルジョワ・カトリックなんだけれど、知られているだけに、どこか「良心のブレーキ」がかかっている人なのかなあと想像したかったのだけれど。


今回の参院選で、「クリスチャン・プレス」というものに、立候補者にクリスチャンがいるかどうかの記事が載っていた。日本でこんな風に調べる人もいるんだ…。マイノリティの面目躍如?

でも、山本太郎のカトリックは載っていない。創価学会の野原さんを東京選挙区の候補者にしたくらいだから、まさかクリスチャンだとは思っていなかっただろう。それでも、れいわ新選組が徹底的にマイノリティや弱者を当事者として押し出して弱者救済を掲げているのは、カトリックと言えばカトリック的だなあと思う。


キリスト教はもともと「カエサルのものはカエサルに」で、政教分離と言われているけれど、フランシスコ教皇は、クリスチャンが政治をすれば政治はもっと良くなる、なんて発言をしたことがある。


日本人には、アンダードッグ効果というか、もともとは負け犬、敗者を支援するような判官びいきのメンタリティがあるのだと思っていた。弱肉強食の市場主義の蔓延が、「長い物には巻かれろ」のメンタリティの方を強化してしまったのだとしたら、残念だ。


by mariastella | 2019-07-30 00:05 | 宗教

宗教は阿片か

誰だったか失念したけれど、フランスのあるカトリックの聖職者が、

「宗教は阿片だと言われることがあるが、どう思うか」

と聞かれてこう答えていた。

「阿片は、第一に、苦痛を取り除く、第二に、現実から逃避させて別の世界に誘ってくれる。

キリスト教は、イエスの十字架上での苦しみに意味を見出すのだから、阿片の第一の特徴には合わない。そして、別世界どころか、この世の中でより小さい者、飢えた人、病む人、宿のない人、牢獄にいる人などのところに行って仕えよと言っているのだから、第二の特徴にも合わない。

だからキリスト教は阿片ではない」

なんだかあまりにもシンプルかつクリアーだったので感心した。

キリスト教の本来の姿をちゃんととらえている。

仏教の僧ならどうやって答えるんだろう。


by mariastella | 2019-07-16 00:05 | 宗教

福音書テキストの信憑性

(前の記事の続きです)

グロリィ師が配布してくれたプリントには、スイスのプロテスタント神学者ダニエル・マルグラがキリスト教の歴史における歴史的イエスについて書いた本の引用があった。

そこで、いろいろな異同や編集や改変などがあるであろう福音書の記述の中で、この部分はおそらくもとの口承に忠実であろうという部分の見分け方があった。

昔から田川健三さんを愛読していた私には、漠然と、「不都合な部分」が重要だという気がしていた。

イエスの言行について、四つの福音書の記述が一致していなかったり、普通に考えて矛盾していたり、「教育的でない」と思われる部分は、本来なら「宣教に向いていない」として削除されてもよかった。それなのにそれをあえて残したというのは、この世では理解できないけれど真実があるのだろう、としてそのままにされた可能性が高い、というわけだ。

実際、2世紀から5世紀頃には、四つの福音書を編集して整合性があるようにまとめた簡略版というか、決定版というか、検定教科書のようなものが存在していたらしい。けれども、それはやがて廃されて、また四福音書が復活した。
それでもいろいろ「不都合」だから、さまざまな神学者らが解釈を繰り返してきたわけだけれど、原本の方は庶民には向いていないということで、カトリック教会などは聖書を事実上封印してきた歴史があるわけだ。

で、実際、信憑性のあるテキストを見分ける基準はあるけれど、いくつかの基準を照らし合わせ、すり合わせることになる。

1.  起源を異にする二つ以上のテキストに引用されているもの。(四福音書、パウロ、トマスの福音書から)

2.  初期共同体の宣教に適用するのに不都合である記述。(たとえばイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたというのは、洗礼者よりも下に置かれることで不都合)

3. 当時のユダヤ教の常識から直接導かれると思われる記述、復活の後から遡って付け加えられたものと思われる記述ではないこと。たとえば、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(ルカ9,60)などは、当時にあり得ない発想の言葉なので、かえって真実味がある。

4. 当時のユダヤ教のトーラーに合致するように書かれたもの(マタイ)、律法からあきらかに距離を置いたもの (パウロ、マルコ)など、ナザレのイエスをこの二つの流れに添って造形したと思われるテキストは排除。

この4つに加えて、イエスの言行が一致しているか、教えの中身が矛盾していないかをチェックして、また、イエスがユダヤの司祭の脅威となって死に追いやられたことは歴史的事実であるから、それを導くに足るとじゅうぶん想定できる言行の記述は信頼度が高いとする。

よく理解できる。

文献学者たちはプロテスタントもカトリックも関係なく、よく連携し合っている。

中には、スキャンダラスな扱いもあって、福音書は神話で文学だからもう信じられない、と信仰を失って無神論者になる人もいるし、むしろ、それまで「この部分は信じるのは無理だし…」と違和感を感じていた人の場合はテキストを整理して理解できることで信仰が深まったというケースもあるようだ。

日本でキリスト教と無縁な人は、そういうテキスト解釈や研究そのものが謎解き風でおもしろいと思ったり、「だから欧米キリスト教文化は蒙昧なんだ」と攻撃的になったりということもあるかもしれない。

どちらにしても、フランスのようなローマ・カトリック文化圏で生れた時から通過儀礼的に「使徒信条」を唱えてきた世代にとって「イエスの時代考証」が与えるインパクトの強さは、私のような日本人にはなかなか想像できない、とあらためて思う。。









by mariastella | 2019-07-14 00:05 | 宗教

福音書の神学と歴史学

7/3、バック通りのパリ外国宣教会で開かれた講演に参加。
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猛暑も終わって涼しく天気も良く、夜10時頃まで明るいこの季節に、8時半頃開始の集まりにぶらりと出かけることができるのは贅沢だ。

参加費なしで、飲み物やおつまみも提供される。しかもとても美味。
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この辺りのお店はみないいものを扱っている。

で、テーマは、聖書が、神学的構築なのか歴史的アプローチなのかという話。
" Les Évangiles une approche historique ou une construction théologique ?"par François GLORY (MEP)

講師はラオスやブラジルでも宣教師をしていたフランソワ・グロリィ師。
ブラジル人(1人はドミニコ会士)が2人参加していた。

さて、日本人の私にとっては福音書が初期共同体のために神学的整合性があるように編集されたものだということは最初から普通に認識していたけれど、グロリィ師の世代では、何と、1950年代の神学生時代にも聖書を所持したり読んだりすることがなかったというのだから驚きだ。
プロテスタント神学者が聖書の記述の神話論をぶち上げていたことなどもちろん知らなかったそうだ。

ヨーロッパの平均的なカトリックは、プロテスタントの登場以降、いや、第二ヴァティカン公会議以後、まず、

「イエスがユダヤ人である」ことと、
「イエスはキリスト教徒ではなくてユダヤ教徒だった」

ということを知る必要があったという。

先行宗教とうまく習合してきたカトリック一色で1000年も過ごしていた人々にとっては、「イエスさまはキリスト教の教祖さま」「共同体の氏神さまである聖人様の中で一番偉いお方」、というのに近い感覚がそれほどまでに浸透していたということだろう。

で、実のところ、イエスの生涯で、歴史的に確実な事実は、イエスが存在していて、ローマ総督ポンティ・ピラトの時代に十字架刑で殺されたという部分だけだ。そして、その後、そのイエスが復活したのを見て信じたという人たちがキリスト教を始めたのだから、本来は、十字架上の死と復活以前の他の言行録や事実関係の描写は、本質的でなく、必要でなかった。キリストなしのイエスはないからだ。

けれども、そのよそ目には荒唐無稽な受難と復活について使徒たちが証言し伝えていくうちに、さまざまな質問や課題に答えなくてはならず、少しずつ、受難と復活から遡っての形が出来てきた。歴史的なイエスに関心を持っていなかったパウロも、共同体での議論や質問に答えていく中で少しずつ神学を作っていった。それが口承から文字に書かれるようになっても、アラム語からギリシャ語にしたり、手写していくうちにいろいろなエラーが 混ざったことは確実だ。
手写は必ずしもギリシャ語がわかる人が写したわけでなく、ただ文字の形をそのまま写していくという場合もあったので、 なおさら意味の齟齬が生まれる。

グロリィ師が持ってきて見せてくれた参考文献。
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プロテスタント、しかもアメリカの神学者が強い。
バート・D・アーマンの2書は特に最新の実証研究の成果があるようだが、なんと日本語でも『捏造された聖書』などが訳されていた。でも、第一線の聖書学というよりなんだかダビンチコードのようなノリだ。

このリストには挙げられていないけれどおもしろそうなのは、『キリスト者はなぜカトリックになったのか?』

これは、聖パウロの伝記も書いたソルボンヌの歴史学者バスレ女史の本。
ローマ・カトリックをローマ・カトリックにしたのは世俗権力のローマ帝国だという一見当たり前のことが、知的、霊的、政治的な長い試行錯誤の末に、オリエントとオクシデントを統合して「カトリック=普遍」が生まれた過程をじっくり読んでみたい。
講演の内容でなるほどなあと思ったことがあった。

これまでの私には、使徒たちがユダヤ教のベースの中から、イエスがメシア=キリストだということを説得し証明するために、ユダヤの聖書に書いてあったことがすべて神の遣わせたイエスの受難と復活によって「成就」したというレトリックを駆使してきたのだろうというイメージがあった。
だから旧約のイザヤ書の中の「僕(しもべ)」の代理贖罪的死の迫害のシーンを受難に重ねたり、十字架のイエスに詩編22とおなじようなセリフを言わせたり、するのだろう。第一、弟子たちはほとんど逃げてイエスの死に立ち会わなかったのだし、そんな姿や言葉を見たり聞いたりしていたというのも不自然だと、普通に思っていた。
私はキリスト教と関係のない環境で生まれ育っているから、聖書が編集だとかご都合主義の捏造だとか言われたとしても、別に衝撃でもなくそれと信仰の歴史などは別物だと普通に思っていた。

けれども、グロリィ師によれば、それは実は逆だった。

いくらイエスが現れても、パウロにはやはり十字架の死は躓きの石だった。ユダヤ人にとって、メシアが殺されるなんてあり得ないからだ。
ところが、パウロはユダヤの聖書をよく知っていた。

で、ある時点で、ユダヤの聖書を振り返って、そこに、イエスの死を説明できるシーンを見いだして、そうか、これが実現したのだ、と電撃的に悟ったのだろうというのだ。
つまり、イエス・キリストを信じたから、そこに整合性を与えユダヤ人を説得するためにユダヤの聖書(旧約聖書)と関連付けて「ほーらここに書いてある」、「だから神との関係は新しい時代に入ったのだ」と理屈づけたのではない。
旧約聖書の知識に照らし合わせて、「なんと、ここに書いてあった!」「十字架の死は贖罪の死だったのだ!」と発見し、愕然と腑に落ちたというわけだ。

こう考えると、新約聖書が旧約聖書の成就したものだなんて、細かく見れば矛盾だらけなのに、牽強付会で意味が分からない、などと悩まなくてすむ。

パウロも使徒たちも、復活のイエスを見たり声を聞いたりして、イエスがキリストであることは「信じた」。けれども復活の前の惨めな死に方をどう考えていいのか分からなかった。でも、詩編やイザヤ書のおかげで、その最後の迷いが霧消したのだ。
説得のための編集ではなく、彼らの信仰の形成の過程こそが編集に現れたのだ。

(続く)










by mariastella | 2019-07-13 00:05 | 宗教

仏さまの種

前にも書いたけれど、ここ数年、日本の雑誌百冊以上にネットでアクセスできる環境にある。

もちろん全部を見ているわけでもないし、定期的に開く雑誌も、目次を見て気になったところだけをチェックする。

その中で、『週刊女性』に連載の「サトリのココロ」というのがあって、103回目が日蓮宗妙常寺の37歳の住職本良敬典さんの話だった。このコーナーには若いお坊さんたちの紹介がいろいろあって興味深い。

フランスでも、今の時代、若い司祭がどうして聖職を志すようになったのかという個人ヒストリーには啓発されるものがいろいろあるけれど、日本の若い住職のほとんどはお寺に生まれて親の後を継ぎ、妻子もいていわば家族経営、みたいなケースが多い。それはそれで、どうしてその敷かれたレールを受け入れることになったのか、また、新しい道をどう模索するかなどの問題意識はさまざまだ。

今回の本良さんは、放浪の旅に出て、南極に向かう荒海の航海中に船がどんなに揺れても重心を取り戻す、バランスをとるための中心はなくならない、という体験をした時に、人間にも、「絶対に救われる仏様の種がある」と身をもって知ったという。

心が揺れると仏さまの種も移動し、見失うこともあるけれど、その種があるのは100% 分かると。

辛いことは辛いままで、その中で自分の心の声に耳を傾けて選択すると、きっと幸せが見つかると。

私の周りのフランス人仏教僧は、「執着するのがつらさを生むので、執着をなくせば苦しみが消える」というような言い方をするので(もちろんそれはそれで間違っていないにせよ)、この若い僧の言い方がむしろキリスト者と似ているのが印象的だった。つまり、キリストは、たとえ見失っても必ずあなたの心の中にあり、他の人の心の中にもあるわけで、それが「仏縁」ならぬ「キリスト縁」とでもいう支え合い、助け合いにつながるという感じだ。

どの国のどの文化に生を受けるかで表現は変わってきても、若い宗教者がこういうことを言うのを読むと、彼らの「船」が荒波で重心を取り戻さずに難破したり転覆したりしないことをすなおに祈りたい。


by mariastella | 2019-06-28 00:05 | 宗教

右の頬を打たれたら…

そういえばそうだなあ、と思うことがあったので覚書。


キリスト教と言ったらその根本は絶対平和主義、何しろ、「神の子」イエスが捕らえられて無抵抗でひどい仕打ちを受け、辱められて殺されたのだから・・・というイメージがあった。


その時に思い浮かぶのは、


「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 (マタイによる福音書5,38-39)」


という有名な言葉だ。


確かに、自分を攻撃する相手に即座に手向かえば事態がより悪化することはありそうだけれど、左の頬も差し出すなんていくら何でもマゾヒスティックじゃないかとか、そもそも「目には目を」というのは、同等の修復以上のことをしてはいけないという戒めなんだよ、という解釈にもうなづけたりする。

でも実際は、イエスは論理的に抗議している。

「なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」

イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。

イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」 (ヨハネによる福音書 18, 21-23


平手で打たれて、別の頬を差し出したのではなくて、堂々と抗議している。

もちろん打ち返したわけではない。


で、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」という言葉のことも、ある司祭が、

「これは、当然反撃してくると思って身構える相手に左の頬を向けることで虚を突いて事態を転換するということなのだ」、と説明していた。


なるほどなあ。


by mariastella | 2019-06-25 00:05 | 宗教

フェミニズム神学

ようやく『神と女のキリスト教史』にかかっている。
内容はもうすでに十分考えてきたものなので資料もそろっているのだけれど、神学書がそろっている書店に行ってみた。
私の考えているようなアプローチのものはない。

私はいわゆるフェミニズム神学を紹介しようと思っているのではないから、その手のコアなものはむしろ敬遠していた。
でも、一応系統立てようと思って、フェミニズム神学の流れを紹介した本。
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フェミニズム神学の観点から聖書を読み直す本、これは、アングロサクソンではなく、フランスのカトリック、プロテスタントの女性神学者たちの共同作業、『女たちの聖書』。
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そして、ジャーナリストでもある著書が、イエスは女性を男性と対等に扱っていただけではなく、男性よりも女性の方が好きだったのだ、という証拠を福音書の中で検証していく本。
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ちらちらと読んでみたけれど、フェミニズムがどうというより、ほんとに「目から鱗」の話がたくさん出てくる。
確かに、2000年近くも微に入り細に入りあるゆる国の人たちが聖書を研究し、解説してきたと思っていたけれど、それはほぼ全部、男による男のための読み方だった。
だから、「原語」の意味が都合のいいように翻訳され直しているところもあるし、「通説」も全部「男の目から見たヴァージョン」で根付いている。改竄としか言えないようなものすらあるのだ。

でも、よく考えてみたら、聖家族だのイエスの登場の仕方って、古代ローマから続く父権制の世界と対極にある、最高に不都合なものだった。
その不都合さが、解釈や改竄によって「女子供の教育」向けに正されているにしても、完全な「上書き」はされていない。よく見れば「不都合なまま」で残されているのが分かること自体が奇跡的なほどだ。

その「不都合さ」が、エゴイズムのぶつかり合いから少しずつでも人々を共生に導いていったのかもしれない。まだまだ道は遠いけれど。


by mariastella | 2019-06-18 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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