L'art de croire             竹下節子ブログ

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ロイヤル・ウェディング、カンヌ映画祭

5/19

夕方のニュースは、トップがロイヤル・ウェディングで、フランスらしく、ウェディングドレスはフランスのブランドのジバンシィ(でもデザイナーはイギリス人とメ―ガンが二人で決めた)、イヤリングとブレスレットはカルティエだった、と嬉しそうに報道していた。

ドルドーニュのある村でイギリス人コミュニティがあって彼らがカフェで結婚式の様子を皆で見ながら感激で泣く人もいた様子も映される。

アメリカからメーガンが呼んだプロテスタントの牧師がマルティン・ルター・キングの名を何度も出しながら、トランプ批判とも聞こえる熱弁を振るう様子も。

政教分離のフランスでは考えられないですね、とフランス人のコメンテーターが言うと、同席のイギリス人が「イギリス国教会は世界で唯一神を信じなくてもOKの教会ですから」などと言っているのもおもしろい。

ヨーロッパと「離婚」状態になったイギリスとアメリカの結婚みたいですね、しかもカリフォルニア出身で混血となればまさに移民国家アメリカのシンボルで、コモンウェルスの全ての国にとっても朗報です、とも。


突っ込みどころがあるような、ないような・・・。

二番目のニュースがキューバのボーイング機墜落、三番目がテキサス州の高校の銃撃事件。

アメリカではこのケースなら17歳でも死刑になる可能性があるとか、この少年は無神論者(教会に所属していないということだろう)で非政治的だった、とかいう解説で、これもなんとなく、日本ではスルーされるのかもしれないとも思う。

カンヌ映画祭のパルム・ドールに是枝裕和監督作品が選ばれたというニュースも伝えられた。

是枝作品で今フランスでも上映中の『the third murder』は、この前、日本に行く機内で観たところだ。

父親と娘の関係の強調と重層が少しうっとおしいけれど、役所広司の演じるつかみどころのない多重殺人者のインパクトが大きい。

でも、私はまだ加賀乙彦さんの『宣告』を引きずっているんで、主人公にこれからが大変なんだよ、と言いたくなる。

「私はいつも真実しか語らない、たとえ嘘をつく時でも。」


というのは『スカーフェイス』の中でアル・パチーノが言うセリフなのだけれど、証言をころころ変えて弁護士を泣かせるこの「犯人」にぴったりだという気がした。


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by mariastella | 2018-05-21 00:31 | 雑感

『フランス組曲』2014 ソール・ディッブ監督

『フランス組曲』2014ソール・ディッブ

イギリス人ソール・ディッブが監督で、英仏ベルギー、カナダ合作のいわゆるヨーロッパ映画。


1940年、ドイツ軍占領下のフランスの地方都市で、進駐軍の責任者の一人である中尉に部屋を提供せねばならなかった屋敷に大地主の夫人とその嫁が住んでいる。夫人の息子は消息を絶ち、後に、捕虜になっていることが分かる。

村人は家賃や地代の取り立てに厳しい大地主の夫人に日頃恨みを抱いているので、立派な家に住んでいる人はドイツ軍を住まわさなくてはならないからいい気味だと思っている。

住民たちの日頃の恨みや嫉妬などがさまざまな「中傷」の密告の手紙となって中尉のところに届けられる。

もちろん、若い男たちの消えた町に、若くてたくましいドイツ兵たちが来たのだから、女たちの心も騒ぐ。


町の名士である子爵は金をつかませることで自分の城からもう一人の士官を出ていかせて農場に泊まらせる。その農場には足が悪くて出兵できなかった男と妻と子供たちがいる。士官は妻に言い寄り、いろいろあって男は士官を殺す。


逃げた男を48時間以内に発見できなかったので、「身代わり」「見せしめ」に子爵が公開処刑される。(この子爵が、フランス人役の主要キャストの中で唯一のフランス人俳優ランベール・ウィルソンだ)


男を匿ったのは、息子が捕虜になったことを知った地主夫人だった。


嫁は彼をパリのレジスタンス本部に連れていく。町を出る許可は中尉にもらった。

しかし、検問所で男を隠した車のトランクが開けられようとして…

という展開だ。

金の亡者に見える冷たい地主夫人(私の好きなクリスティン・スコット・トーマス。バイリンガルなのでフランス映画にもよく出る)が、最初は嫁を見下しているが、息子が捕虜になったと知った時に、同年配の農場(彼女に地代を払う小作農)の男を匿ってパリにやる、そのまま嫁を解放することにもなるという心の変化。

多分ユダヤ系の娘で、音楽学校を出て父親から送られたピアノを嫁入り道具に持ってきたが、息子が帰るまで音楽なしと言われてピアノに鍵をかけられてしまう、嫁のリュシール。彼女を演じるのがアメリカ人で、『ブロークバック・マウンテン』でも葛藤する人妻のいい味を出していたミシェル・ウィリアムズ。クリスティン・スコット・トーマスの感情を出さない高慢なブルジョワ夫人と対照的なキャラでその彼女も、抑えた演技で好ましい。

そして中尉はベルギー人俳優で、なんだかプーチンを若くしてハンサムにして背を高くしたようなカリスマと落ち着き、冷静さがある。で、彼は軍人の家系に生まれ、兄弟たちも戦死しているが、本業は作曲家で、自分の作曲した曲をリュシールのピアノで弾く。

これはもう心をつかむ。


「もてるには楽器を一つ自由に弾けるのがてっとりばやいなあ」

と思ってしまう。


で、もうこれだけで、二人は二人の世界。

戦争だろうが何だろうが同類だと気づき、分かり合えるのだ。

しかも中尉のところに来た非難中傷の手紙の中には、リュシールの夫ガストンには町に愛人も子供もいることが書かれていた。中尉はそれを黙っていたが、それを知らされたリュシールにとっては、もう姑さえ怖いものではなくなる。

まあ、その他、戦争中という特殊な状況下におけるいろいろな心理劇や人間模様があるのだけれど、いわゆるプレス評価があまりにも低いのは不当だというほかはない。


多くのメディアでは

「ドイツ占領下の禁断の愛」

「ステレオタイプのロマンス」

「サルでもわかるドイツ占領下のフランス」

などと、もう古臭いテーマであるように切り捨てられていた。

「サルでもわかる」と言われるのは当たっている。

これまでも、確かにドイツ占領下のフランスを舞台にした映画はたくさん見てきた。

もっと複雑な心理劇もいろいろあった。

でも、この映画ほど、なんだか、その場に居合わせるような生活感を感じたものはない。

たとえば、今のフランスは「夏時間」になると太陽時間より2時間ずれる。太陽が一番高くなるのは正午ではなくて午後2時だ。

そのわけは、ドイツ軍占領時代にドイツ時間に合わせて一時間時計を早めたのを維持したまま、さらに夏時間で時計を進めるようになったからだというのは知っていた。それを知った40年以上前は、ネットなどなかったので、どうして、占領下でドイツに押しつけられた時間をフランスはずっと採用したままなのかを不思議に思ったけれど調べなかった。まあ光熱消費の経済的合理性(夏時間もそのために導入された)からだろうとは思ったけれど、どういう「条例」などがあるのかあったのか分からないままだ。

で、この映画で、まさかと思っていた地方都市に突然ドイツの戦闘機がやってきて爆撃し、駐留軍がやってくる。彼らが真っ先にしたことは、広場の時計台に上って、時計の針を一時間進めたことだった。そして、中尉がリュシールの家に来た時も、最初にしたことが、「あ、いいですか、時間に遅れると困るので」と一応断って、リビングの時計の針を自分でさっと一時間進めた。ドイツ兵はドイツ時間で動いている。それだけのことだ。

この「時間の支配」の暴力が、実感を持って、住民たちに彼らの世界はもう彼らのものではない、と分からせる。

今までの占領映画、レジスタンス映画にもそういうシーンはあったのだろうか?

あったのに覚えていないとすれば、私の感受性が変化したのだ。

ここを見ただけで、これはメロドラマではなく反戦映画だと思ってしまう。

「サルでもレジスタンスにしてしまう映画」だと思う。

それは別にドイツ兵が悪くてフランスの住民が被害者だというものではない。

「秩序」が破壊された時には、すべての人が持っているはずの善良な部分も破壊される。

恐怖や憎悪や迎合や保身ばかりが突出するのだ。

リュシールを大切に思う中尉も、自分の権力の及ぶところでは協力できるけれど、いったん上からの命令があれば子爵の銃殺刑の号令をかけなくてはならない。

中尉が残したのはリュシールのために作曲した「フランス組曲」という作品の楽譜だった。

組曲は、前奏曲にさまざまな舞曲を組み合わせたフランス・バロック・スタイルの曲だ。


「フランス組曲」というネーミングに万感の思いがこめられている。

この映画の原作は、1940年にブルゴーニュの村でドイツによる占領を経験したユダヤ系フランス人(ウクライナ生まれで、ロシア革命の時にパリに亡命してきた)のイレーヌ・ネミロフスキーという人のフランス語の小説だ。すでに人気ある小説家だったそうだが、1942年にアウシュヴィッツで歿し、収容所で書き続けた自筆原稿が50年後に娘の手によって発見されて出版された。日記だと思われてしまいこまれていたのだそうだ。

戦争の始まりからつかの間の愛、を経て、「抵抗」、「解放」、「平和」と続く壮大な歴史小説の構想があったようだが、実際の著者は終戦を待たずに殺されてしまったわけだ。

もっと評価されてよい映画だと思った。






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by mariastella | 2018-04-20 00:05 | 映画

『マドモワゼル・パラディ』とメスメルと心霊治療

日本に行く前に片づけることがいろいろあることと、ストの影響などで、多分観に行けないけれど、興味のある映画が先週封切られた。


オーストリアのバルバラ・アルベルト(Barbara Albert,バーバラ・アルバート)監督作品で、『マドモワゼル・パラディ』という、実話をもとにした作品だ。


1777年のウィーンに、2歳の頃から徐々に視力を失った18歳の全盲の女性ピアニストが超絶技巧で社交界をにぎわせていた。この女性が、「動物磁気」による治療で有名なフランツ・アントン・メスメルによって視力を一時的に回復したが、それと共に、ピアノの腕前が落ちたという話だ。

メスメルはドイツの医師でババリアのイエズス会の大学で神学の学位を取り、ウィーンで法学と医学を学んだ。カトリックのハプスブルク家のウィーンと相性がいい。

1768年、ウィーンで裕福な貴族未亡人と結婚して、音楽家たちのメセナになった。ハイドン、グリュック、モーツアルトらが出入りした。


「動物磁気」理論を立ち上げて、体の中に電位差を作って流れを促し病気を治すようになった。はじめは鉄分を服用させた後で体に磁石をあてるという方法をとっていたが、やがて、手をそっとかざしたり、触れたりするだけで治療するようになった。いわゆる催眠術療法の始まりとも言われている。

カトリックのエグゾシスト(悪魔祓師のタイトルを持つ司祭)ヨーゼフ・ガスネールによる治療に関する意見をミュンヘンの科学アカデミーに対して科学的でないと報告し、自分の治療の科学的根拠を主張した。

それでも、後に、メスメルの治療を受けて、回心体験をして信仰に入った人がいるエピソードからも、少なくとも「心身症」に対するメスメルの治療とエグゾシストの悪魔祓いへのリアクションには共通点があるのかもしれない。

このメスメルの生きたウィーンでは、貴族の娘マリア・テレジア・フォン・パラディスが、サロン・コンサートで注目を集めていた。

もちろん、彼女の目が不自由で楽譜も鍵盤も見えないのに驚くべき記憶力と技巧で楽器を弾くという「見世物性」もあったことは想像に難くない。

で、彼女が満17歳だった1876年の末から数ヶ月、メスメルが、何度も彼女に動物磁気治療を施したという。福音書にあるイエスの奇跡の治療と違って、目に手を触れるだけで一気に物が見えるというのではなく、何度も一対一のセッションを重ねたらしい。

そして、一時的に視力が回復したことでマリア・テレジアは動揺し、ピアノの技巧を失い、結局、メスメルの治療を打ち切ったという。

映画はその間のドラマを、バロック後期のウィーンのサロンを華麗に再現しているそうだ。主役のマリア・テレジアはルーマニアの女優で、迫真の演技だそうだ。



メスメルは自分でも楽器演奏ができて、特に、クリスタルのガラスボールを半音ごとに並べたグラスアルモニカという楽器演奏を治療に使ったという。

このクリスタルの独特の音が、脳神経の何かに作用するらしく、赤ん坊が死んだり、精神不安定になったりする人が続出するということで「悪魔の楽器」としてウィーンで禁じられたのにメスメルが使い続けていたということで、彼は追放される。(記事の終わりに視聴できます)


その後、革命前夜のパリの社交界で大成功するのだけれど、その頃にはもう一対一の治療より、集団催眠のようなショーになっていて、いわゆるヒステリー症状も起きた。

メスメルは一応当時の医学の学位も持っていた医師だったが、今では完全にオカルトの分野にカテゴライズされている。

それでも、ユゴー、ゴーチェ、ネルヴァル、ジョルジュ・サンド、バルザックなどというロマン派の大作家たちがこの「メスメリズム」に大きな影響を受けた。

革命とナポレオン戦争を経た19世紀ロマン派文学や音楽において、フランス文化人やブルジョワは「民族性」に向かうことなく秘教的(エゾテリック)なものに向かい、心霊術や心霊治療は一種のサロン・スノビズムの中に一定の位置を占め続けてきたのだ。

いまメスメルについて日本語で検索してみたら、なんと、このメスメリズムについて、

>>>明治時代に日本に伝わり、日本の伝統的テクニックと融合して昭和初期まで大流行した。この一連の民間療法は霊術と呼ばれた。新宗教では「手当て」「手かざし」「浄霊」などと呼ばれる。<<<

と書いてあった。いろいろな「霊能者」の霊力の証ともされる「手かざし」はメスメリズムとのハイブリッドだったのか。

一対一の心霊治療、これを私は8年近く前にフランスでも日本でも渡り歩いた。


ブログ『たかが、肩』20109月から12月にかけて、いろいろな「実験」について報告している。


それをするようになった動機とスタンスはここここ

いろいろあるが、

フランスの手かざしバイオ・エネルギー治療については

一回目二回目

日本の心霊治療の典型はここここ


いやあ、今読み返すと、実にいろんなことを試したけれど、その当時はなぜかメスメリズムのことなど考えもしなかった。

ましてやメスメリズムと日本の心霊治療とがつながっているなどとは。

(続く)

これはメスメルが治療の一環に演奏したというグラスアルモニカの再現。



これを聴くと心身症状が現れる人が続出し、悪魔の楽器として禁止されていたのが復活した。クリスタルの響きも悪くないが、指を濡らしてこするという弾き方が官能的だ。




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by mariastella | 2018-04-14 00:05 | 映画

ガース・ディヴィスの『マグダラのマリア』

先日、ガース・ディヴィスの『マグダラのマリア』を見た。

ガース・ディヴィス作品では、前に『ライオン 25年目のただいま』を機内で見た

ように、オーストラリア出身の監督だが、この『マグダラのマリア』はイギリス映画で、フランスの俳優も重要な役で出ている。フランスの役者と言っても、トルコ人のチェッキー・カリョー(なつかしい。1984年の『年の満月の夜』は、封切後に急逝したパスカル・オジェと若かったファブリス・ルキーニとの三角関係が強烈な印象を残したエリック・ロメール映画だ)やアルジェリア系の若手の名優タアール・アイムなど、癖のある人ばかりだ。

この映画については内容的に突っ込みどころが多すぎるのだけれど、少しずつ書いていく。

まず配役だけコメントすると、監督がそのカリスマ性で彼しかいない、とイチオシだったというホアキン・フェニックスがナザレのイエスを演じているのだけれど、カリスマ性がどうとかいうより、外見がものすごく老けていて、43歳だというが、クローズアップも多くて、しわが深く刻まれた顔はとても33歳のイエスに見えない。体もがっしりし過ぎている。


これまでいろいろなイエス・キリスト受難系の映画を観たけれど、一番違和感があった。

彼もヒロインのマグダラのマリアも青い目だけれど、それは気にならない。


今の時代の中高年は見た目年齢が昔の七掛けだというから、2000年前にパレスチナで紫外線を浴びて暮らしていた男なら33歳でも今の43歳の外見かもしれないけれど、でも、とにかくイメージとかみ合わない。

母の聖母マリアもまだ40代の終わりくらいのはずだけれどえらく老けている。

まあ息子の外見と釣り合っているとはいえるけれど。

ペトロを演じるのが黒人俳優。

ミュージカルや映画の『イエス・キリスト=スーパースター』でユダ役を演じて歌ったカール・アンダーソンが黒人だったのが印象的だったことを思い出した。


で、イエスが、この映画で「特別の使徒」として並べて扱ったのがペトロとマグダラのマリアで、黒人と女性、というわけで、なんだか、その後のキリスト教の白人男性世界の実態を思うと、これも「政治的公正」の配慮なのか、などと思ってしまう。

もっとも、ナザレのイエスがユダヤ人であることさえ認めたくないというヨーロッパ系キリスト教徒だっていつの時代もいたわけで、ヒトラーなどはイエスがアーリア人だと言っていた。


タアール・アイムのユダは悪くない。彼は30歳だが、それこそなんだか七掛けで20歳そこそこに見える。このユダのローマ兵への憎しみは、なんだかISに家族を殺されたシリアのキリスト教徒の痛哭のようで、真に迫る。

でも、このユダの若々しさ、みずみずしさ、と並ぶと、ますますイエスの「渋い濃さ」が際立って、違和感が消えない。

最後まで、ほとんど何の感情移入もできない珍しい「受難」映画だ。


「マグダラのマリア」とされてきた女性は聖書の中に出てくる三人の女性を591年にグレゴリウスが「罪の女」に一括りにしたのが、2016年に「復権」して、「使徒の中の使徒」「復活のイエスに最初に立ち会った人」と宣言されたし、フランスでは遺骨まで崇敬されているユニークな存在だ。


マグダラのマリアの聖書外伝とフェミニズム神学をミックスしたのがこの映画の視点だと言われているのだが…(続く)






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by mariastella | 2018-04-09 00:05 | 映画

セドリック・カーンの『祈り』La Prière (アントニー・バジョン主演)

セドリック・カーンの『祈り』を復活祭の聖週間に観た。


監督は信仰がないと言っているが、まるで修道院のドキュメンタリーか『神々と男たち』2010 みたいな雰囲気だ。


無名の俳優ばかりで撮影された『祈り』で、主人公の麻薬中毒の青年トマを演じた小柄で童顔のアントニー・バジョンがベルリン映画祭で主演男優銀熊賞を受賞した。

22歳だが、高校生くらいに見えるトマが麻薬のオーバードーズで、更生施設にやってくる。

薬物やアルコール中毒者を立ち直させる施設というのはいろいろあるが、宗教的な祈りや瞑想に特化して、修道院のように世間と隔離して祈りと肉体労働だけを何年でも続けることができるというカトリック系の施設がある。それをモデルにした映画だ。

私物を没収されて、一人にはなれず規律を守らなければならないという意味で、刑務所のようでもあるが、実際は、出ていくと言っても、また戻ってきても、黙って迎えてくれる。

新参者には「守護天使」と呼ばれる先輩のメンターというかチューターが同室で同じ仕事でずっとついてくれる。


でもトマは最初は禁断症状で苦しみ、その後も、慣れない労働を投げ出し、みんなが敬虔に祈って助け合い、赦しを請い合い、赦し合う天使のような雰囲気にキレて、悪態をつき、暴力を振るって出ていく。

ここまでの描写がすごくうまい。監督は、ここまでのところで、観客がトマの方に共感できるように作った、と語っているのが成功している。

つまり、せっかくこんなに善意の塊のすばらしい施設に迎えられたのに、反抗している自暴自棄のトマ君は自分の幸運を分かっていない、馬鹿だ、

と思うのではなく、

何だ、この施設は。神学校ですか。ユートピアですか、

みんな若くて健康で助け合って、善意の塊で、嘘っぽくて、カルトっぽくて、偽善者っぽくて、怪しくて、なんだか信じられない、こんなところでだまされちゃいけない、私だって耐えられない、


と「トマ」の側に立ってしまう。


で、トマは、ふもとの村に降りてきたものの、泊る所もなく、ある家のドアを叩くが、そこの人たちは、上の施設からの「脱走者」たちに頼られるのに「慣れている」らしく、まあ好きなだけいてもいいよ、みたいに言ってくれるのだ。

そして翌朝、その家族の娘である考古学の学生と会う。


彼女は、その施設からそうやって脱出する人は必ずもとの中毒地獄に戻る、あそこに戻った方がいい、と忠告してくれる。

反抗心の塊のようなトマ君、若く可愛い娘から軽蔑もされずに対等に話しかけられることで、たちまち心の何かが動かされる。

彼女の車で施設に戻る。


ここまでも、「なんだ、結局、祈りやなんかよりも、女の子の力って偉大だなあ」と思ってしまった。


で、施設に戻ったトマ君にそれからもいろいろな試練や不思議なことが待っていて、天使のように見えていた他の若者たちも、強烈な痛み、苦しみ、絶望を抱えていて、別に神を信じているとか、本気で祈っているとかというわけでもなく、宗教感情とはセラピーの有効なツールだと意識されているのが分かってくる。


それは司祭やカトリック関係者も同じで、彼らは若者たちを改宗させようとか、改心させようとか、信仰に導こうとかを目的にしているわけではない。

では何かというと、ひたすら、若者たちを「生かしたい」と思っているのだ。

実際、思春期から続く深刻な麻薬中毒は若者たちの精神も肉体も蝕みつくして、彼らは死の一歩手前のところを救われた。

これには「更生」と言っても、治療の「終わり」があるわけではない。

特に若い頃からの中毒患者は、脳に決定的なダメージを受けている。

再び奈落に堕ちないための綱渡りのような生き方しかない。


その綱渡りを支えるのは、とりあえず、労働と祈りで頭と体を飽和させ、互いに、助け合い、赦し合い、支え合うという「天使」のような生き方しかないのだ。


彼らが天使のように生きているのは、そうする以外には「死」しかないからなのだ。「善く生きる」か、「死ぬ」か、以外に選択肢がない。

「善く生きる」とは労働と祈り以外には、少しでも誰かの役に立つという実感の積み重ねしかない。

最初に模範的で屈託のないな神学校の生徒たちのように見えた若者たちは、実はサヴァイヴァルの賭けの途上だったのだ。


強制的に収監されているわけではないから、反抗したり規律を乱したりするのは、即「出ていく」ことにつながり、外の世界は「死」なのだ。


実際、この施設で何年も模範的に生活して修道士のような平安さをたたえている若者も、そこを出て、社会復帰できる自信がない。いや、自信をもって出て行って、再び中毒の罠にはまって死ぬ者もいるし、ぼろぼろになってなんとかまたこの施設に戻ってくる者もいる。施設では、何も聞かずにただ扉を開けて仲間との生活に入れてくれる。

これらはカトリック系の寄付によって運営されているので、採算の問題のようなものはない。


祈りや聖書の言葉や典礼や労働や愛や友情は、避難所であり、命綱であり、ぎりぎりのいのちそのものだ。

で、高校も一年で退学して中毒者となり施設でも問題児だった主人公のトマくんは、そこでまた別の形の命の危機に遭遇し、真の「祈り」を体験し、なんと、神学校に入って司祭になる、と宣言するのだ。

そうやって出ていく彼と、残る仲間との別れのシーンは、「死」とは何かを知った若者たちにとってのそれぞれの「選択」を思わせて、胸が熱くなるものだ。


でもそうやってトマ君が向かった先は…。

若者たちの演技がすばらしい。




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by mariastella | 2018-04-03 00:05 | 映画

ダニー・ブーンの 『La Ch'tite famille 』

大ヒットした『シチィにようこそ』の続編をダニー・ブーンが作った。

あれからもう10年になるんだそうだ。


ダニー・ブーンはすっかり「ビッグ」になった。

3人目の妻とロンドンに住んでいるそうだ。


今回の 《La Ch'tite famille》(シチット・ファミリー)は、続編といっても、ノール県の方言、訛りをめぐってのフランス内異文化衝突コメディという共通点はあるものの、話はまったく別のものだ。前作が、マルセイユの男がパリをとばして北の果てに行くというシチュエーションだったのに対して今回は、パリのブルジョワ社会とノール県のプロレタリアのコントラストということで、先行上映されたノール県では、紋切り型にすぎる、馬鹿にしている、と批判の声もあったらしい。


シチィの人たちは、発音がはっきりしない訛りが強くて話が通じない。

主人公は20年前にうちを出てパリで成功し、ミラノで出会った美しいデザイナーと結婚している。世間的には、自分は孤児だと言っている。

立派な回顧展に、家族が突然やってきて、その後で妻の父親の車にはねられて17 歳以降の記憶を失ってしまった。完璧に身につけていた標準語も、ブルジョワのマナーも妻徒の出会いも忘れた。


カリカチュラルだ。

でもやはり、ダニー・ブーンはうまい。


役者もそろっているが、親子兄弟という家族をめぐる人情噺と三組の夫婦(主人公ヴァランタンとコンスタンスという成功したデザイナー夫婦、ヴァランタンの兄夫婦、老いた両親)の愛の絆に説得力があって、笑いと涙のバランスがよくとれている。


最後に父親がジョニー・アリディの歌をシチィ方言で披露する。

そういえば、ジョニー・アリディも父親がベルギー人で「北」フランスと相性がよくダニー・ブーンとも仲が良く、いっしょに映画をやる予定もあったという。




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by mariastella | 2018-03-21 00:05 | 映画

『Les pieds dans le tapis』(ペルシャ絨毯につまづいて)

先日、年末から続いたイランのデモ行進が話題になっている時、Arteでイランとフランス合作映画Les pieds dans le tapis』を観た。les pieds dans le tapisというのは、se prendre les piedsdans le tapis (絨毯に足を取られる、つまづく、うっかり失敗する)という表現と、主人公のモルテザがペルシャ絨毯の製造販売の会社の跡取りだということをかけている。


イラン映画は深刻なものばかり見てきたが、これは珍しくコメディだ。

モルテザは特に中国に向けての販売を受け持っていて中国語も話す。経済封鎖のせいで経営は難しく、従業員がストをするのに、社長である父は毎年恒例の泥スパ保養のために韓国に行っている、はずだったが、フランスの地方都市で急死したと知らせが入る。

モルテザの妻との関係、一人娘の婚約式での両家総出の様子、テヘランの排

気ガス公害などのディティールもおもしろい。

モルテザは母親といっしょにフランスに渡る。地方都市だからテヘランより空気がよい。母親はフランス語ができて、ワインを作る市長の弟から言い寄られ、母が通訳してくれないのでモルテザは中国人女性の通訳を雇う。中国語とフランス語の通訳だ。モルテザはその中国の女性(国に4歳の息子を置いてきているフェミニスト)から言い寄られる。

フランスのお役所仕事で、遺体をイランに返すことが経済封鎖の貿易禁止に引っかかるかどうかを確認しなくてはならないなどと言われて困惑する母と息子。

また、父は、レストランで倒れた時に40がらみの金髪女性とウェディングドレスの写真を見ていたという証言がある。その女性は自閉症患者のセンターを経営していることが分かり、訪ねていく。父はそのセンターのためにずっと寄付を続けていたのだった。

実は、父はフランスで医学生だった時代に出会ったフランス女性との間に子供を二人作っていた。二人目の男の子が自閉症だと分かり、女性と協力して自閉症センターを開設する。

金髪女性は父の最初の娘だった。

でもその後でイランに帰った父は母に恋をして結婚し、フランスでの医学も捨て、母子も捨ててペルシャ絨毯商人となったのだ。しかしその後、時々フランスに来てはセンターで子供たちとも過ごしていたわけだ。父には夭折した自閉症の弟がいた。

モルテザは中国人通訳を介して、「ギャング」に、父の遺体を病院から盗み出す依頼をする。「ギャング」だというから「アラブ人」かと思っていたら、元ボリショイバレーのダンサーや医者や宇宙飛行士やエンジニアからなる亡命者グループなどだったという今のフランスの社会風刺もある。

今風と言えば、スマートフォンでのやりとりが効果的に使われているのがうまい。音楽もいい。

最後はコメディらしいドタバタも少しあるのだが、別に特に「共感」できるわけではなく、カルチュラル・スタディみたいなおもしろさの映画だったが、私にとって特別な縁のあるイランの来し方行く末のことを考えていたところだったので、興味を惹かれた。

こういうすごく国際的な設定なのに地方色全開の映画を作れるのはフランスだからこそだなあ、と思う。


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by mariastella | 2018-01-21 00:05 | 映画

『外国人』The Foreigner マーティン・カンベル監督/ジャッキー・チェン、ピアース・ブロスナン

『外国人』TheForeigner マーティン・カンベル監督/ジャッキー・チェン、ピアース・ブロスナン

ジャッキー・チェンが政策に加わった英中合作映画。



60代に入ったジャッキー・チェンがまだアクションで活躍する映画は最近『カンフー・ヨガ』を観てそれなりに楽しかったが、こちらは娯楽映画というよりかなり深刻だ。

ジャッキー・チェンの演技がすばらしい。こんなにいい役者だったのだなあと今更発見した感じ。それに、彼のようなアクションスターでいつリタイアしても優雅に暮らしていける財産もあるだろうに、いろいろな作品へのチャレンジが続くのはすごい。このような人が活躍を続けられる「国境のない映画界」は捨てたものではない。


ロンドンのチャイナタウンのレストランの経営者のジャッキーは、高校生の一人娘のショッピングに付き合って、車から降ろして待つことにしたが、店に入った娘は爆弾テロに巻き込まれて死ぬ。「真のIRA」による犯行宣言が出された。

IRA(アイルランド共和軍)はイングランドに対して「武装闘争」を繰り返してきた。その過激だった時代をテーマにした映画に『父の祈りを』があり、前に数回にわたってコメントした

1998年のベルファスト合意以来、IRAのテロは一応終わり、元のメンバーが首相になっているという設定だ。19年も平和を保ってきたというのに、分派した過激派「真のIRA」の無差別テロによって政治的危機に陥るのは過去の闘士であるリアム・ヘネシーで、その役を演じるのが元007役者のピアース・ブロスナンだ。

彼は本当にアイルランド出身だそうだ。そういえば初代007のショーン・コネリーもスコットランド人アイデンティティを掲げているし、「英国紳士」なんてとてもひとくくりにできない。

ともかく、往年の007と往年のクンフーのヒーローが対決するこの映画は、ロンドンという国際都市で、1984年に移民してきた初老の男(だから何の危険もないと最初は見逃されるが実はベトナム戦争でUSに特殊訓練を受けたゲリラだった)と、一見「立派な英国紳士」だがやはり過去にはIRAのゲリラでテロ攻撃にもかかわった歴史的マイノリティの立場にある男、という、国籍があっても「外国人」であり続ける二人を「対決」させた。

亡命の途中でタイの「海賊」に襲われて娘二人を失うというつらい過去を乗り越えた男が、最後に恵まれた末娘、産後に妻も亡くし、たった一人残った家族である末娘の「復讐」を誓う。

IRAのメンバーや旧ゲリラたちも、多くの家族を失ってきた。


それら「過去の闘士」たちの抱く歴史の痛み、運命への怒り、が並び、重なり、うねりとなる。

ふたつのストーリーを同時に見ていると、ジャッキー・チェンがブロスナンに「あんたたちはカトリックなのに」と言うシーンがあるのだけれど、不正や悲しみや恨みや復讐の意志などは、宗教も人種とは実は関係がないと分かる。

宗教や人種や国籍などは排除や憎悪や攻撃の口実だったり、契機であったりしても、本当の理由ではない。ロンドンでのテロと言うと、近頃はもちろんイスラム過激派のテロを思い浮かべてしまうが、この映画でISではなくIRAを使ったのは、その意味で大いに意味がある。

テロの後のシーン、暴力シーン、撃ち合い、殺人など、ヴァイオレンス満載で、プロの警備員たちが復讐劇に巻き込まれていくのは不当だとしか言えないけれど、最後は、一応のカタルシスと一応のハッピーエンドとなる。

黒人の警察リーダーと中国人の移民と政治家という3人の中心人物が、最終的に互いの苦しみや立場の中で「絶望」の淵には落ちていかないし落とさない強さがありそうなのが救いと言えば救いだ。


この映画の上映には不思議な噂があって、その中には宣伝を自粛させているというものがある。

フランスの緊急事態宣言下、カタルーニャの独立騒ぎ、イスラム過激派のテロや、一匹狼のテロリストなどのいろいろな問題があるところに何かピンポイントで「不都合な」部分があるのだろうか、と勘繰ってしまう。警察の特殊部隊が生き残ったテロリストに自白させた後でその場で撃ち殺すシーンも「不都合」だろう。007も「殺しのライセンス」だけれど、軍隊も特殊警察も諜報員も、結局は国家による「司法抜きの殺人装置」として機能しているのが現実なのだ。


考えてみると、私のごく近くにはチベット、中国、ベトナム、イラン、スペイン、アルゼンチンなどからフランスに来た人たちがいる。中国人の友人はカンボジアでクメール・ルージュに銃を突き付けられた、と言っていた。他の人たちもみな大変な目にあってきただろう。アルジェリア戦争後に成人したフランス人や戦後生まれの日本人は、なんだかんだと言っても「戦争」を直接体験しないで生きることができた。

こういう映画を見ると、その僥倖をあらためて感じるし、残された時間で何をすべきかという自問に別の方向から光が差してくる。






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by mariastella | 2017-12-03 00:05 | 映画

機内で見た映画 その3 『僕のワンダフルライフ』『ヘッドハンター・コーリング』

アメリカ映画2本

『僕のワンダフルライフ』(ラッセ・ハルストレム)

は、犬と飼い主の絆ストーリー。

1950年代からのアメリカの情景が変化してくるのを見るのも楽しく、飼い主との間の愛情やかけがえのない感じもぐっとくる。過去に飼っていた犬との思い出も重なる。

少年イーサンが青年になり、父親が失業してアル中になり、青年は恋もして、アメリカンフットボールの選手として大学入学が内定し、恋人と同じ都会に出ていくことが決まっている矢先に、家が放火されて窓から飛び降りて足をやられ夢は潰える。母の実家の農場を継ぐために農業を学びに旅立ち、老いた愛犬ベイリーはイーサンの祖父母の家で死を迎える。

その後でシェパードとして生まれ変わって飼い主となる警官の孤独を癒し、警察犬として活躍して殉死、次にコーギー犬として黒人の女子学生のペットとなり幸せな生活をまっとうする。さらににミックス犬として虐待されるが逃げだして年老いたイーサンと再会。自分がベイリーの生まれ変わりだと気づいてもらおうと努力して…


泣かせるエピソードが満載で、でも、犬に託して、


生きることとは愛すること、

愛する人のために尽くすこと、


など、わかりやすいモラルのメッセージ性がかえってむなしい気もする。

こういう公正でまっとうなモラルをハリウッド映画などが繰り返し称揚しているのに、どうしてアメリカの人種差別はなくならず、銃社会が続くのだろう、などとつい思いいたってしまうからだ。

市井のアメリカ人と犬との交流を見ると心を通わせることができるのに、どうして、力の誇示しかしないようなトランプ大統領のような男がトップに立っているのだろう。

『ヘッドハンター・コーリング』(マーク・ウィリアムス)

も、わかりやすい家族愛もの。


ジェラルド・バトラーという主演俳優がいい味を出している。

建築家になるのを夢見る10歳の長男が白血病になり、仕事人間の父親が出世競争から脱落してまでも子供と妻に寄り添う。

シーク教徒の医師の姿もすごくアメリカ風だ。

弱いものを救うために最大の力を尽くすのがシーク教の教えだ、というのも、とてもいい。

けれども、58歳の男の再就職の難しさや、嘘をつくなど汚い手を使ってでも自分の業績を稼ぐという実態や、金がすべての社会を見ていると怖くなる。


もちろん映画ではそこから主人公が人間性に目覚めることで目先の成功は失うがもっと大切なものを救いそれが結果的には次につながる、というハッピーエンドになる。

とはいっても、その陰には、消費され、消耗してバーンアウトしていく人たちや崩壊する家庭が累々としているのだと思うと気が重い。


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by mariastella | 2017-11-09 05:02 | 映画

機内で見た映画 その1 『カンフー・ヨガ』

今回の日本への往復の機内で見た映画。

中国・インド映画1

邦画 2

アメリカ映画 3

フランス映画 1 (これ1本しかなかった。)

日本に行く時は夜間飛行だった。映画をたくさん観て徹夜してしまうこともあるが、今回は演奏旅行なので体力温存が優先、ちゃんと寝ることにして、往きは一本だけしか見なかった。


なぜか中国インドの共同制作の、その名も『カンフー・ヨガ』。


60歳を超えてなおアクションをこなすというジャッキー・チェンへのなつかしさに突き動かされた。

彼の主演のハリウッド映画も少しは見たが、なんといっても、1970年代の日本で見た酔拳などの香港映画の鮮烈な思い出が東京の映画館の空気と共に浸みこんでいる。

いわば同窓会的な気分。


60代のジャッキー・チェンって想像できない。

しかも、考古学者の役。

無理に若作りしているわけでもなく、一見普通のおじさんに見えないでもないが、なかなかいい感じで、贅沢なロードムービーで楽しめる。

お宝発見の最後が全員の踊りとなるのはインド映画のお約束だが、そのお約束ぶりにちょっとくらくらする。

ジャッキー・チェンの踊りの切れ味も悪くない。

でも、私にはこれまでのジャッキー・チェンの映画との関係の中でしか見られないので、この映画ではじめて彼を見る若い人などにとってどう見えるのだろう、と思ってしまった。


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by mariastella | 2017-11-06 00:33 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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